日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第33号:235頁〜 |
第三十一回中央教化研究会議 |
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基調講演(1)
戦後日本の国家意識と立正安国の実践思想
伊藤瑞叡
(文学博士 立正大学仏教学部教授)
伊藤瑞叡でございます。戦後の困難な時期から今日に至るまで、宗門において、『立正安国論』の実践的な活動をされて今日に至られました中濃教篤先生と、数代若い私とが、共に大聖人の『立正安国論』の実践的な思想のそれぞれの方面の可能性ついてお話をさせていただく光栄を得まして、まことにありがく存じます。時間がありませんので、目次に沿って、資料テキストの一部をかいつまみながらお話し申し上げます。
まず私の資料は左側の上の方にページ数をふってあります。それに基づいてページ数を指摘させていただきながら進行させていただきたいと思います。
平成五年五月、防衛庁の防衛研究所で司馬遼太郎氏が講演を行いました。そこで彼は、大正時代に非常に有名だった英国の女性ジャーナリストの言葉を引いて次のように指摘しております。その女性が昭和二年に横浜から日本を去るときに日本のジャーナリストにいった言葉です。
日本は滅びるでしょう。日本という国は比較ということを知らない。もう日本に長くおりましたからわかりました。日本人は比較ということを全く知らないのです。
我国は明治以後、比較し接受することによって、日本の伝統的な文化を維持しながら、欧米の文物を摂取し近代化して今日に至った。そしてある程度の繁栄を得ているのですが、英国の女性ジャーナリストがこのように言ったことを、非常に司馬遼太郎が心配したということでございます。
大聖人の『立正安国論』を拝見いたしますと、危国、国が危うくなる。破国、国が破局に向かう、亡国、そして国が滅亡する。これに対して正法を建立して国家を安穏ならしめることが立正安国であると知られます。
戦後、私ども日蓮門下は、ある程度、国家に対する関心と、大聖人の実践的な理念および思想、およびその原理とを、どのように理解しておかなければならないのかということで悩んできたわけです。
一、「立正安国論を現代に読む」の学から「立正安国論で現代を読む」の学へ
『立正安国論』を現代に読むということでは、いろいろな問題の局面があります。「立正安国論と現代の世界および日本」、「立正安国論と現代日本の宗教意識」、「立正安国論と平和運動の思想」、「立正安国論と英国の衰退および再生」、英国が衰退して再生したということでありますが、実は英国の寡頭権力が世界を今なお支配しているらしいのです。英国の衰退および再生という問題などなど、そして『立正安国論』の思想的意趣とその現代の意義というような問題を考えるのが、「立正安国論を現代に読む」の学でございます。
「立正安国論を現代に読む」の学の実践的な方面は、平和運動の思想と、あるいはその実践ということで、中濃先生がお話しして下さると存じます。
「立正安国論で現代を読む」の学。『立正安国論』を正しく理解することによって、現代を分析して、現代のありうる方向を考えてゆくのが、『立正安国論』の学としての「立正安国論で現代を読む」という学でございます。では、その学はどのような問題を問題とするべきかということでございます。
そこに私は「宗教地政学とは何か」という書物を書きまして、その目次を示し、『立正安国論』の学の立場からみて、我々が着目をし、考し、思案し、解決し、提案しなければならない諸問題を提示して、それらについて考察してみたわけであります(三ページ)。
二、かかる立正安国論の学より見たる諸問題は如何
どんな問題があるかと申しますと、まず第二章、「日本仏教および日蓮法華宗の現状と当為」です。日本仏教、日蓮法華宗の現状、そしてあるべき姿を考えなければいけないということです。
それから第三章、「日蓮法華宗における海外布教の基本精神」(四ページ)。二、「日本文化・仏教文化の位置と特徴を熟知すると同時に、布教対象国の文化・宗教(殊にユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の位置と特徴を学習する」、そして我々は知っておく必要がある。知ることによって自分が何者であるか、自分の宗教は何ものであるかという、自己存在証明としてのアイデンティティーを確認する必要があります。
それから第四章、「戦後日本の国家意識と立正安国の実践思想」、今回はこの点について多少お話しをすることにいたします。
第五章は、「市民国家と市民宗教と立正安国の実践思想」。市民国家と市民宗教と立正安国との関連をも我々は考えておかなければいけないのです。
第六章、「政治学上の国家・政治の概念と立正安国の実践思想」。
第七章、「日米国力の比較対照と立正安国の実践思想」、別に米国だけではありませんで、殊に米国を代表として選んだわけです。
第八章、「国民国家の主権構造と経済的な相互依存関係」、いろいろな国際主義、グローバリズムが今問題になっておりますが、そういう問題と健全なナショナリズムとの関係、ユニバーサリズムとナショナリズムとの関係というような問題も、立正安国のシステム体系ないしシステム原理から考えておく必要があります。
第九章、「自由主義と社会主義とにまたがる民主主義の本質と、儒教道徳と、法華仏教」、自由主義であろうが社会主義であろうが、どちらも民主主義ということを主張します。その民主主義の本質は何か。それと儒教道徳、法華仏教、民主主義のポイント、法華仏教との対比、そういう問題があります。
第十章、「自由主義社会と宗教との関係と立正安国思想」、という問題も考える必要があります。
第十一章、「民主主義の過剰と文化伝統・宗教道徳と立正安国思想」、自由主義の中には弱点がありますが、そういうものをどうやって補強するかという問題もあります。
第十二章、「自由主義の欠陥と宗教的道徳と立正安国思想」、そういうことも考えなければいけない。
第十三章、「自由主義国家の不安定要素と安定要素と法華仏教における護持正法(受持正法)の精神」、リベラリズムとかヒューマニズムとか、いろんな問題がございます。最近ではマルクス経済学者が、フランス流のレギュラシオンの学派の経済学に移行しておりますが、それは一体背後にどんな問題があるかということもとらえておかなければならないという問題もございます。国際化が叫ばれておりますが、インターナショナライズ、インターナショナリズムのいかがわしさ、これも要注意です。
第十四章、「文明の衝突と立正安国思想のシステム原則」、これは今文明の衝突ということがハンチントン教授の『フォーリン・アフェアーズ』という米国CFRの論文集、世界戦略の発表論文ですが、そういう問題が五年ぐらい前に非常に問題になったのです。けれども、最近またぼちぼちこれが問題になってきております。そういう問題も考えなければいけない。
それから第十五章、「立正安国のシステム原則」。第十六章、「悪鬼魔縁と諸宗無得道」。大聖人は悪鬼、魔縁を指摘します。諸宗無得道が大聖人の主張ですが、安国論でいうところの魔縁とは、現代においては一体何がそれなのか。念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊とは現代においては一体どのような思想や潮流や、あるいは生き方、組織勢力、これにあたるのは何かというのを、これを比定し、確認し、対処するという立場です。そういうことも考えなければいけない。
それから第十七章、「新時代における日本国の目標と護持するべきもの」、新しい時代がまいりますけれども、それは不幸な時代になるかもしれませんが、そういう場合に、私ども日蓮門下や、日本国の目標、守らなければならない、護持するべきものは一体何か。平和の条件としての戦争原因の研究も必要です。
日本の新時代において、護持正法、正法を保つことと同時に、保たなければならない文化とか伝統とかは何か、あるいは克服しなければならないものもあります。そういうものを考えておかなければならないのではないかということです。
