顕正会とは何か
顕正会の概要
−教義と沿革−
早 坂 鳳 城
(現代宗教研究所前主任)
はじめに
ただいま御紹介にあずかりました、早坂鳳城でございます。あたえられました講題が「顕正会の概要−教義と沿革−」ということで多岐に渡りますので早速、本題に入らさせていいただきます。
世間一般では、興門派と申しますと大石寺、大石寺と申しますと、創価学会と以前は思われていて、私共は、非常に迷惑したわけでございます。興門派といえば、この席には北山本門寺系の方もいらっしゃるかと思いますが、興門教学の流れをくむ北山本門寺も日蓮宗に属します。それから西山本門寺、本山は単立ですけれども、その系統の末寺は、私どもの日蓮宗に現在帰属しております。要するに勝劣と一致の分かれですけれども、私たちの日蓮宗は通例、旧一致派と申しますが、興門系の勝劣派の流れも実際には含んでいるということです。
一、顕正会の教義
ところで、顕正会の教義の特徴ですが、端的には日蓮正宗の教学を現代風にアレンジしつつ、過激にしたものであるというふうに認識していただけるといいと思います。その特徴を挙げるならば、レジュメに記しましたように、大体五項目になるのではないかと思います。
@日蓮聖人を本仏とする。これはいうまでもありません。A国立戒壇の建立を目的とする。B「板本尊」を帰依の唯一絶対の本尊とする。C血脈相承による正当派意識。D終末論的な末法思想を強調する。このD辺りが顕正会が新宗教に属するゆえんだということです。オウム真理教もやはり終末論・・・を強調いたしました。
教学でございますが、「日蓮本仏論」というのは、御遺文や法華経にない。だからあの教義はどおってことないと、なめてかかると、いわゆる正宗系の人と問答して負けちゃったという人を私はよく耳にいたしました。昭和五十年代ぐらいからは、路線変更も手伝ってか創価学会の人達と問答する機会も減って来たかと思います。しかし最近になって、過激な顕正会が出てまいりました。顕正会はまだ本宗との問答はそんな多くはないようですが、これからふえてくると思われます。
実際に現宗研が顕正会についてのQ&Aを出すという情報は向こうにもれてしまいまして、日蓮宗の現代宗教研究所と問答したい、こんなふうに言っているという報告を耳にしております。だから何らかの形で法論をしかけたいと向こうは思っているわけです。
なぜ彼らは既成教団と法論したいのか。実はこれは勝っても負けてもどうでもいいのです。いわゆる伝統日蓮宗と問答をしたこと、彼らは伝統日蓮宗と同じ席についた、このことによって教団宣伝につながるわけです。それが向こうのねらいです。ですからこのことにも注意していただきたいと思います。
では向こうは戦略的に、問答をしかけてくるかというと、まだわかりません。一般的にはそういう教化のやり方をしていませんが、それはあくまでも対信徒のことで、私たち相手となると自ら別の選択をするかもしれません。
@日蓮聖人を本仏とする
そういうわけで、何だか復習をさせられるみたいに思われるかと思いますが、今日はもう一度、「日蓮本仏論」を構造的に見てみよう、そういう考えで少しくお話をさせていただきたいと思います。
レジュメの二ページに、仏、本地仏(久遠実成)、垂迹仏(印度)とあります。日蓮本仏論では、釈迦を脱仏というわけですが、その釈迦は何を指しているか。実際には向こうの本仏に対する考え方は、久遠実成の釈迦を指しては言っておりません。法華経の本迹論の図を思いだしていただければいいのですけれども、実は法華経の中の本門と迹門、その次の文上と文底、寿量品のところですが、その中のあくまでも文底のところだけを指して本仏といっています。いわゆる本門の法華経という方、本門の久遠実成の釈尊をですね、あくまでもそれは教相という立場から説明するもので、正宗では垂迹の釈迦を指すのだといっています。そこをポイントとしてまず押さえておいていただきたいわけです。
繰り返し説明しますと、顕正会は日蓮本仏のことを次のように説明します。先ず五百塵点劫の始めに最初の下種をした「久遠元初の自受用身」、これが本仏です。そして正像二千年の間、「本已有善の衆生」を教化するために三十
二相の荘厳身を備えた熟脱の仏が出現する。それから白法隠没末法の「本未有善の衆生」を救済するために「久遠元初自受用報身」が日蓮聖人となって生まれ変わった。これが正宗の日蓮本仏の説明でございます。
ここで私たちがもう一度思い出さなければいけないのが、天台の三種教相の中にある三益論の中の「種・熟・脱」です。三種教相というのは、天台が説いた教説でございまして、爾前経に比べて法華経の優れていることを説く法門でございます。その中で三益論は、法華経で仏が衆生を教化していく上での三つの段階のことです。それで今申しました「種・熟・脱」、下種とは衆生に種をまく。そしていろいろに肥料を施して成熟する。そして解脱益をうる。果実の収穫、解脱がそこで与えられる。日蓮本仏論の場合は、五百塵点劫の始めに下種を受けながら、成仏していなかった「本已有善の衆生」が解脱益を得た時点で釈迦の役割は終わり、まだ一度も下種を受けていない「本未有善の衆生」を救済するために、再び久遠元初の自受用身が日蓮聖人として生まれ変わってくるという考え方であります。
しかしそもそも仏というのは、輪廻から解脱しているのでありますから、生まれ変わることは菩薩の場合は、衆生の救済という誓願をたてるわけですから、永遠に生まれ変わってくるわけですけれども、解脱をした仏は生まれ替ってこない。スタートラインからしてすでにおかしい。
