日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第33号:287頁〜 第三十一回中央教化研究会議 ←前次→

 両先生に聞く

  現代社会における立正安国とは

              講 師       立正大学仏教学部教授
伊藤瑞叡
                        現代宗教研究所顧問                  
中濃教篤
              聞き手       現代宗教研究所嘱託                  
難波宏正

 難 波 ただいまより、午前中にお話を承りました問題を踏まえまして、両先生に聞くということでお話を進めてまいりたいと思います。
 ただいま主任さんから御紹介を頂きました、聞き手役を務めさせていただきます嘱託の難波でございます。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
 両先生におかれましては、午前中はいろいろと意義深い基調講演を頂戴いたしまして、誠にあり難うございました。両先生のお話を拝聴いたしまして、まず感じましたことは、同じ『立正安国論』をとらえるに当たりまして、それぞれの視点からお話を頂きました。お話を伺います前には、両先生がお互いに何かしら共通点があるのか、あるいはまた真向から対立する思想の違いがあるのかということを期待しながら、いろいろお話を承ったわけです。私如き程度の者がこれを承りますときに、具体的にどこがどう違って、どうであったか、つぶさに分別することは難しいようです。古来より天台大師の言葉にもありますように、様々な考え方の共通点を探っていくという点にも大きな意義はあるかと思いますが、むしろ天台大師が「教相を重んぜられますときには、まず法門の同異を分別すべし」という言葉でこれを端的に表現されております。
 そういった点から、まず今日、私がお尋ねしたい内容は、両先生は、同じ『立正安国論』を、どのようにそれぞれ了解して解釈しておられるかということです。いわゆる『立正安国論』の法門の解釈の違いが、まず最初に浮き彫りにできることが可能であれば、それが一番有り難いと考えております。しかる後に、その『立正安国論』を実践行動に移すときに、どういう共通認識をもって、その実現に向けて目標設定しておいでになるかということについてお話を伺うことができれば幸いと考えております。
 お尋ねしたいことは幾つもありますが、制約された時間の中でもありますし、また後で時間が許せば、会場にご参加の各聖から、この点だけは先生に直接お聞きしたいという質問もおありかと思います。そういう時間をとることも配慮しながら、質問を進めてまいりたいと考えております。
 まず最初に、日蓮聖人が選述あそばされました『立正安国論』という御書ですが、「立正安国」というこの四つの文字のもつ意味、そういうところで、あるいは宗門の学者の方では統一見解があるのかもしれませんが、私どものような一般教師には、様々な表現をなさる先生方がおいでになりますので、その点が、これが日蓮聖人の真意であると受けとめることはなかなか難しいことであろうかと思います。そこで今日は、幸いにして中濃教篤先生と伊藤瑞叡先生のお二方を講師にお招きしておりますので、この「立正安国」という四つの文字のもつ意味について、それぞれの先生方からご解釈のほどを承りたいと思います。
 まず「立正安国」を二つに分けて、「立正」と「安国」というように解釈する考え方もございましょうし、そうじゃなくして、これは「立正安国」と一息に読んでしまうのだという解釈の仕方もあろうかと思います。また「安国」が目的で、その手段として「立正」を用いるのだという説を唱える方も中にはあるかもしれません。そういった点につきまして、この「立正安国」の四文字の中で、「立正」に関しますと、正法を立てることですから、わが門下におきましては、法華経の精神に立脚することにどなたも異議はないことと存じますので、特に解釈の中で相違点が見出せるとするならば、「安国」という二文字について、それぞれのお考えをお聞かせ願えれば有り難いと思います。
 先ほどの基調講演では、先に演壇に立たれました伊藤先生は、安国の「国」という文字は、明らかに日本国の国家を意味するのであるというような表現が伺えたかと思うのです。日本国の国家を第一に念頭におかねばならないというご意見のように拝聴いたしました。それに対して、後ほど演壇に立たれました中濃先生のご解釈は、安国の「国」は、日本国の国家でなくして、仏国土に則した、国土世間と申しますか、国土を意味するのだといったような表現があったかと存じます。
 この点につきまして、会場にお集まりの皆さん方がここにおいでになるこの機会に、日蓮大聖人が意図せられた「安国」という二文字の中の、なかんずく「国」という文字の概念に関して、先ほどの講演で十分に言い尽くせなかった点もあろうかと思いますので、もう一度お話しいただきたいと思います。
 演壇に立たれた順序からいたしまして、まず伊藤先生に、この「安国」という文字の「国」が国家であると仰せになったお説の根拠を、できるだけ私ども一般教師にわかるような表現をしていただきますれば有り難いと思います。
よろしくお願いいたします。
 伊 藤 私はこの点については、注意深くお話ししたつもりでございます。すなわち「立正安国」の「国」というのは、近代的な国家だけを意味するのではない。
 しかしながら近代的な国家を意味する、そういう内容をも含んでいる。が、国家、国民、国土を、それぞれの場面に応じて、混在したそれぞれを含有した意味をもっているけれども、日蓮聖人の御書の、時と場合によって、国家が表にでてきたり、国民が表にでてきたり、それから国土が表にでてきたりする。
 中濃先生がおっしゃったように、国土に則して、これは仏教の場合は、仏国土に則しているのは大前提です。
 にもかかわらず、日蓮聖人があえて「国」と言われたところに、国家という意味が強調的にでてくる場面があったのであり、その点が重要です。