三、かくして宗教地政学の提唱とその観点と方法を明示する
かくして宗教地政学を私は提唱し、その観点と方法を明示しなければならないと思うのです(八ページ)。 大聖人は他国侵逼の難と自界叛逆の難を、いつの社会、国家、世界においてもありうることとして、それを指摘されております。
他国侵逼のありうる形態は(八ページ上)、他国に対する宣伝的占領、心理的な占領、言語的占領、イデオロギー的占領、宗教的占領、軍事的占領、法律的占領、政治的占領、人材的占領、儀式的占領、文化的占領、情報的占領、金融的占領(これは今問題になっていることですが)、エネルギー的占領、食糧的占領などがありうるわけです。世界史の過去の事例が多くそれを示しております。
そういう中で宗教的価値、道徳的基準を再確立して自ら確固として対応する必要があります。
日蓮聖人の立正安国の実践的な哲学を、要約して現代化して申しますと(八ページ左上)、「正法(=価値体系)を法律の根柢にあるものとして建立(=再構築)して(それにもとづいて国家国土国民の安全保障政策を最適正に策定し)国家を安穏ならしめる(=国家の目標を樹立し安全保障を実現する)」ことを意味するということができます。
要点を申し上げますと(八ページ左下)、立正安国論の内容のもつ現実に対する批判・実践的な方法・理想目的を比較の基準として、現代の国際関係や現代の国家状況を分析し、諸種の動向を洞察して正法治国の実践方法を提言してゆくのが、「立正安国論で現代を読む」という学であると思うのです。
次に、そういう学の観点と方法について申し述べたいと思います(十ページ左)。
『立正安国論』をその内容の偶有的な属性を排除して、根本的な属性のみを抽出しまして、その内容関連の構造を摘示しますと次のようになります。ポイントです。
一、万民に普遍する願望、すべての人の望むこと、それは天下泰平・国土安穏である。
二、すべからく仏法を立つべしということによる国中安穏、国家を安穏にならしめる。このことは何のために国家を安穏にしなければならないか。万人に崇仏信法、仏を崇め、法を信じ、成仏を可能ならしめるためだ、ということです。
三、当日本国の現実様相に対する洞察的な批判。大聖人は、当時の日本国家の現実の様相に対して洞察的な批判を加えました。
そしてセクション四は(十一ページ右下)、理想実現のための具体的な実践方法を示しておられます。ご遺文を抽出しておきました。すでになじみのあるご遺文でございます。理想実現のための具体的な実践方法、(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)と示しました。
正道の侶を重んずる。すなわち国家に諫臣・争子であるところの正道の侶、激切をもって国家を諫暁する正道の侶が必要であります。正道の侶を育成するためには、教育が必要です。
一闡提の施をとどめるということをも説いておられます。悪しき宗教の資金源を断てということであります。
五、各個々人(殊に為政者)の速帰実乗とその理念的な帰結。すなわち信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。さすれば仏国であるということです。
結論をお話ししておきますが、人間の倫理、大聖人のおっしゃる人倫がそれでごさいます。それから環境に対する人間の対応倫理、人間の倫理と環境の倫理の教育というところに収束するのが、私の結論です。人間倫理、そこにはバランスのとれた人権とか人間の義務とか、そういう問題もでてまいりましょう。それから環境、まことの環境、十界互具の正依の二法の中の、十界依法、依法としての器世間、衆生世間ないし国土世間これはいずれもサンガ、平和な共同体としてゆかなければならないわけであります。
今、五項目にまとめましたけれども、これが立正安国思想の内容構造を構成している基本命題でございます。それらの構成諸要素における倫理的正当性のある理念(イデー)や目的合理性のある論理を、私どもは内外の現状、正依の現況を分析し、それに対応するための観点、すなわち『立正安国論』の学の観点とするべきである、と考えます。
四、しかも誤読をしないための立正安国思想のシステム原則を確認すべし
すなわち今指摘したことが、立正安国思想のシステム原則です。『立正安国論』を誤読しないために、立正安国思想のシステム原則、全体の根本的な原理原則、諸要素の体系を、本質を看過することなく、全体として把握しておくことが我々の使命であると思います。
そのようにして我々は、自国と他国における国際関係・政治経済・社会文化・伝統宗教・兵制軍事・金融情報・学術教育などの現実的と戦略的との各動向を認識し、問題点を洞察して分析する、そしてそれに対処するという姿勢が求められるのではないか。
ために大聖人の宗教体系を定礎する五義、五綱教判の五義、教・機・時・国・序。教(=道徳・宗教・倫理・哲学・イデオロギー・芸術)、機(=住民・人種・民族・言語・伝統・習俗・儀礼)、時(=政治経済・法律軍事・産業金融・技術情報など、時代社会の諸要件の現状)、国(=拠点・土地・地理・地勢・風土・気候・植物・動物)、序(=歴史文化・社会組織・政治形態・法律制度などの経過・先行の形態ないし現状)を必要に応じて諸考察の対象にするという注意力、先見的予知機能、危機管理能力、全体的システム構築の智巧性、すなわち日蓮聖人の本化別頭の思考方法、浅深勝劣、当分・跨節を弁別するという大聖人の思考方法を、まずもって私どもは今後の人間民族・国家社会、世界人類を考えていく必要があるではないか。
理念的には大きなことを申し上げましたけれども、これは実行となるとなかなか難しいと存じます。一応原理的な、原則的なことを、そのようにとらえておく必要があるのではないか、と思います。
五、しからば、聖祖による宗教の社会に対するサイバネティックス・モデルは如何
では、大聖人による宗教の社会に対するサイバネティックスモデル、サイバネティックスとは制御関係、宗教と社会の関係、日本人は宗教に対して非常に無意識過剰です。仏教徒でもキリスト教の結婚式をして平気です。しかし宗教と社会との関係には、非常に制御関係が強力にあるということであります。
日蓮聖人の当時における宗教に対する制御関係のお考えをまとめてみますと、次のようになります。
宗教は政治態度(国法規範=法律ないし裁判過程を含む)を制御している。そんなことは日本にはないと皆さんお思いでしょう。しかし裁判官の中にクリスチャンがおりますから、今みても、あくまでそれはクリスチャン的な裁判をやっておりますよ。それから宮内庁の六〇パーセントか七〇パーセントはクリスチャンだという情報もあります。神道の人々ではございません。仏教徒は非常に宗教に対して無関心過剰ですけれども、他の宗教は全然違います。少しは心配した方がよいと思われます。
元へ戻ります。
宗教は政治態度を制御している。政治態度は社会国家を制御している。かくてこのような二重制御のメカニズムを通じて、宗教は、社会国家制御として機能する、はたらくのだ。表にでてきません。しかし内在的、潜在的には非常に強い力をもって動くのです。
社会国家は秩序を保持して、国土安穏とならなければならない。社会国家は秩序を保持して国中安穏でなければならない。自叛・他逼は当然ありうることであるから、それを未然に防いだり解決するために政治態度があるのだ。
この政治態度を秩序あるものにするために、これをコントロールする倫理的正当性としての規範を与えるものとして宗教がありうるのです。
だから政治態度を秩序あるものとするために、これをきちんとコントロールする、制御する倫理的正当性としての規範が、大聖人は正法でないとだめだよという立場なのです。それが念仏であったり禅であったりしてはいけない。
宗教の本質は、このように二段階、三段階に社会国家を制御しつつ、その根柢にある、法律の根柢にあるものとしての規範でなければならない。それは最終的には立正、正法、一妙三秘でなければならないのです。