それから三益論、先ほどの「種・熟・脱」ですがこの考え方も、天台の説く三益論の考え方ではありません。そもそも、三益論というのは、化道の始終不始終を明かすに、法華経に於いてのみ「種・熟・脱」が具足するために、釈尊の御化道に始終があると、説き、先ほど申しました通り、爾前経に比べて法華経の優れていることを説く法門ですが、彼らはそれを、法華経批判の論理にすり替えるのであります。三益論は、衆生における得益の相違論で、時代の相違を含んではおりますけれども、本来「種・熟・脱」は一体のものです。何が表に出るかは、衆生の機根と時代によるものです。それを正宗教学は、三益をいわば分断して論じる。種を蒔いて、肥料を施し、成熟して実がなる、実がなって終わり、という考え方が、日蓮本仏論です。しかし、三益というのはそういうものではありません。「種・熟・脱」は、言ってみれば、循環して、永遠に繰り返し続くのであり、それが久遠実成の釈迦の考え方です。ここを押さえておかないと、彼らの説く本因妙、本果妙、本国土妙の論理で展開されると何だかわからなくなって、彼らの術中にはまる場合があります。
本宗の教学は三益論のところをあまりウエイトをおいて来ませんでした。一致派教学ですので、そこに力点を置いた教学の説明をあまり、していなかった。そういうところを突いてくるわけです。
もう一つの資料に教学の試験問題があります。「南無日蓮大聖人」と書かれています。五級試験、『南無日蓮大聖人』という顕正会が出している本がありまして、それを暗記させる。やり方は学会と同じですね。その中に今申しました「種・熟・脱」の三益論が出てきております。これを徹底的に暗記させるわけです。やってみるとなかなか難しいわけです。
先ほど話しました、最後の下の同じようなところにも「種・熟・脱」というところを見たいと思います。同じような繰り返したような説明がみられます。けれども、要するに、「久遠実成の日蓮聖人」という言い方をします。日蓮聖人が仏であるというような教説は、当然御遺文にないわけです。日蓮本仏論にはどういう修行をして日蓮聖人が本仏になったかという説明もありません。それから、日蓮聖人が本仏ならば、なぜ滅度されたのかという説明も向こうにはないわけです。
繰り返した説明かもしれませんが、五重相対のことを書いておきました。内外相対で外道に対して仏教を選び、大小相対で小乗に対して大乗教を選び、権実相対で権大乗に対して実大乗すなわち法華経を選び、本迹相対で法華経の迹門と本門を相対して本門を選ぶ。教観相対で寿量品の教相、文上、それから文底とを相対して観心を選ぶというのが本宗の教学の基本です。
この本迹相対の考え方について、本宗では一往勝劣再往一致の立場をとります。また教観相対でも、寿量品文上の教相に対して、寿量品文底にしずまれた観心である事の一念三千を一往とりますが、文上の教相を離れて文底の観心はないと考えて、文上教相を捨てることはないのであります。久遠実成の釈迦を説明するのに、権大乗、実大乗、そして法華経、法華経なら迹門・本門、そして本門の中の文上・文底というふうな展開で説明するのですけれども、説明し終わったらそれがいらないというわけではない。ここの違いです。一往勝劣再往一致とはそういうことでございます。
ところが正宗教学、あるいは石山教学、大石寺ですから石山教学と呼ばせてもらいますけれども、興門派の石山教学では、文上と文底を相対して、種脱を導く。教相と観心ということは、正像末だけで説明してしまう。全然論理のすりかえなのです。文上と文底は教相と観心を使って説明しなければいけないところを、天台の種熟脱ではなくて、堅樹院日寛流の種熟脱で説明しておいて、それに正像末にさらに当てはめてしまうというやり方でございます。
ですから釈迦の教えである文上の本門正宗の一品二半も、結局のところは、在世脱益の法に過ぎないと考える訳です。そして、日蓮聖人の教えである文底の五字が下種益の法であるとして、こちらの方が優れている、末法においては日蓮聖人の下種の方が優れていると主張したのです。
日蓮本仏論の成立の背景は、恵心流中古天台口伝法門の影響を受けたのではないかといわれています。あるいは室町期にフランシスコ・ザビエルが入ってきて、キリスト教の神の概念に影響を受けてできたのではないかなどという、俗説があります。日蓮本仏論というのは創神物的な考え方だと思います。寿量品の説くところの久遠実成を、久遠実成とみないわけです。紙には表と裏があって紙です。紙は確かに表の方が大事なのですが、でも表だけを見て紙とは言いません。その辺をはき違えている。しかし対論する中で、私たちも教学を構造的に理解しておかないと大変なことになってしまいます。
かつて小樽論争のとき、当時の教学部長、これは日蓮宗からの代表の長谷川義一師と、創価学会の方の原島教学部長だったと思いますが、そこで本迹論の論争をいたします。本迹を説明するときに、長谷川義一師は、本迹論を建物に例えて、「建物には枠組みが必要だ」と言います。そうすると原島氏は、国会議員をやった男ですから度胸もすわっていて喧嘩が得意です。「建物は出来上がったら枠組みなんていらないだろう」、これでもう終わってしまう。これは注意して当たらなければなりません。
たとえば、鶏には羽もあり足もあり、顔もあり心臓もあります。その寿量品は言わばその心臓です。その心臓だけでいいのだと言っているのが、特に勝劣派の中の石山です。ある部分だけを取り出してきていう。これが石山教学の姿でありましょう。
