日蓮宗 現代宗教研究所
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  脳死・臓器移植問題についての一考察

灘上智生
(現代宗教研究所研究員)

      (一)はじめに
 平成九年六月十七日に「臓器移植法」が成立し、同年十月十六日には施行となった。それから一年が経った。(私は今、愛用のノートパソコンに向かって十月末日の締め切りまでに原稿を仕上げようとしている。)未だに脳死者からの臓器移植が実現されないためか、新聞・テレビなどのメディアでは、臓器提供意思表示カードの普及が喧伝されている。また国内では得られないため、臓器を求めて渡航する患者・その家族のことをしきりに報道している。海外でも適応する臓器が得られず残念ながら亡くなってしまったという記事に出会うと何ともいえない悲しみに襲われる。この様な状況下、世間に流されることなく自分の頭で、他人事ではなく自分のこととして、この脳死・臓器移植問題について私見を述べてみたいと思う。そしてこの作業を通して、日本の文化や社会構造が見えてくればと思う。
      (二)脳死・臓器移植の基礎
 医者でもない限り、そうそう脳死状態の人や植物状態の人に関わることも無く、一般に脳死と植物状態との区別が付いていないことが多い。そのため、中には交通事故にあって何年も意識が戻らず、植物状態なので早く脳死を認めてもらい楽にしてやりたいなどというコメントを耳にしたことがある。詳細は専門書に任すとして、ここでは簡単に脳死と植物状態について説明したいと思う。脳死とは、大脳(精神作用の場で、種々の運動・知覚の中枢が分布するところ)と小脳(身体各部の運動反射中枢)と脳幹(一般的な生命活動を司る)の機能が不可逆的に停止した状態の
ことである。一方、植物状態とは、大脳と小脳の働きが衰えるか、もしくは停止した状態のことで、外面的には何も感じていないように見える。しかし呼吸、循環など生命維持に必要な脳幹は機能しているため、涙を流したり声を出したりすることもある。
 将来、必ず一度は死ぬ我々であるが、脳死や植物状態になることはめったになく、あまりピンとこないのも無理はない。一般的な死というものが存在するとすれば、それは肺による呼吸が停止し、心臓が止まり、脳に血液が行かなくなり脳死状態となるのであり、脳死状態が注目される理由も従来はなかった。ところが技術の進歩により人工呼吸器が開発されたことにより心臓や呼吸を維持することができるようになり、いわば人間の力によって脳だけが機能していない不自然な脳死者を作り上げてしまったのである。また一方で臓器移植の技術進歩により心臓移植が可能とな
った。ところがご存知の通り心臓は一人の人間に一つしかなく、心臓を移植のために提供してしまえばその提供した人(ドナー)は死んでしまう。そして移植手術を行った医者はドナーを死に至らしめたということで殺人罪に問われかねない。この様な理由から死亡を従来の死の三徴候(心臓停止、呼吸停止、瞳孔拡大)から脳死状態への変更が求められ、それが「臓器移植法」により現実となったのである。つまり移植技術の進歩や患者の治りたいという気持ちそして医者の治したいという気持ちといった様々なことが人の死のラインを動かしてしまったのである。
 脳死とは文字どおり脳が死ぬことであるが、この場合二通りの状態が考えられる。それは、器質死と機能死である。器質死とは壊死のことであり、脳の細胞が死ぬことである。また機能死とは脳機能の不可逆的停止のことであり、日本も含め世界的にこちらの立場である。脳の機能死である脳死を判定する基準として厚生省基準(竹内基準)がある。基準としては、(1)深昏睡、(2)瞳孔散大、(3)自発呼吸の停止、(4)脳幹反射の喪失、(5)平坦脳波、(6)以上六時間経過が設けられている。以上の内容を頭の片隅に残しておきながら、次に脳死・臓器移植の抱える問題を考えてみたいと思う。
      (三)脳死・臓器移植の諸問題
〈1〉脳死・臓器移植により助かるとは?