ところで、宗教の目的は成仏、この場合の宗教は仏教にいたしますが、仏教の目的は浄仏国土、衆生皆成であります。現代語化しませんで、一応、仏教用語を使用しますと、浄仏国土、衆生皆成である。そのためのシステムをシステムたらしめている特徴としての構造をもっていなければいけないのに、しかるにその構造を法華経以外はもっていないではないかということです。
衆生皆成と、例えば今回も中濃先生が環境問題とか平和とかいろんな問題を問題にされましょうけれども、そういう問題のために、このような会合を開く宗教なんて、日本の他教団ではありません。
私どもの宗門には、やはりこういうものを開くというところに、もうすでに内面的に浄仏国土、衆生皆成でなければならない、という仏教の本来の目的に対して姿勢が顕現しているわけです。
そういうものを可能にする構造を、本来仏教はもっていなければいけないのです。
しかるに仏教の構造を、その変数である教・機・時・国・序の五綱より見るならば、諸宗の機能をそれによって批評すると、諸宗は機能不全に陥っており、しかも機能万全である法華経の正法を誹謗しているから、仏教の目的である衆生皆成・浄仏国土を成就することはできない。
何を成就しているか、仏教を利用して自分たちの生活や勢力を成就していくわけです。したがって、無得道・堕地獄だというのが、日蓮聖人のお考えでございます。
これは今、日蓮聖人のご思想の全体を、『立正安国論』を中心として、宗教と社会との連関を制御関係のモデル構造として再構成していきますと、このようになるということであります。
要するに日蓮聖人の批判主義には、戦後社会科学の業績の非常に大きな業績でありますが、パーソンズの社会システム論でいう構造・機能=分析に合致するような方法が、本化別頭の思考方法の中、分析方法の中、批判洞察力などに見られる、ということでございます。
六、立正安国論の思想における国家とは何か
『立正安国論』の思想における国家とは何かという問題です(十五ページ)。世界におけるいろいろの国家論を立正安国の立場から検証してゆく、あるいは同時に『立正安国論』の内容を確認してゆくことが必要です。西欧の国家論のいくつかと比較ということが必要です。国家権力と正法、仏法、その他の諸宗教の関係、こういう問題もあります。
立正安国思想における国とは何かと申しますと、大聖人の御妙判をいろいろ拝見いたしますと、現代でいう国家機構を強調する意味をもって使用されるステート、国家の意味が一つ見出されます。これはシステム原則の中の(2)の(a)、の言葉などはそうです。
それからもう一つは、現代でいう人口を強調する意味をもって使用されるネーション(国民)をも意味します。(1)の(a)、(2)の(c)がそれです。大聖人は、いずれまた中濃先生がご指摘されると存じますが、くにがまえの中に人民の民という字をいれた文字を対応されていますが、それはまさしく国民を意味する意味での国家です。
さらには田園とか国土を含む、現代でいう地理を強調する意味で使用される。これは(2)の(a)・(b)等に示されておりますが、カントリー、国土をも意味しております。
すなわち(十六ページ)国土だけに限定してみるとか、ある先生が、その場合の国は鎌倉地方だけだとおっしゃっていましたが、そんなことはないので、ネーションとステートとカントリーとが渾然一体となったものを日蓮聖人は意味されております。そのときどきの場面に応じて、ネーションの面が強調されたり、ステートの面が強調されたり、カントリーの面が強調されたりされますけれども、一体となったもの。さらに歴史とか伝統とかをも含んでおります。
そういうものが日蓮聖人の国という概念になっております。故意に誤読するのはよくありません。
七、しかるに現代日本人の国家意識は
それに対して現代日本人の国家意識はどうか。例えば『教機時国鈔』などに、「仏教は必ず国においてこれを弘むべし。国には寒国・熱国・貧国・富国……」、寒国・熱国となりますとカントリー、貧国・富国となりますと、ネーション、「中国・邉国・大国・小国」、それから「一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国」、こうなりますとステートの意味が、国民国家の意味がでてまいります。民族国家とか、あるいは国民国家とか、いろんな意味がそのときそのときに応じて含まれております。これは大変な見識であります。
現代日本人の国家意識はどうかという問題に移らせていただきます。国家意識は、近代国家が形勢されてからできたものですから、近代の意識であるということができます。
ポイントだけお話しいたします。ですから、近代国家というものは抽象的です。教育によらなければ十分に形成できないものです。ですから、アメリカなどは、常に国家、国家といって、国旗を学校の教壇にまで、いつも国旗を立てています。ところが日本の国は、いろいろな多民族国家ですけれども、コロポックスとかアイヌの方々とか、いろいろおられますが、私なんかにもアイヌの血が、シュメールの血も、ひょっとするとおそらく流れていまして、あるいはそれが主流だったのかもしれませんが、いつのまにか混血しまして、欧米に比較しますと、国民の大部分が一応、一民族・一言語・一文化という統一性の中にありますので、西欧に比較しますと、意識的な努力をしなくても自然な形で統一を可能にしてきたということです。
これに対して古代ギリシャは分立国家であり、アメリカ合衆国は多民族国家というより、むしろ人工的に無理に作った国家です。ですから国家の統一は自然発生的にできるものではなく、意識的な努力をする必要があるのですが、日本の場合はそういう意識的な努力が必要なかった。けれども、明治以後の欧米列強に対して植民地化されないために意識的な努力をしたのです。
家族は不文法的な存在ですが、それに対して国家は、成文法によってできているという体系で、欧米の思想では国家と家族とは対立してきたのであります。
しかし、家族と国家を対立的なものとはっきり区別したのは、ギリシャではアリストテレス、ドイツではヘーゲルであります。
日本人の国家意識は、国家という名称をみてもわかりますように、対立すべきものではなく、国という家、国を家と考えてきた。本来は国に家は対立するのに、日本では両者が一体化してゆくという点に特徴があります。日本人の国家意識は国家という名称がそうであるように、対立すべき両者を一体化して考えるところに欧米人の国家観と根本的に違う、家族国家観であったわけです。
家族を人間生活の究極の根柢にあるものと考えて、しかも国家モデルを家族と考えたわけです。国と家族の両者を矛盾のないものとして連結し、これを合同できる関係であるとみたわけです。このような見方は日本人の生き方であり、一つの特有の文化でありますが、そういう文化が欧米列強からみますと、気にくわないから構造改革をせよということになってまいります。
皇室は、あるいは天皇制は、家族としての国家を端的に表現するものだった。そこで天皇を国家の一つの機関として理解しようとする「天皇機関説」というものが、欧米流の考え方によって、解釈学として憲法学の上で主張されたわけです。
しかし敗戦と同時にいわゆる天皇制は崩壊し、それから家族国家観も否定されたのです。目下、日本の人々は国家意識を変えた形で、家族や職場への忠誠心をもつという形で、国家成立以前の意識にとどまっているという現状であります。この国家の抽象的な一面を取り出すときに何がでてくるか。それに対して契約的な構造のみがそこにでてまいります。これが有名な「社会契約説の国家観」となります。国家を個々人の利害に関係させて考える考え方です。(十七ページ)。
自由主義とは、個人的自由の領域を大きく確保して、国家の保護や干渉を最小限にとどめたいとする立場です。そこで国家の権力とは何かといいますと、一つには強制力です。これを契約説をもとにして考えますと、各個人が自発的に自己の自由を制限して、その行使を国家に譲りわたしたということに由来するわけです。
ですから、人々は国家権力に対して、一面では反発し、他面では信頼するという矛盾した考えをもつに至りました。あっても困るし、なくても困る。一面では反発し、一面では信頼するという矛盾した形を余儀なくされています。
