現代教学の検証 第一回
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高佐日煌の教学 (1)
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澁澤 光紀
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はじめに
教学の現代化!
このテーマは筆者が現代宗教研究所に在籍していた頃のメインテーマだった。
当時、石川教張所長と赤堀正明主任の現宗研では、プロジェクト研究が盛んに行われていたが、その大きな課題目標とされていたのが「教学の現代化」であった。
「現代に活きた教学を!」「教学用語の現代語化を!」という要請から、「教学の現代化プロジェクト」というものが立ち上げられて、数名のメンバーと共に筆者もそこに所属した。
教学をきちんと勉強したこともない筆者にとっては、学びながらの刺激に満ちた研究会だったが、二年ほどメンバー同士での発表と検討を繰り返すうちに、オウム真理教事件などがあって議論も迷走し、まず宗教と科学をテーマにまとめてみることになった。
その成果として、現代宗教研究(別冊)「現代教学のアプローチ──宗教・社会・科学を考える──」が刊行されたが、すでにメンバー同士の議論も行き詰まっていたため、このプロジェクトは解散せざるを得なくなった。
その後に筆者は現宗研の研究員を辞めたのだが、この「教学の現代化」というテーマはその後もやり切れなかった課題として心に残った。
「教学の現代化」とは何か?
今この問いに答えるとすれば、それは日蓮聖人の「構想力」を、現代に復活させることではないか。
もとより「教学の現代化」という言葉の意味が、自明なわけではない。なかには、教学を現代化する必要などない、祖書に直参すればそれでいい、という人もいるだろう。しかし、そう言う人も、現代の直面する問題を解決し得ない日蓮教学で一向に構わない、とは思わないだろう。「教学の現代化」とは、日蓮聖人という源流(オリジナル)を現代に活かす試みであり、それを、とりあえず「構想力の復活」と言っておきたい。
教学の現代化に向けて、ささやかながらも持続した作業を継続すること。
これがこの連載を始めるにあたってのモチーフである。
連載の内容としては、近現代における日蓮教学のいろいろな様相を取り上げ、結局はノート的なものでしかないのだろうが、論評していく予定である。書き続けていれば、案外に「現代化」という意味が見えてくるのではないか、という見通ししか持っていない。
筆者のような教学の半可通でも、読者の眼に晒され、批判されることによって、誤りが正され、論議が進みでもすれば大成功だ、という目論見もある。
さて、前口上はこの位にして、連載の開始の今回から、約3回にわたって、「高佐日煌の教学」を取り上げる予定である。
なぜ高佐教学かといえば、理由は簡単だ。高佐師の教学を「新日蓮教学」というが、この「新」は現代化という意味以外ではありえない。
高佐師自身が「始覚法門は天台大師、本覚法門は日蓮大聖人、行道法門は高佐」と発展してきたという自負を持っていたし、その後に名づけた「新日蓮教学」の「新」とは、発展的、現代的という形容詞に他ならないだろう
。果たしてどのような現代化が行われたのか、「教学の現代化」を検証するには最も適した対象といえるだろう。
宗門内にはいまだ「高佐教学」を公に論じる機運が乏しいのだが、皇道仏教行道会の解散からすでに六〇年、高佐師の遷化から三六年が過ぎ、もうとっくに歴史的評価の対象として考えなければならない時期に来ていたと思う。
いま歴史の見直しは、世界的な傾向にある。時代の転換期という現況が、いやおうなく歴史の再検討を促しているのだ、と言えるだろう。日蓮宗においても新たな時代を迎えるためには、近代の日蓮教学の流れをもう一度捉え直し、再検討していく作業が必要不可欠だと思う。
高佐教学は、いまでも宗内に於いてその影響力が大きいにもかかわらず、その生涯と教学を論じた論考が数えるほどしかない。
また、高佐師自身の著述にしても戦中の文献を入手することが難しく(筆者の怠慢もあるのだが)、今回の連載で参照できた文献資料は、次の通りである。
【高佐日煌著術文献】
『十字仏教』単行本
昭和二四年五月二十日
高佐貫長著(十字仏教聖徒団発行)
『対創価学会問答参考』小冊子
昭和三十年十一月一日
高佐日煌著(宗門改造社発行)
『よろこび』機関誌連載
「教学講座 日蓮仏教の教義」
昭和三一年〜三九年 連載百一回
「新日蓮教学読本」
昭和三九年〜四一年 連載二二回 『宗門改造』機関紙連載
「望月・執行両教授の謬義を批判し
大崎宗学の歪曲を是正する」
昭和三三年四月〜三七年十月
『新日蓮教学概論』単行本
昭和五九年二月 編纂・日蓮宗霊断師 会総合研究所(行道文庫発行)
【研究文献】(全て論考)
「本尊論の根本課題――特に霊断教学の 所論を中心として――」
