環境問題の解決には学問が必要
−環境破壊とは何か、してはならないことは何か、するべきことは何か−
槌 田 敦
(名城大学教授)
私は、理化学研究所で、開放系の熱物理学(エントロピー論)をまとめ、これを用いて地球環境、生命、資源、エネルギー、廃棄物、原子力などの諸問題を研究してきました。今は、名城大学商学部で、環境経済学の研究と講義をしております。物理学と経済学の重なりあった部分が現在の私の研究対象です。物理学で「エントロピー増大の法則」というのがあるのはご存じと思いますけれども、それを経済学に適用して、経済学者の方々と一緒にエントロピー経済学という新しい学問にしましたが、その応用ということになります。
玄倉川遭難
ところで、この夏(一九九九年)、神奈川県の玄倉川で遭難事故がありました。つい最近の出来事ですから、皆さんもよくご存じと思いますが、十八人が洪水に巻き込まれて遭難しました。濁流の中から助かった方は五人ですが、その他に遭難を避けた三人がいらっしゃいます。その方々は、増水しつつある川から離れて自動車へ戻り、一夜を過ごし助かりました。自動車のライトをつけっ放しにして、全員の避難を待っていたのだそうです。
このときの三人と十八人の違いは何でしょうか。あの遭難を見ていますと、人間という動物は、危険を察知する能力、そして危険から逃れる能力を失ってしまったのではないかとつくづく感じるのです。十八人の人たちも、大きなサイレンの音を聞いているし、警官から注意も受けている。そして仲間の三人からも「避難しよう」と訴えられている。それでも「大丈夫だ」と思って中洲で夜を過ごしたのです。
あの遭難にかかわりあっていない人々は、この十八人について何と馬鹿なことをしたのだろうと思うかもしれません。ですが、その場面にいたら多くの人はやはり十八人と同じようにしたのではないか、と思うのです。
最近の出来事を見て、つくづくそう感じます。日の丸、君が代を認知したことに続いて、天皇制を復活し、それから徴兵制も復活するかもしれません。そして核兵器の開発を堂々と進める。私はこれらの危険性を訴えるのですが、多くの人々はそんなことはありえないと聞いてくれません。
憲法改正問題もそうでした。つい最近まで、憲法の改正などはありえないと誰でも思っていました。ところが今は憲法を改正して自衛隊を軍隊として認知するのは当然みたいな雰囲気になっています。その結果、将来どうなるのだろうかと考えると非常に恐ろしい。戦力を持てば戦争することになるのです。ともかく、先ほどの玄倉川の中の十八人と同じ状況に我々があるのではないか。三人の訴えを無視して、何とかなるさという十八人の集団論理で行動しているのではないでしょうか。
先ほど、天皇制、徴兵制、核兵器の開発といいましたけれども、皆さんは核兵器の開発など日本はするわけはないと思っていらっしゃるかもしれません。しかし、実は日本はすでに核開発に深入りしています。私は物理学を勉強したということもあって、物理学者たちが考えていることが分かります。物理学者たちの中には、中国が核兵器を持つ以上、日本も核兵器を持つのは当然じゃないか、こういう意見の人たちが少なからずいるのです。その学者たちは、日本が核兵器を開発したら、その次どういうことになるかなどということは考えていません。その結果は、日本と中国の間での核兵器の開発競争となり、それがエスカレートすることになるのですが。
今日の講演の環境問題においても同じようなことがいえます。どういうことが本当の環境破壊で、本当に困ることはどういうことか、などということについてほとんどの人は考えていません。今環境問題の話題は、炭酸ガスの温暖化、それからフロンによるオゾン層の破壊、そしてリサイクルです。しかし、こんな問題は実はどうでもよい問題です。そのどうでもよい問題にみんな振り回されている。振り回されて、本当の環境破壊とはどんなことなのか、どういうことが今危険になっているのかという本質について考えようとしていない。危険でないものに脅えて、本当の危険を見逃している。そういう話を今日はしようかと思うのです。
炭酸ガス温暖化
炭酸ガスによる温暖化説はまったくナンセンスです。しかし、そのようなことをいう学者は、日本では私一人しかいません。したがって皆さんは初めてお聞きになったと思うのです。どういうことかといいますと、炭酸ガスが増えたから温暖化するのか、それとも温暖化したから炭酸ガスが増えるのか、どちらでしょうか。これは一番肝心なところです。この肝心なことを考えず、学者の誰もが炭酸ガス温暖化説を信じているのです。
今日はそのことについて述べるのが目的ではありませんので、簡単にお話しします。炭酸ガスと気温が関係することは確かです。それは南極のロシアのボストーク基地の氷を深く掘っていきまして、その氷を分析しますと、その氷のできた年代、その当時の世界の平均気温、そしてその当時の炭酸ガス濃度が分かります。それを調べますと、過去二二万年にわたって気温が高いときは炭酸ガスの濃度も多い。気温が低いときは炭酸ガスの濃度も少ないことが分かりました。しかし、この事実だけからはどちらが先でどちらが後かということは分かりません。
ところがそれを示す観測結果があります。皆さんのお手元に示しました気温の変化と炭酸ガスの濃度の変化のグラフを見てください(第1図)。このグラフを作った人は、ハワイの研究所で炭酸ガス濃度をずっと測定し続けた、この問題での一番の立役者キーリングです。太い方の線が気温の変化で、点線が炭酸ガス濃度の変化です。そこにたくさん矢印が書いてあります。それを見ますと気温の変化の方が先なのです。気温が変わったから炭酸ガス濃度が変わったのです。
これは根本順吉さんという気象関係では有名な方がいらっしゃいますが、その人の『超異常気象』(中公新書)という本に引用されています。
また、エルニーニョ現象と炭酸ガス濃度の関係があります。エルニーニョ現象とは何かと申しますと、赤道付近の海水の温度が通常より高いことをいいます。このエルニーニョの一年後に、炭酸ガスの濃度が増えています。炭酸ガスで気温が上がるのではなく、気温が上がったから炭酸ガス濃度が増える。それがはっきり示されています。
炭酸ガスが増えたのは、人間の出した炭酸ガスが大気中に溜まったからだと説明されています。しかし、実は、この説では、人間の出した炭酸ガスの半分がどこへいったか説明ができないのです。もしも人間が発生した炭酸ガスが全部大気中に溜まったとすれば、もっと炭酸ガスの濃度が増えいなければならないのです。この半分が行方不明ということは、今から二〇数年前に指摘されて、ずっとそのままになっていました。
人間の出した炭酸ガスの半分が行方不明ということは、この問題がまだ学問になっていなくて、気温の上昇は人間の出した炭酸ガスとは関係ないかもしれないのです。そういうことが議論されないまま、誰もが炭酸ガスの上昇で気温があがったと信じている。信ずるのは宗教だけでよいのです。科学の世界でも信ずるのでは困ります。
炭酸ガス温暖化説の間違いが決定的になったのは、一九九一年から九三年にかけて二年間、世界中で炭酸ガスの濃度が増えていないことです。人間の出した炭酸ガスは全部行方不明になってしまったのです。なぜでしょうか。それは簡単なことでした。九一年にフィリピンのピナツボ火山が噴火しまして、成層圏に埃がいっぱいばらまかれた結果、太陽の入射量が減ったのです。したがって気温が上がらなかった。だから炭酸ガスが増えいないのです。地球の気温は、太陽活動と地球の受光能によって決まり、気温が大気中の炭酸ガス濃度を決めるのです。人間の出した炭酸ガスが大気中に溜まったわけではないのです。
