日蓮宗 東京西部教化センター
Nichiren Shu Tokyo West District Kyouka Center
HOME > TOP > 東京西部TOP > 教化情報 > 第12号 > 一刀両断書評宣言
一刀両断書評宣言 ←前次→

一刀両断書評宣言
兼子 義雄

 古来、人の性は善であるのか悪であるのか、幾多論じられていますが、昨今の杜会的状況を鑑みますと、とても人の性は善であるとは信じることのできないような出来事が多すぎます。「縁なき衆生は度し難し」といいますが老持男女を問わず本当にどうしようもない者が存在するのも事実です。もちろんそうでない人も存在するわけですが、このことは今日だけの問題ではなく、多分いつの時代も同じようなものだったのかもしれません。しかし、かくも人間の心が無残にも踏みにじられる時代がかつてあり得たでしょうか。社会的不平等はもとより、個々人の心の良心さえも、ことの是非善悪も判断できないほど感受性が鈍化しています。結局のところ自己の心をどこに定めるのか、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏のこの十界の何れに自己の心を定めるのか、地獄の心で生きてゆくのか、畜生の心で生きてゆくのか、または人間の心で生きてゆくのか、すべてはそれぞれの選択にまかされているということでしょうか。自分で考え、自分で判断し、自分で行動し、その結果については自分で責任をとるということが仏の教えなのですから。
 勿論、自分で考えるといってもそれは仏の教えを指針とし、日蓮聖人の教えを基準として考えるということです。しかし、所詮、仏や日蓮聖人に成りうべきもない愚かな凡夫の身としては、ただただ懺悔し自己批判しながら、今日ただいま私の了解する仏の道はこの様であるということを常に訴え、その訴えたことが本当に正しいのかを繰り返し反省し、自己批判しながら、仏の教えの道に外れることのないように考え歩んで行くしかないのでしょう。その意味では、仏の道は単己無眷属な孤独な歩みなのかもしれません。
 そもそも人問に仏性有りや、否や、有りとするならばかくもおぞましい諸相を呈するのはなぜか、有りとするならば何故修行が必要なのか、等々。
 そこで今回取り上げるのは高崎直道氏の著した『仏性とは何か』です。まず目次を見てみましょう。