執行海秀 昭和三七年十月脱稿
(『大崎学報』一一五号掲載)
「皇道仏教行道会と日蓮宗団」
中野教篤 昭和五二年一月発行
(『戦時下の仏教』国書刊行会収録)
「清水龍山」
高橋謙祐 昭和五二年発行(『近代日 蓮教団の思想家』国書刊行会収録)
「昭和日蓮不敬事件について」
小野文 平成四年三月
(『大崎学報』一四八号掲載)
「日蓮宗抹殺建白書をめぐって」
小野文 平成六年三月
(『大崎学報』一五〇号掲載)
「「日蓮不敬事件」の概要
小野文 平成八年三月一日
(『日蓮宗の近現代』現代宗教研究所)
「生死―現実そのもの―高佐貫長」
伊藤立教 平成十二年二月二四日
(「現代日本と仏教」シリーズΙ『生死 観と仏教』収録 平凡社)
【参考資料】
『深川恒喜先生所有 日蓮聖人御遺文削除問題関係資料』1〜8巻
『近代日蓮宗年表』昭和五六年度版
『新編日蓮宗年表』影山尭雄編 平成元年
※参考資料の閲覧ならびに資料の入手に当たっては、小野文師はじめ諸師のご協力を頂いた。ご好意を厚く御礼申上げます。
以上の文献を基にして、今号より次のように三回にわたり高佐日煌の教学を論じていく予定である。
第一回 高佐日煌の生涯を略述
第二回 高佐教学の解説と検討
第三回 高佐教学と大崎教学の検証
(執行論考の批判を再考する)
その生涯に関しては、高佐師自身の記述と研究文献からの記述を合わせて構成する形をとった。本来ならば取材をするべきなのだが、上記の文献資料に依存せざるをえなかった弊は、読者からの訂正を掲載することで補いたい。
できれば、高佐師を「創祖」と仰ぐ霊断師会から、早急に「創祖の伝記」が出版されることをお願いしたい。創祖没後三六年、むしろ伝記がないほうが不自然ではないかと思う。
また、なによりもこの連載をきっかけに教学論議が活発化することを期待している。教学論議の大切なことは、高佐師自身も述べているように「宗門の繁栄は、教家の旺盛なる宗教活動を前提として、始めてその可能性が約束される」(「宗門改造」)からであり、教学あっての布教だからである。
ご意見・ご反論・ご批判と共に、もしお持ちならば上記以外の文献資料のコピーなどもお寄せいただければ、大変有難い。前書きが長くなりすぎたが、では連載を始めよう。(なお本文中は敬称略)
高佐日煌──その生涯
一、誕生から青年期まで
高佐貫長(日煌)は、一八九六年(明治二九)二月二二日、奈良県五条市の旧家に生まれた。幼名を大中源吾という。日清戦争に勝利した翌年のこの年、仏教各宗協会での『各宗綱要』編纂で「四箇格言」の除去が問題となり、管長小林日董や、本多日生などが除去反対を唱えている。
同時代の日蓮信仰者として、明治三十年に里見岸雄が、明治三二年に上原専禄が、明治三三年には戸田城聖と小谷喜美が生まれている。特に創価教育学会に生命論を持ち込んだ戸田城聖が同時代人であることは、高佐教学の生命論的特長を考える上で注目しうる点だろう。
明治三六年、七才の時に生家の没落により日蓮宗寺院に引き取られ、養育される。
その後、一九一二年(明治四五)、十六才の時に東京府本所の日蓮宗陽運院・新甫寛美住職を師に出家得度をする。大正五年、日蓮宗大学に入学し、卒業の後、縁あって朝鮮釜山妙覚寺高佐顕正の娘婿養子となる。
この釜山時代には、朝鮮初の映画会社となった「朝鮮キネマ」株式会社を創立し、日蓮宗伝道映画を移動上映したという(「生死―現実そのもの)。
この時代はまだ無声映画で、『キネマ旬報』の創刊が大正八年、国産トーキー映画第一号が昭和六年に入ってからであることを考えると、この映画事業へ着手は随分と早い。また資金も潤沢でなければ出来ない事業でもあったろうから、植民地朝鮮での高佐の事業意欲とその手腕、新メディアへの関心や新物好きが並ではなかったことを示している。
しかし結局、映画会社は倒産し、負債も抱えたのだろうか、離婚して釜山を去っている。本土に戻ってからは文筆の才を活かし、昭和二年に廃刊となる『日宗新報』に携わり、主筆として活躍。また後には日刊新聞『横浜夕刊新報』編集長、月刊伝道誌『日蓮主義』編集長を勤めるなど、その執筆・編集の能力を大いに発揮している。
高佐の青年期の明治末から大正年間までは、ちょうど富国強兵の近代化が一段落した日本資本主義がピークを迎えた時代と重なっている。この時代は「千里眼ブーム」から始まるオカルトブーム・新宗教台頭の時期でもあった。また大正生命主義といわれるような「生命」をキーワードにした科学・哲学・宗教が流行した時でもある。高佐の読書傾向がどのようなものであったかは不明だが、後の著述にうかがえる科学万能志向や、生命論的傾向を考えると、この時代の影響力は随分大きかったといえるだろう。またこの時期は、田中智学・本多日生・清水梁山という所謂三傑が活躍する日蓮主義の黄金時代でもあった。
二、日蓮教学と国体思想
話は前後するが、この当時に日蓮仏教がどのように国体思想と交渉していったのか、その経緯を見ておこう。