話が多少横道にそれますが、一致派教学というのは、長い歴史の中で民族的な慣習も取り込んで進んでまいりました。そのため教団が大きくなったのかもしれません。そしてその中で社会的な地位も教団としての力もつけていったわけです。しかし、雑乱勧請もある一致派は、法論となると歴史的には勝劣派に押されぎみだったようです。それでも教宣では伸ばしてきているわけです。ところで一致派では本迹論の設定の中で一往勝劣再往一致、あるいは本因本果、『開目抄』に出ている本因本果の法門「種・熟・脱」の一体を説きます。勝劣派の石山では、種脱を相対して、種が優れ脱が劣ると種勝脱劣とか、本因と本果とを相対して、本因が優れ、本果が劣るという因勝果劣と説く。これを根本として成立しているのが日蓮本仏論であるということです。
先ほどの、日蓮本仏論の成立の背景は恵心流中古天台口伝法門の影響だと言う話に戻りますが、当時の興門派の中で大石寺派は一番の弱小教団でした。他の興門教団は、時の政治権力を背景としてどんどん教団を拡張していた時期でした。そこで堅樹院日寛は、何とか教団のオリジナリティーと教学の体系化を計りたいということから仙波の檀林に行った。当時勝劣派には檀林がありませんでしたので、後々細草檀林に行くわけですけれども、先づ天台宗の仙波檀林に行った。そこに「天台本仏・釈迦脱仏」という考え方があった。まあ、口伝ですけれども。それを盗用して、「日蓮本仏・釈迦脱仏」といったのではないか、こういうふうにも言われています。このことは『現代宗教研究所所報』第三十二号平成十年三月に「日蓮本仏論の構造と問題点e−恵心流口伝法門との関係を視点として−」と題しまして、私、論文に書きましたので、お読みいただければ幸いと存じます。
その恵心流中古天台口伝法門に日蓮本仏論は非常によく似ております。例えば、先ほど来言いました「久遠元初」という考え方に対しては、「久遠当初」という言葉が出てまいります。それから石山教学でいう文底が優れ、文上が劣るという考え方は、中古天台の「止観勝法華」への考え方を取り寄せてきたのだと思われます。止観とは一念三千をさします。つまり中古天台の考えが進んでまいりますと、法華経よりも一念三千の方が優れているという考え方になります。
それから恵心流中古天台の中には、「寿量品の内証」という考え方があります。「寿量品の内証」の次に、お釈迦さまが出てくればいいのですが、大日如来が出てきたり、お薬師さんが出てきたり、阿弥陀さんが出てきたりしております。それで石山では「寿量品の文底」、おそらくこれをいったのであろうと思います。
それから「自受用報身(天台)」、天台本仏のことですね。これも石山では「自受用報身(日蓮)」、それから「七箇の大事」、これは同じ言葉で「七箇の大事」、石山の正統派の理由の一つに挙げられる「七箇の大事」ですね、これも使います。それから正統派意識に使う血脈相承、「切紙相承」というけれども、この言葉も同様に用います。
それから日蓮本仏のことを「本因妙の教主」というのですけれども、これも恵心流中古天台の中に「本因妙の能主」と。それから「唯授一人秘すべし」。この考え方も恵心流中古天台の中に「嫡流一人秘すべし」と。それから先ほども見てきた「五百塵点の当初」というのが、恵心流中古天台では「五百塵点の最初」といっています。
まだまだ日蓮本仏論についてはいろいろ述べさせていただきたいのですが、時間の関係上このくらいにしたいと思います。
拙稿「日蓮本佛論の構造と問題点(一)−恵心流口伝法門との関係を視点として−」
(『現代宗教研究』三二・一四四頁・平成十年三月所収)
A国立戒壇の建立を目的とする
次に「国立戒壇」の問題に移らせていただきます。国立戒壇の建立を目的とする。顕正会では、これは正宗とも同じですが、いわゆる戒壇の大御本尊、板本尊というわけですが、板本尊を本門の戒壇の大御本尊とする、この本門の戒壇を一国の総意をもって建立するならば、日本及び全世界は仏国土となって真の平和と幸福がもたらされる、日蓮聖人がこの本門の戒壇の建立を門下にご遺命された、とします。日本全部が日蓮聖人に帰依する。広宣流布の国家意志を公式に表明して「本化聖天子」の発願によって、本門の大御本尊、板本尊を安置し奉る戒壇を、「富士山天母山」に建立することによって、日本は仏国土となって事の常寂光土が顕現する、というのです。
レジュメを見ていただきたいのですが、「広宣流布の達成の暁」と言っていますが、はたして何をもって「広宣流布の暁」というのでしょうか。先ほど、ご挨拶の中で所長も触れましたが、顕正会は現在信徒が百万になった暁に、十万人の信徒で国会の大誓願をもって本門の戒壇を立て直せと要求するということを言っています。
それから創価学会流の「三分の一の論理」をもって、一億の三分の一は三千万、三千万の三分の一は一千万、一千万の三分の一は三百万とか何とかいって、本門の戒壇は大石寺なのだというような理論のすりかえをしていったりもしてきています。(「舎衛城の三億論」。)
それから「国家意志の表明」、これも一体どういう形をいうのでしょうか。国会の議決による政治的判断なのか、一億二千万総お題目なのか。それから発願は「本化聖天子」で、これは日興上人の垂迹たる天子(天皇)が発願する。「本化聖天子」とはそういうことです。日興上人の垂迹たる天子(天皇)が発願する。それから場所は、「富士山天母山」。それから「戒壇の御本尊を安置する」、板本尊です。この板本尊を戒壇の御本尊とするわけです。
この国立戒壇という考え方ですが、我が宗におきましても、『三大秘法抄』をどう見るかによっていろいろと議論があります。現宗研のかつての所長、二回現宗研の所長をつとめられました宮崎英修先生は『三大秘法抄』は真作とする立場をとりますので、事壇の立場です。それから現在の勧学院長浅井圓道先生は『三大秘法抄』は偽書との立場ですけれども、事壇の立場をとられるようです。以前、私は浅井先生に直にお尋ねしたことがありますが、事檀論であると仰っておられました。理壇の立場の先生も多くおられるわけですけれども、これはさまざま論議を呼ぶところだろうと思います。
