日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 現宗研所報 > 第33号
所報第33号:272頁〜 第三十一回中央教化研究会議 ←前次→

 基調講演(2)

  現代に『立正安国論』をよむ

中濃教篤
(現代宗教研究所顧問)

    はじめに

 宗務院発行の『お題目総弘通運動V』に「お題目総弘通運動に至る宗門運動の歩み」として、次のような一節があります。すなわち「大戦後、宗門は本来の教団の姿を取り戻すべく、さまざまな力を重ねてきました。その先鞭をつけたのが、教学及び宗政の民主化と社会的進出を訴えた、日蓮宗革新同盟の運動でした。そうした動きの中で、昭和二十七年に迎えた立教改宗七〇〇年は…戦争協力に対する反省のもとに『心の償い』運動を提唱するなど、立正安国の精神を現代に継承し、正法に立脚した平和運動の必要性が改めて認識された時でもありました。そうした機運の盛り上がりの中で、昭和二十九年、世界立正平和運動が提起されました。宗祖の誓願である立正安国、浄仏国土をめざす運動は、既成教団の同様の動きを思想的にリードするものとして、各地での平和大会の開催や唱題平和行進、平和叢書の刊行など、幅広い活動が展開されました」というのがそれであります。そこで、これらの運動に中心的にかかわった一人として、その立場を踏まえながら、「現代に『立正安国論』をよむ」と題して、所見を述べてみたいと思います。
 さて、ここでいう『立正安国論』をよむということは、いわゆる「論語読みの論語知らず」ではなく、また単純に字句の解釈に終わるのでもない、「色読」即ち実践的に「よむ」ということを意味します。ただ、その場合でも、この御遺文が、今から約七百五十年も昔に書かれたものである以上、今日とは時代的背景に相違のあることは念頭におく必要があると思います。したがって日蓮聖人が『立正安国論』で論述されている時間を超えた真理を実践的によみ取るという努力というか学習こそが私どもに課せられた責務であると考えます。そこで、本日ここでは、煩瑣な教学論などではなく、遺文に直参して学習することといたします。
 こうした視点から「現代に『立正安国論』をよむ」ためには、近現代の日本の歴史と、その時代における本宗の対応を垣間みておく必要があると思います。
 すなわち、明治いらいの国家神道体制から、日中戦争を経て、太平洋戦争へ、そして敗戦、それを契機とする戦争放棄を明文化した日本国憲法の成立といった歴史を踏まえ、『立正安国論』がどう読まれ、宗団としてどのような対応がなされたかを厳密に検証することが極めて大切だと思われるからであります。とくに敗戦後、教団を挙げて取り組まれた「世界立正平和運動」については、その成果について充分な分析が必要であろうと考えます。この点については、のちほど言及したいと思っております。
 さて、ここで先ず第一に指摘しておきたいことは、『立正安国論』が、仏典の引用や解釈論からではなく、「旅客来りて嘆いて曰く」という当時の悲惨極まりない社会情勢、民衆の塗炭の苦しみについての詳しい描写から説き起こされているということです。これは「国家諌暁」という大きな目的があったからでもありましょうが、他宗の教祖たちには余り見ることのできない特質ではないでしょうか。とすれば、この点を重視しつつ、『立正安国論』を読みながら感ずることは、二十一世紀を目前にした今日、核戦争の問題、環境破壊の問題など、すべて地球規模の危機的状況が生まれていることに無関心なままで、この御遺文を読み進んで、万事終われりとは断じて言えないでありましょう。私の「色読」とはこうした意味をも含んだものと御理解頂きたいと思います。こうした面については、後の世界立正平和運動に関する論述でもふれたいと思います。

