日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第34号:9頁〜 特集[地球環境を考える] ←前次→

特集T
 地球環境を考える
  地球環境の再生と仏教の役割

福  岡  克  也   
立正大学経済学部長     
((財)地球環境財団理事長)    
   
  環境問題がいわゆる地域的な公害の問題であったのは、一九五〇年から一九七〇年ぐらいの間の、高度経済成長といわれていた時期でございます。経済成長することが、いわば先進国にとっても途上国にとっても、戦争後の復興という点において進むべき道である。少なくとも物質的生活の安定を考えていたことは確かです。しかし残念なことに、いわば重化学工業という公害型の産業が中心になっていたために、公害が地域的公害という範囲ではあったのですが、大変広範に広がってしまったのです。物理学とか化学という自然科学、物質科学一辺倒の、いわば経済成長のいかにつけが大きいかということを私たちにしみじみと考えさせられたことであったはずです。
 私どもは物質文明の中に生き、そしてまた物質文明の中で経済成長し、歩んできました。これがいわば私どもの物的繁栄を導いてきたわけですが、このつけが非常に大きかった。例えば、ご存じのとおり水俣湾の、窒素という会社による公害問題、水俣湾に放置された有機水銀という物質のために、湾内の魚介類に蓄積され、その蓄積されたものを食べて水俣病が起きた。この他に富山県の神通川のイタイイタイ病とか、阿賀野川水銀中毒事件といったような形で、さまざまな公害が発生した。
 しかし言葉をかえていえば、我々が依存してきた経済の世界、私どもはそれを「経済システム」と言っているのですが、経済システムを操っているのは市場の問題なのであります。人間が発達し、進化してきて経済システムをつくった。これは貨幣と商品という両方のものをつくっていくわけです。貨幣をつくることによって、私どもは物を買ったり売ったりすることをしやすくする。貨幣を媒介としてやりとりされるのは商品です。我々の近代の社会の発展は、貨幣と商品を中心としたいわば経済システムの成果である。これほど人間の物質文明が進んだのも、まさに経済システムのおかげだ、マーケットのおかげでございます。しかし公害はそれを裏切っています。
 このマーケットの発展に伴って、私たちの物質的生活の基礎が出来上がって世の中は保たれてきたということだったのですが、そのマーケットが金科玉条のものではなくて、大きな失敗をしていることが、初めて一九七〇年までの公害の中から私たちはそれを感ずることになった。「フエイル・イン・マーケット」、市場の失敗ということ。公害とは一体何なのか。例えば有機水銀にあらわされているように、物をつくる過程の中で生じた問題であります。アセトアルデヒドをつくるうちに、触媒に水銀を使ったことが有機水銀事件を起こした。化学とか物理学の技術を使いながら、市場が利潤を上げていくことを積極的に行うのが、市場のシステムの役割だったといえます。
 いわゆる科学が、資本の利潤のために利用されたときに「技術」が生まれるわけです。「科学技術」などとも言いますが、技術というのは実は真理ではないのです。真理ではなくて真理を利用して、儲けるために技術は生まれて、そこでマーケットが成り立つ。つまり人間の業といいますか、人間の欲望といいますか、そういう人間の欲望が、集団の欲望に変わっていくわけです。社会の欲望を支配しているのが何であったかによってその姿はずいぶん違うのです。農業社会だったら、自然を大事にしながらそこで営んでいる集団ですから、リサイクルとか自然を大事にすることを考えながらいくのが、社会全体にしても必要なことだったのですけれども、科学や物理がどんどん進んでいく中で、個人、集団、社会の積み重ねは変わり、個人は会社に雇われることによって、集団はまさに昔の共同体でなくて企業になってしまった。
 企業が集まってできている社会が企業社会、あるいは資本主義の社会という。その社会というのは、みんな考えていることは同じことで、資本の利潤を上げて次々と拡大していく、成長していくのが、まさに欲望の典型的なあらわれ方でした。個人はその社会の中で個人の利益を考える。社会、集団、企業は、企業の利益を考える。それがみんなの共生の土台になるわけです。
 実は、この人間の欲望の近代的組織である資本主義の社会というのは、市場というものをつくりだして、その市場の失敗もいくつもあるわけです。一つの失敗は、失業とか好況・不況です。給料をもらっている人間からすれば、不況になって雇用を失えばそれだけ収入が落ちるわけです。生活が困難になってくるわけです。好況になれば、今度は人間は傲慢になって、力をもって、お金の力ですべてのものを解決しようなどと考えるようになる。
 いずれにしてもいつまでも好況は続かない。不況が長引くことになると大きな社会的不安が生まれてくるわけです。今、実は世の中は人が集まって非常ににぎやかですけれども、その心の中や会社の企業の中では大変な赤字を出していて、非常に不安な時代を送っております。確かに私どもは便利になって、暑いといえば冷房をし、寒いといえば暖房をし、そしてめんどうくさいといえば自動車があり、いろんな点で便益が出てきました。その便益のおかげで、まだまだ人間としてやらなければならないことがたくさんあるのですが、そういう方向にはいかないで、その便益はただの便益として、利益のえじきになっているだけで不安というのは隠せない。
