日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第34号:243頁〜 研究ノート ←前次→

  法華経と宮澤賢治の『春と修羅』
           −「二重の風景」の世界観−
三  原  正  資   
(現代宗教研究所嘱託)    
   一、宮澤賢治の生涯に占める法華経の位置
 はじめに宮澤賢治の生涯を、彼の法華経信仰との関わりを軸として、宮澤清六の「兄賢治の生涯」【ちくま文庫『兄のトランク』筑摩書房刊所収】や年譜【ちくま文庫『宮澤賢治全集』10所収、以後文庫全集と表記】を参考にして描いてみよう。
  幼少年期の宗教的環境
 賢治は明治二十九年八月二十七日、岩手県花巻町に生まれた。日清戦争直後のこの年、東北地方は多くの災害に見舞われた。六月は三陸海岸に大津波が襲来し二万一千人の死傷者を出し、七月と九月には大風雨、八月三十一日には花巻町に大地震が発生、全壊家屋五千六百、死者二百人を記録した。
 父政次郎は古着・質商を営み、困窮者相手の家業は賢治に少なからぬ影響を与えた。生家の宗旨は浄土真宗であり、父政次郎は熱心な門徒として仏教講習会を開き、参加した幼い賢治は講師の暁烏敏のそばを離れなかったと伝えられている。また内村鑑三の高弟、照井真臣乳と斉藤宗次郎や日本救世軍の山室軍平夫人・機恵子も賢治の生家と交流があった。一家をとりかこむこのような宗教的環境は賢治に大きな影響を与えたと思われる。
 盛岡中学時代には、先輩の石川啄木の歌集『一握の砂』が出版され、賢治の短歌に影響を与えた。寄宿舎の舎監排斥運動をきっかけに、賢治は盛岡の寺院に下宿し、このころ参禅したり、島地大等の仏教講話を聞いた。
  法華経との出会い
 賢治が法華経と出会ったのは盛岡中学を卒業して気の進まないまま家業を手伝っているときであった。大正三年十八歳の九月頃、賢治は高橋勘太郎という人から父政次郎に贈られた島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで感動し、「以後賢治はこの経典を常に座右に置いて大切にし、生涯この経典から離れることはなかった」という。翌年盛岡高等農林学校に入学した賢治の机の上には『化学本論』上下とこの法華経があった。また卒業の年には「蜘蛛となめくじと狸」等の童話を書いている。
 卒業後、賢治は嫌々ながら家業を手伝っていたが、大正九年二十四歳の夏に法華経と日蓮聖人遺文から抜き書きして「摂折御文・僧俗御判」を編み、十一月には国柱会に入会した。さらに翌十年、賢治は上京して国柱会の本部をたずね、高知尾智耀のすすめによって法華経の普及のために本格的に童話を書き始めた。しかし、妹トシの病気の報に接し帰郷し、郡立稗貫農学校の教諭となった。
  『春と修羅』を書く
 大正十一年二十六歳の一月から「春と修羅」第一集の詩作を始めた。ところが十一月二十七日に妹トシが亡くなった。賢治は大変な衝撃を受け、この日を境に半年間詩作を中断し【文庫全集1 一六四頁】、その後の二年間の書簡が残されていない【文庫全集9 二八〇頁】。
 大正十三年二十八歳の四月に賢治は『春と修羅』一千部を自費出版、十二月には光原社から童話集『注文の多い料理店』を出版したが、この生前に出版した二冊の本はどちらもあまり売れなかった。
  「雨ニモマケズ」の実践
 大正十五年四月、三十歳の賢治は農学校を退職して羅須地人協会を始めた。単に考えたり教えたりするのではなく、実際の農民の生活の中に宗教と芸術の理想の実現を企てたのだが、苦渋に満ちた生活だった。肥料設計や砕石工場の仕事によって賢治の体は病にむしばまれていった。昭和六年九月に上京したとき、病床に臥し、このときは遺書をしたためたほどであった。十一月には後に有名になった手帳に「雨ニモマケズ」を書いた。病状が一進一退する中、仕事をしたり作品を書いたが、昭和八年九月二十一日、賢治は国訳妙法蓮華経を頒布するよう遺言し、三十七歳で永眠した。
 このように賢治は、十八歳からの法華経と出会った時期、二十六歳からの「春と修羅」を描いた時期、三十歳からの「雨ニモマケズ」の活動の時期を通じて、法華経と深い関わりを持ち続けた。しかし、『春と修羅』中の詩「オホーツク挽歌」や『農民芸術概論綱要』には次のような箇所があるため、賢治が法華経を離れてキリスト教に接近したとか、はては宗教を捨てたと見る人もある。
 幾本かの小さな木片で\HELLと書きそれをLOVEとなほし\ひとつの十字架をたてることは\よくたれでもがやる技術なので\とし子がそれをならべたとき\わたくしはつめたくわらった 【文庫全集1 一九四頁】
 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い\芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した\いま宗教家芸術家とは真善もしくは美を独占し販るものである 【文庫全集10 一九頁】
【例えば畑山博著『美しき死の日のために−宮澤賢治の死生観−』学習研究社刊三一一頁、また同『銀河鉄道魂の旅』PHP刊五十頁。『現代宗教研究』第三十一号所収拙稿「法華経と銀河鉄道の夜」日蓮宗現代宗教研究所刊を参照あるいは、山折哲雄著『宗教の力』PHP新書一五頁】。
 だが、二十年に満たない短いその後半生は、賢治が法華経を発見し、実践し、展開した軌跡である。
 年譜によると、大正十年二十五歳の賢治は上京して国柱会の本部で高知尾智耀と出会い、文芸による大乗仏教の普及を勧められたわけだが、そのことは、晩年の「雨ニモマケズ手帳」に
 高知尾師ノ奨メニヨリ\法華文学ノ創作\名ヲアラハサズ、\報ヲウケズ、\貢高ノ心ヲ離レ、 【同七三頁】
とあることから、勧奨による決意が生涯変わらなかったことを示している。また、昭和五年に比定され、高知尾智耀宛のもと推測される、日付あて先不明の書簡下書【287a】には、次のように記されている。
 一昨夏からちやうど二年疾みまして先生のご来盛にも伺はずまことにお申し訳けございませんでした。勉強もし直し気力も整へてふたゝびご叱正を仰ぎたいと念じて居ります。 【文庫全集9 三八五頁】
 推測通りであれば高知尾智耀との交流も変わらなかったことになる。賢治の生涯とその作品における法華経信仰の意義は根本的、本質的であったのである。
