日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第33号:185頁〜 研究ノート ←前次→

 日興上人「本門寺根源」初期道場の位置について
    ――重須地頭・石川氏との関わり――

石川修道
(現代宗教研究所研究員)

 日蓮宗々門においては、平成十年は本山・北山本門寺顕彰として予算計上した年である。六老僧のひとり白蓮阿闍梨・日興上人が開創した重須本門寺の初期道場の位置について考察する。
 日蓮聖人は弘安五年(一二八二)十月十三日入滅し、日興上人は十月十六日「宗祖御遷化記録」を執筆し、翌六年一月身延祖廟の「墓所可守番帳事」を著わす。西山本には
 『墓所可r守番帳ノ事
  正月 弁阿闍梨。二月 大国阿闍梨。
  三月 越前公。 四月 伊与公。
     淡路公。
  五月 蓮華闍梨。六月越後公。
            下野公。
  七月 伊賀公。 八月和泉公。
     筑前公。   治部公。
  九月 白蓮阿闍梨。 十月 但馬公。
               卿 公。
  十一月 佐土公。 十二月 丹羽公。
               寂日房。
   右守番帳次第無懈怠 可勤仕之状如件〔右、番帳の次第を守り懈怠無く、勤仕すべき之状、件の如し〕

    弘安六正月 日<1>』
池上本では十月と十一月の番僧が入れ替っている。十八人の守塔輪番の中に、甲駿地方に住する日興上人の弟子・孫弟子が九人いる。日興上人を入れて十名の輪番である。甲駿より一日行程の所にある方々であり、当時の厳しき情勢がみられる。越前公は波木井一門と考えられ、宗祖の直弟で波木井住。淡路公日地は日持師の弟子で、宗祖の孫弟子、庵原住。越後公日弁、下野公日秀は宗祖の直弟で富士郡住。和泉公日法は日昭師の弟子で、宗祖の孫弟子、富士郡住。治部公日位は日持師の弟子、宗祖の孫弟子で庵原郡住。白蓮日興師は富士郡住。蓮華日持師は庵原住。卿公日目は宗祖直弟で身延住。寂日房日華は宗祖直弟で甲州住である。日蓮聖人七回忌の正応元年(一二八八)までに、常住輪番となった日興師と地頭・波木井実長公との間に、信仰問題が表面化した。『富士一跡門徒存知事』によると、波木井氏の四箇の謗法とは<2>、
一、立像釈迦仏を造立し、本尊とした事。
二、大聖人が禁止された神社参拝し、二所(箱根・伊豆山)と三島社に参詣した事。
三、南部郷内の福士の念仏塔供養に奉加した事。
四、九品ほん念仏の道場を建立した事。
である。これら波木井氏の行為の根因は、教訓すべき学頭日向師が見過した失態であるという。『原殿御返事』には、
  『此事共は入道殿の御失にては渡らせ玉ひ候はず、偏に諂曲〔てんごく〕したる法師(日向)の過にて候へば<3>』
と述べている。『美作房御返事』に『地頭の不法ならん時は、我も住まじき由、御遺言とは承り候<4>』と決心され、日興上人は正応元年(一二八八)十二月〜翌年一月頃、身延山を離山し、富士に移った。その際、波木井実長公の長子・源清長は、
  『もし身延沢を御出で候えばとて、心変わりをも仕り候て疎〔おろ〕そかにも思い進らせず候。又仰せ入り候御法門を一分も違え進らせ候わで、本尊並びに御聖人の御影のにくまれを清長が身にあつく深く蒙るべく候。
                               源 清長 判
   正応元年十二月五日<5>』 (西山本門寺蔵)
と、日興上人が身延沢を去られても清長は心変わりはせず、日興上人の教化を受けますと誓状を立てている。
身延離山の日興上人は、外祖父・河合入道宅に数ヶ月逗留し(現・妙興寺)、正応二年(一二八九)三月、地頭・南条時光と蓮阿尼(南条時光の父・兵衛七郎時継の姉)の請により、富士上野郷大石ヶ原に移り、正応三年十月十二日「法華堂」を開創する。のちの大石寺である。日興上人は正応四年(一二九一)九月、上野郷「法華堂」庵室より重須〔おもす〕郷丸山に移住し、「本門寺根源」を奠定する。重須郷の地頭・石川新兵衛宗忠〔むねただ〕源能助(道念日実)の招請によるものである。石川新兵衛の室は、南条時光(七郎次郎)の姉である。「鶴寿」と呼ばれ、日蓮聖人から「重須〔おもす〕殿女房」と呼ばれた人物である。