 実はその不安に対して、公共システムが失業対策とか景気対策というのをやるわけです。政府も総理大臣も一生懸命になって今景気対策をやっています。いくらやってもなかなかうまくいかないのであせりがきている。今日お集まりの方は高齢者の方が多いので、高齢者の方が若かりしときにはもっともっとお元気だったかもしれません。今でもお元気ですけれども、元気の場所がいろいろ違うわけです。何となく昔に比べると遊びができない。要するに淡々とした生活を送った方がいい、あまり激しい運動をしたりなんかするとよくないというような状態になってくるのです。経済が成熟してくると、不況とか好況がおきてきて、景気対策も仲々うまくいかない。財政といえば税金を使うし、金融といえばお金を貸させるような環境をつくる。貸し渋りを防ぐためには、銀行が貸しやすくするために、もしこげついたら補ってやるよというような方法とか、利息については政府なり、市町村が利息を補給してやって保証する。ソフトローンで景気対策をやっているというのが金融です。
 それからもう一つは、政府が公共投資をするということでやっている。市場の失敗に対して、必死になって行政あるいは政治がかかわりあってやっていく分野でございます。別な言葉でいえば政策です。政策というものが関わらなくてはならなくなる。市場の失敗に対して政策が関与してゆくという方法でやっていくわけです。
 もう一つは、社会を安定化させるために保険の制度とか、福祉の制度をつくっていきます。保険や福祉の原因は貧富の差です。資本主義の社会はどうしても稼ぐ人と稼がない人の差が出てきて、貧富の差が拡大します。そのために保険とか福祉をやって、あるいはデカップリングなどといって、赤字を出している企業に対しては赤字を補ない保障するというような貧富の差をなくすこともやっていく。
 それからできるだけ国民の所得の分配を平等にする。こういうことを一生懸命になってやってきたわけです。それから皆さんお買いになる車とかビールでおわかりだと思いますけれども、もう一つは、儲けようという人間の組織がつくりだすものとして、独占とか寡占があるわけです。特に寡占状態というのは、車とか電気機械とかそういう分野にあります。独占・寡占では儲け中心で価格支配力をもっているわけです。市場には急速に儲け中心の価格支配力がでてきました。人間が自然に対して親しみをもっていた農業の時代には、エコロジー中心でやってきたのが、お金を商品で動かしていくことによって、科学や物理学の材料を使えばどんどん利益が増え稼げるということでやってきた。
 国民所得の分配平等化を実現する手段は税金です。累進税をかけていく、あるいは相続税をかけることが行われます。相続税をかけすぎて山を伐ったとか、農地を手放した、山林を手放して、みんな裸になったというような話も結構聞かれます。しかし、中にはお金で払えないから物納するということで、物納した家が売りにでているのです。看板がでていて、「国有地売却物件」など書いてあります。また「希望の方は税務署の方まで申し出下さい」と書いてある。金持で財産を集めている人間から、財産を取り上げてみんなに分けてしまうという、共産主義的な考え方ですが、分配の平等をやって、みんなが働く気になって、やる気になってやるような社会をつくるにはこれも必要だ。という考え方もできます。
 市場の失敗としての公害に対しては、国の政策としては公害防除、公害防止の法律をつくることや、基本法をつくっていくことが必要なのです。また公害基準といって、公害を認定する基準を定め、これを数量化し、数値化するのです。今の世の中は何でも数字になっていると非常に説得力があるのです。ただ公害を出すなといったってだめで、数値基準をつくっておくと、公平かつ客観的に公害をチェックしやすい、規制しやすいのです。
 第一回の地球サミットがストックホルムで開かれた一九七二年には、ヨーロッパの国々を中心として公害防止を国際共同行動としてやることが合意されました。国際的な共同行動は、ユーゴスラビアを爆撃したり、北朝鮮をチェックしたり、あるいはイラクを攻撃したりすることだけではなくて、公害防止が大きく舞台にあがってきたのです。
 ここから環境への窓が開かれるのです。それまでは公害はその地域で、個人的冤罪のようになっていた。当然公害発生企業が補償すべきであり、発生者負担の原則が認知されました。
 さらに汚染者負担原則を定めるところから一歩進んで、国際共同行動になった。つまり公害防止は国際的な共同行動でやるというふうになってきた。ここのところに私たちは注目しなければならないのです。
 それまではこのことは各国々の問題、国内問題として処理されていました。市場の失敗でも、国民所得の再分配、独占・寡占の禁止、不況や好況の克服、先ほど言った経済政策は、主として一国の中で先ず努力することになっていました。イギリス、アメリカ、フランス、日本、ドイツ、それぞれの国の中でやることだったのです。しかし、今はIMFができて、金融なども国際的な共同行動をとるようになりました。
