日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第33号:133頁〜 研究ノート ←前次→

 日蓮聖人の世界観(三)
    ―『観心本尊抄』及び、その後の御遺文を中心として―

三原正資
(現代宗教研究所嘱託)

      はじめに
 世界各地で人間の生活環境を脅かす異常な事態が頻発している。このような状況を宇沢弘文氏は次のように記述している。
  地球環境にいま大きな変化がおきつつあります。世界中いたるところで異常気象がおこり、様々なかたちをとってあらわれています。ハリケーン、サイクロン、台風がいずれも、これまでとは異なった強さとルートをもって頻繁に発生しています。北アメリカ大陸、アジア、ヨーロッパのいたるところで、雨の降り方が大きく変わってきています。大洪水と大旱魃とが交代におこり、数多くの生命が失われ、自然が破壊されています。
(『地球温暖化を考える』岩波新書)     
 この文章を読む私たちは、
  旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、これを悲しまざるの族敢て一人も無し。(定二〇九頁)
と記す日蓮聖人の『立正安国論』を思い浮かべる。日本は、現在、まだこのような悲惨な状況に置かれていないが、しかし危機は隠れたところで進行している。そして眼を世界に転ずれば、このような光景は各地で日常的に繰り広げられている。
 今、その光景の中に『立正安国論』を置いてみたらどうか。この世界は久遠本仏の在す常寂光土であるにもかかわらず、なぜ天変地夭飢饉疫癘に満ち充ちているのであろうか、果たしてこの世界は浄土なのかと、今日の私たちもきっと疑問に思うだろう。
 さて娑婆と浄土、九界と仏界との関係について述べた、鈴木大拙、久松真一、曽我量深、米沢英雄、各師の文章を掲げる。
  霊性的世界と云ふと、多くの人々は何かそのやうなものが此世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するやうに考へますが、事実は一世界だけなのです。二と思はれるのは、一つの世界の、人間に対する現はれ方だと云ってよいのです。(岩波書店刊鈴木大拙全集第七巻所収『仏教の大意』)
  吾々人間は本来救済されているのであって、イエスまたは弥陀によって事新しく救済されるのではない。イエスや弥陀はこの本来救済の真相を説き、その真相に到る道を指示するものにほかならぬ。
(講談社学術文庫 久松真一『東洋的無』所収「救済の論理」)           
  私どものいまおるこの世界と、それから仏さまの浄土というものが、阿頼耶識の世界におきましては、全く一枚の紙の表裏のようになっておるわけであります。(曽我量深『法蔵菩薩』)
  浄土こそ真実の世界である(略)浄土こそ絶対現実(略)それをあの「自己」が錯覚して浄土に対する「穢土」と受けとっている。(米沢英雄『実存的空虚』。なお『法蔵菩薩』及び『実存的空虚』は水書房刊紀野一義『法華経の風光』第二巻より引用)
 諸師同じく究極的現実は一つの世界であり、それこそが浄土であると述べている。法華経如来寿量品にも「衆生劫尽きて大火に焼かるると見るときも、我此土は安穏にして天人常に充満せり」と説かれている。だが地球的規模で環境が変動し、「天変地夭」に満ちたこの世界が浄土であると言っても、現に苦しむ人々に何の益があろうか。それでは『立正安国論』を政治権力者に対して提出された意義はないに等しかろう。
 そこで日蓮聖人は「本地久成の円仏は此世界に在せり」(『守護国家論』定一二九頁)、「三界は皆仏国也」(『立正安国論』定二二六頁)、「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土也」(『観心本尊抄』定七一二頁)と示されながら、同時に教えの歴史的実現を自身の使命と考えられ、『観心本尊抄』において、
  正像になき大地震大彗星等出来す。これらは金翅鳥・修羅・龍神等の動変に非ず。偏に四大菩薩出現せしむべき先兆なるか。(定七〇二頁)
等と示されるに到ったのではなかろうか。
 さてこの場合、娑婆と浄土とはどのような関係にあるのだろうか。日蓮聖人は、四大菩薩は浄土からこの娑婆世界へと歴史的に出現してくると考えられたのであろうか。娑婆と浄土とは一つではなく、そこには竹膜の隔たりがあるのであろうか。このような疑問の下に、本稿は『観心本尊抄』及び、その後のご遺文に見られる世界観を考察したい。
      一、『観心本尊抄』の世界観
       1、互具への疑問
 日蓮聖人は「人五常を破ることあれば、上天変頻りに顕れ、下地妖ときおりに侵すものなり」(『災難興起由来』定一五八頁)等と述べられて、依正不二すなわち私たちの心と世界の在り方とが密接な関係を持つと見られていたことは、すでに述べた。ところでこのような世界観は、日蓮聖人とほぼ同時代人である法相宗の良遍も『法相大乗宗二巻鈔』に、
  一切ノ諸法ハ、皆我心ニ離レズ、大海・江河・須弥・鉄囲、見ズ知ラヌ他方世界、浄土菩提、乃至一実真如ノ妙理マデ、併ラ我ガ心中ニ有リ」(岩波書店刊日本思想大系十五所収 一二六頁)
  サレバ万ヅノ物ハ皆ナ我等ガ心中ニ有ル第八識ノ中ノ各ガ気分ヨリ起リ出テ、心トモ成リ、身トモ成リ、衣服・飲食トモ成リ、家トモ財トモ、天地・国土・山河・草木トモナルナリ」(同一四四頁)
と述べているので、当時の仏教徒は心と世界とが深く関係し、いわば心の中に浄土があるという世界観を共有していたと思われる。しかし聖人は『観心本尊抄』で、一念三千・十界互具の理論を常識的には信じ難いものとして、殊更に疑問の対象とされるのである。
  本門を以て之を疑はば教主釈尊は五百塵点以前の仏也。(略)其の外十方世界の断惑証果の二乗竝に梵天・帝釈・日月・四天・四輪王乃至無間大城の大火炎等、此等は皆我一念の十界か。己心の三千か。仏説たりと雖も之を信ずべからず」(定七〇七頁)
 という有名な第十八番問答の一節を、良遍の『法相二巻鈔』の一節と比較してみるがよい。心生説と心具説の立場の違いがあるとはいえ、全く対照的であると言えよう。一念三千・娑婆即寂光の世界観の是非を、今一度問うたものが『観心本尊抄』であると言えよう。その事例を挙げてみよう。
  不審して云く(略)答えて曰く、此事難信難解也。(定七〇三頁)
  問て曰く、自他面の六根共に之を見る。彼此の十界に於いては未だ之を見ず。如何が之を信ぜん。(定七〇五頁)
  汝之を信ぜば正法に非じ。(定七〇五頁)
  如何信心を立てんや。(定七〇五頁)
  問て曰く、十界互具の仏語分明なり。然と雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者也。
(定七〇六頁)     
  人界所具の仏界は水中の火、火中の水。最も甚だ信じ難し。(定七〇六頁)
  此等の現証を以て之を信ず可き也。(定七〇七頁)
  仏説為りと雖も之を信ず可からず。(定七〇八頁)
  夫一念三千の法門は一代の権実に名目を削り、四依の諸論師其の義を戴せず。漢土日域の人師も之を用ひず。如何之を信ぜん。(定七〇八頁)
 このように聖人は『観心本尊抄』で、『守護国家論』の「本地久成の円仏は此世界に在せり」あるいは『立正安国論』の「三界は皆仏国也」という楽観的な表現に代わって、仏界の所具に強い疑念を表明され、あらためて一念三千の世界観の是非を問われているのである。