 原子朗は『新宮澤賢治語彙辞典』【平成十一年 東京書籍刊 以下、新語彙辞典】の「妙法蓮華経」の項目で次のように論じている。
 賢治における「妙法蓮華経」の影響は多く論ぜられているとおりだが、一八歳の時、島地大等編の『漢和対照妙法蓮華経』【赤い経巻】を読んで深く感動し、生涯の一大転機となったと言われる。以来、彼のこの教えへの帰依は終生変わらぬばかりか、強まるばかりであった。彼の法華経への心酔を一言で言うなら、日蓮の説く「色読」【目で読むのでなく全身で、行動・実践をとおして「法華経」を生きていく】そのものであった。したがって法華経が直接作品に引用されたりすることはそれほどでなく【詩[【一九二九年二月】]に「その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり」とあるが、むしろ書簡や手帳のメモ等に多くみられる】、むしろその精神は蔭の力となって全作品に遍満していると言える。彼の想像力の不羈奔放、壮大さがそのまま法華経の影響とも言えるのであって、ややもすれば彼の作品に見られる【ことに童話諸作の】教化思想、人間救済の意識を「抹香くさい」とか「説教臭」があるとして忌避するむきもあるが、彼の想像力の華麗を単に詩的感受性だけで共感するのでは賢治を理解したことにはならないだろう。法華経の存在は今後賢治の全体像を理解していく上で最も大きな問題点でありつづけるだろう。 【同六九二頁】
 原子朗は法華経と賢治の作品との関係を的確に述べ、かつ、これまでの賢治研究の不備や偏りをも指摘している。今後大事なことは、「賢治の全体像を理解していく上で最も大きな問題点であ」る法華経が具体的にどのように賢治の作品と内面的につながっているか、を解明することではあるまいか。本稿はこの視点から『春と修羅』【生前刊行され、現在第一集とされているものを中心に】考察するものである。
   二、『春と修羅』について
    1 心象スケッチとは何か
 大正十三年四月に刊行された『春と修羅』について賢治自身が触れた、すべての解説書に引用されている、よく知られた書簡(部分)を、次に掲げておく。
 前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものではないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。「春と修養」をありがたうといふ葉書も来てゐます。 200 大正十四年二月九日森佐一あて 封書 【文庫全集9 二八一頁】
 わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。214 大正十四年十二月二十日 岩波茂雄あて 封書 【同9 二九八頁】
 心象のスケッチといふやうなことも大へん古くさいことです。そこで只今としてはまったく途方にくれてゐる次第です。たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福にもたらしたいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷悟をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめようとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。 252c 昭和四年 日付不明 高瀬露あて 下書 【同9 三四八頁】
 『春と修羅』を理解するためには、以上三通の書簡に加えて、大正十三年一月廿日付けの有名な『春と修羅』の序文があり、これらの文章の中で賢治自身は『春と修羅』は詩ではなく、心象スケッチであると述べていることから、現在に至るまでその解釈をめぐって種々の見方が提示されている。岩波文庫『宮澤賢治詩集』【昭和二十五年岩波書店刊】の編者谷川徹三の解釈や新潮文庫『新編宮澤賢治詩集』【平成三年新潮社刊】の編者・詩人の天沢退二郎の解釈等があるが、ここでは入沢康夫の解釈を紹介しておく。
 入沢康夫はちくま文庫『宮澤賢治全集』1【昭和六十一年筑摩書房刊】の解説で、『春と修羅』の「序」について、次のように指摘している。
  この「序」の根底をなしているのは、ようやくして言えば、賢治の学生時代からの座右の書であり、深甚な影響を受けた、片山正夫著『化学本論』に象徴される自然科学的立場と、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』が開示する仏教的世界との、二つのものが、ちょうど大正十年、十一年頃にわが国に盛んに紹介されたミンコフスキーやアインシュタインの四次元時空連続体の考え方を媒介に、一つに融合された、まことにオリジナルな世界観・生命観である。それはまさしく「歴史や宗教の位置を全く変換」するに足る展望を含むものだった。【同 七三三頁】
 入沢は、大変難解なために長い間議論の対象となってきた心象スケッチという方法の成立の基盤を的確に指摘しているのではなかろうか。
 さらに、心象スケッチは法華経や仏教的世界観の影響であるとして、では具体的・直接的には何がその方法を賢治にもたらせたのかを論じたのが、鈴木健司の『宮澤賢治幻想空間の構造』【平成六年 蒼丘書林刊】である。
 賢治が国柱会に入会した頃、友人の保坂嘉内に宛てた書簡に
 国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。謹んで此事を御知らせ致し、恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。 【文庫全集9 二四二頁】
と述べ、田中智学への熱烈な帰依の思いを表明している。賢治は保坂に宛てた別の書簡では、次のように述べている。
 「日蓮聖人の教義」「妙宗式目講義録」等は必ずあなたを感泣させるに相違ありません。 【同 二四五頁】
 鈴木健司はこの『妙宗式目講義録』の中の次のような一節に着目し、それが賢治を法華文学の創作に向かわせ、心象スケッチを生み出す機縁となったのではないかと考えた。
  希くは無用の文字に促するものゝ一日も早く滅して、仏祖の大智徳、法華経の大美想を発揮し得るに足るべき大直覚力ある大手筆現はれんことを熱望する。
  諸君!必ずしも上手なくてもよい。誠意の溢ぎりあふるゝ所、一言一句も人間を活動し感起して、自己的欲望の臭を殺がしめ、一切の法理を活かす効能が一分でも具はツて居ツたならば、これ大なる文字ではないか。
