日蓮宗 東京西部教化センター
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いま
大曼荼羅の世界
を考える

文学博士・本納寺住職
立正大学仏教学部講師
桐谷 征一

一、はじめに ─ マンダラ(曼荼羅)とは何か ─
二、「図」としてのおまんだら
三、おまんだらの内容と構成
四、おまんだらに定型なし
五、先師のおまんだら整理法
六、概念図によるおまんだらの分析
七、おまんだらの図法とその意義
 イ、伝統的イメ−ジからの脱皮
 ロ、一念三千法門の有相化
 ハ、おまんだらの儀軌
 ニ、「文字即仏」の思想 ─ おまんだらにおける経文・釈文の意味 ─
 ホ、理想世界と現実世界 ─ 不動・愛染勧請の意味 ─
 ヘ、時空を超えたメッセージ ─ 「讃文」の意味 ─
 ト、図解表現としての空間配置と装飾 ─ 「ひげ文字」の意味など ─
八、おまんだらの授与とその実践
九、おわりに ─ 宮沢賢治とマンダラの秘密 ─


一、はじめに
 ─ マンダラ(曼荼羅)とは何か ─

 本日はお招きをいただきまして有り難うございます。最初に、皆様が発行なさっておられる『教化情報』についてですが、私ども寺院活動の現場にいる者に対して、実践的で、かつ密度の濃い内容の情報を提供されていることに、深甚の敬意を表したいと思います。これは、今まで本宗関係では見られなかったことでありそのご苦労も大変なことと思いますが、私も本日はそういう皆様の研修会ということで、少しでもお役に立つことができればと参上いたしました。
 さて、私が本日お話申し上げるお曼荼羅についての問題意識が、どの辺にあるかということですが。いったい私自身がなぜ曼荼羅(以下では、一般的にいうときには「マンダラ」とし、とくに日蓮聖人の場合には「宗祖のおまんだら」と表記させていただきます)に関心をもったかといえば、『教化情報』六号(平成一一年三月)に「情報化時代の仏教的方法論を求めて─四聖諦とKJ法─」というテーマで載せていただきましたように、創造的な発想の方法というか、あるいは実践的な情報のまとめ方の技術ともいえる「KJ法」を学んだことが発端でした。
 その技法の具体的なことにはふれる時間もありませんが、私は「発想」「意見」「議論」など、とかく拡散してしまいがちなものをまとめるのに非常に効果的であることから、KJ法を実際に活用して二十数年になります。その体験の過程でいつしか、KJ法とは結局、マンダラの本質をうまく利用することではないかと思うようになりました。
 この思いはもちろん、仏教に関わりのある私の感性でそう感じたことで、もともとKJ法が仏教の中から生まれたわけではありませんし、仏教ではありません。しかし、毎日ご本尊としての宗祖のお曼荼羅と向き合っている私には、いつのまにかその本質がオーバーラップしてくるようになりました。KJ法とは、マンダラの思想を実践的な技術として活用することではないのか。とくに他のマンダラではなく、宗祖のおまんだらの本質が、その共通性を想像させるのではないのか、と感じたのです。
 余談ですが、私はこの場合に限らず、何かについて、あるときフト仏教を感ずるときがあります。そんなときには、その感覚を忘れてしまわないように記憶(具体的には記録、メモ)することにしています。そのときその場では、はっきりと理由が意識できなくとも、あとで自分がなぜ、そのとき仏教を感じたかに思い当たるときがありますが、その中には大変重要な発見が隠れていることがあります。あくまで自分にとって、のことですが、、、。
 私は、小さな寺ですが一人の住職として、また大学の一教員・研究者として、寺の行事を企画するとき、講演のすじがきを立てたり原稿を書くとき、研究データの蒐集や分析、論文をまとめるとき、ちょっとした手紙を書くときなどにも、ほとんど毎日KJ法を使っていますから、自分としては日常的に、あるいは無意識にも仏教を行じている、お曼荼羅を実践している、宗祖にいろいろ教わっているという感覚があります。
 なかなかKJ法を皆さんに実習ぬきで口だけで説明するのは難しいのですが、これからお話する私のマンダラ観との関係でいえばそのようなことになろうかと思います。そして、たぶんここにいる皆さんなら、私のいうお曼荼羅の実践的な意味というのをきっとご理解いただけるのではないかと思います。
 さて、一般にマンダラというのは広辞苑を見ますと次のように書いてあります。
 まんだら【曼荼羅・曼陀羅】〔仏〕(梵語mandala)輪円具足・道場・壇・本質などと訳す)諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図。四肢種曼荼羅・両界曼荼羅など多くの種類がある。もともと密教のものであるが。浄土曼荼羅や垂迹曼荼羅、日蓮宗の十界曼荼羅のように、他にも転用される。(広辞苑第五版)
 この説明にもあるように、マンダラという言葉には大切なものが集まっている、本質・真髄が集まっているという意味があります。ですから、仏はもちろん大切なもの、真髄ですが、そこに仏がたくさん集まっているという状態が、マンダラという意味になります。「輪円具足」というのは、大切なものがすべて集まって欠けることがない状態。「壇」や「道場」ということばは、我々の儀式の式場でもよく使われますが、いずれも諸仏(真理)が集まっている神聖な場所をいいます。そして大切なことは、その集まりには必ず何か核があって、核を中心に円をなしている状態をマンダラといいます。
 密教のマンダラの権威である頼富本宏氏は、一般的なマンダラの概念をほぼ七つの特徴に整理していますが、彼が挙げる特徴はいずれも、宗祖のお曼荼羅を検証する場合にも妥当な基準ということができましょう。とくに実践的意味においてわかりやすいでしょう。
 次に掲げますのは、頼冨氏が挙げたマンダラの特徴[イ]−[ト]ですが、それに私見として宗祖のおまんだらのイメージを若干補足してみました。(  )内が補足した私見です。この私見についてはなお説明が必要なのですが、それはおいおいお話することにいたしましょう。
 [イ]空間・領域・場(位置、ステージ、次元、際限、結界、境界、圏、宇宙、世界、紙面、盤面、図上など)。
 [ロ]複数性(多量、広範、無限)。
 [ハ]中心・焦点(核心、求心性、同心性)。
 [ニ]調和性(一体性、共存、バランス、混和性)。
 [ホ]流動性(変化、動態)。
 [ヘ]交替性(相関性、個と全体、一と一切、中心と周辺、現在と未来、理想世界と現実世界、極大と極微の同時性)。
 [ト]全体性(総合性、普遍性、直観性)。
 基本的にはマンダラとは、上の[イ]−[ト]の特徴が、有機的な関係のもとで、いきいきと共存している状態を感じたとき、われわれはマンダラの存在を意識の上で把えるのではないかと思います。
 「空間・領域・場」というのは、マンダラには、一つの限られた空間や領域や場があるということです。わかりやすくいえば、今、この部屋には一つの空間をもって、教化センターのメンバーが研修会という目的をもって集まっているわけですから、ここにも一つのマンダラが成立するという意味です。ささやかな、ごく小さなマンダラかもしれませんが、これも把える意識によっては立派なマンダラです。領域、場、位置、ステージ、次元、際限、結界、境界、圏、宇宙、世界、紙面、盤面、図上などが、同じイメージで考えていいと思います。ご存じのように宗祖のおまんだらは一枚の紙面に描かれますが、その意味は宇宙の広がりをもった一枚の図なのです。
 「複数性」(多量、広範、無限なども)というのは、マンダラの内容がけっして単独でなく複数によって成立するという性質です。必ず複数性が求められます。その複数性はどんなに多量でもいいのです。制限がありません。無限です。宗祖のおまんだらには多数の諸仏が登場しますが、その意味は無限の複数性を意味しています。
 「中心・焦点」というのは、マンダラは一つの中心・焦点になる核をもって成立しているという性質です。求心性をもって集まっている状態のことです。何かが集まっていても、もし中心がなく求心力が働いてなかったら、それはマンダラではない。眞言のマンダラでは大日如来が中心であり、宗祖のおまんだらの場合は、いうまでもなく「南無妙法蓮華経」の題目が中心にあります。
 「調和性」というのは、マンダラはその集まり個々バラバラではなく、全体が調和性をもって成立しているという性質です。一体感、共存性、バランス感、混和性などといってもいいでしょう。
 「流動性」というのは、マンダラの内容が固定化されたものではなく、たえず流動性をもっているという性質です。変化し、動態であることを前提とします。宗祖のおまんだらは、この流動性についてとくに眞言マンダラに優越した表現法だと思います。宗祖まんだらが表現なさろうとした内容は「一念三千」の縁起の世界でありましょう。その一念すなわち一刹那は、つねに転展して不常であり流動的であります。到底、眞言マンダラのように、幾何学模様に、シンメトリーに規格化された図式では表現することができません。瞬間瞬間、一刹那一刹那に生滅変化する縁起の世界を、できるだけ流動性を反映させつつ、しかしどこかでその動きを一瞬とめて表現するところに、宗祖のおまんだらの表現法の難しさと、それを克服した特徴があるといえないでしょうか。
 「交替性」というのは、マンダラがその性質に象徴性(シンボルとしての特徴)をもつ点おいて、非常に重要な性質だと思います。両界曼荼羅は真言密教において本尊と位置づけられていますが、宗祖のおまんだらは本宗にとっても、遺命された本尊であります。その理由がマンダラのこの交替性の性質にあります。たとえば、内容の相関性、個と全体、一即一切、中心と周辺、現在と未来、理想世界と現実世界、極大と極微の同時性、などがマンダラにおいて表現されると思います。
 「全体性」というのは、総合性、直観性、普遍性といってもいいと思います。マンダラというものは、一見してその全体が捉えられるというのがこの性質です。分析に対する総合であり、直観でもあります。ものを見るときの見方として、マンダラ的な見方というのは、分析的に見るのではなく、全体としての直感を大切にしましょうという主張でもあるといえます。
 [イ]−[ト]に見たようなマンダラの特色が、いつもどんな場合のマンダラにも必ずすべて備わっているのかといえば、必ずしもそうではなくて、いや備わっているかもしれませんが、必ずしもすべての特色が同じように目立っているのではなくて、二三の特色がとくに強調されるマンダラというのもあるように思います。
 その意味では、宗祖のおまんだらというのは、大変に完整度の高いマンダラというべきでありまして、それだからこそご自身も自信作としての誇りをもって、門下に対しこれを「本尊」とするよう遺命なさったのだと思います。
 後でもふれますが、法華経の熱心な信者であり詩人・童話作家として有名な宮沢賢治という人は、私はまた、大変見事な宗祖の大曼荼羅の実践者であったことを確信しています。おそらく現実のマンダラとは、それを感受したそれぞれの人間によって切り取られた、それぞれ特定の一空間として存在するものではないでしょうか。多くの賢治研究者もまだそのことには気がついていないと思いますが、賢治はその鋭敏な感性をもって、ほとんど直観的に、即時に、また到る処においてマンダラを感受して、それを「詩」や「童話」に作品化したのではないかと思います。
 それでは本題の宗祖のおまんだらについて、少し説明させていただきます。しかし、私の説明は、はじめに教義や宗学ありきではなく、宗祖の原点すなわち、おまんだらの現物とまず向き合うことを第一にして、そこからマンダラの本質をとらえ、その後に教義や宗学としての意味を考えようという手順です。ちょっと一般の説明方法とは逆といえるかも知れません。