 同じように公害の防止も、発生者負担の原則で金だけ払わせる、公害を発生させないようにすることでよかったのですが、ストックホルムで第一回地球サミットから、これからの時代は公害防止は国際共同でやらなくてはいけない。先進国だけでやっても、途上国がやらないのでは何もならないとなった。土壇場に追い込められたというのが実状だったのです。
 前回の新潟でもお話ししたのですが、バルト海の汚染が非常にひどく、多数の生物がみんな死に絶えた。それを分析したら、各国々が出している汚水がその原因であることが判りました。例えば瀬戸内海とか日本海も将来こういった公害にあふれた海にならないとは限らない。そういう場合には、今度は日本の新潟あたりで、それこそ第三回か第四回かの地球サミットをやらなければいけないというようなことになると思います。
 そういう動きの中で原子力関係を含め公害基準とか公害防除はまさに世界的な潮流になってきて、一歩間違えば大きな刑法上の問題にもなってくる話になってきていることです。
 それから一九七〇年から現在までは一体どういう時代かといえば、これはご存じのとおり、一つは公害、二つに地球環境問題です。公害防止で何が大事かといえば、どういう基準で公害を防ぐかという基準、それから技術の内容、設備、環境コストです。公害を防止する環境コストをいかばかり支出できるかということなのです。
 さっきの科学メーカーの場合には、せいぜい十億円から十二億円ぐらいの防止投資をきちんとやって公害が出ないようにしたならば、それですんだのです。ところがそれを怠ったために、九八〇億円から一二〇〇億円くらいの補償金を支払わなければならないことになってしまった。こんな補償金を一企業が払えるわけがない。しかし結局公害訴訟という長い歴史の中で、公害企業を定め、その環境コストの負担は発生者の負担だとすることになって、一二〇〇億円払わざるを得なかった。企業としてはこれは失敗です。十二億円の投資ですむものを、その百倍のお金を払うなどというのは企業の大失敗です。しかし、現実の問題として公害が生じて被害を受けている者がいるわけです。その被害を受けている病人に対する補償金が必要なのだ。そして、これらは企業にとって長期の固定債務になっているのです。だから窒素という会社は、長期にわたってこの千二百億円の固定負債をかかえこんだままで現在操業しているということになる。
 では財源はどうなったのか。これは国とか熊本県などの支援でこの企業に金を貸して何とか支払いをした。いくら利益を上げても固定負債の償還にそのお金を当てていかなければなりませんから、何のために経営しているかということになる。昔起こした公害のための補償金を支払うためにというのでは企業ではない。その失敗を補うために補償をする。補償するお金がないから国や県が金を出す。それを長年にわたって返さなければいけないので、企業の成長力もどんどん衰えていくという問題がでてきてしまった。
 現在までに片づいたことは、環境コスト、こういった補償金はすべて発生者の責任である。汚染者負担の原則、こういうことが出てくるわけです。
 今の会社の中で下水道の処理やごみの処理がうまくいかなければ、汚染は常に生まれてくるわけです。ごみをたくさん出す人と、ごみをあまり出さない人の差も本当はあってしかるべきだという考え方がだんだん広がってくるわけです。ごみなどの排出にともなう有料制が広まると思います。
 それと並行して起きてきたことが、実は地球環境問題です。これは皆さんは今まで地球的規模の環境破壊が進んでいることについては、いろんなところでご承知だと思います。公害がやや地域的な問題だとすると、地球的規模の環境破壊は、公害の問題を超えて広い範囲にわたって私たちの生活をこわしていくという形になってきます。
 例えば一つオゾン層の破壊があります。これはいろいろと危険が叫ばれています。我々は三〇〇DUという単位の中では生きていけるのですけれども、これが二五〇DUになったら生きていけない。今その真ん中にあるのです。三〇〇DU……これはドブソンという物理学者がつくった単位で、オゾンの濃さです。これは一気圧の常圧状態において、この地べたにもってくるとたった三ミリです。これを二〇キロから五〇キロの成層圏にずっと広げると……オゾン層というのは広がっているのですけれども……オゾンの分子はギュッと圧縮して一気圧にしてこの地べたにもってくると三ミリです。まんべんなく地球の上に三ミリという薄い膜が覆っていると考えたときに、いかに我々を支えている地球の機能がデリケートかということがおわかりいただけると思います。二五〇DUまで下がると、今二九〇とか八〇ぐらいのところまできているわけです。これは大変だというので、すぐにフロンの製造禁止をした。それで回収をしないといけない。これから自動車とか電気冷蔵庫の回収をやらなければいけないという問題が出てきた。
 それからご存じのとおり、酸性雨の問題があるわけです。いわゆる硫黄の酸化物、これは石炭を燃やすことによって出てくる。それから車のエンジンから出てくる窒素酸化物。SOx、NOxが全部大気中に発散されると、大気の中で酸性雨のもとになる雲ができる。こういう問題が出てきた。越境しますから、これに対する防止は、国際的に問題になっている「越境公害防止」というふうにいわれているわけです。日本と中国、ヨーロッパとアメリカ、こんな関係になっています。これもやっぱり地球的規模で解決していかないと、もはや解決できない問題であります。