 もちろん大聖人の御書を拝読してまいりますと、中濃先生が言われたように、四表の静謐、それから閻浮の一聖、それから器世間としての国土世間、依報、十界互具の場合の正報、依報の依報としての国土、それから仏刹、すなわちブッダクシェートラ、仏国土、それの本来の世界としては、四土具足の常寂光土が明示されます。そこに向かう前提として、究極的な浄仏国土にゆく前提として、人間というものは、いかにしても具体的な共同体としての民族とか、それから共同体とかいうものがあります。
 その一つの文化的な装置・形態として国家がありうるのです。
 これを日蓮聖人は全く否定するのてはなく、この現実としてある国家的な装置をも、正法を守り、崇仏、仏をあがめ、法を信じ、やがて人々が皆成仏することを可能にするものとしようとするのです。
 我々の住んでいる現実の娑婆世界の国土が仏国土になる、その前提として、どうしても国家という装置が現前にあるわけですし、それを支配したり、それをコントロールしたり、それを統制したりするのは人間なのです。
 その人間がもっている文化の根本要素としての宗教とか人倫とか道徳というものが、国家の運営に大きな力を及ぼしますから、そういう国家を、為政者あるいは国主、あるいは当時は具体的には執権であっただろうと思いますが、そういう人々の精神、あるいは国民の精神の根本に、正法を建立する、定着させるべきであるというのです。
 ですから正法を建立して国家を安穏ならしめる。国家を安穏ならしめる、国を安穏ならしめることは、国家という言葉を使えば、国という家になりますが、その場合は「ネーション」でなくて「ステート」になります。ステートは必ず国民と国土とが一体の形であるわけです。国土だけがあったり、国民だけがあったり、国家だけがあったりするのではないので、そういうものはやはり具体的な事実としては混然として一体としてあるわけでする。
 正意としては浄仏国土、衆生皆成、そういうものが厳然としてある。
 しかし人間は現実には国家という枠の中で生きていますから、国家という面がときにでてきたり、あるいは国民という面がでてきたりする。しかし根柢は、国民が国家をつくるから、あるいは器世間としての国家があったりするわけです。
 そういうものが一体となっているのです。一体となっていて、論旨、言葉を用いる場合の説明の内容によって、根本的な属性として備わっている国土と国民と国家のいずれかが現れてくるということです。そういうものが一体となっているのが実際にも日蓮聖人においても事実なのでしょう。
 そして正法を建立して国家を安んぜしめることは、国家を安んぜしめる、すなわち国土を安穏ならしめる、国民の精神を静謐ならしめることを通じて、初めて法華三昧の境地が与えられる環境なり、社会的共同体としての環境なり、自然環境なりが成就してゆく。そのことによって法をあがめ、法を信じ、仏をあがめ、そしてお互いが菩薩となり成仏して、皆成仏ないしは浄仏国土、娑婆即浄土、娑婆が本来常寂光土なんだけれども、我々の業によって娑婆世間になっている。その娑婆世界をして現実的な浄土たらしめるために立正安国があるのです。
 ですから安国が目的じゃないのです。正法を建立して国家を安んぜしめて崇仏信法、皆成、浄土が大目的なのです。
 これは崇仏信法、仏を崇め、法を信じ、やがて成仏し、国土が常寂光土化してゆく。具体的には、だから、「立正安国」は個人・家庭・国家の南無妙法蓮華経化だ、というふうに受け取った方がよいと思うわけです。
 私は国家主義者でもなければナショナリストでもない。要するに国家というのは厳然としてある。これを正法を護持する機関に変えてゆくことによって、我々が仏をあがめ、法を信ずる、そういう環境ができてくる。そのようにするのです。
 だから私は最後に、結論としては、人間の倫理教育・・・・・・・、それから環境に対して人間社会が何をしたらよいかを追求するという環境教育・・・・というところに収束すると申し上げたのは、そういう意味でございます。
 難 波 どうもありがとうございました。同じく中濃先生にお尋ね申し上げたいと思います。先ほどの先生のお話の中で、やはり安国の国を「国土」という表現をなさいました。その根拠として、日本国の国家と限定してしまったときに、これが民族宗教に堕してしまう危険性を含んでいるというお話がございました。そういう点について、もう少しく中濃先生の口からご説明賜れば有り難いと思います。よろしくお願いいたします。
 中 濃 今の問題については、さきにもう少し厳密に説明したつもりなのですが、簡単に受け取られているような気がします。私が言ったのは、「立正」と「安国」を切ってしまって、一つは「立正」、一つは「安国」と受け取る人がいると言われたけれども、そんなことはありえないということです。「立正安国」でなければ全然意味がない。ではなぜそういう表現になったのかという点については、先ず日蓮聖人は仏国土、仏国土とだけ言って、日本国をとばした考え方はされていないはずだということです。
 日蓮聖人の場合には、日本国という点について、それを無視して抽象的仏国土論を説かれてはいないと思います。要するに単純なコスモポリタニズムではないといえます。
 だから日蓮聖人は、日本を「大乗相応の国」と述べ、日本国と仏国土とを相即的にとらえられているともいえるのだと思います。ここに日蓮的特色があると思うのです。
 これを別の角度からいえば、日蓮聖人は日本国というものの上に立ちながらもこれを神国日本万々歳というような単純な考え方ではなくて、そこへ日蓮聖人が受けとめられた法華経思想を照射することによって単純な神国日本的な考え方でない日本、これが底流では仏国土と密接につながっているというとらえ方をされたのではないか。そこにこそ私にいわせれば、日蓮聖人の国についての把握の非常に重要な要素があるのではないかと思います。
 したがってこのことは神様についての考え方にもつながります。それが天照大神万々歳にならない所以です。だからこそ法華経擁護の天神観が生まれたのだといえるでしょう。法味をなめなければ力を失う神という表現をされたのもそのためです。では天照大神を全部捨ててしまったかというとそうではない。これを受けとめて日蓮的にそれを受容していっているのが、他の祖師方と比べての特色だと思っております。