しかし、三秘の思想に基づいて考えますと、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目。「本門」とつきます。それにやはり戒壇というと場所・建物をさしていますから、理壇といいますと、即是道場ということですから、それはどうかなという意見もあるのです。しかし、私の立場では、どちらの立場も認めつつお話をしなければなりませんが、顕正会はとにかく国立戒壇を言わないと、大聖人のご意志に背いた、謗法教団だと宣伝し続けるわけです。ですから我が宗も、戒壇の問題を、自分たちはどういう考えをもっているのか、これをきちんと説明できるようにしておかなければならないと思います。
ですから少しくその事壇論の流れにそって話をさせていただきますと、「迹門の戒壇」は叡山の戒壇です。それから「本門の戒壇」は本化、私たちの戒壇です。それからその下の「義の戒壇」は即是道場をさします。それから「分の戒壇」は現在日蓮宗の信徒は三五〇万から五〇〇万人いるといわれておりますが、やはり一天四海皆帰妙法、広宣流布を達成しているとはいえないわけですから、「本門の戒壇」ができるわけではないです。今の状況ではできないと思います。だから仮に「分の戒壇」として今は考えなければいけない時ではないでしょうか。
では「分の戒壇」になると、場所をどこにするかという議論が始まります。葬儀の問題や、今いろんな教団の問題を論じる中で、日蓮宗には受戒儀式がないじゃないかという指摘がある。すると戒壇の問題が出て参ります。身延山に「分の戒壇」を建ててはどうかと研究的に思うわけです。いわゆる「分の戒壇」と「満の戒壇」をどういう展開で考えていくか。それから戒は誰が授与するのか。「一天四海皆帰妙法の暁」というのは、何をもって一天四海皆帰妙法というのか。一億二千万総お題目なのか。学会あるいは顕正会がいうような三分の一とか、百万人ぐらいの数をもってもう広宣流布の暁と見るのか。これはさまざまな議論を呼ぶところであろうと思います。
しかし歴史的に見て、日蓮教団が大きく躍進していくのは、実は本門の戒壇建立に向かって進むときです。しかし役職上それを推進する立場には立てないのですが。
では「本門の戒壇」、「理の戒壇」といったときには何を意味するのか。それから「本門の本尊」といっても、たぶん答えられる人は少ないと思うのです。何をもって「本門の本尊」というのか。「本門の題目」といった場合もそうです。お題目と言った時「本門の題目とは何ですか」とやると、現実に即した教理説明はなかなか出来ないのであります。
B「板本尊」を帰依の絶対唯一の本尊とする
次に顕正会がいう「板本尊」、「戒壇の御本尊」とはどういうものか。これまで創価学会と法論したり問答したりした方は、いわゆる板本尊の欺瞞性についてはご存じかと思います。しかしそういう世代ではない人たちは、板本尊そのものをご存じないかも知れませんので、もう一回復習を含めて少しく述べたいと思います。板本尊とは、縦四尺七寸五分、横二尺一寸五分、厚さ二寸五分、地黒漆塗りで、大石寺では、これは七面山の池に浮いていた樟に日蓮聖人が曼荼羅をしたためられ、中老日法上人にお命じになって彫刻させ、将来本門戒壇が建立された折りにお祀りする本尊として、日興上人に授与されたものとして、伝承しております。そしてこの本尊には「仏滅後二千二百二十余年云々」「本門戒壇願主弥四郎国重云々」「弘安二年十月十二日造立云々」との記載があります。
では、この板本尊の批判をしておきます。「七面山の池に浮いていた樟に」とございますが、七面山には樟は成育しておりません。それから七面山が開かれ七面大明神が祀られたのは、実は大聖人滅後でございます。それから、御遺文に板本尊についての記載は一切ございません。それに、当時の御草庵は大変狭かったと推定されており、これだけの大きさのものを内密に彫刻するなどできなかったはずです。また、大石寺以外にこの板本尊についての伝承は見られません。日興上人の『御本尊七箇相承』の中には、「師の曰く、仏滅後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内未曽有大曼陀羅と遊ばさる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらぬ云々」とありまして、いわゆる「仏滅後二千二百二十余年」とはありません。それから、日興上人自身がご本尊の彫刻を禁じた、板本尊を彫るということを禁じたと伝えられております。
更には、本門戒壇願主とされる弥四郎国重なる人物は全く身元不明の人物であります。そもそも本門戒壇願主といえば日蓮大聖人の筈です。「時を待つべきのみ」の暁の戒壇建立のときの日蓮教団の代表者か、「勅宣、御教書を申し下す」国家元首、以外には考えられないと思います。また板本尊に記されている花押は日蓮聖人の他のものとは一致しない。要するに問題が多すぎる本尊であるということでございます。
以上復習をさせていただきました。
C血脈相承による正統派意識
次に「血脈相承による正統派意識」のところに移らせていただきます。いわゆる『池上相承』、『身延相承』でございます。顕正会は、先ほどの戒壇の御本尊と共に、この池上・身延「二箇相承」、正宗教学を引き継ぐわけで、正系門家の理由の一つに挙げているわけですが、このいわゆる「二箇相承」というのは、興門流の初期の記録には全く見えておりません。また伝本による本文の違いがきわめて大きく、左京阿闍梨日教の『六人立義破立抄私記』に収録されているものなどは、この二つの『池上相承』、『身延相承』の中身がそっくり入れ替わっています。つまり『身延相承』の中身が『池上相承』にあり、『池上相承』の中身が『身延相承』にあるというような有様です。