明治四三年、大逆事件が起こり、これに危機感を抱いた田中智学は、その翌年の明治四四年に「日本国体学会」を創始し、また清水梁山は同じ年に『日本国体と日蓮聖人』を著して、法華神道から天皇本尊論を唱えはじめ、後の高佐らの天皇本尊論の先鞭をつけている。田中智学はやがて国柱会を創立(大正三年)して、日蓮主義的国体論を展開していく。
一九一五年(大正四)の大正天皇の即位大典に際して、日蓮宗宗務院は、偽作である「奉献本尊(蒙古調伏護国の本尊)」を宮内庁に献納するのだが、その解説を清水梁山に依頼し、「日宗新報」奉祝記念号を特集して、梁山筆の「奉献本尊玄釈」「同開光文」「同説明書」を発表する。
「奉献本尊玄釈」に解説されたその内容は「王仏一乗即神仏一体にして聖天子即是本尊の正体、霊山虚空即高天ヶ原、宝塔即高御座、二仏並座即是両陛下、故に法華経即大日本国の説明也。寿量本仏即聖天子也。」というものであった。
霊山虚空会が高天原であり、久遠本仏が即ち天皇陛下であるという梁山の神本仏迹論に対して、清水龍山は宗務当局を諫言し、翌年の大正五年に『偽日蓮義真日蓮義』を著し、その非宗義を糾明している。
清水龍山は当時の状況を「近時世上国体熱の熾烈なるに迎合して、我宗徒にして国体擁護を以て、大聖人の真生命主義なるが如く曲説し、甚だしきは、天皇は本尊の正体にして、法華経は日本国の説明なりなど、本化高上の大法をして、一神道の卑下につかしめ、聖意を誣ひ、皇室を欺く、曲学阿世者流を見るに至る」と捉え、 真日蓮義は「法あっての国」とする法主国従であるとして、天照・八幡を守護神とする仏本神迹の立場を守り抜いた。
龍山はこの奉献本尊事件で宗務当局と対立したため、一時大学から身を引くが、「教学を救う」ために再び大学にもどり、講師であった清水梁山、田辺善知を大学から追放している。
しかし時代の趨勢は天皇中心の総力戦体制に近づき、昭和に入った一九二八年(昭和三)六月に開かれた「天皇即位御大典記念日本宗教大会」では、仏教、基督教、神道関係者が集まり、国体明徴をめざして「皇道仏教」という言葉が広く唱えられるようになっていった。
この場合の皇道仏教とは一般的な意味で、国体の本義(日本が記紀神話に基づく天皇中心の国であること)を明徴にするために、「皇道」を扶翼して国民を教導する仏教のあり方という意味だろう。天皇本尊論のように、各宗派の本尊・本仏が天皇に他ならない、という主張ではなかった。
三、皇道仏教行道会の創立
一九二七年(昭和二)、正統仏教団と帝国在郷軍人会分会が、東京本所の報恩寺において国民精神作興講演会を開催し、この講師として清水龍山と共に高佐貫長も講演を行っている。この国民精神作興講演会とは、震災後の社会的動揺と共産主義等の台頭を懸念した政府が出した「国民精神作興に関する詔書」を受けたもので、清水龍山はこの忠君愛国を述べる聖旨の徹底・普及伝道に積極的に尽力している。
一九三一年(昭和六)、日蓮宗は宗祖第七五〇遠忌を迎えての高揚の中で、「立正」の勅額を請願して下賜され、池上本門寺において勅額拝載式を挙行する。
同年六月三十日に法恩寺の釈貫隆(日我)が、日蓮聖人六百五十遠忌記念として『日蓮聖人御遺文全』を刊行するが、高佐はこの編纂主任となって、本格的に御遺文の研鑽を積むことになる。この『御遺文全』は、先に「霊艮閣版御遺文全集」の校訂にあたった稲田海素が、前の霊艮閣版の誤植を訂正したものだという。
後年、高佐はその経緯を次のように述べている。「当時校訂者稲田海素上人の切なる希望で、表面に唄わなかった問題に、霊艮閣版の誤植誤記を、同一校訂者の手によって二百箇所以上改訂せられていることである。ありていに云えば本書の発願は釈日我上人ではなく、稲田上人の悲願を著者が援助する約束をしたことから始まったものである。」
また後に高佐は、この経験から教学の重要性に気づき、「新日蓮教学開拓の使命を担う動機となった」と述べている。
その翌年の昭和七年、高佐三六才のこの年より日蓮宗宗務院に在籍して、庶務・教学・総務主事などを歴任している。
昭和九年には、浅井要麟が一般読者の便を図って総ルビ付きで発刊した『昭和新修日蓮聖人遺文全集』が、読み易さが仇となって内務省警保局の目に留まり、不敬字句の削除を命じられていたことが東京日日新聞の報道で明らかとなり、日蓮遺文不敬削除問題が起こる。これは徐々に本格化する日蓮遺文削除改訂と曼荼羅国神勧請不敬問題の始まりであった。
翌年の昭和十年三月、高佐は東京本所の善行院に入寺し住職となる。昭和十一年四月、宗務院は、高佐貫長作の「誕生音頭」発表舞踊講習会を、谷中瑞輪寺慈愛幼稚園で開催している。映画を志しただけあって、高佐はそうした音楽の才能、また絵画の才にも恵まれていたようである。
同じく昭和十一年に日蓮宗布教師会が発足されて、高佐はその本部理事に就任。また同年に教学審議会委員にも就任している。この会議における信徒組織の拡充策として、のちに「行道会」となる構想案を発案したという。