だから先ほどから見ましたように、気温の変化が先で炭酸ガス濃度の変化が後になるのです。それなのに多くの人は炭酸ガスが増えて気温があがると大騒ぎしています。物理学が無視されているのです。なぜこんなことにみんなが大騒ぎすることになったのかといいますと、今から十年ほど前にフランスでサミットがありました。そこでフランスが炭酸ガス温暖化説を強調し、サミットの合意事項にしたのです。
フランスという国はそれまで環境問題にはあまり熱心ではなかった国です。それなのに、そんなことをなぜ急に言い出したのかといいますと、それはフランスの原子力発電と関係があります。炭酸ガスを出さない原子力発電、したがって炭酸ガスの温暖化を強調することによって落ち目の原子力発電を擁護できると考えたからです。それは大成功でした。この時から炭酸ガス温暖化説は、政治に引きずられた議論となりました。
寒冷化こそ心配
温暖化についてはこの外にも言うことはたくさんありますが、この辺でこの問題を終えようと思いますけれども、大事な点は、人類は寒冷化では非常に困りました。寒冷化では世界飢饉になるからです。しかし、逆に温暖化で困ったことがあったでしょうか。今までに何もありません。暑くて夏過ごすのが大変だというのはそのとおりですけれども、温暖化で困ったという歴史はありません。古代文明、六〇〇〇年前にどうして文明ができたのでしょうか。どういう背景で縄文文明が成立したのだろうか。弥生文明もどういう時代だったのだろう。いろいろ考えてみればよいのです。それは温暖化でした。
しかし、これらの文明の間にときどき寒い時代があった。そのとき人類は大弱りしたのです。なぜ寒いことが困るのかといいますと、陸上の植物は一五℃以上でないと光合成しません。地球の平均気温は現在一五℃ですから、おおまかに言って、現在陸の半分では光合成できないのです。残りの半分で光合成しています。
ということになると、平均気温が一七℃になれば、光合成をする面積は増えますから、世界中で食糧に困るなどという問題はありません。ところが平均気温が一三℃になったらどういうことになるか。そうなると地球の半分以上で光合成できないことになります。そこで飢饉発生という問題になるのです。
過去の気温がどのように変わったかを示したのが、お手元にある第2図、過去二万五〇〇〇年間の北半球の気温の変化です。これを見ればはっきりします。今から六〇〇〇年前に一番気温の高いときがありました。そして四〇〇〇年前と二〇〇〇年前に気温の高いときがあったのです。その途中に小氷期といって気温の低い時期があります。最近の小氷期は今から六〇〇年前から二〇〇年前で、ちょうど鎌倉時代の後から江戸時代にかけての話になります。
こういう変化を考えますと、今が最近では一番気温の高い時期なのです。どのくらい先か分かりませんが、これから気温は低くなるのです。次の寒冷化こそ問題です。けれどもその話は一九七〇年代の気象学の教科書には書いてありますが、今は全滅です。どの本を見てもそんなことは書いていません。この図も当時の気象学の本から写したものです。気象の歴史が無視されているのです。
気象学者が過去にどういうことを言っていたかを検証してみます。今から五〇年ほど前、戦争直後ですが、そのころ気温は上がるといっていました。気温があがって南極の氷が溶けて、地球は沈没すると気象学者は脅しました。それからしばらくして、今度は気温が下がると言いだしました。だから皆さんも覚えていらっしゃると思いますが、一九八〇年ごろから寒くなるぞと脅かされました。しかし、それは当たらなかったのです。そして今度、再び暑くなるぞと気象学者は脅かしているのです。
寒くなるぞと言っていた説はその後どうなったのでしょうか。学問的に否定されたのでしょうか。いえ、そんなことはないのです。消え去っただけです。なぜ消え去ったのか。ひとつは寒くならなかったからです。事実が否定したのです。寒冷化説はもっと長期的な問題を扱っていたはずですが、現実と逆では説得力に乏しく、維持できなかったのです。
もうひとつは先ほどの原子力発電の推進のために、世界中の先進国の政府が温暖化説を援助したからです。温暖化説の研究者には研究費がいっぱい出る。寒冷化説の研究者には研究費が出ないということになれば、消えていくのはあたりまえです。学者の数で物事の正しさを議論できないのですが、寒冷化説の学者がいなくなって、寒冷化説が消えてしまっては、どうすることもできません。寒冷化説が学問的に否定されたのではないのです。
原発も出す炭酸ガス
現在、原発、太陽光、風力などが今盛んに推進されています。それらの発電は炭酸ガスを出さないというのですが、本当でしょうか。原子力発電所を作るのに、どういう方法で作っているのかといったら、鉄を使い、コンクリートを使っています。鉄とコンクリートをどうやって作るのかといったら、石油を燃やして作る。ウラン燃料はどうやって掘ってくるのかといったら、それは石油を燃やして掘ってくる。それをどうやって燃料に加工するのかといったら、化学工場でウランを濃縮したりいろんなことをする。みんな石油を使っているのです。
太陽光発電も同じです。石油をいっぱい使う。太陽光発電がなぜ高価につくか。この発電では石油をたくさん燃して半導体を作っているから高くなるのです。石油文明なら当然そういうことになるわけです。要するに、これらの発電が炭酸ガスを出さないというのは大うそです。いっぱい出している。コストと炭酸ガスを出す量とは関係しているのです。ですからこれは経済学を無視しているのです。
風力発電も石油を使う科学技術ですから、炭酸ガスを出しているのは同じです。その上、風の吹いていない時のために、揚水発電所が必要です。これは山の頂上に池をこしらえて、風力で得られる電力を用いて水を汲み上げ、風の吹いていない時にその水を落として発電するというやり方をします。この池は大きな環境破壊であるだけでなく、大量の石油を使って土木作業をし、大量のコンクリートや鉄を消費します。つまり、大量の炭酸ガスを発生しているのです。それに、水を汲み上げるのに必要な電力と、水を落として回収できる電力とでは大きさがまるで違うという問題もあります。まったく馬鹿馬鹿しいことをしているのです。
太陽光や風力で原発の代わりはとてもできません。どちらも、原発に代わって発電するためには広大な面積が必要だからです。そのような土地は日本にはありません。したがって、太陽光や風力は成立しないのですから、原発の代わりに太陽光や風力を使えと言えば、これが原発と同じ程度の大量発電に成功するまでは、原発との共存を認める外はありません。そして、これは永遠に成功しませんから、原発は安泰ということになります。
現在、太陽光と風力が脚光をあびていますが、それは政府から莫大な補助金が出ているからに過ぎません。補助金が切れれば終了です。太陽光や風力の推進者は騙されているのです。
フロンはオゾンホールの原因ではない
フロンによる成層圏オゾン層の破壊というのは、まったくのいんちきでした。フロンがオゾンを破壊するには紫外線が必要です。ところが、オゾンホールのできる南極の春先、太陽光は水平に入射しますので、紫外線は宇宙に散乱させられ、ほとんど存在しません。これではオゾンを破壊するという化学反応が起こるわけはないのです。したがって、この機構でオゾンホールが発生するというのは根本的に間違っています。
それから、オゾンホールができるという根拠のひとつに、南極のまわりの高層成層圏で西風が吹いているという事実が示されています。その西風がエアーカーテンになって、南極の成層圏大気は孤立している。それなのに南極でオゾンがなくなるのだから、オゾンが化学反応で消滅しているとする以外にはないと説明されています。