 それからCO2のいわゆる温暖化問題、これは化石燃料を使えば使うほどどんどん上がっているわけで、年率二パーセントずつ濃度が高くなっている。いろんな理屈はつけますけれども、結局化石燃料を二パーセント使って、CO2も二パーセント増えて、毎年上がっている。
 京都会議がありました。アルゼンチンで失敗して、今度また日本でもやろうかという話になって、もう一回日本でやるときは、話をしっかりと決めておかなければいけないと思います。いわゆる炭酸ガスパネル、COP3、京都でやった会議などもあります。
 ここで決めていることは、抑制することは当たり前のことです。排出を抑制し、少なくとも一九九〇年のCO2のレベルに戻すことです。できれば一九九〇年のレベルよりもさらに低いところにもっていくというふうにする。このために今私たちの使っている石油燃料をあと八〇パーセントぐらいに節約しないと、二十一世紀の終わりには少なくとも年平均気温で三〜五度上がってしまう。だから少なくとも我々が今使っている燃料の八〇パーセントまで抑えないと、地球は今の状態を保てなくなります。CO2がどんどんあふれている。こういう状態は温暖化というやつで、海面が上がる。水面が上がってだめになるのは、島国が全部使えなくなる。したがって太平洋の島国にとっては、生殺与奪の権を今炭酸ガスに握られているようなものです。
 それからオランダみたいな先進国でも、海面下の国があるわけです。海面下といえば東京だって海面下のところがいくらでもあるわけです。これらの堤防をきちんとつくっておかないと、いずれ水没するだろうということです。歴史は繰り返すかもしれませんが、関東地方でも栃木県の藤岡あたりまで海が入り込んでいたわけです。それは貝塚を調べると出てくるわけです。だからあまり時間をかけずして、ひょっとして水没が起きるかもしれない。大変なのです。それから異常乾燥の砂漠化です。乾燥が進みますから、日本の国でも大体北海道が米をつくるところで、東北地方はもうすでに砂漠化してしまう。米がつくれないのではないか。ではどうしたらよいのだ。しようがない、パイナップルとかバナナでもつくろうかという話が、本当にふざけたような話ですけれども、出てくるぐらい、南方系のものでも熱帯林に対してやらないとだめかもしれないというくらい行き詰まっている問題がでてきています。
 それから熱帯林の破滅を中心として森林の伐採は、先進国では開発、それから途上国では木材資源の利用ということで、クジラの絶滅、生物種の多様性の絶滅と合わせて、大変な生物の危機になっているわけです。これで失われる遺伝子は非常にもったいないと思うのです。我々今臓器の移植ぐらいでやっているわけです。いわゆるおもちゃの部品の入れ換えみたいなことをやっているわけで、あれが本当の医学なのかなと考えたときに、移植さえすればいいというのは大変誤った考え方で、遺伝子そのものにさかのぼって、生物として機能を強めることをしなければだめなのです。我々の遺伝子環境といいますか、遺伝子を強くする環境をつくっているはずの他の生物の種が、どんどんなくなっているわけです。今や私どもは自分たちの力で遺伝子を強めることは難しくなってきている。
 食生活でも言われているように、今度は塩素系の塩化ビニールとかプラスチック系のものとか、こういうものは全部石油でつくっているわけですが、これに例の塩素という元素がくっつくと、環境ホルモン問題などが起きている。私は十数年前に、青春出版社で『黙しているのはもう限界だ』という本をつくったことがあります。立正大学の教授としては、ちょっとああいった本を書くのは珍しかったのですけれども、青春出版社のプレイブックスは結構売れまして、十三万部ぐらい売れました。売れたのはどうでもいいのですが、その中に私は環境ホルモンや、有害化学物質の危険を書いたのです。そのときにはあまり問題にならなくて、炭酸ガスぐらいから問題になるようになって、立花隆さんが環境ホルモン問題を丹念にレポートするようになって、マスコミがくっついていったという流れになっているのです。食の危険というか、我々の環境物質、環境を構成している食べ物から、医療から建材に至るまで、衣食住全体にわたって……現在環境を構成している住食衣ですけれども……物質を再点検しないと、今やこれらの物質が非常に大きな害を与えている。例えばこの前も新聞に載っていたと思いますけれども、ホルマリン……これは洋服やなんかの形をつくるために使われるのですが……を使うと皮膚炎になってしまう。何かわかりませんけれども、最近は湿疹状態とか皮膚炎の状態になっている若い人が相当たくさんいるわけです。
 こういったように、塩ビ、プラスチック、環境ホルモン、こういった環境を構成する物質の危害化、危害物質化、こういう原因はみんな便益です。便益を代表とした物質です。輸送のコストが安くてすむとか、あるいは長もちするとか、確かに機能性が高い。機能性が高いのだけれども、衣食住が危険物質に取り囲まれるということ自体が、我々が常に長生きをすることができないもとになる。仮に寿命を伸ばしたとしても、こうしたことに常に悩みをもちながら生きていくことになる。長生きはしているが悩みが多いわけです。やれ、はらが痛い、頭が痛い、心臓がどきどきする、やれ、血圧が高いの低いのとあまりにも悩みが多い。悩み苦しみながらも長生きすればいい、ということになっている。しかし、長く生きればいいのだというものかどうかが問題となるぐらい衣食住の物質が危害化しているというのは大きな問題です。
