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今成元昭先生の所説に対しての論談話 ←前次→

摂折論議の反響@
寄稿論孝

今成元昭先生の所説に対しての論談

大賀義明

 本紙第十号に掲載した記事・教師研修会報告「日蓮聖人の摂折観をめぐって」の反響として、大賀義明氏より寄稿論考の申し出が当センターにありました。大賀氏は在俗にあって日蓮教学の研鑚を続けている研究者ですが、今成元昭先生の所説に対して是非とも反論を試みたいとのことで、本紙としてもこの摂折観をめぐる論議が本格的な論争の段階に入ることを希望していたこともあって、掲載を約束しました。届けられた論考は、これまでの論議の経過を踏まえて「折伏」の立場から全面的な反論を加えて、論争を挑む内容となっています。
 また、松山市の清水直之氏からも感想が寄せられました。今回の摂折論争について独自の観点から論評されておられたので、御了承を得て掲載させて頂きました。有り難うございました。
 摂受か、折伏か、この論議は、たんに布教手段の相違のみならず、布教の原点を再確認するための、立教開宗七五〇年に実に相応しい本質的な問題だと思います。今成先生の所説をめぐる今回の大賀氏の反論に対しても、また多くの反論・御意見が読者の皆様から寄せられることを期待しています。
(編集部)

 一、はじめに

 当『教化情報』の第十号に掲載された今成先生の『日蓮聖人の摂折観をめぐって』という文章を読み、非常に残念な気持ちで一杯になりました。二年前にも『統一』誌上で「日蓮聖人は折伏を本懐とされていなかった」、「聖人滅後に、折伏主義者に仕立て上げられたのである」旨の今成先生の文章を読んでおりましたので、先生のお考えの概要については知っていました。今回の貴誌第十号を読む限り、先生のお考えは全く変わっておらず、またこの問題が日蓮宗内で、宗学の先生も巻き込んでの論争になっている様子も窺い知ることが出来ました。
 私は日蓮宗とは関係のない立場に居る在俗の法華信者ですが、大聖人御門下の一人として当誌に掲載された先生の考えについて反論したいと思います。公平な立場で私の反論掲載を快諾下さった編集部に御礼申し上げます。また国文学の分野では高名で業績も残されている今成先生には特別な感情を持ち合わせていないことをはじめに申し上げておきます。

 二、所論の骨子

 今成先生の主張されることの結論は、「聖人は仕方なく折伏的実践をされたが、それは決して聖人の本懐ではない。聖人の本懐は摂受であり、立宗七五〇年を迎える今日、いままでの折伏路線を改めないと他宗から取り合ってもらえなくなる」ということのようです。その論拠のポイントは以下の七項目にまとめることができると思います。
(1)折伏とは、「受難を怖れぬ常不軽菩薩の礼拝行」のごときものではなく、悪口雑言を含むものであり、物理的な暴力も辞さない強引な布教方法である。宗門の先師の中には、他宗・他門に対して「悪口に類する」ことを書く人がいた。他宗から「取り合ってもらえない」要素が日蓮宗にある。
(2)『開目抄』の流布本には「常不軽品の如し」の一句があるが、これは滅後に追加し改作されたものであり、御真蹟に同句はなかったと思われる。大体聖人は「常不軽」という表現は決してなされない方であることからも不自然さを禁じえない。真蹟の『開目抄』にこの一句がなかったとすれば、「不軽行は折伏行である」ことを定義する文証とすることは出来ない。
(3)折伏主義の文証として取り上げられる『如説修行抄』は偽書と思われる。従って同抄も折伏主義の文証にはならない。
(4)聖人は摂折問題をそれほど重視していなかった。そのことは摂折に関する遺文数が少ないことでも明らかだ。『開目抄』と『転重軽受法門』とでは、「悪国」に当てはめる「摂受」と「折伏」が逆になっていたり、摂受・折伏の言葉が出てくる御書は全て依智から佐渡時代のもので、その後は全く出てこないこと等を考えても、摂・折は聖人にとって瑣末な問題であったことを裏付けている。
(5)折伏という化儀だけが重要ではなく、摂受も大切な行である。勝鬘経に「摂受正法」をさかんに説いていることからも論証することが出来る(摂受の五十五回に比し、折伏は三回使用されている)。聖人の摂折観は、その勝鬘経を「中心に」おいていることは、真蹟断簡に勝鬘経の「勝鬘経云く、摂受折伏」からみて明らかだ。
(6)結論として、聖人は「本懐は摂受」であったが、周囲の状況から「折伏的実践」をせざるをえなかった、ということである。日蓮宗立教の立脚点が、本来的に武力行使を是とし、悪口も罵倒も悪くはないという折伏に根ざすものであるならば、異教徒との対話、宗教共同体といっても歯切れの悪いものになってしまう。
 大体このようにまとめることができると思います。