しかし、それもとんでもない間違いです。南極の周辺の高層成層圏で西風ということは、この高層成層圏の大気が赤道から南極へ向けて流れているからなのです。その理由は次のとおりです。地球は西から東へ自転しています。赤道付近ではその早さは二四時間で四万キロを一周しますから、時速一七〇〇キロと高速です。成層圏大気も地球と一諸に非常に速く回っているのです。ところが極では大気は地球とともにゆっくりと回っています。
そこで、赤道の大気が極の方へ動きますと、地球が回るよりも速く回ることになります。そうすると地球から見ると西風です。冬の南極周辺で高層の成層圏大気が西風ということは、赤道から極の方へ大気が移動していることを意味します。だからこれまでの説明とは逆で、エアーカーテンなんかではなくて、南極に向けて高層成層圏大気は流れこんでいるのです。ところで、その高層成層圏大気にはオゾンが少ない。したがって、南極でオゾンが減るのは当たり前です。フロンは濡れ衣を着せられたのです。ここでも物理学が無視されています。
こういうぐあいに、今、学問がめちゃくちゃになっています。学問が政治に使われているといってもよいのです。フロンの場合もそうです。化学工業会社デュポンとの関係をちゃんと話しておかなければいけません。なぜフロンがあれだけ敵視されたのかといいますと、代替フロンを開発したデュポンなどの会社の陰謀です。つまりフロンがいけないということになって、代替フロンを使うことになると、その特許を持っているデュポンは大儲けできる。それにみんなが引っかかったのです。世界でフロンを作っていた会社は二十五社しかありません。その二十五社の支配権の争いだったのです。
リサイクル失敗の原因
次に、今環境問題というとリサイクルの話が一生懸命叫ばれています。しかし、リサイクルは大失敗です。今はどこでもリサイクルがうまくいかないという話ばかりです。なぜそんなことになったかといえば、それはリサイクルの結果、需要を超して供給してしまったからです。供給過剰で、その価格はどんどん下がりました。第3図に示しましたように、八四年には古紙の値段はキロ当たり二十円とか二十五円していましたが、今はただ同然です。新聞などは今ではキロ五円とか三円の値段になっています。そうなってしまうと、回収業者は廃業するしかありません。社会の構造がめちゃくちゃになるわけで、もうどうしようもなくなっているのが現実です。
そういうことになったのは経済学を無視したからです。経済学では資源は希少性で定義します。需要よりも供給が少ない場合だけ資源なのです。需要を越して供給しますと、使いきれません。過剰になれば資源ではなく、経済学では自由財(free goods)といいます。無料の財という意味ですから翻訳を間違えたのですが、需要を超していればそれは使いものにならないから資源ではないのです。「ごみも分ければ資源」などという経済学者がいますが、「分けたところで需要がなければただのごみ」であって、その経済学者はリサイクルを正義と信じ込み、自分の専門の経済学を忘れてしまったのです。
リサイクル運動やリサイクル行政は資源を供給する活動ですが、この運動や行政には供給過剰を調節する能力はまったくありません。どんどんリサイクルを進めて、供給過剰にしてしまい、使うことのできない物品をいっぱい集めてその価格を無料にしてしまいました。その結果、経済に大混乱を生じさせています。
市町村のリサイクル事業の本意
市町村がリサイクル事業を始めたのは、廃棄物処分場が足りなくなったからです。処分場にいくごみをリサイクルすれば処分場は助かると単純に考えたのです。しかし、全国の市町村から回収した廃棄物が資源として供給されることになったら、それは使いきれません。その結果、リサイクル活動は破綻することになります。このごろ、せっかく新聞紙を集めてまとめておいても取りにきてくれない。出したところで、みんな集められないで、結局は焼却するか、処分場にいくことになるのです。
実は、市町村がリサイクルに参加した理由は、処分場が足りなくなったからだけではありません。市町村が公害対策の完備した処分場をこしらえようとしますと、トン当たり五万円ほどにつきます。ところが回収業者にそれを持っていってもらいますと、回収業者に払う補助金は五千円程度で済むのです。諸経費を含めて一万円程度です。
ところで、リサイクル運動の結果、過剰供給でリサイクル商品の価格が下がり、回収業者は困り果てています。これでは生活できないというわけです。それで市町村は補助金を出して、回収業者の生活を支えることになりました。つまり処分場枯渇の問題、処分場へ捨てるより安いという問題、そして回収業者を補助金で助ける、という一石三鳥の得だと、こういうことになったわけです。しかし、そういうことをすれば、ますます供給過剰を拡大することになります。
その結果はどうなるのでしょうか。市町村でも、豊かな市町村ばかりではありません。貧しい市町村があります。豊かな市町村は、補助金を払って回収業者に運び出してもらい、処分場に行く廃棄物の量を減らすことができます。しかし、貧しい市町村では回収業者に補助金を出す余裕はありません。補助金を出さなければ回収業者は来てくれません。そこで、せっかく市民が分別してリサイクル回収したごみを、まとめてそのまま処分場に捨てることになります。
つまり需要は限られているのですから、どこかがリサイクルの供給をすれば、別のところのリサイクル物品は余ってしまうのです。言いかえれば、豊かな市町村の公害対策のちゃんとした処分場に捨てられるはずだったごみが、貧しい市町村の素掘りの処分場に捨てられることになっています。
それだけではありません。お金をたくさん持っているいる市町村でも、遠方にある場合、ここには回収業者が来てくれません。回収業者にしてみれば、トラックの運送費をよけい使ってまで取りに行く必要はないわけで、近くの豊かな市町村へ行けば補助金がもらえるわけですから。そういう遠方の市町村でせっかく良質のリサイクル商品があっても、すべて処分場にいくことになります。要するに、リサイクル資源でも人間の使う量に限界があるわけですから、残りはすべて廃棄物なのです。その廃棄物に補助金をつけて集めるとますます供給過剰はひどい状態になるというわけです。
要するに、需要と供給の関係で社会の物資が流れているので、それを無視していくらリサイクルしても、利用されることはないし、さらに社会の需給構造を混乱させることになってしまうのです。つまり、強制的にリサイクルしてはいけないのです。需要の範囲で供給するのならば、市場経済が成り立つのです。したがって、儲かるリサイクルだけにすべきです。リサイクル運動も、リサイクル行政も、経済学を無視して、まったく困ったものです。人間は考える力を失ってしまったとしか言いようがありません。
先ほどから言っていますように、どうでもよいことにみんなが一生懸命になり、本当のところ一体どんなことが困ったことになるのかについて、何も考えない時代になってしまいました。その次どうなるのかを考えるのが学問ですが、その学問をすることなしに、誰かが「良いことだ」と言ったことを信じて行動しているのが、現代なのです。
余分のエントロピーを捨てる
そこで、このような話題だけに引きずられるのではなく、環境問題とは何かを考えるため講演の本題に入りたいと思います。本当に困る環境破壊とは一体何か、というところをしっかりと調べてみます。そのためには、先ほども言いましたが、「エントロピー」という言葉をどうしても使う必要があります。物理学で「エントロピー増大の法則」というのがあります。活動や変化があるとエントロピーがどんどん増えます。そして、そのエントロピーが溜まるともはや何もできなくなってしまう。活動が止まってしまう状態になる。