二、「図」としてのおまんだら

 さて、宗祖はご自身でこのおまんだらのことを、これは「図」だとおっしゃっています。それはごく早い時期に書かれたおまんだらの上に明確に見えていることで、伝統の宗学でも「御図顕」あるいは「御図示」といちおう呼称はしてきたとうりです。しかし、それでは後世において実際に、おまんだらの上でその意味を考えることがあったかといえば、それはほとんど皆無であったといわざるを得ません。実はおまんだらにおいて「図」の意味を考えることは、非常に重要なことだったのです。もう十年ほども前のことになりますが、私はあるとき突然このことに気づいたのですが、それ以来、それまで私の中で抱いていたおまんだらのイメージが一変して、多くの疑問も一度に氷解することになったのです。
 よく注意してみますと、「図」ということについては、実は宗祖はおまんだら以外の場でもけっこういろんな面で使われている、多用されているということがわかりました。これは「昭和定本日蓮聖人遺文」(以下、定本)の中にも図録の部というのがありまして、そこには「一代五時図」あるいは「開三顕一」などの教義や宗派の歴史などを図解したものが三十数点も残っています。宗祖がおまんだらを制作なさったのは晩年の十二年間ほどのことですが、それ以前に、このような図についてはお若いときから、しばしばお使いになっていたのです。
 ということは、おまんだら以前に宗祖ご自身の日常の中には、ご自分の考えをまとめるのにそれを図に表したり、他の人に説明するのに図を用いたり、図にはよく親しんでおられた可能性が高い。そういう環境の中で、「おまんだら」も生れているという背景を考えなければいけないのではないかと、私は思います。
 私がこのように、宗祖における図の意味を強調いたします背景には、少なからず私自身の体験的感想も含まれているのでございます。その経過をご説明する時間がなくて恐縮なのですが、実は私には、図を用いてものを考え、図を用いて人に意志を伝えるという経験が、皆さん方の中で若干多いのではないかと思っております。文化人類学者の川喜田二郎さんという方について学ぶこともう二十年以上になりますが、それが、前に少しふれたKJ法という方法であります。
 本日私は、以下のお話でこれまで宗祖のおまんだらについて「図」といってきたところを、より一般的に「図解」というように呼ばせていただきますが、そういう図解を活用することの体験からみますと、宗祖が描かれた図解、すなわちおまんだらというのは、今日のレベルで見て、というより歴史的にも実に驚くべき内容を表現している図解だということなのです。それは、それは、「すごい!」としか言いようのない図解を描かれているのであります。
 皆さまもこれまでに、何か複雑な状況がからんだ問題について自分の考えをまとめるとき、というより考えがまとまらないとき、それを簡単な絵や図で表現して順序や位置など相互関係を整理してみるということをなさった経験はないでしょうか。そのときのご経験と基本的には同じなのですが、そういう「図解を用いる」ことには、原則的に二つの特徴が指摘できるかと思います。
 一は、他人の前にはもちろん自分自身に対しても、当初から図解の完成品を示すことはできないということです。必ず、試行錯誤のプロセスがある。より正確には実験段階、あるいは試作段階の図解が存在してのちに、はじめて完成の図解が存在し得るということです。
 二は、図解にはインプット(入力)の図解と、アウトプット(出力)の図解とでも表現しておきましょうか、自分自身が考えをまとめるために用いる図解と、他人に説明するために用いる図解が存在するといえます。この二つの図解は、ある場合はそれぞれ別に異なった形式で表現されることがあり、ある場合はまったく同一の形式で表現されることがあります。
 このように、図解とは、一種の意志の伝達方法として存在すると思うのですが、ではいったい、言葉や文章という他の伝達方法に比較して何が特徴なのかといいますと、言葉や文章にならない、あるいはなりにくい情報を他へ伝達する場合に、図解は非常に有効だということができます。
 一見すれば、全体がわかる、構造的にわかる、直観的に把握しやすい。たしかに図解はことばや文章よりも伝達方法として効果的な場合があろうかと思います。とくにそれは、内面的、精神的な世界を表現し、それを他に伝達する手段としては、確実に有効な方法ではないかと思います。私達の用語で、「以心伝心」の「善巧方便」であるということでございます。宗祖はおまんだらという一枚の図解を用いて、言葉や文章よりもはるかに多量の情報を伝達されようとしているといえるかもしれません。
 最近若い人にとくに見られる傾向ですけれども、会社などで作業の指示伝達が、みんなマニュアル化されているため、それに慣れた人間は自主性、自発性が失われて、内から沸き上がるエネルギーが乏しくなり、指示待ち人間が増えているという現象が指摘されています。今日我々が、真に仏教の普及方法を考えたとき、これは甚だ困った情況だといえますが、しかし実は仏教というのは本来伝えることが本質的に困難なことがらで、時代も、人をも超えた問題だといえましょう。
 なぜなら仏教の普及は、門下や信徒に宗教的な意志をいかに伝達するかが重要なことですが、それは単純な文章化されたマニュアルといったものではすまない面が多いからです。伝える相手によって、それぞれ個別的な意志や行動の喚起をうながす必要があるはずです。そこで宗祖の場合には、おまんだらがあるではないか、これを活用すべきだというのが私の意見です。
 そういうわけで、宗祖は、ご自分の宗教を普及なさろうとするに当っては、図解としてのおまんだらを「本尊」として用いることが有効である、というお考えに立たれたと推測されます。
 私は、おまんだらには、門下の私達が意味はわからないけれどもただ拝めばいいというだけではすまない、おまんだらに託された宗祖のご意志の存在というものを、改めて確かめてみる必要があると思うのでございます。

三、おまんだらの内容と構成

 では、おまんだらという図解には、いったい何が描かれているのでしょうか。その実際を具体的に検証してみましょう。
 お話を進める上で、ここに本日は一つのおまんだらのモデルを掲げましたが[図版1]、このおまんだらは、これは伝承ですから本当はどうかわかりませんけれども、宗祖のご臨終の枕元に掛けられたという「臨滅度時の御本尊」と呼ばれているものでございます。鎌倉の妙本寺に伝わるおまんだらで(「日蓮聖人真蹟集成」本尊集八一)、そしてこれが現在、しばしば「宗定」のご本尊と呼ばれています。そう呼ばれることに、私としては後で申し上げる意味で異議があるのですが、、、。
 次に[図版2]、清水の村松海長寺のおまんだら(本尊集五三)でございます。私は臨滅度時のご本尊よりも、おまんだらを説明するモデルとしてはこれがいちばん内容が豊富で、わかりやすいのではないかと思っております。本日は、この二幅のおまんだらをしばしば登場させてご説明させていただきます。
 おまんだらの内容で最も目立つところから申し上げますが、まず真ん中に首題「南無妙法蓮華経」が大書してございます。宗祖のおまんだらで、この中央の首題が省略されることはありません。しかし、その他はすべて存略、位置の移動があり得るとお考え下さい。
 四隅の東西南北に配置した四天王(東方持国、西方広目、南方増長、北方毘沙門)がございます。これはまたあとでふれますけれども、海長寺のおまんだらは西と南が通例の配置と逆になっておりますし、広目天は大毘楼博叉天王、増長天は大毘楼勤叉天王と表示が梵名になっています。
 それから、右と左の両側に非常に目立って特異な感じで、それぞれ不動と愛染の二明王が梵字の種子で描かれています。
 次に、諸仏・諸尊のお名前ですが、このおまんだらではほぼ四段に配置されています。最上段に釈迦・多宝の二尊、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩、第二段に文殊・普賢などの諸菩薩や声聞衆と諸天王、第三段にインドの論師や、中国の法華賛仰の先師。第四段目に我が国の天照大神、八幡大菩薩の名が見えます。
 さらに、諸仏・諸尊の外側に流動的な筆づかいで文字が書き散らされておりますが、その内容は、法華経の経文や釈文の抜粋でございます。前回の日蓮教学研究発表大会で私の発表したことですが、このような経文や釈文は、従来は、「仏滅後、二千二百三十余年間、一閻浮提之内、未曾有大曼荼羅也」の一文と一緒にして、まとめて「讃文」と呼ばれて来ましたけれども、私はこれは内容自体もおまんだらに登場する意義の違いからも、それぞれを「経文釈文」と「讃文」と区別して理解すべきものと考えています。本日も、そのように呼び分けて、ご説明することにいたします。
 首題の真下には、宗祖の自署と花押がございます。それから、左隅に「弘安元年太歳戊寅八月 日」とありますのは、おまんだらを描かれた「時」の表明でございます。さらに右隅に小さく書いてありますのが、このおまんだらの被授与者の名前です。この場合は、六老僧のお一人の日頂上人に授与されたものであることがわかります。
 それから、このおまんだらには、首題のさらに上に瓔珞の下部らしき装飾の一部が見えているようです。しかし、これには現在でもいろいろ議論がありまして、もともと首題の上に天蓋が描かれたり瓔珞が下がっていたり、あるいは下に蓮台の装飾があったりするのは、時代が下った室町以降に書き加えられたものではないか、という見解です。
 私ももちろん、その種のものがあることを否定いたしませんけれども、天蓋や瓔珞、また蓮台らの装飾がすべて後世の加筆ということではなく、宗祖ご自身のおまんだらにもこのような装飾のあるものがあったはずだと推測しています。この海長寺のおまんだらがはたしてどちらか、ちょっと私の判断しかねるところですけれども、当初からこのように瓔珞、あるいは天蓋、蓮台の描かれた、そういう装飾のおまんだらもあったのではないか、あった可能性が高いというふうに思っています。
 このように、海長寺のおまんだらはそこに盛り込まれた内容がひじょうに豊富でありますから、おまんだらの本質を考えるとき、あるいは内容を説明するときには、私は最も好都合のモデルとして利用させていただいているわけであります。
 それは、おまんだら研究における次のような立場を意識しているからであります。宗祖のおまんだらは本質的に、この後順次ご紹介いたしますように、これが定型であるとか、基本形であるとか、とくに美しい、価値が高いとか、の一点を選びだすということができない。また、無理にそんなことをすべきではない。宗祖のおまんだらは、おまんだらの一つ一つの個別性をそれぞれ見極めながら、しかもそれらを総合した全体像を尊重する立場から、本質をとらえる姿勢でなくてはけっして把えられないのではないか、と思うのでございます。