 ストックホルムの次にリオデジャネイロで会議がありました。これは現在の私たちの環境政策、あるいは環境の上での生活を支配している重要な宣言になりました。一九九二年の六月です。ここから今すべての私たちの周辺の問題が起きています。「リオデジャネイロ宣言」ででてきたことは、これも重要なことはやはり国際共同です。国際共同行動で、今度は地球環境問題にも向かっていこうとする。
 一九七二年の第一回地球サミットでは「公害」ということだった。第二回サミットでは「国際共同行動を、地球的規模に広がってしまったこの環境問題にそそがなければ、人類社会の生存、人類社会の持続が問われる」というのです。ついに人間社会の持続が可能かどうかということが難しくなってしまったということがここで出てきたわけです。
 ここで国内法ですが、国際法的に決められたのが、「環境基本法」という法律と、「環境基本計画」です。したがって各国々では、環境基本法……これは環境の憲法みたいなものです。今までの公害の防止から環境基本法になった。私たちは環境基本計画という計画に従って、この世の中を運営していかなければならないことになったわけです。
 さっき言ったように、公害問題が市場の失敗ならば、地球的規模の環境破壊も市場の失敗です。失敗だ、失敗だといっても、ではどうするのだとお考えになると思います。市場の失敗をなくすためには、市場を全然なくしてしまうという方法と、市場を生かしながら何らかの改善をしていくという立場と、どうしても最後まですべて市場に頑張ってもらうという、三つぐらいの行き方がある。しかし正直にいって、市場が失敗して力がなくなっていると、他の商売とか従来の伝統的な仕事には力があっても、公共の福祉を守ることについてはうまくいかない。その失敗を認めた場合にはだれがやるかといえば、それに代わるものというか、協力するものは公共システムです。
 これからの時代は、しばらくは……最後は私は市場システムがすべてをやれるようになってくれるのが世話がないな、望ましいなと思いますが……公共システム、つまり国とか政府とか、そういうものが中心になって動いていく。したがって現在の環境問題を考えていくときに、この公共システムと市場システムがどういうふうに組み合わせて協力してやっていくかを考えていかなければならないと思います。
 この公共システムの中には、今までなかったものがある。非政府系の団体、NGO(ノン・ガーバメンタル・オーガニゼーション)です。つまり政府系の団体ではないのですが、私どものやっているような環境庁の所管の公益法人
……国の金は入れていません。民間だけでやっているわけです……こういう団体が公共システムとして市場のシステムの失敗を補ってあげるという時代にかわってきた。複合システムの時代、複合化した時代になっています。
 これは他の問題でもいえます。例えば赤字を出してつぶれたという銀行、幸福銀行というのは山持ちが長い間経営していて、あの銀行をつぶしてしまった。山はどうなるのかなと心配しているのですけれども。とにかく、そのときに市場システムでは失敗したのだが、そこに国が金融再生委員会などが入って公共システムで補って助けていく。倒れかかった人間だったら、そこに点滴でもして助ける。点滴が公共システムと考えれば、そういった形で補うというふうになってきているわけです。
 そのことが全部、国ばかりではなくて、県、市町村にまで下りてくる。国・県から下りて来て、市町村までいってしまいました。市町村では市町村で、皆さんの町で住んでおられる町で、環境基本条例(基本法を受けた条例)と、環境基本計画を、全部の市町村でこれからつくることになります。早い遅いのスピードの差はありますが、つくることになります。東京だったら区ごとに、場合によっては区を分けてもつくるようになることになってきました。環境というのは共同でやらないと。全部が同じレベルでやらなくてはいけないというふうになったわけです。
 今こうした地球ぐるみの大変革のなかにおかれているわけですが、『立正安国論』で、このことが見事に書かれているわけです。例えば『仁王経』の解釈、講述として「大水百姓を没し、時節叛逆して」というようなことがあります。大水が出て、百姓が洪水で被害をうということ、時節が叛逆するというようなこと、どうもこれは異常気象ですね。「赤水、黒水、青水を降らし」とありますが、この赤水、黒水、青水とは、それぞれ理由はあったのでしょうけれども、酸性雨とか汚染に相当する。「露盤、石蒜を降らし」これは土砂流失、洪水をいっている。「恒河さかさに流れ」、さかしまに流れるというのは、人間の世の中がさかしまに流れているかも知らんなどといろいろと当たっています。
