日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第35号:211頁〜 |
第三十三回中央教化研究会議 |
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部会報告 (要旨)
第一現代教学部会
座 長 三原正資・吉本光良
問題提起 古河良晧・中井本秀
台湾尼僧 釈 徳恂
記 録 西口玄修・齊藤朋久
運 営 早坂鳳城・馬渡竜彦
参 加 者 二十四名
第一日目
「台湾仏教界の新たなる動向に触れて」
初めに立正大学留学生、 釈徳恂師に仏教慈済功徳会の活動内容を語ってもらった。わずか五人の尼僧と三〇人の主婦によって創立された「仏教慈済功徳会」は、多種に渡るボランティア活動によって成長してきた教団といえる。特に六万人の信者が百万人に増加した背景には総合病院や医学大学の設立などでの慈善事業により、社会的に教団が認知されたことがあげられる。さらに、これら諸活動は、教団の創設者證厳法師の法華経に基づく慈悲の実践、法華経の色読であり「人間菩薩道」と呼ばれている。
「人間が貧困に陥るのは、病のためであり、病を取り除けば病気のせいで、貧しい人間が減って行くかもしれないと感じられる」ので医療ネットワークを充実させる。
教団を形成する尼僧達や信者たちもボランティア活動を慈悲行として実践することで、ますます信心を深めていき、信者の家族や周囲をも同様に信仰に導くことで信者を増やしてきた。
釈徳恂師は、日蓮聖人の生涯を学び、その教えを現代社会に生かし、娑婆即寂光を実現することの困難さを認めながら、「仏法の生活化、菩薩の人間化」が実現された人間世界の浄土を作り上げてゆくべきであると講演を終えられた。
続いての質疑応答では、座長が「他宗との交流について、相互の特質を認め会うところからはじまる」と口火を切り、宗派、会派を越えた交流が仏教の興隆させる。など交流に積極的な意見が出された。仏教慈済功徳会では、病院で亡くなった遺体は念仏で除霊され、楞伽経も讀誦する。また、台湾では四箇格言のように排他的な考えは、受け入れられないということ。釈 徳恂師は「日本仏教は学術的、男性中心であり、保守的で教義を実践する場がないのではないか」と感想を述べられた。
さらに、日蓮宗でも病院を建てれば、信者さんが慈悲行を実践でき、信徒数が増えるのではないかと。
これに対し、本宗では、聖人の忍性批判を踏まえてボランティアに賛成と反対に意見が分かれた。また、日本は在家仏教なので国に認可権があり、明治以降戒律を捨て、その上病院など公的な仕事に取り上げられた。また、寺院の経営者としての負担が大きい、などの理由で社会的取り組みに遅れているが、これから檀家制度の崩壊を見据えて、社会活動を通してお題目を広める道を模索しなければならない、という結論に落ち着いた。
(西口玄修)
第二日目
「宗教間対話の意義と必要性〜宗教の脱近代化〜」
第一現代教学部会第二日目は、「立正安国と宗教間対話について」〜 お題目をどう伝えるか 〜 を基本テーマとして、「宗教間対話の意義と必要性」について討議された。
日蓮大聖人は、辻説法、法論、公場対決を通して信仰を語られた。 相手を理解しそのうえで、自己の信仰を語り相手を説得されたのである。我々日蓮門下は、この日蓮大聖人の布教姿勢を指南として、異宗教との対話に臨まなければならない。
宗教間対話は、キリスト教世界に於ける、宗教対立の深刻さに対する反省から起こった、特にキリスト教内部におけるカソリックと、プロテスタントの平和共存を目的として、進められてきた。
まずこの宗教間対話の、意義について述べると、第一に、異宗教との相互理解による平和共存を目的とする。第二は、異宗教と対立せず特に武力闘争せず、融和的にそれを改宗させるというキリスト教の世界戦略としての布教手段としての意義。第三にその本質的意義は、世界が交通手段の進化、情報革命、技術革命によるグローバリゼーションの波に乗り、異宗教どうしが出会う状況にあることからの必然的必要性にある。
このようなグローバル化の進行する世界の状況下における日蓮宗の布教戦略の模索を中心として、現代教学部会の討議が進められた。
