日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
巻頭言
−現代における問題点−
原発を考える
石 川 浩 徳
(現代宗教研究所所長)
柏崎番神岬はいま
柏崎番神岬はその昔、日蓮聖人が佐渡島から流罪を赦免されて戻られた所である。寺泊に向かう予定が乗っていた船が流され、この番神岬に漂着した。海に面した所に番神堂が在り、航海の無事を祈った法華守護の三十番神が勧請されている。この岬からは波濤の彼方に佐渡島が望め、周辺は起伏に富んだ海岸が続いている。落日の美しさは特別で思わず感嘆の声を上げてしまうほどだ。
だが風光明媚な名勝地であるこの番神岬から、海岸沿いに右へ視線を移していくと、目と鼻の先ほどの所にひときわ目立つ建物が見える。これが柏崎刈羽原子力発電所である。日本には原子力発電所は現在(一九九九年現在)五十六基が稼働しているが、そのうちの七基がこの柏崎に在る。原発は危険な施設だけに人口の少ない、それでいて電力を送電しやすい場所を選ぶのであろうが、理不尽でそのうえ折角の自然の景観が損なわれてしまって残念に思う。七百年の昔、世の中の不正を法華経の教えによって糺し、人々の幸せを願って法華経を弘通したがために、命に及ぶほどの法難を受けられた日蓮聖人ゆかりの霊跡がある柏崎に、ひとつ間違えば重大な事故につながる原子力発電所が七基も設置されてあるのだ。
事故の多い日本の原発
原発がいかに危険な設備であるかは、ソ連時代のチェルノブイリ原発で証明済みだが、我が国では昨年の秋、茨城県東海村にある関連施設JCO(ウラン加工施設)で起きた核臨界事故で一層印象付けた。ニューヨークタイムズ紙は一九〇〇年代最後の最悪事件として東海村の臨界事故を取り上げている。
柏崎原発は今まで新聞記事にはなっていないが、トラブルは毎年のように起きていた。記録によれば一九九九年だけでも、燃料集合体からの漏えい、復水器真空度低下による出力降下など(東京電力もっと知りたいより)がそれである。このように全国に設置されている原発で過去一回も事故を起こさなかった施設は無いと言ってよい。絶対に事故を起こしてはならない原子力発電所で実は頻繁に起きていたのである。
チェルノブイリ事故では放射能を浴びて死んだ者三十五人、重症者一千人を出した悲惨極まりない事故であった。いまだに死の町となっている。一九九四年六月現在、世界で三七カ国五四五基の原発施設があるが、この事故以来、原発の危険性を改めて認識した欧米各国では、原発施設を撤退していこうとしている。デンマークでは全廃を決議し実行している。日本では反対に開発を進めているのが現状である。我が国に原発が初めて設置されたのは一九六三年八月であるが、今までの約四〇年間に起きた事故を数えあげたらきりがないほど有る。安全委員会のメンバーや関係者は、口を開けば「安全」を強調しているが、これほど繰り返し起きていてそれでも安全だと言い張るのは、裏を返せば危険だからかもしれぬ。
近い過去に報道された事故では、敦賀市の新型転換原型炉「ふげん」での放射性物質トリチユーム漏れ、同所の高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリュウム漏れで火災が起きている。科学技術庁では重大事故と発表した。しかも事故後の動力炉・核燃料開発事業団が意図的に事故隠しを行ったり、説明が不十分だったりして、全く社会的な責任を感じていないありさまで、再三のウソがばれて同燃に対する不信の念が増大した。福井県や敦賀市の議会では廃炉を強く主張しているし、新潟県巻町では原発反対を公約した町長が当選した。
原発と原爆
核分裂や核融合による反応を利用してエネルギーを取り出したものを原子力と呼んでいる。原子爆弾や原子炉のエネルギーがそれである。広島に落とされた原子爆弾はウラン600グラムが核分裂連鎖反応を起こしたものだ。これは高性能火薬一万五千トンの爆発に相当するエネルギーを発生したのに等しいのだという。一瞬にして一〇万人の命を奪い、広島市が壊滅した。日本の原子力利用は平和目的に限られているが、原子爆弾も原発のエネルギーも全く同じ原理で発生し、いずれも強い放射性物質「死の灰」が核分裂生成物として残ることには変わらない。いくら安全を言っても過去の事故の頻度からいっても信用出来るものではない。耐久性において阪神大震災クラスの地震に耐えられるのか。「古い原発の機器については材料の劣化がどう影響するかわからない」と耐震安全検討会の小島圭二会長は発言している。