 脳死者からの臓器移植により心臓移植が初めて可能となる。そしてその心臓によって患者は命が助かるのである。人一人の命が救われるのであるから本来これ以上の素晴らしいことはないはずである。だから脳死者からの臓器移植は夢の治療方法かというとそうでもないのである。ドナーから臓器を移植されて助かった患者(レシピエント)の助かるという状態が問題である。レシピエントには臓器移植による拒絶反応を抑えるため免疫抑制剤が投与され続けなければならない。術後の生活は免疫が抑えられているため当然制約されたものとなる。また移植手術には三千万円か
ら五千万円、手術後もかなり高額な治療費がかかる。これは裕福な人にしか出来ない医療である。命はお金には代えられないので何としても臓器移植をということで寄付を募り行われるケースもある。それはそれで人々の善意の現れで素晴らしいことである。何も私は臓器移植という医療行為が悪いといっているのではない。ただ臓器移植の現状を伝え、本当に臓器移植でなければ助からず死んでしまうのか、他の治療方法はないのかということを医者に尋ね、正確な情報を把握するインフォームド・コンセントをここでは強調したいのである。また移植手術の成功例ばかりが報
道され失敗例や術後の大変な生活といった現状の報道がなされないのは気のせいであろうか。成功例ばかり聞かされていると的確な判断が出来なくなってしまうので注意が必要である。

〈2〉脳死判定基準について
 ここで私の立場をはっきりさせておこう。私は脳死は人の死ではないと考えている。その理由は後程追々述べたいと思う。脳死を人の死と思っていないので脳死判定基準は私にとってはどうでもいいことではあるが、そういう訳にもいかないので少し触れてみたいと思う。先に上げた厚生省基準には六つの基準があった。内容を調べてみると結構危ない検査が必要なものもある。基準の中で自発呼吸の停止というものがあった。患者は人工呼吸器に繋がれているわけであるが、この人工呼吸器を患者から外し自力で呼吸しているか否かを検査するのである。もし患者が脳死状態
まで到っていなくてもこんなことをしたら脳死になってしまうのではないかと疑問に思う。また、脳幹反射の喪失という基準がある。この検査は耳から温水や冷水を注ぎ入れ眼球の上下動をみるのである。私もプールに行った時耳に水が入って気持ち悪く困ったことがあるが、それから想像してもかなりきつい検査であり、それでなくても弱っている患者にとっては死ぬほど苦しいに違いない。この様な凄まじい検査をして厚生省基準を満たしたからといって、患者が本当に脳死かどうかは分からないのである。確かに脳死者であれば厚生省基準は満たすが、その逆は言えないの
である。脳死であることを調べるためには脳内血流の停止という条件が必要であると立花隆氏は著書の中で述べている。ではなぜ厚生省はこの基準を入れなかったのであろうか?。脳内血流の停止は心臓停止を表し、臓器移植のためにせっかく動かした死の基準が、また元の心臓停止に戻ってしまうのである。この様な事からも厚生省の脳死の判定基準は臓器移植のための基準であることが分かる。

〈3〉脳死・臓器移植という思想の裏側
 これまで脳死・臓器移植にかかわる表側から問題点を探ってきたが今度は脳死・臓器移植という考え方の裏側を見てみたい。例えば心臓移植が行われる場合、ドナーからレシピエントに心臓が移植されるのである。手術は成功し、とりあえずはメデタシメデタシとなるのだが、ここにはドナーの死という現実がある。つまり心臓移植のためには一人の人が死ななくてはならないのである。心臓移植のために海外へいったが残念にも臓器が見つからなかったという報道をよく耳にするが、裏を返せば適応する臓器を持った人が死ななかったということであり、人の死を待ち望むといっ
た状態は精神衛生上良くないことは容易に想像が付く。また移植時においては、ドナーの命とレシピエントの命を比較しているのである。死にゆくドナーの命と、このままではいずれ死んでしまうレシピエントの命とどちらが大切で価値があるかとは言えないはずであり、言ってはいけないのではないか。

〈4〉第三世界との関係