先ず、次のような問題提起が為された。「布教戦略としての宗教間対話は、他宗教に受け入れてもらえない。したがってそれは、単に日蓮宗の自分のエネルギーを高めるために行われるべきである。つまり、宗教間対話は、日蓮宗にとって、宗教勢力としての生き残りのために行われるべきものである。」
それに対し特に若い教師からは、より積極的な意見が出された。
1宗教間対話において日蓮宗独自の教えを独自のカラーで弘めるべきである。それで無ければ、宗教間対話は必要ない。
2宗教間対話は、先ず相手を良く知った上で為されねばならない。
3自分のやるべきことをやってから他宗派と渡り合ってほしい。例えば環境問題にしても、自分達が先ず余分なゴミを出さないように行動することが先決である。
4私たち僧侶は、日蓮聖人の弟子である。その私たちは、日蓮聖人のお名前で、生活させて頂いているのだから、日蓮聖人の意志を伝えてゆくべきである。
5他宗教に対しても正しい態度で、きちんと対応すべきである。
6新寺建立し、まだ檀家の少ない私のお寺では、共存ではなく生存が先決。信者さんを獲得せねばならない。
(齊藤朋久)
第二現代教化部会
座 長 植田観樹・小澤恵修
問題提起 中村潤一
記 録 岩本泰寛
運 営 伊藤立教・小倉孝昭
参加人数 二十二名
第一日目
「真のIT革命とは何か|顔の見えない情報化社会の功罪を問う|」
IT(情報技術)によって、急激に変化する情報化社会の中で私たちも、大いに問い直さなければならない時がきている。
立教開宗七五〇年を起点として、これからの檀信徒教化はいかにあるべきか、顔のみえない情報社会にお題目の信仰をどう伝えるべきかを話し合う。
討議資料として中四国教区教研会議「インターネット布教の明日を探る」が配られた。
ある講演で、聴衆がだれ一人として講演者を見ずに、ひたすらパソコンのキーボードを叩いて講演内容を入力していた姿に戦慄を覚えたという意見もあった。
全体として功よりも罪が強調される結果となったが、檀信徒教化に「IT」の利用、活用を視野に入れた、宗門としての指針、指導、教材、ネットワーク等の構築、整備が必要であると認識を新たにした。
第二日目
「信徒の信条 |いかにして檀信徒を教化すべきか|」
問題提起
「信行必携」の発刊は、昭和四七年で、約三十年が経つが、「IT」を加味して改定してみることが必要なのではないだろうか。
時の宗務総長渡部公允師は、その序の中で、激動化し、退廃する世相を鑑み、「宗門が宗徒の総蹶起を促し、護法運動を提起してまいりましたのも、偏にこの危態を憂うるからであります」と述べ、「その為には宗徒の一人一人が確乎たる信仰を持ち、その団結の力をもって社会教化の発言強めねばなりません」と語っている。その思いから提唱され、全国に実施されたのが、護法統一信行である。
「そこでこの度、国が義務教育制を敷いたように、統一された信行組織によって全宗徒が信行に励もうというのであります」と語る総長は、「いわば宗祖降誕七五〇年を起点とし、今こそ宗徒信行の一大革新を断行しようというのであります」とその決意を述べている。
それから今日に至るまで、この信行活動が、どのような軌跡を辿って来たかを、私たちはまずふり返ってみなければならないだろう。
その反省のてがかりとなる材料は、このテキスト(信行必携)に記されている「宗徒の信条」という項目ではないかと私は考えているので、ここに列記してみたい。
宗徒の信条
一、私たちは、日蓮聖人によって体験せられた法華経を人生すべての基本といたします。
二、久遠にわたり衆生を救おうとされている釈迦牟尼仏は、智慧と慈悲をすべて備えられた本師です。私たちはこのみ仏に絶対の信仰をささげます。
三、南無妙法蓮華経は、衆生が成佛するための肝要な行法です。私たちは、このみ法(のり)を堅く心身にたもちます。
四、人々の仏性を開き、み仏の国土を建設することは、日蓮聖人の誓願です。私たちは聖人を導師として、その実現に精進いたします。
五、私たちは、常に仏子としての自覚をもち、すべての衆生と共に真実を求めて生活をいたします。
檀信徒に、本当の法華経の教え日蓮聖人のお考えが伝えられているのか。いわば顔がみえないのが、今の日蓮宗の実態であるとも考えられるのである。
IT(情報技術)革命というが、私たちに必要なのは、情報技術の向上ではなく、情報内容の向上である。