大聖人の他のご遺文はもちろん、日興上人がその初期の門流に属した人々の著述にも、日興上人のみを日蓮聖人の正統な後継者とするような内容が記されたものは一切なく、そして文章も極めて劣悪で、到底日蓮聖人のお筆によるものとは考えられないのであります。日興上人は教学的な理解は六老僧の中でもおそらく随一であられたとは思われますが、だからと言って「二箇相承」のようなものがあったということにはなりません。
これらの「二箇相承」のことをもう少し細かく検討してお話ししなければいけないのですけれども、時間の関係もございますので、あと一点日付のことを指摘しておきますと、『身延相承』には日付が空いています。こうした重要な相承書に日付がないのはきわめて不自然でございます。これを九月十三日と書いたものもありますが、または日付が多少入れ換わったのものもあるわけです。これが弘安五年九月とか、弘安五年十月十三日、このようなときは、大聖人御入滅の直前ないし御命日というような日付が入ったものもありますが、ご承知のように、大聖人は十月八日に六老僧を滅後の法灯たる本弟子六人として定められているのでございまして、「二箇相承」のようなものが書かれたとは考えられない。
このような相承書を大聖人の本当の著作であると主張することは大聖人を冒涜することになる。また相承された日興上人をも汚すことになると思う次第です。
D終末論的な末法思想を強調する
次に「終末論的な末法思想を強調する」でございます。下種論や日蓮本仏論のところの説明でもお気づきかと思いますが、石山教学やそれを継承する顕正会の教学では、末法という言葉が大変重要であり、それを強調します。日蓮教学においても、末法という時代認識が基盤となっていることは申すまでもないのですが、顕正会の場合は、それが歪んだ形で強調されているといってよろしいかと思います。既にお話しした通り、顕正会では、末法に入りますと、久遠元初の自受用身から下種を受けたけれども成仏出来なかった「本已有善の衆生」がいなくなって、いまだかつて一度も下種を受けたことのない「本未有善」の荒凡夫ばかりになるといいます。
つまり末法というのは、まだ誰も下種を受けていない時代であり、言い換えれば、久遠元初の本仏がまだ下種をしていなかった、世界の始まりの時と同じだという考え方です。彼らの主張によれば、熟脱の仏は「本已有善の衆生」を救済するための仏ですから、末法の「本未有善」の衆生を救うことはできない。末法の衆生を救済するために、久遠元初自受用報身仏が日蓮聖人となって生まれ変わったというわけです。
幸福の科学の大川隆法氏は、自分は仏陀の生まれかわりだといっているらしいのですが、先ほども言いました通り、仏陀は輪廻転生を解脱している。輪廻転生を解脱したから仏となるのでして、小乗では、阿羅漢となって、灰身滅智することを説き、大乗になるとむしろ六道輪廻の世界に入り、菩薩として永遠に衆生の救済活動をする自覚を持つことを説くのですけれども、本来仏陀というのは、輪廻転生から解脱して仏となるのでありますから、生まれ変わりはしない。それを平気で言うわけですから、基本的に仏教のイロハをわかっていないのです。
そして、顕正会の困ったところは、末法思想に似て非なる終末論的な危機意識を煽動して民衆の不安につけいりながら、教宣を拡大しようとしているところです。西欧の終末論は、終末がきてそれからどうなるか。仏教の考え方は縁起ですから、終末ということはない筈なのです。では危機がきて、その後どうなるのだというところは非常に不明確です。末法の現代が一国一同に改悔なく、日蓮聖人に帰依しないでいると、日本が滅ぶという。この本、浅井昭衛著『日本国民に告ぐ!「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず滅ぶ」』をご覧になった方が多いかと思いますが、末法の中に終末危機をあおる。そして終末がくるから、自界叛逆・他国侵逼が現実となり、日本も滅ぶという。
自界叛逆を現象としてどういうふうにいうかというと、自界叛逆をオウム真理教事件といっています。これは我々も布教の中で使っている方もいるかと思うのです。それから他国侵逼をどう説明するか。北朝鮮が攻めてくる。この間北朝鮮から、ありましたね。現実にますます近づいてきているのではないか。こうやってあおっていくわけです。確かに北朝鮮の動向をめぐって、アメリカはどうもいろんなことを考えているようです。日米ガイドラインなどと申しまして、自民党と自由党と公明党も組んで、このガイドラインを成立させようとしている。ということは、本年の五月か六月かそのぐらいには、いよいよ、というのではありませんけれども、こういう形であおるわけです。
それを防ぐためにどうしなければいけないかということで、本門の戒壇あまり本門の戒壇と言われたくないのでご遺命の戒壇と申しましょうか、でも、ご遺命も言われたくありませんですが、とにかくその戒壇を建立するという。一国同帰、本門戒壇建立というやり方であおる。
「国立戒壇」という用語は、顕正会では、これを言わないと「謗法だ、宗祖の御遺命に背いている」という言い方をするわけですけれども、「国立戒壇」という言葉を最初に言い出したのは田中智学です。日蓮宗内にも国立戒壇的考え方がないわけではないので、軽々には言えませんが、そもそも「国立戒壇」という言葉には私たちは注意して使わなければならないと思います。一妙院日導が言った、「分の戒壇」、これは事壇論だったですけれども、「分の戒壇」の展開としての「満の戒壇」というような言い方をするように注意してみてはどうかと思うのです。ともかく顕正会は西洋的な終末意識をあおり、それを救済する方策、打開策のようなものとして国立戒壇を主張している。