つまりエントロピー増大の法則がある以上、いずれは終末がくる。これは物理学の結論とこれまで言われてきました。物理学者ならば、誰でもこの程度のことは教えてくれます。しかし、その終末を避けるにはどうすればよいのか。その方法については、多くの物理学者は何も考えてはいません。ここでも物理学者は学問を失っているのです。
この問題は、実は、簡単なことだったのです。エントロピーは捨てることによって減らすことができるのです。生命は激しく活動しています。したがって、身体の中にいっぱいエントロピーを発生させています。エントロピーというのは「汚染」と思っていただければよいのですが、生命が活動すると身体の中のエントロピーがどんどん増えます。しかし、人間は上手にそのエントロピーを捨てる方法を持っているのです。
どういう方法で捨てているのかといいますと、廃物と廃熱を捨てるという方法を使います。今、私は暑くてしようがありません。皆さんは静かに座っていらっしゃいますからあまり発熱していませんが、大きな声を出して話をしている私は、もう身体の中は熱だらけです。もう暑くてしようがない。私は今、熱汚染状態にあります。そこで汗をかきます。汗をかくと、蒸発するときに身体の熱を奪ってくれるからです。熱のエントロピーは、放熱することによって外へ捨てることができます。
この放熱を失敗しますと、熱汚染でもう苦しくてしようがない。講演の最中は団扇を使うことができませんので、ここに置いてある冷たいタオルで首すじを冷やして、何とか熱エントロピー水準を元へ戻そうと努力しています。要するに熱汚染状態を避けるには、放熱によって熱エントロピーを捨てればよいのです。
汚染には、熱汚染のほかに、物汚染があります。私は今大きな声をあげて活動しています。そうしますと体の中に老廃物が発生し、溜まります。この老廃物が物エントロピーです。したがって、私はこの講演が終わったら直ちにトイレへ駆け込んで放尿します。尿の中に老廃物のエントロピーを溶かして捨てることになるのです。
生命は廃熱や廃物を捨てることで、生命のエントロピー水準を下げることができます。このようにして、エントロピー水準をもとに戻すことができて、生き返って活動を続けることができるのです。このことから、生命活動にとって、廃物と廃熱を捨てることは大切であることが分かります。
入れて出すことでエントロピーを処分
ところが、エントロピー(汚染)を捨てるのに、今話をしました二通りの方法しかありません。熱として捨てるか、物として捨てるかです。つまりエネルギーを捨てるか物を捨てるか、の方法しか、エントロピーを捨てる方法がないのです。そうやって廃熱と廃物を捨てると、私の持っているエネルギーと物質はどんどん減ることになります。
したがって、私には減った分を補充する必要があります。ご飯を食べて水を飲まなければいけない。体の中のエネルギーと物質をとり入れる必要があります。食べたり飲んだりすることは何のためにするのかといったら、余分のエントロピーを捨てるために、廃物を捨て、廃熱を捨てたから、物とエネルギーを補充することが必要になるのです。つまり、私が活動を続けようと思うと、出すことと入れることが必要なのです。
これは、エンジンの研究から得られた活動を維持するための条件です(第4図)。エンジンを動かし続けようと思ったらガス欠が一番心配です。資源が不足するとエンジンは止まってしまいます。それからエンジンを動かし続けようと思いますと、廃物と廃熱を捨てなければいけません。例えば自動車のエンジンには排気口がついています。あの排気口にふたをしてしまうとエンジンは動きません。あそこからエントロピーを捨てることができるから、自動車は運転できるのです。
廃物と廃熱を捨てることでエンジンのエントロピー水準が維持されて、自動車は走ることができるのです。このようにして、入れて、出すことで、余分のエントロピーを処分できますから、エンジンのエントロピー水準を維持することが可能になります。
活動を続けるには物質循環が必要
ところで、活動を続けるにはもう一つの条件が必要になります。それはエンジンの中で物質が循環活動していることです。ガソリンエンジンでは空気がシリンダーの中へ出入り(循環)しています。蒸気機関では水が回っています。要するに物質の循環がある。なぜ循環が大切なのかといいますと、それは物質の循環によってエンジンの状態をもとどおりに復元することができるからです。復元できれば、また同じことができるのです。これが活動を維持する条件です。これをエンジン工学では、サイクリック運転といっています。
生命も一種のエンジンです。動物は、飲食します。そして排泄します。動物の体内には血液などの循環があります。これによって、動物の身体状態は復元し、また同じことをするという形で活動を続けることができるのです。
活動を続けようと思うとどうしても必要なのは、第4図に示しましたように、この三つの条件です。第一に入力、第二に出力、それから第三に物質循環です。この三つがどうしても必要なのです。この三つの条件を満たさないで活動を続けることは不可能です。
大気の循環
今日の主題は地球環境ですが、この地球環境も活動を続けています。風が吹くし、雨も降るし、そして地球には生物もいて活動している。そのように自然環境では、物事が動き続けています。このように自然環境もやはりエンジンで、活動持続の三つの条件が満たされているはずだということになります。
では地球環境が活動を続けるために必要な資源とは何か。これは第5図に示しましたように太陽光です。太陽光が地球環境に降り注いでいます。それでは、捨てているものは何か。どういう方法でエントロピーを捨てているのか。それは廃熱を捨てています。太陽光が地球に入ったままで、溜まっていったらどんなことになるか。地球はどんどん暑くなって最終的には太陽と同じ温度になってしまいます。そんなことにならないのは、入った太陽光の熱は、地球にある時間留まった後、宇宙へ出ていくからです。要するに地球が宇宙へ向かって放熱することで、地球のエントロピー水準を維持しているのです。
では、活動を維持する第三の条件、地球の中で存在している物質の循環とは何でしょうか。それは、第6図に示しましたが、基本的には大気の循環と水の循環です。
太陽光が地表に当たりますとそのまわりの大気が温まります。温まると軽くなって上昇気流になる。上昇気流になってどんどん上の方に上がっていきますと、気圧が下がりますので温度が下がります。これは山登りすると涼しくなる理由ですが、一〇〇メートルごとに大体〇.六℃から一℃下がります。この日蓮宗清澄寺は海面から四〇〇メートルとしますと、およそ三℃ぐらい低いということになります。大気が上昇して五〇〇〇メートルくらいになりますと、マイナス二三℃ぐらいになりまして、そのあたりで宇宙へ向かって低温放熱する。放熱すると、大気はさらに冷たくなって重くなり下りてくる。このような大気の循環が成立します。これによって、地表では風が吹くことになります。この大気の循環が地球上でもっとも重要な物質循環なのです。
ここで、もしも大気を汚してしまうとどういうことになるかを考えてみます。大気を汚しますと、太陽光は大気中の汚染物質に吸収されて、これを暖めます。大気の上の方が温まってしまうと、地表の大気は上昇することができません。したがって、大気の循環は滞り、風は吹きません。風が吹かなければ、次に述べますが、大事な水の循環も滞ります。さらに大気がよどむことにより地球上の一切の活動は停滞することになります。