一九三七年(昭和一二)十月十三日、高佐が首導となり、増田宣輪(日暮里本行寺)、西川景文(浅草本法寺)、坂井智見(谷中大雄寺)ら、宗内の要職者と共に、日蓮宗の外郭団体として行道会結成奉告式を身延山祖廟において挙行、その翌年から「皇道仏教行道会」を名乗り、日暮里本行寺に本部をおいて、宗内の皇道仏教化を目指して精力的に活動を開始する。
その時の自称会員数は千八百人とはいいながら、信徒の主体は、当時加持祈祷で信者を多くもっていた増田宣輪に負うところが大きかったという。この行道会の活動が、のちに日蓮宗全体を巻き込んだ大騒動となっていく。
ではその主張するところが何であったのか。当時の行道会の文献が引用された中濃論文ならびに深川恒喜氏資料を参照して、その内容を見てみよう。
『皇道仏教行道会の宗義』には次のように説明されている。
「皇道仏教とは法華経の妙理を以て日本国体の尊厳なる所以を顕かにし、大乗仏教の真精神を発揚して天業を翼賛し奉る宗教であります。是を高祖日蓮大聖人は王仏冥合の三大秘法と称して後世に発達完成することを遺嘱されました。皇道仏教即ちとは王仏冥合の三大秘法を現代の詞に要約して銘した名称であります。‥‥故に皇道仏教の御本尊は印度応現の釈迦牟尼仏ではなくて万世一系の天皇陛下で在らせられます。又曼荼羅は本仏果海の十界当祖ではなくて、日本国民が天皇陛下の御陵威(みいづ)を奉戴して分担精勤する諸職業であります。」
清水梁山の天皇本尊論は「久遠本仏が即ち天皇」であるとして、まだ両者を「即」で結んでいたのだが、高佐貫長の皇道仏教は「印度応現の釈迦牟尼仏ではなくて万世一系の天皇陛下」だと、否定で結んでいる。そこが発展、といえばそうも言えるのだろうか。しかし、それはもう仏教を不必要とする次元に跳んだということでもある。
次の『皇道仏教行道会講習摘録』で語られる言葉は、仏教と惟神の表裏一体を説きながらも、もう仏教とは無縁の世界に信仰を見出しているといえるだろう。
「惟神の神の観念は仏教の仏陀の観念と殆ど近似している。唯だ相違する処は惟神の神の観念は外面的に崇敬の念より起り、仏教の仏陀の観念は内面的に自覚の念より起る。‥‥故に此の両者の相違は看点の表裏であって実質的なものではない。‥‥‥南無妙法蓮華経は、神人の霊通する神秘の音である。之を言霊と云ふ。理屈ではない、法悦の極地に於て心霊の奥から鳴り渡る神の御音である。‥‥我国の精神文化は皇道を宣揚し天業を翼賛する為に存在する。筧(克彦)博士の憲法論にある通り、信教の自由と云ふことは国体を無視して勝手な信仰をすることではなく、天皇様の御信仰に一如し奉る信仰でなくてはならぬ。天皇様の御信仰とは天照大神様と御一体にましますことである。故に日本国体に於て根本尊崇、主師親三徳の御本体は『すめらみこと』の外にはましまさない。我々国民は天皇様に全身全霊を捧げ奉って何の不足があろう。此の根本信仰こそ真の安心立命ではないか。」
また、行道会発行の一般向け小冊子『皇道佛教行道會の概要』では、現世利益を強調したわかり易い説明がされている。まず、行道会には三つの大きな特色として「其一は人心を根本的に改造して、生き乍ら神の如き輝かしい生活の出来る、平易明快な道を確立した事。其二は神秘霊験の謎を解いて、誰でも厄を拂ひ福を招く、自由自在の行法を確立した事。其三は日本國体の深義を開顕して、国民精神の基根を確立し、国威宣揚の本道を瞭かにした事。」として、「人心の改造」「自在の霊験」「國體の深義」「王佛冥合の道」「行道會に入るには」という項目を説明している。
その現世利益の強調は「行道會では病気が癒るとか、災難を免れるとか、福運を授かるとかは、日常の行法を怠らなければ、誰にでも経験出来ることで、別に珍しくは無いのであります。それ處ではありません。行道會の教ゆる三大秘法の信仰を持ては、今迄と同じ所に住み乍ら、どう疑ってみても其所が極楽浄土に變り、今迄と同じ自分であり乍ら、どう取り消してみても、神の尊さが我身に現れて来ると云ふ、魔術のような不思議があるのであります。」と、神秘霊験あらたかであると述べ、この「王佛冥合の三大秘法即ち皇道佛教は、唯一の日本国体に融合した宗教であります。」としている。
また、皇道仏教の信仰は「遠くは聖徳太子の開導に創り、 近くは国聖日蓮大聖人が本門の三大秘法を樹立して、国民精神の改造と、日本国体の明徴をお企てになったのがそれであります。」と由緒深きものとしながら、「世間に弘っている日蓮宗の一般信仰は、曲がり曲がった歴史の末でありますから、王佛冥合の本門三大秘法になって居りません。従て軒を竝べている佛教諸宗と大した変わりのないような状態で、甚だしきは題目の信仰を悪用して、迷信邪法に堕落して居るものさへあります。」と、自らの正統性を強調するために、日蓮宗の信仰を貶めることさえ云っている。これでは宗門から反発の声が挙がるのも無理はなかった。
しかし、こうした高佐の天皇中心の信仰が、時代の趨勢となる状況も出来上がりつつあったのである。
四、行道会問題の発生と顛末