 それから「天風伴星を咲き降ろし、国土山河、樹木一時に滅亡し」と書いてある。これは本当にそうなったらすごいもので、ある意味ではそういう予感ももっているのですが、きちんと書いてあるのです。これは我々のように科学知識や観測のない時代に、きちんとこういった自然の災害が起きてくるのだと言っている。この考え方は、昔から我々人間の頭の中にきちんとすえられてきていたのではないか。これを聖人たるものは推定していたのではないかと思います。まさに我々の現世の社会を見ていますと、これはみんなぴったりあてはまるわけです。たまたま我々は、便利な物質的な生活をしているために、それが眩惑されていてよく見えない場合もあります。しかし私どもは科学的に観測する範囲においては、どうしようもない状態になっているともいえます。ある意味では経済もそうなのです。市場はもとよりのこと自然も、そうなっているわけです。
 そうなると、私たちはこれからの二十一世紀を見たときにどういうふうに考えていかなければならないかという問題が出てくると思います。各市町村が環境基本計画を立てているというときに、地域や地球全体のマネージメント、地球全体でこの地球を私たちはどういうふうにしていかなければならないかを考えていかなくてはならなくなったと思います。
 例えば、フィンランドとかノルウェーに行きますと湖が多いのです。三万、四万の湖がある。それに広葉樹ではなく針葉樹が多いのです。すばらしいのです。それも規則的にきちんと管理している。自然林もあるけれども、人工林も非常に多いのです。しかし、ここに一つの問題が生じました。湖は日本の湖と比べてきれいなのです。しかし、ここで酸性雨をおき、pH(水素イオン濃度)を計ると、普通pHは(大気にはCO2があるので)五・六ぐらいのところですけれども、四・四ぐらいあった。すごい酸性です。ひどいのになると三・五ぐらいある。今やまさにお酢みたいな状態になっている。亀は卵をだんだん産まなくなって、魚は大きいのしか残らない。いわゆる高齢化社会になるわけです。それがいなくなったらもう生物がいなくなってしまう。絵にあるように、周りに木があって、魚が生きられるようなきれいな水が湖にあることが望ましいし、そしてまた周りがこういった四季折々の美しさに囲まれることがいいことだろうと思うのです。
 酸性を含んだ雨は、大理石などを損ない皆さんの寺院の銅の屋根などを、どうにもならないくらいに浸食してしまうことになるのです。
 これらを防ぐために我々は具体的にどう行動しなければならないか皆さんにお考え願いたいのです。環境問題を含んで世界は変わりました。問題としては、我々の世界というのは、何にしてもものをつくっていかなければならない、生産をしなければならない、商品をつくっていかなければならない。そしてまたリサイクルを進めていかなければならない社会になりました。
 今までマーケット、マーケットと言っていたのは、動脈の部分です。つまり一番に私たちは生産をするために資源がいります。二番目に生産加工する必要があります。そして四番目に生産物を流通機構を通して売らなければならない。五番目にこれを消費しなければならない。ということで、一から大体二、四、五という流れに沿っていけば、私たちの暮らしは成り立っているわけです。これを動脈というふうに定義しましょう。この動脈の経済、つまり動脈を守っていくことによって、私たちは生きていくことができたというわけです。
 昔からずっとこの数百年来、私たちはものをつくり消費していくということをやってきた。ところが抜けていることがたくさんあるわけです。例えば生産をするものについては、生産をすれば必ず廃棄物が出るわけです。この廃棄物を産業の廃棄物というふうに呼んでいるわけです。一九五〇年から一九七〇年の公害の原因になっていたのはほとんど産業廃棄物、産業から排出されるごみだった。つまりものをつくるのにいらないものを捨てるのはあたり前の話だった。捨てるものが、始めのうちは自然に害をしないものが多かったのですけれども、高度なものをつくればつくるだけ、自然に害をするようなものを捨てる。廃棄物のたちが悪くなっていくのです。
 一方、消費者の方もそれなりにぜいたくをしているわけです。生ごみを流す。あるいは自分たちの使ったいらなくなったものを捨てることをやるようになります。これは六番目で、し尿であるとか、あるいはごみを出していく生活をやっているわけです。
 これは私どもが物質生活をしている上は、やむをえないことであります。生物、とくに人間は生きているときに、生きるための資源をとってきて、その資源を使って生産加工し付加価値をつけて、機能性、はたらきをもった商品にしてそれを売っていく。ファッション性をつけて格好よくするということもあります。ごみを捨てても自然の浄化力を超えなければ、神様や仏さまはこの世の中をパラダイス(天国)につくってくれているのです。しかし、せっかくつくってくれているこの自然の浄化力を超えるような廃棄物を出していくことがどんどん起きるわけです。
 それだけではだめだろうというので、今度はリサイクルをしよう。一回捨てないで戻そうという動きがでてきました。例えばプラスチック系のトレーとか、プラスチック系のものだったら、燃やさないで集めてこれを溶かして使えば、もう一回材料になることもあるし、紙も同じです。それからスチール缶やアルミ缶もそうです。リサイクルが新しい問題となっています。
 このようにリサイクルは、生活にとって今や無視することのできない状態になったというのが現状だろうと思います。二〇世紀に入っても、一、二、四、五の流れ、動脈一本の流れで全部きているわけです。経済成長の時代は、一、二、四、五でやってきた。ところが今は限度を超えてしまった。この流れの中でどうしても目立ってくるのは、静脈、つまり使った後のプロセスです。使用後にどういうプロセスをとっていくのかが私たちにとって大きな宿題になったわけです。この宿題はまだ解答はありません。