    一、『立正安国論』の国家観

 ところで、ここで『立正安国論』の「国家観」と「神祇観」について、簡単な所見を述べて見たいと思います。
 先ずその「国家観」すなわち「国」または「国土」についてですが、いたずらに百科辞典を繙〔ひもと〕いて「国」とは何ぞやと学ぶのも無意味ではありませんが、近、現代史の立場に立って考える時、決定的に重要な視点は、鎌倉時代の「国」についての一般的理解と、明治以後敗戦までの「国」についての一般的理解とには質的に大きな違いがあると言うことを明確に把握しておかなければならないということであります。それはどういうことかと言いますと、鎌倉時代特に日蓮聖人時代の「国」は、武家政権のもとにおける「国」でしたが、明治以後敗戦までの「国」とは、このあと申し述べる「神祇観」とも関連するわけですが、国家神道イデオロギーで色揚げされた、いわゆる絶対主義的天皇制国家であるということであります。したがって『立正安国論』でいう「日本国」と明治以降の「日本国」とは、決してイコールではないということです。このことを今日改めて再認識する必要があると思います。これを換言すれば、「立正安国」の「国」は、たんなる国家至上主義、民族至上主義的な「国」ではなく、「仏国土」と切り離し得ない「国」或いは「国土」を意味するといってよいかと思います。これをあえて一般的表現に翻訳していえば、ナショナリズムとインターナショナリズムの止揚された立場からの「国家観」といえるかも知れません。そうでないと「異体同心の事」に述べられている「蒙古国の事既に近づき候か。我が国の亡びん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば、日本国の人々はいよいよ法華経を謗じて、万人無間地獄に堕つべし」といった表現は理解できなくなるように思いますが、どうでしょうか。といって日蓮聖人は、抽象的な「仏国土」論を説かれているわけではありません。「日本国」は「八万の国にも越えたる国」と言い、「我日本の柱とならん」との「三大誓願」に生きておられるからです。
 だがそうした「日本国」の謗法については厳しい態度に終始されたことを忘れてはなりません。これを別な言い方で表せば、「仏国土」建立という信仰的目標をしっかりと持たれていたからだといえましょう。したがって、日蓮聖人の「国家観」は、決していたずらな国家至上主義に堕ち入ることのないものであるということになると思います。また単純なコスモポリタニズムにも堕すことはないといえると思います。このところアメリカの金融独占資本が中心となり、グローバリゼーションの鼓吹を追風として世界制覇の野望を強めていることや、それを逆手にとった、ネオナチの発生に見られるような国家至上主義の抬頭などを考えますと、今こそ日蓮的国家観の本質を、我々が現代に即して明確に、把握すべき時にあるのではないかと思いますが、どうでしょうか。何故ならば、本宗には敗戦後、平和憲法のもとで消え去らねばならなかった筈の軍国主義的国家観が、教学的よそおいをもって、今なお這い回っているように思えるからです。
 さてここで、もう一点御紹介しておきたいことは、私の友人だった戸頃重基師と高木豊さんの共著『日蓮』(岩波書店)で論ぜられていることですが、『立正安国論』の直筆では、クニがこいの中に「王」とか「或」でなく、「」という字を用いたクニ()という文字が五十二回も使われているということです。このことから推測すると『立正安国論』で言う「国」或いは「国王」「国主」を含めてもよいかと思いますが、それを成立させる基本は「たみ」にあるという意識が底流に存在していたのではないかということであります。「国主」という用語が天皇と執権の両者に使用されていることも、こうした点と関連があるかも知れませんし、「日蓮は旃陀羅が子なり」という出生についての発言も無関係ではないかも知れません。だからこそ、「崇峻天皇は腹黒しき王」とか「僅かな小島の主」といった謗法論を踏まえた最高権力者への厳しい評価が御遺文中に表れ、それが敗戦前に二百カ所以上におよぶ遺文削除事件の要因ともなったといえるでしょう。

