日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第34号:271頁〜 |
研究ノート |
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現代に於ける「信」と「学」と「化」の三極構造への検索
〜その4〜
小 澤 惠 修
(現代宗教研究所研究員)
一、はじめに 〜「教化学」へ〜
ここ何年かこの問題に重点を置いて研究発表の機会を得ている。ここで常に登場する「教化学」という言葉自体馴染みの薄い言葉であり、ポピュラーなものではないが、敢えて、この「教化学」と言う言葉を念頭に置いた試論を何度か試みた。今回も同じく、さらなる検討を加えるのと同時に、その問題の所在を更に明らかとすることを主題とし、これまでの研究経過を整理してみたいと思う。
二、宗教と情報との関係についての試論
さて、最初にこの様な命題に対し研究作業を行ったきっかけであるが、数年前に、「宗教と情報」という観点より分析を試みたことがある。
これは、現代の情報化社会という現場に適応した「教化活動の方法は?」というひとつの宿題から始まったことであり、その「情報」というものについて、例えば、コンピューター・インターネットなど、現代社会の環境は「情報化」という変貌の中で社会機構に於ける伝達、処理の機能が発達し、主導的役割を果たしていることへの分析目的が最初の目的であった。それと平行して実際に行われている教化活動の現状分析に於いて、中央教化研究会議等の席上に於いて、全国各寺院の信行会等の結成の困難性、若い世代への教化の困難性、葬儀に対する庶民の意識変化への対応の困難性、特に「宗学」と言われる教学の有効的な能動性などあらゆる現実的な問題が提起されている。事実、檀信徒の寺院への形骸化した意識、それよりも、私達自身の僧侶という立場にありながら、このような問題に関わりの少ない環境にも大きな原因が存在しているのではなかろうかという分析仮定を立てることが可能ではなかろうかとの指摘があることは事実である。以前、私がある編集社において打ち合わせをした折りに、
「既成宗教教団の方々が今回の事件についてそんなに困惑することは無いと思います。既成の宗教は私達日常生活の中に、大きな役割を果たして頂いております。それは葬儀という日本人の大切な文化を守り、その期待に十分に答えて頂いている。その事が大切であって、葬儀という大きな文化を継承する意味でも社会的役割を十分担っていると思います」
と言う見解を示してくれた。これは近年の宗教関係の事件を背景として浮き彫りにされた我々の存在価値に関する重要な見解であり、正直な世間の見解であろうと素直に受け止めるべき問題であろうと考えられる。
さて、その「情報と宗教」という小稿の中では、「情報」の本質的価値に着目し、情報化社会の台頭による『選民思想』という観念を提示した。これは、「自己を考える」という概念から、「自己に選びとる」という概念に移行した現代の意識革命を論点とし、本来の本能的思考を省略しざるおえない「いたしかない理由」を同時に指摘したものである。この理由こそが、「情報」の無機化現象を導き出し、「情報」と「人間」との関わり方の一面を提示したのである。つまりその特徴を「知覚的情報体験」として位置付け、現代の「体験」についての概念を分析した。本来、人間が情報を摂取し、その情報の価値付けを行う場合、必ず行動的実証がなくてはならない。つまり、個人から社会に投げ掛けた問題が、社会から個人に返ってくる情報に対して、個人はその情報を自分の思考範囲において行動的に実証することによって、その個人は社会的な役割を果たす為の行動理論を学習しなくてはならない。とこれが本来の情報と社会と個人の関係図である。これを「行動的情報体験」とするならば、この概念が省略されることによって、「体験なき体験」・「経験したつもり」の情報処理が日常化し、進行してしまうという現状の背景があろうと推測、仮設を立てるのである。このような、「体験」の無機化は「選ぶ」という人間の「情・知・意」の意義付けの限界を迎えた我々を取り囲む環境が重要な問題である。これを現代の教化の場に重ね合わせると、そこには人間性と言う精神的な機能が認められない現状が浮かび上がるのではなかろうかとさらに一つの仮説を立てたいのである。
三、「教学・宗学」の周辺への検索
さて、それでは現在の「宗学」の機能的環境の状況は如何かという観点について論を進めたい。
ここでは「宗学の普遍性」をあくまでも大前提とした論点において検索する必要性がある。更に何故に「日蓮教学研究発表」での「教化学」であるのかという疑問点についてもまず、解決しなくてはならないという通過点を克服しなくてはなるまい。