  ゆゑに、法界万有は、若しくは有意識にも、若しくは無意識にも、本仏を中心とする傾向と一致すべき筈である。然るに無意識のものは一致しつゝあるに… 【引用は鈴木健司『宮澤賢治 幻想空間の構造』 二三頁以下】
 この田中智学の著作に見られる直覚力や無意識こそが仏性を発揮するという部分に着目した鈴木は、次のように結論する。
  ここにおいて、賢治が「農民芸術概論綱要」で記した「諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる」や「無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である」における「無意識」の語の意味するところを、ほぼ掴み得たということができよう。 【鈴木前掲書 二五頁】
 このように、賢治の心象スケッチと田中智学の著作との関係を重視した鈴木はさらに、天台教学、九識説やウイリアム・ジェームスの心理学と賢治の心象スケッチとの関係について述べ、賢治の心象スケッチという詩作方法は田中智学の著作をとおして日蓮教学や天台教学と深いつながりのあることを論じ、
  「石丸博士【死者】も保坂さん【生者】もみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」という認識は、賢治における日蓮教学【天台の一念三千】の体験的受容をしめすもの 【『宮澤賢治 幻想空間の構造』七五頁】
と述べている。
 分銅惇作は『春と修羅』の「序」は
  法華経の「一念三千」【略】という考え方と因果観に基づいているように思われます。
 【『宮澤賢治の文学と法華経』水書房刊 一〇七頁】
と考察している。
 私は、以上の所論から、賢治が『春と修羅』の「序」で
 わたくしといふ現象は\【略】\【あらゆる透明な幽霊の複合体】\風景やみんなといっしょに\せはしくせはしく明滅しながら\【略】\【すべてがわたくしの中のみんなであるように\みんなのおのおののなかのすべてですから】 【文庫全集1 一五頁】
等と述べている心象スケッチは、同時代の新しい思想の影響のもと、根本的には田中智学をとおして学んだ日蓮教学の一念三千の思想によって成立したと考える。この「序」の中、賢治が【 】でくくったことばはそれぞれ、「十界互具」と「一念三千」の表現であると思う。賢治は日蓮教学の中心思想の一つである一念三千の思想から導き出される世界観を創作の目的、そして方法として、「わたくしといふ現象」の中に「風景やみんな」すべてがある故に、「わたくしといふ現象」を描写することが「風景やみんな」を描写し、「風景やみんな」を描写することが「わたくしといふ現象」を描写することになると考えて、それを心象スケッチと称したのである。
 賢治は田中智学の著作をとおして、日蓮聖人のご遺文、ことに『観心本尊抄』に接したであろう。その場合にはその中の「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」【定七〇四頁】と述べられる十界論に、賢治は大きな関心を懐いたと思われる。もっとも日蓮教学における観心は本尊に対して唱題することであって、ただちに自己の心を観察することではないという反論もあろう。しかし唱題の中、賢治が必死に念じていたことが、「雨ニモマケズ」手帳に書かれた次のような内容であったとすれば、心象スケッチは一念三千の観心であり、賢治の信行そのものであったと言えると思う。
 或は二刻或は終に\唯是修羅の中を\さまよふに\非ずや\さらばこれ格好の\道場なり\三十八度九度の熱悩\肺炎流感結核の諸毒\汝が身中に充つるのとき\汝が五蘊の修羅\を化して或は天或は\菩薩或仏の国土たらしめよ\この事成らずば\如何ぞ汝能く\十界成仏を\談じ得ん 【文庫全集10 三九頁】
 筆ヲトルヤマヅ道場観\奉請ヲ行ヒ所縁\仏意ニ契フヲ念ジ\然ル後ニ全力之\ニ従フベシ\断ジテ\教化ノ考タルベカラズ!\タヾ〈正直ニ〉純真ニ\法楽スベシ。\タノム所オノレガ小才ニ\非レ。タヾ諸仏菩薩\ノ冥助ニヨレ 【文庫全集10 七五頁】
    2、心象スケッチの描こうとしたもの
 賢治は「わたくしといふ現象」を華麗な言葉によってスケッチし、『春と修羅』という豊饒な作品を私たちに残した。しかし、それが読者によって理解されたかというと、「書簡200」に賢治自身「その人たちはどこも見てくれませんでした」【文庫全集9 二八二頁】と述べているように、決してそうではなかった。だが、それは読者の責任ではないと思う。「序」も本文もあまりに難解なためである。
 難解な理由としては、賢治が「断ジテ教化ノ考タルベカラズ」【前掲「雨ニモマケズ手帳」】と述べているように、テーマを隠したことが一因としてあるであろう。前項でも指摘したように『春と修羅』の「序」は「一念三千」がテーマになっているが、その直接的表現はないからである。
 このことはすでに論じたように【『現代宗教研究』第三十一号所収拙稿「法華経と銀河鉄道の夜」日蓮宗現代宗教研究所刊】、作品『銀河鉄道の夜』でも同様であった。日蓮教学の最も大切なテーマである一念三千を、賢治はその作品の中に注意深く隠し、しかも非常に大胆に提示していたのであった。
 また、『春と修羅』が難解なのは、賢治が前掲の書簡で述べているように、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間」【書簡214a】や「宇宙意志といふやうなもの」【書簡下書252c】あるいは「多くの意識の段階」【同】を心象スケッチによって「ある心理学的な仕事の仕度」【書簡200】に準備したためだからでもある。これは一般的な詩作の理由とはかけ離れている。
 賢治の残した資料の中から「われわれの感ずるそのほかの空間」についての記述を次に挙げておこう。
わがうち秘めし\異事の数、\幽界のこ\異空間の断片 【「兄妹像手帳」 文庫全集10 一二八頁】
唯物論ニ与シ得ザル諸点\一、唯物論要ハ人類ノ感官ニヨリテ\立ツ。人類ノ感官ノミ\ヨク実相ヲ得ルト云ヒ得ズ。\二、異空間ニ関スル資料 【同 一二九頁】
   序
      科学に威嚇されたる信仰
     本述作の目安、著書、
 一、異空間の実在 天と餓鬼 分子−原子−電子−真空−異単元−異構成