如来蔵と仏性
仏性の話
一切衆生悉有仏性
如来と如来蔵
II
如来の出現
宝性論入門
III
如来蔵思想と密教
IV
道元の仏性論

悉有仏性・内なるホトケを求めて
釈尊の原像
生死はほとけの御命
   ─道元に学ぶ生死観─
本証妙修ということ
 著者は初めの『如来蔵と仏性』に、『すべての衆生、生きとし生けるものに仏性がある。言葉どおりに見て、ほとけの性質、ほとけの本性、したがってまた、ほとけになる可能性といってもよろしいものであります。そういうものを「仏性」と名づけているわけで、別のいい方をすれば、だれでもほとけになれるということであります。』と書いてありますが、これはもう結論のようなものです。
 そもそも仏性は『涅槃経』の「一切衆止悉有仏性」という言葉から問題となり、それ以後の諸経に影響を与え、中国、日本の仏教に多大な影響を与えた言葉であります。中国においては涅槃経によるところの涅槃宗と、唯識系の瑜伽師地論によるところの五性各別の法相宗との論争において注目されたことに始まります。
 日本とくに天台においては本覚論が主流で、即ち本覚はもとより悟っているという意味ですから、父母未生以前から悟っている、存在自身が悟りの存在であるということです。これに対し始覚の立場は、修行して初めて悟ることが出来る、修行して初めて悟れるのだということです。このことは始覚の立場では悟ることができない場合もあるということになります。法相宗では五性各別論、即ち声聞定性、独覚定性、菩薩定性、不定性、無性をたて、悟ることが出来ない存在もありとしています。また涅槃経には一闡提の問題もありますが、天台の最澄と法相宗の徳一との論争はこの仏性の有無。また仏性を理仏性と行仏性に分け、明らかに峻別する立場と、理仏性は必ず行仏性として縁起する立場でこの論争は続いたのであります。法相宗は理仏性は先天的な可能態として、行仏性は現実態として理解、天台は正因仏性(すべてに仏性が備わっているという理)、了因仏性(理を照らす智恵)、縁因仏性(智恵を促す因となる善行)の区別を立て、正因は生得的なもの、他は習得的なものとしています。要するに理仏性はすべての衆生に認めるのですが、行仏性は修行との関わりでいろいろな見解が出てくるのであります。換言すれば仏性という概念を理想と現実という二つの範疇に分けて、どちらを重視して考えて行くかということになるのです。もとより全ての存在に仏性有りとしなければ、例え理想であり可能性であったとしても、それが在るがゆえに努力もあり修行もあり得るのだから。もしその可能性がなく唯一絶対の仏しか存在しないのであれば、小乗仏教的立場のまま推移したことでしょう。
 さて、この辺で少しく本書の内容を見てみようと思います。Iの『如来蔵と仏性』からIIの『宝性論』までは、如来蔵・仏性という言葉の誕生からその意味、また『如来蔵経』、『涅槃経』、『楞伽経』、『華厳経』、『宝性論』などそれぞれの経典でどのように意味付けされているか、相互の関係を論じています。この範囲で留意し、押さえていかなければならない点は、第一にインド仏教に流れる二つの潮流、一つは菩薩教と如来教、云いかえれば修行の宗教と信の宗教ということを著者は言いますが、いずれも基本的なことはその背後に説かれているものは如来の慈悲ということになる訳で、これが大乗仏教の基礎にあって、そのうえで如来蔵・仏性が論じられています。
 「一体何が衆生の内にあってほとけになる可能性なのかというと、本来清らかに輝いている衆生の心であります。────その衆生の持っている光り輝く心と、如来の智恵というものは本来同じもので、同じものが、あるとき如来の智恵となって光り輝き出てくるのです。それが光り輝き出てくるためには、発心し、菩提心を起こし、菩提に向けて心を起こし、そして修行していかなければならない」わけですが、実は衆生をしてそのようにしむける如来の慈悲心が根本にあるのです。
 第二には、如来蔵思想が「我(アートマン)」の思想と同じではないかという批判が当初からあったようです。空の思想と矛盾しないか、ということでしょう。このことについては「宝性論」のなかに、なぜ「一切衆生悉有仏惟」を説くのかという質問が有り、それに答えるかたちで五つほど答えられています。一つは自分には能力がなくて、とうてい悟りなど開けないという、自分を劣ったものであるという考えに対し、そうではなく修行すれば悟りが開けるのだという勇猛心を促がすために。二つ目は、おれには仏性があるけれど、おまえには仏性がない、などと言う差別の心を防ぎ、自他ともに仏性が有り同じであることを知らしめるために。三つ目は、私がここにいる、我々がここに生きている、という我、我々というアートマン、我見というものを否定するために、仏性すなわち仏の働き、仏の慈悲のはたらきをいうのです。四つ目は一切は空であるということにこだわり、何もない、何もしなくてもいいんだという虚無論に堕するのを防ぐために、仏の教えの真実を実践し努力するその働きが仏性有りとする。五つ目は我愛を否定し自他平等の愛を教えるために一切衆生に仏性ありと説くのである、とあります。