永仁三年(一二九五)正月元日には、六老僧日持上人が海外布教に旅立ち、永仁五年(一二九七)九月二五日、波木井実長公逝去(七六歳)。そして永仁六年(一二九八)二月十五日、新兵衛の嫡子・石川孫三郎能忠、南条時光及び小泉上野の法華衆の外護を得て、重須郷山宮に『日蓮聖人御影堂、本化垂迹天照太神宮、法華本門寺根源(本堂)』を造立し、重須〔おもす〕本門寺を開創した。上野郷法華堂の仮奉安所より大聖人生御影尊像を始め、諸聖教を重須に遷座した。重須本門寺の三堂建立の記録は、杉椙の薄板で丈は一尺五寸、厚さ四分の棟札に記されている。
 『一、日蓮聖人御影堂
  一、本化垂迹天照太神宮
  一、法華本門寺根源
    永仁六年二月十五日造立、(一二九八)
  〔裏書〕
  国主被建比法之時三堂一時可造営也、願主
   白蓮阿闍梨日興 判。
  大施主地頭石河孫三郎源能忠、合力
   小泉法華衆等。
  大施主南条七郎次郎平時光 同
   上野講衆中。<6>        』
とあり、また重須談所の二代学頭である三位日順師は雑集に
 『一、日蓮聖人御影堂。一、本化垂迹天照太神宮。一、法華本門寺根源。永仁六年二月十五日之を造立す。是れは札の面〔おもて〕分。国主此法を立つる時は、三堂一時に造立すべき者なり。願主白蓮阿闍梨日興在御判。大工本門寺大工椎地四郎宗友。大施主地頭石河孫三郎源能忠。大施主南条七郎次郎平時光。合力小泉法華衆等。同上野講衆等。是れ裏分也。』
とある。重須本門寺九世日出上人の置文裏書にも
 『本堂永仁六年二月十五日建立。永禄十二暦己二百十二年に当って、二月四日焼失なり』
とあって、重須に創建された本堂が、武田信玄の駿河侵出により焼失したと記録している。日興上人が上野郷大石ヶ原の法華堂より重須郷丸山に移って住居された四十三年間の丸山及び重須本門寺の初期道場「本門寺根源」の位置について、重須地頭・石川氏との関わりより考察する。
   日蓮聖人と石川新兵衛。
 建長四年(一二五二)二月、執権北条時頼は、将軍頼嗣を廃し、後嵯峨天皇の第二子・宗尊親王を征夷大将軍として迎え、鎌倉を鎮めたいと請願し、三月十九日八葉の御車は仙洞から六波羅へ入御し、三品宗尊親王は関東下向のため東海道を下られた。吉田中納言為経卿、土御門宰相中将顕方卿、花山院中将長雅朝臣、右中弁顕雅朝臣等が御輿に陪従している。幕府は道中警護を厳しく行った。遠州橋本から菊河までは武蔵守が警護に当り、阿野から佐野迄は佐野地頭、鮎沢は甲斐守、山中より関本迄は狩野新左衛門が警護に当った。
この宗尊親王の鎌倉下向に親王の三人の近侍が随行していた。式乾門院蔵人重房と近衛左中将藤原(冷泉)隆茂と左近大夫石川新兵衛・源宗忠である。重房は丹波国阿鹿郡上杉の庄を賜わり、冷泉隆茂は駿河国富士下方・須津庄を賜わり、朝臣・石川新兵衛宗忠(駿河守民部大輔従五位下)は駿河国富士上方・重須郷を賜った。この三人の近侍は鎌倉に屋敷を与えられ住した。冷泉隆茂は日興上人の和歌師匠と伝わり、一門の冷泉為家は宗祖の蓮長時代の和歌の師と伝わる。石川新兵衛は嫡子の孫三郎能忠と共に、重須本門寺を創建し開基となる。宗祖の本門戒壇建立の理想地を重須郷山宮と、日興上人より聞き、己の石川城(館)の土地を日興上人に寄進したのである。石川新兵衛の夫人に二説ある。一人は古郡系図石川氏の項によれば、「宇都宮下野守藤原泰綱の娘である。もう一人は南条兵衛七郎時継の娘・鶴寿であり、南条七郎次郎時光の姉である。」よって鶴寿は石川新兵衛の後室とも考えられる。日蓮聖人より「重須殿女房」と呼ばれ、弘安四年(?)正月五日付の「十字〔むしもち〕御書」を賜っている。正月元旦に宗祖は『十字〔むしもち〕百枚、かし、ひとこ給い了んぬ<7>』と、献上された供養餅に御礼状を出され、その中で「仏性普遍」を説かれている。
『白蓮弟子分与御筆御本尊目録事』永仁六年に、
 『一、石河新兵衛入道道念ハ者、日興第一ノ弟子也、仍テ所2申与フル1如r件、但シ嫡家孫三郎伝領ス。
  一、南条兵衛七郎女子、石川新兵衛入道後家尼殿仁日興申2与フ之ヲ1<8>』
とあり、日蓮聖人滅後に日興上人より、石川夫妻に宗祖真筆本尊が転受されている。

