日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 現宗研所報 > 第34号
所報第34号:67頁〜 特集[地球環境を考える] ←前次→

環境問題への理解と対応
 −第32回中央教化研究会議部会報告(要旨)−
  第一現代教学部会
    座  長 馬渡竜彦
    問題提起 三原正資・早坂鳳城
    記  録 西口玄修
    運  営 吉本光良
    参加人数 一九名
 @立正安国論に学ぶ環境問題
 この部会では、具体的な環境問題を論じるのではなく、日蓮宗の僧侶としてこの問題の理念。環境とは何か、人間と環境のあり方、仏教者として係わる時、一貫した姿勢をとるための教学的裏付けを模索する。
 そのために、本宗の教学の要である、立正安国論と一念三千を取り上げた。
 さて、安国論は、ご承知のように鎌倉時代の天災や政治的危機を、実は正法たる法華経を幕府が用いないことの結果として、善神捨国による人災と聖人が捉えている所に特徴があると思われる。
 環境問題も、天災などでは決してなく、政治 経済など社会問題として捉えると安国論と共通性した問題といえる。問題提起者は。
(1)安国論で「一凶」とは当時の浄土教であるが、現代の 「一凶」とはなにか。
(2)環境問題は大きくは政治問題である。環境破壊による食料飢饉が戦争や経済問題を引き起すのではないか。
(3)「法華経の一字は大地の如し・・」この万物一体循環共生の真理に立ち返って問題解決をすべきではないか。
(4)現代の寺門の興隆を宗祖がどう思うか。見せ掛けの繁栄ではないか。
この四つを提起した。
 さて討議は、槌田先生の環境問題の常識を覆す基調講演に感じた、とまどいと衝撃を引きずっていて、講演への批判(巨視的だが、身近な問題を捨てている。学問としての話。江戸時代の形がいいとは思えない等々)がまずなされた。
 しかし、環境破壊を政治問題と捉え、自然の循環を人為的に断ち切った結果と理解するのは、安国論と共通に認識ではないか、という意見も多かった。そこで再び現代の「一凶」を考えると、欲望肯定、テクノロジ−に支えられた社会、ヨーロッパ的合理主義ということであり、対して善神とは万物一体循環共生型自然である。そこで法華経に説かれる一念三千論で生態系の循環論を意味づけることができるとうい意見が出された。
 結論めいたことはでなかったのですが、さまざまな意見をまとめてみると、草木国土成仏、人間をも包み込んだ自然界の大きな循環を取り戻すには、一念三千に裏付けされたお題目を唱えることにより、実践しなければならない、ということでしょうか。
 A一念三千の教えから環境問題を見る
 @の討論を受ける形で、重複する議論もありましたが、まず、問題提起者より改めてヨーロッパ的人間中心主義の限界、弊害が指摘され、仏教の五戒特に殺生戒に触れ、殺生しなければ生きていけない自分に築き、感謝や懺悔の心を持つ事が仏教的人間である。一念三千によってこそ国土成仏が可能と強調。
 乱暴な表現だが、十界互具の地獄界は汚染物質であり、自然の循環の中で、自然に戻る。廃物利用や浄化作用によって。これは、衆生世間と国土世間の相剋循環を輪廻と言い換えることもできる。
 ここで、あらためて一念三千とは何か。と基本的な問いがなされた。
 各々が自分なりに現代語に意訳すると、@一切成仏を構成的に説明、A草木、有情を成仏させる働き、Bほとけ様の世界の中の私達、Cあなたの心の中にすべてがあるだからあなたの思いを変えれば、すべてが変わる、などなど。
 量子物理学や心理学の立場から同様の意見も述べられた。浄、不浄、汚染と人間、善と悪とこの世界は対立しているように見える。しかし、人間だけが、真理を悟り、欲望をコントロ−ルすることができる。お題目によって、この対立を止揚し、世界を浄化し、仏界を顕現することができる。と強引に結論づけたが、討論の後半は、一念三千の意味を改めて問いなおし、自己の言葉で語ることの必要性、試行錯誤の状態であるなど意見の交換で時間がきて終了した。
 ※このほかにも、問題とは離れた所で面白い意見や感想もありましたが、立正安国や一念三千の問いなおし、現代語で語ることの困難さを痛感し、新しい課題を与えられた。さらに、今回の部会討議を踏まえてもっと具体的な問題を掘り下げて取り組むことが、次の課題かと思われます。(西口玄修)

  第二現代教化部会
    座  長 内山智修・岩永泰賢
    問題提起 伊藤立教
    記  録 小澤惠修
    運  営 中村潤一・植田観樹・田口学正
         小倉孝昭・岩本泰寛
    参加人数 二十四名
 今年の第二部会のテーマは、今年で3年目を迎える共通テーマである「日蓮聖人の立正安国」を更に検討を加え、「環境問題への取り組みの必要性」を命題とした問題提起を行った。以下、問題提起者の論旨を要約して記述する。
 今年は『立正安国と環境問題』と題し、世界の最大の環境破壊である戦争というものへの立正平和運動。そして、環境倫理を教育のばでも学問的に構築する必要性等、あらゆる環境への視点をもっと具体的に学習する必要性があり、現代社会に於ける「立正安国の方向性」を探ることが重要である趣旨が提示された。
 これより、「環境」というキーワドについて、参加者より提示された問題点を何点か整理して報告する。
@世間でいわれる「環境問題」について、
  行政側の対応などに問題はないか?
