日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 現宗研所報 > 第34号
所報第34号:233頁〜 研究ノート ←前次→

  近世信濃国における日蓮教団の展開
        −南信伊那郡を中心とした諸門流について−

作  田  光  照   
(現代宗教研究所所員)    

 長野県は大きく北信・東信・中信・南信の四区に分けられ、本考では南信地域の中でも伊那郡を中心とした信濃国における近世日蓮宗寺院史につてい論じます。
 まず、対象とする寺院は『日蓮宗寺院大鑑』を基にして、創立年代の下限を江戸幕府滅亡の一八六八年までとしました。これに該当するものは三一ヶ寺あり、これに「寛永」*1「延享」*2「天明」*3の寺院本末寺帳と、伊那郡のみを対象とした『伊那神社仏閣記』*4『伊那誌略』*5に記載のあるもの、またその他の文書に存在が確認でき、江戸末期までに廃寺もしくは改宗となった寺院一三ヶ寺を見出し、これら全四四ヶ寺を対象とした。
 信濃国で寛永期(一六二四〜四四)までに、存在が確認できる寺院は三八ヶ寺あり、近世初頭において信濃国での日蓮教団の寺院基盤はほぼ確立されていたといえよう。しかし、寛永の本末寺帳には信濃国の記載は一五ヶ寺のみに止まっている。この一五ヶ寺は各本山の直接の配下にある直末寺であり、孫末寺は含まれていない。孫末寺の把握が不十分かつ大雑把な記載は寛永の本末寺帳の特徴の一つで*6あり、近世幕藩体制における宗教政策の一つである本末制度確立の初期段階にあることを表している。その後、寛文九年(一六六九)幕府が不受不施寺院の寺請けを禁止した、いわゆる寛文の不受惣滅の後に作成された延享の本末寺帳では信濃国分は二六ヶ寺あり孫末寺までの詳細な記載がされ、天明の本末寺帳にいたるは寛永期の倍以上の三四ヶ寺が現れてくる。したがって、延享・天明の本末寺帳により、寛永期における孫末寺の存在を肯定できる材料となり、また寛永の本末寺帳にある寺院はその地方における本山直轄の中心的役割を担う寺院といえよう。
 近世の信濃国四四ヶ寺は大きく、身延山久遠寺・四条妙顕寺・六条本圀寺の三系統にわけられ、それぞれ、久遠寺の末寺は二三ヶ寺、妙顕寺は六ヶ寺、本圀寺は一〇ヶ寺(三本山とも直末・孫末寺を合わせた数)となっている。この三本山の末寺が全四四ヶ寺の九割以上をしめることになり、このうち幕末までに末寺を有する本山の直末寺である本寺は、
 身延山久遠寺直末寺=蓮乗寺・遠照寺・弘妙寺
 四条妙顕寺直末寺=蓮華寺(=長遠寺)
 六乗本圀寺直末寺=長源寺
の五ヶ寺で、このうち埴科郡蓮乗寺を除く四本寺は南信伊那郡にある。その中でも妙顕寺、本圀寺の末寺は信濃でも南信伊那郡にしか存在せず伊那郡の中でも上伊那は妙顕寺・久遠寺の末寺、下伊那は本圀寺末寺と区分することが可能である。伊那郡は広い信濃国でも近世四四ヶ寺の半数以上の寺院が偏在している地域なのである。
 寛永の本末寺帳の一五ヶ寺中、支配本山は久遠寺と本圀寺のみであり、近世初頭の信濃国は身延門流と六条本圀寺門流を中心に発展をしていたことが伺える。また、寛永期における上伊那地域は、久成山本妙寺が本圀寺末である以外、久遠寺の末寺で占められている。しかし前述のように、寛永の末寺帳は孫末寺が記載されていないので、蓮華寺・遠照寺・弘妙寺の末寺も存在していたと考えられ、これは同じく下伊那の本寺長源寺にもあてはまる。