四、おまんだらに定型なし

 ここで、実は宗祖のおまんだらには、定型あるいは基本形というべきものが存在しないことを、本日のお話の結論の一つとして申しあげておきたいと思います。
 もちろん、宗祖がはじめてお書きになったおまんだらとか、日頃大切になさったおまんだらとか、歴史的な現場に用いられたおまんだらとかを特定することは可能かもしれませんが、これがおまんだらの決定版、おまんだらの定型、オンリーワンの一点というものを示すことは不可能だということです。
 そういう意味では、ここに掲げた宗定のおまんだらといわれているものも、今日確認されております宗祖ご真蹟のおまんだら百二十数点の中のワン・ノブ・ゼムという以上の意義があるとは思えません。それよりも、おまんだらにはまったく同じというものは、他に一点も存在しないという意味、一点一点がかけがえのないオンリーワンのおまんだら、という意義を確認することこそ大切なことのように思います。
 私には宗定というのはどういう意味なのかわかりませんが、そういう特定の一点のおまんだらを求める意識は、かつて創価学会が板曼荼羅を強調した意識に通ずるものであり、本来のおまんだらの意味とどうかかわるのか、かえって、宗祖がおまんだらを本尊とせよと遺言されたことの意義を失うことになりはしないか等、疑問とするところでございます。
 さて、宗祖がおまんだらを制作なさった期間は、現存するものから判断して、文永八年(一二七一)から弘安五年(一二八二)まで、晩年の十二年間でございました。そして今日幸いなことに私達は、先師達の献身的なご努力の蓄積によって(立正安国会「日蓮聖人真蹟集成」の本尊集など)、そのほぼ全貌を居ながらに手にすることができます。では、宗祖はいつ頃からおまんだらを顕されたのでしょうか。その最初のおまんだらは今日現存しているのでしょうか。
 宗祖には一般に「佐渡始顕のおまんだら」と尊称を贈られたおまんだら、すなわち遠流の地佐渡においてはじめて書き表されたという「文永十年(一二七三)七月八日」付のおまんだらがありました。佐渡始顕のおまんだらは真に宗門の重宝ですから、おそらく宗祖ご入滅後もずっと身延山で大切に保管されてきたと思われますが、残念ながら明治八年の火災によって、消失してしまいました。それで、今日では現物はみられないのですが、身延山第三十三世の遠沾日亨師(一六四六−一七二一)が現物の姿を臨写されたものが『御本尊鑑』に残されていて、それによっておおよその形を見ることができます。[図版3]
 しかし、「本尊集」によりますと、佐渡始顕のおまんだら以前に、すでにその二年前の「文永八年十月九日、相州本間依智郷」付で書かれたおまんだらの存在したことがわかります。これが、今日宗祖のおまんだらとして現存しているもののうち、最初のものでこざいます[図版4]。そして、この場合は「之を書す」と記されていることにご注意いただきたいと思います。宗祖の残されたおまんだらの様式としてはこれがもっとも要約、簡潔、素朴なもので、真ん中の首題に対して右に不動明王、左に愛染明王の種子が梵字で書かれているだけのものです。宗祖の自署と花押はこの後一時、左右に分かち書きされますが、このときは上下にまとめて書かれています。
 これは文永九年六月十六日のおまんだらで、「佐渡国に於て、之を図す」とされています[図版5]。注目されるのは、「之を書す」から「之を図す」へ変わった点です。おまんだらが「図」であるということに、宗祖がこだわりをもっておられたことはこれにより明白です。身延へ入られてからも初期のおまんだらにはしばしば、書かれた場所を明記する際に、「之を図す」と見られます。
 なお、このおまんだらについては、首題の両側に釈迦・多宝の二尊が加えられ、そしてさらに外側に不動・愛染の二明王が置かれていますが、ご覧のように通例とは右と左が逆になっていることにご注目いただきたいと思います。そして、二明王の位置の逆転はけっしてこの例だけではないのです。
 「佐渡始顕」のおまんだら以前に、さらに歴史的に先行すおまんだらが存在するということになると、これは宗学上の大問題です。佐渡始顕のおまんだらとは、どういう関係になるのか。宗祖においておまんだらの「始顕」というのはどういう意味なのか、その辺が問題になろうかと思います。こういうおまんだらが、今日一三点ほど見つかっております。かつ、現在はまだ宗門で公式に承認されてはおりませんけれども、その最初期のおまんだらとほとんど同型というのが最近の学界に報告されておりまして、今後なお、まだ数点ほど出現する可能性がございます。
 これは、さらに次のような宗義上の大きな問題提起をともなうことにもなります。今日の理解では、前述のように佐渡始顕のおまんだらは、文永十年七月八日の日付ですから、文永十年四月二十五日付で冨木常忍さん宛てに送られた『観心本尊抄』よりは後に成立し、宗祖は本尊抄に表明されたところに基づいておまんだらを「図顕」された、ということになっています。
 しかし、どうもこれは実際に図解が成立する手順からいえば、はなはだ不可解なことなのです。『本尊抄』を読めば、これはおまんだらの絵解きの書とでもいうべき内容です。もし宗祖ご自身におまんだらの具体的なイメージができあがっていなくて、はたして『本尊抄』を著すことができるものでしょうか。これは宗祖にあっては、『本尊抄』成立のときには、佐渡始顕のおまんだらのイメージははっきり出来上がっていたことを証明しています。同時にここに改めて、佐渡始顕以前のおまんだらの存在の意義が注目されることになりますが、それはまた別の機会に考えることにしましょう。
 さて、ここでおまんだらの用紙について少しお話いたしますと、宗祖はおまんだらには楮を原料とする楮紙を用いられましたが、おまんだらの場合はとくに用紙を木槌で叩いて、表面を硬く滑らかにし、その上をひじょうに闊達な字で、というよりもとくに流動性を誇張するような筆法で、おまんだらを描かれているといえます。
 宗祖がおまんだらをお描きになる場合、用紙の大きさは当時の通常の竪紙(だいたいタテ三〇センチ×ヨコ五〇センチぐらいの横長の紙)を用いて、一紙大のおまんだらのときはそのままそれを縦にして描き、三紙大のときは紙を横にして三段に継いで用いておられます。臨滅度時のご本尊のように特大のものになりますと、五枚の用紙を五段に継いでそれをさらに横に二列にして継ぎ合わせ、都合十枚を用いられています。これは、タテ一六一.五センチ×ヨコ一〇二.七センチにもなりますが、これでも宗祖のおまんだらとしては第五位ほどの大きさで、現存の最大は、二十八枚継ぎ、タテ二三四.九センチ×ヨコ一二四.九センチのものがございます。
 かくして、現存する宗祖ご真蹟のおまんだらの総数は、現在一二七点が確認されています。私はさきほど一点一点のおまんだらがその様式は全部違うと言いましたけれども、実際にはこれらのおまんだらを順番に全部を点検することは不可能です。そこで、おまんだら博士の山中喜八先生が精査されたところを信頼するとして、先生がこの程度の違いはまあ同類のものと認めていいだろうと整理された結果が、一〇七種ということでした。しかしながら、一二七点現存しているおまんだらのうち、少なくとも一〇七種の異種があるというのは、もはやこれは、まったく定型というものを認めることができない、と言い切っても過言ではないと思います。

五、先師のおまんだら整理法

 今日ほど、宗祖のおまんだらが数多く集められ、またその全貌がオープンに一般公開され、研究者にとってめぐまれた時代はこれまでなかったといえます。多くの先師達が不自由な環境の中で、なんとかおまんだらの本質とはいったい何かを把握すべく努力してきました。それが、個別のおまんだらになんとか特徴を見つけて、分類を試みる方法だったわけです。
 まず、おまんだらを「未再治」(まだ修正を加えていないもの)と、「再治」(修正を加えたもの)という二種類に分けた方がいらっしゃいます。行学日朝師です。それから「隨他意」(他の意志を受け入れてできたもの)と、「隨自意」(宗祖の意志のまま表現されたもの)の二種類に分けた方は、正行日源師です。これらの場合は、もちろん「再治」と「隨自意」が上位なのですが、おまんだらを完成品と未完成品に分けているようで、思わずふき出しそうなほどのどかな分類法です。
 それから形式によって、「総帰命」と「四聖帰命」とに分類する塩田義遜師の方法があります。総帰命といいますのは、十界の諸仏諸尊すべての頭に「南無」が付されている場合で、これはごく初期のおまんだらに見られる様式ですが、だいたい建治年間までありまして、それはほぼ、「未再治」のおまんだら、「隨他意」のおまんだら、ともほぼ一致するといえます。それに対して、両尊と四菩薩についてのみ「南無」が冠せられていて、他の諸尊には「南無」が付いていないおまんだらを「四聖帰命」式と分類するものです。以上は、いずれもおまんだらの全体を二つに分ける方法です。
 塩田師はさらに、おまんだらの成立期によって分類する方法も併せて提唱しています。まず、文永期、建治期、弘安期の三期に分け、それをさらに建治の前と後期と、弘安の前と後期に分け、都合文永、建治前期・後期、弘安前期・後期と五期に分けるものです。これは従前に比べてかなり学問的な方法のようですが、挙げられた五期の特徴にあまりにも例外の多いのが難と言えます。
 また、国柱会の山川智應氏は、「教門」と「観門」との二種に分けていますが、しかしこの場合も、「教門」というのは「総帰命」の本尊であり、「未再治」の本尊、「隨他意」の本尊のことであります。「観門」というのは、「再治」「隨自意」であり、結局、これは従来の分類を言い変えただけにすぎません。
 山川氏はまた、おまんだらの内容の繁簡によって、「広」「略」「要」「要要」と、四つに分ける方法も提案していますが、これはおまんだらの実質的な観察方法として、現在でも評価できるものではないでしょうか。
 「広」というのは、首題があって、諸仏・諸尊が十界のおまんだらとしてふさわしく輪円具足しているものをいいます。次に「略」というのは、首題と諸仏は具足しているが、十界の諸尊にかなり省略があるような場合。また「要」とは、首題と釈迦・多宝の二尊と四菩薩程度のものです。最後に「要要」とは、いわゆる一遍首題のおまんだらをいいます。
 そして山川智應師は、おまんだらは「広」「略」「要」「要要」といかなる形であっても、宗祖のご意志としてはまったく同等の価値であると見ているようです。私も、おまんだらの意義は本質的に、たとえ一遍首題でも、諸仏・諸尊の列挙された十界曼荼羅も同等であると見る点は山川氏に賛同の見解でございます。
 宗祖もご遺文の中ではしばしば、「此の曼陀羅は文字は五字七字に候へども」(『妙法曼陀羅供養事』六九八頁)とか、あるいは「此の五字のおまんだらを身に帯し心に存せば」(『新尼御前御返事』八六七頁)などの表現をされますが、これらは、現実に当時の宗祖に一遍首題のおまんだらが存在したことをうかがわせる表現であるとともに、またそれが、たとえ十界装具のおまんだらであっても、所詮は一遍の題目に他ならないことの意味であると思うのです。
 最後に、歴史的には七番目の説として登場する分類法であり、最も内容の完備した分類法が立正安国会の山中喜八氏の「四系列・九部門」に分ける方法です。これは時間がありませんので細かくは申し上げられませんけれども、おまんだらをその形式上の特徴によって細分類するもので、おまんだらの全体を分類管理する専門的方法としては、ひじょうに実際的で勝れた方法だと思います。
 その分類の基礎となっている要素として、首題、釈迦・多宝の二尊、南無の存略(総帰命式と四聖帰命式)、分身諸仏、本化四菩薩、迹化菩薩、声聞衆、先師、不動・愛染の二明王、梵天・帝釈、第六天魔王、日天・月天、明星天王、四天王、転輪聖王、阿修羅王・龍王、迦楼羅王、十二神王、提婆達多・阿闍世王、鬼子母神・十羅刹女、天照太神・八幡大菩薩、そして讃文や自署・花押。山中先生は、こういう要素の一々についてその存略や、位置の異同、表現法を詳細に比較することで、おまんだらの類型的整理をなさったわけで、長年にわたるおまんだらの蒐集と整理に対するその熱意とご努力にはただただ頭の下がる思いでございます。今日我々がこうして、容易におまんだらの比較研究ができるのも同氏のお蔭と存じます。
 以上、これまでのおまんだらを整理する諸々の方法を見てみますと、古い時代から今日まで次第に、おまんだらを分類しようとする方法はだんだん複雑になってきました。その最終の到達点が山中氏というわけですが、たしかに、どこかで新しい宗祖ご真蹟のおまんだらが発見されたときなどは、それに類似した様式を探すにはとても便利になったということは疑いありません。しかし、考えてみますとその方法は、これからもおまんだらの新発見があればあるほど、あるいはおまんだらの研究の環境の便利さが進めば進むほど、どんどん複雑になっていくようです。
 もともと、なぜ先師方は皆さんが、これほど必死におまんだらの内容や形式の分類に挑戦しようとするのでしょうか。それは、おまんだらの分類によって何か手がかりをつかみ、おまんだらの本質に迫ろう。そして宗祖が本尊としてのおまんだらに託されたメッセージを受け取ろう、という真剣な願いに出発するものではなかったのでしょうか。
 しかし、もしそうであるなら、もうこのおまんだらの分類化という方法には限界が見えているはずです。実際、現存のおまんだら一二七点のそれぞれが、それぞれバラバラの個性を主張しているのですから。それは、真蹟のおまんだらが発見されればされるほど、どんどん混迷は深まるというべきなのであります。

