ロータス・コラム
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─自爆テロと世界のパレスチナ化─
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澁澤 光紀
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世界が変ったのか、世界の見え方が変ったのか。世界貿易センタービル崩落の映像がTVで何度も繰り返し流された以後、「戦争」は世界の常識になったかのようだ。九五年にオウム真理教事件が起きた時、「成熟社会ではもうオウムが望んだような世界の終末はやって来ない。終りなき退屈な日常に耐えよ」と社会学者の宮台真司が繰り返し言った説教が懐かしい。今では「終りなきテロとの戦争」であり、原爆さえ躊躇なく使用されそうなほど、世界は残虐になってきている、あるいは九月十一日の自爆テロ以前から残虐だったのだろうか。ビルの崩落は、まるで舞台の幕を切って落としたように世界の様相を一変させた。たなびく塵煙の向うに見えてきたものは文明の衣を纏つた野蛮である。自爆テロは、眼から鱗を剥がすように、成熟社会が野蛮の上になりたっていること、戦争がずっと続いていたこと、そしてその戦争の中心にパレスチナ問題があることを露呈させた。
今日のニュース23(十一月二三日)では、パレスチナの投石闘争(インティファーダ)を取り上げていたが、武装されたイスラエル兵に、死を畏れず投石で立ち向かうパレスチナの少年達は、その投石を「聖戦」と呼んでいた。一九八七年一二月に民衆蜂起として起きたインティファーダだが、子供の投石に対し、重装備したイスラエル兵が発砲で応じるシーがテレビで流れることで、イスラエルに対する反感が世界的に強まった。テロ活動よりも子供の投石の方が、反イスラエル運動としてはるかに効果があることに気づいた左翼系のPLOは、これに便乗してパレスチナ人全体の運動として宣伝するようになるが、このインティファーダで力をつけ後に自爆テロを始めたのが「ハマス」(イスラム抵抗運動)で、資金不足で弱体化し始めたPLOに代わって遇激な対イスラエル武力闘争に乗り出したという。この「石と近代兵器」という絶望的な戦いこそ、ローテク・ハイコンセプトといわれた今回の自爆テロを導いた歪んだ構図といえるだろう。
パレスチナ問題自体は、第二次大戦後のイスラエル建国によって土地を追われたパレスチナ人との戦争から始まるが、その建国には欧州のユダヤ人対策があって、二重契約でアラブ側を騙した委任統治国イギリスとアメリカのゴリ押しの結果でもある。つまり欧米覇権国の都合のツケともいえる紛争なのだ。イスラエル建国によって起きたアラブ連合との第一次中東戦争は、国達が停戦ラインを引いて収まったが、それ以後も東西冷戦の対立と石油利権が絡み、数次の中東戦争が続き、やがてイラン革命によるイスラム復興の影響から、ハマスなどのイスラム過激派の「聖戦」が叫ばれるようになり、PLOの左翼的主張が力を失い、イスラム復興の宗教的主張が闘争の主役となって今に至っている。簡単だが、凡その事態の推移である。
この背景として共通にエルサレムを聖地とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教の歴史を見ようとすると、問題は複雑になる。一神教の近親僧悪の歴史を辿ったり、十字軍から始まる西欧近代の世界征服の歴史を、この事件の遠因としなければならないからだ。こうした一神教の争いから見れば、仏教は局地的な宗教として世界史の圏外にいるようなものだ。
今回の自爆テロにおいてハンチントンが『文明の衝突』で述べたキリスト教対イスラムの文明対立の構図が取り沙汰されたが、果たして今回のテロも報復戦争も、ブッシュ大統領が「十字軍」と口走ったとはいえ、宗教の対立といえるのだろうか。アメリカがテロ首謀者とすぐに特定したオサマ・ビンラディン氏も同様に「アメリカとそれに同盟する十字軍」への聖戦を呼び掛けている。まるで敵の挑発に乗るように、アメリカがテロ事件をすぐに「戦争」にしていったのは何故だろうか。
表[おもて]のテロ撲滅のための正義の戦争とは別に、裏の国益事情として石油・天然ガス資源の権益確保は早くから指摘されていたが、増田俊男氏(時事・金融評論家)の『ブッシュよ、おまえもか…』(風雲舎)によれば、自由なマネー経済によって世界を主導して国益を増大してきたアメリカが、金融経済では立ち行かなくなり、ついに軍事経済によって経済再生しようとした戦争なのだ、と指摘する。そしてアメリカは事前に自爆テロを知っていて、軍事経済を担うべく生まれたブッシュ政権の希望どおり、戦争状態に突入した、という。もしそれが本当なら、為政者の恐ろしい冷徹に戦慄を禁じ得ないが、政治・経済・軍事からの説明だけに事実に近いのではないかと思わせる説得力がある。
事件に関しての多くの論説の中で、吉本隆明氏と板垣雄三氏が「日蓮」に言及していた箇所が目についた。吉本氏は、イスラムの戦闘性に言及する中で「仏教にもこの戦闘性はあります」と述べ、法華経(正しくは涅槃経)の「刀杖執持」の戦闘性を日蓮宗が受け継いでいると語っている(『文学界』十一月号)。また板垣氏はイスラム世界と日本の文明戦略について述べた中で、日蓮聖人の世界戦略に触れて同時代のイスラム思想家との比較を勧めている(『現代思想』十月臨時号)。その適否は別として、共にイスラムを論じる中で「日蓮」という存在に思い当った点では同じである。まさしく今、日本人は「日蓮」の眼を以て、世界を見直す秋なのかもしれない。