       2、隠れている仏界を求めて
 「本仏はこの世界に在す」「この世界が浄土(仏界)である」というのが一貫した日蓮聖人の主張であるが、その仏界が直ちに私たちの眼に見えるわけではない。如来寿量品には「汝が父すでに死しぬ」と説かれ、本書で聖人は「人界所具の仏界は水中の火、火中の水」(定七〇六頁)と示されるように、仏界は私たちの眼には全く映ることのない隠れた存在である。本書の題名「如来滅後五五百歳始観心本尊」が暗示するように、インド応現の釈尊が入滅されて久しいこの世界で私たちが仏界を観ることができるかどうかを、聖人は本書で追求されたのである。
 この意味で本書の第二十一番問答以降の正像末の弘通を説かれるにあったって使用される「出現」という言葉は象徴的である。それは釈尊がこの世界に誕生されたように、仏界が歴史的現象として現れ、私たちの眼にあらわになることを意味しているからである。今、その用例を探ると、
  小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す。大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す。三に迹門の四依多分は像法一千年・少分は末法の初也。四に本門の四依地涌千界は末法の始めに出現すべし。今の遣使還告は地涌也。…(定七一六頁)
  今末法の初(略)迹化の四依は隠れて現前せず。諸天其国を弃て之を守護せず。此時地涌の菩薩始て世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ(定七一九頁)
  此時地涌千界出現し本門の釈尊の脇士と為りて一閻浮提第一の本尊此国に立つべし。(定七二〇頁)
  此菩薩仏勅を蒙りて近く大地の下に在り。正像に未だ出現せず。(略)偏に四大菩薩出現せしむべき先兆なるか。
(定七二〇頁)
等の文章を拾うことが出来る。ここで私には、出現するとはどこからどこへ現るのか、娑婆即寂光ではないのか、この世界と仏界とはどのような関係にあるのか等の疑問が浮かぶ。十界互具の世界観においてはこの世界と仏界とはどのような関係にあるのだろうか。