   上伊那蓮華寺
 上伊那蓮華寺は正平一五年(一三六〇)に身延山久遠寺五世鏡円日台を開山に仰ぐ「長遠寺」として北原の地に草創された。日台は北原山長久寺の草創にもなっており、伊那郡身延門流の初祖となる。また、開基には四条妙顕寺開山日像の資であり、妙顕寺後住の大覚妙実が列座する。妙実は正平一九年(一三六四)に六八歳で寂している事から、長遠寺は備前に伝道した後、晩年の草創寺院であたる。開基が妙実ということで長遠寺が後に四条門流になる礎石が伺えるが、その寺地移転、寺号改称、本寺替えの期とするところはどの時期になされたものなのであろうか。
 蓮華寺は寛永の本末寺帳には旧寺号「高遠長遠寺」の名で久遠寺末に編入されており、『伊那神社仏閣記』と延享の本末寺帳成立期である延享元年(一七四四)〜同二年(一七四五)には既に「蓮華寺」の寺号で妙顕寺の末寺として編入されている。ということは、寛永一〇年(一六三三)〜延享二年(一七四五)の間に寺号、本寺とも改められた事となる。
 長遠寺一七世顕寿院日遵は高遠城主保科正之の生母浄光院の帰依をうけ*7、日遵代に北原の地から高遠的場の城下に移転した。保科正之は徳川三代将軍家光の異母兄弟にあたり、寛永八年(一六三一)に養父保科正光より家督を継ぎ高遠城主となった。寛永一二年(一六三五)母浄光院の死に際して、長遠寺日遵を導師として同寺に葬り、また墓碑を身延に建立し*8ている。
 浄光院没後の寛永一三年(一六三六)に高遠から出羽二〇万石に移った正之は、同地の本眷寺を浄光寺をとして再興し、序で寛永一六年(一六三九)には会津若松二三万石の城主となり、母の菩提を弔うため法紹山浄光寺を創建した。その際に長遠寺日遵が出羽浄光寺四世、会津浄光寺開山として正之の請により迎え入れられており、両浄光寺共に延享の本末寺帳には久遠寺末寺で編入されている。
 これらのことから、正之の日遵に対する信奉の篤い事が伺え、日遵を介して本山久遠寺にも信仰を寄せている。また、母浄光院がそうであったろう事は想像に難くない。故に、日遵、正之当時の寛永年間においては、久遠寺を背景とした上伊那での本寺として、延享の本末寺帳に現れる末寺を統括していたといえる。
 元禄九年(一六九六)の高遠藩『領内寺院開基帳』*9には、「本寺京妙顕寺末寺法華宗妙法山蓮華寺」と記載されており、またその末寺五ヶ寺もみな「本寺的場蓮華寺」と記されているので、本寺長遠寺の久遠寺から妙顕寺への本寺替えに末寺五ヶ寺も付き従ったものと思われる。一七世紀後半には本山妙顕寺に対する中本寺蓮華寺と、その末寺五ヶ寺が妙顕寺門流となっていた。
 保科正之が出羽へ国替えのさい、高遠城には鳥居氏が藩主となっている。保科氏は日遵、久遠寺に信仰があることが伺えるので、北原から的場への長遠寺移転は考えられても、妙顕寺末となるのは鳥居氏代になってからの事であろう。蓮華寺の寺院沿革には草創当時は妙顕寺の末寺でったが、「道は甚だ遠く不便尠からざる」*10により、久遠寺の末寺になったが、慶安年中に本末論争が起こり長遠寺の寺号を久遠寺に返して、蓮華寺となるに到るとあるが、一次史料としては肯定し難いので、本稿では本寺変遷のおよその年代を示すに止まる。
 保科氏、鳥居氏と藩主の外護を得ることによって、蓮華寺は塔頭三ヶ寺、末寺五ヶ寺と上伊那では身延門流を凌ぐ本寺に成長し、文政八年(一八二九)には本寺妙顕寺より「勅額菊之紋拝領 東竜華院」と称されるに至る。