 三、反論

 1、不軽行は折伏行である
 聖人は「不軽行は折伏行である」と断定されているのか、という問題について論じます。
 もし「不軽行は折伏行である」と大聖人がはっきりとお示しになっていれば、「不軽の跡を継がれた日蓮」は折伏を行じられたということがハッキリします。今回の摂折論争を解くカギはここにあるといっても過言ではないでしょう。私は一つの文証を以って聖人が折伏を本懐とされていたことを以下に明らかにしたいと思います。
 『開目抄』で摂折を論じられた際に、天台大師の『法華文句』の「適時而已(時に適ふのみ)」、章安大師の『涅槃経疏』の「取捨得宜不可一向(取捨宜きを得て一向にすべからず)」、の語を以って判じられていることはご承知の通りです。この両語は摂・折の時を決択する言葉です。『撰時抄』にも、この両大師の同じお言葉を引用して摂折を論ぜられています。少々長いですが引用します。
 「問うて云く、機にあらざるに大法を授けられば、愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕つるならば、豈に説く者の罪にあらずや。
 答へて云く、人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう、病人嫌ひて服せずして死せば、良医の失となるか。尋ねて云く、法華経の第二に云く『無智の人の中に此の経を説くこと莫れ』。同じき第四に云く『分布して妄りに人に授与すべからず』。同じき第五に云く『此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り。長夜に守護して妄りに宣説せざれ』等云云。此等の経文は、機にあらずば説かざれというかいかん。
 今反詰して云く、不軽品に云く『而も是の言を作さく、我深く汝等を敬ふ』等云云。『四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈して言く、是の無智の比丘』。又云く『衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲す』等云云。勧持品に云く『諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん』云云。此等の経文は、悪口罵詈乃至打擲すれどもととかれて候は、説く人の失となりけるか。
 求めて云く、此の両説は水火なり。いかんが心うべき。
 答へて云く、天台云く『時に適ふのみ』。章安云く『取捨宜しきを得て一向にすべからず』等云云。釈の心は、或時は謗じぬべきにはしばらくとかず、或時は謗ずとも強ひて説くべし。或時は一機は信ずべくとも万機謗るべくばとくべからず、或時は万機一同に謗ずとも強ひても説くべし」
と妙判されています。
 つまりここでは譬喩品、法師品、安楽行品を以って摂受の行を表し、勧持品、不軽品を以って折伏の行を示されています。法を説いて謗られた場合には、即座に説くことを止めるべき時(摂受)と、また謗られても止めずに説き続けるべき時(折伏)の、水火の如き違いのある「両説」がある。それは時により選択すべきなのだ、と両大師の釈によって摂折を決せられているのです。「摂受」、「折伏」という言葉は使用されていませんが、「適時而已」、「取捨得宜不可一向」の用語を使われていることから、摂受・折伏を論じた箇所であることは間違いありません。