       3、十界互具―仏界出現―の世界観
 十界互具とは、『撰時抄』に「一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず」(定一〇〇四頁)と述べられているように、私たちの眼に見える九界のこの世界と「水中の火、火中の水」と表現される私たちの眼には見えない仏界が相即して一つであることであろう。だが果たして九界と仏界とは単純に一つなのであろうか。単純に一つならばあえて即を言う必要はない。
 法華経虚空会の出現の場面を見てみよう。
 多宝如来の宝塔は「地より涌出して空中に住在す」(見宝塔品第十一)と述べられる。地とは大地であり、九界である娑婆世界、この世界を表しているであろう。宝塔が地より涌出するとは「水中の火、火中の水」である仏界が九界の中から現れてくること、九界即仏界を表現していると言えよう。しかし宝塔が大地に止まることなく、空に向かって上昇することは、仏界は九界を超えていることを示しているのではなかろうか。単純に一つとは言えないようである。このことは、地涌の菩薩の出現においても同様である。
  「娑婆世界の三千大千の国土地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩あって同時に涌出せり。是の諸の菩薩は身皆金色にして、三十二相無量の光明あり。先より尽く娑婆世界の下此の界の虚空の中に在って住せり」
(従地涌出品第十五)
 大地の下の虚空の中に金色三十二相の菩薩が在すという表現によって九界の中の仏界がよく表され、大地を震裂させて虚空に向かって涌出することで仏界の九界にたいする超越性を象徴している。法華経の説相は九界即仏界を示しながら、九界に対する仏界の超越性をよく示しているのである。二而一ながら、一而二であることが表されている。
 即とは二而一であるが、単なる一であれば「出現」ということは成立しないであろう。なぜならば「自界叛逆・西海侵逼の二難」(定七二〇頁)の起こる時、「正像に無き大地震大彗星出来す」(定 同)る時という歴史的時間と日本という歴史的空間の場に地涌の菩薩が歴史的現象として出現して「本尊此国に立つ」(定 同)、すなわち浄土が顕現し娑婆が寂光となるのであるから、単に娑婆即浄土と観照するのとは大変趣が異なるようである。
 さて本書において仏界とは「常住の浄土」と説かれた「本時の娑婆世界」であろう。「本時の娑婆世界」という表現に九界と仏界、娑婆と浄土との一而二、二而一である点が示されている。そこで、「師弟共に霊山浄土に詣て三仏の顔貌を拝見したてまつらん」(『観心本尊鈔副状』定七二一頁)という死後の浄土も説示されるのである。観照的な浄土であるならば娑婆とは異なる他界的な浄土は教示されないであろう。
 しかし九界と仏界が互具しているという「本時の娑婆世界」の世界観においては、未来に歴史的に顕現する浄土も、他界としての浄土も、不思議なことに、時空の限定を超えてこの世界と二而一なのである。しかも聖人は「偏に四大菩薩出現せしむ可き先兆なるか」(定七二〇頁)と述べられている。この一節を、本仏が命令して四大菩薩をして出現せしむの意味に受け取れば、本仏は私たちの世界とともに在り、しかも私たちの世界に四大菩薩を出現させるべく働きかけているという、能動的な仏界の実在を聖人は確信されていたと思われるのである。
 今、このような世界観を図解的に説明すると、時と場所との限定を超えて広がる「本時の娑婆世界」の中に、時と場所によって限定された私たちのいる娑婆世界があり、四大菩薩は「本時の娑婆世界」から、本仏の付属を受けて誓願してこの私たちのいる娑婆世界へと出現し、その教化を受けた私たちは浄仏国土の菩薩行を修し、この世界から「本時の娑婆世界」へと往詣するのである。「本時の娑婆世界」は時と場所との限定を超えてこの世界に浸透(互具)しているのであるから、出現と往詣は誕生と死を契機とすると見てもよいし、今日只今の一瞬の中にあると見てもよいのである。前に述べた法華経の説相はこの仏界の超越と内在、一而二と二而一、すなわち出現と往詣とをよく示しているのである。