    幻想及夢と実在、
 二、菩薩仏並に諸他八界依正の実在
    内省及実行による証明
 三、心的因果法則の実在
    唯有因縁
 四、新信行の確立 【「思索メモ」 思1 文庫全集10 四二三頁】
 また、「科学より信仰への小なる橋梁」と題した「思索メモ」思2もある。内容は「思索メモ」思1とほぼ同じである。
 賢治がここにメモしたように、異空間の実在の証明のために、その論料【データ】として『春と修羅』を心象スケッチしたのであるとすると、単に詩であると思って読む読者は華麗な言葉の宇宙に魅了されながら、同時にそこに展開される「異空間」や「幻想」に釈然としないものを感じて当然だろう。
 鈴木健司は『宮澤賢治 幻想空間の構造』の中で次のように述べている。
  賢治作品に頻出する《幻想》に関し、《神秘主義》の側面から初めて光を当てたのは栗谷川虹であった。賢治の体験した《幻想》こそ《心象スケッチ》の実態であるとの栗谷川の主張は、《心象スケッチ》の不可解さを、賢治の体験した《幻想》の不可解さとして了解する道を開いたものとして注目される。 【同 二六頁】
 この栗谷川虹の「見者の文学−賢治の《幻想》について」【宮澤賢治」創刊号】が発表されたのは昭和五十六年であるが、この論文は、現在、『宮澤賢治 異界を見た人』【角川文庫クラッシクス】におさめられている。鈴木はこの栗谷川の論文を踏襲して、さらに次のように述べる。
  栗谷川も指摘しているが、賢治が《幻想》を所有していたことと、賢治が《法華経》を信仰したことは、切り離すことのできない要素として捉えるべきである。なぜなら、賢治は自己の所有する《幻想》を根拠に、仏教的世界観である《十界》の実在の証明に踏み込んで行っているからである。賢治は《幻想》を通じて体験した空間を《異空間》と呼び、科学的に証明されることのない空間の実在することを密かに信じていた。 【同 二七頁】
 このように、賢治にとって法華経を信じるとは十界の実在を信じること、賢治の言葉によると、「宇宙意志」とか「異空間」の実在を信じることと切り離せないものであり、法華文学の創作は十界という「異空間」の実在を描くことそのものであったと言ってよかろう。『銀河鉄道の夜』も異空間を舞台とした物語であった。そして『春と修羅』とは、十界という異空間が「わたくしといふ現象」【心象】の中に確かに実在することの証明を目的として、その論料【データ】を集めるためにスケッチした、到底詩とは言えない、「びくびくもの」の「詩集」【書簡200】であったのである。
   三、『春と修羅』を読む
    1 「春と修羅」の持つ意味
 心象スケッチという方法によって描かれた『春と修羅』を世に問う目的が、法華経の教えを宣布して「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」【書簡200】たものとすると、では、その意図は「詩」のどこに表れているのであろうか。法華経の教えを広めるために「異空間」の実在を描く必要があった理由を、『春と修羅』を読みながら明らかにしたい。『新語彙辞典』は「修羅」について、次のように記す。
  賢治における修羅を考察する場合忘れてはならないのが、天台教学や日蓮教学などで説く悉皆成仏、十界互具思想である。「人間世界の修羅の成仏」【書簡165】が賢治の根本命題であり、ここに賢治の思想を解く一つの鍵が隠されている。【略】「まこと」との対立、そのための賢治の深い苦悩、そして止揚統一へと向かう道程に、彼の全作品と全行動の様式が存在する。 【新語彙辞典 三五一頁】
「序」を読み解く鍵が日蓮教学における「一念三千」の思想であるならば、『春と修羅』の全体を読み解く鍵も「一念三千」の思想である。『新語彙辞典』が「まこと」と修羅との対立と止揚統一と述べている「春と修羅」とは、日蓮教学では、日蓮聖人が「一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず」【『撰時抄』定一〇〇四頁】と示されているように、仏界と九界との対立と相即の問題である。この場合、「春」は仏界を「修羅」は九界を、あるいは善と悪を象徴していると思われる。賢治は「春と修羅」ということばで法華経、日蓮教学の根本問題を自身の課題としたのである。「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」たという賢治の自負が生まれる所以であろう。これらのことを念頭に、その切り口で作品を読むことにする。
    2 作品を読む
 『春と修羅』は「序」と「春と修羅」「真空溶媒」「小岩井農場」「グランド電柱」「東岩手火山」「無声慟哭」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」の八群の詩と補遺で構成されている。【文庫全集1所収】
    @ 「春と修羅」
 巻頭をかざるのが詩「屈折率」である。『兄のトランク』【前掲書 九九頁以下】で宮澤清六は、この詩における兄賢治の心の動きを精密に描写している。
 七つ森のこつちのひとつが\水の中よりもつと明るく\そしてたいへん巨きいのに\わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ\このでこぼこの雪をふみ\向ふの縮れた亜鉛の雲へ\陰気な郵便脚夫のやうに\【またアラツデイン洋燈とり】\急がなければならないのか
 明るい七つ森のひとつと、凍った道をとぼとぼと亜鉛色の雲へと歩く姿の対比が印象的である。賢治はすぐそこの明るい森を見ながら、あえて彼方の暗い世界へと踏みだそうとしている。明るい仏界を見ながら、亜鉛色をした暗い九界へと、菩薩行の道を踏み出す決意を示したものと見られるがどうであろうか。「急がなければならないのか」という最後の一行に賢治の苦渋がにじみ出ているようだ。宮澤清六は「アラツデインのラムプ」をお題目であると、同書で述べている。原子朗は「ここには前進することへの祈りにも似た決意と、それへの不安がみごとに形象化されている」【新語彙辞典 二四七頁】と指摘している。
 次の詩「くらかけの雪」では、黝んだ野原と林と、雪に覆われた白く輝くくらかけ山、詩「日輪と太市」では太陽とその表面を覆う雲、詩「丘の幻惑」では、「ひとかけづつきれいにひかりながら\そらから雪はしづんでくる」と「【お日さまは\そらの遠くで白い火を\どしどしお焚きなさいます】と、雪と火とが、詩「カーバイド倉庫」では軒の電灯とみぞれ、詩「コバルト山地」では氷霧と朝の火、詩「ぬすびと」ではかめをぬすんだものとオルゴールを聴くこととが、詩「恋と病熱」ではわたしと妹とが鮮やかな対比となっている。