 このように私は日蓮聖人が、仏国土でない日本国を無視しろと考えておられたと申しているわけではありません。だったら「日本の柱となる」とは何だということになる。「日本の柱になる」ということは、そのまま日本を正法で正しくしていく、その使命をもっているという意味なのです。と同時に、その日本は仏国土につながるという、関係があるのだろうと私は思うのです。そこに日蓮聖人の特色と言ったらがあるのではないか。それをはっきりとつかむこが大切でしょう。そうでないと、国は国、正法は正法、と切り離して日本国が外見だけ栄えればよいのだというだけになり、大日本帝国こそ、「大東亜の盟主」だということをそのまま肯定してしまうことになる。日蓮聖人のいう日本国の意味はそれとは全然質が違うということです。
 だから私はあえて「明治以後の」と言ったのです。鎌倉時代の国とは何ぞやという議論も、学問としてはそれはそれでよいのです。けれども、日蓮聖人のとらえられた国と決定的に違うのは大日本帝国と称した明治以後の日本だという把握が極めて重要なのです。というのは、明治以後の日本は国家神道イデオロギーを柱にした天皇制国家だったからです。鎌倉時代はそんな形ではない。だから明治以後のそういう国家体制について、我々日蓮教団はその事実をどう受けとめたのか。その現実をそのまま肯定していたのか。あるいは日蓮聖人のように、法華経思想すなわち正法を照射して、もう一度受けとめ直していたかといことです。残念乍ら教団の歴史的実態は前者でしかなかったわけです。だから教団そのものが、大東亜戦争万々歳になったわけです。
 というのが私のいいたいことであって、そこに「立正」と「安国」との切り離しがあったということです。これでは、日蓮宗とはいえなくなります。と同時にそこに謗法論ももちろん関連してきます。
 では謗法について、現実的に我々はどう対応するかというと、またいろいろあります。やたらに真言宗のご信者なりお坊さんに対して、真言亡国だと批判すべきだと今時考えてしまったら、これはもうめちゃくちゃです。
 ではどう受けとめるか。私は『立正安国論』を読み直したというと叱られますが、読み直してみると、今まで見過ごしていたようなことがいっぱいでてくるように感じました。例えば、こういう言葉がでてきます。先の講演で触れましたが、
  あるいは秘密真言の教に因て、五瓶の水を漉き、あるいは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の號を書して、千門に押し云々
というようなことがでてくる。すると、これは明らかに、最近のそういう表現を使ってよいかどうかわからないけれども、あえて一般論でいえば、熱狂的なカルト宗団批判とも受けとめられます。単なる真言だけの問題ではない。だから瓶の水を注いで、これで病気治るよ、何で医者にかかるのだとか、いっているでしょう。これは麻原彰晃のオウム教団などもそうだし、新宗教の中にこういう真言秘密の法みたいなことで信者を集める教団がいっぱいあって、今問題になってきている。ところが、七五〇年も前にこういう形での批判がされている。これが四個格言にもつながると思うのだけれども、私はこれこそ、今日の宗教情況に対する痛烈な批判のような気がします。
 けれども、こう考えるときに、それでは、我々はどうなのか。日蓮教団はどうかということになる。ここには忸怩たるものがあると思う。おれは関係ないと言い切れるかどうか。ここで批判されているような宗教信仰を我々は信徒に求めるようなことは、断固していないと言い切れるのかとなると、これは我々の自己反省とも関連してくると思います。
 さらに国、国王に関連していえば、
  諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして、此語を信聴し、ほしいままに法制を作りて、仏戒によらざらん。是を破仏・破国の因縁と為す。
 これは仁王経からの引用ですが、引用ということは日蓮聖人が非常に重視したから引用されたのだと思います。これを読んでいると、先ほど伊藤さんが言われたように、経済問題を含め世界は大変だ、日本も大変だということにつながります。特に日本のことについて、宮沢蔵相の名前までだされて、IMF(国際通貨基金)についての疑問をも含めて、アメリカになぜ必要以上に取り入るのかという意味の批判をされたけれども、まさにそういう点にもあてはまるような一文だと思います。
 さきの、「悪比丘」を「悪知識」と読めば、そうなるでしょう。また「悪比丘は名利を求めて、国王、太子、王子の前で自ら破仏法破国の因縁を説いた」と言われますが、我々はそうなっていないのか。他宗の僧侶方はそうなっていないのかどうか。それこそ我々の自己反省が必要となる指摘でもあるような気がします。とすれば、本当の比丘とは、名利を求めたり、国王や大臣その他の前で、ごまをするような発言をしたり、それを間違った方向に向けるような発言をすべきではないということです。
 だから先ほど伊藤さんもおっしゃっていましたが、要するに「立正安国」とは、政治権力を握って、「正法」を押しつけていくものではなく、為政者あるいは指導者をして、正法によって政治を行い、民衆の幸せな生活を実現するために努力していくというふうにさせることが大事だということです。
 だからそれこれを考えて、我々は『立正安国論』をもう一度読み直していく必要があると思います。もちろん読み方によっていろいろあると思うから、それはそれでよいと思います。けれども間違った読み方だけはしたくないし、してはならないという感じがします。
 だから国、国といわれるけれども、日蓮聖人の時代の国と、近代国家とを並べて、安国論の国と、近代国家の国とどこが違うのだというのも、評論的な議論としては面白いけれども、真剣に考えたときには、そういった歴史的な過程の中で、国家観がどんなふうに違って受けとめられてきたかという点を明確にしておかないとならないように思います。特に日本の場合は、私は明治絶対主義天皇制以後の国と、それ以前の国との決定的な違いを明確にすることが重要になると思います。