   石川家三代
石川新兵衛宗忠〔むねただ〕
 宗景の子。幼名菊若丸、石川新兵衛と称し、河内の前司民部太夫。母は北条武蔵守平師時の女。河内国石河郡(古市、石川)の石河城に住す。現在の羽曳野市、富田林市。建長四年(一二五二)四月将軍宗尊親王関東下向に際し、随行奉仕する。その宗尊親王は征夷大将軍在職十四年間で廃さられ、文永三年(一二六六)七月八日京都に帰還された。次の惟康親王にも奉仕する。のち鎌倉御家人となり、北条時宗に臣従し、地頭職となる。富士上方重須の郷、駿州稲河の郷、甲州轟郷(等々力)小泉村小作手村、信州山田村辰間村、播州弘治別府の内を領有する。石川家法華信仰の始なり。日蓮聖人に戒を受け「道念日実」と号す。乾元元年(一三〇二)二月一日歿。年七十一歳(重須本門寺大過去帳には弘安十年歿。名前を能助としている。)室には宇都宮泰綱の女〔むすめ〕と、南条時継の女の二人が考えられる。

石川孫三郎能忠〔よしただ〕(義忠)
 父の家督を継ぎ重須城に住し、惟康親王に仕え、永仁六年二月重須本門寺を創立する。母は南条時継の女・鶴寿と考えられる。宇都宮泰綱の女の説もある。後年その子実忠、俊忠は家跡を各の半領を分続する。正和四年(一三一五)八月歿。年六十歳、法名は妙源。(重須寺誌では嘉暦三年(一三二八)九月十五日歿。)妹を正覚尼と号し、弟の忠繁は七良左衛門といい、駿州根方石川村に住した。北条越中守仲時に属し、正慶二年五月九日(一三三三)江州番馬に於て、北条仲時の兵は疲れ矢尽き、糟谷宗秋、石川忠繁等四百余人臣従して自害する。法名は法珍。能繁は孫七郎と称し、江宗番馬に於て忠繁と共に自害する。法名は法玄。七郎左衛門忠繁の長子を能繁、次子を菊乙丸という。能繁の幼名は菊若丸。母は諏訪祝家の女。父忠繁と共に番馬にて自害す。次子の菊乙丸は父の忠繁が戦死した時に僅かに五歳、母の生家たる信州諏訪に移り、のち養子となって諏訪家を相続する。五十年後の六十歳になった菊乙丸は永徳二年五月(一三八二)重須本門寺に詣り、慈父・叔父・舎兄及び一門戦死の諸霊の五十年忌の法要を厳修し、霊牌、霊像を修造する。嘉暦二年歿す。年六十一歳。子孫世々諏訪の社務職となる。(菊乙丸の歿年は再検討の要あり。)
石川孫三郎・源能忠は、天母山〔あんもやま〕下の山宮にある石川城(館)に重須本門寺を建立し、自らは中村の地に退き、正中二年(一三二五)に坊地を白蓮日興上人に寄進している。
  