末法の衆生に必要な教えである法華経を選びとられた日蓮聖人の教えを、檀信徒に正しい信仰のあり方を発信し、実践することこそ、私たちの真のIT革命だといえるのではないだろうか。と問題提起され、討論が行われ、左記のような意見が出た。
○情報に弱い僧侶が多い。文系、理系に分ければ僧侶は文系出身が多く、情報技術は理系に属す。
○情報化社会にのり、利用することは、垣根を低くし、又は垣根をはずす事にもなる。
○情報が公共の事象から個人的なものまで氾濫し、個人化している。
○不特定多数への宣伝効果はあるが、匿名の情報が流れる恐れがある。
(岩本泰寛)
第三現代教育部会
座 長 龍澤泰孝・中村雅輝
問題提起 中村雅輝
特別講師 松本学昭
記 録 宮淵泰存・遠藤了暉
運 営 新間智照・井本学雄・斎藤哲秀・
田島辨正・中山観能・中村雅輝
参加人数 三十名
本師釈迦牟尼仏を崇拝し、日蓮大聖人が本化地涌の上行菩薩として、自らその仏眼に適うべきだと思う。仏眼に適う為には、給仕第一、行学二道に精進するべきである。
今、一般の人が宗教に求めることは、現証利益が最大の願いである。現証利益が一番の願いであれば、これほど悲しいことはない。宗教者に何を求めているかを考えるべきである。
弟子は師を尊敬し、師匠は仏様よりあずかった弟子を育てる責任がある。師厳道尊というのは、実際に行っていかねばならない。信心が一番の加行である。
人間とは、人に信じられるように成らなくてはいけない。それには、正しい行いをする、約束を守る、嘘をつかない、疑いを持たない、責任ある行動をとる、さすれば、相手に自分を信じてもらえるようになる。そして、次に隠し事をしない、陰日向あってはいけない。自然体の行動を取ることである。自然体の行動こそ必要なことである。
その中で、あの人に引導を渡してもらいたいと思われるようになったら、初めて、一人前の師であるといえる。
大聖人の言葉の中に、自力本願を説くと、みんな納得する。「たら」「つもり」人生ではいけない。
私は、「一体全体」という言葉を使う。日蓮宗門全体は、我々一細胞であるこの一体が光輝いてこそ、宗門全体が輝く。自分一人だけは良いだろうと思うと、その部分は日影となって、全体の輝きは無くなってくる。日蓮宗門を光輝かせるためには、一人一人が努力精進することを、責任、義務であることを認識し、僧侶生活を送って頂きたい。このような「師とはどうあるべきか」という、講話を松本学昭師より頂き、以後、「師のあるべき望ましい方向」について討論が進み、自らお祖師様、お釈迦様に仕える給仕するということは、学ぶと言う事も給仕である。
○信行道場で、毎日祖廟に参詣し給仕することにより、お釈迦様、日蓮大聖人に近くなる、という気持ちをもつことが大事である。
○師は弟子の才能を伸ばし、弟子自身の考えかたによって行った失敗には、師が責任を持って正さねばならない。人格更生を行わねばならないと思う。誰が評価するでなく、責任をもって弟子訓育にあたる。
○親子では、師弟となるべきではない等の意見を頂いた。
二日目は、座長より「本師釈迦牟尼仏が一番の師」であるとの発言を承けて始まり、問題提起者の中村雅輝師より「師とは」法を授けてくれた人が師であるという師についての経緯と、宗門における師弟制度について説明があり、問題点として
・出家得度時に就いた師僧の束縛が強く、法を求める為の師僧換等は事実上困難といえる。
・師資相承と世襲制の問題
・師弟教育の困難さ
後に、「非住職教師に教師資格取得後、十年、二十年を節目に師を問い直し依止師(学師)を決める機会を与えたらどうか」と、提案された。
○自分はあまり師を考えたことが無い。制度上で父は師匠だが、それを越えて他で学ぶ師があっても良いと思う。それを檀家に教ることが大事だと思います。
○師匠にあまり教わった記憶が無い。宗立学寮でほとんどを教わった。師を師と意識すること出来ず、今回の師子相承というのが大事なのかなと思った。弟子から求められるような環境づくりをしていかなければならないと思った。
○私は父が師匠であるが、大本は釈尊であり、お祖師様のお弟子であるという心構えで、信行道場の末席に加えてもらった。
○教育機関は見直される時期がきているのではないか。信行道場のように、行をしながら学べる大規模な施設が必要なのではなかろうか。
○僧階を上げたときに講習をし、受戒を受けるべきだ。そのような儀式をすることによって、自覚がわいてくるのではないか。