 したがって、天皇についてもそうです。万葉集をお読みになればわかるように、天皇の恋についての歌がよくでてきます。ところが明治以後の天皇は、恋の歌などはつくらない、つくれないのです。極めて政治的なのです。したがって、天皇そのものが昔は非常に人間的だったといえます。そういう天皇ならば多少親近感をもてるかもしれません。けれども、明治以後になったら、天皇は「現人神」になったという重大な変化が起きている。そうした日本国とは一体何なのかという点を明確にしないと、わけがわからなくなってしまうという感じがします。だから私は今日、評論家的国家論を避けそこにしぼってお話しをしたわけです。
 難 波 ありがとうございました。今、中濃先生のお言葉の中で、やはり再度確認させていただきましたことは、明治以前と明治以後の、日本の国というものに対する認識の違い目をはっきり確認しておかなければ駄目だというご指摘を受けたように承りました。
 今の問題と関連しますが、そういった中濃先生のご指摘を踏まえた上で、例えば七〇〇年前の鎌倉時代に思いを馳せたときに、日蓮大聖人ご自身が、鎌倉時代の日本国に対して、何かよその漢土月氏とは違った独特の、私どもの次元の言葉でいえば思い入れと申しますか、そういったものが大聖人の中に日本国の対する思い入れのようなものがおありになったのかなと思うのです。
 その点は中濃先生は、七〇〇年前の大聖人が生きられた鎌倉時代の日本国について、大聖人がどういう思いをもっておられたかということはどうお考えになりますか。
 中 濃 そういうお話になると、これは歴史学も含めて、いろいろな問題が存在すると思うのです。例えば、国といっても現実問題としては、日蓮聖人と鎌倉幕府、特に頼朝についての考え方はどうなのかということも、大きな問題としてあるのです。私は中世が専門でないからよくはわからないけれども、日蓮聖人はどうも頼朝に親近感をもっておられたように思う。
 もう一つは、これは国とは何ぞや論と関係するのですが、生国ということもありますが安房国について非常に大事に考えていた。あそこは天照大神の御厨のあるところという関係があると思います。そのためもあったのでしょう。日蓮聖人は天照大神を無視してはいません。だからこそ、曼荼羅に天照大神名が出てくるのだといえましょうし、八幡大菩薩名が出てくるのも頼朝や鶴岡八幡宮に対する考え方につながると思います。頼朝の場合は、安房の国が御厨となったこととの関係などが、日蓮聖人にとって好ましいことに思われたのかもしれない。
 それからもう一つは、私も昔論文で書いたことがありますが、日蓮聖人の生きておられた時期は、承久の乱があって、国内が非常に動揺した後、北条政権ができる。しかも、その北条政権に内部矛盾が生まれる時期にあたります。だからこそ内憂なのです。このように、国内が乱れるという状況の中で日蓮聖人自体が、国家諌暁の対象としての時の権力者について、よくいえば厳格に、悪くいえば現実問題としての分析で、執権と天皇とについて悩まれていた感じがある。だから国主が、天皇と執権との両者に厳密な区別なくでてくる一面があると思います。ここには、あの鎌倉時代の非常に複雑な政治状況が、反映していると思います。
 日蓮聖人は、そういう現実を見据えながら最終的には法華経思想を照射し、日本の国はどういう国か、どうあらねばならないか、という点を把握された。それが「立正安国」ということになるのです。どんな邪法がはびころうと、どんな政権であろうと日本の国が存在するのが大事だというのではなく正法が基本にあって、その正法によって為政者その他が正しい政治をやるという形をとらなければ、日蓮聖人は認めないわけです。そういう形で日蓮聖人は日本国を考えておられたのだと思います。
 けれどもあの当時の国は、伊藤さんも言われたように、今の近代国家の国とは違うということです。しかも私は、近代国家一般論との違いもそうだけれども、同時に日本という立場からいうと、明治以後の絶対主義的な国家との違いがあるということを強調したわけです。それを踏まえて考えないといけないというのです。
 だから国とは何ぞやという抽象的議論は意味がないし、私は政治学者ではないから、そんなに踏み込んで国の分析をする能力は余りない。やっぱり日蓮聖人の時代とその他の時代における国の問題を考える場合、明治絶対主義天皇制との違いが重要なのです。これを度外視した国家論は非歴史的になります。
 ところで日蓮聖人は、国主については、それが主として執権である場合と、時に天皇である場合があります。しかも、その北条政権に徹底的批判を加える。それだけでなく天皇についても、崇峻天皇批判をされる。その根拠は、謗法を犯したからという形での批判になってくる。こうした点も見ておく必要があると思います。
 日蓮聖人の遺文は多いし、いろいろな見解がたくさんでてくるでしょう。だからそれを断片的に一つひとつとらえたら、幾らでも意見がでてくる。大局的にいってどうなのかということが重要だといえます。そこで集約されるのは、「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれますけれども、やっぱり『立正安国論』を起点にして他の御書でいろいろ述べられている内容を研究していく、学んでいくことが大切ではないかという感じがするのです。
 難 波 どうもありがとうございました。
 次にもう一つお尋ねいたしたいことは、立正という「正法を立てる」という言葉のもつ意味でございます。伊藤先生も先ほどから仰せになっておられましたように、日蓮大聖人の立正の精神は、決して政治を行政の面で動かしたり、どうこうということではなくして、あくまでも日蓮聖人のお立場から、宗教者として、宗教運動として、国土世間の成仏のためにはどうあるべきか、何をなすべきかということを考えておられたのが、日蓮大聖人の立正安国精神だと思うのです。