その反発するべき被害者意識を理論化したものの究極にあるものが、「階級的国家論」です。それは社会主義革命によって生産手段を公有あるいは国有にし、最終的には階級支配の道具である国家の消滅を希望するわけです。
国家は自然的側面として家族と共通するところをもっている点は重要です。しかし同時に合理化される側面として、その成立時においては社会契約説が教えているように、計算ずくの利害関係をも含んでおります。いずれにせよ国家は私どもの生存上の必要によって生まれたものであり、その目的は私どものよき生活のためであるという点は重要です。
それが私どものよき生活のための道具としての国家、あるいは伝統文化を継承しながら歴史を共有するものの、先祖がつくり、我々が育成し、そして未来の子孫に譲るという共同経営としての国家、そういう本来あるべき国家目標の認識、それがだれの道具でもない、国民全体の福祉のための、すなわち崇仏信法、仏を崇め法を信ずることのできる基盤としての国家、そういうところに国家目標の認識がなければならないし、それが真の国家認識だということになると思います。
八、しからば立正安国論における国家目標は何か(十七ページ)
日蓮聖人のお考えをみたいと思います。正法を建立して国家を安穏ならしめることは、正法をすべての法律の根柢にあるものとして、世俗法の根柢に聖なる正法がなければならない。倫理的正当性としての道理をすべての人々が受持し、これを国家の根柢に受持し定着せしめることによって、国家を安穏ならしめるということです。
それは国家目標のためです。『立正安国論』でいう国家目標とは、国土成仏と衆生成仏です。国民の幸福と成功、すなわち成仏のために、正法を国民生活の中に定着せしめるべきであるというのです。正法を建立して国家を安穏にすることが、国民を成仏(常・楽・我・浄)を可能にするというのです。国民の自覚的で至福にみちた生活に国家目標をおくべきである。国家を安穏にすることの目的は人々をして、仏を崇め、法を信じ、仏たらしめるためであります。
国家は経済の上にもたちますし、民族、文化、歴史と結びついてもおります。国家は教育の責任者ともなるべきものです。国家は公共性という総合統一性をもっております。その向かう方向が国土成仏、環境保全、衆生成仏、人間それぞれの自由・責任・権利・義務、そして衆生の人々の福祉、そのためにこそ立正安国、国家目標がそこに認められなければならないということです。
「国を失ひ家を滅しては、何れの処にか世を遁れん」、民族が離散国家になってしまったら一体どうなるか。自由貿易、国際化の名のもとに、経済の植民地化が行われていて、いつのまにか、何者かによって支配される国民離間の名目国家になってしまったらどうなるか、という問題もございます。
九、戦後日本に流行した二つの国家観、その特徴は
ポイントだけ申し上げます(十八ページ右)。一つはマルクス主義の階級国家論です。もう一つは自由主義左派の功利主義的多元的国家論です。マルクス主義の階級国家論と多元的国家論とに共通するものは何か。市民社会が主であって、国家は市民社会から派生したものであると短絡化して考えることです。
つまりマルクス主義の国家論は、階級というものをとらえています。それは非常に洞察された見解ですが、しかし民族や歴史や文明を視野に入れていないのです。マルクスがなぜ民族とか文明とか文化を視野に入れなかったか。大きな理由があります。本人はユダヤ民族として団結しているのです。研究して下さい。
ソ連の解体以後、民族問題が噴出しているのは皮肉な運命であります。ハンチントンが二十一世紀には文明の衝突が行なわれるだろうという。行なわれるだろうというのは、行わせようということかもしれません。それが彼らの戦略かもしれません。もうすでに行われております。ソ連の解体以後、民族問題が噴出してきた。中国においてもチベット問題がある。背後に何がはたらいているか。
もう一つは自由主義左派の国家論です。非常に合理的にみえる国家論です。これも民族という事実が欠落しております。
民族自決という観念が、逆に共産主義イデオロギーになって取り込まれてくるという、アジアにはそういう矛盾した形がありますが、それは矛盾なのかどうか。そういう問題にならざるをえないところに、民族があるのです。
民族というものをもう一度考えてみますと、親から子へ、子から孫へというふうに、るいるいと受けつがれてゆく文化とか伝統とか歴史とか言語とか宗教とかを共有する共同体です。運命共同体です。ヴェーバーの言葉で申しますと、「ゲマインシャフト」として、それが存在します。
そういう戦後の二つの国家観は運命共同体として現存する民族という事実としての実体をとらえていなかった。あるいは故意にとらえなかった。意図的にとらえなかったという問題があります。それをすべて、市民とか社会とか階級とかに還元してしまった。ある意図があってのことです。
しかしそれをうまく調整することはできませんでした。それは体制なり何なりを破局へ向かわしめる原動力になってしまいました。
市民とか社会とか階級とかが強調される。市民社会、コスモポリタニズム、国際主義、ニューワールド・オーダー、グローバリズムになったら、国際的な金融・経済・法律・エネルギー、あらゆるものを支配しているそういう寡頭権力がローマ帝国がそうであった如くに支配することになりますから、グローバリズムとか、ニューワールド・オーダー、新世界秩序、新世界権力構造というものは、実際には非常に危険なものと考えおくべきものです。そういうところに流れていく端緒になりうるのです。
かくして国家の解体することを覚悟しなければなりません。さもなければ、党員とか官僚とか軍人とかの特権支配階級による統制によって、そういう社会国家が維持されなければならないということになってしまうわけです。
私ども戦後の国民に大きな影響力を及ぼしたのは、自由主義左派の功利主義的国家論であります。第二次世界大戦後、欧米の思想界に登場した多元的国家論と同じ性格のものです。
多元的国家論は、国家は一つのアソシエーション、結社とみる見方である。国家は協会とか労働組合とか企業や団体とかと同質のものにすぎないというわけです。国家の中にアソシエーションがある。そのアソシエーションが国家を世界的に共闘する。すると国家は内部より解体します。そのアソシエーションが国家を世界を支配する。そういうことだって可能性としては考えられないわけはないのであります。
そういう戦後の国家観の上に立って日本人が進めてきたことは、国家目標は利益社会としての利益誘導の社会であるという考え方です。経済先行の社会になってまいります。すなわち最終的には、エコノミック・アニマルといわれるような経済原則だけが先行する社会になっていく傾向になるわけです。投機社会となり、バブルとなります。
そうなりますと、最後に経済戦争が起きまして、経済戦争に破れますと、経済植民地になってしまう。経済植民地になっても、自分たちは植民地化されたという自覚は全くない。世界市民でコスモポリタニズムで国際主義者だという、堂々とした自由な自分だけが確かめれらるという喜びにひたっているにすぎない。そういう無意識のマインドコントロールされ家畜化された存在になりうる可能性が多いのです。
十、かくして戦後日本の危機的現状は顕露となる(十九ページ)
戦後の日本の危機的状況は一体どこにあるのかを考えてみたいと思います。国際社会とかコスモポリタニズムとか国連中心主義といった議論が非常に華やかであります。国連に対しては絶大な信頼をもっておりますが、私はこれはクエスチョンマークだと思います。
国際社会は実は最終的にはエゴの国家間における国益の交渉関係の中にあります。各企業の経済活動を成り立たせている競争市場体制を直接に防衛するものは何かと申しますと、実は国家という体制です。国家という体制によって住み分けしているわけです。この住み分けの枠がなくなると、一たん解体しますと、回復力がなくなってしまいます。