○息子が継ぐのは悪くないと思うが、僧侶として養成するには一度外に出す必要があるのでは、父が師匠として養成するのではなく、外に出して養成することが望ましい。そのような風潮を作ることも大事ではないか。
○学校と信行道場以外は、家から出ないので、出家と言う点では問題があると思う。
○一生の内に一回は出家しなければいけないという制度もある国があるので、一生の内に一回は、一般社会人になるのも良いと思う。
○弟子が大勢になった場合どうするのか。放ったらかしの師匠が多い。
○信行道場を出ても一般の生活をしている人がいるのに、代務している寺院があるのはおかしい。
○在家から出家して、お寺での働き先がない。宗務院にも、就職課など必要なのではなかろうか。
等々色々な意見が出されたが、参加者の殆どが、本師釈迦牟尼仏、宗祖日蓮大聖人が一師であると言う意識を持っているようであった。
最後に、第三現代教育部会において、宗務院に就職課のような窓口を作ってもらえるように要望書を提出することで、参加者一同の賛同を得て部会は閉じた。
(遠藤了暉)
第四現代社会問題部会
問題提起 @梅森寛誠・貫名英舜
A柴田寛彦・奥田正叡・今田忠彰
記 録 灘上智生・都 泰雄
運 営 蟹江一肇
参加人数 三十名
第四現代社会問題部会では、全体テーマ「誓願〜我らは今何をすべきか〜」を踏まえ、一つは政治の問題として、もう一つは現代人の死生観の問題として捉えた。
二十一世紀を目の前にして、我が国は一体どこに向おうとしているか。保守を基盤とした自・公連立政権は、空洞化しつつある公共性を無理にも糊塗しようとしている。そして、もう一つは青少年問題である。十代の少年による重大犯罪が多発しており、その事件の背景に「いのちの尊厳」に対する軽視というものがみてとれる。「国」とは何か。「いのち」とは何か。日蓮聖人が鎌倉時代において対峙された課題に対して私たちなりの答えを紡ぎ出すことが、今私たちに求められている。
@「日蓮宗徒は現代の政治にいかに関わるか」
〜日の丸・君が代/政教分離(自公問題)〜
昨年以来の自・公・保(自)連立政権の下で、これまで国内の保守派の懸案であった様々な事柄が国民的な合意を得る事なく通過した。その中の代表が「国旗国歌法案」である。また森総理大臣による「神の国」発言もあり、「国」というものの概念をめぐり様々な異なった立場が出てきている。我々は、この様な状況を受けて、どのように考えていくのかを、梅森寛誠師・貫名英舜師を発題者として討議が行われた。
梅森師は、『国旗国歌法その後〜私たちは「天皇教」とどう向き合うか〜』という表題で以下のような発題を行った。九九年八月に国会において成立した「国旗国歌法」は、法制化に際しては、政府は「尊重の義務はない」と強調していたにもかかわらず、文部省サイドでは「学習指導要領」による事実上の強制が露骨になっており、公的立場の者の強要する発言行動が各地で続いた。憲法十九条の思想・良心の自由が反故となり、「相互監視」の下に個人の心の内面にまで支配が及ぶ懸念が一挙に現実化し、本年五月の森首相による「天皇を中心とする神の国」発言は、これらに駄目を押した。これらは、この国の近代国家が一貫して天皇を国民支配の手段として「宗教」的に利用してきた意味で、宗教問題であり、あたかも「天皇教」の様相を呈している。「天皇教」は、成文化されず、当然のものとして人々に自主的帰順を迫る。国民の同質性が求められ、マイノリティーが排除されている現状において、我々は痛み・苦しみを共有し、タブーを恐れず、行動していく責任があるのではないかと述べた。
続いて貫名師は、『日蓮宗徒は現実の政治にいかに関わるか』という表題で、以下のような発題を行なった。日の丸・君が代は、近代日本が国民国家としての形を整える過程で選択されたものであって、「伝統として国民の間に定着している」と言ってもその起源を明治以前に遡る事は出来ない。終戦後の国際状況を背景として、アメリカの政治的判断で「天皇制」は残されることとなり、同時に日の丸・君が代もそのままにされて現在に至る。これが、同じ敗戦国である独・伊がその体制と共に、それまでの国旗・国歌を全面的に廃棄した事とは全く異なる点である。