   下伊那長源寺
 草創年代で見ると下伊那で最も早く草創された寺院は、摩可一日印開山の光蓮寺で、上伊那では日朗門下の日遊開山の深妙寺である。一四世紀ころの信濃国は朗門系が拠点を持ち始めた。
 下伊那長源寺は康永元年(一三四二)本圀寺四世妙竜院日静を開山に仰ぐ、草創当初からの本圀寺末寺であった。池上日樹が寛永七年四月に身池対論で下伊那飯田の脇坂淡路守安元預かりとなった頃は、末寺四ヶ寺を有する本寺となってる。
 慶長一五年(一六一〇)には領主小笠原秀政が寺領安堵の下し文を*11しており、さらに秀政は夫人延壽院と衰微している筑摩郡松本の本立寺を再興*12して、本圀寺一六世究竟院日を中興開山に迎えている。本立寺は開山身延一七世慈雲院日新の久遠寺末寺であるが、ここに本圀寺の支配が始まり日の後住に長源寺一二世慈雲院日甄をあてている。本立寺再興の四年前慶長一五年(一六一〇)に久遠寺は末寺一般に対して「談義条目五箇条」*13を発し、法論談義する場合に本山の許可を必要とし、折伏弘通を禁止する状を本立寺に対しても発している。これは慶長一三年(一六〇八)慶長法難の影響下にある措置であるが、本立寺は再興の直前まで久遠寺の影響下にある事が伺え、本圀寺日をして復興しても、本圀寺の末寺に組み入れられることはなかった。
 日と長源寺の親交が確認できるのは、長源寺一三世壽量院日泉代の本尊授与にはじまる。後住の日甄も慶長一四年(一六〇九)に「長源寺常住本尊」を授かり、本圀寺末寺の若狭国小浜向嶋山長源寺より下伊那長源寺に晋山している。この日泉・日甄代から本寺である本圀寺との密接な関係を結ぶようになった。
 元和三年(一六一七)には下伊那光蓮寺の住職任命を長源寺日泉の仲介により日が下しており、実相院日瑞が補任されている。元和当時の本圀寺当住は鷲峯院日桓であり、日は嵯峨寂光寺に隠棲していたが、遠方の地方寺院統括に余念がなかった。
 また、領主小笠原秀政も本圀寺日と親交があったようで、本立寺再興の際に、日蓮が秀政に本尊を*14授けおり、長源寺に蔵されている。
 寛永年間には光蓮寺・長光寺・妙泉寺が、長源寺の末寺たることを不服とし、本圀寺の直末になる事を訴えているが*15、長源寺は本山本圀寺日を本寺と仰ぐことにより、外護者小笠原秀政をして下伊那での末寺統制を保障されていたので度重なる訴えにも末寺離散にはいたらず、弘化四年(一八四七)には長源寺三九世普恬院日桂が身延六五世に晋山している。

 上伊那蓮華寺、下伊那長源寺は、対外的には在地領主の外護を受け、対内的には本山直系の本寺たる権威を持つことにより末寺掌握を保証された。両寺は門流の違いこそあれ、地方寺院の末寺統制を語る上での一つの構図を示しているといえよう。また、信濃国は東西交流の中間地点である内陸地域であるが、南信伊那郡は隣接する甲斐国久遠寺の支配もさることながら、妙顕寺、本圀寺と関西門流の勢力圏にある。このことは、東海道筋の三河国から下伊那天竜川沿いに北進する伊那(三州)街道、高遠を起点とする秋葉街道、金沢道は、やがて甲州街道へと通ずる街道筋の影響を無視できない。また、南信地域以外に関西門流の寺院を見いだせないことでも理解できよう。
 信濃国伊那郡の寺院は幕府の宗教統制のなか、巧みに生き抜く近世寺院の一端を示すものである。