六、概念図によるおまんだらの分析

 立正大学の故高木豊先生は、歴史的に先行する造像や絵像に対して宗祖のおまんだらを「字像」と表現されています。最近の渡辺喜勝氏の研究では「文字マンダラ」と呼んで注目しています。宗祖はなぜ、このようにご自分のおまんだらを創作なさったとき、造像や、絵像になさらなかったのでしょうか。
 そこで、ご覧いただきたい参考資料がございます。[図版6]。これは、東京東部の青年会の諸君がつくってくれた「絵」のおまんだらですが、宗祖の文字のおまんだらを絵像に置き換えてわかりやすく見せてくれたものです。真ん中に御題目があって、そしてそれぞれ両尊、四士、諸仏、諸尊、それぞれの位置関係がよく出ております。しかし、ここにはもちろん、絵になりにくい経文・釈文や讃文、年月日、被授与者などは省略されています。このような試みも、おまんだらの本質を考えるときには、一つの大切な問題提起といえます。本宗には、このような諸仏諸尊を絵像で描いたマンダラとして、古くから玉沢妙法華寺や石川県羽咋の妙成寺のものが有名です。
 また次は、本日はモデルとしてしばしば見ていただいている、海長寺のおまんだらを翻字してみた、諸仏諸尊の座配とその他の記載事項です。[図版7]。
 そして[図版8]は、これにもとずいて私が試みに、おまんだらの内容、すなわちおまんだらを構成している要素を、同じ要素同志でグルーピングしてみたのが、この「おまんだら概念図」です。この概念図は、私の友人がコンピュータグラフィックによって描いてくれたもので、原図はきれいなカラー版でもっと見やすいものです。
 宗祖のおまんだらは、つねに「南無妙法蓮華経」の首題が、広げられた図解の中央に位置します。いかなる宗祖のおまんだらでも、首題を欠いたおまんだらというのは存在しません。これは当然のことのようですが、大変重要な意味をもっています。
 図解としてみたおまんだらは、中央の「南無妙法蓮華経」が、テーマであるという意味です。そのテーマを中心として、四方八方に、縦横無尽に、テーマに関係のあるあらゆる世界が展開している状態であるといえます。そこには真実も、虚偽も、反論も、葛藤も、あらゆる要素や議論が混在して、しかもけっしてバラバラではなく、ある緊張関係とバランスをもって共存している状態です。
 この場合、中央のテーマ、すなわち「南無妙法蓮華経」の首題とその周辺に展開する世界との関係は、二つの方向から説明できる意味をもっているということに気づきます。一つは、中央のテーマから、周辺のすべての世界が発生し展開しているという構図です。[構図A]としましょう。
 他の一つは[構図B]です。まず周辺の世界が先行して存在して、それを集約していくと結果的に中央のテーマに帰結するという意味です。はたして、宗祖のおまんだらの場合は、どちらでしょうか。[構図A]でしょうか。[構図B]でしょうか。
 私は、その両面の意味を兼備しているのが、宗祖のおまんだらだと思います。周知のように宗祖は、「大曼荼羅を本尊とせよ」と遺命されていますが、ご自身も「南無妙法蓮華経」の題目と「大曼荼羅」との関係を、門下信徒にもこの両面からご説明になったのではないかと思います。
 因みに、[構図B]は帰納的思考法であり、そのような説明法に適しています。これは『開目抄』的であるとはいえませんか。[構図A]は演繹的思考法であり、そのような説明法に適しています。これは『本尊抄』的といえないでしょうか。
 そのような訳で、おまんだらがどのような構成になっているかをご説明するために、いまここに用意しました「おまんだらの概念図」では、首題はご覧のように、ちょっと外側へはずしたものになっています。このように内容全体を説明する際は、テーマやタイトルのような象徴的な存在は、一時仮に傍へ置いてみると分かり易いかと思います。
 そこでまず、釈迦牟尼仏と多宝如来、これは仏界のグループでございます。つぎに四菩薩をはじめとする諸菩薩が仏界を囲んで、これは菩薩界のグループです。それから縁覚(独覚)界は具体的におまんだらには登場しないわけですけれども、声聞界の方々がこちらに見えます。おまんだらでも比較的中央の上部には、これら四聖に属する方々が位置しています。
 四王天や、不動・愛染の二明王などの天上界は、おまんだらの比較的周辺部に位置しています。それから竜樹、天親、妙楽、天台、伝教、こういう法華弘通の先師たち人界の方々はこの辺でございます。
 そして、これらおまんだらの中央部で青色系に色分けした部分が、どちらかといえば、修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の四悪趣に該当するところです。なお、不動・愛染の二明王の色を青くしてあることについては、あとでその理由を申し上げます。これに人・天の二界を含めた六界が私達衆生の輪廻転生する世界でございます。
 このように、おまんだらに登場する諸仏・諸尊について、その所属界と配列の位置によってグルーピングしてみますと、仏・菩薩・(縁覚)・声聞・天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の十界の諸界すべてが、この一つのおまんだらという紙上の宇宙空間の中に配列鎮座ましましている状態がよくわかります。しかも、お互いにある程度ゆるやかではありますけれども、それぞれグループをなし、またそれぞれがお互いに位置関係を保っているということがおわかりいただけるかと思います。
 こうして、一つのおまんだらのモデルとして海長寺のおまんだらを少しくわしく見たわけですが、諸仏・諸尊の位置は、同種ごとにグルーピングした、しかしそれほど窮屈ではないゆるやかな規則性の中で、順序配列されていることがわかりましたが、これをさらに、対照の範囲を広げて他のおまんだらとも比較してみますと、その内容はもっと個性豊かであり、構成にも余裕のあることがわかります。
 いうまでもなく、どのおまんだらにおいても首題「南無妙法蓮華経」の位置が変わることはありません。それは、宗祖のおまんだらのシンボルだからでしょう。それから釈迦・多宝の二仏の位置が変わることもありません。
 しかし、四菩薩の位置の順序は変わることがあります。その他の諸仏・諸尊についても、存略が不定。さらに位置の異同、逆転の例は枚挙に暇ありません。色々です。もちろん不動と愛染も右左逆であったり、四王天ではしばしば西と南が左右反対になったりする例があります。真ん中の御題目と両尊以外は、みんな変わる可能性を認めているようです。これは、変わってもかまわない、変わって当然という本質が、おまんだらにあると考える方が自然ではないでしょうか。
 以上、宗祖のおまんだらについて、その内容を種々の角度から分析してみましたが、ご確認いただきたかったことは、冒頭でご紹介したマンダラの特色[イ]−[ト]が、実にいきいきと息づいていることです。さらに、宗祖のおまんだらには、この他に脇役ではありますが、けっして他のマンダラには登場することのない、重要な構成要素が存在することを忘れるわけにはいきません。
 それは、諸仏諸尊が列座する空間に、とくに流動的な筆致で散らされております法華経の経文・釈文のこと。おまんだらの歴史的な意義を高らかに宣言している「仏滅度後二千二百二十(三十)余年、云々」の讃文。そして、宗祖からこのおまんだらが与えられた被授与者名。おまんだらの製作年月日。それから製作者である宗祖その人を証する自署・花押、などであります。これらについての、おまんだらにおける存在の意味については、また後にふれたいと思います。ただ、多くの大衆を対象として用いられる大型のおまんだらの場合など、そのおまんだらの性格によっては、被授与者名や、製作年月日が省略されることもあります。
 このように、具体的におまんだらの内容を分析してみますと、宗祖がおまんだらを通して、おまんだらによって表現なさろうとしたところは、どうやら法華経が示す一つの大きな世界観であります。その宇宙観の存在であります。といたしますと、どうでしょうか。私はさきほど、概念図のご説明をする前に「南無妙法蓮華経」の首題を一時外側に仮置きすることを申しあげましたが、おまんだらとの関係を考えるうえで、これは一つのヒントにはならなかったでしょうか。
 私はときどき、現存するおまんだらの一点一点を拝見し、宗祖がそのおまんだらに託された意味を素直に受け取るべく鑑賞していますと、いつのまにか自分という存在のすべてが、おまんだらが示している広大な世界、宇宙に吸い込まれるような、それと一体になってしまうような感覚になることがあります。
 おそらく、宗祖の当時からごく近代にいたるまでずっと、おまんだらと対面した方々の環境としては皆さんがこれとほぼ同じ条件下にあったと想像されます。たとえ大本山、あるいは各門流や法類の長の立場であったとしても、それほど多くの数のおまんだらを同時に拝見する機会などあるはずがないからです。その意味では一点一点のおまんだらを通して、それと対面する人は、それぞれ一つの完結した宗祖の信仰の世界を直接受け止めることができる、ということができます。もちろん信仰的には、宗祖に直参するという意味でも、それで充分であることはいうまでもありません。
 しかし、宗祖のおまんだらに託された心情を忖度しますと、とくにその図法の創案者としての気持ちを拝察しますと、一点一点のおまんだらの上だけでは表現し切れない、あるいはその意図を託し切れないといいましょうか、重要な問題が残っていることに気づきます。それは信仰の内容に関わる問題というより、おまんだらの図法の技術上の問題というべきでありましょう。しかし、それは誤解をもって伝わることになれば、信仰の内容そのものにも誤解を与えかねないことがらです。
 結論から言えば、一点一点のおまんだらが表現している世界、宇宙、すなわち一点一点のおまんだらがそれぞれ異なる表情をもっていることを、宗祖はどのようにすれば他へ伝えることができたといえるでしょうか。それは、一点一点のおまんだらを、あえて相違点を残すように描き分ける以外には方法がないのではないでしょうか。少なくとも、同型のおまんだらになることは、できるだけ避けるよう意識しなければならなかったでしょう。そして、そのことを点検できる機会などは、これまでおまんだらを研究された方々にはまだ機が熟さなかったというべきでしょう。
 我々が、現代なればこそ享受できる恵まれた環境は、宗祖のおまんだらの全体を一望のもとに鑑賞できるようになったことです。長い歴史の過程で、おまんだらの拝観や蒐集には多くの障壁がありましたが、今日では、多くの方々のご努力と意識のめざめにより、すでにごく一部を除いてほとんどが図録上に収録されました。交通や、写真技術の発達もそれに加勢しています。今日はじめて、おまんだら上の表現の違いを比較対照し、その点に意味を仮託された宗祖の真意を受け取るべき環境が整ったといえるのではないでしょうか。
 いま私は、おまんだらの本質を把えるには、一点一点のおまんだらを深く分析的に鑑賞すると同時に、その現存のおまんだらの全体を総合的に鑑賞する立場が必要であることを強調したいと思うのです。