知識人は一般的に文化国家、宗教家も文化国家の建設を叫びます。国家の実態は文化国家なればこそ、実は野蛮国家や謀略民族に攻め滅ぼされたという事例が世界史の中に多く見られるわけです。
経済的成功を可能にする競争市場体制を防衛しているものは、直接的には力としての国防体制です。これも事実であります。経済的合理主義によって成り立っている社会構成を防御する力は、実は住み分けを可能にする諸要素によって出来上がっている国家以外にはないのが現状です。
日蓮聖人の『立正安国論』におきましては、国家の破局のありうる様式が二つ提示されております。
一つは他国侵逼の難です。もう一つは自界叛逆の難です。
国家は他国の侵略を誘発するような国家になってはならないのです。
そのためには本当の意味で国民の崇仏信法を可能にする安穏なる国家にしなければならないのです。そのためにいろんな運動があるわけです。
それからもう一つは自界叛逆の難です。
国家は他国の侵略を誘発するような国家になってはならない、自界叛逆の難を起こすような国家にならないように、国家を改善する必要が常にあるわけです。
階級闘争とか武力闘争とか宗教反乱を誘発するような国家運営を、国民も為政者もなしてはならない(二十ページ)。なすことを克服するような国家運営にするためにこそ、国民の間に正法の建立が必要であるのです。
対立の克服、日蓮聖人が示される自界叛逆の難の克服、いわんや自国から他国を侵略するなどはもってのほかだとなります。ために立正安国でなければならないのであります。
国民が理念と倫理を正法の道理に基づいて確立する必要があります。これは政治家においても宗教家においても経済人においてもこれが必要です。
教団自体が精神の自壊作用をあらわすような教団になってはならない。自らに理念と倫理を正法の道理に基づいて確立する。
十一、そこで立正安国思想における正法の原理的意義を把握する(二十ページ)
ではその正法とは何かという問題になってまいります。そこで立正安国思想における正法とは何か。正法の原理的な意義を把握したいと思います。詳しくお話しする時間は、小生、幼名が「進」でしたので、時計も進むことになってしまいました。あと十五分で何とかまいりたいと思います。
絶対的な妙法、理念と倫理の根柢に善悪不二、邪正一如の妙法がある。その妙法という絶対的なものが相対化したときに正法となります。ですから、正法に対しては邪法という相対化されたものがあります。そういう邪法を破折し克服するはたらき、機能、力用を、正法は発揮する。妙法が正法となって発揮する。発揮するのだけれども、正法は根柢において、邪正一如、不二一体の妙法ですから、愛情と同情、慈悲心をもっておりまして、正法としてはたらくのだけれども、邪法をみずからの中に含んで、それを浄めてゆく、浄化してゆくような弁証法的な止揚のダイナミズムをもったものですから、徹頭徹尾永遠の地獄というようなユダヤ・キリスト教的なものはないのです。弁証法的なダイナミズムをもっているのです。
したがって正・法・は、邪法の人々を徹頭徹尾永遠に地獄の世界にむけて排除するとか、多くの人々を殺戮するとかいうものとして作用し活動するものではありません。
では、正法とは、具体的には何か。
一妙三秘です。本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目です。
その精神原理、根本真理としての理念の内容、イデーとしてそれをとらえますと、本門の戒壇は懺悔滅罪の戒法です。本門の題目は知恩報恩の四恩報謝の妙行です。本門の本尊は正直捨権の道理です。そういう一妙法の根本属性(功徳)である三秘が正法です。それを確立するのが正道の侶です。
それを確立すれば、すべてがすぐ平和になるかというようにお思いでしょうが、先ほど申し上げましたように、政治の権力を行使する人間でも、どんなすぐれた人間でも、人間には魔がさします。投票で尊敬をかちえて為政者になった者も、その人の精神の根柢に定着しているものが、倫理的正当性としての懺悔滅罪の戒法、知恩報恩の妙行、正直捨権の道理がなければ、邪悪なものとして政治経済、産業社会を運営してしまう可能性が高いのです。
十二、また日本民族における伝統的規範を問う(二十ページ)
国家を構成するものの主体は人間です。そしてその国家の主導的な役割を演ずるものはだれかと申しますと、それもまた人としての王であったり、君主であったり、人民であったり、あるいは人民の名をかりた独裁者であったり、あるいは国民大衆であったり、その代表議員であったり、エリート官僚であったりいたします。その代表議員が、共和党と民主党の対立がありますけれども、彼らに全部外交問題評議会(CFR)のメンバーに入ってもらって、彼らにお金をだして国策を立てさせる国際銀行家の思うままになるかならないかわかりませんが、代議員だってあてにならないのです。
しかしながら、いずれにせよ、為政者として、権力や煽動などにみずからを失いがちな人間であるということです。ですから、法によって人を内的かつ外的に律するという発想がそこに生まれてまいります。そういう観点から日本の国家を考えてゆかなければならないと、日蓮聖人は『立正安国論』によってお示しになられたと思うのです。
日本民族の履歴、歴史経過を検討してみますと(二十一ページ左)、明治以後の日本を成功に導いたものは確かに日本の伝統的なものです。それは一つには集団主義、これは農業民族であるからです。しかし今、集団主義は解体しております。日本は戦後、農業を捨てて工業に走りました。現在、農業は壊滅状態です。先進国にもかかわらず、日本くらい自ら食物を全部つくることができない国はありません。そういう状況です。
次に工業が軽視されて、投機化されまして、工業も今危ない状態です。そして集団主義もまた今、溶解してなくなってしまう形になっています。
その集団主義は能力主義をも含みますが、その能力主義は平等主義による、それは儒教的あるいは仏教的には礼楽的な秩序づけによるのです。すなわち、人徳のあるものが人望をえて統率するという社会構造です。どんなに能力があっても、日本では人の上に立てませんでした。それは人望がなければ立てません。だから私は立てないのです。人徳があって人望があれば、人徳や人望の方が能力よりも上だ。そういう集団主義の国が日本である。伝統的に日本民族の集団秩序の基礎がそこにあったわけです。それが今や壊滅しつつある。そして組織も社会も非常に不安定な状況に、日本の国もあるということです。
十三、さらに日本民族に欠如する律法主義を問う(二十一ページ)
先ほどお話しいたしました日本に欠けるものは何か、しかもこれから補わなければならないもの、七百年前に日蓮聖人は、その補うべきものを指摘されたのです。
西洋民主主義、ウエスタン・デモクラシーという民主主義か欠如している。その西洋民主主義の精神とか秩序、これは我々が戦後教育で習った民主主義ではありません。西洋民主主義の基本は何かと申しますと、西洋民主主義も非常に危険なものです。西洋民主主義のもつ危険性は、金権支配国家になりやすいということです。プルート・クランシーになりやすい。民主主義とは権力と財力とが結びつきやすいのです。
そういう危険性があるからこそ、民主主義の基本としなければならないものは何かということが問題になってきた。
かくして、それは一体何かと申しますと(二十二ページ)、西洋民主主義の基本原理の根幹は何か、法を王の上におくことです。法を政治的支配者の上におくことです。ノモス(法)を支配者の上、王冠の上におくことです。この発想は西欧のヘレニズムにおいても、ヘブライズムにおいても、立憲君主制の原形となったと考えることのできるプラトン主義の考え方においても、歴然としております。ヘブライズムでは神との契約が絶対でありまして、トーラー(律法主義)、生活の規範に至るまで、王の王冠の上に律法をいただくことです。
日蓮宗の教徒は正月元旦はどうするのですか。ヘブライズムでは全部決まっています。朝起きて、どうしてどうすると全部決まっています。金曜日の日没から土曜日の日没までは安息日で、休んで必ずトーラーとか旧約聖書を勉強するわけです。