もし、「教化学」、「それは教学の範疇ではない」という御指摘があるのであれば、それは人間の「学習」するという本能的問題を含め、「学問」という概念をもこの「宗学」という立場より考え直さなくてはならなくなると考えている。
ちょうど、この「教化学」という主題において、先々年、御遷化なされた元身延山大学々長、立正大学名誉教授、宮崎英修博士にこの問題について御相談致した時があった。その時、
「元来、宗学は教化のための学問であるはず、しかし、その伝え方が難しい。そうそう、宗学の周辺に目を向けて御覧なさい。教学史ではないよ。その周辺の知識を集めないと教化は出来ない。あんたの言う教化学とやらも見えてこないよ。」
という御指摘を頂いた。
そこで、まず「信」という問題に着目し、宗学的分析を試みた経緯がある。
「信」は日蓮聖人(以下聖人と略す)が、御在世当時の社会現象について宗教、信仰の在り方を追及され、昇華した結果としての信仰的姿勢である。その顕現として『立正安国論』に見られる自己の体験的実証と、教相主義に見られる「観念論」への打破の姿勢が、聖人の強靭なる「信」の姿勢として現れていることは周知の通りである。その重要なものとして「五義」に注目し、その具体的、かつ体系的なる教義に「現代」を併せ見る試みを行ったのである。
@ 「五義」と現代
まず、「教」というものは、『法華経』への絶対性における認識であり、『開目抄』の
一念三千の法門は、但だ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。
等の御遺文の如くであるが、それは、まず、『法華経』の絶対的価値観を認識することから始まる。しかしながら、それを現代の「信」の価値観へと移行すことが可能であるか、いう問題が生じる。
次に、「機」についてはどうであるのか。「機」は、「教」の絶対性による必然性という性質を有しており、つまり、『法華経』であるがゆえの「機」の規定がなされるという相互関係がある。それは「教」に対する絶対の認識が、実は衆生の資質、さらには社会的資質を歴史的にも必然的に捕らえることが特徴であり、宗教を歴史的に社会と融合させて思考するものである。
「時」は末法思想と関連し、聖人が客観的に先の「教」、「機」を必然的に肯定し、聖人の宗教的自覚を確立するものであり、「国」は「謗法」という社会現象を宗教的に検討し、思想的理想の観点を示し、そして、「序」はその理想的なる場面における仏教流通の道理を明らかとし、その道理の実践という立場より「師」の自覚へと展開されるのものである。
このような「五義」の思想は聖人の「信」の姿勢の基本的立場であるが、現代ではどのような状況においてこの「五義」を説明しなくてはならないのかが「教化学」を論ずる起点であろうと考えるのである。
A 「信」と五義の現代性
さて次に、「五義」の中に於いて特に「教」と「機」について、現代の教化現場と社会状況を鑑み、これまでの「五義」の普遍的役割が可能であるのかを分析してみたいと考える。
重ねて提示するが、「教化学」つまり「教化」という絶対に避けられない場面において、宗門の全体的なる風潮である「教学、宗学は必要ないもの」という観念へのこれは試行であり、「教学」の普遍性を肯定する為の「教化学」の確立であるとの基本的姿勢の中での研究であることを確認して頂きたい。
まず、「教」であるが、これは『法華経』という絶対の存在について、能動的にその価値が位置付けられる必要があり、そこに於ける「信」は、ここでは客観的にそれへの純一的随順の姿勢である。しかしながら、現代に於いて、個人とその「教」との関わり合いは非常に形骸的要素が強くなっている現状が存在している傾向をどのように判断、分析するかが問題である。
また、自己の信仰的価値観の上で、『法華経』という経典が宗教的価値観としてどのような形態で存在しているかが問題であり、その状況によって、「教」の在り方に「主体的」、そしてその一方では「偶然性を有した客体性」が、その「教」の性質の特徴としての価値基準が発生することになる。これが「教」の積極的な「主体的価値観」であるならば、「五義」に集約される範疇において存在するものであるが、「教」そのものの主体的価値が希薄になり、その宗教的価値が形骸化している傾向にあったならば、当然、社会的価値として意味を持たなくなる可能性があり、さらに現代の「機」への必然性の問題にも起因するものであろうと考えられるのである。