 考えてみれば、仏性とは人間であった釈尊が、悟りを得て覚者釈尊となったときから「悉有は仏性なり」(道元)で、それは「諸法は実相なり」と同じことで、現前していたのであるが、大乗仏教の時代にいたり、「衆生済度の誓願と利他行の実践にこそその本領がありとされた。つまり自未得度、先度他とか、己の菩提の功徳を他者に回向することに菩薩の、したがって衆生の理想像が見出された」のであり、しかしながらそのことを実現させてくれる大いなる働きは実は如来の慈悲心、「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめんと」する心の故で、そのことは如来にとっては「今者已満足」しているのですが、もし、何らかの悟りを妨げるものがあるとするならば、それは衆生の側の誤りです。過失を免れようとするならば、ただ如来の慈悲心を信解する以外ないのです。
 本書にはさらに「如来蔵思想と密教」、「道元の仏性論」等々の論があり、それぞれに真摯に拝読させていただきました。著者高崎氏は曹洞宗の僧侶であり学僧であります。文は人なり、その学殖の深さ、誠実さは読んでいて自ずと理解されるものであります。
 さて最後に、あえて触れなかったのでありますが、仏性と仏種との関わりはどうかと言うことです。當宗では仏性より仏種の方が広く理解されているが、仏種は方便品に「諸仏両足尊、法は常に無性なり、仏種は縁に従って起こると知しめす」とあり、また譬喩品に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」とあり、これは仏種は仏性のように不変のものではなく、縁によって消滅変化するもの、信不信によって断滅するものと理解されます。よって妙法五字の仏種を下種するという謗法を正すということは、法華経という仏種を植えることによって成仏の因となるわけで、法華経に縁がなければ成仏できないことになり、いかにして法華経との縁(順逆問わず)を結ぶかということが重要になるのであります。順縁ならいざ知らず、逆縁なら「彼の時の四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は、瞋恚の意を以て我を軽賎しが故に、二百億劫常に仏に値はず、法を聞かず、僧を見ず、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く。是の罪を畢へ已つて、復常不軽菩薩の阿辱多羅三藐三菩提に教化するに遭ひにき。」とあって、此の経を毀謗することによって仏種が絶え、二百億劫も永きにわたって仏に会うことも出来なくなる、ということは考えてみると実に恐ろしいことです。聖人は「我無始よりこのかた悪王と生て、法華経の行者の衣食田畠等を奪とりせしことかずしらず。当世日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし。又法華経の行者の頸を刎こと其数をしらず。此等の重罪はたせるもあり、いまだはたさざるもあるらん。果も余残いまだつぎず。生死を離時は必此重罪をけしはてて出離すべし。功徳は浅軽なり。此等の罪は深重なり。今日蓮強盛に国土の謗法を責ればた大難の来は、過去の重罪の今生の護法に招出せるなるべし。」(開目抄)とあるように、聖人の論理は過去世における法華経に対する謗法が、現世における難を将来し、現世にその法華経を弘通することによって過去世の謗法の罪を消滅していくという構造になっています。
 これは法華経における、迹門の部分で二乗の授記において「舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき。汝今悉く忘れて、便ち自ら已に滅度を得たりと謂へり」(譬喩品)とあるように、遠い過去世に釈尊によって法華経との縁を結んでいながら、悉く忘失しているということが、繰り返し出てくるが、聖人にとってこの忘失する、忘れるということが謗法なのだという認識ではないでしょうか。忘れてしまったが故に、輸廻を繰り返しくりかえし地獄の業火に責め苛まれることは、耐えがたい恐怖でしかありません。今生において再び法華経に邂逅することによって法華経を下種する立場にあってこそ、その罪業が消滅するのです。
 法華経は“此の経”ということをひたすら強調します。最もどの経典でも此の経ということは言うのですが、法華経ほどの経典至上主義はないのではないかと思います。此の経との縁を結ぶ事が出来ないのなら、一闡堤や五千起去の救いは如何にすればよいのでしょうか。悉有仏性の普遍性と経典至上主義に矛盾はないのでしょうか。たしか涅槃経にも「一切衆生生悉有、ただし五逆と謗法を除く」とあったように記億しているのですが。
 ともあれ、人間釈尊が覚者釈尊となった事はまさに悉有仏性なわけで、顕現しているかどうかは別にして、ただひたすら仏道を信じ、行じて歩む以外、悟りも安心も見仏もあり得ないのではないでしょうか。

『仏性とは何か』
     高崎直道 著
        法蔵館
    一九九七年六月三十日初版
        定価 二千八百円
このページのトップへ▲

Copyright (c) Nichiren Shu Tokyo West District Kyouka Center. All Rights Reserved.