現在、無原則に越境する情報化と経済のグローバリズムの急速な拡大、そして、人的交流によって、近代以来の国民国家(文化=「国語」の同一性を根拠にした人的統合体)という「公」の存在理由が著しく希薄化している。この希薄化する「公」という問題においてそれを政治的危機として考え、現在並びに未来の「国民」に対して日本人としてのアイデンティティの根拠を緊急に改組しなければならないと考える保守派は、自・公という枠組みに野合し、この保守翼賛的政権のもとで国旗・国歌を法制化する途を選択した。
我々は日蓮聖人の「立正安国」を根本的宗是として掲げる以上、この「立正安国」における「クニ」と現在の政権が想定する「国」とが本当に重なり合うものであるかどうかについて吟味する所から、この問題の成行きを深く注視していく必要があろう。
以上の様な発題のもと、参加者より以下のような意見が寄せられた。
○自民党の体質には賛成できないが、実際国旗国歌が無ければどうするのか。
○国旗国歌と国旗国歌法は別である。国旗国歌に関しては、代案が出ない所を見ると、国民は消極的賛成であろう。しかし性急な法案には問題がある。若い人達は、知らないうちに思想的方向性を付けられやすい為、裏にある意図・歴史を教える事が大切である。
○国旗国歌を当然と捉え、論議することをタブーとするのではなく、アイデンティティの問題として大事にすべきである。
○我々が安心して子どもを送り出せるような社会を作る事が立正安国であり、現状を見つめ、社会をどう変えるのかを考えるべきである。
○僧侶が政治と関わらざるをえない時代となっており、我々は政治と関わりを持ち、違うと思うものには発言し、批判する姿勢が必要である。
(灘上智生)
Aゆらぐ「いのちの尊厳」
ゆらぐ「いのちの尊厳」と題し、青少年による犯罪が世間を震撼させている中、次世代を担う青少年やその親の世代に対して、「いのちの尊厳」を如何に伝えるべきなのかを、私たち宗教者が自分自身に、私の問題として問いかけることを前提としたうえで、高校生に「人を殺してなぜ悪いのですか」という質問を受けた場合を想定し、3つの問いにたいして三名のリポーターの報告を受けて討論が進められる。
問い@ 人を殺してなぜ悪いのですか?
〜動物を殺して食べているのに〜
○人間が生きていく為には、他の命を犠牲にしなければ生きられない事に懺悔し、自が懺悔・成仏することによって、殺した命もうかばれるのではないか。
○大人の考えでは子供たちはなかなか納得してくれない。命の大切さが伝わらない今の世の中ではあるが、大人が今まで当たり前だと思っている事を、子供たちに身近な事から言葉だけでなく、実体験を通して教えていかなければならない。
○人間は、生きるのをやめない限り不殺生戒は守れない。命を長らえられる以外の部分、むさぼりに対して不殺生戒を言うのではないか。
問いA 人を殺してなぜ悪いのですか?
〜自殺は認めてもいいのではないですか〜
○釈迦もある意味では、自殺をしたのではないだろうか。しかしながら、生きる為の教えを説かれたのであるから、生きることを前提に命の大切さを伝えたい。
○自殺の原因としては病気や経済的な事など様々な理由があり、その苦しみを取り除く為に自殺がある。私達の使命は現実を厳粛に受け止めながら、自殺に陥る事のないような精神的ケアが出来る事が望ましい。
問いB 人を殺してなぜ悪いのですか?
〜人を殺してもいい場合もあるのですか、死刑制度のように?〜
○死刑は国家が法律に基づいて殺人をする。国民が認めた法律であるという事は私達も認めた殺人という事もいえる。
○死刑には、次なる犯罪をおこさせない為の抑止力があるが、場合によっては抑止力にならないこともある。
○死でしか償う事の出来ない罪もあるといえるが、死で償うのではなく、一生懺悔して生きて行くという償いもある。
○重大な犯罪が多発する中、被害者の人権よりも加害者の人権が重んじられるような風潮が見られはしないだろうか。
仏教では不殺生戒をいうが、私たち仏教者は、まず戒と律の違いを正しく踏まえる必要があるといえる。戒とは修行をする上で守る基盤、律とは組織を維持するために必要なもの。
命の尊厳を伝える為には、まず家庭を基盤にした子供への教育が大切であり、その全体を側面から見ながら支えていくのが私たち仏教者の勤めである。
(都 泰雄)
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