しかしながら、次の様な論旨も可能である。この『法華経』の社会的価値観を考える時、その価値が主体的であれ偶然性あれ、『法華経』との関わり合いに生じた「機」を宗教的必然性と位置付ける論理も可能であるとの見解も存在する。
このように、教化という場合に『法華経』の価値基準が主体性なるものか、それとも、主体性は無くとも、その客体的存在価値のみにて「教」の価値の能動性が計れるのか、という問題提起が可能であろうと考えるのである。もちろん、日蓮宗現代宗教研究所でも創設以来三十年に亘ってその分析、検討がなされてきたことは事実であるが、その努力がいかに現実の教化の場面に有効に活用されているのかについては、これらの問題を検索、検討する中において検証しなくてはならないと考えられるのである。
B 単位化された社会構造と「宗教」
次に、現代社会を構造的に分析を加える中で、「宗教」、また「信」の傾向等に於ける手掛かりを探ってみたい。
現代の社会構造は戦後の転換によって「民主主義」、「自由主義」の台頭により「個人」の権利が保護され自由に主張される背景が存在する。この様な全体主義から個人主義への転換は日本人の精神構造に大きな変化をもたらした。個人による価値基準の設定や獲得などの可能性は膨大な情報化の成長によって保証され、その延長線上には「家族」という共同体の変貌にも影響を及ぼしたであろうと考えられる。つまり家族構成の核家族化が進行し、本家、分家意識の形骸化や家族の中においても個人の生活環境つまり、親子いえども、親は「会社組織」という固有の生活環境を有し、子供達は「学校社会」という生活環境にあって、家庭環境ともそれぞれ独立した環境価値というようにはっきりと独立した方向性をもって社会に対応し得る状況が出来上がったことが重要な要素として存在するであろうと考えられるのである。それは、「社会」という単位、「地域」という単位、そして「家族」という単位のなかで、それぞれが分子として相互主体の関係にあったものが、分子それぞれが「単位化」してしまったと言う現代の特徴があるのではなかろうかと考えるのである。
このような現代という社会背景の中で、その「宗学」の普遍性を目指した「宗学」の周辺へのアプローチをいくつかの試論を試みるに、ここまで「信じる」ということについて論を進めてきたわけであるが、「宗教」というものに対しての問い掛けは、常に実際の日常生活に於けるあらゆる場面に於いて問い掛けられるものである。この問題について、以前にも御紹介した、早稲田大学名誉教授である佐藤慶二博士がこの様な考え方を示している。
「いかに始元を獲得すべきであるか、という問い掛けをもって始めなければならない」
と述べられている。つまりこの「始元」をいかに獲得するかの相互の主体的関係について、我々の「信仰の要請」とその「始元」がいかに働き掛け呼び掛けて行くかの関係を考える必要があるということであろうと思われる。例えば本尊論にその論点えを尋ねれば、この「要請」という概念と「働き掛け」という「行為」との相互関係が宗教的価値観と言う問題に於いて、現代にどれほど有効性があるものなのかが一つの重要なる周辺的課題である。
先に論じた如く、近代の情報化社会の発展によってあらゆる物事の価値観が多様化し、それを獲得する我々の情報に対する認識は、その情報の多様化はもちろんのこと、我々の「選択」の可能性の多様化をも同時に誕生させた。そこには、あらゆる物の価値観の固有化、分割化の傾向が進行するという特徴を同居させ、宗教的人格というものが私達日常の生活の外壁に追いやられ、「信仰」と言うものが非日常的な価値として存在し、さらにその独立性が進行するのではなという可能性が非常に大きいと言う現実が誕生したと言う仮説を立てたいのである。
C 「宗学」のマニュアル化
さて、「宗学」を「いかに学ぶか」と言う学習機能の問題では、我々の世代の分析が必要である。現代はマニュアル世代、コンピューター世代とも言われ、先の示した価値独立性の思考運動は学校教育の中で偏差値を誇張した学歴社会の中で確実に私達の年代の意識を支配している。その状況は近年拍車を掛け、学校社会に於ける深刻な現状となり、関係機関等、危機感を募らせている問題である。この様な背景が存在する中で、いかに『法華経』、「宗学」を伝達、継承されるべきかを考えることは重要な観点であると考えられよう。要するに、この様な背景をいかに分析し、検証して行くかという問題も「教化学」の重要な学問的要素として存在するのではなかろうかと考えるのである。