    二、浅井要麟師の論文に学ぶ

 ここで昭和のはじめから敗戦までのに日蓮聖人の「国家観」に関する先師たちの見解を知るための資料の一つとして、昭和六年稿の浅井要麟師の論文の一部を紹介しておきたいと思います(註)。私は、この論文は非常に重要な宗門史的資料だと考えるからであります。と申しますのは、昭和六年といえば、いわゆる「満州事変」が起こされた年であり、翌年の上海事変をへて、日本の中国侵略戦争が激しさを増し、言論統制も厳しさを加える時期にあたっていたからであります。
 またこの年に「勅額降賜」があり、それ以後日蓮宗教団の戦争協力姿勢が次第に強められたという歴史的事実があるからでもあります。
 ところで、浅井論文では、次のように論じられております。
   「聖人は当時の覇道政治を非難し、下克上の封建制度を彈劾せらるゝなど、国家の組織制度に就いても言及せられてゐるが、それもこれも正法を確立することに依ってのみ改善せらるゝものと信じられていたのである。法華経を国家の上に確立して、先づその基礎に安定を与えることが聖人にあっては第一義であり、根本問題であった。しかしその実現は容易に来なかった。仏の国として、この日本国に本時の風光を顕現することは国より至難であったのである。そこで聖人は、正法の国、理想の仏国土を建立する為には、邪法の国、謗法の日本国の亡びるのも、また止むを得ざる所とされた」
として、さきに御紹介申しあげた「異体同心の事」の「我が国の亡びん事はあさましけれども…」の一文を引用されております。また次のようにも述べておられます。
   「若しも聖人の用ゐられた日本国の意味を、表面的に理解して、単なる一国家と説くならば、聖人の教えは国家的日蓮主義となって非難されなければならない。宗教に民族とか国家とかいふ境はない。信仰に国境のあったのは、未だ発展の過程にあった民族的宗教、若しくは国家的宗教に限らるゝことであって、過去の宗教のことである。仏教の如き世界的普遍妥当性のある宗教に国境のあるべき筈がない。殊に三界を吾が所有とし、その中の衆生を悉く吾が子とも感じて、慈念止むことなき吾が聖人の救済範囲を東方の粟散国〔ぞくさんこく〕、蔓爾たる日本国民に限るとせば、自らその教えを小にし、聖人無限の慈悲を制限せんとするものである。若し不幸にして吾が一乗同信の信友の間に、かゝる誤謬に陥るものがあれば、あたら閻浮広布の大教を駆って、民俗宗教化せんとするものであって、法華経伝引の将来の為めに良〔まこと〕に悲しまざるを得ない」
と説かれたのち、
   「世界の国々を悉く浄化し、仏国土化することが聖人畢生の願行であり、理想であり、またその広大無限の慈悲を全人類に投げらるゝ所以である。かくて世界の各国が妙法五字の光明に照らされた時、国と国とは分立してゐても、同じ一仏乗の指導に従って、犯すこともなければ犯されることもない。そこには、軍国主義もなければ併呑政策もない。文字通りに相互扶助も共存共栄も行はれる。国内的に四海泰平である如く、国際的にも平和と親善とに充たさるゝのである」
とも論じられております。
(註)浅井要麟稿「日蓮聖人の観たる国家及社会」
    昭和六年十月発行『日蓮主義』第五巻 第十号 御忌号