 詩「春と修羅」では「四月の気層のひかりの底を」で、「ひかり」とその「底」とが対比されている。次の一節はまさに法華経如来寿量品の仏界の有様であろう。
 砕ける雲の眼路をかぎり\れいろうの天の海には\聖玻璃の風が行き交ひ\Zypressen春のいちれつ
それに続いて賢治は九界の中の修羅界で苦しむ自己を描写している。
 日輪青くかげろへば\修羅は樹林に交響し\陥りくらむ天の椀から\雲の魯木の群落が延び\その枝はかなしくしげり\すべて二重の風景を\喪神の森の梢から\ひらめいてとびたつからす\【気層いよいよすみわたり\ひのきもしんと天に立つころ】
 この中の「二重の風景」という言葉に注目したい。賢治には仏界も九界もどちらも見えている。両者は重なったようにそこにあるのである。仏界と重なりながら、修羅界から出ることの出来ない苦しみをスケッチしている。娑婆即寂光を説く法華経の真理を、賢治はそこに見たのである。
 作品『インドラの網』は霊魂離脱現象とも見られる賢治の異界体験を書いた描いたものだが、主人公は「こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣に居るらしい」とつぶやくのである。これも「二重の風景」について述べたものである。後の詩「宗教風の恋」で「両方の空間が二重になってゐるとこ」と述べ、詩「風景とオルゴール」で「気の毒な二重感覚の機関」と記すのも、「二重の風景」と関連している。
 もちろん賢治は修羅界だけを体験していたわけではない。詩「雲の信号」、詩「風景」、詩「休息」では穏やかな春の光景がつづられている。
 ところが、賢治は詩「谷」で、「異空間」の生き物、「天と餓鬼」【前掲 思索メモ1】を見る。
 わたくしの見ましたのは\顔いつぱいに赤い点うち\硝子様鋼青のことばをつかつて\しきりに歪み合ひながら\何か相談をやつてゐた\三人の妖女たちです 
 おぞましい「妖女」を見た次に、詩「かはばた」では、賢治は天使のような二人の子をみるのであった。
 かはばたで鳥もゐないし\【われわれのしよふ燕麦の種子は】\風の中からせきばらひ\おきなぐさは伴奏をつゞけ\光のなかの二人の子
 これらのスケッチについて、栗谷川虹は次のように述べる。
『春と修羅』は【略】夢や幻想によって混濁した意識の自動記述でもなければ、言葉による空想的世界の構築でもない。私たちは四次元という未知の事象の、希有な報告書を手にしているのです。 【角川文庫クラッシクス『宮澤賢治 異界を見た人』 八四頁】
 この四次元とは「異空間」「他界」のことだと栗谷川は述べている。賢治には十界のいろいろな世界が「二重の風景」のようにそこに見えているのである。
    A 「真空溶媒」
 第二群の詩は、この詩と「アンネリダ・タンツエーリン」の二つだけ。
 詩「真空溶媒」は二四八行の長い、ユーモアに溢れた軽快な音楽のような詩である。主人公の牧師が七行目の「銀杏なみきをくぐってゆく」ところから、舞台は「異空間」に移り、終わりから四行目の「そしてそこはさつきの銀杏の並木」で現実に帰る。銀杏の枝には、異空間の生き物らしい「硝子のわかもの」がいる。牧師の「幻想」はその硝子のわかものが「たいてい三角にかはつて」から「すつかり三角になつてぶらさがる」までのわずかの間のようである。異空間で牧師は「鼻のあかい灰いろの紳士」と出会い、「ゾンネンタールが没くなったそうですが\おききでしたか」と話を交わす。形式といい、内容といい、『銀河鉄道の夜』をほうふつとさせる。牧師となった賢治の魂はどの空間をさまよったのであろうか。
 賢治は書簡153で、石丸先生という人の死を予知したことを記している。
 石丸さんが死にました。あの人は先生のうちでは一番すきな人でした。ある日の午后私は椅子によりました。ふと心が他界方へ行きました。錫色の虚空のなかに巨きな巨きな人が横はつてゐます。その人のからだは親切と静な愛とでできてゐました。私は非常にきもちがよく眼をひらいて考へて見ましたが寝てゐた人は誰かどうもわかりませんでした。次の日の新聞に石丸さんが死んだと書いてありました。私は母にその日「今日は不思議な人に遭つた。」と話してゐましたので母は気味が悪がり父はそんな怪しい話をするなと、云ってゐました。 【文庫全集9 二一一頁】
 このことについて、栗谷川は次のように指摘する。
  さりげない自然な語り口は、心象体験そのものの性質を、如実に物語っています。【略】まるでスウエーデンボルグの霊魂の世界を思わせるような体験です…【栗谷川前掲書 八七頁】
 賢治の心象スケッチとは他人には「気味が悪」く「怪しい話」であった。詩「真空溶媒」は賢治の霊界体験を思わせる。
 恐るべくかなしむべき真空溶媒は\こんどはおれに働きだした\まるで熊の胃袋のなかだ\それでもどうせ質量不変の定律だから\べつにどうにもなつてゐない\といつたところでおれといふ\この明らかな牧師の意識から\ぐんぐんものが消えて行くとは情けない
 この一節は、心象スケッチの最中に賢治が自我というもの際限のない広がりとその境界のなさや、死の世界を体験したことを暗示している。賢治は、この世界のあちこちに不気味な顔を見せる異空間への入り口を出入りしていたのである。
    B 小岩井農場
 九つのパートからなる長大な詩である。小岩井農場という日本離れした自然環境は「いながらにして悲惨な現実からしばし脱け出て、異空間を経験しているかのようなここでの時間は、夢と限りない想像力を彼に開放したと思われる」【新語彙辞典 二四七頁】と指摘されているように、この詩は奔放な心象スケッチの特色を発揮している。
 賢治は汽車から降りて農場へと向かう、同時に立派な紳士も降りて馬車で向かうという出だしからして、この詩も『銀河鉄道の夜』の形式につながる。
 紳士もかろくはねあがる\あのひとはもうよほど世間もわたり\いまは青ぐろいふちのやうなとこへ\すましてこしかけてゐるひとだ
という、カンパネルラの父にも似た紳士は、九界と仏界の間、境目のふちに腰掛け、「二重の風景」にもたじろがない、と賢治は憧憬の思いを抱く。この紳士は賢治の理想像であり、「僕の先生=日蓮聖人」【『銀河鉄道の夜』】へとつながっている。