国柱会系の方がいたら申し訳ないのですが、田中智学もそれにやっぱりちょっと似ていたところがあると思います。やっぱりあおっていた。だからかつて、共産党の議員が、国立戒壇は憲法に違反するのではないかということで、マスコミを通じて創価学会を攻撃した。そして、国立戒壇を学会は言えなくなった。この辺がやはり日蓮教団としても非常に警戒しなければならないところで、「国立戒壇」というのは軽々に言わない方がよいと思います。
以上、非常に雑駁な話をしました。ところで先ほどの血脈相承、「二箇相承」ですが、この考え方に立てば、うちの門流は日蓮聖人からこういう相承を受けているので、血脈相承しているので優れているのだ、正統なのだといことになります。正統派意識と申しますか、あるいは選民思想、そういったものを取り入れる。こういう教団は伸びます。伸びるからいいということにはなりませんけれども、こういう教団の教線は伸びていく傾向にあります。
顕正会の法人規則第三条の中に、「日蓮大聖人を末法下種の本仏と崇敬し、日蓮大聖人の本懐たる弘安二年の本門戒壇の御本尊を帰命依止の本尊とし、血脈付法の二祖日興聖人の末法下種の僧宝と仰ぎ、日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布・国立戒壇を成就することを目的とする」とございます。そしてこの規則を実践するために、『日蓮大聖人の仏法』という折伏理論解説書、いわゆる折伏して入信させる理論的手続書がございます。コピーをもって参りました。向こうにあるので後でちょっと閲覧していただきたいと思います。
大体ポイントは決まっています。まず幸福論、これは成仏なのです。成仏としているのですが、それを「無上の幸福」ととらえて説明していきます。本来仏教は成仏を幸福という言い方でいうかというところはさまざま議論があります。というのは地涌の菩薩は本来願って悪趣に生まれるというのが鉄則みたいなものですから、願って悪趣に生まれるのですから、苦労することを願うという、そこから喜びを見出していくという展開ですから、「無上の幸福」のような言い方がどうしても既存の教団の中では出にくいのですが、ここが新宗教たるゆえんだと思います。それから十界論、これも宿命転換論みたいな言い方で十界論、因果(これは堕獄論、地獄論なんかを含む)を説きます。そして、この方法論、手法というのは、きわめてかつての学会に類似している。
そしてこの折伏対象者に、謗法による罪と堕獄とつきつけ、あなたが法を謗ると地獄へ墜ちるよ、とやる。これは、オウム真理教もそうでしたし、今の学会でもそうだと思いますが、そしてその後に、信仰に裏づけられた勤行、折伏こそが仏道修行であり、地獄に堕ちない方法であるとしています。それから教義的な日蓮本仏論、それから三大秘法解釈、正宗の歴史、国立戒壇論へと説いていく。そして今言いました折伏の解説書『日蓮大聖人の仏法』を教科書として、私共、本宗の『日蓮宗読本』や『宗義大綱読本』に準ずるものなのでしょうか。教学部登用試験の出題対象の内容がこの中に書かれています。先ほどお見せしましたものです。こうして顕正会の教学を学ばせるわけです。
二、顕正会の沿革
次に「顕正会の沿革」に移りたいと思います。
@妙信講の成立期(昭和十七年〜昭和三十二年)
現在では冨士大石寺顕正会といっています。冨士大石寺顕正会は、昭和十一年、品川妙光寺所属講中、東京妙信講として認証されました。そのときの講頭は現在の浅井昭衛氏の父親浅井甚兵衛氏です。そして東京妙信講は昭和三十一年まで存続いたします。昭和三十一年、東京妙信講は池袋法道院法華講の中に発展的に解消されまして、浅井甚兵衛氏が法道院法華講講頭に、その息子浅井昭衛氏が青年部長に就任いたします。この講がその後所属寺院を変更したという事実は、いわゆる妙信講が特定の寺院に所属する組織ではなかったということを明確に示していると思うのです。
ところが浅井親子は昭和三十二年には法道院法華講を離脱、妙信講を再建いたします。当時の法道院住職は日蓮正宗宗務院教学部長を務める正宗の実力者早瀬道応師でしたが、早瀬師のいわゆる寺院経営主義的講組織の運営に不満をもったために離脱したと考えられています。結局この妙信講は昭和三十三年に大石寺六十五世法主堀米日淳師の手続きによって、東京妙蓮寺の講中として認証されます。このときの講員の数は三〇八名であったといわれています。
この一種の独立運動について、注意すべき点が二点ございます。一つは再建した妙信講が単なる末寺所属の講組織ではなく、末寺に所属しない日蓮正宗宗門直結の独立の信者組織という意識が強い点です。もう一つは、そのころからすでに現会長浅井昭衛氏の指導下にあったと思われる点。現在の顕正会は、浅井昭衛会長のカリスマ性による講組織運営が教団的特徴の一つとなっています。そのころから現在の顕正会の共通する基盤があったのであります。
ここまでを妙信講の成立期として見ていくべきだと思います。
A宗内対立と解散処分(昭和三十二年〜昭和四十九年)
妙信講は認証されて間もなく、創価学会二代会長戸田城聖氏が死亡し、翌年には、大石寺法主堀米日淳師が遷化します。そして大石寺法主には、親創価学会と目される、細井日達師が就任し、創価学会会長には池田大作氏が就任します。この二つの人事が日蓮正宗を取り巻く状況の大変動の始まりでした。つまり創価学会による日蓮正宗総講の支配が強まり、完全に創価学会主導となっていくのでございます。このような状況の中で、妙信講は講員数を増大させながらも孤立化を深め、忍従のときを過ごすことになります。