    三、藤井日達師とのエピソード

 こうした浅井師の『立正安国論』についての見解や、清水龍山師の教学論ともいうべき『偽日蓮義真日蓮義』と題された教学的所見などは、「勅額降賜」の頃を境とし、戦争が激しさを加えてくるに随って立正大学内に押しとどめられ、宗門的現実的には田中智学教学が主流であるかのような様相を呈してきたといえなくはありません。そのためだけとは言えませんが、昭和十六年太平洋戦争に突入するや、日蓮宗はその年の十二月「立正報国会」なるものを発足させ、「内に立正報国、外に立正興亜」というスローガンまでかかげ、「立正安国」を「立正報国」と読みかえて、太平洋戦争への積極的な協力体制をとり、『立正安国論』の客の言葉である「国家を祈りて須らく仏法を立つべし」というほんの一節だけが強調され、「国主法従」的解釈が幅をきかせるようになってきたといえます。しかも昭和十七年に作成されたこの「立正報国」についての檀信徒向け宣伝文がふるっておりますので一寸紹介しておきましょう。それは「立○て命を的に 正○しい信念で 報○いよ皇恩に 国○を挙げて」(○印は私)というのです。
 少し横道にそれましたが、さきに申し述べた『立正安国論』の客の言葉についてここで念のため一言いっておかなければならないことは、これが客の言葉であることは事実としても、その前文には「夫れ国は法に依って昌さかえ、法は人に因って貴し」とある点についてであります。それに関連して一つのエピソードを紹介しておきたいと思います。
 それは、日本山妙法寺の藤井日達師と私との間でやりとりされた「国家を祈りて…」の一文についてのことです。と申しますのは、戸頃重基師や私がこの一節について、「これは客の言葉であって、これを日蓮聖人の真意と解すべきではない」と書いたことについて、同教団の信者方の集いの時に、藤井師が「この頃、立正大学の先生や中濃上人が、『国家を祈りて須らく仏法を立つべし』という『立正安国論』の一節について、『これは客の言葉である』と論述しているようだが、それは読み方を間違えている。これは『国家を祈らんには、須らく仏法たつべし』と読むのが正しい」と法話の中で述べられたという一幕です。私はその場に出ておりませんでしたが、あとでお弟子さん方から聞かされて知ったわけです。それを聞いた時、すぐに気づいたことは、結論は全く同じで、いわゆる「国主法従」でなく「法主国従」だということです。恐らく、藤井師は、この一説の前に「夫れ国は法に依って昌え」とあるからには、「国家を祈りて須らく仏法を立つべし」では文章的におかしいと考えられたのではないかと推測しております。しかし、漢文調文章を、このように読むのは無理があるように思い、一度そのことを問い糺そうと思いながら、遂にその機会を失ってしまい誠に残念ですが、流石に藤井師らしい『立正安国論』の読み方だと敬意を表している次第です。日本山妙法寺僧伽では、今でも、『立正安国論』のこの箇所を藤井師流に読んでおられるようです。日本山妙法寺一山が文字通り不惜身命の国際的唱題修行を続けられている実態を知っている私としては、重箱の隅をつっついたような象牙の塔的論争をする気持ちはありませんが、問題提議のような意味で御参考までに紹介させてもらいました。
 いずれにせよ、心しなければならないことは、敗戦前のように国家至上主義の理論づけに『立正安国論』が利用されるようなことがあってはならないと言うことです。その意味からも、『立正安国論』の「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く、土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん」との結語を充分に身に体しておきたいものと思います。