 この日、五月二十一日の賢治は、五ヶ月前の詩「屈折率」の時と異なって
 それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね\すみやかなすみやかな万法流転のなかに\小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が\いかにも確かに継起するといふことが\どんなに新鮮な奇蹟だろう
と、たいへんかろやかである。パート七では
 さうです農場のこのへんは\まったく不思議におもはれます\どうしてかわたくしはここらを\der heilige punktと\呼びたいやうな気がします
と記している。賢治の天界あるいは「天人常充満」の仏界体験であろう。事実彼はパート四で
 すきとほるものが一列わたくしのあとからくる\ひかりかすれまたうたふやうに小さな胸を張り\またほのぼのとかがやいてわらふ\みんなすあしのこどもらだ\ちらちら瓔珞もゆれてゐるし\めいめい遠くのうたのひとくさりづつ\碌金寂静のほのほをたもち\これらはあるひは天の鼓手緊那羅のこどもら
と、天上界の生き物と出会ったことを語り、「たのしい太陽系の春だ\みんなはしったりうたったり\はねあがったりするがいい」と、歓喜の心に満たされる。
 ところがパート九冒頭で
 すきとほってゆれてゐるのは\さっきの剽悍な四本のさくら\わたくしはそれを知ってゐるけれども\眼にははっきり見てゐない\たしかにわたくしの感官の外で\つめたい雨がそそいでゐる
と述べ、異空間に入り「二重の風景」を見ていた賢治はその体験に耐えられなくなり、
 こんなきままなたましひと\たれがいっしょに行けようか\《幻想が向ふから迫ってくるときは\もう人間の壊れるときだ》 
と、うめき声をあげて、異空間に決別する。
 これら実在の現象のなかから\あたらしくまっすぐに起て
「我が己心を観じて十法界を観る」【『観心本尊抄』】という異空間の体験、恐ろしく、時に賢治の精神は破壊の淵に立たされた。その危険に身をさらした賢治は「ちがった空間にはいろいろちがったものがゐる」し、それは「わたくしにはあんまり恐ろしいことだ」が、改めてこの今生きている世界の中で全力を尽くすことを決意する。ここには後の羅須地人協会の活動につながる賢治がいる。
 このような体験は法華経法師功徳品第十九に「若法華経を持たば【略】三千世界の中の諸の群朋 天人阿修羅 地獄鬼畜生 是の如き諸の色像 皆身中に於いて現ぜん」と説かれる点と深い関係があることを栗谷川は指摘している【前掲書 七五頁】。
 賢治があえて恐ろしい異空間体験を身に引き受けたのはなぜか。
 おそらく、「兄妹像手帳」や「思索メモ」に記しているように、このような体験を通して、「すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従って\さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある」【前掲 書簡下書252C】ことを示し、九界と「宇宙意志」としての仏界が存在する事を証明できると考えたのではなかろうか。
    C グランド電柱
    D 東岩手火山
 大正十一年一月六日に詩「屈折率」を書き始めて、詩「小岩井農場」を書いたのが五月二十一日であった。この後、夏から秋にかけてスケッチされたのが、この二つの詩群である。「グランド電柱」におさめられている二十編の詩には、現実を見る賢治の眼のやさしさを感じる洒落た小品が多い。たとえば、詩「芝生」
 風とひのきのひるすぎに\小田中はのびあがり\あらんかぎりの手をのばし\灰いろのゴムのまり 光の標本を\受けかねてぽろっとおとす
「心象の明滅」の、その一刹那の「新鮮な奇蹟」【詩「小岩井農場」】を切り取った詩である。
 あるいはセザンヌの絵のような、詩「岩手山」。
 そらの散乱反射のなかに\古ぼけて黒くゑぐるもの\ひしめく微塵の深みの底に\きたなくしろく澱むもの
 異界人の眼で見たとしか思えない、「異単元−異構成」の不思議なな描写である。
 岩手山は東西二つの火山で構成され、次の詩群の中の四編の一つ詩「東岩手火山」はこの山をスケッチしたものである。
 詩「東岩手火山」は、明らかに現実世界を描きながら、そこには星巡りのような透明感と冥界巡りのような不気味さがないまぜになって漂っている。
 かすかに光る火山塊の一つの面\オリオンは幻怪、\月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄\あくびと月光の動転\【あんまりはねあるぐなぢやい\汝ひとりだらいがべあ\子供等も連れでて目にあへば\汝ひとりであすまないんだぢやい】火口丘の上には天の川の小さな爆発\みんなのデカンショの声も聞える
 この一節では「かすかに…」と「あんまり…」そして「火口丘の…」と「みんなの…」と、異空間のような世界と平穏な日常のスケッチが交互にあらわれる。賢治は「青ぐろいふちのやうなとこへ\すましてこしかけてゐる」【詩「小岩井農場】ようにさえ見える。生涯の中で最も楽しかったと伝えられる花巻農学校教師の時代の賢治の心象である。次にかろやかな詩「栗鼠と色鉛筆」を掲げておこう。
 樺の向ふで日はけむる\つめたい露でレールはすべる\靴革の料理のためにレールはすべる\朝のレールを栗鼠は横切る\横切るとしてたちどまる【略】色鉛筆がほしいって\ステッドラアのみじかいペンか\ステッドラアならいいんだが\来月にしてもらいたいな\まああの山と上の雲との模様を見ろ\よく熟してゐてうまいから
 このような日々がいつまでも続けば、と思わせるような光にあふれた一編のスケッチ。ところが、その日常に大きな亀裂が入る。妹トシの死である。
    E 「無声慟哭」
    F 「オホーツク挽歌」
 大正十一年十一月二十七日、妹トシが亡くなった。賢治は同日付けで「無声慟哭」中の詩「永訣の朝」詩「松の針」詩「無声慟哭」の三編を書く。「無声慟哭」中の後の二編、詩「風林」詩「白い鳥」が書かれたのは翌年の六月のこと。八月には「オホーツク挽歌」におさめられた五編の詩が書かれる。