 今、中濃先生のご指摘にもありましたように、明治以後、若しくはこの第二次世界大戦以後と申しました方が、今の私どもには身近な感じがするのですけれども、第二次大戦以後から今日まで、また今日から未来に向けて、我が日蓮門下の僧侶が、具体的にどういう宗教運動を実践していくことが、この立正精神につながっていくかという問題ですが、中濃先生は、戦後間もなく、先ほどのお話では、宗門で行われた立正平和運動という形で日蓮大聖人の宗教運動を受け継いでいこうという志がおありになったように思うのです。
 立正平和運動に関して説明すれば、恐らくちょっとやそっとの時間ではできないと思います。この点につきまして、今現在、またこれから将来に向かって、私ども宗教者が、日蓮聖人の「立正安国」の祖願達成のために、具体的にはどういうはたらきかけと申しますか、どういう運動をしていくことが一番望ましいことであるとお考えになっておられるか。まず中濃先生にお尋ねして、その後同じ質問を伊藤先生にお尋ね申し上げたいと思います。
 中 濃 とにかく時間がないので、簡単にしか言えないのですが、今の世界の状況は、先ほど伊藤さんが、いろいろ経済問題を含めていわれていましたが、共鳴するところが随分あるのです。それほど世界の状況はひどいのです。日本国内の状況もそれに近くなってきた。そういう中で、一体我々は日蓮聖人の教えにしたがって何をすべきかということになると思うのです。そこで、日本の最近における国内状況をみていると、若い人たちが、ナイフで人を殺すとか、いじめがあるとかと、非常に複雑な国内情勢になっている。それは親のしつけが悪いからとか、学校の先生の教育の仕方が悪いからという面があると思う。
 けれどももっと本質的には、私たち年配者にとっても世界の状況、その中の日本のおかれている状況が、非常にお先真っ暗という感じがするのですが、若い人にとっては特にそうでしょう。だからどうしてよいかわからない。そうすると、やぶれかぶれにならざるをえない現状がでてくる。
 そこに見事に焦点を合わせて、さっき『立正安国論』で批判されているといったような脅迫的終末論をあおるカルト教団が、魔手を伸ばしてくる。そうするとオウム真理教ではないけれども、「ポア」といった殺人肯定さえ是認する形で若い人が取り込まれていくという状況が生まれます。
 だから、そういう中で我々は何をすべきかといえば、お先真っ暗な世界状況、国内状況に対して正しい認識を育てることが先決だと思います。正しい認識とは正法による認識ということになるでしょう。とすれば我々日蓮教徒の使命は、ますます重くなってきたといえるでしょう。
 その具体的な行動としては、社会福祉事業に精をだす、ボランティア活動を大いにやるなど、いろいろあると思うのです。それはそれなりに重要な仕事だと思います。けれども、もっと大きな意味でいえば、この世界から戦争をなくしていくということです。特に核兵器による戦争が起きれば、人類が滅亡する可能性があるから、断固としてこんなことをさせてはならないというのが、一番柱になるべきだと思う。
 ところで、何でこういう世界状況になってきたかというと、ちょっと抽象的になってきますけれども、貪・瞋・癡の三毒に汚されて、正法を受けとめ、その正法に導かれた行動をしようとしない世の中になっているからだということだと思います。こうした根源について、それを知らしめることが私どもの「誓願行」だともいえるでしょう。
 したがって、具体的には先ほども申し上げたけれども、核戦争への対応の問題を柱にしながら、原発の問題などにも関心を向けるべきだと思います。真宗教団の中には、わりあい真剣に考えている人がおりますが、うちの教団の中から原発問題ではっきりとものをいっている人は本当に少ないようです。しかし、原子力を平和目的に使うのは結構だと思われているが、よく考えてみると、それが著しい環境破壊につながりかねないことが次々に生まれてくる。だから女川原発のことが問題になったり、特に核燃料再処理施設での事故多発や、核廃棄物保管についての対策が、全く不十分なことが明らかになってきたりしていることに無関心ではならない。
 ですからそういうことについても、我々としては疑問を提し、批判の意志を示していくとか、いろいろな行動を起こす必要があると思うのです。それから環境問題しかりです。環境問題は案外目に見えないから(見える場合もありますが)、見過ごしてしまう。そうすると人類の滅亡に、というか、我々の子孫を見殺しにすることになりかねない。それでよいのかというようなことを、もう一度『立正安国論』に戻って読み直してみる。すると、あの当時は環境問題という言葉はないですから、それについて日蓮聖人は、具体的には発言されていないけれども、参考にすべき基本点は述べられているわけです。
 例えば、『立正安国論』の中にでてくるのですが、大集経を引いて、
  「仏法が滅びてしまえば、諸々の善論はそのときに一切つきてしまう。すると、諸々の井戸や池がことごとく枯れてしまい多くの山がみな焼けてしまう。雨が降らず苗は枯れ、生ずるものはみんな死んで枯れ尽きてしまう」
(意訳)
という表現が出てくるのもそれです。これも先の講演で触れたところです。
 これを環境問題として考えて見れば、今にそっくりあてはまります。これは大集経の引用ですが、日蓮聖人は正法がなくなると、こういうことが起こってくると注意を喚起されているのです。
 神戸の地震にしても、あれは天災だといってすまされるものではありません。何故ならば、あれだけの被害をだしてしまったというその過程の中では人災といえる面が大きいからです。神戸の新間上人も来ておられるけれども、その後被害にあった方々にどれだけ補償しているかというようなことがでてくるからです。その背景をいえば、政治権力を握っている者、もっといえば、今の大臣や政治家諸君が本当に人の命を大事にしようとするなら、こんな非情な政策はとれない筈だからです。
 ですから、私たちとしてはその辺も念頭において善は善、悪は悪として、ハッキリとものを言うべきだと思います。これもまた立正平和運動の一環といえます。