七、おまんだらの図法とその意義

イ、伝統的イメージからの脱皮
 本宗のお坊さんたちは、皆さんあまりおまんだらのことをお檀家さんにご紹介にならないのかもしれませんが、世間一般でマンダラといったとき、ただちに宗祖のおまんだらを連想される方は多くないと思います。どうしてもチベット仏教のマンダラや、真言密教のマンダラを思い浮かべてしまうことが多いようですが、それらの、歴史的には先行するマンダラと、宗祖のおまんだらとはいったいどのような関係にあるのでしょうか。はたして関係があるのか、ないのか。外観ではずいぶん違うようだが、では、どのように違うのか、などについて少しお話したいと思います。
 宗祖のおまんだらが、思想的にも、形態的にも、その源をインド仏教に発するマンダラ(サンスクリットでmandala,漢訳では音をそのまま写して曼荼羅,曼陀羅,漫荼羅などと書きます)としての歴史的系譜の中に包含されることは、今日疑問のないところでありましょう。マンダラの本来の意味は、本質を備えたもの、すべての法を具足するものという意味で、旧訳では「壇」、新訳では「輪円具足」あるいは「功徳聚」と漢訳されていますが、それは、もちろん宗祖はよくご存知のことです。
*ここで、チベットのラダック地方にあるアルチ寺の壁画として描かれている金剛界マンダラ・胎蔵界マンダラ、また日本の真言密教から平安時代の両界曼荼羅(山形上杉神社蔵)・南北朝時代の両界曼荼羅(岡山宝光寺蔵)・国宝両界曼荼羅(伝真言院)の写真を一括して、OHPによって見ていただきました。
 これらのマンダラでは、諸仏・諸尊はきわめて絵画的であり極彩色にいろどられ、その配置は、シンメトリーに幾何学的な構図に描かれています。
 これは法華曼荼羅(平安時代画、大正蔵経蔵経図像部より)です[図版9]。中央の多宝塔に釈迦・多宝の両尊が並んでいらっしゃる、二仏並座のスタイルという意味でいえば、宗祖のおまんだらの形式にもっとも近いものといえるかもしれません。不空などの『法華経観智儀軌』とか、あるいはこういう法華曼荼羅という図が宗祖以前に存在したことを論拠に、天台や真言系統の学者は、日蓮聖人のおまんだらも、所詮はこの領域を出るものではない、という言い方をするわけです。しかし、本日の私の話はそれらをいずれも論破できるものと確信しています。
 一般的にマンダラといえば、歴史的には圧倒的に古いのですから、このような真言密教の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅を連想し、極彩色の絵画としての諸仏・諸尊が、シンメトリーの幾何学的文様に配置されている構図を考えてしまうのは無理もありません。
 それに対して、宗祖のおまんだらは、用材は、紙あるいは絹であり、それに文字で描いた諸仏・諸尊、経文や釈文、その他がすべてが墨一色で表現されています。マンダラの伝統的様式からみれば、文字通り、かなり異色であり異様のスタイルにちがいありません。
 このように宗祖が伝統の様式から逸脱したおまんだらを創案されたことについては、従来、次のような理由が挙げられています。宗祖はつねに厳しい環境の中でお過ごしになった、しばしば法難にも会われ居所も一定しなかった、そういう環境的理由が主として挙げられてきました。正式のおまんだらを描く絵師が雇えなかった、あるいは頻繁に移動する宗祖には携帯に便利な筆墨が一番というような理由でしょう。宗祖のおまんだらにはその内容そのものよりも形態の相違の方に関心が集中しました。
 あえて申しあげておきたいと思いますが、宗祖のおまんだらは基本的には、インド、中国以来のマンダラの思想と形態の伝統を踏襲していることは疑いありません。そのまったく埒外において、おまんだらが独立独歩で成立したということはあり得ないと思います。
 しかし、そのほんとうの価値は、けっして借り物としてのマンダラではなく、あくまで宗祖ご自身の信仰にふさわしいシンボルとして、伝統から脱皮した革新的な思想と形態をマンダラの歴史に書き加えた点にあると言えるのではないでしょうか。
 右図[図版10]は、宗祖のおまんだらにほぼ例外なく書き入れられた「讃文」の用例ですが、ここに宗祖があえてご自身のおまんだらを、「未曽有」の、「大」なる(これは、おそらく偉大なるの意でしょう)マンダラであると高称せられたことには、宗祖にとっても伝統を超えたという、大きな自信と誇りをもっておられたに違いないと思うのです。

ロ、一念三千法門の有相化
 前述では、歴史的なマンダラのことをご紹介いたしましたけれども、もう一点つけ加えます。今日みられる最も古いマンダラの原初形は、インドのカシミールで五−六世紀頃にすでに出現していますが、インドにおけるマンダラというのは、必ずしも絵や像になった有相のものだけをマンダラというのではありません。修行者の瞑想法の中で用いられる観想上のマンダラというものもあります。それは無相のマンダラです。姿や形のない、有形では表現できないマンダラ。そして、その方がマンダラとしてはより上級なのです。しかし、いざ一般の庶民大衆に向かって法を説こうとすれば、全くの無相ではよりどころがありません。
 宗祖の場合は、「十界互具」説や「一念三千」説など、法華経の縁起の世界の深遠さとその実践の大切さを説こうとするわけですが、それは必然、抽象的なことばによって伝えるよりも、なにか具体的な目に見える説明方法を工夫せざるを得なかっただろうと思います。そこに、善巧方便としてのマンダラへの期待があったのではないでしょうか。
 実際、宗祖にはすでに立教開宗の時点で、「南無妙法蓮華経」という題目の信仰を登場させて、大衆に向けた実践布教に踏み出したという実績があります。思えば、この題目をかかげたということじたい、これも本来無相である法門の有相化、具象化といえるものであります。
 そして、いうまでもなく、この宗祖のおまんだらの有相化は、先行する題目が存在して初めて実現が可能となったことであります。
 では、お題目がなければ宗祖の宗教は成立しなかったかといえば、それは、けっして成立しないことはなかっただろうと私は思います。ただし、宗祖ご自身から外へ法輪を轉じようとなさったとき、とくに末法時代における法華経の広宣流布という仏の大願をはたそうとすれば、これは多くの庶民大衆が対象ですから、何か有相化された形のある手がかりがなければ難しいことだったのではなかったでしょうか。その第一の手段がお題目であり、次にお題目の思想をより具体的に、実践的に説明して提供されたのがおまんだらだったのではないでしょうか。
 お題目とおまんだらという、いずれも本来は無相の法門が有相化されることによって、宗祖の宗教はより実践化、現実化、かつ大衆化が期待できるようになった、そういうことではないかと思うのです。

ハ、おまんだらの儀軌
 それではおまんだらには儀軌、すなわち描き方の法則などはあるのでしょうか。真言宗の方では、さきほどの法華曼荼羅などが宗祖のおまんだらの儀軌だといい張ります。はたしてそうでしょうか。宗祖のおまんだらを見ても、それは絵ではない。構図もけっしてシンメトリーな規格的文様ではない。実際に現存の一二七枚中に、いわゆるコピーしたように統一された構図というものはまったくない。このことでわかるように、宗祖のおまんだらには、儀軌といえるものは存在しないというのが実態ではないかと思います。
 それでは、ほんとうにそれらしき影さえも、まったく何もないかというと、そうではないのです。古くから指摘されているように、やはりごく基本的なおまんだらの相貌としては、「法華経宝塔品」の霊山虚空会の場面のイメージが存在することは確かでしょう。それは『観心本尊抄』に「其ノ本尊ノ為体ハ、本師ノ娑婆ノ上ニ宝塔空ニ居シ、塔中ノ妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊ノ脇士上行等ノ四菩薩、文殊弥勒等ノ四菩薩ハ眷属トシテ末座ニ居シ、迹化・他方ノ大小ノ諸菩薩ハ万民ノ大地ニ処シテ雲閣月卿ヲ見ルガ如シ。十方ノ諸仏ハ大地ノ上ニ処シタマフ。迹仏迹土ヲ表スル故也」(定本七一二頁)という、これは、いわゆる本門八品の儀相とされる箇所です。
 法華経の説処と説会は二処三会として説明されますが、そのうちの序品から法師品にいたる前の霊山会と、薬王品以降の後の霊山会に対して、宝塔品から嘱累品までが虚空会で、この間だけ空中に宝塔が涌現して、その塔中に釈迦・多宝の二仏が並座されて、多数の分身の諸仏が聴衆となるなかで、法華経本門の教義の中心をなす久遠本仏への信仰が説かれるという、法華経第一の名場面です。
 この場面を、おまんだらは基本的なスタイルとして写しとっていると考えられるわけです。しかし問題は、はたして、この程度のことを、儀軌と呼んでいいかということです。実際のおまんだらには、あまりにもこの例外が多いからです。
 おまんだらにおいて、終始定位置を保っているのは、首題だけです。始顕本尊以前のおまんだらを思い出していただきたいと思います。首題の両側には、それこそ不動・愛染があるだけで釈迦・多宝すらもいらっしゃらない。また後にもふれますが、法華経譬喩品の「今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子、而今此處、多諸患難、唯我一人、能為救護」の経文が載せられますと(本尊集二八、九〇など)、首題以外はすべての諸仏諸尊がおまんだらの上から消える例もあるのです。
 その他のおまんだらにおいても、中央の首題以外のあらゆる諸仏諸尊に、存略、異同、逆転の見られることは、前に見た通りです。ですから、もし本尊抄を儀軌と見るとしても、この程度に承知しておくのがよろしいかと思います。
 実は私は、おまんだらに儀軌の類がないこと、定型などが存在しないことは至極当然のことだと思うのです。もしかしたら、宗祖にはおまんだらの儀軌が存在していたがその後、年月の経過とともに紛失したのではないか、あるいはまだ、どこかに発見されずにあるのか、という期待をされる向きもあるかもしれませんが、おそらく、そんなことはあり得ないでしょう。それは、おまんだらが、「一念三千」の宇宙をとらえ、その法門の有相化の手段として宗祖が私達に提供されたものであったからです。
 ここにいう「一念」とは、私達が「ただいま、現在」と感ずる一瞬の想いが、時間的には一刹那一刹那が連続して成立していることの意味であり、「三千」とは(よりくわしくは「三千大千世界」といます)、空間的に無限に広がる縁起の世界(あらゆる存在が孤立して存在しているものはなく、お互いが関係し合っていること)の意味を象徴している表現でありまして、すなわち「一念三千」といえば、我々がつい誤って「常」と感じている日常の世界の真実が、実は時間的・空間的に「広大なる縁起の世界」が絶えず生滅変化している「無常」の世界の連続であること、換言すれば、私達がここに、ただいま、こうしている、この一瞬一瞬にも、「広大なる縁起の世界」が生滅変化しつつ、しかも途切れることなく成立していることを象徴する、実に深遠な哲学的表現であります。
 いま私達がここで、フッとおもう一念一刹那の中にも、三千大千世界の因縁が展開されているということができます。私には私の一念三千があり、皆さんにもそれぞれ一念三千がある。しかも、みんなそれぞれ異なるのです。みんな異なった一念三千を展開しながら、しかもこの会場では、そのどこかの因縁がふれあい、この一室での時間と空間を共有している。いま私は、維摩経の喩えを思い出していますが、病気だという維摩居士のもとを、お釈迦さまのお使いでお弟子たちが見舞いに訪れたとき、その三万二千もの影嚮が何の支障もなく小さな居士の一部屋に入ってしまった。まさに、いまのこの会場のような状景をいっているのではないでしょうか。
 時間的には、一期一会。空間的には、一即一切、一切即一。融通無碍に生滅変転し極まりない縁起の世界、すなわち「一念三千」の宇宙を、宗祖のおまんだらは、その一瞬を一枚の紙上にとらえて有相化しようとしているのです。如何でしょうか。宗祖のおまんだらには、本質的に儀軌というものがあり得ないというべきではないでしょうか。
 その意味におきましては、山川智應氏がおまんだらの形式について、広・略・要・要要いずれであろうとその趣意は同義、という見解に私はまったく賛同しているのです。おまんだらに勧請された諸仏諸尊は、それぞれ十界の各界を代表する象徴的な立場ではないでしょうか。諸仏諸尊の数が多かろうと少なかろうと、それが十界互具の大曼荼羅に対して、たとえお塔婆の頭に認められた一遍首題であろうと、おまんだらの本質的価値に上下の差別があるはずがないといえましょう。
 この意味においても、かつては日蓮正宗や創価学会がさかんに宣伝した宗祖の板マンダラの存在などは、私には到底承服できないことです。

ニ、「文字即仏」の思想 ─ おまんだらにおける経文・釈文の意味 ─
 さらに私は、おまんだらの一念三千の世界の構成員は、名前の挙げられた諸仏諸尊だけではないと考えています。重要な構成要素として、おまんだらの中には諸仏諸尊が配置されたあとの空間(余白)に、法華経から経文の本文や先師の釈文の抜粋が、ちりばめられています。現在判明しているだけで次の表の通りです。( )内には、経文釈文の要点、およびその出典を示し、下欄には、所載の本尊を示しました。
 経文釈文は海長寺のおまんだらにも見えていますが(表中のNO.13、16)、この場合は、いずれも法華経の釈文を採用しています。二句とも、法華経に対する謗法者の重罪と持経者の積福を述べて、法華信仰を勧奨するくだりです。
 調査のできる範囲は現存のおまんだらに限られるわけですが、それでも採用されている経文釈文は十九種にも上ります。同一の文句が別のおまんだらで何度も使われることもあります。そして、掲載された経文釈文の内容の傾向と数は、おまんだらが授与された目的とけっして無関係ではなさそうです。
 [図版11]。さらに、おまんだらにおける経文釈文の意味を考える上で、実に興味深い例があります。ここに「経一丸」とありますがご承知のように日像上人の幼名で、このおまんだらは、日付けが建治元年(一二七五)十二月とありますから、おそらく七歳か八歳の日像上人がはじめて身延の宗祖のもとへ上がった折りに授与されたものと思われます。興味深いのは、このおまんだらは、首題の他には、宗祖の自署・花押と「今此三界、皆是我有、云々」(譬喩品、経文釈文NO.2)の文が、あるだけなのです。これは、きわめて特異な形式です。これと同じスタイルのおまんだらが三点現存しています。もしかしたら、こういうことが言えるかも知れません。この文句が登場するおまんだらでは、なぜか不動・愛染の二明王が消える、と。その理由については、また発表の機会を改めますが、もはや、経文釈文がおまんだらの内容そのものと密接に関連していることは疑いありません。
 宗祖の信仰には他の多くの場面においても、法華経の経文や釈文を尊重して「一々文々是真仏」、「文字即仏」という姿勢がしばしば見られますが、おそらく、おまんだらでもそれらは勧請の諸仏諸尊と同列の意味において重要な構成要素だったと思われます。
 なお従来、研究者の間でこれらの経文釈文は、「佛滅度後、二千二百二十(三十)余念云々」の文句と一緒にして「讃文」と呼称されてきましたが、これが明らかに区別して扱われるべきものということはご理解いただけたかと存じます。