 臓器移植法が施行されて一年になるが未だ国内では脳死者からの移植は行われていないため、臓器を必要とする患者は海外へ臓器を求めて行くことになる。単純な発想として海外の患者も臓器が必要だろうに、よく日本人に分けてくれるなあと思うのではないだろうか。それは当然、正規のルートで臓器バンクから臓器を手に入れ移植しているケースがほとんどであろう。しかし海外における臓器移植の裏側では第三世界といった貧しい国の人が自分の臓器を売り、北側の先進国の裕福な人がその臓器を買うという現実が報道されている。平成九年十二月十日の読売新聞では、海外での売買生体腎移植にからみ、東大医学部講師が現地の医師への紹介状を作成し、斡旋業者から謝礼を受け取っていたと報じた。また、平成十年一月三十一日の読売新聞では「腎移植 闇から闇へ」という見出しで、タイやフィリピンにおける日本人に対する移植の現状を報告している。この様な報道から考えるに、社会的弱者がドナーとなってしまい、移植医療自体が巨大な産業となるのと共に、臓器の商品化が進んでいると言える。この様な悲惨な現実に触れると医のモラルの確立、医療のあり方の見直しと共に、我々日本人の態度・考え方を見つめ直す必要があるのではないか。確かに臓器移植の必要な患者さんは、健康な私には想像できない苦しみを抱えているだろう。そんな方に対して私だって何とかしてやりたい、健康になって欲しいと心から思う。けっして移植医療を否定しているわけではない。しかし、金にものを言わせて貧しい国の人から臓器を買ってそれで健康になればよいかというと、それに対してはわたしは?である。ものには限度というものがあり、いくら売る人がいて買う人がいるからといって、やって良いことと悪いことがあると思う。求めて良いことと求められないことがあり、後者を求めることは煩悩を増大することと知らなければならないのではないか。
      (四)臓器移植法について考える
〈1〉「臓器移植法」施行後生じる問題点
 平成九年六月十六日、参議院において臓器提供時に限って脳死判定すると中山案の一部を変更した修正案が提出され、審議の結果採決された。ここで驚くことには、人の命にかかわる法律を決定するのになんとたった四時間の審議で採決してしまったのである。いくら省エネの時代とはいえ仮にも議会制民主主義を取っている国会のやることではない。そして翌十七日、修正案が参議院と衆議院の両本会議で賛成多数で可決されここに「臓器移植法」が成立したのである。この「臓器移植法」は、脳死判定と臓器提供について本人の文書による同意があり、かつ家族がそれを拒
まない時にのみ、脳死・臓器提供が可能となるという三重の縛りがかけられている。これに対して、あまりにも条件が厳しすぎて移植が出来ないとの不満もあるが、これぐらいの規定が無ければ人の死の際に色々な問題が生じてしまう危険性がある。現に平成十年三月八日の読売新聞で「脳死と説明 心停止早める」といった見出しで脳死・臓器移植の際に医師と遺族との間に生じた問題を報じている。詳細な説明は避けるが、遺族側は医師が反対を聞かず腎臓を摘出したと医師を殺人罪で告訴し、それに対し医師側は家族の一人の承諾書は取れていると主張している。この様な問題はこれからも生じることは想像に難くない。
 先に脳死・臓器移植はドナーとレシピエントの命を比較することであると述べた。そして「臓器移植法」が施行された今、臓器移植はレシピエント同士を比較することになることに気付かなければならない。例えばドナーから心臓が一つ提供され、その臓器に適応するレシピエントが複数いたとする。この場合どのレシピエントに移植するのか、如何に決定するのであろうか。この状況下では平等性を保つのが困難であろう。
 また臓器移植が軌道に乗れば、当然臓器が不足する。その解決策の一つとしてドナーの範囲の拡大が考えられる。今回の法律では脳死者までがドナーとなったから次は植物状態の人、無脳児、重度精神障害者、痴呆性老人と、どんどん範囲が広げられる可能性がある。現にヨーロッパでは一九九〇年代になってドナーが減少し脳死判定基準の見直しが検討されたり、中国では死刑囚の臓器が摘出され移植に使われている。我々人間の思考は限界を定めることが困難であり、人間の弱さを踏まえると拡大解釈されていく危険がある。この様に聞くとそんなことなどありえるはずが