    四、日蓮聖人の『神祇観』

 ここで、論及しておかなければならないと思われますことに、日蓮聖人の「神祇観」即ち神観念についてであります。『立正安国論』でも「世皆正に背〔そむ〕き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去…」と記されているように、「善神捨国」が説かれ、いわゆる「神天上」思想が示されておりますが、これは「法華経の行者」を擁護する神といった神観を根底とするもので、当時においても一般的神祇観とは、質を異にしていたと言えると思います。鎌倉八幡を諌暁した『諌暁八幡鈔』の表現などは、そのことを如実に示したものと思われます。
 とすれば、明治以降における国家神道的な神祇観とは、全く異質のものであると言わなければなりません。たとえ天皇家の祖先神としての天照大神といえども、「法味をめざる」ならば、その正しい力を発揮できないということになれば、絶対主義的天皇制国家として許し難く感ずるのは当然のことといえるでしょう。
 だからこそ、題目の下に天照大神、八幡大菩薩などと書かれているのは「現人神天皇」の祖先神に対して不敬であるなどといいがかりがつけられ「曼荼羅不敬事件」が惹き起こされたのだともいえるでしょう。
 ここで想起されることは、よく宗教評論家などの中で、「親鸞上人ほど『神祇不拝』の徹底さが日蓮聖人には見られない」といったような批判がなされることについてです。果たしてこうした批判は当をえたものでしょうか。
 そこで指摘しておきたいことは、日蓮聖人の場合、歴史的伝統や慣習について、これを非論理的に全否定するのではなく、かといって無批判に肯定するのでもなく、法華思想を照射しつつ、それを論理的に止揚して受け止めるという他宗派の開祖たちには見られない特色があったからではないかということであります。すでに霊山へ旅立たれた友人の田村芳朗氏などと、「法華経の日蓮的受容」ということを語り合ったことがありましたが、こうした「神祇観」や先に申し述べた「国家観」も、日蓮聖人の法華経思想(とくに「謗法論」)の照射による「伝統的思考の転換的受容」と呼べるかも知れません。この点は、極めて重要な視点であると思います。
 したがって、こうした日蓮聖人の「神祇観」を明確に把握しておかないと、敗戦前に国家神道体制のもとで、民俗宗教に過ぎなかった神道の神々をアジア各国に銃剣をちらつかせながら輸出したことへの批判精神が失われてしまうのだといわなければなりません。
 すなわち、「満州」に「建国神廟」を、中国の北京に「北京神社」を、シンガポールに「照南神社」をいったように、天照大神などを主際神とした神社を建立し、これへの参拝を他民族に強制した「神々の侵略」ともいうべき歴史的事実に何の疑問も抱くことなく過ぎてしまうことになるのではないでしょうか。こうした過去の誤ちをふたたび繰り返してはならないと思います。くれぐれも心したいものであります。(くわしくは拙著『天皇制国家と植民地伝道』参照)
 以上申し述べたような諸点を念頭におくならば、敗戦後『立正安国論』の「国を失い、家を滅せば、何れの処にか世を遁のがれん。汝須らく一身の安堵〔あんど〕を思わば、先ず四表の静謐〔ひつ〕を祷〔いの〕るべきか」といった祖訓などに導かれながら、戦中における本宗の戦争協力についての反省に立ちつつ展開された「世界立正平和運動」について、改めてその成果を学ぶことは大変重要になると思います。そこで最後に、その概略について紹介しておきたいと思います。本日皆さんの御手許に配布されたと思われます日蓮宗人権対策室発行の「人権シリーズ」『環境・平和・人権』の中に書かれておりますので、それを御一読賜ればよいのですが、この『現代宗教研究』誌は、宗外にも読者がおられますので、あえて、ここで「人権シリーズ」と重複いたしますが、人権対策室のお許しを得て、そのままお話しを申し上げることを御許し頂きたいと思います。