ホ、理想世界と現実世界 ─ 不動・愛染勧請の意味 ─
 おまんだらの上には、時間的には「現在」と「未来」、空間的には「悟りの世界(理想世界)」と「現実世界」が同時に投影されているといえます。
 たとえば真言密教の世界では、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅によって、大日経の世界と異宗教の世界両面から現在の世界を説明するのだそうで、そういうことも可能かとおもうのですが、宗祖のおまんだらの場合は、用紙一枚、一つの平面において、あらゆる世界を描き尽くそうというわけですから、時空を同時に把えなければならないことになります。
 おまんだらを一面的にみれば、そこはまず、紛れもなく諸仏諸尊の居並ぶ仏の世界、すなわち悟りの世界(理想世界)です。それは、宗祖の勧奨する信仰の到達目標でもあります。
 しかし、その対極にある現実世界とは、昔も今もつねに厳しい存在です。宗祖のおまんだらが真に、十界互具、一念三千の縁起の世界を直視し、それを具像化したものであるとしたら、そこには宗祖ご自身の当時の現実が投影されていることはないでしょうか。
 それには、いくつかの心当たりがあります。まず、すでにご紹介した経文釈文の内容ですが、皆さんもお気づきのように、実にその多くが、法華経の信仰が難信難解であること、また謗法者の罪は重大であることの二点に集中しています。これら宗祖から門下信徒に向けて発せられたメッセージには、間接的ではありますが、いかに当時の宗祖が門下信徒に対し、法華信仰者をとりまく厳しい環境が切迫する中で、揺らぎない信仰の姿勢を確立し、彼らの離反を防止して、教団としての体制を維持していくかに苦心されていたか、その当時の現実そのままの様子が偲ばれるといえるのではないでしょうか。
 また、これもすでにご紹介したことですが、文永八年(一二七一)十月九日のおまんだら(現存として最初のおまんだら、[図版4])ですが、このおまんだらが顕された時期の宗祖は生涯においても最大の苦難を迎えられた時期でありました。九月十二日に佐渡流罪の決定、つづいて竜口法難に見舞われました。おまんだらは、その佐渡へ護送される道中の途次、相州本間依智郷において筆がとられたものです。
 ここに一つの、失意の極にあった当時の宗祖の心境が如実にうかがえる好資料があります。冨木氏宛の『寺泊御書』ですが、これは同じ道中の佐渡へ渡る直前の十月二十二日に越後寺泊において認められたものです。そこには、このように見えます。「当時当世、三類の敵人は之れあるに、但し八十万億那由他の諸菩薩は一人も見えたまはず」(定本五一五頁)と。
 同じ心境は、つづく翌年の二月に配所の佐渡塚原で著された宗祖畢生の大著『開目抄』にも「末法の始めに、法華経の怨敵三類あるべしと、八十万億那由他の諸菩薩の定め給ひし、虚妄となるべしや」(定本五九二頁)と見えます。当時の宗祖は、まさに勧持品の中で説かれている状況、すなわち仏の滅度の後に恐怖悪世の中で法華経を弘めるものは、必ず「俗衆増上慢」「道門増上慢」「潜聖増上慢」ら三類の強敵の迫害にあうであろうことを、如実に体験しているという心境であったにちがいありません。しかし、共にその苦難を耐え忍んでくれるはずの八十万那由他の諸菩薩たちの姿は一向に見えないではないか。きっと宗祖には、四面楚歌のなかの孤独を慨嘆するお気持ちもあったことでしょう。
 宗祖の、そんな苦境の中で表された文永八年のおまんだらは、あまりにもその姿が象徴的というべきではないでしょうか。首題以外には、それを囲むように右と左に不動・愛染の二明王のみが存在する構図です。不動・愛染の両尊は、いうまでもなく真言宗の本尊です。しかも、その表現は一般の漢字ではなく、かなりデフォルメした梵字の種子であらわしています。それは他の諸仏諸尊に対する勧請とは同列ではなく、婉曲な表現の中に何らかのメッセージを秘めているように思われます。
 周知のように、宗祖はこの時期の体験を積極的にうけとめることで、「仏使上行」との自覚を得ていくわけですが、この時期の「三類の怨敵」が、厳しい現実であったことには相違ありません。私はこのおまんだらが、中央の首題は宗祖ご自身と法華経のおかれた環境に、不動・愛染の二明王が三類の強敵(すなわち当時の真言宗)に擬せられたと推測するものであります。この推測は、また、前述した建長元年十二月に日像上人に授与されたおまんだらがそうであるように、「今此三界、皆是我有其中衆生、悉是吾子、云々」(経文釈文NO.2)の経意においてのみ二明王が消え去り、それ以外のおまんだらではけっして二明王がおまんだらの上から姿を消すことのない理由をも裏書きするものであると言い得ましょう。
 式断をもってこれについての私の憶測を申し上げますが、宗祖には現存のご真蹟で「不動愛染感見記」(定本一六頁)が見られますように、早くより真言密教への関心とくに不動愛染の二明王への一定の信仰はお持ちだったと思います。その上で、当時の宗祖にとっての現実的脅威しなわち魔障の存在であった真言宗の本尊を、あえておまんだらの上に登場させた意義には、この二明王の威力を持って魔障を排除するのみならず、魔そのものをして改心せしめ、進んで法華行者を守護すべき役割に転じせしめんとする誓願、いわゆる煩悩即菩提の具象的表現としての意図がお有りだったのではないでしょうか。

ヘ、時空を超えたメッセージ ─ 「讃文」の意味 ─
 おまんだらは、原則的には宗祖の法華信仰の境地、すなわち「一念三千」の世界観、宇宙観を一枚の紙の上にとらえ表現したということができます。しかし、そのおまんだらは、おまんだら上の経文釈文が授与する相手へのメッセージと見られるように、宗祖ひとりの一念三千でなく、それを授与する相手の環境や心情をも反映した一念三千だということができます。それによって、おまんだらの一念三千の意義は、より高められ、より深く広く理解されるものとなるはずです。「ただいま」「現在」の時間空間を宗祖と共有している門下や信徒にとって、おまんだらを、あなたの信仰生活の本尊としなさいと言って授与されれば、これは、いただいた方々にとっては、さぞ感激することでしょうね。
 おまんだらが、「ただいま」「現在」の、世界・宇宙に存在する一念三千の貴重な空間を映しとったものであること、その意義を声高らかに宣言した一文がおまんだらの上に載せられています。そこには同時に、宗祖のおまんだらが従来のおまんだらの歴史に、革新的な様式を登場させることができたことの誇りにもにじんでいるような気がします。現存のおまんだらでは「仏滅後二千二百三十余年之間、一閻浮提之内未有之大曼陀羅也」と記されるところです。[図版10]
 従来の研究では、この一文を経文・釈文と併せて「讃文」と呼んでいたように、あまりその意味を重大には考えてこなかったように思われます。しかし私は、この一文をおまんだらにのける経文釈文の存在意義と明確に区別するとともに(必ずしもこの一文を讃文と呼称することを内容に則した適切な表現とは思えませんが、この部分だけを、讃文と呼ぶことには私もあえて反対しません)、この一文にこそ、宗祖がおまんだらの本質をご自身で表明なさっている重要なメッセージが託されていると思うのです。、日蓮門下に永遠の本尊たることの意義も、この点にこそあるというべきだと思います。
 いったい、おまんだら上の讃文は、当初は定型のものではなく、次のように個別の表現でした。ここには、おまんだらの本質を考える際にきわめて重要な内容を含んでおり、かつ定型化されるに至る過程も推測されます。
(1)「文永八年太才辛未九月十二日蒙御勘遠流佐渡国、同十年太才癸酉七月八日図之。此法華経おまんだら、仏滅後二千二百二十余年、一閻浮提之内末曽有之、日蓮始図之。如来現在猶多怨疾況滅度後、法華経弘通之故有留難事、仏語不虚也」(佐渡始顕、本尊鑑3、)
(2)「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間、雖有経文、一閻浮提之内未有おまんだら也。得意之人察之」(文永十一年七月二十五日、本尊集13)
(3)「大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ケ国之間、未有此大本尊。或知不弘之、或不知之。我慈父以仏智隠留之、為末代残之。後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」(文永十一年十二月日、本尊集16)
(4)「仏滅後二千二百二十(三十)余年之間、一閻浮提之内未有之大曼荼羅也」
 前述のように、「文永十二年(一二七五)卯月日」以降のおまんだらでは、讃文は定型化されたものとなりますが、宗祖はこれは1.2.3.の経過を踏まえて次第に用語を整理されたと考えられます。 
 さて、ここに従来の研究において解決されていない一つの難問があります。その問題とは、おまんだらによって「仏滅後二千二百三十余年之間」の傍線の部分が「二十余年」と、書き替わっているからです。なぜでしょうか。そしてそれは、どうやらおまんだらの成立の前後次第を意味するものではないことは明らかなようで、これまでおまんだらの成立の次第を相貌によって分類しようとする研究者たちの頭を悩ませてきたのです。
 文永十二年(一二七五)卯月日のおまんだら五幅には、いずれも「三十余年」となっていますが、その後の建治年間(一二七五−一二七八、建治元年は四月二十五日改元)のおまんだらはすべて「二十余年」としています。弘安期に入ると、さらに両者は相互に入り交じって用いられることが多くなります。次の通りです。
 この表記は、けっして「仏滅後二千二百二十余年」の後十年を経過したから「三十余年」と書くようになった、という意味ではありません。
 周知のように、宗祖は「時」の認識においてはきわめて厳しい方であります。佐渡における始顕本尊を顕されたのが、「仏滅後二千二百二十二年」に相当することは当然ご承知であります。ご遺文などでも、必要なところでは「仏滅後二千二百二十何年」かということを明確に勘定し、意識しておられます。それにもかかわらず始顕本尊においても制作年月日は明記しながら讃文においては「仏滅後二千二百二十余年」とされる。その後のおまんだらにおいても、もし制作年代と仏滅年代を合致させる意志がおありなら、それはいくらでも可能なはずです。しかし、すべてのおまんだらにおいて「余年」という曖昧な表現をし、あまつさえ年次とはまったく無関係に「二十余年」「三十余年」を使い分けた目的は、いったいどの辺にあったと見るべきでしょうか。
 少なくとも前にご紹介した先師の方々の分類法、すなわち「二十余年」とするおまんだらは、文永・建治期の制作で、「隨他意」であり、「未再治」のおまんだら。「三十余年」とするおまんだらは弘安期の制作で、「隨自意」であり、「再治」のおまんだら、とする諸説には、まったく根拠のないことがおわかりいただけたかと思います。
 私は、この讃文の「仏滅後云々」の一文は、おまんだらの制作年次とは無関係のものと判断いたします。その上で、この定型化された讃文の意義として、二つの意味が仮託されていることを指摘したいと思います。
 その一つの意味は、すでに述べたように、宗祖ご自身の、伝統を超克し、まったく新しい理念と形式をそなえた独創的なマンダラを完成させたという自負の表明であり、他の一つはおまんだらを直接授与する相手はもちろん、あるいは未来においてこのおまんだら本尊と対面するかもしれない不特定の大衆に対しても、その本尊としての意義がどこにあり、かつ本尊をどのように受容すべきかを教えているということであります。
 とくに後者の意味が、より重要であることはいうまでもありません。くりかえすことになりますが、マンダラによって説こうとする信仰の世界は、本来が観念の法門であります。それをいかに技術的に有相化を可能にするか。しかし、いかに巧に有相化がなったとしても所詮それには多くの限界をともなわざるを得ないでありましょう。一刹那一刹那において明滅し転展する一念三千の世界を、いかに一瞬の間、それを停止させた姿として有相化することができるか。おそらく、それは想像を絶する難産であったにちがいありませんが、結果として、宗祖はそれをみごとに克服し、おまんだらを完成させたのです。
 そして、宗祖の次なる課題は、いかにすればそのマンダラの世界を他へ伝達できるかという点にあったと思われます。しかもその対象は、原則的には時空を超えた、不特定の一般大衆であります。したがって、それは、できるだけ普遍化され、様式化されたものとならざるを得ないでしょう。
 しかし、他宗における本尊の形式一般が仏像すなわち人本尊の姿をとるのに対して、宗祖の本尊は、「依法、不依人」の立場であり、法本尊のマンダラであることが一大特徴でであります。しかもその本尊は、現存する例から見ても、普遍的というよりはきわめて個別的というべきであります。宗祖のおまんだらにおける諸仏諸尊の存略や座配の多様性、そして時に書き加えられる経文要文の多様性は、すなわち宗祖とおまんだらの被授与者とが共有する「一念三千」の世界そのものが個別的であることを意味しているといえます。さらに、制作者(日蓮)・制作年月日・制作地・被授与者などを明記するのは、そのおまんだらの個別性をより直接的に強調するものでありましょう。
 これもくり返しになりますが、宗祖のおまんだらは「一念三千」の世界があくまで唯一無二なる個別の存在であり、かつその個別なるがゆえの重大性を強調するところに意義があります。
 皆さまよくご案内のように、この「一念三千」の哲学は、釈尊の悟りである「縁起」観を説いた法華経が、鳩摩羅什の名訳により具体的に「十如是」として提示され、そこから感得された世界観を中国の天台智者大師が集約して簡潔に表現されたものであります。わが宗祖は、その理念としての哲学をさらにおまんだらとして具象化し、後世の門下、大衆にも信仰の真髄として伝えるべく、これを本尊となさったものであります。いわば現代にいきる私達の信仰も、この「一念三千」の哲学によってはじめて、仏教の開祖である釈尊の悟りの原点と直結しているということができるのではないでしょうか。
 あらためて、私達が「一念三千」を真に感得する境地こそ、生きることの大切さを教え、励ますものであることを覚る思いがいたします。
 宗祖が、おまんだらの讃文において「未曾有の大曼荼羅也」と表明されたところは、ただ始顕の本尊だけが「未曾有」や「大曼荼羅」なる存在なのではなく、一点一点、一枚一枚のおまんだらが、それぞれ「未曾有のおまんだら」なる存在なのであります。それは、私達衆生の一人ひとりの命の尊さそのものを意味することに他なりません。
 結論として私は、くだんの定型化された讃文が意味するところは、上に述べたような宗祖のおまんだら本尊がつとめて個別的であろうとする本質的立場の追求と、一方で意本尊はまた、信仰的シンボルとしても求められる万人に対する普遍的立場と、その両立し難い二つの立場からの要請に応える接点としての役割を果たしていると考えられるのであります。
 したがってこの場合、それが「二十余年」であろうと、「三十余年」であろうと、それは時間の経過と解すべきものではなく、とくに、その「余年」の部分にこそ宗祖が付託せんとした目的があるように思います。それは、そのまま「将来あるいは未来」と置き換えても差し支えなしと考えます。まさに讃文の意義とは、まだ宗祖ご自身も顔を見ない「未来」の門下信徒を含む不特定多数の大衆に対しても(すなわち、いま、ここに、こうしている私達も含めて)、本尊としてのおまんだらの意義が正しく伝わるように、時空を超えたメッセージであることの宣言であると考えられるのです。