日蓮宗の坊さんである我々が、一週間のうち必ず一日休んで、法華経と御書を拝読しているか。我々は拝読しています。法をいただいているわけです。
日本人は法や律法というものに対して、非常に意識が低い、無意識過剰であります。長所であると同時に、国際社会でこれから生きていく場合、短所となります。他国侵逼の難、自界叛逆の難のありうる、そういう末法悪世、闘諍堅固、白法隠没、五濁悪世、三毒強盛の世界には、正法を王冠の上にいただくということを考えなければなりません。
では、宗教が政治を支配するのか。欧米ではそうです。実際は宗教が政治を支配しています。見えませんけれども、支配しています。
しかし日蓮聖人の立場はそ・う・で・あ・り・ま・せ・ん・。ということを詳しくお話しするには一冊の本になりますので、本を刊行しましたので、買って読んでいただければありがたいのです。時間がありませんので、今日は、省略いたします。
十四、かくして正法を建立することの現代的意義を確立する
かくして正法を建立することの現代的意義は何か。
そこで正法を建立して国家を安穏ならしめるという日蓮聖人の発想は、まさしくこれからの日本国家の重要な原理原則となる精神です。しかし、宗教が政治を支配することではありません。行政を支配することもはありません。
行政をする人間の精神の師表になることです。そういう問題は、今日は省略させていただきます。
ヘブライズムでは神との契約は王をも拘束します。同時に人民、国民をも拘束するのです。
人民は法によって拘束されなければならないという前提が民主主義の根幹にあるわけです(二十三ページ)。
これを戦後民主主義が忘却しているわけです。行政権力の恣意的な法の運用がまかりとおるありさまです。国家も組織も宗門も個人も道徳的に我々は衰弱してゆきます。衰弱しているかもしれません。
現在の日本の民主主義は、国民が一定の枠内で、自ら法をつくりだすことのできる体制であるにもかかわらず、そういう自由な社会であるはずにもかかわらず、その国民が法をつくる、人民の上に法をおくという経験は、実は私ども日本人の経験の過去の履歴書の中にはないのです。
だから大宝律令がいつまで続いたかと申しますと、明治憲法発布まで続いたのであります。しかもほとんどそれは運用において無視されてきたということです。
正法を建立するという意識が私どもの常識として定着していかなければならない。法を王の上におく。その法は正法の道理、文化の伝統に基づいて国民がつくるという民主主義の基礎を習得する努力を積み重ねることを、安国論の立正の思想は現代の私どもに教え示していると理解するべきではないでしょうか。国法や法律の根柢にあるものとしての正法に思いをいたすべきであります。
十五、そして国際化という言葉によるコンスピラシーをも看破しよう
先ほどお話ししましたけれども、民主主義の根本原則は、王の上に法をいただく。それが王仏冥合の根本原理です。しかし国が宗教によって支配されるのではない。国の為政者の精神の道徳的な精神の基盤に、一妙三秘の正法の道理を定着させてゆく。そういうところに立正のアビプラーヤとか趣意、意図、真意があると見るべきです。
民主主義は国際化と結びつきやすい問題点があります。しかし私は「国際化」(グローバリゼーション)とスローガンのように叫ばれているこの日本の国が、アジアの知識人からいろいろ批判を受けてきたという事実を指摘することができます。日本人が国際化という言葉を用いるとき、それは欧米に通用する尺度に日本の文化も日本人の思考様式も合わせてゆくということを意味しています。今朝だってバイキングで我々は日本食を食べないで、みんなパンを食べて牛乳を飲んでおりました。
いまや日本人の半分ぐらいはキリスト教で結婚式を行っています。そうすると、寺の娘も「チャペルで、あの音楽で、バージンロードを、お父さんと歩きたいわ」と、寺の娘が衣を着たお父さんとバージンロードを歩いて結婚したというのです。そのお父さんなる坊さんが、神主でなく、ヤソ教のバテレンさんのところにゆきまして、手をだして「感動いたしました。ありがとうございます。なかなかよいものですな」と。それ真言宗の坊さんであったとのこと、大物です。そのうちに、そうなってしまいます。
それから、東京都で建てた納骨堂の構図を見て、びっくりいたしました。真ん中にピラミッドがあって、上の天井に目が描いてあります。光が入ってきます。何ですか、これは。フリーメーソンのマーク、ユダヤ教のシナゴーグじゃないですか。ルシファーの目かもしれません。そこへみんな東京都民が納骨するのです。いつのまにか、日本の文化や伝統が解体してゆく。同時に、仏教の基盤も解体するのです。そういうことに気がついて指摘しますと、「伊藤先生は少し変質した変な人、そんなに騒がなくたってよいのに」と言われます。もう申しません。もうあきらめの境地なのです。
というように、徐々に徐々に、魔縁にとろかされているのです。そういう話をすると、話が面白いので皆さまがよく聞きます。しかしそういうことを指摘しだしたらきりがないので、やめます。
次の問題にまいります。(三十ページ)
我々がこれから気をつけなければならないことは、他国侵逼の難と自界叛逆の難がどのような形で浸食してきているかということです。
新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)のためにということを湾岸戦争の時に、ブッシュが申しました。世界が一つにまとまった後、一部の国際主義者の集団や多国籍企業群や金融支配集団によって国連を通じて国際世論操作によって、独裁的な力の行使による世界の管理と統制と支配が行われないとは、一体だれが保障することができるでしょう。国際化のゆく果てには、経済主権を失ったそれぞれの国々の国際管理化ないしは経済植民地化がまっているというところまで、私どもは多少なりともうがって考えておく必要があります。
フィリピンの企業の株の六五パーセントはどこがもっているかというと、英国・ロンドンの諸銀行がもっているという情報がある。だからフィリピンはアメリカの植民地のようだが、経済的には実際は英国プルート・クラシーの植民地です。日本だっていつそうなるかわかりません。という心配がある。人をおどかすのもいいかげんにせい、とお思いになるかもしれませんが、そのように私は考えるのです。
(二十六ページ)世界の諸国は政治的にも経済的にも、すべて国際化してしまった場合には、そこには大きな政治的経済的な力によって経済的主権をもつ国際的な政府による統制が行われる危険性さえあることを念頭においておく必要があります。帝国主義の別な形がありえるのです。
十六、かくして国家社会世界人類の安定要素としての法華仏教における護持正法を我々は追求しなければならない
であればこそ、正法を護持するということが大切です(二十七ページ)。というようなことを考えるとき、国家は決して必要悪ではなく、多数の異民族を支配する帝国主義より自らや民族を防衛する文化装置です。
私の住んでいるところは本町というところです。本町には昔は酒屋さんとかの個人のお店が四軒も五軒もありました。それが今みんなスーパーになってしまった。四つのスーパーになりました。その四つスーパーが全部この不況で倒れまして残ったのはローソンともう一つだけです。そうすると、我々はローソンのものしか買って食べられない。ほかのものは食べられない。日本の国が全部ローソンになったとき、そのローソンが一度に値段を上げたらどうなるでしょう。ローソン、律法の息子、何ですか律法の息子とは、お考えください。日本の国がローソンだけになったらどうなります。目下、日本人は脳天気なのです。
そういう問題がございます。そういうときにこそ、もう一度、立正安国ということを考えなければならないのではないか、ということです。
十七、日本の新時代に確保するべきものは何か
正法を護持すること同時に、日本の国は大聖人が言われたように、法華有縁の大乗国です。法華有縁の大乗国ですから、日本の国の文化伝統の中には、法華一乗経に相応する、あいかなう、美しい良き伝統や風俗があります。由緒ある先祖の流儀、それがあってこそ法華経の国なのです。法華経の正法とともに、そういうものを確保する、守っていかなければならない。保ってゆかなければならない、守らなければならないものは一体何か、という問題があるわけです。