 しかし今ボランティア活動などでこれをやったり、あるいは市町村が代わってやったりしていますが、まず産廃は完全に企業が責任をもつことになっています。発生者責任、つまりごみを処理して燃やして捨てて処分するところまで、すべて責任をもつことが企業の負担になりました。企業は自分の出す廃棄物については一切責任をもたなければいけないのです。消費者については、今まではただ同様に出していたごみ、し尿ですけれども、これもだんだん公的財政が困難になってくる。同時にまた数量がふえてくる。それから質が悪くなる。こういった中で汚染がどんどん進みますから、これからはある種の負担をしていったらどうかという有料制の考えがでてくるわけです。
 今は税金がとられているわけです。例えば石原さんが東京都知事になられたときに言っておられたように所得税として国に集められている東京の税金は非常に多いわけです。それに対して国からもらっているお金は非常に少ない。だから東京、神奈川、千葉、埼玉、愛知、広島、京都、大阪、などは持ち出しになっている。ところがそれ以外の県においては、逆に地方財政平衡交付金というものがあって、国が集めた所得税のなかから自治省を通して金がくるのです。例えば税金の負担で二〇億、交付金で八〇億もらって、百億で運営しているという市町村はいくらでもある。これは東京からの再配分という話になっているわけです。そういう面から見たときに、本当に消費者が出しっぱなしにしておいていいのかということになると、東京みたいにある種自分の財源でやっているようなところへ、地方に交付税に回している一部を東京のごみ処理に回さなければならないことになるかも知れない。そうなると地方の処理はこれからだんだん厳しくなって、有料制がでてくる可能性が十分あるわけです。ごみを出すにもお金がかかることになるわけです。
 それから、今度はリサイクルを促進するためにはデポジットという、預託金制度という制度をつくって、できるだけデポジットしやすくする。返してくれたらお金を返すというようなインセンチブを与えないと、みんながやらなくなってしまうというところまできてしまう。リサイクルと簡単にいっても、ここは動脈の流れと逆だが全く同じで、集めて集積して、分別して、そしてさらにリサイクル生産者の方に配送しなければならない。この集積・分別・配送機能を「リサイクルシステム」がもたないと、決して簡単にごみのリサイクルがいくわけではないのです。今集めたけれども、結局不法投棄になって捨てられてしまうのでは無意味である。完全にメーカーに戻らないものもたくさんあって、何のために分別しているのかが問題になっているところもあるわけです。
 これを考えていくと、結局私たちの今のやり方、文明というのは、つまるところ資源をとって廃棄物で戻すという物質の循環をやっているわけです。それだけに本当にこのバランスをとるが大切です。とった資源に等しい廃棄物を戻すことは物理学のルールです。しかし自然に戻しても、自然が分解して、それをもう一回その資源に返してくる。こういう循環をやっていかないと、我々の地球は持続的に維持していくことができないわけです。
 いわゆる環境問題とは何かといえば、結局こういった我々の資源をとって捨てるという作業を円滑にやっていくようにしていかなければいけないということなのです。そのためにまず一つ必要なのは、ごみは全部分解できるようなごみにしなければいけない。といことで、製品の設計からきちんとそれはやらなければいけない。
 今ISO(インターナショナル・スタンダディゼーション・オーガニゼーション)という国際規格が定められてきた。この国際規格は、ドラフトナンバー、書類ナンバーで一四〇〇〇シリーズ、これが経営管理組織です。九〇〇〇シリーズは品質です。今、檀家さんの企業の中では、この国際規格、一四〇〇〇、九〇〇〇を、お金はかかりますけれども一生懸命みんなとろうとしているわけです。これをとらないと、メーカーがものを輸出しても買ってくれないという状態が起こりつつあるのです。そういうことをきっちりと生産者がやらなければいけないから、儲け儲けといっても、これからは環境のことを無視しては通れない。
 消費者はどうか。消費者は環境基本計画、基本条例の中で、だんだんとごみの出し方、ごみの費用の負担、こういったものを自分たちが負担しなければならないという方向に動いてくるわけです。そしてさらに、今までなかったリサイクルシステムを私たちは新しくつくっていかなければならない。こういう悩み苦しみのところに今きているわけです。
 さっき言ったように、地球全体、地域全体の環境はどんどん悪くなっている。よくなっている部分もありますけれども、全体としては悪くなっている。そういう中でまた同時に、動脈ばかりでなくて静脈についてのきちんとしたしくみをつくらなければならなくなった。それを司っていくのは人間ですから、その人間がまず自然全体のルール、自然のルールをきちんと理解して、そのルール(これは妙法といってもいい。)のもとで、人間の心の中で、そしてまた英知の中で、知識の中で、この大きな循環……輪廻といってもいいのですが……この世界の地球の輪廻というものを理解する必要があります。過去・現在・未来という時間の輪廻もありますけれども、静脈・動脈・リサイクルという現世における繰り返しの輪廻もあるわけです。この繰り返しの輪廻は時間の変化に伴って変わっていくわけですが、変わっていけないのは我々人間や生物が生存できるという、生命の持続を考えていかなければ、生命の維持ができなくなりました。そこに一つの心といいますか、心身一体となった対応が必要になるわけです。心の問題は、ここで重要な意識、例えば環境倫理であるとか、環境意識という問題に変わってくるわけです。