 その中で折伏行として不軽品の「而も是の言を作さく、我深く汝等を敬ふ」、「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈して言く、是の無智の比丘」、「衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等の文をあげられ、従来の世間通途に「折伏」と言われている身業の「涅槃経の折伏」から、忍難弘經の口業正意の「法華經の折伏」への、折伏観の転換を見ることが出来ます。もちろん従前からの典型的折伏、つまり身儀に約した涅槃経の折伏を否定されていないことは、『観心本尊抄』の摂折現行段にある「賢王と成りて愚王を誡責」や、弘安に再治された『立正安国論(広本)』の謗者に対しての「速かに重科に行へ」の文、『種々御振舞御書』の「建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頸をはねよと申す」等に明らかです。しかしこれら身業の折伏(典型的折伏)は、在家の為政者に与えられた役職上の権限によって実行されるべきもので、僧形の聖人の採られるところではありません。
 先生の文章を読んだ多くの方が感じたと思いますが、先生は「折伏」と「シャクブク」を混同されています。「折伏といったら罵倒や暴力がつきものです。言説でいえば罵倒のない折伏はないし、行動としては武力を伴わない折伏もないわけです」、「折伏は武器を持つことも良いし、相手を罵倒することも良いんです」と決めつけています。先生は摂・折の定義について『望月佛教大辞典』を参考にされているようですが、他宗権門の学者の書いた辞典で、本化上行の折伏を論じるから意見が噛み合わないのです。某教団が「シャクブク」と称して暴力的な布教活動を行ったために、「シャクブク」という言葉からはマイナスイメージを連想される人が多いことは知っています。しかし羹に懲りて膾を吹いていてはいけません。まず本当の本化の折伏とはどういうものなのかを真面目に考えていただきたい。巷間に喧伝されている「シャクブク」と日蓮聖人の折伏とは同じかどうかを糺し、間違っていればそれを正していくことが御門下の、ことに僧侶の勤めです。他宗権門からのウケが悪い2ゥら折伏というレッテルを剥がそうという考えはあまりにも随他意の立場に深入りしすぎているように感じられます。佛立講の長松日扇師の御教歌に、「義は強く こと(言)やはらかに身を下る これぞ不軽の折伏としれ」という一首があります。言うべきことはキチンと言い、しかも言葉遣いは丁寧に、相手に尊敬の念をもって正義を説くこと─、これが不軽流の折伏です。ガンジーの非暴力主義にも似た、不軽菩薩の折伏逆化の弘經方法こそ多くの人の共感を得る布教方法だと思います。
 まず第一として、『撰時抄』に天台・章安の釈を以って御自身の不軽流折伏の正当性を論じておられる文証のあることを指摘しておきます。

