日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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 巻頭言
平和な今だから
  空襲の恐怖を語る
石  川  浩  徳 
(現代宗教研究所所長) 
          一 
 日本は半世紀以上戦争の無い平和な時代を過ごして来た。戦争は遠い過去の出来事として忘れ去られているかに見える。もう太平洋戦争のような愚行は起きないだろうと言う者もいる。だが二十一世紀を迎えた今日なお、地球上には三十カ所余で紛争が起こっているのも事実である。人間がこの世に存在する限り争いは無くならないと断言する者もいるのだ。戦争はどんなことがきっかけで起こるかわからない。そして大きい戦争も小さい戦争もそこにはかならず辛く悲しい結果が生じ、それは何の罪もない弱い人達が背負うことが多い。
 ベトナム戦争の枯れ葉剤の後遺症は今も多くの人達を苦しめているし、カンボジアでは地雷により手足をもぎ取られた人達が不自由な姿で涙を流している。また現に紛争中の国で銃撃戦のため犠牲となった民間人に家族が泣き伏している姿が報道され、胸を痛めないではいられない。戦争に対する忌避意識をいつになっても忘れてはなるまい。だがともすると今の日本のように戦争から遠ざかっていると、世界のどこかで起こっている紛争を、テレビのニュースを構成する話題の一つぐらいの軽い気持ちで受け止めてはいないだろうか。恐ろしいのはこうした意識でかつての戦争をも見てしまうことである。二十世紀の総括的報道番組で戦争がとりあげられたとき、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃をかっこいいと目を輝かして見たり、日本の上空でB29が爆弾を落とす場面を作り事のように見ている若者の姿に、驚くよりも恐ろしい気持ちさえ抱かざるを得ない。
 戦争が遠い過去の出来事に思われる今こそ、風化させないためにも、勇ましい部分はさておき、弱い立場にあって恐ろしい体験をした辛く悲しい思い出を語っておきたい。戦争の恐怖は忘れようとしても忘れられないものである。ある少年の実体験を紹介しよう。
          二
 少年は横浜に生まれ育った。その横浜が何度目かの空襲の末、壊滅的大空襲に遭ったのは昭和二十年五月二十九日の午前中である。B29が雨あられと落とす焼夷弾により、火炎地獄と化した市街の真っ只中を、風に渦巻く炎と黒煙に翻弄されながら、十歳の少年は恐怖のあまり、声も出せずに母親の後について逃げ回った。
 この時の空襲は、鶴見、川崎、横浜が、焼夷弾によるじゅうたん爆撃と称する、人間も物もすべてを焼き尽くすという非人道的なものだった。紺碧の空に何百機とも知れない黒いB29の編隊が飛来したかと思うと、その直後、乾いた空気を引き裂きするどい金属音がシャーッと聞こえ、同時に四方八方にタンタンタンと音を発して火の手が上がった。焼夷弾が炸裂して油脂が燃え、黒煙を吹き上げたちまちのうちに周囲は火の海となった。
 ふだん少年たちまで動員して防火訓練をしていたバケツリレーも火ばたきも、何の役にも立たなかった。隣組体勢を組織し、空襲を想定し、何度も強制的に訓練して防空にそなえていたにもかかわらず、その成果はまったく生かされず、いかに無駄なものだったかを実際の空襲に遭って思い知らされた。
 ひたすらその場から逃げなければ、じっとしていたら焼け死ぬのを待つばかりである。かといって周囲は火の海である。その場からどこへ逃げればいいのか。真っ青だった空は黒煙で覆いつくされ、夜のようになり、住宅の燃え盛る明かりで、右往左往する人達の様子がよく見えた。逃げ出すとき、頭から被っていた布団は火とつむじ風によって舞い上がり、少年の非力な腕には耐えられず、強い風とともに奪われてしまった。