そんな折、創価学会の池田会長は、大石寺への正本堂建立寄進を企図とし、日蓮正宗宗門と共に、教義解釈の変更にまで手を伸ばします。冨士門流大石寺派には、王法と仏法が合体して広宣流布が成就した暁に、本来は王法と仏法が冥合してという言い方をしますが、冥合というのは学問的にはいろいろ意見があるので、私の分析の仕方では、顕正会の考え方は合体だろうと思いますので、あえて合体といわせていただきました。王法と仏法が合体して広宣流布が成就した暁に、勅宣並びに御教書を申し下して、富士山に本門の事の戒壇が建立され、ここに一閻浮提総与の大御本尊と位置づけされる板本尊が安置されるとするのであります。
これが日蓮大聖人が後世に託した御遺命であるとされます。そして建立される事の戒壇は、国立戒壇と称されています。日蓮正宗宗門と創価学会は、池田大作氏の宗教的野望に従う形で、いくつかの教義解釈変更に踏み切ってしまいます。
広宣流布については、先ほども申しましたが、日本の人口の三分の一が信者になれば、広宣流布達成と考えているということを申しました。まだ国立戒壇につきましては、『三大秘法抄』の勅宣にこだわった天皇帰依の国立戒壇論や、前会長戸田城聖氏の意図した国会決議による国立戒壇建立を否定し、民衆立戒壇といたしました。このような教義解釈変更を経て、正本堂は御遺命の事の戒壇であると主張しました。こうして池田大作氏は御遺命達成の功労者となろうとしたのであります。
しかし妙信講はこの教義解釈変更に従わず、公然と反論いたしました。そのため妙信講と日蓮正宗宗門、つまり創価学会との間で教義論争が起こりました。日蓮正宗宗門は創価学会と妙信講との間で揺れ動き、正本堂を御遺命戒壇の事の戒壇とすることをためらい続けます。ところがこのときに、昭和四十五年ごろですけれども、創価学会の言論出版妨害事件等が起き、創価学会は政治的危機にさらされることになります。あるいは国立戒壇論は憲法違反だという批判にさらされます。そしてついに細井日達師は、国立戒壇という呼称を放棄することになるのです。ただし正本堂を御遺命の戒壇と断定することだけは避けました。
そして昭和四十七年、妙信講と創価学会の緊張関係の中、大石寺正本堂が落慶するわけです。それを機に日蓮正宗宗門は国立戒壇に固守する妙信講を切り捨てることを決定いたします。そして昭和四十九年、大石寺法主の国立戒壇放棄宣言に従わなかったことを理由に、妙信講に解散命令を出します。妙信講の講員数は一万二千人に達していました。宗門にさからうと講組織、教団を破門されるのです。宗門の意向とはどういうことかというと、法主の言ったことがイコール宗門の意志ということになるので、法主の意見にさからうと、破門にされてしまうわけです。これも選民思想かもしれません。「唯授一人秘すべし」の血脈相承の思想により、現法主イコール日蓮聖人のお言葉というところがあるのです。
B妙信講から顕正会へ(昭和四十九年〜平成三年)
妙信講を解散させた日蓮正宗宗門は、創価学会とともに妙信講を撲滅するべく、講員の切り崩しを謀り、妙信講本部会館の常住本尊を返還し、日蓮正宗の名称を使用しないように求める訴訟を起こします。
しかし教義解釈変更をめぐって行われた妙信講と創価学会の論争の中で、両者の間を揺れ動いたように見える正宗宗門に対する学会の不信感が増大し、いわゆる創価学会の五十二年路線、すなわち学会が独立するか、学会による宗門支配か、という、正宗宗門支配計画が表面化することになり、結局、妙信講に対する訴訟は取り下げられ、この条件で現在の顕正会の唯一の寺院である顕正寺が建立されました。日蓮正宗と創価学会が顕正会に対して訴訟を起こし、そしてそれが逆に顕正会にとっては得をしたわけでございます。常住本尊も返還しなくてもよい。それからその代償として顕正寺という寺ももらえることになったわけです。この時設立された宗教法人顕正寺が、現在の宗教法人顕正会の母体となるのであります。
そしてこういう状況の中で浅井昭衛氏は昭和五十年、第二代妙信講講頭に就任し、妙信講は御遺命達成の戦いを柱として急速な拡大を続けます。この頃の妙信講の戦略は、創価学会によって破壊された日蓮大聖人の御遺命を護り、達成しようという単純明快な使命感を持たせ、講員を鼓舞するという方法をとっていました。具体的には現在も顕正会で行っている遙拝勤行と申しまして、お仏壇をもたない、ご本尊をもたないけれども、大石寺の方へ向かって拝みなさい、こういうやり方をしたわけです。大石寺から本尊を授与を受けることが出来ない状況下で、すごいことを考えたわけです。
しかし正宗宗門と学会の対立は、さらに深まって参ります。池田大作氏の会長就任、法華経総講頭辞任に至っても、反創価学会僧侶の不信感は払拭できませんでした。
そんな中、細井日達法主が遷化し、血脈相承を受けたとして現阿部日顕師が大石寺法主に就任いたします。阿部日顕という人は学会に近かった人物ですので、妙信講に対しては対立する立場をとります。阿部師はそのために現在の正信会の僧侶を擯斥処分として、反創価学会勢力を一掃し、創価学会との関係回復をはかって、後に池田大作氏を再び法華講総講頭に任命することにします。
そうした中、昭和五十七年には、顕正会は「日蓮正宗妙信講」から「日蓮正宗顕正会」に名称を変更します。これは、正宗宗門と同等あるいはそれ以上であると宣言し、もはや正宗宗門に所属する組織ではないということを宣言したといえると思います。