 現在でも高度経済成長における経済発展優先の理論があり、企業を優遇し、その一方で「環境問題」を考えるというのは理論的に矛盾が生じる。
A正確な知識の採取と分析の必要性
 塔婆等、お炊き上げの問題について、ダイオキシン等の発生の原理を含む、正確な情報、知識が理解されていない現状がある。その正確な情報の採取・分析・学習が環境問題を考える重要な視点である。
B実際の教化の現場で考えるべき問題
 「環境問題」は机上の空論や観念的な部分においては、世間の常識的範疇の問題である。実際の教化の現場で、具体的にどのような問題があるのか考えることが先決である。
Cゴミ処理・分別の際、もっとゴミについての知識が必要
 「捨てていい物」、「捨ててはいけない物」等の知識が不足している。リサイクルも問題も含め、ゴミへの知識を深めなくては環境との付き合い方や、対応もままならない。
D「戦争」による環境問題への再確認の必要性。
 原子力行政への我宗門を含め、宗教者としての認識不足の点が問題である。例えば、原子力発電に携わる人々の、被爆労働者の問題など、戦争の行われていない国において、武器としての原子爆弾等への認識はあるが、このような日常生活に関わる中で行われている事実について、もっと積極的に関わり、その問題性を世界に提示する必要が宗教者の役割ではなかろうか。それは、環境問題における倫理的問題への解決の必要性である。
 「原発問題に関して、日蓮宗では実際的に行動をおこしているのか?」という疑問点が提示された。
 これらの問題の提示について、憲法問題にも論議が波及し、現在の憲法について、自らの自覚によって、自らが憲法を考え直す時期が来ているとの意見が出され、今度の原発問題を含めた「戦争」への取り組みへの方向性を提示した。
E環境問題は日常、常識的範疇の中で考える必要がある。
 お炊き上げが環境破壊に繋がるという点について、実際にそうなのかの分析、立証がされているのかの情報が乏しいが、このお炊き上げは、宗教的儀礼として重要な儀式であるのでやめるべきでは無いと考えるという意見が出され、更にまた、このような情報によって、宗教者が萎縮してしまう可能性があり、事実、お炊き上げは、環境破壊であるからやらないと言う寺院の存在も、同時に考えて行かなくてはならない問題である。
 これらの問題は仏教者として、宗教者として環境問題への立場を自覚した中で考えて行かなくてはならない。
F「共生」の中で、バランスの重要性
 現在の日蓮宗は他宗門(創価学会等)との共生は可能なのかという問題。「共生」の意味について、宗教者としての自身と信念をもって取り組み、各々「心」でしっかりと学ばなくてはならない。
 その為には、宗教者としての役割の明確化が必要である。我宗門の宗儀上の整理等を試み、「社会」と「宗教」との関係等について学習し、提示して行かなくてはならない。
 以上のような種々の指摘がなされたが、今回の会議だけでは、「環境問題」への集約した見解は導き出されなかった。
 そしてその中でも、「環境問題」への認識不足の点、つまり、社会、マスコミの動向に見られる範囲における理解はなされていても、自身に関わる部分での認識、分析が為されていない事実が浮き彫りになった。
 また、いかに宗教者としての立場で考えるか、そして一社会人としての立場ではどうなのかという問題も重要であり、それぞれの立場での「学習」が不足している点も浮き彫りにされた。
 いずれにしても、中央教化研究会議での短い時間では限界があり、この「環境問題」という課題はゴミ・塔婆・割り箸・爪楊枝等、また戦争・原発・政治といった多岐に亘る問題であり、論議の焦点を絞りにくい反省点が上げられた。