 2、「常不軽」のある御真蹟
 先生は、不軽行が折伏であるということは「妙楽湛然」が言い出したことであり、日蓮聖人滅後に門下が、「紹継不軽跡」の聖人を折伏主義者に仕立て上げるために湛然流解釈を取り入れ、その過程で『開目抄』へ「常不軽品のごとし」の一句を追加するという「改作」が行われた、と推論されています。「湛然流解釈」とは『文句記』の不軽・安楽の十別や『止觀義例』の「折伏逆化」という定義を指されているのだと思います。
 一体御門下の誰が「仕立て上げた」のでしょうか。御書改竄の犯人に「仕立て上げられた」先師も気の毒です。もし折伏主義者に「仕立て上げた」のであれば、初期教団の中で誰か一人くらいは「折伏主義は聖人の本懐でない。摂受主義に方向転換すべきだ」と主張した六老僧や中老僧は居たはずです。しかしそのような話は聞いたことがない...。もちろん御在世中に「我等はやはらかに法華経を弘むべし」と主張して門下から離れていった者は居ました。しかし滅後の教団は日蓮聖人という大黒柱を失い、極力弾圧を回避するために折伏主義を撤回する方向に流れるのが普通と思われます。私はわざわざ弾圧を招来するような、「折伏主義者を仕立て上げる」理由を見出すことができません。何故折伏主義の大旆を下ろさなかったのか。答は明快です。大聖人から朝夕に教えられた「末法は折伏」という筋を、先師達が懸命に守ってきたからに他ならないからです。私は先生にご注意申し上げたい。ただの推論で先師を貶めることは厳に慎むべきことです。今の時代ならさしずめ名誉毀損でしょう。
 先生は『開目抄』改作説の根拠を、他の真蹟遺文にない「常不軽」という表現をされている点をあげられています。確かに「不軽品」「不軽菩薩」の表現が多いことは事実ですが、それをもって「常不軽という言葉を使わない方」と判断されたのは早計と思われます。「常不軽」を使用された真蹟御遺文は現存しています。先生は京都・妙傳寺に格護されている昭和定本の二九七六ページの『断簡三二一』、「天台より以て東。日本より以て西。一切仏子、悉く皆判して邪見の徒に入る。若し途を改めざるは常不軽著法の如し」をご存知ないのでしょうか。それとも御真蹟とお認めにならないのでしょうか。あるいはこの御文章は天台の先師の要文断片であるとみなされているのですか。この問題を決せられてから「常不軽という言葉を使わない方」と断ずるべきでしょう。
 また先生は「短い文章のなかに『安楽行品のごとし』『常不軽品のごとし』『火をこのむがごとし』と、『ごとし』が三つも続くような不整合な文章を日蓮聖人は書かれない」と以前から主張されていますが、聖人は文学者ではありません。樗牛に絶賛された『開目抄』自体、『ごとし』が三回も繰り返された流布版です。聖人の文章の名文たる所以を、修辞的な技巧に求めても意味はありません。開目抄は、そんな美文の概念を超越しているのではないですか。先生が『現代佛教』で、「開目抄なんて、のたうちまわっている文章です。こうじゃないか、ああじゃないか」と書かれた文章を拝見したことがあります。ご専門の文学的な立場から拝読すると整然としていない文章になるのかもしれませんが、聖人は所謂美文を書く必要はなかったのです。私は「常不軽品のごとし」の一句が摂折を決する唯一の資料とは思いませんが、小川泰堂居士の明治五年四月九日の御真蹟拝見による不審箇所の校正、並びに稲田海素師の明治三十五年六月七日の乾師本と高祖遺文録との校合に信を置いており、「常不軽品のごとし」はあったと考えています