 大きな防空壕がある学校の裏山に逃げようと山の手に向かって電車道へ出たが、市電までが燃え盛っており、その先も猛火に包まれているのを見てとても進めないと断念。妊娠七カ月の身重の母親は、二才の子を背にし、両手には持ち出した大きなふろしき包みをぶら下げていた。その後を小学二年生の妹と四年生の少年はただ恐ろしさのあまり黙って引っ付いて走った。山の手が無理と判断した母親は「こっちへおいでっ、」と言って、一転して海に向かった。
 大勢の人が何事か大きな声で喚きながら、右へ左へと交錯し少しでも炎の無いところへ逃れようとしていた。そこへB29からばらまかれる焼夷弾が炸裂して、炎があたりに広がる。逃げ惑う人々に火は容赦なく襲いかかった。何処を向いても火の海で立ち往生している者もいた。しかしじっとしてはいられない。吹雪のように火の粉が降り注ぎ、炎と熱風がまともに顔や体を焼く。「うわあーっ、」思わず悲鳴をあげる。すかさず母親が二人の子を庇う。もうだめか。
 後年、少年はそのときの様子を何度も思い出すことがあった。それは庭でたき火をしたとき、燃え盛る火の中に蟻を見つけたりする。火の中の蟻は絶体絶命である。この光景を見ていると少年だったころの空襲をかならず思い出した。炎の中に逃げ場を失った蟻が空襲のときの自分の姿に重なり、戦慄を覚えるのであった。哀れに思って竹の棒をさしのべ蟻を救うことがあったが、助けられるのは一、二匹ばかりで、もっと多くの蟻が焚き火の中で焼かれていったに違いない。
 空襲は人間を焚き火の中の蟻にしてしまい、逃げ道を焼夷弾で包囲し炎の幕を作って断った。黒煙が覆う上空ではゴーッというB29の不気味な爆音が鳴り焼夷弾が落下して来る。直撃を受けて、火だるまになる少女や老婆の姿を見た。燃え盛る家の中から這いずって出てくる老人の姿が火の明かりで見える。そこへ火のついた物が飛んできて老人を直撃する。瞬時の間にそういう様子を横目にするも、だれも助けの手を出すこともできない。
 少年たち親子は海岸へ向かったが逃げ惑う人で思うように進めない。だれもが無我夢中で狭い道を燃え盛る火に責められ動き回った。衣服に火がついている者、防空頭巾の無い頭髪から煙りが出ている者、恐怖のあまり声も出ない。ようやく猛火に包まれた住宅街を抜けて海岸に出た。いつも遊びなれた海岸には人がいっぱいであった。少年が住んでいたところから目と鼻の先の海岸に出るのにずいぶん時間がかかった。ほっとしたのもつかの間、海の中もあちこちに火の手が上がっていた。焼夷弾の油脂が燃えているのだろうが、火が迫ってくることはなかった。海岸べりの高い石垣の上の住宅から人が飛び降りたりしている。海に面して立つ遠くの神社が燃えるのが見える。少年たち親子は干潮の砂浜に流れ着いた木材の間に身を隠し、落ちていたバケツを頭からかぶった。知らず知らずの間にお題目が口をついて出る。
 しばらくして爆撃の音はもう聞こえなくなっていたが、人々の阿鼻叫喚の声と燃え落ちる建物の音などが潮騒のように聞こえていた。消火行動はどこにも見られない。警防団員のどなる声が時折聞こえた。住宅街は木造の建物が密集していたから燃えやすく、一時はものすごい勢いで炎が天空を焦がしていた。すべてが燃え尽きるまでは火災はおさまりそうにない。
 何時間かして町中をすべて焼け野原にして火は小さくなった。燃え尽きた街は遮るものがなくなっていた。海岸から山がすぐそこに見えるほどの近距離に感じられる。少年たちが住んでいたさまざまな建物や木があった横浜はまったく消えていた。まだあちこちで残骸が燻っていたが、生き残った人たちは焦土と化した街へなんとなく戻りはじめた。