石川式部大輔実忠〔さねただ〕
 鎌倉将軍惟康〔これやす〕親王の近侍、石川式部勝重と同一人物か?。実忠の母は山城左衛門太夫守久の女。実忠の舎弟・忠玄、忠重はともに正慶二年(一三三三)に江州番馬にて戦死す。よって嗣子無く、舎弟忠泰が家督の一部を継ぐ。実忠は日興上人晩年、門下の重鎮として鎌倉、富士を往復して活躍している。
 『(中略)石川殿(実忠)の御状にもと(疾)く道行くべきやうに承り候ひしが、其の後如何候らん。返す返す御沙汰をば了性御房(本六弟子の日乗)に仰付まいらせて、坊主(日目)はと(疾)く下り給へかしと申し合ひ候。心え(得)られ候べく候。恐々謹言。
  六月二十一日 伊与(重須の日代)』
 この書状は、日興上人の代筆として日代上人が鎌倉在住の日目上人に書かれたものである。日興上人の代官として活躍し、鎌倉居住の了性日乗のもとに滞留している日目に、訴訟の事は日乗に委任して、疾く富士へ帰れというのである。別状には、
 『(中略)返す返す入道の沙汰の二問状よくよく(能々)御覧候べし。敵方より又子細候はば、定て棄置かれ候ひけるか。刃傷損物承状は訴陳状に明白なり。所損法華衆たるによって損物せしむと云々。上□□方の傍例をたびたび(度々)ひか(引)かせ給ふべく候か。恐々謹言。
   (徳治二)七月十二日 白蓮在判
  謹上、了性御房』
 徳治二年前後(一三〇七)に起った日興上人在世の法難で「刃傷損物」「所損法華衆」を鎌倉と富士で蒙った。恐らく実相寺関係の第二回目の法難であろう。日蓮宗門でもまだ解明されていない。
 『(中略)石河殿御物語わたらせ給ふべく候。恐々謹言。
   三月二十五日  白蓮在判
  謹上、了性御房』
 石川実忠は、この法難に重要な役割を果し、日興師の指示を了性房日乗に伝えている。当時了性房は鎌倉大町常在寺に住していた。妙法寺末で元弘三年(一三三三)新田義貞乱入のとき寺宝その他を焼失。日叡(楞巌法親王妙法房・大塔宮護良親王皇子)が応永四年(一三九七)再興。大永三年(一五二三)北山本門寺日在が鎌倉より現在の海老名市へ移築する。
正慶元年(一三三二)五月一日、上野郷地頭南条時光が死去すると、石川実忠の立場はいよいよ重く、時代は鎌倉幕府滅亡へと流れてゆく。八月十九日尊雲法親王は天台座主を退き還俗し、名を護良と改め吉野で討幕の兵を起す。十一月楠正成も千早城にこもり幕軍と戦い、後醍醐天皇が隠岐を脱出す。こうした人心不安と動揺の正慶元年の冬、日興上人はさきの本弟子の制に次ぎ、新六弟子を定めて富士の法城を固めた。翌正慶二年二月七日、日興上人は入寂する。時代激変の中で信仰の師を失い、石川実忠は失意の中で日興上人葬儀に石川一門を率いて参列する。実忠(三郎)は御本尊を捧持。弟の四郎俊忠は鐘、嫡子孫三郎友忠並に弥三郎は供花、小三郎は弓箭を捧持し参列する。御骨は青磁の壺に納めて御廟の内院に埋葬した。これより三ヶ月後には、石川実忠は一族の有力者九名が討死した悲報を手にするのである。五月九日江州番馬にての討死自害である。
重須本門寺二世日妙上人の代に、さきの正中二年(一三二五)石川妙源(孫三郎能忠)の坊地寄進状を紛失したため、本門寺の要請に応じて、実忠は康永三年卯月二十一日に坊地寄進状を提供している。