 3、『如説修行抄』偽書説の根拠は薄弱
 先生は五箇の理由をもって『如説修行抄』を偽書とされています。@摂・折の用語の使い方が他の真蹟遺文と違う、A「法華折伏破權門理」という天台の釋を引用しているが、この句は他の真蹟御書では引用されていない、B『山林隠棲』を摂受の故に否定的に扱うことは他の真蹟遺文にない、C「如説修行」という他の真蹟遺文にない言葉が多用されている、D文体が軍記物調である、とB以外の四点は用語上または表現上の問題を取り上げています。
 私は同抄を文学的にも、また文献学的にも研究しておりませんので真偽の問題に立ち入って論ずることは出来ません。ただ信仰の立場から感じていることだけを述べさせていただきます。
 @について先生は、「日蓮聖人は、摂受と折伏という語を、一双で使う。片方だけをたくさん使うということは無い、ということが分ります。そうすると逆に一方的に折伏、折伏といっている御書は怪しいぞと、疑わなければならない」と言われています。私が思うに、遠流の佐渡の地から、鎌倉教団の御門下に折伏主義の号令をかけた御抄に、摂受より折伏という用語が多用されたとしても、それは当然ではないでしょうか。その時々に、必要に応じた表現をされたとしても不思議でもなんでもないと思います。
 またAの「法華折伏破權門理」の句が他の御抄で引用されていなかったとしても別におかしくないと思います。この「法華折伏破權門理」という言葉は法華經の教理・法体の優位性を論じる点に主眼を置いているために、この釈よりも法師品の「法華最第一」や無量義経の「未顕真実」の金言をストレートに使用されることが多かったのではないかと思っています(これは愚案ですが)。
 B『山林隠棲』の箇所は、「法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭りて、摂受の修行をせんは豈に法華経修行の時を失ふ物怪にあらずや」のことを指しているのだと思います。この御文章は「山林隠棲」なることをもって否定的に扱っているのではなく、時期を無視した修行、つまり折伏の時に摂受を修することについて批判されております。『開目抄』の、「設ひ山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」という御文、定本一七八『一谷入道御書』(真蹟鷲山寺等蔵)の「不軽菩薩は法華経の御ために多劫が間、罵詈毀辱・杖木瓦石にせめられき。今の釈迦仏に有らずや。されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや。今の世には法華経はさる事にておはすれども、時によて事ことなるならひなれば、山林にまじわりて読誦すとも、将又里に住して演説すとも、持戒にて行ずとも、臂をやひてくやうすとも、仏にはなるべからず」という御文は同趣旨にあたります。従ってこのBも偽書の理由にはなりません。
 C他の御書にない「如説修行」という言葉が多用されているという点も、ご存知のように「如説修行」という言葉は聖人の造語ではなく法華經の言葉です。法華經の言葉なら引用してもおかしくないと思います。先生は、別の論文(『日蓮の用語をめぐる一問題』)に如説抄を偽撰とする理由について、「法華經に『聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿彌陀仏』(薬王菩薩本事品)とされている『如説修行』の語句を日蓮が用いる筈はないし、事実としても、引用原典(注:如説抄のこと)中のものを除けば親戚遺文に全く見られないところのものなのである」と書かれています。阿弥陀仏が登場する箇所で使用された言葉を聖人が使用されるはずはない−と言いたいのでしょう。しかし薬王菩薩本事品は還迹本門で迹中の場で語られている話です。たとえ阿弥陀仏が語られていても不思議は感じません。阿弥陀仏と如説修行という言葉が併用されているからといっても、法華經にある言葉です。どうして大聖人がこのお言葉を嫌われる理由になるのでしょうか。ご承知のように「如説修行」という言葉は薬王品以外にも「無量義経」、「薬草喩品」、「随喜功徳品」、「如来~力品」、「陀羅尼品」、「普賢菩薩勧発品」にあります。特に本地虚空会の如来~力品で、五種の妙行に約して勧奨付嘱を説かれた段で使用されていることこそ注目すべきだと思います。これも偽書の理由にはなりません。
 D文体が軍記物だとのことですが、柔剛あわせもつ聖人の勇ましい面が表れた御妙判と拝しております。他の御抄と比して真撰の許容度を超えているとは感じられません。同じような表現は他抄にもあります。たとえば定本二四七『下山御消息』(真蹟小湊誕生寺等蔵)の「当御時に成りて或は身に疵をかふり、或は弟子を殺され、或は所々を追ひ、或はやどをせめしかば、一日片時も地上に栖むべき便りなし。是に付けても、仏は『一切世間・多怨難信』と説き置かき給ひ、諸の菩薩は『我不愛身命・但惜無上道』と誓ひたまへり。『加刀杖瓦石・数々見擯出』の文に任せて流罪せられ、刀のさきにかかりなば、法華経一部よみまいらせたるにこそとおもひきりて、わざと不軽菩薩の如く、覚徳比丘の様2ノ、竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者の如く、弥よ強盛に申しはる。今度法華経の大怨敵を見て、経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く、散々に責むるならば、定めて万人もいかり、国主も讒言を収れて、流罪し頸にも及ばんずらん」も勇ましい御妙判です。全体的に見て、先生の如説抄偽書説には同意しかねます。