 難 波 今の中濃先生のご説明を承りますと、先生自身が実践してこられた立正平和運動の中身、内容につきましては、私ども平和運動という言葉のイメージからいたしますと、いくさの災いをくいとめるために、いわゆる核廃絶とか軍備撤廃とか、こういう問題だけが表にでるものととらえがちですけれども、今の先生のお話では、これは環境問題においてもしかり、地震の後の救済問題にしてもしかり、様々なことに目を向けて、国家が安穏になるように心がけていく。そういうことを今後将来に向けて、日蓮門下の僧侶も尽力すべきであると受けとめさせていただいてよろしゅうございますか。
 中 濃 そういう意味では、さきに、日蓮宗人権対策室から出された人権シリーズの「環境・平和・人権」という小冊子を参考にしていただきたいと思います。
 難 波 今日の資料の中にお加えいただいてあるものですね。ありがとうございます。
 今の問題と同じ問題を伊藤先生にお尋ねしたいのです。伊藤先生のご講演やご著作の中で、ときどき目にするところですが、例えば大聖人が安国論で四箇格言、なかんずく念仏批判をされました。その国中安穏の道として「謗法のものを禁じて、正道の侶を重んぜよ」というようなご指南があるけれども、現代社会において、念仏無間と批判されるべき対象は果たしてだれなのだといった問題提起が、伊藤先生の著作の中に見受けることができます。
 それと、「ボランティア」という言葉を使ってよいかどうかわかりませんが、何かしら人のためにすることで、はたらかせてもらおうとする、いわゆる奉仕精神といいますか、そういうものは決して悪いことではないけれども、伊藤先生のお言葉を借りれば、人間的な善意が必ずしもよい結果を生むとは限らないといったご指摘がございます。そこには法門をいかに解釈会通するかという知的怠堕というものがあったなら、それは「立正安国」の運動にならないのだという表現も見受けることができます。
 そういった問題を踏まえた上で、伊藤先生ご自身が、日蓮門下の一員として、現在また今後将来に向けて、大聖人のお役にたつべく「立正安国」の運動をするには、具体的な方策・方法として、どのようにあるべきか。もし提案があればこの機会に今日お集まりの皆さん方にもお示しいただければ有り難いと思います。よろしくお願いいたします。
 伊 藤 いろいろありがとうございます。そのような大層なことを私はしておりませんし、またするだけの力もありません。ですから、自分のできることで、なしていないことで、なすべきことは、何か、という程度のことならできるということを通して、日蓮聖人の本意に直参できたら、という程度のことでございます。
 国の問題とかいろんな問題があります。日蓮聖人の御書は、その断片を抽出してそれだけを理解しますと、全く相反する思想や解釈がでてくるような、一見矛盾にみちたような構図をもっておりますけれども、それは読み手の側が、日蓮聖人の御書全体に対応するだけの努力をしていない知的怠惰によるということであろう、と思います。
 だから、日蓮聖人の御妙判を拝読する場合に、私どもは先師の方々が、指南として示されている教相勝劣・教旨一致の道理を適用するべきです。
 教相の上ではいろんな段階がある。教えのそれぞれの特徴の上で段階がある。ではどの段階で語られているか。すなわち権実相対の場面もあるし、本迹相対の場面もあるし、教観の場面もあるということです。そういういろんな段階がありますから、教相勝劣・教旨一致ということを先師の方々が御妙判を拝読する場合に、私どもに指南されています。それは先師の方々は苦労した結果、教相勝劣・教旨一致と示された。だから日蓮聖人はこれは本迹論で述べられているのか、権実論でおっしゃっているのか、見極める必要があります。
 伊藤瑞叡は日蓮主義者だなどと言っているが、実存主義の言葉を使って話しているじゃないか。それはやっぱり相手に応じてそうなので、大聖人でもそうだと思います。最蓮房に対しての御妙判は、相手が天台の学僧だから天台の言葉、天台の本覚思想の言葉を多く使う。
 しかし最終的には勝義諦、究極的な真実の道理において、日蓮聖人は常寂光土本国土、四土具足の浄土、本国土妙なのです。
 しかし現実に直面していると、天変地夭あまねく天下に満ちているわけですから、やっぱり国土、国民、国家を支配、運営している者は何をやっているのだというレベルでの提言や運動もあるわけです。
 そういう全体のレベルを総合的にとらえるだけの知見を、私ども宗門寺院はもたなければならないのではないかというのが一つです。
 ですから『立正安国論』を読む場合にも、「立正安国」のシステム原則ということで整理し明示して(十ページ)みました。
 それで、今、中濃先生がおっしゃたことですが、それは、私も『立正安国論』を拝読いたしますと、個人として忸怩たるものがある。日蓮聖人の批判の対象となっている一闡提、増上慢の宗教者としてのあり方が、下手すると我々宗門人と二重写しになっているのではないか、と中濃先生がおっしゃっる。忸怩たるものがあるとおっしゃる。たしかにそうかもしれないのです。
 そういう反省は一体あなた方はあるのか、私はだからこそ立正平和運動をやっているのだということでしょう。それで私は感服しています。
 ただ私は、実際問題、立正平和運動には参加していませんでしたが、中濃先生はそういう意味からだったということです。
 宗門は多面的であってよいので、全体のシステム原則がきちんと踏まえていれば、時代はいろんな動き方をしますから、宗門は多面的な活動の拠点をそれぞれもって対応するだけの大宗門であるという自覚をもっていてよいと思うのです。南朝の妙顕寺、北朝の本圀寺の如きです。
 それからもう一つは、中濃先生がおっしゃたところで、私も共感をいたしますが、悪鬼魔縁と大聖人はおっしゃっている点です。
 悪鬼という言葉に象徴される精神的なありかた、これは現代の社会、国家、人類、世界の動向の中ではどんなものなのかと問うことです。サタニズムというのがあります。例せば、ロックなんかでやっているのはサタニズムで、「殺せ」、「死ね」と、実際は歌っているのです。
 それから魔縁にとろかされると大聖人はおっしゃっています。現代における魔縁とは何なのか。それを早く洞察することだと思います。