   重須の法華本門寺旧趾
 身延離山された日興上人は、正応四年(一二九一)九月、上野の庵室より重須郷丸山に移られた。丸山の風光を賞し、長年切望していた本門戒壇建立の理想地を感得せられた。山宮の石川城(館)は、富士信仰の聖地・天あん母も山やまの下に存する。加茂喜三著「富士王朝の滅亡」によると、天母山は「天の母なる山」とされ、その東峯は古来「天神の山」と称され、国狭槌尊くにさつちの故地であり、万農ヶ原を拓くとき、天母山に国狭槌尊が鎮座して指揮をとった場所であった。富士王朝時代、猿田彦ノ神は天照大神の命を受け、天照大神の化身なりと称して諸国巡幸し、大国主命が阿祖山大宮司(富士山)のとき、天母山に到り、ここに天照大神の神霊を招いて、自らはその麓下にいた。その聖地が天母山であり、麿山神廟(天照太神)である。その麿山が「丸山」「満山」となり、日興上人はそこに住居せられたのである。山宮の重須本門寺旧趾は、天照太神有縁の地であり、本門戒壇建立の理想地であった。それ故、本門寺に『本化垂迹天照太神宮』が建立されたのである。山宮地区は古代より「山宮七廟」を祀る聖域であった。日興上人も「与日目日華書」に「満山衆徒中」と記している。<9> 『   興日目日華書
我滅後門弟末流於無随身一廣宣流布時機遠可思、日豪依日目補処日華可依日尊補処日仙讃州命而開堂ス餘皆我末流異體同心本門流布可待也〔我が滅後門弟末流、随身無きに於ては、廣宣流布の時機遠しと思すべし。日豪は日目の補処たるに依り、日華は日尊の補処たるに依るべし。日仙は讃州に命じて開堂す。餘は皆我が末流、異體同心に本門の流布を待つべき也〕
  正慶元年九月日   興  判   
    日目御房
    日華御房
右此相承既遺日目日華富士山本門寺末流日目日華日豪日尊等可給仕是日興ニ給仕スルナラク耳〔右、此の相承、既に日目・日華に遺る。富士山本門寺の末流、日目・日華・日豪・日尊等に給仕すべし。是れ日興に給仕するならくのみ〕。
日   興  判   』
   満山衆徒中
日興上人が住した丸山は、現在特定できないが、石川家の伝承によれば、山宮薬師堂の南方、通称「やるけ山」と言われている。字〔あざ〕名の釈迦堂は、身延宗祖御廟の場所に日蓮聖人が御遺言され、御遷化記録に、
 『御遺言云
  佛者釈迦立像 墓所傍可立置〔墓所の傍に立て置くべし〕云々<10>』
の如く、重須本門寺に宗祖の御廟を造立、身延廟所と同様に日興上人が「釈迦立像」を祀った所をいう。その前がおそらく「本門寺棟札」にいう『日蓮聖人御影堂』であると推考される。石川城の重須本門寺は、身延西谷の地名を移し、『西ヶ谷〔やつ〕』と称し、六老僧の日頂上人が住したと伝えられる。「南ノ家跡」に、「重須談所」があった。重須談所に於いて日興上人講義中、梨の落葉を見て、興師より破門された日尊上人の古事の『梨の樹』の大木も、昭和十九頃伐採されるまで「南ノ家」に存した。石川次郎氏作成図によると
日興上人が重須本門寺の「東ノ大坊」に住し、日目上人が「西ノ大坊」に住したことは、次の諸書にて明らかである。
『  興民部殿書
を(奥)くよりいせ(伊勢)殿小三郎かよ(川)うと(途)うばしも(持)ちての(上)ぼりて候はば、これへ(★)やがて人をくだ(下)して申さんにしたが(随)ひてつれんはあきらめよ、さうなくそれにてばしさはく(詮讃)るなど、よくよくおほせつけ候へ、しさい(子細)候て申候也、かまへてたれ(誰)申候とも、これより人の、のぼりて、さはぐ(詮讃)りて候はさらん、さきにあきらむる事ゆめゆめあるまじく候、よくよくおほせつけ候へ、恐々謹言
  十一月十三日にしの房 日 目判  
    民 部 殿<11>  』
【編者云】 正本宮士小泉久遠寺に在り

『  西坊主御返事
伯者殿の他界事歎入候、為2孝養1田一段御影の御見参に申上まいらせ候、明年一作、手作にせさすべく候、恐々
  八月十日            白   蓮  判
    西坊主御返事(日目師)<12>  』
【編者云】 正本富士大石寺に在り

日興上人在世中の正中二年(一三二五)には、重須本門寺の日蓮聖人御影堂から宗祖真筆本尊と御影像が盗取されたと記している。
『  日代置状
正中二年十一月十二日夜於日蓮聖人御影堂日興所給之御筆本尊以下廿鋪、御影像一鎮並日興影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱被盗取畢、日興帰寂之後若シ弟子分中号相続人令出之輩者可爲門徒怨敵大謗法不孝之者也、於謗法罪者可蒙釈迦多實十方三世諸佛日蓮聖人御罸於盗人科者爲御沙汰可仰上裁若出来時者日代闍梨相続之可爲本門寺重宝仍爲門徒存知置状如件〔正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人御影堂に於て日興の給はる所之御筆・本尊・以下廿鋪、御影像一鎮並びに日興が影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢んぬ。日興帰寂之後、若し弟子分の中に相続人と号して出さる之輩は、門徒の怨敵・大謗法・不孝之者爲る也。謗法の罪に於ては、釈迦・多實・十方三世諸佛・日蓮聖人の御罸を蒙るべし。盗人の科に於ては、御沙汰を爲して上裁を仰ぐべし。若し出来る時は、日代闍梨之を相続して本門寺の重宝と爲すべし。仍て門徒存知の爲、置状件の如し〕。<13> 204頁
  正中二年十一月十三日日   興  判  』