 「けふのうちに\とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ」「もうけふおまへはわかれてしまふ」【詩「永訣の朝」】と賢治は心の内で呼びかける。賢治は今まで、「風景やみんな」が「わたくしといふ現象」の中に明滅していると思っていた。ところが妹は、死によってはるか遠くへ行ってしまう。親しい者の死によって生じた断絶感が、この詩には漂う。大正十三年一月に書かれた『春と修羅』の「序」の一節には、トシの死の影響を感じる。
 ただたしかに記録されたこれらのけしきは\記録されたそのとほりのこのけしきで\それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで\ある程度まではみんなに共通いたします
詩「芝生」や詩「栗鼠と色鉛筆」の楽しいかろやかな日常が、今ではかえって心に重くのしかかってくる。
 おまへがあんなにねつに燃され\あせやいたみでもだえてゐるとき\わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり\ほかのひとのことをかんがへながらぶらぶら森をあるいてゐた 【詩「松の針」】
 賢治は、かつての楽しさに溢れた日常の世界では、この現実の娑婆世界がそのまま寂光浄土であると説く日蓮教学を抵抗なく享受したであろう。しかし、今の賢治は悩む。
 《それでもからだくさえがべ?》\《うんにゃ いっこう》\ほんたうにそんなことはない\かへってここはなつのはらの\ ちひさな白い花の匂でいっぱいだから\ただわたくしはそれをいま言へないのだ\【わたくしは修羅をあるいてゐるのだから】 【詩「無声慟哭】
 そして賢治は妹トシの天上界への再生を願う。
 どうかこれが兜卒の天の食に変って 【詩「永訣の朝】
 どうかきれいな頬をして\あたらしく天にうまれてくれ 【詩「無声慟哭】
 日蓮聖人は『観心本尊抄』で、述べられている。
 教主釈尊は五百塵点已前の仏也。【略】その外十方世界の断惑証果の二乗並に梵天・帝釈・日月・四天・四輪王乃至無間大城の大火炎等、此等は皆我一念の十界か。己心の三千か。仏説たりと雖も之を信ずべからず。【定七〇七頁】
 全宇宙がこの我が心に具わっているのであれば、「わたくしといふ現象」の中に妹トシもいるのではないかと、賢治は考えたにちがいない。しかし、トシはどこにいるのだ、トシは今でも存在するのか、とトシの死後に、賢治は様々の想念に襲われたのである。
 とし子とし子\野原へ来れば\また風の中に立てば\きっとおまへをおもひだす\おまへはその巨きな木星のうへに居るのか\鋼青壮麗のそらのむかふ\【ああけれどもそのどこかも知れない空間で\光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか\…此処あ日あ永あがくて\一日のうちの何時だがもわがらないで…\ただひときれのおまへからの通信が\いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ】 【詩「風林」】
 死者からの通信が届いたが、賢治は安心を得ることはできない。幻想が彼を苦しめる。
 またたれともわからない声が\人のない野原のはてからこたへてきて\わたくしを嘲笑したことか 【詩「白い鳥」】
 しかもこのように苦悩する賢治の頭の隅では、この世は浄土であるとささやく声がする。
 水が光るきれいな銀の水だ\《さああすこに水があるよ\口をすすいでさっぱりして往かう\こんなきれいな野はらだから》 【詩「白い鳥」】
 賢治の煩悶は詩群「オホーツク挽歌」でも続く。詩「青森挽歌」には、妹トシの死をきっかけにして、トシの死後生存の有無やトシが転生したかもしれない天上界や地獄界等の異空間がスケッチされる。ここには「死」を探求する痛々しい賢治の姿がある。
 とし子はみんなが死ぬとなづける\そのやりかたを通って行き\それからさきどこへ行ったかわからない\それはおれたちの空間の方向ではかれない 【詩「青森挽歌」】
 ほんたうにあいつはここの感官をうしなったのち\あらたにどんなからだを得\どんな感官をかんじただろう\なんべんこれをかんがへたことか\むかしからの多数の実験から\倶舎がさっきのやうに云ふのだ\二度とこれをくり返してはいけない 【同】
 このように『倶舎論』の教えるところにしたがって、賢治はトシの死後生存を信じる。この世が浄土であるとしても、死者の住まない生者だけの浄土では何になろうと考えたに違いない。では、賢治は、トシが天上界へ転生したことで満足し、納得していたのであろうか。それでは賢治が捨て去ったはずの浄土真宗の浄土観に近く、法華経の浄土観ではないのではなかろうか。
 あいつはどこへ堕ちようと\もう無上道に属してゐる\力にみちてそこを進むものは\どの空間にでも勇んでとびこんでいくのだ 【同】
 これこそ法華経の浄土観であろう。賢治の妹トシを思う旅は続き、詩「オホーツク挽歌」そして詩「樺太挽歌」では「ナモサダルマプンダリカサスートラ」というお題目のいのりが繰り返しあらわれる。しかし賢治の喪失感は癒されなかった。
 ああなんべん理智が教へても\私のさびしさはなほらない\わたくしの感じないちがった空間に\いままでここにあった現象がうつる\それはあんまりさびしいことだ\【そのさびしいものを死といふのだ】\たとへそのちがったきらびやかな空間で\とし子がしずかにわらはうと\わたくしのかなしみにいぢけた感情は\どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ 【詩「噴火湾」】
 賢治の「わたくしといふ現象」の中には、あれほど多くの異界の生き物の姿が明滅したというのに、死んだトシは現れない。トシはいったいどの空間に「勇んでとびこんでい」ったのだろうか。
    G 「風景とオルゴール」
 トシの亡くなった翌年の八月、北方の旅で心象をスケッチした賢治は、その年の秋から冬にかけて十三編の詩をつくった。九月一日には関東大震災がおこり、賢治は「東京の避難者たちは半分脳膜炎になって\いまでもまいにち遁げて来るのに\どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを\わざとあかるいそらからとるか\いまはもうそうしているときでない」【詩「宗教風の恋」】と自分に言い聞かせている。深い悲しみに沈んでいる賢治にも、変化が生じる。