昭和十二年のこの年、盧溝橋事件から始まった中国との開戦は、軍部の見方の甘さを知らされるような徹底抗戦に遭って泥沼化し、翌年には国家総動員法が成立し、日本は戦時下の総力戦体制に入っていく。
一九三八年(昭和十三)には各地の寺院で戦勝国祷会・戦没者追悼会が開催され、五月に宗務院は国民精神総動員・立正報国運動の促進を通達している。十月十日、高佐貫長は『日蓮宗教報』に「皇道一元と思想戦」を発表する。
昭和十四年六月二五日、日暮里本行寺の本部において「皇道仏教行道会」の一周年記念式典が挙行され、宗務当局は管長代理として吉倉庶務主事が列席。望月日謙管長は「本化妙教の弘通久しと雖も、王佛冥合の時運に会せずんば、祖道の化導未だ全きを告げず、近年皇国の隆運に伴ひ、法国所縁成熟の機を邀ふ、此時に當り皇道佛教行道会を組織し、三秘具足の法幢を樹て、本宗教線の発展に努め、茲に一周年を迎へて会運彌よ隆盛なるを見る。洵に法悦慶祝に堪へず。緇素一層信行を増進し皇恩祖恩に奉答せん事を帰せよ。」との祝詞を託して、「皇道佛教」と書いた六尺の大額を贈っている。
昭和十四年八月、高佐は「皇道佛教成立の概要」を「中外日報」(二二日号から)に三回にわたり掲載し、王佛冥合・三大秘法の皇道仏教の教義的説明を行った。これに対して、同九月に田中謙周が「高佐氏の「皇道佛教用成立の概要」を読みて」を日刊『教学新聞』に七回にわたり連載し、その教学を論難した。この論難に高佐は素早く反応し「新興宗学の立場より田中氏の論難に応ふ」を同『教学新聞』に十五回(十月二八日号)まで連載する。
時局柄とはいえ、皇道一元を唱える高佐らの行道会の活動に対しては、宗義からの逸脱を感じた者も多く、また、管長がそれを承認したような祝詞を述べたことも、宗内の疑惑と混乱を招いた。
一九三九年(昭和十四)十月十一日、池上林昌寺の加藤文輝は、次の趣旨の伺書を宗務院当局に提出して、行道会の教義・行事等にわたり宗務当局は公認したのか否か、その見解を質した。
「行道会の宗義行事は従来の祖師日蓮上人中心主義を郤けて日本国衛護曼荼羅を以て本尊となし、之に王仏冥合の教説を歪曲付会して天皇を信仰の中心となし、斯かる見地より御宝前に祝詞を奏し拍手を打つ等宗内の秩序を紊り穏かならざるものありと思料せらるるが如何」。
「高佐貫長師は始覚法門は天台大師、本覚法門は日蓮大聖人、行道法門は高佐日煌等(「聖衆読本」十五頁)と明言致居候。右の如きは宗祖日蓮大聖人を冒涜せる説には候はずや。又異流異派的立論に候はずや。」
この加藤文輝の伺書によって、皇道仏教行道会問題に火がついたのだが、この行道会問題にはこうした教学上の問題のみならず、日蓮宗内においての権力闘争の側面があり、高佐貫長と増田宣輪を指導者とする会派(革新会)に対して、田中謙周、馬田即貞らの会派(同心会)、ならびに四大本山の対立があった。
同年、本圀寺、妙顕寺、本門寺、法華経寺の四大本山は連名で宗務当局に次の要請を出して、行道会を批判する動きに出た。
一、皇道仏教行道会は宗門公的の団体にあらざることを各新聞に声明すること。
二、高佐の主唱する宗義は不穏と思料せらるるを以て同人の宗内公職全部を罷免すること。
三、高佐の主唱する宗義上の諸説に厳重なる検討を加へ、宗旨に反し信仰を惑乱するおそれある時は相当処分すること、など。
こうした罷免要求と行道会否認要請を出した後、本山側は昭和十四年一二月に「宗義擁護聯盟」を結成、本格的に行道会との抗争に入った。
行道会側は、十一月八日号の『中外日報』に、信徒の名前を連ねた「皇道仏教行道会対四大本山 国体明徴徹底委員」の名で、「四大本山の挑戦に対し吾等の決意を声明す」と題した意見広告を掲載して対抗。その内容は「今回日蓮宗四大本山住職等が宗門的圧迫を持って本会の潰滅を企画せるは彼等の籍口せるが如き宗義の問題に非ずして明らかに国体の明徴を阻止妨害せんとする実動なりと認む。」と、四大本山を国体明徴への反逆者として位置づけて、「挙国一致の敵たる彼等緇門の不逞に酬いる処あらんことを期す。」と結んでいる。
事態の判断に困った宗務当局は、宗義の是非の検討を立正大学・清水龍山学長に委託したが、「政治的意図濃厚にして且つ司法処分の前提ともなるが如き紛争の調査検討には応じ難き」と拒否されてしまう。
宗務当局は問題解決の方途を見出すことができず、信徒代表の小笠原長生(子爵、海軍中尉)に調停を依頼し、高佐の自発的な宗内公職の辞任をもって紛争を一時納めたが、宗義上の是非を後日としたため、すぐに抗争が再燃してしまった。
一九四〇年(昭和十五)一月に入って、千葉県北部寺院大会が当局に行道問題善処の要望を決議し、中・四国寺院有志が問題の政争化に反対するなどの声が上がるなど各地寺院でこの問題での大会が続き、一月十日に田中謙周等が立正大学を訪ね「行道会の教義は宗義に反する」との回答を引き出し、十二日に宗義擁護連盟が宗会議員有志の会合を開き「高佐貫長氏の唱導する教義は本宗の宗義に違反せるものと認む、依って宗務当局は之を処理すべし」との決議文を提出するにおよび、塩出内局はついに二三日に総辞職、二九日には平間内局が成立した。