ないと思う方もいるかもしれない。しかしこの事実を知ってもらえばその危険性がゼロではないことが分かって頂けると思う。平成十年一月三十一日の読売新聞により報じられた記事である。この記事は「無脳症児から心臓移植 イタリア 是非をめぐる論争も」という見出しで、大部分の脳と頭骨のない無脳症の赤ちゃんが生後二週間で脳死宣告を受け、その心臓が生後十時間の新生児に移植されたという内容を記している。海外の事例が一概に日本にも当てはまるとは言えないが、ありえないことではないということを念頭に置き注意し続ける必要がある。

〈2〉技術の進歩と功利主義
 この「臓器移植法」は、脳死者から臓器を摘出し移植することにより患者を救うために作られたのであるが、この移植医療が可能となった影には医師らの努力や医療技術の進歩がある。我々現代人は移植医療に限らず様々な場面で先端科学技術の恩恵に浴している。技術にはプラス面とマイナス面があり、その両面において文化や社会を変革させる。今論じている問題は、技術が人間に関する生と死の文化を改変させた一例である。しかしここで考えなければならないのは、新しい技術が生まれ可能となった時、その技術を認めなければならないかどうかということである。医学の進歩や人類の幸福のためといった理由で新しい技術を認めてしまう論理構造は危険性を孕んでいる。その危険性が解決できないようであればいくら便利でその技術から利益を得る人がいても、ノーと言うべきではないのか。
 またこの法律の作られた裏には、「脳死になったら人は死ぬ。人は死んだらどうせ焼いてしまう。それなら使える臓器は移植しよう。焼いてしまうなんてもったいない。」という効率性を追求した、功利主義的考え方が見え隠れしている。この功利主義的考え方には、遺体に対する敬いの念といった宗教観の欠如と人間のモノ化・医療資源化といった思想が含まれている。このモノ化・医療資源化とは具体的にいえば脳死者をホルモン・抗体・血液などの生産工場、人工臓器や新薬の実験台、人間製造機(代理母)として使用することなどが考えられる。この様な時代に我々僧侶こそが、人間の命の大切さや現代社会の抱える問題点を声を大にして訴えるべきではないだろうか。
 法律はその時代の社会状況と人のニーズで作られることがある。そしてその法律は良きにつけ悪しきにつけ社会や人の考え方に影響を与えるものである。「臓器移植法」が施行されたことにより危惧される影響の一つとして、脳死・臓器移植の代替技術の停滞がある。代替技術としては人工臓器の開発が上げられる。人工臓器が本物の臓器と同じような物となり移植に使えるようになれば脳死者から心臓を取り出すといったことも必要なくなり、今まで論じてきた心配や不安もなくなる。人工臓器を開発する研究者の努力をこの法律によって削がないことを祈るばかりである。
 また今迄、脳死となっていた状態を脳死にしないように食い止める技術である「脳低温療法」の登場により脳死の基準が今後変更される可能性が出てきたことを加えて記しておきたい。

〈3〉死の自己決定権と自殺ついて
 「臓器移植法」では、脳死判定と臓器提供について本人の文書による同意が必要とされている。つまり脳死にするか従来の心臓死にするかは本人の意志に委ねられていることになり、二つの死の状態を作り出してしまう。仮に法律では脳死は人の死であるとされていても実態は生きているため、死のラインを自分で決定することになってしまうのである。ここで問わなければならないのが本来我々には自分で自分の死を決定するという死の自己決定権はあるのであろうかということである。我々の命は本仏から頂いた命であるので死の自己決定権は、我々にはないと私は考える。しかし、この法律は私の持ち合わせている様な宗教的信条を持たない人にも適応されるため、その様な人にはこの言説は効力が無い。ここでは仮に死の自己決定権が我々にはあるとしてその危険性を探ってみたい。
 死の自己決定権を認めるということは、突き詰めて言えば自殺を認めるのかということも念頭において論じなければならない内容である。もし死の自己決定権を認めるのであれば自殺だって認められるべきではないか。自分の命は自分のものであり、自分の死を自分で決定できるのであれば年間二万人を越える自殺者を「自殺などしてはいけない。命を大切にしなさい。」と説得することもできなくなってしまう。死の自己決定権を認めながら、自殺はいけないと言うことには矛盾がある。