 更に、ここ3年間の総括的見解については、
●国意識の不透明性に関わり、日蓮宗宗徒の宗徒意識が僧俗共々、希薄なのが問題である。
この宗徒意識が高揚することにより、「立正」の部分の明確化がなされれば、「環境問題」等、種々の問題への取り組み方の方向性もはっきりするのではなかろうかという意見等は重要な意見であろう。
 今年の討議内容を総覧すると、どうしてもテーマが抽象的であると同時に、社会的問題についての教師の認識不足の現状が現れることとなった。ここ3年間の討議を見るにどうしてもこの2点が浮き彫りとなった。つまり、この『教師の社会性』が問われることに重要な収穫が感じられたのである。
 今後のこの部会の方向性は現段階では定かでは無いが、少なくとも仏教者・宗教者としての宗教的教養・知識の構築と、平行して社会的教養の構築への努力が最大課題であろうと思われるのである。(小澤惠修)
  第三現代教育部会
    座  長 竜沢泰孝・原 顕彰
    問題提起 田島辨正
    記  録 遠藤了暉・宮淵泰存
    運  営 新間智照・井本学雄・木村勝行
         斎藤哲秀・中村雅輝
    参加人数    三十九名
 @、「自然環境への意識づくり」
 問題提起者の田島辨正師より、この部会がかつて法器養成部会であったこと、そしてそれが現代教育部会になり、信行道場、布研、沙弥校、寺院の後継者など宗門全体の教育について討議を重ねてきたとの説明があった。
 本年は地球環境の諸問題に対して、教師は仏教的観点から自然破壊の現状や地球の危機的状況を如何に認識し、どのような意識を持って行動すべきか。また仏教とかけ離れた価値観の中で育ってきた後継者に、仏教者として如何なる自然環境への視点や取り組み姿勢を伝えるべきなのかと言う問題が提起された。
 初めに環境問題にすでに取り組んでいる方より話を聞き、更に4つのグループに分かれて討議を重ねた。
 吉田師は、「自分の出したゴミがどの様に処理をされているかを知れば、掃除、片づけなどの維持はどのくらい大変か理解できる」といわれた。これに関連して、ゴミの減量化や処理の仕方、環境への配慮など様々な意見が出された。
 塔婆を小さなものに替える。1年貯めて業者に出し燃さない。常に塔婆は1本にして本数を減らす。また塔婆を2〜3年で朽ち果てる様にして燃さないところもある。
 燃やせる物は燃やし、花などは、山に返し、生ゴミは兎や鳥などにやれば、ビニール位しかゴミに出すものはない。
 草は取ったところに埋め戻す。
 生ゴミはコンポストを使って肥料化。
 生活倶楽部等に参加しリサイクルにも心掛ける。
 包装紙・パック・部品など、作る側に対しリサイクルできる材料を使用するようアピールしていく必要がある。
 環境への配慮としては、除草剤を使わない。
 家を壊す場合は産業廃棄物になる。昔のように解体ならば廃棄するものも少ないが・・・。その違いは、コストだが、壊す場合も環境に優しいかどうか考えてた方がよい。その優しさとは、知恵、道徳、信仰で行わねばならない。
 身近に感じている環境の問題は、農薬、水質汚染、産業廃棄物など……テレビ、新聞では他人事で認識しにくい、自分の事として受けとめてどう伝えていくか?
 地域の運動団体と協力したり、お寺でセミナーなどを行っている所もある。
 意識調査をするためにアンケートを行ったグループがあった。その中でどんな団体に協力しているかと言う項目で、リサイクル、ハイブリットカー、太陽発電などがあった。
 仏国土を念頭に入れて、社会的と関わり、付き合っていかなければいけない。
 日蓮宗の統一的なゴミの処理を出せないか?そう言う部会を作れないか?