第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争、その敗戦後『ニューヨークタイムズ』の社説は何を語ったか(三十一ページ)。「日本という怪物は降伏はしたが死んだわけではない。我々はようやく打ち倒したこの異形な化け物を、これからも注意深く監視し、その牙を徹底して抜きとらなくてはならない」。
いまだに進駐軍が進駐しております。日本の軍事情報は進駐軍が―古い言葉ですが―独占しております。
今に、日銀も日銀の株も自由化させて、株の何十パーセントかをロンドンシティーの国際銀行が買い占めたら、日本の金融の根幹をなす、日本の円の発行と管理権まで、ロンドンシティ、イングランド銀行に移ります。それをビッグバンでさせようというのでしょう。
だけど、そんなことはうわの空で、みんな若い学生は、学生運動も平和運動も何もすることなく、ただただひたすら、ロック、あの変な音楽、マインドコントロールされて、みな同じ手をふって、やがてあれは麻薬に結びついてゆく。今、麻薬が子供たちの中に流行をしつつあります。
ああ情けない日本だということで、見るに見かねて西洋人の企業家のビル・トッテン氏いわく、「私が日本に初めてきた二十五年前には確かにあったものが、今の日本には無くなってしまった。ここ日本はもはや米国植民地のようである。……数千年続いた文化や伝統が一世代(この三十年間の間になくなって)で別の国のものに入れ替わった」と。
ズイグニュー・ブレジンスキー、CFRの重要メンバーで、三極委員会の設立者、新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)の指導者―いわく、「これからの日本社会はイタリアのようになるだろう。経済的繁栄のピークは超えた。残ったのはめちゃめちゃな政治だ(三十二ページ)」と。
そういう中で宗教、経済、政治、社会、法制を、そういう中で国家の主権をきちんと維持しながら、その国家主権を行使する人々が、まことに倫理的正当性、道徳的人倫の道にかなった仕方で、それを運営しているかどうか、そういうものを監視する必要があるのであります。
日本国の文化、宗教、社会、政治、産業のしかるべき基本を、破壊するようなものであり、倫理的正当性(=人倫・直道・正教・正法・本有の妙法・一妙三秘)に相反するもの、邪法ないし謗法といわれるような思想や宗教やイデオロギーは、これを公場対論、言論活動をもって対治をなし、資金源を断つように誘導し、禁断せしめ、信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せしめてゆくというそういう態度、そういうあり方、正直に申しまして、そういう態度が、日蓮法華宗(日蓮主義)の使命の中によみがえり顕現しなければならないのではないでしょうか。すべての根柢に護持正法の精神が必要なのであります。
十八、それでも今よりありうる自叛他逼の二難は如何(三十五〜六十九ページ)
それでも、今よりありうる自界叛逆、他国侵逼の二難は、現在はどういう形でありうるのか。私、おろか者でちっとも専門の勉強をしないで、よけいな本ばかり読んでおります。その中から抜粋しました。
日本の財政赤字(三十五ページ)は、自界叛逆の難にあたるのではないでしょうか。国のその他の赤字(三十七ページ)、みんな子孫につけをまわしております。
ソロモン・ブラザーズは、八九年末には日本株を買い上げ、九〇年代初頭からは一転して日本株を売りに走った。コンピュータ・プログラムを利用した『裁定取引』は効果てきめん、日本株の暴落の引き金となった(三十八ページの最後から六行目)。ジョージ・ソロスのタイ・バーツ売りは、こういうアジアと日本を叩く米国の世界戦略の第一弾として放たれ、見事なまでに成功を収めた(五十九ページ右)。日本の株式市場は外国人投資家に死命を制せられるようになった。他国侵逼の難ではないか(四十ページ)。
バーゲン価格でアジア企業を手に入れることが彼らはできる(四十一ページ)。すでに韓国はやられた。韓国は国際化せよということで、韓国の民族企業の株五〇パーセント以上を海外投資家に譲りなさいと。経済的植民地化、いずれそういうことになります。韓国政府は、ソウル銀行と韓国第一銀行の五九パーセントの株式を外国企業が買収することを歓迎すると発表している。発表させられた(四十二ページ)。
自国の中央銀行の五九パーセントの株式を外国の企業が買ったら、韓国の経済の貨幣の発行権とコントロールする統制権は外国企業がもっているということです。もちろんアメリカのFRB、連邦準備基金制度理事会のアメリカのドルもアメリカ政府が発行し、これを管理する権利をもっていません。それと同じことを日本の日銀にやれと今言っているのです。日銀はやると言っているのです。政府もその気になっております。どうしたものか。
国際金融資本の戦略。経済植民地主義は過去よりも元気です(四十三ページ)。別な形で植民地化が行われていることに対して、我々は注意を払わなければならないのです。
宗教家はそんなことに注意を払わなくても、政治家が払っているのだからよいではないか。
日蓮聖人は『立正安国論』をお書きになられて、国家諫暁されましたのは、当時の為政者が何もしないからです。
国際金融資本は、敵対的M&Aにより日本の企業ののっとりをねらっている(四十五ページ)。国際金融資本は今後さらに日本経済を追い詰め、最終的には日本経済をIMF(IMFは国際的高利貸以外の何ものでもありません。しかも国際的高利貸以外の何ものでもないIMFに、日本は莫大な費用を出しているのです。出したIMFのお金はどう使われているか、監査する権利さえもっていない。ほとんど日本人はなめられている)の管轄下に置くことにより、日本経済の完全支配を狙っているだろう(四十六ページ)。
「ビッグバン」は巨大国際金融資本の市場独占のための道具だったのだ(四十七ページ)。今ごろ気がついても遅い。
海外のオーストラリアでも、英国のそういう力から努力して独立しようとするオーストラリアの立場の論文です。他逼は今も続行中です。英国王立国際問題研究所による長期間の一九一九年に開始した研究を通して、それは実行されてきている。英国は「規制緩和」、「民営化」、「自由貿易」等の方法を通して、地球上のあらゆる地域に浸透し、到達可能なすべての国家を略奪するためにー英帝国の新たな形態であるー英連邦の広範な文化とビジネスのネットワークを発射台として利用すべきであるという主張を決定して、いまだにそういうことを続行しつつあるということです(四十七〜四十九ページ)。
だから第二次世界大戦が終わった後、国際連合のもとにすべて平和になったなどという、そういう安閑としたものではない。東西の冷戦が終わっても、そういう問題は別な問題としてあるということ。
弱肉強食による国際主義者による急激な国際化は、予期された通り世界的経済危機へとつながりつつある(五十ページ)。国際化の実態は植民地化、他国侵逼の難となりうるとういことです。五十一ページもそのような問題の論争です。
にもかかわらず(五十二ページ)、アメリカの『ラルーシュ』などの経済学者は次のような主張をしております。主権国家間の同盟による新ブレトン・ウッズ体制を引いて、「IMFを廃止しなかったら大変なことになる」という主張をしているアメリカのクオリティ・ペーパーもございます。
日本は国際金融資本に支配され、欧米の圧力に屈することなく、独自の経済路線を歩むべきだ。できるかどうか。国際金融資本の侵略と対決しようとする世界の国々と協力し、各国の国内事情を考慮した節度ある国際経済協力を行うべきだ。
大体今の大蔵大臣宮沢氏は、先ほどのブレジンスキーの作った日米欧の三極委員会の日本の唯一のメンバーです。そして何かあれば二言目には「アメリカの友人、友人」と言います。彼はアメリカの友人にこびて、日本の人々から遊離しているのではないかという心配を私はもつのでが、汚名挽回を期待するのもです。
