データファイル/時代を読む
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家族を考える
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及川 一晋
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核家族
核家族化といわれて久しい。恐らく、高度成長の1960年代の農村部から都市部への労働人□の移動と定着を背景とした状態であり、40年程そういった傾向を強めながら私たちは杜会を形成し、生活を営んできたことになる。そうすると、もはや核家族の対極にある三世代による同居という、大家族への回帰といった生活形態に戻ることは一般的には考えられないのではないだろうか。しかしながら、私たちは核家族を否定的に教えられてきた。また大家族に、ある種の郷愁と、人間としてあるべき生活の状態であるかのように教えられてきたような気がする。しかし、今や、高度成長時代に田舎を出てきた人々の子供の世代が、東京を自分の田舎としている。つまり、現在の現役世代にとっては核家族があたりまえの家族構成であり、否定すべきものはなに一つないのだ。
性別役割分業
核家族化は家庭内(うちの中)の役割分担を不可能にした。つまり、夫は外で働き、妻は家事、子供の教育、近所付き合いなど全般を行うといった、性別役割分業には無理があるのだ。そもそも村落共同体には封建的な家族像を想起させるが、実際には役割の共有がかなり行われていたのではないか?つまり、戦後の都市への急激な人口流入の中で、誤った幻想による都市での生活、都市においては相容れない家族像を心のどこかで志向し、現実を否定してきてしまったのではないか。つまり、現実においては家族を構成する唯一の「おとうさん」「おかあさん」「こども」で全てを分業するのではなく、共有してゆかねばならないのだ。
育児をしない男を、父とはよばない
1999年3月に厚生省(当時)が製作したポスターは物議をかもした。若い女性からは概ね好意的に迎えられたが、男件からは、「男に育児をさせるなんてけしからん」「そういわれても育児をする時間がない」などの反発。子育てが終わった世代の女性からは、「育児は女の仕事である」といった抗議もあったという。
おかあさんは2時間39分、おとうさんは17分
1996年に行った総務庁(当時)の調査によると、六歳未満の子供のいる夫婦の育児時間は、母親が一日当たり2時間39分費やすのに対して、父親はわずか17分という統計が出ている。「今のような核家族の時代には、育児を一方的に押しつけられる側は、悲鳴をあげる。もう性別役割分業では乗り切れられない。分担するしかないのです」と語る(1995年5月22付朝日新聞)。それでは性別役割はないのか?といえば、ある。妊娠、出産、哺乳、また母性(父性)もそうかもしれない。しかしながら、オムツの交換、ご飯を食べさせる、本を読んで聞かせる、お風呂に入れる、寝かせつける、といった育児の大半は男でもできる。育児休業制度が性別の如何を問わず取得できるのはこのためである。しかし、1997年の厚生省(当時)の調査で、「子供の世話の大部分は男親でもできる」と思っているのは、女性で75%、男性で49%にとどまっている。そのことを裏付けているのが育児休暇の取得率である。日本では女性で44.8%、男性では0.16%%にすぎない。これに対して、たとえばノルウエーでは、1993年に父親が子育てのために四週間休むことをなかば義務づけた『パパクォーター』制度が導人され、当初は「キャリアが遅れる」「圀に強制されるのはおかしい」といった反発があったが、いまでは八割の男性がこの制度を利用しているという。同様にスウェーデンでは、母親の育児休暇(450日)のうち30日は父親も取らなければならない『パパ月』とする制度が定められ、このことによって男性の育児に対する理解が深まり、考え方も大きく変わったという。
日本を明るくするために
理屈をぬきにして、「子は宝」である。人間という動物にとっても、その存在を持続していくためには、種の保存、つまり、子供の存在が欠かせないのである。しかし、ここで少子化の問題をいいたいのではない、「子は宝」だと思えるところに幸福がある気がするのだ。「育児を楽しみ、自分たちの子供に責任をもつ」。このことが経済の問題、政治の問題などがある中で、もっとも確実に日本を明るくし、個々の人々を幸せにし、社会を健全に保つことなのではないだろうか、と思うのである。