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新・曼陀羅逍遥 ←前次→

新・曼陀羅逍遥
畑 俊孝  

今回の逍遙の旅は建仁寺から。建仁寺は栄西が建てた京都最古の禅寺である。
方丈をめぐる石垣は建仁寺垣として名高い。大雄苑と呼ばれる方丈前庭は白砂に巨石を配した枯山水の庭園である。日本禅三宗の一、臨済宗建仁寺派の大本山。京都五山の第三位。山号を東山(とうざん)という。鎌倉時代の建仁2年(1202)の建立で諸堂は中国の百丈山を模したもの、年号を賜わって寺号とした。開山は栄西禅師(1141〜1215)開基は源頼家(1182〜1204)当初の寺領は加茂川の東、五条(現今の松原通)の北、一帯で閑寂な地域であったが、今は繁華街の都心に近い。創建当時は天台・密教・禅三宗兼学であったが、第11世大覚禅師(1213〜1278)のときから純粋の宋風禅の道場となった。「学問づら」といわれる室町時代の最盛期には学僧が輩出し、塔頭寺院は60余りを数えた。建造物は応仁・文明の兵火で荒れ、天文21年(1552)の大火で殆ど焼失した。現在の建物は大部分江戸時代以後に復興されている。寺域は22278坪、山内寺院14ヶ寺。

建仁寺を勅使門(銅板葺切妻造四脚門で重文。俗に「矢の根門」または矢立門といい、平重盛の館門を移建したもので門扉に矢痕があるという)から八坂通りに出て、左に曲がると八坂の塔が見える。そのまままっすぐ歩き、東大路を渡り坂道を登る。途中左の小路に源義仲の首塚があり、さらに坂を登ると八坂の塔の真下に出る。
 ここから清水寺へは八坂の塔を左に見て小路に行き、二年坂をのぼってくる観光客と合流して産寧坂をのぼる。参道の両脇には観光客相手の土産物屋が軒を連ね、清水焼きを扱う店も多い。清水寺の石段をのぼり、本堂へと向かう。清水寺の舞台から洛中、洛南方面を眺めるには、やはり櫻か紅葉の季節がいい。また、夕方にネオンが輝き始めた町を見下ろすのもよさそうだ。

 再び産寧坂に戻り、今度は二年坂のほうへ下ると高台寺に着く。高台寺は東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台聖寿禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長10年(1605)開創した寺である。寛永元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗を極めたという。
 しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で現在国の重要文化財に指定されている。

 次は少し離れて妙心寺へ。妙心寺の広大な境内には、勅使門、三門、仏殿、法堂が一直線上に並び、その横に経蔵、鐘楼などの諸堂が、そしてそれらを囲むように多くの塔頭が建つ。これは近世禅宗寺院の伽藍配置の典型であり、それらをほぼ完備した姿は、前回本誌に記した大徳寺とともに貴重である。
 南北朝時代の初頭、花園上皇がこの地にあった離宮を禅寺に改め、開山として関山慧玄を招いたのが、この寺の起こりという。

 上皇は山内に玉鳳院を開き、自身の住まいとする。以後、禅寺として興隆がはかられたが、応永の乱(1399)で、開創わずか60年ほどにして廃絶の憂き目にあう。当時の住職と、幕府と対立していた大内義弘との間に交流があったことが、足利義満の逆鱗に触れ、寺領、寺産はすべて没収。一時は寺名も変えられてしまう。
 しかし、30余年後には復興がはかられ、日峰宗舜によって、細川持之の支援のもとに中興される。その後も持之の子、勝元の援助を受けて寺は隆盛に向かうものの、応仁の乱の兵火によって焼亡。しかしこのときは、ほどなく勝元、政元親子の援助を受け、また後土御門天皇の勅使も得て再興する。永正年間には、大徳寺の末寺的な位置づけから脱して、名実ともに独立した禅寺となっている。


 その後、衰退する五山禅をしり目に、臨済禅の主流として伸長。慶長19年の方広寺大仏殿の鐘銘事件で、105世海山元珠が豊臣氏を弁護したため、家康の怒りをかい、江戸初期には苦難も経験するが、寺勢は衰えることなく、有力諸大名の外護を受けるなどしてますます隆盛した。
 現在も、本坊の建物のほとんどは江戸初期のもので、主要建物はすべて重文の指定を受けている。山内塔頭は現在47ヶ寺。
 
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