世界経済は一部の人々によって裏から動かされている(五十三ページ)。国際金融資本、これはアングロサクソンの特権階級とユダヤ国際銀行との結合した構造です、とあります。
世界の今後のある形を予測するには、アメリカの外交問題評議会、CFRの機関誌の『フォーリン・アフェアーズ』を読めといわれております。翻訳権は日本では中央公論だけがもっているのです。だけどあまりよく翻訳してだしません。
その中で、エド・リンカーンというCFRのメンバーが、「日本を侮蔑せよ」「日本の政治家や官僚たちを鼻であしらへ、露骨に侮蔑的な態度をとって日本を冷遇せよ」「米国はもはや日本を主要なグローバル・パートナーとは認めないという米国政府の意志を伝えるべきだ」という論文を公表しております(五十四ベージ)。
アメリカのCFR外交問題評議会の対日政策を表現しているのが、この『フォーリン・アファアーズ』です。そういう立場が、別な形で現れたのがクリントンの、この間の北京への三兆円の損失補填です。
北京に三兆円の損失補填(五十八ページ)。クリントン訪中を前に、国際投機家ソロスやルービン米財務長官が、為替介入の効果を疑問視する発言をたて続けに行った結果、円安を意図的に誘導した。わずか一週間で十円も円が下がった。その直後に米国が為替介入して一転して円を急騰させる操作を行ったけれども、この短期間の円の売り買いで、投機筋は四ないし五兆円の利鞘を確保した。この利鞘の中から約三兆円の金が寡頭権力が介在して北京政府に供与されたと、金融最前線にいる関係者が明らかにしている。おみやげにこれをもっていった。そして日中が日本をあなどるという、そういう形になったわけですが、今水害が起きて中国はそれどころの話でなくなってしまったというのが、現状ではないでしょうか。
それから重要な問題は、コンピューターの危機、コンピューターの二千年問題です(五十九ページ)。これは欧米では、人類の首ねっこが折れるほどの大問題だといって騒いでいます。欧米でも、それは騒げないほど大問題なのです。パニックがくるほど大問題なのです。ところが日本ではどうかというと、意外と大丈夫ではないかといわれています。大福帳をつけていますから、コンピューターがだめになっても、元帳として収支の支出と収入の出納帳が残っていますから、コンピューターが動かなくなっても大丈夫ではないかといわれていますが、それでも電気・水道・流通などにも影響大です。そういう問題が二十一世紀になると同時に起こるということです。
というような問題がありますので、そんな問題について色々と資料をつくりました。
おひまなときに寝ながらでもご覧になっていただきたいと思います。
十九、重ねて推求する、立正安国思想による治術は如何
しからば、立正安国の思想によって、一体、我々はどうしたらよいのかというのが最後の問題です。
そこで立正安国の思想にかなう、そういう経済、政治の問題に対応する日本の対応について、いくつかのペーパーをコピーさせていたたきました(七十ページ)。
戦後日本が破壊したものは何か。家族、学校、都市、農村の文化的基盤、伝統的地場産業、たくさんのものが数えあげられます。創造的な意味でそれらを破壊してきた。それほど創造的破壊であった。世を襲う規制緩和の大合唱は、愚者の怒声もしくは悲鳴であって、これはもう少し考えなければいけない。
規制緩和(のイデオロギー)の大合唱は、ある種の新興宗教運動にしばしばみられるような、致命的破壊に向かって盲動する集団的自殺行為とみることも可能だ。文化的環境の整備がなかったなら、日本の技術開発の未来は暗澹たるものである。
ロシアニズム(社会主義)の崩壊の後、アメリカニズムのみが栄えるというのは無残な光景である。アメリカは中産階級が今解体しております。日本はアメリカニズムに対して距離をおきながら、おのれの国がらを再発見し、これをメインテナンスしなければならないのではないか。急進主義は考えものだ。微調整こそ大事ではないか。
結論から申しますと(七十三ページ)、文明は爛熟期に―今爛熟した状況です―財政赤字、重税、過当競争によって衰亡の道をたどり、舞台から姿を消しております。ローマ文明以来、これが多くの文明の衰亡に共通した原因であり、その文明を支えた国家の衰退の原因となっております。
財政赤字、禅天魔、重税、律国賊、過当競争、真言亡国、国家の衰退と原因、念仏無間、国際化、どうしてつながるのだ。勝手につなげてしようがないと思いますけれども、むりやりつなげたのです。論拠はあるが説明時間がありません。規制緩和、念仏無間、規制緩和の行動言語は、今では過当競争を、財政赤字で重税で、規制緩和で過当競争が加われば、日本は衰亡の道をたどるしかない。弱肉強食、最後には、投機の世界は、博打の世界ですから、博打が世界経済の主流となっています。そうすると、博打は、だれがもうかるかといいますと、胴元がもうかります。世界の胴元はどこか。というふうに考えてゆかなければならないと存じます。
というような問題がございまして、ずっとペーパーが参考文献としてあります。
社会をコントロールし、支配するためには、すなわち植民地化し隷属化するためにはどうしたらよいか(八十ページ)。
それぞれの民族国家、国民国家の社会秩序を破壊し、付加価値のある仕事をさせない。大衆に資産をもたせない。
すなわちどうするか。社会混乱を引き起こさせ、無価値な娯楽にしばりつけ、大衆から資産を収奪する。
社会混乱、今の日本の国を考えてみなければいけません。無価値な娯楽、大衆から資産を投機で、株で奪いとる。礼楽が破壊される。「禮楽前に馳せて眞道後に啓く」と、日蓮聖人は 妙楽の言葉を使って『開目抄』で示されておりますけれども、禮楽うせて、ロック音楽、不可思議な音楽花盛り、それらによってやがて麻薬が流行する。十二音調無音階の精神分裂の音楽が、国民の若人を浸食しております。新聞社やテレビ局は、そういう問題をあまり報じません。拍車を掛けるのみ。
そういう問題に対して、どのように対処しなければならないのか(八十二ページ)。
企業人の態度に約しますと、仕事を常に改革し、しっかりとした規律を確立する。これは日蓮聖人の一妙三秘で申しますと、懺悔滅罪の戒法、戒壇の精神です。
付加価値のある仕事を早くやる。正直捨権の道理。
みんなが働き、資産蓄積を充分に保つ、四恩報謝の妙行。
何で結びつくのか。
二十、一体、要点は如何
一妙三秘、正直捨権の道理(定)、正直に権を捨てて、正に帰する道理。
それから懺悔滅罪の戒法、四恩報謝の妙行(慧)、これは一体何であるかということはおわかりだと思います。
報徳の精神、職分が法華経である。御宮仕えは法華経とおぼしめせ。勤労・分度・推譲(自行化他)、そういう精神としての正法を保つことが、最終的にはあらゆる動揺にたえて安国たらしめ、人々をして崇仏信法たらしめ、人類の福祉と環境の保全をはかる浄仏国・皆成仏の根源的な精神の原理を具現化することになるということです。
二十一、聖祖の祈請所願を追求して誓願事業として紹継すべし
そのためにこそ、聖祖大聖人の祈請所願を追求して、誓願事業としてそれを紹継するべきであるということです。
聖祖、大聖人の祈請、祈り、誓い、プラニダーナ、願は何であったか。
それを我々の日々の行為の持続する秩序として事業化して、これを受け継いでいかなければならない。
それにつきましては八十四、八十五、八十六ページに書いてあります。そのために『聖祖の誓願』という書物も記述いたしました。
結論は八十七ページです。人間・社会に対する人間の倫理教育、自然・環境に関して、人間・社会に対する環・境・倫・理・教・育・が、以上のことなればこそ、今の世界とこれからの世界に求められているのです。人間倫理教育・・・・・・、環境・・に対する人間の倫理・・的な立場を保持する教育・・、この二つが、我が宗門と宗門人に求められているのではないか、と結論いたしたいと思います。長くなって失礼をいたしました。
(拍手)
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