    五、世界立正平和運動の提唱

 日本が太平洋戦争に敗れてのち、非戦平和の日本国憲法が制定され、わが国は新生の一歩を踏み出すにいたりました。当時、日本の仏教界は、こぞって「この武装放棄をうたった平和憲法こそ“殺すなかれ”という仏陀の教えにかなったもの」として、心から賛同の意をしめしました。『立正安国』を叫ばれた日蓮聖人を祖と仰ぐ教団としては、当然のことでありました。
 それから約九年後の昭和二十九年三月に起こったのが、焼津のマグロ漁船福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験による「死の灰」を受けたという事件です。この事件が日本国民にあたえた衝撃は極めて大きなものがありました。そうした情勢のもと、他宗にさきがけ、いち早く対応したのが日蓮宗でした。
 昭和二十九年十一月、小松内局は、「世界立正平和」「原水爆禁止」の旗をかかげ、神田共立講堂に三千名の檀信徒を集め「世界立正平和運動全日蓮教徒大会」を開催しました。その発願の趣旨は
 「宗祖日蓮大聖人の立正安国の大誓願を仰ぐ吾々日蓮教徒は、此の時、此の際、戦争の起こらぬよう、惨虐なる爆弾の使用を禁止するため、東西二大陣営の指導者は勿論、世界の識者に向かって、その反省と考慮を促す」
 とされていました。
 この大会では、石橋湛山、椎尾弁匡の二師を招き「平和講演」が行われました。この大会に続き、同年十二月には、福竜丸ゆかりの焼津市で、世界立正平和運動の静岡県教徒大会がもたれ、管長導師による法要のあと、久保田正文、山口喜久一郎両氏による記念講演会が開かれております。
 このような動きを受け、翌昭和三十年六月に開かれた第二臨時宗会で「世界立正平和運動本部」の設置が決定され、いらい約十年間、他の仏教教団の追随を許さない教団を挙げての活発な平和運動が展開され、宗内外に大きな影響をあたえました。中でも特筆すべき活動は、中国人俘虜〔ふりょ〕殉難者慰霊実行委員会という宗外団体への積極的な協力であったと思います。昭和三十一年十月、東京千代田公会堂で、同委員会と立正平和運動本部が共催した中国人俘虜殉難者全国合同慰霊際は、片山哲元首相の祭主、増田管長の導師によって催され、在日華僑かきょうの人たちをはじめ、各方面から多数の参加者が焼香に訪れました。この催しは、戦時中、労働力の不足を補うため、中国人約四万人を強制的に日本へ連行し、炭鉱その他で重労働に就かせ、七千余人を死にいたらしめたという「強制連行事件」の犠牲者を追悼し、そうした戦時中の行為を懺悔する意味が含まれたものでした。そのことは、当日の導師追悼文にも示されております。すなわち
  「祖れ惟〔おもん〕みるに、日中両国の歴史的文化的関係は古くして且〔か〕つ深きものあり。十有三世紀を距る昔から彼我の交渉は度を重ね、密を加え、所謂同文同種、唇歯輔〔しんしほ〕車の間柄にありしことは両国識者の斉〔ひと〕しく認むるところならん。しかるに我が国策の誤るところ伝統の平和を破り、兄弟の親善を害〔そこな〕い、遂に戦火を交え、惨禍を極め、あまつさえ中国人民を俘虜となし、その生命を失わしむるに至れり。中国民衆の怒り知るべく、遺族の悲しみ察するに余りあり。まことに慚愧〔ざんき〕に堪えず陳謝に辞なしといわざるべからず」
 とあるのが、それであります。これが縁となり、国交未回復の時期であったにもかかわらず、秋田県花岡鉱山などで風雨にさらされていた中国人の遺骨を収集し遺族のもとへお返しするという、遺骨送還運動に積極的に参加することになりました。その背景に、中国大陸で行われた日本軍による「南京大虐殺」などの残虐行為についての痛みがあったともいえると思います。こうした懺悔行ともいうべき活動を中国とくに中国仏教協会は高く評価され、戦時中全く途絶えていた両国仏教界の交流に道を開くことになったわけです。敗戦後に日蓮宗と天台山国清寺との交流がいち早く生かされたのもそうした経過があったからであります。こうした積み重ねが、日中国交回復の真の意味での原動力となったといわなければなりません。したがってこれこそ「立正安国」の具体的実践の一形態であったと言ってよいでしょう。
 さてその後、各地で立正平和大会が開かれたり、被爆者援護、原水爆禁止を訴える唱題行脚がくりひろげられております。なかでも、昭和三十八年十月八日から三週間にわたり、青森から東京まで、被爆者団体協議会との共催で行われた「折鶴行脚」は、通過した各市町村で激励とともにさまざまな歓迎を受け、それぞれの市町村住民に大きな感銘をあたえたと報ぜられました。
 ところで、当時の平和本部長であった茂田井教亨師も参加されたこの行脚の趣旨は
 「原爆投下二十周年を間近に控えて、日本国民は今こそ自らの運命に目を開き、あやまちを再びくり返さずまた他をしてくり返させないために立ちあがる時であると思います。被爆者完全援護法制定請願の運動は、被爆者の方々を救う道であるとともに、われわれが、われわれの運命を切り開く第一歩でもある」
とされていました。ここでは「被害者の方々を救う」と表現されていますが、厳密に言えば、被爆者の苦しみを自己の苦しみとして受けとめる「同苦」の精神を根底としなければなりません。日蓮聖人の説かれた「一切衆生の同一の苦は、悉く是日蓮一人の苦なり」との『諌暁八幡鈔』の御文を排すれば、その思いは、いちだんと強まります。それはそれとして、生き残った被爆者たちは、今なおその後遺症に苦しみ続けております。にもかかわらず原水爆はまだこの地球上から消え去ってはおりません。『立正安国』を宗是とする私どもが、この現実を厳しく受けとめることなく無関心でいてよい筈はないでしょう
 とすればこのように、世界や日本の現実と厳しく向きあうこともなく、「立正安国」とは何ぞやとか、「立正安国」の「国」とは何ぞやとかと、いかに論じて見ても、それは日蓮聖人の「我不愛身命、但惜無上道」の「立正安国」観に肉迫することにはならいということを申し上げておきたいと思います。したがって、『立正安国論』を現代に読む道は、これまでに御紹介した世界立正平和運動の成果をいちだんと発展させることを柱としなければならないと思いますがどうでしょうか。