ですから大気を汚すことは環境破壊の基本中の基本です。大気を汚したらいけない。今どういう方法で大気を汚しているかといいますと、自動車などが埃をいっぱい舞い上げる、工場からは煙をいっぱい出している。そして一番大きな環境の悪化を引き起こしているのは、熱帯の森林の燃焼です。焼き畑によって煙がいっぱい出て、そしてまたそれが延焼して森・熱帯林がどんどん焼けていっています。赤道に沿ってそういうことが起こっているのです。ブラジルあたりもそうですし、インドネシアがそうですし、アフリカでも同じようなことが起こっています。なぜ焼畑を拡大することになったかについては、世界経済が原因ですが、それはこの講演の終わりで述べることにします。
そういう赤道付近で焼き畑農業を原因とする煙がいっぱい広がっている。それは新聞でお読みになって皆さんご存じだと思いますが、例えばシンガポールでは、スマトラ島から流れてくる煙で、昼も暗いなどという記事があったのをご存じと思います。ああいうことになると、上空が太陽光で加熱されることになるので上昇気流が起きなくなる。これは非常に大きな環境悪化です。その結果がいろんな異常気象の原因になる。
それからもう一つあります。北極が今とんでもなく汚れている。飛行機で北極を飛んでヨーロッパへ行った人は、窓から外を見ればよくわかると思いますが、何重にも薄い層になったごみが浮かんでいます。そういうことになると、地表からの放熱が遮断されることになります。地表から宇宙へ向かって出る熱が、抑えられるわけです。そうすると北極の温度が上昇することになります。この温度上昇は炭酸ガスによる温暖化ではありません。大気を汚すことは第一級の環境破壊なのです。
水の循環
それからもう一つ、この第6図に水の循環も示しました。大気が循環して地表で風が吹くと、地表の水が地表の熱を得て蒸発します。この水蒸気は大気に乗って上昇しますが、先ほどの気圧が下がると温度が下がるという効果で、水蒸気が熱を大気に渡して水滴や雪片になって雲になります。そして雨や雪として地上に戻ってきます。これが水の循環です。つまり、大気の循環で熱が地表から大気上空へ運ばれているわけですが、水の循環も蒸発のときに地表から熱を得て、それが上空で雲ができるときに、その熱を大気に循環に渡します。結局その大気の循環がこの熱も宇宙へ放熱するのです。
そういうふうにして、太陽光が入り、廃熱が宇宙へ捨てられる。その結果大気の循環と水の循環が生ずる。これが地球上にあらゆる活動を作っている基本です。我々はこの大気の循環と水の循環のおかげで生きることができるのです。
このように地球の熱エントロピーを宇宙へ捨てる方法は、大気の循環が主役です。水の循環がそれを補佐しています。その結果、地球上では熱汚染に悩まされないですんでいるのです。大気の循環は空冷です。水の循環は水冷です。地球とは空冷と水冷の機構を持つ星ということになります。
さきほど大気汚染は大気循環を壊すといいましたが、水循環を壊すのは砂漠化です。砂漠になりますと、水が蒸発しないわけです。水が蒸発しないと雨が降りません。水循環を失うことになるのです。砂漠ではどうして、暑過ぎたり、寒過ぎたりするのだろうといったら、エントロピーを捨てることがうまくいっていないからです。地球環境で水の蒸発、要するに水冷の機構があるということは非常に重要なのです。
それから都市、道路、畑これは水が蒸発しませんから、熱汚染が大変です。東京の町の中が暑くてしようがないのはそういうことです。コンクリートで土を覆っていて水が蒸発しないからです。水冷の機構を失ったということになります。まとめますと、この大気の循環と水の循環を失うことは環境破壊なのです。
先ほどの炭酸ガス温暖化論では、この話が出てきません。炭酸ガスによる温暖化が仮にあったとして、それが、大気の循環と水の循環をどのように変えるのかなどということが一向に議論されません。単に温度が上がるとか、下がるとか言っているにすぎません。そうではなくて、地球上の活動が維持されるためには、大気と水の循環がどのように変わるのかが一番大きな問題なのです。
物エントロピーを熱エントロピーに変える生態系
ところで、エントロピーには、物と熱の二種類があります。熱の汚染はすでに述べましたように、大気と水の循環が宇宙に捨ててくれています。ではもう一つの物の汚染はどういうことになるのか。人間の体だったら、体の中の物の汚染、つまり老廃物は尿に溶かして捨てて、汚染水準を元に戻します。しかし、地球の場合、重力がありますから宇宙へ廃物を捨てることはできません。地球は物の汚染を捨てる方法をもっていないのです。そうすると物の汚染はどうなってしまうのでしょうか。そのことを説明するのが第7図の生態系での養分の循環です。
植物は、土から水と養分を得て、炭酸ガスと太陽光で光合成し育ちます。その植物を動物が食べます。植物と動物の死骸は、微生物が分解してまた土に戻します。この反応ではすべてエントロピーは増大します。しかし、土から出て土に戻ったのですから、結果としてエントロピーは増えていないのです。エントロピー増大の法則をそのまま生態系に適用することは失敗です。活動すれば、必ずエントロピーが増えるという物理学の法則はこの場合成立していません。物理学でいうエントロピー増大則は間違えているのでしょうか。
第7図をよく見て下さい。生態系に入ったものは何かといえば、水と太陽光です。酸素、炭酸ガスは出たり入ったりしています。ですけれども、出ていくものもあります。熱が外へ出ています。それから水蒸気が出ています。要するに水が入って水蒸気が出たのですから、水の量は入って出たので変わっていない、結局、廃熱が外に出ているのです。生態系の循環が回りますと、日光が入って、熱が外へ出るのです。この変化で、増加した物のエントロピーは、すべて熱のエントロピーに変わって、生態系の外へ捨てられているのです。
この現象を理解するには、堆肥を作る過程を観察することです。堆肥を作るとは植物の死骸を土にすることです。そうすると、水蒸気がいっぱい出てきて湯気が出ているでしょう。そのときに、物エントロピーが熱エントロピーに変わったのです。堆肥化とは物エントロピーを熱エントロピーに変えることなのです。
ここで発生した熱エントロピーは、先ほどの大気の循環が宇宙に捨ててくれる。だから地球の物汚染の水準も一定に保つことができることになります。地球は、物エントロピーを宇宙に直接捨てることができないのだけれども、熱に変えて捨てている。エントロピーという点では、物だ、熱だなどと、一旦は分けてみたけれども、本質的には同じもので、物エントロピーを熱エントロピーに変えれば、物汚染に悩む必要はないのです。
しかし、そのためには豊かな生態系、つまり植物、動物、微生物の調和が必要になるのです。人間が、科学技術の力で、この生態系なしに汚染対策しようとしています。それは廃棄物の焼却によってある程度のところまではできました。しかし、それは不十分で、生態系に頼らず汚染対策することは不可能です。したがって、人間が発生した物汚染に現在悩むことになるのです。
したがって、この生態系の循環を破壊することも、大気と水の循環を破壊することとともに重大な環境破壊ということになります。
養分の循環
ところで、この生態系の循環の中で何が回っているのでしょうか。土から植物へ、植物から動物へ、そして微生物へ、最終的には土に戻る物質とは何か。これは養分です。窒素・リン・カリ、など肥料の三元素を含む生命にとって必須の物質です。こういう循環をする物質を物理学では作動物質といっています。
