微熱を持った都市が動き始めている。都市の深い奥底で微動が始まっている。都市だけではない。人の心の中でも得体の知れないカオスが唸りを上げはじめている。田口ランディはモザイクの都市にアンテナをはり、それを感じ、その得体の知れない大きなもののコンセントに自らのプラグをつなぎ、私たちに投げかける。「どうして気が付かないの?ほらこんなに熱くなっている」同じように空気の変化に敏感な若者が、渋谷で新宿でプラグを差し込み始めている。見えない大きなものに気が付き始めている。もうまもなくやってくるその時代を、霊性の時代と呼ぶのか、霊魂の時代というのか。いずれにせよ、鎌倉時代以降、初めて体験する宗教改革の時代がやってくる。過去の事象を越えた大変動。いまだ誰も予想のつかない、新しい形、新しいスタンスの宗教が、いや、宗教とかでくくれるものではないものが、今、生まれようとしている。「人は死によって再生する。そう思えた。死が生と同義であるなら、死者もまた生者と同義なのだ」(アンテナ)「人間にとって死とは何か、は科学では解明していないんだ。そんな不条理なものを自我に押し付けても合理的に処理できるはずがない。だから人間は、神話や、夢や、黄泉の国や、神を生み出し続けてきたんだもの。・・・人間の心は自分で自分を癒すことができる」(コンセント)「世界で二つのことが始まる。ホツレとムスバレは同時に起こる」(モザイク)でも決して暗黒の時代が来るのではない。絶望の時代が来るのではない。田口ランディは言う。「私たちが生まれてきたのは苦しむためじゃない。もっと別の意味があるはずだ。世界はでたらめで、むちゃくちゃで、謎ばかりだ。あんまり謎すぎて怖かったけど、本当は怖がることなんてなかったんだ。うまくやれる。きっと。でたらめでいいじゃない。毎日、価値を作って、毎日壊せばいい。毎日新しく関係して、毎日別れればいい。何をやっても調和している。だって世界はモザイクなんだから」そういう時代の生き証人に私たち僧侶はなるのだ。しかも、主人公として。そう、私が、そしてあなたが主役なんだ。朝日はすべて平等にあたる。
【互井 観章】
『世界が終わっても 気にすんな 俺の店はあいている』
|
作者は強烈な個性の持ち主である。彼はいつでも「自分を褒め讃える作品しか作らない」。しかし、その作品はどれも、ものすごいエネルギーに満ちている。自己中心的で、強気な言葉があふれる彼の詩は、文学とか芸術とかいう範疇にははまらないかもしれない。でも、他の誰がこんなこと言えるだろう。そして、他のどんな言葉にこれほどの力を感じることができるだろう。
咲かせてみよう
俺はむじゅんすることに
生きがいすら感じる
それが俺の
おもしろ味ってやつさ
俺はむじゅんしてないか?なんて
考えた事もないぜ
むしろ
ちゃんと俺は
むじゅんしてるか?の方が
気がかりだったりする
俺は俺の中のむじゅんに
しっかり水をやるんだ。
ホンマにカッコエエ花を
咲かせるためにね
太陽の光だって
いっぱいに浴びさせる
枠からはみださないということは協調性か?常識や規範にしばられることが社会性か?「いい子」でいることは本当に大切なことなのか?そうして生きてきた私たちは、今になって「本来の自分」なんていう言葉を聞くと、逆に自分が見えなくなり、とたんに不安になってしまう。矛盾を感じた時に、自分の中の矛盾としっかり向き合うことができるだろうか。人と違うことを極端に怖れたり、平等を必要以上に強調したりする風潮のなか、彼のような自信たっぷりの人間はとても新鮮に思える。そして、そんな彼の言葉にはとても勇気づけられるのである。
ギズモカカ
自分が
幸わせになれるか
どうかが
第三者次第で
決まるような
そんなくさった生き方を
俺はせん。
ギズモ カカ!