 今日は別にお配りして、後で読んでいただければありがたいのですが。石橋湛山先生の「一天四海妙法に帰る」というお言葉があります。それに関連して、石橋湛山先生のエコロジー……これは私の解釈になっていますけれども……に対するものの見方というのは、まさにこの循環の思想であって、日蓮宗というものが特に『立正安国論』で指摘している環境破壊に対して、明確な解釈を日蓮聖人によってされているわけです。さまざまな今までのお経を見て、ただ読んでいる人が多かったのを、日蓮聖人さんは、自分のご理解でこれを読み返して、新しい解釈を立てておられる。その解釈から見れば、まさに危機が今、私たちの中にあるという。
 これは、私は分析的に今までの経済とかマーケットの仕組みを考えて、循環系を無視した今までの我々の物質中心の生活が、明らかに誤りになっていることをまずはっきりと自覚しないといけないと思います。また自覚だけではだめで、具体的にどう解決するかを考えなくてはならない。その時私たちは市場の失敗を補う、新しいシステムをつくっていく必要があるのではないかと思います。そのためにはまず企業が責任を負うということです。また、消費者自身も責任を負うことがここで必要になってくるわけです。責任を負うということはお金も出すし、体も犠牲にしていかなければならないということです。
 これは一人が立ち上がって、だれかがやればできるものではない。みんなが立ち上がらなければどこかで循環のループ(つながり)が切れてしまう。ループが切れれば、それこそ先ほど言った逆流が起きる。あるいは大火が起きる、大水が起きるということになってくるわけです。このループをきちんとつなげていくことが必要です。そのためにそれを司っていく人間がしっかりとしていかなければならない。
 特にエコロジー思想をもっている仏教が何をやっているのかということが非常に大きな問題になると思います。というのは、仏教のもっている本来の危機感あるいは自然に対する愛みたいなもの、自然との一体感は、日本での仏教では「山川草木悉く皆成仏」というこの自然思想がとくに根底にあり、これを忘れてならないのです。
 私は人間、人間ということを言って、循環をいったのですけれども、結局あのループを正しくすることが山川草木という自然を、そして差別のない、平等な世界を実現していくために必要なのです。悉く皆成仏、すべて仏性をもっているという考え方をきちんとたてるならば、仏性を認めていくこの世界において、それを言葉では認めても、行動では認めないというようなことにはならないわけで、そういった文明の革命、改革、転換が、今私はこの地球の上にきていると思っているわけです。
 文明転換をだれがどうリードして、これを導いていくかというところが非常に重要な点だろうと思います。これからの議論はそういう意味で大きな枠組みの転換ということですから、まず産業、企業としてどうあるべきか、我々が消費者という立場に立ったときどうあるべきかを考えるのはいうまでもないことです。環境負荷の少ないものを第一として用いていかなければならない。また廃棄物の処理からリサイクルに至るまで、きちんとした組織をつくらなければいけない。そしてその中で新しい世界をつくったときに、それは仏さまの世界になるのではないかと思います。仏教がいっている世界とは、そういった循環の世界であり、みんなが生きていく「共生の世界」であろうと考えます。そしてそれが持続できるということが仏教の役割ともなっています。
 今日はもう少し時間があれば、お話しできたと思いますが、大筋をお話し申し上げて、あとは私が今日お配りしたものを読んでいただいて、勉強をお願いしたい。みなさんが循環の構造をよくとらえて、どこの部分でどう行動するかを考えていくことが大切です。特に寺院のような精神的指導や皆さんの生活指導の立場の社会的役割を担っているところで頑張っていただきたいと思っております。
 今日は、実は経済学部の教授会が二時からあるのですが、ぜひとも皆さんにお目にかかりたいので、遅らせまして二時半からにしてもらっております。今日ははじめを多少早くさせてもらったこともあって、後半の部分しかお目にかかれない人もいましたけれども、熱心な皆さんの今後のご精進と、宗門の繁栄と、それから環境保全に対するご貢献を期待して、今日の話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

 ※本稿は平成一一年五月二五日、東京都新宿区常圓寺にて開催された第三三回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。


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