 仏教では自殺をどう考えているのか。自殺について深く論考することは今後の課題としたいが、現在得られた浅薄な知識で考えてみたいと思う。仏典をひも解くとお釈迦様は弟子が自殺するのを責めてはいないのである。しかしお釈迦様は誰にでも自殺するのを認めたわけではなく、あくまでも現世において煩悩から解放され、悟りに達した場合のみなのである。ということは未だ悟りを得ていない我々凡夫は自殺などしてはならず、悟りを目指して精進しなければならないのである。
 また岩波仏教辞典には「殺生は十悪の一つに数えられ、波羅夷罪を犯すものであるとして、五戒の一つであるから、自殺といえどもそれに抵触するものとして禁じられている。だが、病などで死期が間近い病人が、病に苦しみ、自らの存在が僧団の他の比丘らに多大の迷惑をかけているとの自覚の結果、自発的な断食・断衣・断薬などにより死地に赴くことはその限りではないとされる。」と記されている。これによると、自殺は戒律により禁止されているが、尊厳死に関しては認められていたようである。この背景には僧侶として信仰を通した判断が存在しているためであろう。私がこの様に考えるのには訳がある。それは死の自己決定権と尊厳死・安楽死との関係に存在する危険性を指摘することにより理解して頂けると思う。

〈4〉死の自己決定権と安楽死・尊厳死
 安楽死・尊厳死という語句の正確な定義というものは存在しないようである。ここでは世間一般で使われていると思われる意味を表記したいと思う。安楽死とは助かる見込みのない病人を苦痛の少ない方法で人為的に死なせることであり、積極的安楽死を意味する。また尊厳死とは一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは死を迎えさせることであり、延命のための人工的な特別な処置を一定の予測のもとに中止したり、あるいは最初から使わないで、自然のままに死を迎えようとすることである。この尊厳死は消極的安楽死といわれることもある。
 では現実になぜ尊厳死や安楽死が取り上げられるのであろうか。それはスパゲッティ状態の患者を見れば、ああはなりたくないと思う人もいるだろう。自分が尊厳のない状態で生きているくらいなら早くあの世に行きたいと感じる人もいるだろう。その様な状態に置かれた人が、尊厳死・安楽死という死を選んでいくのである。しかし尊厳すなわちその人にとって尊いと感じる生の程度は、人それぞれによって異なるはずである。中にはスパゲッティ状態になっても生きていたいが、生きていたいと言えない人がいるのではないか。この様なケースでは家族に迷惑がかかるといった言葉をよく耳にする。小さい頃から人に迷惑をかけてはいけないという教育を受けてきたが、中には迷惑をかけてもいい関係、いや迷惑が迷惑にならない関係があるのではないか。その様な関係を築くことを訴えることが我々僧侶にとって大切である。
 私は本来死の自己決定権はないと考えるため一般で言われる安楽死及び尊厳死も認めない立場を取る。しかしベットの上で体中にチューブを付けられたスパゲッティ状態の患者の現実を考えると尊厳死は認めても良いのではないかとも考えさせられる。しかしここで考えなければいけないのは「尊厳ある死」ではなく、「尊厳ある生」への着目の必要性である。我々は尊厳のない、安楽でない生を続けるのであれば尊厳のある安楽な死を選ぶという言葉の美しさに惑わされてはいけない。尊厳のない安楽でない生があるのであればそれこそ信仰を通して尊厳のある安楽な生を目
指すべきなのである。そうすることにより行われた治療は、信仰を通し御仏に判断を委ねた決定であるといえるのではないか。

〈5〉安楽死法・優生政策への危惧
 死の自己決定権の歴史を調べると少なくとも一九三〇年代のドイツにおけるナチスの時代まで遡ることができる。当時ナチスは数百万人ものユダヤ人やポーランド人をガス室に送るという残虐な殺戮を繰り返した。一方で数十万人もの知的・精神障害者、身体障害者をガス室に送り安楽死させたという事実もある。この安楽死は、民族や人種から優秀ではない社会的弱者を社会から消し、民族としてより良いものに鍛え上げていくという優生政策に基づいていた。ここで注目しなければならないのは、優生政策がナチスの独断で行われたのではなく、他国でもナチスのように殺す