大気循環の作動物質は大気です。それから水循環の作動物質は水です。血液循環の作動物質は血液です。生態系の中の作動物質は、リン・カリ・窒素などです。それがぐるぐる回っている。土の中の反応も、植物の中の反応も、動物の中の反応も微生物の中の反応も、すべてエントロピー増大の反応だけれども、その結果、物汚染は熱汚染に変えることができて、それを生態系の外へ捨てることができるということになります。
ところで、これではまだ完全でありません。これらの養分の窒素・リン・カリは水に溶けるから植物が吸収できる。もしこれらの物質が水に溶けなかったら植物は吸収することはできません。したがって、養分は水に溶けることが非常に大事です。
ところが、植物の必要以上に、これらの養分が水に溶けると、植物には吸収されないで、流れてしまいます。光合成するのは夏の間だけですから、冬では水に溶けた養分は、利用されることなく、どんどん下へ流れ落ちてしまいます。植物が必要としない養分は山の上から下の方へ抜けていくわけです。
日本人は、山や丘に木が生えるのは当たり前と思っている人が多いのですが、雨が降ると山の養分は溶けだして、流れ落ちます。したがって、山や丘は、貧栄養状態になりやすく、はげ山になるのが普通です。世界旅行をすれば、そのことはよく分かります。後で種明かしをしますが、山や丘にある日本の森林はとても不思議なことなのです。
山から運ばれてきた養分によって、平地に森林ができます。しかし、その森林の養分も雨水に溶かされて、海へと流れていきますから、いずれ平地も養分を失い、痩せ地になって、ついには砂漠になります。砂漠は陸上でもっとも安定な状態なのです。
陸地から流れてきた養分によって、海洋では植物プランクトンが光合成し、海洋動物のえさになります。このことは、大河の河口付近が漁場になっていることで分かります。この海洋動物はそれより大きい海洋動物のえさになって、大部分はその糞になりますが、糞は海水より重いので、金魚の糞のように沈みます。深さ千メートル以上の深海水は養分濃度が高いのですが、それは深海水の温度が低いため、湧き上がることができず、陸上から供給された養分が蓄積することになったからです。深海は、地球上の生命の墓場でした。
この深海の養分は、極洋や海洋の東端で、この墓場から沸き上がってきます。循環の回復です。その機構についても話したいのですが、時間がありませんので、参考書『エコロジー神話の功罪』P一四〇頁付近を読んでいただきたくことにして、先を急ぐことにします。
環境破壊とは、自然の循環を破壊すること
このようにして、陸上の森林は消滅して、荒れ地から砂漠になる運命にあるのですが、砂漠になると雨が降らなくなります。普通は、雨が降らないから森林を失い、砂漠になると説明されるのですが、多くの場合、それは逆です。
森林は、盛んに雨の原料である水蒸気を発生しています。その面積あたり発生する水蒸気の量は湖が発生する水蒸気の量とほとんど同じです。この水蒸気は空気より軽いので上昇気流になります。しかも、水蒸気は温暖化ガスですから、地表から出る熱線を吸収して加熱されますます軽くなって、上昇する勢いを加速します。その結果、森林の上空には雲が発生し、雨が降ることになります。
しかも、森林で発生する上昇気流は、砂漠の空気も巻き込んで上昇します。砂漠の空気の中にもわずかですが、水蒸気が含まれています。この水蒸気も雨になるわけですから、森林は蒸発で失った水分以上の雨を得ることになります。
ところが、砂漠の空気ではこのような上昇気流が生ずる機構はありません。したがって、雨が降らないのです。つまり、森林を失って、砂漠になると雨が降らなくなるのです。これまでの説明は多くの場合雨が降らないから砂漠になると教えてきました。これまでの説明どおりの砂漠はない訳ではありませんが、大陸の西海岸、たとえば南アメリカ西部のようなところだけです。
したがって、森をなくしてしまうと雨が降らなくなるのです。森があると雨が降るのです。これは環境問題にとって非常に重要なことです。我々が森を壊すと雨は降らなくなるのです。森林を破壊することは、生態系の養分の循環を壊してしまうだけでなく、上昇気流を失って大気の循環を壊し、水の蒸発を失って水の循環も壊してしまい、地球の宇宙へのエントロピー処分能力を失い、エントロピー水準がどんどん上がっていくことになるのです。森林破壊は重大な環境破壊です。
大気と水と養分の循環、この自然の循環を壊したり、劣化させたりすることが環境破壊なのです。その結果は、地球のエントロピー水準の上昇を引き起こし、生命系や人間社会の存続を危うくすることになるのです。
残りの時間がわずかになりましたので、自然の問題から人間社会の問題に話題を移したいと思います。
エンジンとしての人間社会
まず、人間社会も一種のエンジンです。これは非常に重要な点です。社会がエンジンだなんて考えたこともなかったとおっしゃるかもしれませんが、先ほどのエンジンの活動の条件は、社会にも当てはまります。
社会が活動を維持するためには、第一に、資源が必要です。第二に、社会が活動すると廃物と廃熱を発生しますから、これらを廃棄しなければなりません。
それから、第三に、社会にも物質循環が必要です。これは物流のつながりが循環になっていることで示せます。物流はしばしば人間の血液にたとえられますが、まったく同じ機能を果たしているのです。つまり、人間社会も、第8図で示されるようなエンジンなのです。
社会の活動を維持する作業は、この物流(または商業)がしています。物流が物を届けてくれなかったら我々は困ってしまうわけです。この物流は市場経済で回ります。市場経済を無視して、一時期、社会主義者は、計画をしっかり立てて物資を生産すればうまくいくという計画経済でやろうとして大失敗しました。
廃棄物が増えて困るという理由で、リサイクル運動とかリサイクル行政がなされますが、これも一種の計画経済です。人間にはこのような計画経済という理想をかかげて、その成否を考えずに実験して、失敗する歴史を繰り返しています。リサイクルも資源の供給なのですから、市場経済で動かさなければいけないのです。需要よりも少なく供給すること、つまり、儲かるリサイクル以外のリサイクルはしてはいけないのです。
廃棄物問題
ところで、廃棄物を今悪く思いすぎているのではないでしょうか。廃棄物というのはとんでもないものだ。これは焼却したらダイオキシンが出てくる。埋めたら処分場が足りなくなる。下手をすればそこから汚染水が流れてくる。廃棄物はやっかいで悪いものだと我々は思い過ぎています。これは誤解なのです。
自分たちが何かの問題にぶち当たって、あちらを立てようとすればこちらが立たないという形の矛盾に直面したとき、どういう考え方をすればよいのでしょうか。最近、複雑系という考え方がはやっています。しかし、物理学の複雑と経済学の複雑はまったく別の現象です。この問題で両者が集まって議論しても、皮相的なアナロジーができるだけで、問題解決にはなりません。私はこのようなやり方は学問ではないと考えています。
そのような複雑で矛盾した状況になった場合は、その問題をよりもう一まわり広い範囲を考える。そしてそれをまとめて丸ごと物事を見るという考え方をする。そうすると、矛盾はありません。必ず解決策が見つかります。これが学問です。
我々は廃棄物に困っています。ところで我々は動物の一種です。では、他の動物は廃棄物問題で困っているのだろうか。そこで野性動物の廃棄物問題を考えてみることにします。野生動物の廃棄物とは一体何でしょうか。野生動物にとって一番多い廃棄物は食べ残しです。野生動物は食べ残しても平気なのです。廃棄物問題に悩んだりしていないのです。我々も食べ残しをいつもいけないと言っているのを考えなおす必要があります。それから糞尿、これも野生動物はいっぱい出します。ですが、野生動物は糞尿では困っていない。なぜでしょうか。それからもう一つ、死体です。これも我々は困っているわけです。だけど他の動物は困っていないのです。