原発を無くすかさもなければ徹底的な管理が即必要である、と国連安全保障理事会では討議している。放射性廃棄物の海洋投棄を禁止、核物質の密輸防止プログラムの世界的実施、兵器級核物質の安全管理が大きな課題となっている。東海村の臨界事故はずさんな管理から起こっている。原発の過去の事故を見てみると、九九%までが人為的事故であるというのだ。科学者でありながら危険物を取り扱っているという意識が乏しく、事故が起きた後の対応も無責任この上ない有り様には呆れ返るばかりである、と多くの評論家が指摘している。人間のやることだから間違いは起きるものだとか、想定外のことだったとか、そういう言い訳が通るような事柄ではない。いかなる事故も許せないのが原発という施設であろう。
原発は必要か
これほど危険な原発であっても日本のエネルギー事情は必要としているのだと国も電力会社も言っている。本当にそうなのだろうか。たしかに電力の消費は年々ふえつづけている。発電所には水力、火力、原子力とあるが、発電力の比率は原子力は約三十八%で、三分の一以上が原子力に依存しているのである。数字から見れば原発をいまや無くすわけにはいかない。だが実を言えば、水力と火力ではもう賄いきれないので、原子力を頼むようになったというわけではないのである。水力、火力の発電所を無理に閉鎖して、原子力に移行していったというのが事実である。一九九七年、三池炭鉱が閉鎖された。まだ十分に石炭の採掘量はあるという段階で、だ。従業員一万三千人が解雇された。再就職先もままならないまま、家族が生活に困窮している者が未だ半数の八千人にものぼっているという。これらは原子力発電所に切り替えるために閉鎖したのであって、石炭が無くなったわけではないし火力発電所が役に立たないからだと言うわけでもない。自然環境の保全という観点から火力発電所はよくないという論もあるが、原子力発電所の方がもっと恐ろしい危険極まりない施設であろう。日本の電力消費量からいって原子力に頼る必要はない、と数字をあげてはっきり言う学者もいる。
原子力利用は人智を越えている
今日までの原子力発電所の事故の原因はすべてといってもいいほど人為的ミスから起こっている。こんなミスが何故起きたのかと疑いたくなるような事故も多発している。チェルノブイリ事故が起きたとき、日本では考えられない事故だと関係者は言っていたが、一方、同じ事故が日本で起こっても不思議ではない、という意見も強い。相次ぐ事故と虚偽の報告にとうとう「危険なものを扱っている我々が本当のことを話していない」と、原発は極めて危険な施設であると白状した。非難を浴びながら真実を語ったわけである。
人間は得てして間違いを起こすものである。機械を操作するのは人間である。機械は精密であっても携わる人間によってはとんでもない誤動作を起こしてしまうものなのだ。所詮人間の為すことには絶対は有り得ない。だから失敗が許されない原子力発電所は、在ってはならない存在なのである。原発をデンマークのように廃止する方向へ進めるべきではないか。これほどの危険な施設を重大な犠牲を覚悟してまで利用できるほど人類は成長していないし、原子力は人智を越えた対象であると、いみじくも或る科学者が警告している。
問題は電力量だ。人間の欲望にはきりが無い。どこかでピリオドを打たない限り原発を今の二倍に増やしてもいずれは電力が不足して、更に危険を承知で増やすことになるだろう。ならば今だって同じだ。これ以上大きな不幸が起こる前にエネルギーの消費をみんなで押さえるしかない。そして火力や水力発電所を蘇らせればよい。原発施設にかける費用や事故にかかる費用を考えれば十分賄える。
原発の設置場所はきまって自然環境のいいところである。国は、自然を破壊し危険と隣り合わせの原発を新しく造ることはやめるべきではないか。日蓮聖人は立正安国論をもって、国を危くするのは為政者の間違った国策や不正によると、危機管理の基本を法華経に照らして諌言した。原発は原爆の同体異名の存在である。原子力発電は平和利用の名の陰に危険がいっぱいの存在であることを強く認識すべきであろう。柏崎は日蓮聖人ゆかりの聖地である。番神岬にお立ちになっている日蓮聖人は、きっと柏崎刈羽原子力発電所を心配されて見ているに違いない。
(参考文献資料)
石油と原子力に未来はあるか 槌田敦
原子力発電の諸問題 日本物理学会編
原発はなぜ危険か 田中三彦著
原発大論争 別冊宝島
原発がとまった日 広瀬隆編著
原子力の経済学 室田武
朝日新聞社「知恵蔵」(サイエンス)一九九七年版
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