まずその中で、我々が反省しなくてはならない事は、「宗学」は日蓮聖人の学問であって、それが「自分にとって」どの様な価値が存在するのかと言う有機的実践的情報学習機能が低下しているのではなかろうかという問題である。「学」の場面に於いて、いかに聖人の門下としての学習が可能なのかは大学教育だけでは無く、教化活動を行う日常の価値として考えて行かなくてはならない問題であり、日常の諸々の価値に対し、いかに『法華経』、聖人の「教学」を部分的、単一の学問的価値だけでは無く、積極的に日常の性質を導き出し、有機的な機能を持たせることが可能であるのかが今度の命題であろうと考えるのである。
それが、「化」の周辺分析にも大きな意味を持ってくるとすると、例えば、「信」がその宗教的価値に於いて日常の場面に、普遍的価値として機能しなくなっているとの仮設を立て、さらにまた、「学」は学問の領域から「教化」という場面に直結出来ない、つまり、学問的価値が信仰的価値として応用的機能まで有機的に昇華出来ない現状が存在するのではなかろうかと考えるのである。
四、日蓮教学上にみる「教化学」への手掛かり
最後に「教化学」の可能性を考える意味を込めて、「事の法門」に着目しこの試論を進めてみたいと思う。
この「事の法門」は周知の如く、天台の「理」に対する聖人独自の宗教的世界観であるが、これは「語られた實相」である「理」の世界観をその語られた事実を可見的、つまり現実の日常の世界観に於いて立証しょうとするものである。そこには、現実の社会、事相の世界観によって聖人の宗教が「体験の宗教」という、観念的事実を体験、実践と言う媒介に於いて宗教的価値を導き出すと言う歴史的現実に生きる立場が重要な観点が存在する。現身延山大学々長の浅井圓道博士はこの「事の法門」について「観念論の打破から始まる」と言う表現をもって指摘されているが、この観念論こそ現代の「情報化至上主義」に培われた価値分割化思考運動の我々の年代、さらに現代の社会構造に置き換えて考えられるのではなかろうかと思うのである。言わば、現代の日蓮聖人の「教学」の「観念論」への逆行現象、または宗教的価値を単一的な一つの情報として摂取し、その情報が現実の日常に有機的な関わり合いの中で実践出来ない状況は「観念論」への埋没現象に他ならないのではなかろうかと仮説を立てたいのである。先の論述の如く、「情報」との我々の付き合い方があまりに無機的な為、また、情報の過多現象の為、「情・知・意」の意義付けに限界が生じているとの見解に於いて、その通り、ここには「体験なき体験」、つまり情報を獲得した時点で「体験したつもり」という精神的錯覚が現代の「観念論」を生み出しているのであろうと考えられるのである。
また、望月勧厚博士は、「事の法門」についてその表現方法を十四項目に亘って示されている。中でも「事證事」として我等の行動的實證を貴び、日常の諸事をもって佛界と同一の価値観として理解すること。また、「人間事」に於いては、人間のあらゆる心のあり様や、行動に於いて「信仰」の何たるかを考えなくてはならないとし、聖人は『祟峻天皇書』に「教主釋尊の出生の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」と信仰の日常性を教示されていることを指摘している。さらに、「現在事」としては、「今」、「現在」への宗教的価値を重要視するのであり、『観心本尊抄』に示される「今本時」の世界観は釋尊の「久遠実成」の「常住」の「今」を我々が実感する日常の「今」とを同一的に、またいかに同時的に「信解」するかの問題であろうと思われるのである。
五、 おわりに 〜今後の研究方向〜
以上、「教化学」の必要性と体系化の問題にはさらなる「宗学」への学習等を含め様々な問題を残している。新たなる学問分野として「教化学」が本当に必要であるのか、はたまた、現在の「宗学」、「仏教学」等の伝達方法で教化の現場に反映できる可能性があるのか。日蓮教学の今後の発展と、学問の社会的価値をもう一度検証する意味を込めて、私は改めて「教化学」の必要性を「宗学」の本来の価値を学習する過程において主張したいと考えた。
さらに、今後の「教化学」の具体性を思考する上で、聖人の書簡にみる当時の教化方法等を分析することが必要であろうと考えている。当然、これらの問題は先師の研究の継承を含め、宗学的立場に於いても為されている問題であろうとは思うが、現代社会の構造論、また精神社会に於ける現代的要素を含め考えながらアプローチする価値は十分に存在すると考えている。
「教化学」の具体化は、同時に宗学の普遍的方向性への布石となるとの立場より、今後継続されるべき問題ではな
かろうか。
※本稿は第五二回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。
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