行道会は、国体明徴徹底委員の名で「今後発生する事態が宗門の平安を損することあれば、責任は総て宗義擁護聯盟にある」と声明を発表する。
二月六日、高佐貫長ら四名は、文部大臣と日蓮宗管長に宛てて、「謹んで日蓮宗宗義解釈の是非に就き監督権の御発動を請い度く茲に上申仕候」と上申書・添付書類を提出し、対抗する四大本山・宗議・宗務所長・大学教授を「明らかに国体明徴の大義に背き重大時局下に於ける宗教者の使命にもとり候もの」と非難、また日蓮宗に不敬・反国体思想ありとして文部省に松尾宗教局長を訪ね、当局の監督権発動を促している。
また二月二十日には『宗団的不敬問題及宗団的反国体思想問題に就き、宗門の自粛自戒を要望す』と題した小冊子を文部大臣・寺院などに配付して、反対派に「反国体思想」のイメージを貼り付ける作戦に出た。。
その内容は
一、奉献本尊を一宗の正境本尊と確定すべし。二、王仏一乗の宗学を組織すべし。然らざれば聖旨奉答は欺瞞となる。三、立正大学を根本的に粛正すべき。四、宗義擁護連盟等など王仏一乗否認運動者は聖旨奉答の願文に照らし処断すべし。などの六項目の実現を、時局の思想統制を背景にして訴えた。
この小冊子配布に先立って高佐は清水龍山学長に宛てて「偽日蓮義所載の尊師の所論は今も猶尊師の堅持する学見ありや否や」と質問している。これに対しての龍山の回答は「偽日蓮義真日蓮義は目下絶版せる二十数年前の旧著にして、今日にては其の表現に多少の改訂の必要可有之ものと思考する」というものだった。
その必要とする改訂が、不敬罪を逃れるものだったのかどうかは不明だが、高佐が初めから清水学長の回答に期待していなかったのは間違いない。二月二十日付の「中外日報」で高佐は龍山をこう誹謗している。
「何たる驚くべき国賊的不敬思想であろうか。畏くも皇祖大神に対し奉って、僅に釈尊が人界に迹を垂れたるものと罵り、畏くも聖天皇を日蓮宗の信者の立場に過ぎずと軽んじ奉るものである。此の不敬漢が現に立正大学の学長として日蓮宗子弟を教育いつつあるを思へば実に戦慄を禁じ得ない。」(『日蓮宗の近現代』第六章「日蓮不敬事件」の概要より)
二月十四日、宗義擁護連盟は反撃に出て、行道会の上申書に対して「本宗団を目して反国体思想を抱懐する不敬なりとす。是れ明かに不法手段を以て我が宗団を破壊せんとするものと認む。仍って当局は懲戒規則第三十四条に依り速かに彼等四名を処断すべし」と決議し、当局に提出した。
二月十九日、衆議院予算分科会において「行道会問題才」が時局同士会の石坂代議士によって取り上げられ、松浦文部大臣の所信を質している。その後、宗務当局は文部省の介入もあって問題を白紙に戻し、新たに宗綱審議会を設けることで事態の収拾を計った。
六月二一日に開催された第三十六宗会の新宗義案検討において、行道会の増田宣輪宗会議員は、教義条項に「王仏一乗」の言葉を入れること、また「以て皇道を宣揚し天業を翼賛し」との字句改訂を主張したが、入れられなかった。高佐は七月十二号の『中外日報』から「「新定日蓮宗教義の大誤謬を指摘す」を連載し批判。
こうした不満を背景にして九月、高佐等行道会は「立正大学の法主国従は国体明徴に反する」として警視庁に清水龍山ほか六名を不敬罪で告発するにいたる。しかし、宗務当局が妥協を図り高佐らの主張の一部を取り入れることで、十月に告発を取り止めている。その間、龍山は三回にわたり警視庁に召喚されて聴取されている。
こうした行道会の内部攻撃の他にも、日蓮宗は外部からすでに攻撃を受けていた。
昭和十五年三月より福田素剣主筆の「皇道日報」が日蓮宗が逆賊であるとして「大不敬大反逆・日蓮宗抹殺建白書」キャンペーンを行っていた。翌年の一九四一年(昭和十六)四月、曼荼羅国神不敬事件により本門法華宗が弾圧を受け、六名が検挙されている。これを受けて六月、日蓮宗は宗綱審議会を開き、自主的に日蓮遺文二百八ヶ所を削除する条案を決定する。九月、文部省の大政翼賛を計る宗派合同方針に則り、三派合同の新制日蓮宗初代管長に酒井日慎が就任する。この年の十二月に日米開戦となり、日蓮宗は戦時体制事務局を設置し、仏教界全体も宗教報国の戦時体制に入っていく。
一九四二年(昭和十七)四月十五日、宗務当局との和解が成立し、挙宗一致体制をつくるため皇道仏教行道会解散。宗義擁護連盟も解散する。同年末、高佐『国体信仰講座』第一巻を行道文庫より発行。善行院にて「行道塾」を始め、昭和二十年の戦災にての伽藍焼失まで続ける。
一九四三年(昭和十八)には『皇道仏教読本』を「皇道仏教会」(代表増田宣輪)より発行。題字は望月日謙身延山法主であった。
そして一九四五年(昭和二十)八月、日本は敗戦を迎える。
五、敗戦時の高佐日煌
この敗戦にあたり、皇道仏教行道会の宗義逸脱を批判した加藤文輝は、石原莞爾の東亜連盟で活動していたが、戦争責任を感じて自ら命を絶ってしまう。一方、皇道を翼賛し「天皇様の御信仰に一如し奉る信仰」を宣揚した高佐貫長は、四年間の沈黙の後に一九四九年(昭和二四)五月、『十字仏教』発行して、新たに十字仏教聖徒団を名乗り始めるのである。