 吉田師は、ラオスに行き森林伐採の現実を見てきたが、それが先進国の押付けにより行われていることを解って行かなければいけないと言う。
 産業廃棄物の中で魚に癌ができて、変形してきたとの話もある。その怖さを伝え、解ってもらうこと、意識を持ってもらうことが第一歩である。檀家さんに働きかけるためには、自分たちが知識を持たなければならない。
 環境が良くなれば、人の心も良くなる。「ゴミを拾えば気持ちがいい」というような気負いのない取り組みが、環境問題解決の糸口になるのではないか。
 A「女性教師を取り巻く諸問題」
 田島氏より、大きく変容しつつある社会環境や子弟教育の現状を鑑みたとき、女性教師の育成は正に急務であるとの認識から、その取り巻く諸問題を継続的に話し合っていくと問題提起された。本年は、このテーマで討議するために、全国地元あわせて10人の女性教師に出席していただいた。
 座長の原師より、全国2000人の沙弥の内女性は400人、全国8000人の教師の内女性教師は1200人とその数が報告された。
 公の時に女性の教師の招待が無い等、女性教師の地位が低いのではないか。
 有髪の道場出身者は大講師までしか僧階が上がらない。これを解除するには、甲種の試験を合格して、更にまた剃髪の信行道場に入り直さなくてはならない。信行道場も補教信行道場も修練の科目が同じであるのならば、もう少し容易な道が欲しい。
 補教で後住登録した人に、あとで僧階をあげていく道が欲しい。
 信行道場と言う形であるならば、甲乙の試験で僧階に違いがあると言うのなら分かるが、有髪剃髪で僧階が違うと言う事はおかしい。
 日蓮宗には有髪とか剃髪などという戒律はないので、改善が望まれる。
 「剃髪したほうがいいぞ。覚悟が決まるから」
 剃初の意義は、僧侶としての自覚と覚悟で重要である。女性教師のみならず、男性教師にも議論を重ねていく必要がある。
 女性が剃初していると、母として子供を教育していく上で授業参観など困ることもある。
 檀家が女性教師を視る目が、男性より女性に厳しい。
 寺庭婦人と女性教師は、能化の気持ちを能化であるかどうかという違いがある。
 寺庭婦人も能化の気持ちを持たせるために、勉強会なども必要ではないか。また講習を受けることによって、何らかの資格を与えたら宗門の活性化にもなり、教学に裏付けられた信徒への対応ができるのではないか。
 声明師の資格を取るのに、五部刈りで無ければいけないという規則がある。有髪でも声明師養成講習所へ入所できるよう要望をしていきたい。制度を改善するのに動いて行くしかない。
 一般の社会でも、制度ができてからあとで皆の意識が変わってくる。制度上の問題解決が無くては何も進まない。できるところからお願いしていく努力が必要である。
(宮渕泰存)
  第四現代社会問題部会
    総合座長 久住謙是
    運  営 蟹江一肇・梅森寛誠
 現代の難問に我々はどう答えるか
  @環境教学へのアプローチ
    問題提起 古河良晧・貫名英舜
    記  録 灘上智生
  A脳死臓器移植問題再論
    問題提起 柴田寛彦・奥田正叡
    記  録 石川修道
    参加人数 三十名
 第四現代社会問題部会では、「現代の難問に我々はどう答えるか」という全体テーマのもと、地球環境問題と生命倫理の問題は、二十一世紀を目前にした現代社会において政治・経済における論議は当然として、宗教として主体的にそれにコミットすることが求められていることは明らかです。その際の基礎的な手続きとして、我々の信仰を意義付けるものとしての原基たる「教学」において、その内実を問い返すことが必要不可欠です。もし宗祖が今現在という時代に居られたならば、この難問にどうお答えになられるのかという視点を基軸にして、二つの課題に対して議論を展開しました。
@「環境教学へのアプローチ」
 問題提起者である貫名英舜師が欠席の為、もう一人の提起者である古河良晧師が貫名師の「環境教学」とは何かというレジュメを代読する形で左記のように問題提起が行われた。
 アルド・レオポルドは、世界の救済宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)は神→私→社会の延長線上に「自然」「環境」を置いていないと言及した。つまり「環境問題」という人類にとって歴史的に新しい課題を「宗教」の文脈で考える場合、すでに築き上げられた「教学」ではその全体を捉えきれず何の解決も示し得ないことが推察される。
 今私たちに問われていることは『自然との「共生」』という考え方を宗教の文脈で捉えることである。人間というものの価値を同列におくという考え方であり、自然を人間の支配の対象としないということを宗教者が宣言し、かつ、実践することである。だからこそ自らの行動の規範となる情緒的でない普遍的な「教学」が必要である。
 次に古河良晧師より「環境問題と日蓮教学」という左記のような問題提起が行われた。