 『立正安国論』の段階では、まだ法華真言は正法の中に入っています。しかし日蓮聖人が、佐渡以後になってまいりますと、四個格言で示されている「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」、は明確となってきます。今の真言なんかは国を滅ぼすほどの力はありませんから、真言のお坊さまをつかまえて、真言亡国などといってもおかしい。そうではない。当時は真言は亡国的だったわけです。
 しからば現代の真言は何か。それはオウム真理教だとかがある。ああいうカルト教団は、ぱくり宗教やカルト教団は真言亡国の真言にあたるのではないかとか、あるいは念仏無間の念仏とはこういう考え方ではないかとか比定してみるべきなのです。日本の国、自分たちの国をないがしろにしている。どうにかしなければならないとか、考えない。今の若い人たちはそんなことは全然考えない。左も右もない、左も右もごめんなさい、楽しければいいじゃないか主義の学生が多くなっている。では本当に国際主義だとか、何かの意味がわかっているのかというとわかっていない。他土に浄土を求めて英国に行ったりアメリカに行ったりしている。そんなのが念仏無間的であるのかもしれない。自分の現実と国を考えないのが念仏ではないのか。そういうふうに現在の念仏は何かを問うことが大切です。
 日蓮聖人が鎌倉時代において禅天魔とおっしゃったその禅天魔的なものは、現代の社会、現代の日本においては一体何がそれに相当するのか。禅宗の坊さんをつかまえて、「やい、禅天魔」なんていってもはじまらない。一体、現代、禅天魔とおっしったその禅に当たるものは何か。律国賊とは何かというふうに、そういう問いを自ら課して、それに答えて、それに対応しようとする精神的な努力というか、具体的な努力というところまで結実するところに、日蓮門下の使命があり責任があり、そして真価があるのではないか。
 では伊藤何をやっているのだ。そこで私もいろいろ考えました。とにかく一言で申しますと、「法師は諂曲にして人倫を迷惑し」とある。法師とは宗教家です。あるいは文化人とか知識人です。法師は権力者にへつらって、教団を大きくすればよいとか、自分が最高解脱者になればよいというようなことで、人倫を迷惑し、にもかかわらず「王臣(為政者)は不覚にして邪正を弁えず」、何がよこしまなことで、何が正しいことかをきちんと弁じて、それに対応できないじゃないか。だから「正道の侶になって、そして諫臣争子となって国家諫暁をせい」とおっしゃっているわけです。国家諫暁は立正平和運動だと中濃先生はおっしゃいます。私はそういうものが日蓮宗で行われてきたということは、やはり日蓮宗にいろいろな解釈とか、左とか右の考え方の違いはあっても、そういうものがでてくるだけ宗門は、他宗門に比べてまじめで真摯な力動性のある宗門だと思います。
 では、伊藤は何をやっているのだと。伊藤は全然やっていないようです。私は分をわきまえて分策による諫暁運動でしょうか。
 大阪の布教師会に呼ばれまして、王仏冥合の問題を論じたのですけれども、これは皆さんに読んでいただきたいと思って一書にまとめました。
 そこで、禁断謗法の対象となるのは、王仏互入論(=政教合体論)です。これは禁断謗法の対象だと思います。まことの王仏冥合とは一同戒壇論となります。
 王仏冥合は、私の見方では、これは、正法の仏教による教化の実が結んで、王法の方から、すなわち政治経済・国民の方から、仏教の方に近づいてきて、自然任運に近づいてきて、それに対して仏法はそれを受けて合するのです。だから王仏冥合論は、仏法の上に王法があることではありません。詳しくは省略します。
 そのように日蓮聖人の王仏冥合論なども厳密に解釈をしてゆく必要があると思います。
 私どもはそういう努力をしながら、日蓮聖人の真意を求めてゆかなければならない。
 先ほどお話ししましたように、何もできない自分でも、やらなければならないこと、まだやってないことで、できることを、やるべきだと思うのです。
 これは結論の八十七ページでも述べ申し上げたことですが、これから宗門としてやらなければならないことは、人間社会に対する人間倫理教育です。日蓮聖人は最後に『報恩抄』をお書きになられまして、「夫れ老狐は塚をあとにせず。白亀は毛寶が恩を報ず。畜生すらかくのごとし。いわんや人倫をや」と言われた。その人倫の教育、それから自然環境に関しての人間社会に対する浄仏国土のための環境倫理教育、この二つを私は提案しているわけです。
 それを実行するにはどういう場面があるかと申しますと、幼少年と青少年と老壮年に分けられます。
 幼少年に対しては、幼少年下種教育、幼稚園とか保育園とか、幼児の教育がありますが、そういう幼少年に対して、一妙三秘の三大秘法を幼少年に理屈として教えるのではなく、生活の態度のしつけの中にそれをどう教えたらよいかという、幼少年下種教育を提唱して自分でやっております。それは私の『幼児教育の三要』という書物にまとめております。
 それから青少年教育、それは下種に対して調熟教育のレベルです。これも調熟教育の三要、これは先ほどお話しした三大秘法を原理的に、例えば三大秘法の本門の本尊は、正直捨権の道理という日蓮聖人のお言葉で表現したのですが、正直に当分の方便を捨て真実の目的をまっとうするということです。
 世の中は目的と手段で成り立っています。厚生省は国民の健康保全という目的のためにある。厚生省は国民の健康保全という目的、真実なる目的(実)のためにある手段(方便)です。ところが厚生省は、厚生省の役人(権)のためにあるようになって実の目的が見失われているわけでしょう。
 日蓮宗は日蓮聖人の立正安国、四海帰妙、世界平和、あるいは「立正安国」という実なる目的のためにあるのに、手段の権である坊さんの生活保全のためにあるようになってしまってはいけません。我々はそういうことはありませんよね。全然ないですね。頑張って、今、こういう会議を開いています。ということですね。