私は嫌なことがあったり、不安なことがあると、彼の本を開く。彼は自分のことしか書かない。それなのに彼の言葉に励まされたり、慰められたりする。彼の言葉には彼の魂がみなぎっている。日本では古来よりすべてのものに命が宿っていると考えられてきた。言葉にも命がある。彼の言葉はまっすぐで力強い。人に頼ることと、人のせいにすることは違う。信頼することと、依存することは違う。私もまっすぐ強く生きなければと思う。妻として、母として、一人の人間として。
輪廻
俺は俺の生まれ変わりや
【及川 暁子】
毎度のことながら新刊本でない(一九八二年刊)ものをご紹介することをお許しいただきたい。
本書は韓国政府の文化大臣も歴任した著者が、日本と韓国の文化の違いを比較しながら日本を論じた比較文化論である。著者の軽妙な語り口で楽しく読めて、且つその豊富な知識と鋭い分析によって、私達に改めて自分の国の文化を見つめなおす機会を与えてくれる素晴らしい本である。
著者の言う縮み志向とは、日本的な特性が、何につけても事物を拡大するより縮小することにあるという意味である。なるほど私達は大きなものを小さくすることが大好き、または小さな中に大きさや雄大さを表現することに美を見出す傾向が強い。身の回りを見渡せば縮み志向が溢れかえっている。省略語の基本「こんにちは」の挨拶をはじめとして、扇子、正座、一寸法師の物語、俳句、盆栽、日本庭園、茶室、仏壇、折り詰め弁当、ウォークマン、最近で言えば携帯電話やノートパソコンの急速な普及などなど。本書ではそうした様々な縮み志向の具体例が分類列挙され、それらを通して日本の文化やその心が分析されている。読んで納得。改めて日本の文化や感性を学ぶことができる。
ところで、本書の最後の部分で著者は日本人の縮み志向の問題点を挙げている。特に「心」の縮み志向に対して警告を発している。著者によれば日本人の心の縮み志向は「ウチ」と「ソト」の意識となって現れているという。日本では何事につけてもウチとソトが比較的はっきり意識され、且つ重視される。「身内」とか「村八分」などの言葉からもわかるように、内側にいること、そしてその秩序を乱さないことが大切にされる。和を持って貴しとされ、出る杭は打たれるのである。世界と日本という視点で見た時に、日本はウチに対して非常に敏感だがソトに対してはかなり鈍感であるという。外交においては、こうした感覚が原因で広いソトの世界でどう振舞うべきかがわからなくなってしまう点が指摘されている。それが、自分勝手だとか何を考えているかわからないなどと諸外国から言われてしまう原因であるとする。
ウチ側の人間だけで小さくまとまり、ソトの世界には通用しない独特の論理で行動し、満足する。広くて大きいソトの世界は、怖いし不安だから敢えて出て行くことはしないし、積極的に関わることもしない。ウチには敏感、ソトには鈍感。言われてみると、確かどこかの伝統宗門もそんな風だったような…。耳の痛い話として思わずわが身を振り返ってしまうのは、決して私だけではないはずである。
【戸田 了達】
十七歳の時、何にむかついていたかを考えるとね、今にしてみればたわいもないことにむかついていたんだなぁと思う。ほんとにささいなことにむかついていた。だけど、いまもあんまりかわんないなぁとも思う。むかつくことは今もあんまり変わっていないような気がする。自分との付き合い方を覚えた分、楽にはなっているけれど。思春期に抱えた問題というのは後をひくと思う。結構同じものの周りをぐるぐる回っているだけかも知れない。おなじものが手を替え、品を替えやってくるだけじゃないのかなぁ。そういうふうに考えると人間なかなか、進歩しないものだなぁとしみじみしてしまう。普段はそんな事忘れて大人のふりして、えらそうなことを言っているけど、結構その問題を解決する為にじたばたしているんだよね、夏休みの宿題を抱えた子供のように。
田口ランディさんはたくさんの宿題を抱えた子供のようなんだな。いろんな宿題を解こうとじたばたしている。いつも宿題の事など忘れ遊びほうけ結局やらなかった僕には、すごいなぁと思ってしまう。ひきこもりの末亡くなった兄や酒乱の父の事や少年少女の事件の事等様々な事について彼女はこの本で語るんだけどね、それは決して他人事を批評して語るのではなくて、それらを自分の宿題を解く為に彼女は語るのである。いろんなものを題材にして自分の宿題を解いている彼女の姿を見ると自分も夏休みが終わる前には自分の宿題を解かなきゃという元気が沸いてくる。秋になる前にがんばらなくては。
【神蔵 寿観】