敗戦という衝撃とそれに続く占領下の時代は、日本人にとって初めて経験であり、それは様々な感慨をもたらした。
折口信夫はまさしく日本のカミが敗れたことを幻視した。小林秀雄は戦争責任を悔いる知識人を前にして「りこうなやつは、たんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省などしない」と言い放った。石原莞爾は、敗戦時のまさにその時に今一度、国体への信仰の大事さを述べ、覇道を排して今こそ王道としての徳義をもつ国体の本義に帰依すべきだと語った。
また、リベラリストの安倍能成は「第四等国の真実に眼ざめて、ここにしっかと踏みしめつつ前進してゆかねばならない。」と慙愧の念をもって再建の決意を固め、戦後民主主義の旗手・丸山真男は「今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命をゆだねた日でもあった。」と述べて、敗戦を天皇制からの解放の日としたのである。
敗戦は、それまでの価値観念の否定と、新たな戦後民主主義という価値観をもたらした。敗戦とその後の占領時代をどう捉えるか、それは現在のわれわれにとっても考え直さなければならない大きな問題となっている。
では、高佐貫長にとっての敗戦とは何であったのだろうか。高佐貫長は『十字仏教』の自序に敗戦時の思いをこう述べている。
「曾ての日本は国民精神の親柱として或種の神道を強制していた。其神道の素材は神憑的な信仰とみそぎの修行であった。この信仰から近世の科学を吹き飛ばす神風が起って必ず戦争に勝つことになっていた。思えば不思議な夢であった。神風は確かに吹いて来た。然しそれはアメリカの科学者の頭脳と、偉大なる原子力生産の中から現れたものであった。謬れる神秘観念が如何に国家を危うからしめるものであるか、と云う厳粛なる事実を理解するために、我々は史上類のない高価な犠牲を支払ったのである。この犠牲は子々孫々に伝えて銘記すべきものである。」
ここには負けたことの悔しさも、信念の挫折も、また皇道を唱導してきた自分の言説への責任も感じられない。
日本の天皇信仰が西洋の科学に勝つと思っていたら、科学に負けてしまった、愚かな信仰なんか持つもんじゃない、と、まるで他人事のような、「不思議な夢」のような軽い言葉である。全ては「謬れる神秘観念」の源である天皇の責任に帰して、その呪縛からようやく醒めたというこの言葉は、元皇道主義者の弁明としても軽すぎる。これは、転向したことさえも意識しないように、自分を欺く虚偽の言葉ではないのか。
おそらく高佐の明晰さには何かが欠けているのだ、身体的で実存的な真実というものが。簡単に言えば、責任感である。
結語おいては皇道仏教行道会の時期を振り返って、こう述べている。 「著者は昭和十三年皇道仏教を提唱したことがあった。‥‥日蓮聖人の三大秘法抄に「王法仏法に冥し、仏法王法に合して云々」とあるに根拠して、皇道を翼賛することが、即ち皇道仏教であると考えていた。当時はクロスの真理のことは念頭になかった、然し今日から考えてみると、皇道仏教は一種のクロス仏教であることに気付ざるを得ない。‥‥著者の皇道仏教は内外から猛烈な反対を受けた。宗内からは異端邪説であるとし、宗外特に神道家からは皇道を布教に利用するものであるとして、教界の物議の種となった。結局昭和十五年の三月、此の団体が出来てから、満二周年目に解散することになった。当時著者の衷心の意図は、第二の廃仏棄釈が現れそうな気配を見たので、この暴風を事前に回避する随時毘尼(時勢に順応すること)を行なうにあったのであるが、宗内の人々はそれに気がつかなかったらしい。幸いに大あらしにもならずに済んで、著者の先見の明は役に立たなかったが、今日にして思えば十字仏教への一段階であったのである。然かも解放せられた自由の立場で世界的な真理を口にすることのできるのは、幸せであると思う。」
宗内からも神道家からも攻撃されるような「著者の先見の明」が、逆にどれほど日蓮宗を潰滅の危機に導いたか、その反省の念は敗戦という大あらしが消してしまったようだ。
敗戦を「解放せられた自由の立場」と捉えるのは、戦後の一般的風潮でもあった。皇道主義者が一転して戦後民主主義者となる。高佐にとってはこれも時流に乗った、戦後の随時毘尼の行いだったのだろう。
明らかに転向したのに転向を自覚しない、つまり、深刻な葛藤を経ることがなかった高佐の宗教思想は、戦後、「十字仏教」という新しい言葉をまとったとはいえ、その骨格はなんら変わらなかった。いや、むしろ変わりえなかったのである。
クロスという観念は、すぐに新日蓮教学のキーワードである「境智冥合」に代わっていくのだが、こうした観念の詐術こそが、高佐教学の戦中戦後を問わない一貫性である。しかし、それは次号の「高佐教学の解説と検討」において検証する予定である。