開山 日興上人正慶二年二月七日寂(一三三三)八十八歳。
二世 日妙上人貞治四年八月一日寂(一三六五)八〇歳。
三世 日恩上人応永九年九月二日(一四〇二)?歳
本門寺は永仁六年(一二九八)建立され、日順雑集によると、貞和三年(一三四八)に再建されている。
『  参考史料 日順雑集(富士宗学要集第二巻宗義部(1)一二七ページ)
  一 本門寺 貞和三年丁亥十月十三日造営なり
  願主 日妙 日順 日済等
  大施主石河式部太輔源実忠
  大施主南条太郎兵衛平高光
  大施主秋山式部太夫源宗信
   大工本門寺大工兵衛目末信』
 実忠は能忠の子、高光は時光の孫であるが、宗信と末信とは行実不明であるが、宗信は与市の子であろうか。
永徳二年(一三八二)さきの石川七郎左衛門(江州番馬にて北条仲時と共に討死)の末子。菊乙丸が、慈父ら一族の五十回忌法要を重須本門寺にて営む。導師は三世日恩上人である。日恩は現在の北山本門寺を「日恩買得の地也」を本門寺古記録に記している。そうすると、本門寺が重須山宮(石川館趾)より北山へ移るのは、日恩上人の代、菊乙丸の五十回忌法要のあと永徳二年(一三八二)以降であろう。
追考
 日蓮聖人は天照太神を次の如く語られる。
 『天照太神・正八幡宮等は我国の本主也<14>』
 『日本国の王となる人は、天照大神の御魂の入りかわらせ給ふ王也<15>』
 『天照大神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊也<16>』
 『比経(法華経)を持つ人をば、いかでか天照大神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事也<17>』

  法華経守護神= 天照太神・八幡大菩薩 =本地釈尊

日興上人、富士門流では天照太神・富士山を次の如く把える。
 『日蓮ハ富士山自然ノ名号ナリ。富士ノ実名ハ大日蓮華山ト云フ。日本ト云フ。神ヲハ日神ト申シ、ホトケノ童名ヲハ日種太子ト申ス。予カ童名ヲハ善日(麿)……天照大神ト釈尊日蓮ト一体ノ異名……日蓮ノ日ハ則チ日神昼ナリ。蓮ハ即チ月神夜ナリ。<18>』
 『法華本門ノ極説ヲ以テ、吾国第一ノ霊峰富士山ニ弘メラルレバ、国家福祚ノ大本<19>』

      (天照太神)
      大日蓮華山        仏ハ日種太子
  釈尊          法華本門 = 日本
      日蓮           神ハ日神
                  (天照大神)