ト、図解表現としての空間配置と装飾 ─ 「ひげ文字」の意味など ─
 天台の教学では理の一念三千に止まった法門、すなわち無相の一念三千の法門を、宗祖はより実践的なものとするために、事の一念三千の法門としてのお題目やおまんだらを発明なさったわけですが、その具体的な図解化に際しては少なからず技術的な問題を克服する必要があったと思います。いな、この点についての私の経験から述べさせていただければ、おそらく大変な生みの苦しみの結果であったことと拝察します。
 おまんだらには、これまで見てきたように本質的には儀軌の類は存在しません。拡げられた一枚の白紙の空間に、中央の首題だけは位置が確定しているが、他の空間に諸仏諸尊をいかに配置したらよいか。それには、授与する相手の現実の環境なども反映し、また宗祖からのメッセージも加えて、盛り込む内容はきわめて流動的であります。しかも、おまんだら全体としてのバランス、安定感、美観、偉観をどう整えるか、の問題もあります。
 また、実際に描かれたおまんだらは、たんに信仰上の本尊として礼拝の対象とするだけでなく、次にもう少しくわしくお話しますが、それは宗祖が門下の弟子や檀越に対して、法華経の経旨や、各種の法門、救済の内容などを解説なさる手段としても用いられたと思われます。その意味において、おまんだらの上には諸仏諸尊の空間配置とともに、さまざまな寓意的装飾によって彩られていることに気づきます。
 すでにこれまで見てきたところでは、梵字の種子で表した不動愛染の二明王が、他の諸仏諸尊の勧請とは意味のちがう現実の厳しい環境を象徴しているらしきこと。あるいはおまんだら上の経文釈文には、それぞれ宗祖から被授与者に対する具体的なメッセージの意図があること、などをお話しました。
 とくに私が感心しているのは、色彩的には墨一色の文字マンダラでありながら、というよりも実際にはそれだからこそ表現が可能であったわけですが、経文釈文の筆づかいを極端に流動的かつ躍動的にして、諸仏諸尊列座の余白を埋めてちりばめており、おまんだらが刹那に生滅する一念三千の縁起世界を把えている姿をよく表現した点です。実に装飾的にも効果的な成功を収めているというべきです。
 おまんだらの外観においてとくに特徴的なのは、文字の一画を長く伸ばした、いわゆる「ひげ文字」あるいは「光明点」といわれるものでありましょう。私はこれを、おまんだらに登場する一念三千の世界、宇宙がすべて因縁関係をもって成立していることを象徴した、その網の目のように網羅された関係線を意味するものと解釈すべきではないかと考えています。
 ただ、「光明点」という呼称は誰がいつ頃から言い出したかは知りませんが、私は宗祖のおまんだらの上ではあまり積極的に用いたくはありません。それはおそらく、浄土真宗のお寺で見られる「光明本尊」というやはり一種のマンダラからの転用だと思われますが、「光明本尊」の基本的な形は中央に南無不可思議光如来(九字名号)または帰命尽十方無礙光如来(十字名号)を書き、その文字から光明を放射させて、その左右にインド・中国・日本の諸先徳を絵像で配置したものです。
 宗祖のおまんだらと共通しているのは、ともに中央の文字から光明のあらわれている点だと解釈されたものでしょう。しかし、今日残されている光明本尊に見るかぎり、その成立は鎌倉末期から南北朝以前には遡れないのです。つまり、歴史的には宗祖のおまんだらの方が先行し、その影響によって光明本尊は誕生したと見るべきなのです。また、その光明の意味においては、次のようにまったく両者は異なっていますから、もし用いるならばそのことをよく承知しておくべきでありましょう。
 宗祖のおまんだらにおける「ひげ文字」は、もちろん、中心のお題目の救済の光明がすみずみまで遍く行きわたる姿と見ることもできましょうが、おまんだら上の光明は、けっして首題だけから発するものではなく、法華経によって開会された十界すべての諸仏諸尊もそれぞれが光明を発し、それぞれがそれぞれの立場で、お互いの光を受けつつ光り輝いている姿を表象しているわけですから(その姿は、天台が華厳の重々無尽の法門から発想したといわれる十界互具の思想にふさわしい)、因縁の関係線と見る方がより適切かと思います。実際、十界それぞれの光明点が相互に交差するほど長くのびている、様式としては特異なおまんだらの例も見られるのです。[図版12]
 なお、今日現存する宗祖のおまんだらにはそれほど顕著な例は見られないのですが、私は宗祖にも実際には、現存よりはよほど絵画的に装飾されたおまんだらが存在した可能性があると考えています。
 私はその痕跡を、晩年の宗祖に親しく近侍された日像上人のおまんだらの中にうかがえるような気がします。日像上人には今日確認されているものだけでも総数八二幅にのぼるおまんだらが伝えられていますが、そこには日像上人にしか許されないであろう、他の門弟にはない自由闊達さが随所に表れているといえます。
 その理由は、日像上人の訓育をうけられた環境にあると考えられます。上人は、宗祖が身延山に入られて間もない建治元年(一二七五)からご入滅まで、七才より十四才までを宗祖のお側近くにあって行学する機会に恵まれましたが、ちょうどその時期が宗祖の最もおまんだらを多数お書きになった頃であったと思われます。
 おそらく、その間に何度も、頻繁に、日像上人は宗祖のおまんだら制作の場面に立ち会われたのではないでしょうか。それらの機会には、どれほどか詳細におまんだらの意義や様式についても、宗祖直接のご教示を受けられたのではないでしょうか。今日に伝えられる弟子門下のおまんだらに比べて、その量質ともに、日像上人が他の方々を圧倒しているのはけっして偶然のことではないと思われます。
 日像上人のおまんだらには、他の門下はもちろん宗祖のおまんだらにもまして、寓意的装飾の多いことが特色です。それで私は、あるいは宗祖のおまんだらにおいても当時は実際にもっと装飾の多いおまんだらが見られたかもしれないと想像しています。
 日像上人自身が、宗祖の玄旨をふまえつつ独自に創案したかもしれない装飾に、次のような例があります。
 一、首題を天蓋・瓔珞・蓮台などで飾るもの。日像上人にはことに類例が多いが、宗祖にも瓔珞の例は現存しており、また『阿仏房御書』(定本一一四四頁)から推察されるような、尊き首題が宝塔によって飾られたおまんだらも実際には存在したのかもしれません。
 二、二明王の種子を、宝珠を捧げる蛇形につくるもの。これは真言密教の本尊たる不動・愛染を法華経によって開会するという意味と、併せて提婆品に説く竜女成仏(すなわち女人成仏)との寓意的装飾と考えられないでしょうか。
 三、首題「南無妙法蓮華経」の「華」の終画の末尾を珠形に作るもの。これは、『本尊抄』(七二〇頁)、一念三千を識らざる者のために、仏が大慈悲をおこして妙法五字のうちに一念三千の珠をつつんだという、すなわち題目と一念三千との関係を寓意した装飾と思われます。