よく考えてみると、食べ残しにしろ、糞尿にしろ、死体にしろ、すべてその他の動物のえさになっています。そして結局は、植物の肥料となります。例えば野性動物の糞を食べている黄金虫、フンコロガシがいます。
第9図に示しましたが、ある生物の廃棄物は、他の生物の資源なのです。これがしっかりつながって生態系は構成されているのです。たしかに、廃棄物は自分にとっては困った存在です。犬はできるだけその生活圏から遠くに行って排泄しようとします。ミミズは土中で糞をしません。しっぽを土から出して、地表にします。糞まみれになりたくないのは人間も野生動物も同じです。しかし、野生動物の糞は他の動物や植物など他の生物の資源になっているのです。それがぐるっと回って循環になっているわけです。
我々人間だけがこの循環から離れてしまって、廃棄物を人間だけで処理しようとしています。だから廃棄物問題を起こしているのです。そこで、人間社会も、この生態系の一員に戻ることにすれば、廃棄物問題など存在しないのです。
だから我々も他の動物のやっているとおりやろう。できないことではありません。日本では、つい最近の一九六〇年ころまではそのようにしてきたのです。
見習うべきは江戸社会
江戸社会でも廃棄物問題は確かにありました。江戸市内で発生する廃棄物は、例えば江戸川が埋め立てられ、今の江戸川区とかそういう土地になりました。昔の江戸川は遠くがかすむくらい広かったのです。しかし、そういうこともあったけれども、生活で発生する廃棄物は他の生物との関係で処理されてきました。
まずは糞尿、これは直接肥料になり、植物の資源となっていたのです。そして、他の動植物を通して、また我々の資源として戻って来たのです。第10図で示した江戸時代の豊かな循環社会とは、そういうやり方です。
循環社会という言葉がこのごろ盛んに使われていますけれども、リサイクルとは人間社会の中だけの物質循環です。これをいくらやろうと廃棄物をゼロにすることは不可能です。資源を利用すれば、結局は廃棄物になり、捨てることになるのですから、リサイクル社会は決して循環社会ではありません。その廃棄物が循環になっていないからです。それに比べて江戸社会はほとんど完全なサイクル、循環社会でした。
たとえば、この図で都市のまわりを見ていただくと、都市で発生した糞尿は畑にいきます。すると野菜が返ってくる。畑で土が豊かになりますと、そこにムク鳥などがやってきます。豊かになった土の中に虫が発生しますから、ムク鳥がそれを食べて、糞をまわりでします。その糞で木が育ちました。
東京の武蔵野の雑木林は有名です。けれども武蔵野というところは、江戸時代はじめは木がまったく生えていなかった、草もほとんど生えていなかったといいます。まるっきりの原野です。この雑木林は、江戸に人間の町ができたからできたのです。それ以前は、養分がまるっきりなくて、木が生えてなくて、甲州街道の旅人は、夏も冬もしばしば遭難しました。
日本では、都市ができると周りが雑木林になるのです。他の国々では考えられないことです。人間は悪い動物だと他の国々では言います。キリスト教なんかでは特にそう言う。日本では、人間が悪い動物だなんて考えたことがない。人間が悪い動物だということをいうようになったのはつい最近のことです。
江戸時代の商業、農業、漁業
第10図の絵についてもう少し説明しますと、江戸幕府成立で政治が安定し、江戸、大坂、京に大都市ができて、そこへ米を届けなければなりません。この米を生産するには肥料が必要です。その肥料をどうやって作ったかといえば、刈り敷き農業で、草や柴を刈ってきて、たんぼに入れました。これは、日本の環境破壊の最大のものでした。下草刈りは、環境破壊を防ぐ方法だなどと言う人がいますが、それは違います。草刈や柴刈をすると里山の養分がなくなってしまうのです。
戦国時代、今から五〇〇年ぐらい前には、日本ははげ山ばかりだったといいます。戦争が続くと川は安定しているのですが、平和になると兵士は帰農して草刈や柴刈をしますから、山が荒れて洪水が繰り返されたといいます。
それが江戸時代になって平和になったのですから、ますます山は荒れたのかといいますと、そうではなかったのです。それは都市ができたからです。都市に米を運ぶために、商業が発達しました。この商業は漁村から農村へ肥料としての魚の干物(ほしか)を運びました。農民はこの肥料を買って、田に入れました。すると田が豊かになって、虫が発生します。この田に鳥がやってきて、これを食べます。
せっかく高いお金を出して買った肥料分を鳥に盗まれたのです。農民たちはそれを盗んだなどといって怒りませんでした。むしろ鳥がやってくるたんぼはお米がたくさんとれるから、鳥がくることをかえって喜んだ。泥棒されていて喜んでいるというぐらい、おおらかな感じでした。
この鳥の糞で日本の山に木が育ちました。五〇〇年ぐらい前までは日本の山は禿山ばかりだったのですが、それが山の上まで木の生える日本にしたのは、日本の農業、それから日本の漁業です。そしてそれを支えたのは、日本の商業です。つまり都市ができることによって、人間社会は生態系とつながり、里山に木が生えたのです。
日本は、こういう不思議な世界ということになります。それは人間を含めた自然ができあがったからです。人間が自然から資源を収奪する、人間と自然との対決と考えるヨーロッパ思想は間違っています。自然の中の人間です。人間を含めた自然という発想で環境に対処しないと、環境を収奪するだけになってしまうのです。
だから、これからの環境問題では、この江戸時代の豊かな循環社会がモデルになります。このような社会を回復するにはどうしたらよいのでしょうか。それは先ほどの廃棄物の問題になります。廃棄物こそ自然にとって重要な資源なのです。それは廃棄物をもう一ぺん人間が使うという意味ではありません。リサイクルの間違いはそこなのです。
廃棄物を何でもかんでも、人間だけで資源を使い切ってしまおうとする考えが間違っているのです。廃棄物は自然に返せば、自然がもう一ぺん資源として我々に戻してくれます。我々が何も無理に使うことはないのです。
リサイクルは儲かるのならやってもよいのです。儲かる、言い換えれば、市場経済になじむのならやってもよい。市場経済にもなじまないのに補助金を使ってでもやることではないのです。
廃棄物処理の合理的方法
ここまでの話をまとめますと、第11図に示しましたように、人間社会の循環を、資源をとりいれ、廃物・廃熱を返すという方法で自然の循環とつなげて新しい循環にすることです。人間社会の廃棄物は困った存在ではないのです。これは新しい循環を作る重要な作動物質なのです。そのようにすることで、人間社会の活動を維持することができるだけでなく、自然の循環も豊かにすることができるのです。
廃棄物を自然に返す方法について、具体的な提案をすることにしましょう。まずは食べ残しですが、これは里山のふもとまで運んで、並べておけばよいのです。カラスやタヌキがやってきてみんな大喜びで食べてくれます。そしてこれらの動物が山で糞をしてくれますから、山は豊かになります。
人間の糞尿は、昔していたようにたんぼや池に入れればよいのです。人間の糞をたんぼに入れて悪かった理由はありません。悪いなどといったのはヨーロッパ思想が入ってきたからです。もっと上手にたんぼに入れる。そしたらたんぼで米だけでなく、里芋もとれる。水なすというのもあります。人間の尿は池に流し、水性生物の資源にする。鯉などもとれる。そだった小魚は鳥が食べ、山へ養分を運んでくれます。これによって山が豊かになるのです。