 4、論じた御書の数で重要度が決まるのか
 前述の『如説修行抄』の摂・折の用語の使用法にせよ、法華折伏破權門理や如説修行という言葉にせよ、他の御書に同じ使用例がないものは偽書だというスタンスを採られています。しかし現存する御真蹟御書の中に、一箇所、もしくは一書のみにしか記されていない用語はたくさんあります。例えば、末法下種を論ずる上で最重要なタームにメ本門八品モがあります。この本門八品を表す「八品」という言葉は『觀心本尊抄』一書にしか登場しません。この法開顕の最重要御書がもし初期の段階で紛失し、写本すら残っていなかったら、八品所顕義は今に伝わらなかったかもしれません。
 別の例を出しましょう。「日蓮聖人は上行菩薩の応現である」という定義は、我々信仰者にとっては当たり前のことで、疑う人は居ないでしょう(今のところは...)。しかし現存する御真蹟の中でご自身の本地を上行と明示した箇所は私の知る限りでは、保田・妙本寺の『万年救護本尊』の御讃文、「後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」だけしかありません。古写本の現存する御書も含めれば定本二四九『頼基陳状』の、「日蓮聖人は御經にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師」(興師再治本)の御文をあげることができます。
 このように一書、または一箇所しか記述のない表現もあるのです。先生が仰るように、「摂折に関する遺文数が少ない。このことはそれほど摂折問題を重視していなかったことを物語っている」という論法は当てはまりません。宗義の重要度を判定するのに民主主義の多数決みたいな原則は通用しないのです。
 また『開目抄』と『転重軽受法門』の両抄にある「悪国」について、先生は、「『末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし』。ここには日本国の当世は破法の国だから折伏である、ということが確かにあるんですね。摂折問題を論ずる多くの方々が、必ずここを引用される。悪国ならば摂受でいいんだけれど、破法の国だから折伏ということが云われているんですけれど、これも、そのわずか半年以内、三、四ヶ月ほど前の『転重軽受法門』には、『世に悪国善国有、法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる』とありまして、これはこのままいけば、悪国が摂受で善国が折伏になってしまうわけですね、順序からいきますと。(中略)この頃の日蓮聖人はまだ摂受折伏ということはあんまり気にしていなかったということです」と述べておられます。
 この文章を拝見して正直愕然としました。この問題は田中智学先生が『本化摂折論』で、言葉は同じだが意味するものは違う、「名同体別(みょうどうたいべつ)」である、と結釈され、誰でもわかるように会通しておられます。なぜ今になってその箇所を未解決の問題のように持ち出されるのか。摂折問題という宗義の根幹に関わる大問題を論じる際に、先生は『本化摂折論』という必読文献を熟読されていないのではないかという疑念が頭をよぎったのです。たぶん失念されているのだと思います。再度、『本化摂折論』第二篇・第二章・第二節の「『転重軽受抄』の義門」をお読みいただきたいと思います。きっと納得いただけるでしょう。摂折問題は決して瑣末な問題ではありません。上記(1)で『撰時抄』を以って示したように、在々所々に摂折の問題を冥釈されています。