八、おまんだらの授与とその実践

 宗祖は従来の伝統的なマンダラのイメージを一新させ、これを「大曼荼羅」と命名し、かつ「本尊」として門下の弟子檀越への普及を図りましたが、今日に残る宗祖の書簡類には、その背景に本尊の授与をめぐって往復したと推測されるものが少なくありません。
 現存するご遺文の様子から見て、おまんだらはおそらく宗祖のもとへご供養の品々が届けられた際に、その返礼のお手紙とともに送られることが多かったと想像されます。こういう例もあります。宗祖は建治二年七月、死去が伝えられた清澄の旧師道善房に対し、報恩追善の想いを『報恩鈔』に撰し、その弟子浄顕房、義浄房に託して師の墓前にお供えします。そのときの送り状に「御本尊図して進候」(『報恩鈔送文』一二五〇頁)とあっ て、かの『報恩抄』はおまんだらとともに亡き道善房に供えられたことがわかります。そういたしましと、どうでしょうか。私達が法要でもよく用います。『報恩抄』の一節「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、云々」以下が意味するところは、ただ題目のことだけでなく、おまんだらの存在を前提にして理解してこそ、はじめて宗祖の真意に近づくできるのではないでしょうか。
 「佐渡始顕の本尊」というような表現が広く一般的ですので、ややもするとおまんだらが佐渡始顕をもって嚆矢とするような誤解も生じがちですが、これまで見てきたように、明らかにそれ以前にもおまんだらは存在しています。それでは、始顕本尊の意義は何かといえば、私は宗祖がご自身としてのおまんだらの理念と様式の完成を確信なさって、各地の門下檀越へこれを本尊とするように積極的に普及を開始された、その最初が始顕本尊ではなかったかと推測するものでございます。
 そういうわけでありますから、その当初は受け手であります門下檀越に取りましても、それまで見たことのないものを手にした一種の戸惑いがあったに相違ありません。今日真蹟の失われた御書でありますが、かの『阿仏房御書』が成立する環境なども、そこにおいて「御本尊法華経」と呼ばれているものが「大曼荼羅」のことを指しており、それが宗祖からはじめて阿仏房のもとへ送られたとき、描かれている内容について幾度か阿仏房と宗祖との間で、質疑応答のんの書簡が往来したと考えてこそ、納得がゆくはずのものであります。
 おまんだらが、当時の門下にもなかなか理解されにくいものであることは、おそらく宗祖ご自身もよく覚悟なさっていたことと思います。文永十一年七月二十五日付のおまんだら(本尊集13) では、その讃文中に「得意之人よ、之を察すべし」という、まさに祈りともいえる一句も見えています。
 私は、今日残っているおまんだらの数に比して、当時身延の宗祖から各地の門下檀越に対して送られた総数はかなりの倍数にのぼる多さだったと思いますが、しかし、その相手はけっして弟子檀越のすべてに、あるいは望まれれば誰にでもというわけではなく、授与の相手と状況は厳しく選別されていたことがうかがえます。
 前の『阿仏房御書』(一一四五頁)には「子にあらずんばゆずる事なかれ。信心強盛の者に非んば見する事なかれ」とおまんだらの取り扱いの用心を語られていますし、また房州の領家の新尼と大尼との二人からおまんだらを望まれたときには「領家(大尼)はいつわりをろかにて、或時は信じ、或時はやぶる不定なりしが、日蓮勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき」(『新尼御前御返事』八六八頁)として、新尼には授与を許しましたが、とうとう大尼にはそれをお許しにならなかった、というようなこともありました。
 また、おまんだらの守護救済については、『妙法曼荼羅供養事』(六九八頁)に、「此 の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文也。冥土にはともしびとなり、死出にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船也。成仏得道の導師也」といい、『妙心尼御前御返事』(一一〇五頁)に「をさなき人の御まほり(守)さづけまいらせ候」、『日眼女釈迦仏供養事』(一六二三頁) に「御守書きてまいらせ候」といって、おまんだらに「お守り」としての功力のあることを表明しています。より具体的なお守りとしてのおまんだらの実例もあります。建治二年(一二七六)八月十三日と十四日にわたって、亀若、亀弥(?)亀姫の三人に与えられた同型式三幅のおまんだら(本尊集38・39・40)には、被授与者の名前に付してはっきりと「護也」の字を読み取ることができるのです。[図版13]
 しかし、おまんだらの受持の在り方としては、ここに宗祖によるより高度の指導の一例がみられます。それは前にも挙げた『新尼御前御返事』(八六七頁)ですが、「此の五字のおまんだらを身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給ひぬ」とあります。ここには「己心の本尊」ともいうべきでしょうか。おまんだらを、単に形式的に身体に携帯するだけではなく、その信仰の意味をしっかり心に受持することの大切さを強調しているのが注目されます。
 おまんだらの大きさが大小さまざまであることも、被授与者の環境により実践の目的が異なっていることと対応していることを推測されます。因におまんだらの大きさは、小型のものは料紙一枚(約タテ五〇×ヨコ三〇センチ程度)のものから、それを貼り合わせて二・三・四・六・八・十・十二・十八・二十・二十八枚継ぎのものまであり、三枚・十枚継ぎ相当の絹布に認められたものもあります。現存の最大は二十八枚継ぎ(タテ二三四・九×ヨコ一二四・九センチ、本尊集五七)です。比較的小型のおまんだらは檀越個人に与えられ、大型のおまんだらは弟子の伝道活動に提供された状況を看て取ることができると思います。
 また、日興上人には『本尊分与帳』というのが残されていますが、これは日興上人を通して配布された宗祖ご真蹟のおまんだらの行き先のリストで、配布先は僧一六名、檀越四八名、計六四名となっています。これによっても、お弟子たちを通じておまんだらが教線の拡大と維持に役立っていたことがわかります。
 このように、おまんだらの本質が法華経の深遠な縁起観である一念三千説をより具象的に説く法門であることを前提とするとき、宗祖のおまんだら受持の在り方の指導はけっして万人に一様の説き方ではなく、微妙な相手の機根や環境をよく見極めた、きわめて個別性の高い臨機の対応であったことがわかります。そこには、そもそも宗祖がおまんだらを本尊となさったことの意義、すなわち本尊とは何か、の本質も見えてくるような思いがいたします。

九、おわりに ─ 宮沢賢治とマンダラの秘密 ─

 本日のお話の最後に、宮沢賢治のマンダラの世界について、すこしご紹介させていただきます。
 私はいつのころからか、宮沢賢治の作品と人に何か魅かれるものを感じていたのです が、自分でもその理由がよくつかめないままにずっと過ごしてきました。かの有名な「雨ニモマケズ」はともかくとして、それ以外の詩についてはいつもその言葉づかいの難解さに閉口していましたが、しかし、何か気にかかるという感じです。とくに、彼と宗教との関係については、まあ法華経のシンパだ、という程度にしか認識がありませんでした。
 ところが、本日お話しました宗祖のマンダラ観に気がついてから後のことですが、ある日突然に、宮沢賢治という人物も宗祖のおまんだらに深い関心をもっていた事実に気がつきました。自分にとってそのときの驚きは、実際に驚愕というほどの大ショックだったことを忘れることができません。その後、改めて彼の詩も童話もその全作品を、彼のマンダラの世界を念頭に置いて点検してみて、いまや私は、宮沢の文学的感性、ひいては宗教的感性の「すごさ」ということに改めて感動していることを申しあげたいと思います。
 私が宮沢賢治のマンダラ観を知った驚きの出会いというのは、たまたま、彼の遺品だという「雨ニモマケズ手帳」(例の「雨ニモマケズ」の詩が書きつけてあったから、そう呼ばれている手帳。晩年の宮沢が昭和六年(一九三一)十月上旬から、同年の年末か翌年初めまで使用したものと推定されている)というのを見ていたときに、その「雨ニモマケ ズ」の詩の次の頁に、一見して日蓮聖人のマンダラとわかるものが載っていることに気がついたのです。
 もちろん、それまでにもその詩だけは何度も眼にしていたのですが、そのときのように手帳そのもの(といっても、もちろんコピー)で見たのは初めてでしたから、詩の後にマンダラが付いているなど全く知りませんでした。そうなのです。そのマンダラは、まさに「雨ニモマケズ」の詩に付いているもので、というよりも詩はマンダラと一体で味わうべきもので、いわばマンダラの心を詩の形式で表現したといえるものだと、そのとき私はようやく気がつきました。
 そして、その場であらためて手帳全体を確かめたのですが、手帳には頁はとびとびですが、次に掲げるように五か所にわたり、宮沢自身が描いたマンダラが見つかったのです。その中のマンダラ二が「雨ニモマケズ」に付いているものです。

マンダラ一(手帳四頁)





マンダラ二(六〇頁)











マンダラ三(一四九頁・一五〇頁)








マンダラ四(一五三頁・一五四頁)







マンダラ五(一五五頁・一五六頁)









 もうすでに本日の皆様はお気づきのように、これらは一点一点の相貌が異なる宗祖のおまんだらのバリエーションなのです。具体的には、宗祖のおまんだらの中には例の見られない、宮沢がその精神を受けとって書いた、彼自身のマンダラなのです。実際、宮沢は終生国柱会の会員でしたから、そのとき病床の彼の枕元には田中智学師が臨写したという宗祖のおまんだらが掛かっていましたが、けっしてそれを写したというものではありません。
 彼のマンダラは、いわば宗祖のおまんだらの形式でいえば、その中心部分を抜粋したごく簡略形ですが、五点のマンダラの内容や配列において、一点も同じものがないのです。そのとき私は感じました。宮沢は、手帳に自ら描くマンダラを通して、何か彼の重大な意志を伝えようといると。ここには、宮沢が伝統的なマンダラに対する理解にとどまらず、すでに彼の境地が宗祖のおまんだらに通じ、さらに独自のマンダラ世界を開くに至ったことを証明するに充分なものがあると、感じました。
 このことがあって、私は改めて「宮沢賢治全集」はもとより、最近は彼の周辺にいた家族や友人も皆さんもいっぱい彼について書いていますから、それらを買い集めて、彼のマンダラ観すなわち宗祖のマンダラ観でもって、彼の全作品そして全行動を洗い直したのです。(この場合も私は、膨大な量となったデータをKJ法でまとめました)
 その結果私は、宮沢が実にふかく宗祖の一念三千のマンダラの世界観を理解し、そのマンダラ観を通して自分の周辺の自然や生活の中に感じとったマンダラ世界を、詩や童話の文学作品に表現したのではないかという結論を得たのです。さらに彼は、終局的には彼の人生そのものをマンダラに同化させるという生き方をとったと思います。自分自身が、マンダラを実践した人だと思うにいたりました。
 しかし、これが一般の多くの読者の誰にも気づかれることなく今日に至ったのは、宮沢自身が、つとめて作品の上から仏教のテクニカルタームを遠ざけ、あるいは、よしんば用いることがあっても直接的ではなく、何らかの脚色を施したのち用いているからだと思います。ましてマンダラについては、これを彼の創作の秘密として、外の鑑賞眼からは意識的に隠したことが考えられます。
 しかし、それでは彼は自分の創作活動や人生におけるマンダラの存在(すなわち彼にとっては、そのまま法華信仰の実践であったわけですが)を、生涯誰にも知らせず徹底的に隠し通すつもりだったのかといえば、けっしてそうとも考えられないのです。
 その証拠には、彼は多くの作品のあちらこちらでマンダラの存在を容易に推測させるシグナルを読者に送っているのです。それは詩においても、童話においても、なのです。 きっと、彼は誰かに気づいて欲しかった、マンダラを理解する人に読み取って欲しかったのだと思います。先ほどご紹介した彼が書き遺した手帳のマンダラもその一つです。
 私は、宮沢賢治の作品と人についての理解には、そのキーワードとして「マンダラの思想と実践」という視点が欠かせないことを、確信をもって提案するものです。疑いなく彼は、宗祖がおまんだらに託したメッセージ(すなわち、末法救済のいのり)に気づいたのだと思います。そして、それを彼の創作活動と人生の現場において実現すべく必死で努力したのだと思うのです。
 しかし、はたして宮沢賢治に対する社会的評価はまた別でしょうし、本日はこれ以上お話する余裕もございませんので、問題の所在を指摘するだけに止めておきます。
 本日は、長時間にわたり私の話をお聞きいただき有り難うございました。衷心より篤くお礼を申し上げます。
(了)


(参考文献)
拙稿「日蓮聖人における大曼荼羅の図法とその意義」
  (『日蓮教学研究所紀要』二一、一九九四)、
拙稿「宮沢賢治のマンダラ世界─その文学と人生における表象─」
  (高木豊・冠賢一編『日蓮とその教団』吉川弘文館、一九九九)
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