『神ハ日神』(天照大神)とは、『日本』の国名と関連し、日本の象徴たる大日蓮華山(富士山)と関連してくる。日蓮聖人が一切経閲覧のため入蔵された岩本実相寺は、富士山岳信仰の本山である。「富士修験の祖」と言われたのが『富士上人松代〔まつよ〕=末代』である。平安時代末に書かれた『本朝世紀』に
 『久安五年(一一四九)(鳥羽法皇)富士山頂に仏閣を造り大日寺と名づけ、数百度登山し、写経を埋経した(取意)』
とある。昭和五年富士山頂の浅間神社奥宮再建の時、経箱があり、「承久」(一二一九)の年号と「末代聖人」の名があった。末代は駿河の人で、岩本実相寺の智印に行学を学んで、天台真言の密教を身につけ、富士山を修行道場とした。日興、日頂、日持、日弁、日位等は、実相寺、四十九院の影響を強く受けた筈である。日蓮聖人も岩本入蔵のとき、富士山岳信仰を学ばれた筈である。岩本実相寺は鳥羽法皇の「勅願寺」である。「神の本地は仏」であり、仏は神の姿で現われるという神仏合体の宗教観が「浅間神社の本地は大◎日◎如来」という大日信仰と富士信仰が合体した。富士山頂は、地蔵岳、阿弥陀岳、観音岳、釈迦岳、弥勒岳、薬師岳、文殊岳、如来岳(大日)の名があり、胎蔵界曼茶羅の『中台八葉院』の仏教世界を大日如来が統一仏として現われているという真言密教を、日蓮聖人は天照大神=『釈尊が本地』と把え、天照大神の本名『大日霎貴〔オオヒルメ〕』が、富士山の相と把えたのであろうと考えられる。大日如来の『大日』でなく、天照大神の本名『大日〔オオヒ〕』霎◎女◎である。それが重須本門寺に伝わる『本化垂迹天照大神宮』であると考えられる。
河内の石川氏について、亀山市市ヶ坂町本宗寺にある石川系譜は、
 石川氏発祥の地は、河内の国である。大阪電鉄「太子口」で下車すると、前方に源氏の遺跡である壺井八幡、通法寺跡が眺められる。葛城、金剛の峰は、梅川、石川、飛鳥川の水源であり合流して大和川となる。付近には応神天皇陵、用明天皇陵、聖徳太子陵、飛鳥の地がある。多田満仲の四男、源頼信は寛仁四年(一〇二〇)河内守に任ぜられ、古〔こいち〕市郡〔ごおり〕の香炉峰に館を築き、九月より居住す。当地において頼義(治安元年)、その子義家(長暦二年)、次男加茂次郎義綱、三男新羅三郎義光が誕生することによって、河内源氏の嫡流発祥の地となった。「源氏祖郷」の額が掲げる通法寺(現・壺井寺)は頼信が長久四年(一〇四三)九月五日に通法寺を建立し、永承三年(一〇四八)九月一日七十四歳をもって歿し、通法寺山上巽に葬られた。頼信の嫡子・頼義は、のち鎮守府将軍伊予守に任ぜられ、永承六年(一〇五一)義家と共に奥州安部頼時及びその子貞任〔さだとう〕、宗任〔むねとう〕の反乱征討の勅命をうけ、同年五月出陣に臨み石清水八幡宮に詣で祈願し、凱戦後、その験ありとして康平七年(一〇六四)五月十五日に社殿を建立し、石清水八幡の神霊(仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・王織姫・武内宿弥)を祀り、壺井八幡宮と称し、香炉峰の地名を壺井と改めた。
 天仁二年(一一〇九)正月三日、義家の子息・義時は夢告により、同年八月十八日八幡宮の西側に社殿を建立し、父祖三将軍(頼信・頼義・義家)の霊を祀り、河内源氏の宗廟、通法寺の鎮守となった。京都六孫王社、摂津多田神社と共に「源氏三社」と称せられる。鎌倉時代になり、石川新兵衛宗忠を宗家とした一族は、河内国を出て富士上方の庄・重須郷を本貫地として、二代孫三郎能忠、三代三郎実忠で駿河石川一族の基盤が築かれた。
  いにしえの清き流れは石川の
   河内を出て富士に栄えん。
(山宮村・石川弥右衛門尉吉次の歌)


 <1> 日蓮宗宗学全書第二巻一〇六頁
 <2> 右 同 一二〇頁
 <3> 右 同 一七三頁
 <4> 右 同 一四五頁
 <5> 富士要集第八巻一〇頁
 <6> 日蓮宗宗学全書第二巻一一一頁
 <7> 重須殿女房御返事 昭和定本 一八五五頁
 <8> 日蓮宗宗学全書第二巻一一四頁
 <9> 「富士王朝の滅亡」四八頁。加茂喜三著
    日蓮宗宗学全書第二巻一四四頁
 <10> 右 同 一〇五頁
 <11> 右 同 二一四頁
 <12> 右 同 一五〇頁
 <13> 右 同 一三六頁
 <14> 定遺・善無畏三蔵抄四六七頁
 <15> 定遺・高橋入道殿御返事一〇九〇頁
 <16> 定遺・日眼女釈迦仏供養事一六二三頁
 <17> 定遺・上野殿母尼御前御返事一八一六頁
 <18> 「産湯相承事」・宗全二巻三六頁
 <19> 「日代師申状」・宗全二巻二三一頁
※『富士石川氏史』著者、石川次助氏に大変お世話になり、この論文を作成した。

※本稿は、平成十年十一月六日、立正大学で開催された第五十一回日蓮教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。












































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