 5、勝鬘経の「摂受正法」の誤解
 「折伏だけでなく摂受も重要」ということは私にも異存はありません。ただしどちらを主(表)とするかは「時」による、という基本を押さえることが前提です。聖人が勝鬘経を参考にしていたことはわかりますが、「中心に」していたとは言えないでしょう。勝鬘経に「摂受正法」とあっても、その「摂受」の意味するところは「受ける」「受容する」という意味で、摂受・折伏を論じる場合の「摂受」とは意味が違います。これも「名同体別」です。この問題については伊藤瑞叡先生が『法華学報別冊 摂折論の新研究(上)』第一章「勝鬘経の摂折論」に、「『摂受正法』の摂受」と「『摂受折伏』の摂受」は原語・原意が異なるにもかかわらず、同一の訳語を以って漢訳されたことを論証されています。「摂受は五十五回も出ている、しかし折伏はたった三回しか出てこない」と主張されても、摂受正意の論拠にはなりません。

 6、情勢に応じての「折伏的実践」でははない
 先生は、「本懐と実践とをわけるとしたなら、本懐は摂受であって、ただその時々の情勢で強く折伏的実践をなさったんではないか」、また「今日殺されるか明日殺されるかという状況がありますから、どうしても折伏的にせざるをえなかった」と推測しています。「折伏的実践」とは何を表しているのでしょうか。「的」が入るとはいえ、先生の認識では折伏には罵倒や暴力が付き物だそうですから、聖人が武器や暴力で脅したということでしょうか。それとも暴力までは振るわないが四箇の格言という暴言によって他宗を排撃された、そのことを指されているのでしょうか。「折伏的実践」と「折伏」とはどう違うのでしょうか。概念定義が不明であり、かつ不快な響きを感じます。先生の所論では、「結果としての折伏」、つまり聖人の本意ではなかったが、他宗を排撃していくうちに、その弘通法が「折伏的実践」と定義付けられるものに結果としてなってしまった、と読めてしまいます。もしそうだとしたら大いなる間違いでしょう。
 定本二四九『頼基陳状』に、「世に恐れて申さずんば、我が身悪道に堕つべきと御覧じて、身命をすてて、去る建長年中より今年建治三年に至るまで、二十余年が間あえてをこたる事なし。然れば私の難は数を知らず、国王の勘気は両度に及びき」とあります。また定本七三『金吾殿御返事』(真蹟中山法華經時蔵)には、「人身すでにうけぬ。邪師又まぬがれぬ。法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行はれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候ひて、方方に強言をかきて挙げをき候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。いたづらに広野にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ、仙予・有得の名を後代に留めて、法華涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり」とあります。
 これらの御書を拝見すると決して「結果として折伏となった」ものでなく、はじめから意図的に折伏をされたことは明確です。言葉を換えれば、迫害を招来するためにご弘通に励まれたということです。先生が言うように、「聖人は折伏的実践をせざるを得なかった」のではなく、建長五年の立教の時から「折伏」の弘経を誓われ、その通りのご一生を歩まれたのです。決して諸般の事情によって「折伏的実践」となったのではないのです。

 四、最後に

 以上、先生にご納得いただくことを最優先にしたため、御真蹟を中心とした確実な文証にもとづいて論を進めてまいりました。
 最後に宗学の取組み方について申し上げます。先生は「御真蹟絶対主義」で研究されているようですが、この方法では聖人のご真意を十全に汲み取ることは出来ません。真蹟を重視して宗義研鑚することは言うまでもなく大切であり基本ですが、「真蹟絶対主義」であっては、これも一方に偏した立場です。写本にも、純粋な御真蹟の転写もあれば、自門誇耀のため意図的に作成したものもあります。また上古の先師が筆写した、信頼性の高い古写本もあります。七百余年という歳月の重みの中で、不幸にして散逸してしまった御抄は相当数あります。従って標準御書との比較、社会的・歴史的事象との照合、筆跡鑑定といった様々な切り口から真偽を見極めていくことが必要です。絶対主義では、正確な大聖人像を掴むことはできません。これが一つ。
 また、「言葉」の表層的な意味だけにとらわれていては、いつまでたっても摂折問題は解決しません。言葉の表面的な意味も大切ですが、それよりも言葉の裏にある全体の真意を探ることが大切です。それは釈尊の「依義不依語」の金言、天台大師の「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」の釈(文句九)、大聖人の「文にあらず、其の義にあらず、唯だ一部の意のみ」の御妙判(四信五品抄)にも明らかです。世間にも「木を見て森を見ず」という言葉があります。言葉の表層的な意味だけに拘泥せず、文章全体を通してその奥にある大聖人の御精神を捉えることに力点を置いて学んでいくべきでしょう。これが二つです。
 大変長い文章になりましたが思うところを率直に述べさせていただきました。私は、同じ大聖人御門下として、いつでもお会いしてお話をする用意がございます。その際は一対一で誠実にお話したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。南無妙法蓮華經。南無妙法蓮華經。


寄稿者プロフィール
大賀義明(おおが・よしあき)

昭和32年生まれ。東京都江東区出身。昭和56年明治大学政経学部卒業。在学中、橋川文三氏のゼミにて日本政治思想史を学ぶ。国内の精密機器メーカーにて生産管理、購買、物流業務に携わり、現在はソフト会社にてプロジェクト・マネジメントのコンサルタント業に従事。学生時代より仏教に感心を持ち、七百御遠忌の聖年・昭和56年に本門法華宗に入信し、浄風寺の信徒となる。
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