 註
 *1 寛永の本末寺帳は、『江戸幕府寺院本末帳集成』(寺院本末寺帳研究会編、全三巻)に所収されている、内閣文庫本所蔵「諸宗末寺帳」である。寛永九年(一六三二)〜寛永一〇年(一六三三)に各宗本山から江戸幕府寺社奉行宛に作成された全四五冊。法華宗は全国二二六四ヶ寺の末寺が書き上げられている。<表1>の「寛永」にあたる。
 *2 延享の本末寺帳は、「延享二年 身延山久遠寺触下本末帳」(「日蓮教学研究所紀要」第三号所収)延享二年(一七四五)久遠寺がその触下支配の本寺・末寺を書き上げ、幕府に提出した扣である。このとき久遠寺が、その資料として各触下本寺に書き上げされた末寺帳と共に、現在身延文庫に蔵されている。また、このもととなる資料が「日蓮教学研究所紀要」第四号に「延享二年 身延山久遠寺触下本末帳(続)」として紹介されている。<表1>の「延享」にあたる。
 *3 天明の本末寺帳は*1に同じ、『江戸幕府寺院本末帳集成』(寺院本末寺帳研究会編、全三巻)に所収されている、天明〜寛政年間に各宗本山から中本山に命じ末寺を書き上げ中本寺→大本山→幕府寺社奉行へ提出した。全一三〇冊(水戸藩主徳川斉昭の段階で幕府から原本を借り、彰考館に命じた書写本)で、日蓮宗は天明六年(一七八六)〜七年(一七八七)の書き上げのものが蔵されている。<表1>の「天明」にあたる。
 *4 『伊那神社仏閣記』(新編『信濃史料叢書』第一四巻、所収)、延享元年(一七四四)信濃曹洞宗の総録所であった埴科郡松代の長国寺に対し、上下伊那郡内の村々が書き上げた神社・仏寺等の原本を筆得したのもであるので、したがって信濃国全域を対象としたものではなく、伊那郡の寺院のみの記載である。上伊那郡に限り明和五年(一七六八)の書き込みが多いが、延享元年以降の成立寺院はないので、初筆の年として採録した。伊那郡全一五四ヶ寺書き上げ宗派ごとに、曹洞宗=五八ヶ寺・真言宗=三二ヶ寺・臨済宗=二四ヶ寺・浄土宗=一四ヶ寺・法華宗=一二ヶ寺・天台宗=一〇ヶ寺以下、真宗・黄檗宗。<表1>の「伊記」にあたる。
 *5 「伊那史略」(『蕗原拾葉』長野県上伊那郡教育委員会編全三巻下巻、中村元恒編に所収)高遠藩の儒家中村元恒が文化九年(一八一二)に伊那郡の地域、風俗、土産、神祇、墳墓、仏寺、古跡、氏族等を詳述したもの。宗派、本寺、開基年代等が記されている。<表1>の「伊史」にあたる。
 *6 例えは、池上本門寺は、孫末寺、曾孫末寺までの記載があるが、全国的な詳細な書き上げは、「延享」「天明」を待たねばならない。「寛永」では信濃国に限れば直末寺のみに止まる。
 *7 『柳営婦女伝叢』(国書刊行会編)所収「幕府祚胤伝」二五六頁。
 *8 『本化別頭仏祖統記』五三六頁。「棲神」第四八号 町田是正「身延山墓碑史考ー江戸諸大名関係を中心としてー」に詳しい。
 *9 「元禄九年領内寺院開基覚」、『長野県史』(長野県史料刊会編)近世史料編第四巻(一)所収。
 *10 北原道雄著『高遠藩史の研究』所収。
 *11 「長源寺文書」『信濃史料』二〇巻六〇八〜六〇九頁所収。
 *12 「小笠原秀政年譜乾」『信濃史料』二一巻五八九〜五九一頁所収。
 *13 「龍興寺文書」『信濃史料』第二五巻一七六〜一七七頁所収。
 *14 『日蓮宗年表』二二七頁。
 *15 「長源寺文書」『長源寺誌』二〇四〜二二四頁。

 ※本稿は第五二回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。













このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.