六、霊断師会の創設と発展
戦後の高佐日煌の歩みは、一九五〇年(昭和二五)、善行院に「十字仏教聖徒団」設立することから始まる。高佐が五四歳の時である。
『十字仏教』の内容は通宗教的なものであり、おそらくそれでは信仰の形態にならないということや、戦後の新宗教とりわけ創価学会の急激な飛躍に対抗する意味もあったと思う、やがて高佐は「九識霊断法」を導入するとともに、新日蓮教学を提唱し、新たな信徒団体づくりに着手することになる。
一九五四年(昭和二九)十月、第一回「九識霊断法相伝講習会」開催。同時に「日蓮宗霊断師会」を創立する。この「日蓮宗霊断師会」も戦前の行道会と同じく日蓮宗の外郭団体であって、当初は、僧俗一体で在家信者も講習を受けて法名を授与されるなどしていた。現在でも独自の僧階規定などを持ち、高佐を創祖と呼ぶなど、いわば日蓮宗内において独立した新興教団の体裁をとっていて、新宗教研究の用語でいえば、「体制内宗教」ということになるだろう。
これ以後十二年間の高佐の歩みは、霊断師会の拡充と新日蓮教学の講習・叙述に費やされことになるる。教学的に注目されることは、大崎宗学との教義論争だが、この本尊観をめぐる論争については、第三回目に詳しく扱う予定である。また、戦後の活動は主に著述に表れていると思うので、簡単に記すことにしたい。
霊断師会創立とともに機関紙として『宗門改造』、機関誌『よろこび』を発刊。、昭和三十年には小冊子『対創価学会問答参考』を出して、学会との法戦に備えている。
一九五七年(昭和三二)世田谷区幸龍寺住職となり、小西法縁連合会会長に就任する。
翌年の昭和三十三年四月から、『宗門改造』に「望月・執行両教授の謬義を批判し大崎宗学の歪曲を是正する」を連載し、大崎宗学と論争を通して教学の刷新を図ろうとする。
一九六五年(昭和四〇)身延山で「日蓮宗聖徒団全国結集大会」を開催し、聖徒団を全国組織とした。
一九六六年(昭和四一)七十一歳で遷化。法名、行道院日煌上人。
以上、知りえた範囲で高佐日煌師の生涯を辿ってみたが、文献資料の関係もあって、皇道仏教行道会時代に多くを割いた結果となった。
実際、行道会時代とは行実ともに高佐師が最も凝縮した活動をなしえた時期だと思われる。時局の流れを背景に、昭和の政僧・増田宣輪師と組んで独創的な教学・教化を展開し得たのみならず、宗門を揺るがす主役として、連日の報道(宗教新聞紙)の渦中にいながら、執筆と策動に敏腕を振るっていたのだから。
高佐師が、教学のみならず組織経営者としても卓抜であったことは、戦後の霊断師会の発展を見てもよく分かることだ。充分に一宗一派を創り出し構えるだけの力量があったように思える。
筆者がつねづね疑問だったのは、戦後、高佐師がなぜ分派活動をして新教団を組織する方向に行かなかったのかである。現在の霊断師会においても、その教学研究、布教方法、出版活動、講習制度、僧階制度など、単独の教団といっていいほど組織化されているのにである。その答えは機関紙名にもなっている「改造」にあるのかもしれない。
高佐師は行道会で「人心の改造」を唱え、霊断師会で「宗門改造」を目指した。「改造」は「維新」とは違って、根本的な革新を求めない改良主義である。つまりは体制内改革なのだが、高佐師のいう改造は、通常の改革とは大分違う。
高佐師は『皇道佛教行道会の概要』でこんな話をしている。日蓮宗は国体明徴の敵である徳川幕府によって弾圧され、今では幹も朽ち果てているが、根は残っている。その残った根から生えた新芽が行道会であり、一夜造りの新興宗教や器用で造った薄ペラな類似宗教とは訳が違う、と。
腐っても伝統宗教ということだろう。伝統から離れずに新宗教化を遂げる道を選ぶこと。つまり高佐師にとっての「宗門改造」とは、その根から生えた芽が育って幹となり、朽ちた幹を押しのけて枝を広げるような、体制簒奪的なものだったといえる。戦後の霊断師会の活動においても教学論争を挑み続けたのは、執行師を除きほとんど大崎宗学の教学者から無視されてきたとしても、芽を育てる上では大きな意味を持ちえたといえよう。
高佐師の描いた「宗門改造」のイメージは、現在の宗門において半分は実現しているように思う。ただし古い幹は朽ち落ちる事なく、幹は二つに分かれたまま、その枝葉は重なり合って、日蓮宗という一本の樹となっている。検証すべきは、その幹が根から生えてきたものなのか、接木されたものなのか、である。次回に高佐教学の内容を紹介しながら、このことを検討していきたい。
今回は、その生涯を辿りながらも、残念ながら充分に高佐日煌その人を描ききれなかったので、是非ともどなたかがその人物像を検討し得る「伝記」を書いていただければと重ねてお願い致します。また、表記された日時、行状に間違いがあれば、速やかに訂正したいので、ご指摘下さい。また、ご意見ご批判も同時に掲載していく予定ですので、匿名ではなくお寄せ下さい。宜しくお願い申上げます。
(この稿 終了)