 だからそういう正直捨権の道理を一つ明示するだけで、現実問題を分析し批判をし、どうあるべきかということを提示する原理原則がきちんとでてくる。日蓮聖人の教義は実際はそういう完全性の高いものなのです。
 だから、青少年教育の中に、そういうだれでもわかる言葉にかえて、そして三大秘法の精神なり原理原則を、秩序づけて教えていくという青少年教育、これが必要です。
 それから老壮年の教育です。老壮年の得脱教化の三要というのも考えて、今、とうしようかとしているのです。ところが半分やっているのですが、どうもこれが、難しい。みんな老壮年になると、もうすでに人生観が固まっていますから、難しいのですけれども、これを説得する必要があります。そういう問題を考えながら、我々は寺の住職ですから、自分の直接に接することのできる人々に対して対応してゆくべきです。
 私の書いたものを檀家の人にやっても「難しい」といって読まない。どうしたらよいか。そこで私はこのくらいの紙に「報恩のしおり」として、大きな字で書いた。「茶髪は危ない」とか「茶髪は三十代でハゲになる」とか、そういうものはすぐ見ますから、配ります。「御前さんがこういっているじゃないか。やい、娘よ。茶髪は危ないぞ」、「しようがないお寺の御前さんだわね」と。それでも考えるチャンスを与えることができます。
 そういうふうに、やれることを、できるところからやることが、国家を諫暁することに繋がる。
 しかし当時日蓮聖人の時代は、国家の形態がそういう形態ですから、国家の為政者を諫暁すれば、それで済んだところもある。今は国民が主体の国家ですから、国民一人ひとりを説得してゆくという方法論を、それぞれが考えてゆかなければならない。
 しかし根本的には、教化は教育です。だから我々は自分の周りの方々に対して感化する力をもつことです。
 とにかく、まじめに何かできることで、やっていないことで、できそうなことで、すぐできることでやれることをやるというところに収束するのではないか。
 そのポイントは、人間の倫理教育と環境保全に対する人間社会に対する環境倫理教育です。法華経の理想は、法華経の主義、随宜所説の意趣は、結局は衆生成仏と国土成仏だからであります。そういうふうに考えるべきかな、と思っております。長くなってしまいました。ごめんなさい。
 難 波 ありがとうございました。かなり具体的なお話を承ることができました。会場のご参加の各上人の方で、せっかくこういう機会でありますから、このお二方の先生が同じ演壇でこうしてお立ちになることは数が少ないかと思いますので、お尋ねしたい由がありましたら、挙手の上、ご質問いただければ有り難いと思います。よろしくお願いいたします。
 質問者(A) 伊藤先生にお尋ねいたします。テキストの中にこうあります。「しかし正法は、根柢において云々、すなわち慈悲心をもって正法としてはたらくものであるから、邪法を自らの中に含んで清めていくことのような弁証法的な止揚のダイナミズムをもったものであります云々」とあります。その他に今もお話がありましたが、四箇格言という念仏無間云々というのは、これは何も今の禅宗の坊主が悪いのではなく、あるいは真言の考え方でない。もっと大きく現代的には、先生がおっしゃったように財政の赤字とか重税とか過当競争だとか、そういうものに我々は目を向けていくことによって、そして正法とは、何も謗法をわざわざつくって、念仏も謗法だ、真言も謗法だではなくて、どこかでそういったものを浄めていくような、止揚のダイナミズム、そういうものをもっているから、あるところで謗法と宗祖が言われたような、真言も禅もあるいは念仏も、そういったものを含めた法華経以外のそういう信奉者に対しても、どこかで共感できるもの、あるいは共通にどこかで手を携えていくような側面があるのだと。これからの開かれたというか、こんなに価値観の多様なときに全世界に目を向けていくときに、我々は『立正安国論』を、そういう読み方をしていかなければならないと私は受け取ったのですが、これは間違いでしょうか。
 伊 藤 そうですね。そういうことでもあるのですね。しかし邪正をわきまえ理性の光に照らして批判するべきは批判する事も大切です。
 私「原理」という言葉を使いましたけれども、これはフェンダメンタリズムという意味ではございません。
 現代に、『立正安国論』が書かれたらという発想をもって、その地点から『立正安国論』を読んだ場合に、時代は変わっていても、普遍的な人間の三毒強盛の精神、よからざる精神に基づいたいろいろな魔縁と、無得道に陥る大きな落とし穴に陥るような思想とか、人間の欲望に満ちたいろいろな快楽的なものの考え方がでてまいります。
 ですから、原理的に理解することは、現在に、『立正安国論』が書かれたら、過去の古典だけれども、同時に現代において日蓮聖人が禅天魔、真言亡国といって批判をされた、その真言亡国といって批判された真言的なるものは、現代では一体何なのかというふうに、追求することです。体は変えてはいけないけれども、用を変えるという読み方をしてゆくことによって、過去の古典の『立正安国論』が蘇生する。妙とは蘇生の義ですから。妙として生き返る、そういう読み方を現代には、すべきだろうということです。
 ですから、今申し上げたような意味で、フェンダメンタリズム、根本主義的な見方は、むしろ『立正安国論』の本来のもっている意味を減殺するのではないかと思いますので、そういうダイナミズムのある妙の蘇生の義で読むという考え方でよろしいのではないか、と思います。
 難 波 どうもありがとうございました。幾つか皆さんのご質問を受ける予定でしたが、事務局の方から、三時から次の部会別討議が始まりますからというメモが参りましたので、一応「両先生に聞く」というコーナーはこれで閉じさせていただきたいと思います。
 中濃先生、伊藤先生におかれましては、朝から引き続き長時間おつきあい賜りましてまことにありがとうございました。厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

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