    六、『立正安国論』の一節による現代世相批判

 ここで最後に、『立正安国論』の一節の中から、余りにも現代の危機的情況にとって適切な批判になっていると思われる箇所の二、三を提示し、御参考に資したいと思います。
 (1)環境・地域紛争問題への基本姿勢
  「其の国土に於て此の経有りといえども、未だ嘗かつて流布せず…暴雨・悪風時節に依らず。常に飢饉に遭うて苗実も成らず。多く他方の怨賊有りて、国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地に所楽の処有ること無けん」
(『金光明経』からの引用)
  「仏法実に隠没せば…諸の善論当〔そ〕の時に一切尽きん。…諸有の井泉池も一切悉く枯涸〔こかく〕し、土地悉く鹹鹵〔かんろ〕し…諸山は皆憔燃して、天竜も雨を降らさず、苗稼皆枯死し、生ずる者皆死〔か〕れ尽し、余草更に生ぜず」
(『大集経』からの引用)
 とありますが、これは他経からの引用とはいえ、日蓮聖人の考えを示したものであると思われます。この指摘は、まさに今日の地球的規模での環境破壊、アフリカなど中近東諸国での地域紛争に対するわれわれの基本姿勢が示されていると思えるがどうでしょうか。
 (2)政・官・財癒着への批判
  「法師は諂曲〔てんごく〕にして、人倫に迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」
とあり、ついでに
  「仁王経に云く、諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。其の王別〔わきま〕えずして此の語を信聴し、横〔ほしいまま〕に法制を作りて仏戒に依らざらん。是を破仏、破国の因縁となす」
 ここでは、「法師」「悪比丘」となっていますが、それとともに、現代では、それをより一般化して、悪知識と考えれば、まさに政・官・財の癒着した政治体制への痛烈な批判と受けとめられはしないでしょうか。とくに「横に法制を作りて仏戒に依らず」とは、国会において国民生活の窮状に目を覆うて、福祉予算の切り捨てなどにより、老後の不安を高めるような法律を制定したり、日本国憲法の平和原則をないがしろにして、日米軍事同盟の強化体制につながる法体系を整備するといった現状は、まさにこの指摘の正しさを示しているといえないでしょうか。また、あえていえば、ある宗教団体のように、政治集団化して政治活動にうつつをぬかす指導者たちの言動も、ここでの批判に該当すると考えられはしないでしょうか。
 それとともに
  「正法滅して後、像法の中に於て、当に比丘有るべし。像〔すがた〕を持律に似せ、少〔わず〕かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養〔じょうよう〕し、袈裟を着すといえども、猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」
という比丘批判の一文を拝すると、わたしどもを含めて・文字通り今日の伝統教団全般の或る部面に対する頂門の一針だといえるように思います。
 (3)人身を惑わすカルト宗団への批判
  「有〔あるい〕は秘密真言の教に因りて五瓶の水を灑〔そそ〕ぎ、有は座禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、若しくは七鬼神の号を書して千門に押し…若しくは天神地祇を拝して、四角四堺の際祀を企て、若しくは万民百姓を哀れみて、国主国宰の徳政を行う。(ごとくにして−筆者)然りといえども唯肝膽を摧〔くだ〕くのみにして、弥飢疫に逼る」
 この一節は、まさに現代の霊感、霊視商法宗団への批判であり、いたずらに脅迫的終末論を振りかざすカルト宗団への厳しい批判であるとも受けとめられるように思います。
 以上、『立正安国論』について、さまざまな角度から私見を述べて参りましたが、本日御参集の諸兄が、今後いちだんと掘り下げて御研鑽下さるよう御願いして私の発言を終わりたいと思います。(拍手)

このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.