ことはないにせよ法律に基づいて優生政策が取られたことである。この事実が平成九年九月二日の新聞紙面で大きく取り上げられたことは記憶に新しい。読売新聞は「人間見失った 強制不妊の闇」という見出しで報じている。この記事によると、スウェーデンで半世紀近くに渡り、「劣性種」の烙印を押された男女が強制的に不妊手術を施されていたという暗い過去が暴かれ、北欧きっての成熟社会をゆさぶっている。これを引き金とし、デンマーク・ノルウェー・スイス・オーストリア・米国など、他の欧米諸国でも類似の措置が行われていたことが次々と明るみに出、問題は国際的な広がりを持ちはじめたという内容であった。また十七日の朝日新聞では「本人の同意なしの不妊手術」という見出しで、日本国内でも平成八年まであった優生保護法のもとで精神疾患や身体障害の人に同意なしの不妊手術が多数行われていたことを報じている。
 また当時ナチスドイツでは安楽死法が国会に上程されている。ヒトラーがポーランドに侵攻したため議論は頓挫してしまったが、結局はヒトラーの統帥権の下、知的・精神障害者に対する安楽死は行われたのである。ここで注意すべきはこの安楽死法には自己決定権、本人の同意が謳われており、死の自己決定権を非とするか否かを判断する能力のない者は、医者や国家が代わって死ぬ権利を代行し死なせてあげることができると言明されていたのである。また現に内容は異なるが、米国オレゴン州では安楽死法が末期患者の精神的な救いとして存続している。オランダやオーストリアでは安楽死の法制化をめぐる試みが続いている。この様な歴史的事実と現実を考え合わせると、死の自己決定権を含んだ「臓器移植法」は危険な思想や法律を導き出す可能性を秘めているということを十分理解し今後の展開に注意しなければならない。
      (五)本宗の脳死・臓器移植に関する答申について
 本宗では、ご存知の通り平成六年に勧学院より脳死・臓器移植に関して次の様な答申が出されている。
 法華経・日蓮教学の立場から、(1)脳死をもって人の死と断定することは未だ多くの問題が残されており、死の概念の重大な変更にあたって、医学にのみそれを委ねることはできないとする意見が妥当であると判断する。しかし、(2)臓器提供については、自己決定による場合、仏教の慈悲心にもかなう行為として認識し、脳死段階からの移植医療に道を開くことには反対しないとの結論に達した。よってここに答申する。
 ことは、宗教、哲学、倫理、社会、文化などに幅広くかかわる問題であって、多数決でゴーサインの出せるものではない。法華経弘通者の立場から、今後とも、科学主義、理性主義、人間機械論の行き過ぎを監視しながら関係機関の動きをみてゆくべきである。
 以上の内容は二年四ヶ月の長きに渡り、審議が繰り返され出されたもので大変なご苦労の跡が見える。その答申に対して浅学非才の私が意見を述べるのもおこがましいが、ご容赦頂きたい。(1)の脳死をもって人の死と断定することは未だ多くの問題が残されているということは、脳死は人の死ではないということを婉曲して述べていると考えられる。私としては脳死は人の死ではないとはっきり言ってほしかった。ここで私が脳死は人の死ではないという理由の一つを述べておこうと思う。人の死というものは、死に逝く人だけに閉塞するものではない。死というものは死
に逝く人とその周りの人との間で受容されていくものである。最愛の人の死と見ず知らずの人の死とはおのずと異なってくる。死者に対する当事者と傍観者では感じる気持ちに大きな違いがあるはずである。死とはこの様に幅があるものである。それを臓器移植で人を助けるためといって死の概念の変更をしてしまうことは大きな間違いであると思う。
 疑問に思うのは(2)の臓器提供については、自己決定による場合、仏教の慈悲心にもかなう行為として認識し、脳死段階からの移植医療に道を開くことには反対しないという部分である。(1)で脳死は人の死と断定することは未だ多くの問題があるとして認めていないのに、脳死段階からの移植医療に反対しないのは明らかに矛盾がある。脳死が人の死でなければ、その人から心臓をとったらそれは殺人になってしまうではないか。またこの臓器提供とは脳死体からの臓器移植とそれ以外の臓器移植(従来の心臓死による死者からの移植や親族などからの生体肝移植など)