これらの廃棄物以外は、死体を含めてすべて完全に焼却します。近くに里山のない大都市の廃棄物もすべて焼却が原則です。儲かるならリサイクルしてもよいのですが、無理にすることはありません。焼却を悪くいう人が多いのですが、それは間違いです。焼却は、物エントロピーを熱エントロピーに変える有効な手段です。
結果として生ずるのは、炭酸ガスと水蒸気と熱ですから大気に直接渡すことができます。炭酸ガスにすることはよくないといいますが、どのようにしようと、炭素化合物はいずれ炭酸ガスになるのです。上手に燃すことで公害発生を少なくすることができます。
焼却で発生する固形廃棄物は、焼結固化してレンガにしたり、熔融固化して人工石にすることで汚染を閉じ込め、さらに利用することもできます。たとえば、内海では埋め立てのための浚渫でつくった深い穴があちこちにあり、青潮などの公害発生で困っていますが、この埋め戻し材料にも使えるのです。焼却では、採算がとれるのならば、発電すればもっと有効でしょう。
どうすることもできない廃棄物は放射能だけです。それ以外の廃棄物は科学技術で対応できます。科学技術で解決できることは、科学技術を使えばよいのです。しかし、放射能は科学技術の手に負えません。科学技術が使えないような原子力発電所を利用するのはまったく野蛮です。できるだけ早く原発をやめなければいけないのです。
穀物の過剰生産と供給こそ環境破壊の最大原因
今、環境問題で、何が一番困ったことでしょうか。それは、日本を除く先進国が科学技術を使って穀物を過剰に生産していることです。穀物をたくさん作れば、人類は飢えから解放されるなどと、そういう単純な発想で白人たちは穀物の過剰生産を続けています。しかし、それはまったく違うのです。
一九九六年の世界の小麦の貿易量は、FAO資料によれば、九八〇〇万トンでした。およそ五億人分です。その内訳は、アメリカ(三二%)、カナダ(一七%)、オーストラリア(一五%)、フランス(一五%)、ドイツ(四%)、イギリス(四%)で、これらの白人先進農業国だけで九〇%近くになります。そのほかに、とうもろこしなど大量の穀物を過剰生産しています。
先進農業国はこの過剰穀物を補助金をつけて発展途上国に売り込んでいます。発展途上国の農民たちはそれに対抗できません。なぜかといえば、発展途上国の農民たちには肥料を買う費用がないからです。アメリカは肥料と農薬、耕作機械を投入して安価に過剰な穀物を作り、これに補助金をつけて売りつけるのですから、発展途上国の農民は農業を放棄させられることになります。そして、みんな町へ、スラムへ流れてくる。そして援助穀物で生活することになっています。放棄された農地は荒れ地となり、砂漠になります。これが現実の姿です。
何とかして農業を続けようと思う発展途上国の人たちは、焼畑しかありません。森を焼けば森の肥料分が使えるからです。だから二、三年は生産できる。ところがいずれ、そういう肥料は雨で流されますから、結局は痩せ地になって、放棄され、また別なところを焼くことになります。そして、この焼畑の延焼で途上国の森林は消滅に向かっています。放棄された農地や焼け跡は砂漠になっていくのです。
このように、先進国が科学技術で穀物を過剰生産し、これを発展途上国に供給すると、発展途上国の土地は砂漠になるのです。アフリカはまったくひどい状況です。以前は農業国といわれたアジアは、軒並み穀物輸入国になってしまいました。日本なんかとっくの昔にそうですから麻痺してしまっていますが、穀物をしっかり白人におさえられてしまっている。このごろは特許で穀物の種まで白人がおさえています。
環境破壊でもっとも怖いのはこの穀物の白人による完全支配です。このままいって、あるとき異常気象がきたらどういうことになるか。彼らの生産した穀物はすべて自分たちで消費します。そうするとアジアとアフリカは食糧難です。そのときにアジアの黄人とアフリカの黒人は、内部割れして、戦争して食糧を奪い合うことになるのです。
自由貿易という押し売り
諸悪の根源は穀物の過剰生産と穀物の自由貿易です。白人経済学者たちは、自由貿易こそ正義と教えています。私はこれに疑問を持ちました。自由貿易と言っていますが、その内実は「買わなければ制裁する」というものです。これは白人の押し売りの論理です。彼らは昔からそのようにしてきました。今も黒船の時代とやり方は変わっていないのです。そのようなことが正義であるはずがありません。
そこで、貿易論を研究しました。そこで発見したことは、経済学者の書いている貿易論には、貿易商ということばが現れないことです。国家と国家が取引するのが貿易であるかのようです。これはどのように考えても貿易の実態を示していません。おかしいと思い、貿易商を中心に置いて、貿易理論を作ってみました。
その結果、自由貿易で儲けるのは、貿易商だけだという結論に達しました。そして、長崎貿易の意味も考えてみました。それをこの講演の参考文献の『エコロジー神話の功罪』という本に書き込みました。ここでいう貿易商とは、現代社会では多国籍企業です。彼らはこの自由貿易で穀物を売り込み、世界の環境を破壊しているのです。
環境を破壊する国際経済はもうひとつあります。それは、白人先進国が発展途上国にお金を貸し付けていることです。発展途上国はその負債で首の根が回らなくなっています。発展途上国が輸出で得たお金の半分は元本や利息を払うために使われています。要するに騙して無理やり貸付け、その利息取りが行わているのです。黄人日本もその一端を担っています。
それから自由貿易で、途上国は穀物を輸入し、コーヒーとかバナナとかそういう物を輸出するという産業になっているわけですが、世界に競争相手がたくさんあるため、無理な生産を強いられ、途上国の土地は収奪されています。この途上国に日本が援助するとすれば、それは第一に肥料ということになります。先進農業国に対抗する力をつけるには、途上国農業を助ける以外にはないからです。しかし、その前に、先進国との経済関係を一旦切り離すこと、つまり重商主義に戻すことも必要ではないかと考えます。
世界は、今、非常に危険な状態になっています。先進農業国で異常気象が発生したとき、日本がどうするかを考えてみて下さい。日本に食糧がこなくなったときに日本は資金力にものを言わせて世界から食糧を買いあさります。その結果、日本の飢饉が世界に一気に広がることになります。
環境問題の解決には学問が必要
これは温暖化とかリサイクルとか末梢的な議論ですませられるような話ではないのです。このような議論に引っかかり、そしてまた太陽光発電や風力発電だとかそんなものに引っかかって、本質的な議論ができないでいる現状をどう見るか。先ほどもいいました玄倉川が思い出されることになるわけです。
私がいろんなところで、いろんなふうに一生懸命「危機がくる」と講演して歩いています。これからどうなる。だからそのときにどうするかを考える必要がある。今、政府主導型の環境保護運動で浮かれている日本人。この人達に危機の訴えは通じません。先ほど玄倉川の話が心に残ってしようがないと言った理由はそういうことなのです。
環境問題の解決には学問が必要です。そして環境破壊とは何か、してはならないことは何か、するべきことは何かをよく考えることです。
拍手・了
参考文献 槌田敦『エコロジー神話の功罪』一九九八年、ほたる出版
※本稿は平成一一年九月七日、千葉県安房郡清澄寺研修会館にて開催された第三二回日蓮宗中央教化研究会議にて講演されたものを筆録したものです。