 一本の柱も残らず燃え尽きてしまった家の床下に掘った防空壕からは、炭化した人の焼死体が見える。防空壕に逃げ込んだ者はほとんど蒸し焼きのようになって死んでいた。安全であるはずの防空壕は火葬の穴となってしまった。道には消火ホースを持ったままの姿で真っ黒になった焼死体が転がっていた。余程火力が強かったのか、逃げることもならなかったのか。大やけどを負った人や半死半生で動かない人など、空爆の後の地獄図がそこらじゅうにあった。道路も地面も熱くて裸足では歩けない。靴の下からでも熱が伝わってくる。裸足で逃げた妹は熱がって泣いた。
 目に入るかぎり視界は何のさえぎるものもなく、焼け野原となっていた。「怖かったね、戦争はもうたくさん、これで何もかも無くなったわね」と母親がポツリと言った。その言葉が今でも少年の耳に残っている。
 ほんの少し前まではたしかに有った多くの命も建物もB29の空襲で奪われたのだ。黒焦げの焼死体があちこちに見える。大やけどを負って苦しんでいる老人、泣き叫ぶ幼女、戦争が恐ろしい現実を作りだしたのだ。不思議に命が助かった少年はただぼうぜんとあたりを見ながら歩いていた。みんな着の身着のままで夕暮れせまる中を、焼け残ったコンクリート造りの学校へ向かってぞろぞろと歩いていた。その様子は葬列のごとくに少年には思われた。
 このときの空襲で焼け死んだ者一万人、傷者二万五千人、焼失した家屋10万戸と記録にある。
          三
 三月に東京が大空襲に見舞われ、次いで横浜が焼け野原になったあと、名古屋神戸大阪をはじめ地方都市の多くが同じ目に遭い、沖縄が玉砕し、最後に広島長崎に原爆が落とされて、三十万人が一瞬の閃光とともに命を奪われた。日本は惨憺たる国土と化してようやく、八月十五日、しぶしぶ無条件降伏をした。戦争はとてつもない大きな犠牲をはらい、取り返しのできない悲しい結果を招くものだ。多くの焼け死んだ人達がいる中で少年は生き残った。生死を分けるものは一体何なのか。そして戦争はいつになったら無くなるのか。常に心に問いかけながら少年は成長した。
 もうこれからはこんな恐ろしい戦争は二度と体験したくないと誰しもが思っている。しかし、世界の情勢は決して平和に向かっているとはいい難い。太平洋戦争のような戦争が起こらない保証はない。見方によっては国際間緊張の度合いがより強まっているのだ。ちょっとした考えの行き違いや経済的摩擦、損得勘定や交渉決裂が戦争につながることはある。
 二十世紀の末にベルリンの壁が崩壊して東西の統一が成り、ソ連はペレストロイカで新生ロシアが誕生し、南北朝鮮は雪解けが高まって平和ムードがふくらみ、東西の冷戦構造は一変し、世界の緊張緩和は一挙に進んだかに見えた。だが核の脅威は少しも変わっていない。核不拡散の不徹底、米国の臨界核実験、インドとパキスタンの核競争、北朝鮮の不透明な動き、加えて新世紀早々米国はブッシュ政権となってその外交政策への警戒感が高まりつつあり、微妙に東西の空気を緊張させている。一方イスラエルとパレスチナの関係は相変わらずで、聖地をめぐる争いは続いているし、民族間の争いはむしろエスカレートしていて、危機感は少しも変わっていない。中東乃至中近東の国々の不安定さは今日なお続いていて紛争が拡大する要因を十分含んでいる。こうしたことが世界戦争につながらないとは言い切れまい。こんど戦争が起きたときは逃げる場所がない戦争となるであろうと評論家は口をそろえていう。そうなったときは人類滅亡のときかも知れぬ。
 戦争の無い世の中になってほしいと祈らずにはいられない。二十一世紀は戦争の無い世紀にしたい。何年経っても忘れられない戦争体験を通して世の人々に訴える。「いかなる戦争も起こさないでくれ」と。
 少年はいま初老を迎えてどうにか生きている。


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