を含んでいると考えられる。この両者は分けて考える必要がある。後者は現実に行われているため、この場合脳死体からの臓器移植を論じるべきであろう。脳死体からの臓器移植は、脳死を死と認めない場合、ドナーを死に至らしめる行為であり、ここでの自己決定とは死の自己決定を表すことになる。自己決定という概念自体は我々の日常生活には必要である。自己決定のない人生を考えてみると生きていく喜びや充実感が得られないであろう。しかし死の自己決定は別である。我々には死の自己決定権はあるのであろうか。先に論じたように私はないという立場を取るため、
ここに自己決定という言葉を使うのは如何かと思う。
 また(2)で臓器提供を慈悲心という美しい言葉で語ってしまうのには問題がある。慈悲とは他者に利益や安楽を与えるいつくしみを意味する「慈」と他者の苦に同情し、これを救済しようとする思いやりを表す「悲」の両語を併挙したものである。今迄述べてきた臓器移植の抱えた二面性を考えると、仏教が基本とする徳目である「慈悲」という語を使うのは適切ではないと考えられる。
 ドイツでは一九九〇年にカトリックとプロテスタントの両教会が「愛の行為」として移植を積極的に推進していた。ところが一九九四年になって、もっとドナーの人権を守らなければということで推進を撤回したという経緯があることを参考までに併記しておきたい。
 (2)を「脳死段階からの移植医療は認められない」とできないのは、脳死段階からの移植医療でしか助からない人が現に存在し、その人たちを見捨ててしまうことを意味することになるという思いがあるからではないか。信仰を通して命に対する執着をなくしなさいと言ったところで、「お坊さんはそう思うかもしれないけれど、我々は悟っていないから。」と言われるのがおちである。これに対する適切な言葉はまだ見つけることが出来ない。ある研修会の講師の先生が「臓器移植は性能の良い人工臓器が開発されるため将来なくなります。ですから臓器移植は今しか出来ないのですから、ドナーカードを持ち臓器移植が行われるようにしましょう。」ということを言っていた。それを聞いた時、だったら臓器移植などせずに人工臓器の開発を一生懸命すべきだと思ったが、今考えると、本当に性能の良
い人工臓器が早く開発されれば全ての問題が解決されるのにと実感している。
 以上が本宗の脳死・臓器移植に関する答申についての私の所見である。本宗の答申が出されてから臓器移植法が成立するまでの間に様々な議論が世間では繰り返された。また法律施行後三年(平成十二年)をめどに法の見直しも控えている。見直しの際には、脳死者からの臓器移植が行われていない現在の状況から考えると、「脳死者からの臓器提供を広げる道を」といった意見が出されることが予想される。本宗としても、脳死・臓器移植に関して再度検討する必要があるのではないだろうか。
      (五)おわりに
 自分の思っていること、考えていることを自由に書いてしまった。この文章は、平成九年十二月の現代宗教研究所の研究例会で発表したものに加筆したものである。大変拙い文章なため分かり難いところが多々あるかと思うがお許し頂きたい。発表に当たって参照した書籍を最後に列挙しておくのでもし興味があればご参照頂きたいと思う。
 現代は価値観が多様化しているため、社会で生じる諸問題に対する答えは一つということにはならない。絶えず現代社会に目を向け、この社会の抱える問題に対する我々僧侶としての対応を模索していく必要があると感じている昨今である。
[参考文献]
『生命学への招待』森岡正博 勁草書房 一九八八年
『脳死の人』森岡正博 東京書籍 一九八九年
『脳死・尊厳死』仏教別冊4 法蔵館 一九九〇年
『NHKスペシャル脳死』立花隆・NHK取材班 日本放送出版協会 一九九一年
『安楽死と尊厳死』保阪正康 講談社現代新書 一九九三年
『生命とは何か』玉城康四郎 法蔵館 一九九三年
『生命観を問いなおす』森岡正博 ちくま新書 一九九四年
『死は共鳴する』小松美彦 勁草書房 一九九六年
『死とどう向き合うか』アルフォンス・デーケン NHKライブラリー 一九九六年
『精神医学とナチズム』小俣和一郎 講談社現代新書 一九九七年
『私的所有論』立岩真也 勁草書房 一九九七年
『医療現場に臨む哲学』清水哲郎 勁草書房 一九九七年
『愛ですか?臓器移植』脳死・臓器移植を考える委員会 社会評論社 一九九七年
『中絶・尊厳死・脳死・環境』中野東禅 雄山閣 一九九八年
『操られる生と死』山口研一郎 小学館 一九九八年

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