 油紙を着てぬれた馬に乗り\つめたい風景のなか暗い森のかげや\ゆるやかな環状削剥の丘赤い萱の穂のあひだを\ゆっくりあるくといふこともいいし\黒い多面角の洋傘をひろげて\砂すな砂糖を買ひに町へ出ることも\ごく新鮮な企画である 【詩「不貪慾戒」】
 一年八ヶ月ほど前に明るく楽しい森を横に見ながら、「亜鉛の雲」【詩「屈折率」】に向かって歩き始めた賢治は、妹トシの死を契機に死の彼方の世界をかいま見た。異空間から帰還した賢治は、見なれた森や町にあらためて「新鮮な」想いを懐き、これまでを省みて、次のように云う。
 なぜこんなにすきとほってきれいな気層のなかから\燃えて暗いなやましいものをつかまえるか\信仰でしか得られないものを\なぜ人間の中でしっかり捕へようとするか 【詩「宗教風の恋」】
 賢治は、論料【データ】を集めていけば仏教的世界観である十界という異空間を解明できると考えた。十界の神秘を感じた賢治は、その壮大さに圧倒され、神秘の世界を封印しようとしたのではないか、「その世界は信仰の領域だ」と。
 そこはちやうど両方の空間が二重になってゐるとこで\おれたちのやうな初心のものの\居られる場所では決してない 【同】
 人間の世界と異空間とが重なっているところを、「二重の風景」を見るように生きていくことのむずかしさを、彼はつぶやくのである。
 この「初心のもの」という言葉で思い出すのは、日蓮聖人の『寺泊御書』である。
 或る人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。【定五一四頁】
 この非難に対して、聖人は答える。
 勧持品に云く、諸の無智の人有て悪口罵詈す等云云。日蓮此経文に当れり。汝等何ぞ此経文に入らざる。及加刀杖者等と云云。日蓮は此経文を読めり。汝等何ぞ此経文を読まざる。 【同】
 聖人は、「色読」によって、今、ここが仏界であり、浄土であると考えられた。賢治の表現を使用すると、そこは仏界という異空間と娑婆世界とが二重になっていて、聖人は「二重の風景」を見ながら仏界に安住されていたのである。それは「深位の菩薩」の境界である。「初心のもの」にはその真似はできない。信仰によって、信じるしかない。
 二重の風景の一つである異空間である仏界を仰ぎ見て、賢治はため息をつく。
 あてにするものはみんなあてにならない\ただもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で\そしてそれらもろもろの徳性は\善逝から来て善逝に至る 【詩「昴」】
 しかし、と彼はまた考え直す。
 なにもかもみんなたよりなく\なにもかもみんなあてにならない\これらげんしゃうのせかいのなかで\そのたよりない性質が\こんなきれいな露になったり\いぢけたちひさなまゆみの木を\紅からやさしい月光いろまで\豪奢な織物に染めたりする 【詩「過去情炎」】
 生・老・病・死におおわれたこの世界はまた大変美しい異空間である、二重の空間だから、この世界に浄土が浸透しているのではなかろうか、と賢治は思う。
 こんなあかるい穹窿と草を\はんにちゆっくりあるくことは\いったいなんといふおんけいだろう 【詩「一本木野」】
 ある冬の日のこと、賢治が訪れた街の市場の光景は、まるで天にかかる銀河のように光輝いて見えた。
 しづくは燃えていちめんに降り\はねあがる青い枝や\紅玉やトパーズまたいろいろのスペクトルや\もうまるで市場のやうな盛んな取引です 【詩「冬と銀河ステーション】
 ここで賢治は、天上の世界はまるで地上のように美しい、と語っているようである。私は、『銀河鉄道の夜』の美しい一節を思い出す。
 下流の方は川はヾ一ぱい銀河が大きく写ってまるで水のないそのまヽのそらのやうに見えました。
 この一節について、私は「一念三千は九界即仏界、仏界即九界」【『撰時抄』】の教えの美しい表現と述べたが【前掲『現代宗教研究』第三十一号 一五七頁】、この『春と修羅』の最後の詩も同じことを語っていると思われる。
 以上、要約すると八群の「心象スケッチ」は、異空間すなわち十界という世界を体験した【すなわち一念三千を行じた】賢治の、栗谷川のことばを借りると「希有な報告書」である。そこには賢治の体験を通して、この世界と他の異空間との様々な関係が見られる。仏界と九界との関係で見るならば、かつて田村芳朗が述べた「ある」「なる」「いく」浄土を発見することもできる。では賢治が、森佐一あて書簡において
 私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し 【文庫全集9 二八一頁】
と述べたことは、一体何なのか。栗谷川は『異界を見た人』において、その答えとして次のような梅原猛のことばを引用している。
  「序」の言葉は、われわれがヨーロッパから学んだ近代的世界観、人間観から、仏教的世界観、人間観への完全なる「変換」を告知する言葉なのである。賢治が「歴史と宗教との変換」とよんだのはそういう意味であろう。 【『地獄の思想』中公新書】
 ここでいう「仏教的世界観、人間観」とは、一言で表現すると「一念三千」の思想である。この『春と修羅』は、近代的世界観を超えた法華経の一念三千の世界のスケッチ、その体験の「希有な報告書」ではなかろうか。栗谷川は「人々が唯一絶対としている現実が、いかに小さな閉ざされた極所にすぎないか、ほんの少し目を外に向けさえすれば−。」 【角川文庫クラシックス『インドラの網』解説】とも述べている。
 近代から現代に至る科学技術の飛躍的進歩とそれにともなう情報量の飛躍的増大によって、私たちの人間的感覚が鋭くなったかというと、決してそうではあるまい。途上国の悲惨な現実をテレビ画面で見ながらも、私たちの食生活には変化はない。
 賢治は、彼の生きた東北地方の現実に目をつぶって楽な生活を送ることも出来たはずである。しかし彼にはそれが出来なかった。なぜならば、世界のありのままの姿が彼の心象には映っていたからである。明るく楽しい七つ森を見ながら「縮れた亜鉛の雲へ」と急いだ賢治の生き方に、一念三千の思想と宗教の今日的意味を見ることができる。賢治はひとりの生の喜びや悲しみを描くことによって、生の深淵を私たちの前に示して見せたのである。

 ※本稿は第五十二回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。



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