 我々の住むこの現実世界こそが仏国土であり、人類ばかりか他の生物も、草木も国土も全てが一体となって本仏の永遠不滅の浄土を構成している。大気や山川や国土などの自然環境を汚染し、破壊することは、この本仏の浄土を汚染し、破壊することであり、ひいては我々自らの存在を汚染、破壊していくことにほかならない。すべてのものが正法に帰依した時に、この浄土は実現し、人も自然も調和された世界となる。この「立正安国」の教えこそ、本宗が環境問題に取り組む根本の教理と言える。
 今日、自然観、世界観、人間観、生命観、価値観の転換と我々の意識の変革が求められている。仏教の教えからは中道の観点に立ち、縁起観から自然との共生を理解し、我々の貪欲、執着を離れ、環境と人間とを相対化せずに一体のものとして捉えるべきである。さらに法華経の本門の一念三千や依正不二の法門から、我々の意識や存在と自然界との確かな一体不二の関係と両者の成仏を目指さねばならない。
 法華経は、本仏の世界を仏国土として浄め、顕す(浄仏国土)ための道を、そして生きとし生けるものの本来のあり方を説き示している。我々は、温暖化や酸性雨をはじめ自然環境の汚染や破壊を招く人類の欲望を抑制し、環境問題を引き起こした現代文明や社会のシステム、我々自身の意識と行いとを正法であるこの法華経の教えに基づいて改め、様々な現実の問題に積極的に取り組むことが求められている。そして草木、国土などの自然と調和する人間社会を目指して法華菩薩道を実践し、立正安国の教えを実現していかなければならない。
 その後、部会参加者から次のような意見が出された。
・我々は自分の生活を振り返り、点検することにより、自分の行動が環境破壊をしていることを認識しなければならない。
・環境問題では何が問題であるかが明確ではなく、実生活ではピンと来ないことが多い。
・身近な問題で何ができるのかを話し合いたい。
 我々は、社会に存在する問題を見て見ぬふりをせぬよう、この環境問題という難題にコミットしていかなければならないのではないだろうか。(灘上智生)
A「脳死臓器移植問題再論」
 「脳死臓器移植問題の再論」においては、問題提起者である奥田正叡師と柴田寛彦師は、それぞれの立場で「仏教の生命倫理」を語った。
 奥田師は、(イ)死の定義、(ロ)脳死とは、(ハ)死に対する自己決定権などを臓器移植と関係させながら、法律問題、社会問題、法華経精神の観点から論及した。法華経的布施行、つまり「法華経に捨身」する菩薩行が述べられ、
(イ)臓器移植を受けるドナー(患者)、(ロ)臓器提供者のレシピエント、(ハ)医師をはじめとする医療体制。この三者関係が「私欲」を離れて三輪清浄でなければならないとし、「脳死臓器移植を法華経の布施行に導く」ところに日蓮聖人の生命観を把えた。更に「死の自己決定権」も責任をとれなくなった状態では、「死ぬ権利」を主張できない。責任をとれるうちに「自己決定」すべきであり、日常から法華経と日蓮聖人の教えに従い自らの生死観・人生観を確立すべきだという。
 次に柴田氏は、生命の誕生から死に至る「生命の循環論」を述べられ、その中で脳死、三徴候死(心停止・無呼吸・瞳孔の無反応)、全細胞死の医学的見解を示された。更に仏教的生命倫理の課題を六種類に分けて論及した。@人間とは何か、A自然と人間の関係、Bおかすべからざる神の領域はあるのか、C家族・結婚などの倫理、D生への欲望の意味、E苦悩を救うことの意味などである。
 以上の問題提起を受けて部会参加者から次の意見が出され討議した。
(1)、生命を布施する「捨身」と「臓器提供」は関連づけてよいものかどうか……
 この問題は、すでに「臓器移植法」が成立施行されている状況からは、法華経の精神「捨身の布施行」と関連づけて理解すべきとのことである。
(2)、生命体が精子と卵子の結合により誕生したのち、どこの時点で把えて生命体と認知すべきかが検討された……
 柴田師は、中枢神経(脳)が形成される胎芽期の第三週をもって認識していると述べた。
(3)、それでは「水子供養」は第何週目の胎児から供養すべきかが論議された。母親が妊娠したと意識する三ヶ月(一二週)以降であろうとの意見が多かった。水子の語源は「不見子」(みずこ)である。また「孕児」(だじ)とも言われ母親の腹に「孕」らんだ子の表現もあると、会場から貴重な意見も出た。
(4)、臓器移植につて、移植を推進する医学界から、医師本人及び家族からの臓器提供者が出ていない現状は、医科大学における死体解剖に医師及びその家族からの提供者が少ない、状況と似ているとの指摘があり、医師側からの努力が不足しているとの声があがった。
(5)、臓器移植については、宗教界側に充分理解されていない点が多い。臓器移植を反対する医師グループの意見も参考すべきであり、部会参加者の2/3は臓器移植慎重論であった。
(6)、闇の世界における「臓器売買」に歯止めをかけるには、臓器移植法の罰則規定は軽すぎる。違反者(売 買実行犯)は「五年以上の懲役又は五百万円以下の罰 金とあるが、売買価格が数億円すれば、罰則に服して も誘拐と臓器売買が起こるだろう。現にその犯罪が世 界で起こっているとの報告があった。(石川修道)


このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.