C日蓮正宗の創価学会破門と顕正会の独自路線(平成三年〜)
さて、平成三年、創価学会は正宗から破門されます。顕正会も、国立戒壇を護らない御遺命に背いた学会という標的があったわけですが、それを標榜する材料がなくなりましたので、先ほど申しました終末思想を強調して、顕正会の独自性を保とうとするようになります。そして平成八年には、宗教法人顕正寺を、先ほど言いました、正宗と創価学会の訴訟によって、その結果独立した顕正寺をいただいたその顕正寺を利用して、今度は逆に講組織から脱皮した格好で宗教法人顕正会、お寺を在家の集まりの顕正会の方に名義変更させる形で宗教法人の資格を取得していきます。そして平成十年、現在の学会と同様になってしまいましたが、「教学室」と「儀礼室」を新たに新設、増設する。「儀礼室」とは法務、儀礼を行う所です。学会もこれをいたします。学会では月経(月回向、月忌参り)もやり出しましたが、それと同じように、月経をやっているかどうかまでは存じませんけれども、そういう方向に出る可能性もあるかと思います。
三、日蓮正宗系教団の現況
次に正宗系教団の現況に移らせていただきたいと思います。
この図の中で、正信会、それから憂宗護法同盟、改革同盟、単立・保田妙本寺、ここまでが日蓮正宗僧侶の組織図です。ここまで僧侶、出家とでも書いて、太線にするなりして区別しておかれるとわかりやすいかと思います。それからその下が法華講正信連合会または法華講連合会、これが日蓮正宗信徒の団体です。
まず正信会ですが、現在二〇八人強しかおりません。非住職は四十八名、寺院数が百五十カ寺です。反正宗反学会の団体です。各寺院の連合組織です。国立戒壇を言わない団体でもあります。それから日蓮実宗、これは故・崎尾正道師、その息子の崎尾英童師の二カ寺の二人で、お寺の数は二カ寺の集まりです。西国の大乗寺と大阪旧蓮華寺といわれています。それから日蓮真宗、三カ寺ございます。久保川法章師。それから大阪市蓮華寺、東大阪市仏生寺など、それから秋田県の聚泉寺、故・倉光哲正師です。それから増田宇広師の単立寺院として一カ寺ございます。
それからやはり正信会系の流れをくむ興風談所。興風談所は非常に純粋でまじめに学問研究をしている団体でございます。正信会ルートと申しまして、常勤で六、七人で取り組んでいますが、その中で研究者は百余名ほどでございます。細井日達師のときに川澄勲氏という神官の古文書学者をスカウトして、弟子たちに古文書学を教育させています。有名な古文書学者を通じ、大石寺と学会に対する批判的立場に立ちます。下手をするとわが宗がおびやかされるのではないかと思うくらい古文書の読める学者・研究者を集めているのが興風談所です。そして正信会から離脱した法華堂がございます。関慈謙師がいる百名前後の集まりです。西宮市の鹿砦社編集発売を依託しています。『日蓮正宗の総合的研究』の中では、日蓮本仏論の批判論文も掲載しています。正信会の流れは正宗の中で、破門はされていますが、比較的まじめな人たちが集まっている団体です。
その次の憂宗護法同盟、これは脱正宗ですが、親学会派です。現在は二〇人ぐらいいて、大体住職の集まりです。それから改革同盟二〇人。脱正宗の親学会派、やっぱり学会派の坊さんで大体、非住職の集まりです。要するに創価学会員だったのがお坊さんになった人達が改革同盟と憂宗護法同盟ということです。
こういうお坊さんたちが大体学会の広報活動の中に登場してくる人たちです。そして葬儀・法事批判、既成教団の醜い批判ををして正宗の衣を着て学会のビデオに出てくると思いますが、これは大体憂宗護法同盟や改革同盟のお坊さんだと思っていただければいいです。それから単立・保田妙本寺、二千人から三千人います。独立宗教団体となる予定でしたけれども、出来なくなった。歴史的にも早い時期から大石寺と争った教団でございます。何か三年後には保田文書が世にでるのではないかとの情報もあります。
それから法華講正信会という、さっき言いました正信会に所属いたします檀信徒の会、十万人ぐらいいる一派です。そしてその次に法華講連合会、これは大石寺の寺院の中の檀信徒の組織である。ですから大石寺の寺院の信徒はみんな法華講に入っています。そしてその流れの中に理境坊支部の中で、理境坊の法華講は大きな組織でございまして、古い講中が一つあります。それからもう一つ妙観講というのがあります。妙観講は三万人いると言われていますが、実際には七百人ぐらいだと言われています。
この妙観講の人たちが中心となって創価学会による被害者の会、内藤國夫氏が名目上の代表となってやっていますが、「自由の砦」というパンフを出しています。もう一つ、理境坊の講中を離れた、法道院法華講があります。この講では、元創価学会副会長の故・福島源次郎氏が青年部長をしていました。そして、元学会員で学会批判の本を書いた竜年光氏のいる品川妙光寺支部正道講があります。
そしてご存じのとおり妙信講の展開としての顕正会、そして現在、平成十年の十一月に六〇万人に達しています。そして、三百万から五百万の創価学会です。現在は正宗教学を捨てて、総体革命路線による平和文化団体を目指すと、しています。
以上、日蓮正宗系教団の現況をお話しさせていただきました。大変時間をオーバーして申し訳ございません。
おわりに
正宗の流れは今後も注目して見ていかなければなりませんし、正宗教団の離散を繰り返す問題は、実は、私たちの日蓮教団内での教学上の見解の相違点をあまり明確化していかない体質と表裏の問題なのかもしれません。これらの事を含めて、今後も正宗系教団の研鑽を続けて行くことをお誓いして終わりにさせて頂きたいと思います。どうも失礼致しました。ありがとうございました。