       4、仏界出現の世界観の特質
 『観心本尊抄』の世界観のこのような特徴を明らかにしたのが、三種の浄土を説いた田村芳朗師であり、山川智応師である。山川師は日蓮聖人の宗教は「三世了達三身常住の本仏の実在を基礎としなければ成立しない法門」であり、「我等衆生迷蒙の世界の他に本仏常住の寂光世界」(『観心本尊抄講話』七十七〜八頁)のあることを聖人が確信されていたであろうと述べている(『現代宗教研究』三十二号所収拙稿「日蓮聖人の世界観2」参照)。
 このような日蓮聖人の世界観の特質を知るために、さらに梅原猛氏と梅原伸太郎氏の研究を紹介しておきたい。
 梅原猛氏は『日本人の「あの世」観』(中央公論社刊)の中で親鸞の浄土思想について次のように述べている。
  念仏の行者は菩薩となって、死後も、必ず浄土へ行き、そして菩薩の必然として、この世へ帰り、また他の衆生の救済教化に励むというのです。(四三頁)
 梅原氏は、この還相回向という、浄土から娑婆へと帰ってくる思想を親鸞独特のものとして高く評価している。そしてこのことに関して、『誤解された歎異抄』(光文社刊)では次のようにも述べている。
  親鸞が最晩年に作った『皇太子聖徳奉讃』は、還相回向の帰結としての、聖者の生まれ変わりの話であり、救世観音は、いろいろな所にいろいろな人として化現して、衆生を救済し、仏教を布教するのである。(略)こういう、場所を超えて時を超えて、救世観音が自由自在に現れる世界が、晩年の親鸞の世界であり、それは二種回向の思想が、深化されたものと言わねばならない。(一五七頁)
 そして梅原氏は、「従来の親鸞の解釈は、こういう親鸞の説を重視せず、そのような枝葉の部分ばかり(例えば悪人正機説 筆者註)問題にしてきた。それはやはり親鸞の思想を誤解していたといわねばならない」と断じて、その原因は、親鸞の思想を魂の存在と浄土の実在を信じられない近代人の立場で解釈しようとしたためと述べているのである。
 この構造は日蓮聖人の本時の娑婆世界とこの娑婆世界、出現と往詣の関係とよく似ている。このような説が浄土真宗において受け入れられているかどうかは別として、本宗の教学においても私たちに働きかけてくる他界としての仏界の実在、超越的実在者の存在をどう捉えるかという問題があると思われる。
 次に、梅原伸太郎氏の『「他界」論』(春秋社刊)のごく一部を紹介しよう。氏は死生観を通して各宗教を比較している。今の場合はキリスト教について述べたところが参考になる。
  イエスの他界観念は端的に、「神の国は近づいた」「神の国はすでにあなたがたのところに来ている」ということばで示されている。(略)神の国が来るという言表は、原理的に言って次の解釈を許すものと思われる。(1)「神の国」は本来この世と二重に存在できる性質のものであって、それが徐々にこの世に浸透しつつある。「神の国」は神自身(または体)のことである。(2)「神の国」というのは心の世界の問題である。従って人間の心が改まることによって、神の世界が人の心の中に浸透してくる。「神の国」は人間の意識の状態としての他界のことである。(一三三頁)
 梅原伸太郎氏は(2)の立場は東洋的神秘主義に通じると述べているが、仏教に最も親しい考え方でもある。「不軽菩薩は所見の人において仏身を見る」(定七〇六頁)等に、この考え方を見ることが出来る。また「一閻浮提第一の本尊此国に立つべし」(定七二〇頁)「偏に四大菩薩出現せしむべき先兆なるか」(同)等の表現は(1)のキリスト教的な考え方と通じるであろう。ことに「神の国」は本来この世と二重に存在している、という表現は「本時の娑婆世界」と「この娑婆世界」との在り方と似ている。
 以上、両氏の著作を参考に日蓮聖人の『観心本尊抄』の世界観を概括すると、聖人にとっての浄土とは単に意識の状態としての世界であることにとどまらず、この世界と共にありながら私たちの眼からは隠れ、他界として実在している世界でもあり、しかもその浄土=仏界が歴史的に出現してくると、考えられていたと思われる。このような世界観は近代合理主義的な考え方及び今日一般的な仏教の枠組みを超えていると言わざるを得ない。小南一郎氏がエリアーデの著作を評して「誤解を畏れずに言えば、キリスト教の新教や浄土真宗が、宗教信仰の中心を個人の心の上に据えたのは、たしかに人類の精神の歴史における新しい展開ではあったが、しかし、そのために失われたものも少なくなかった」(毎日新聞平成十年月日不明)と述べたことばを味わうべきものと思う。
      二、『観心本尊抄』以後のご遺文に見られる世界観
 ここでは身延ご入山初期の二、三のご遺文を中心に、主に『観心本尊抄』の世界観がどのように展開されているかを考察する。

       1、『瑞相御書』の世界観
 『観心本尊抄』と同様の記述は『顕仏未来記』に「去る正嘉年中より今年に至るまで或いは大地震或いは大天変(略)当に知るべし、通途世間の吉凶の大瑞に非ざるべし。惟れ偏に此大法興廃の大瑞也」(定七四二頁)と示され、さらに文永十一年の『法華取要抄』にも述べられ、文永十二年に著された『瑞相御書』の説示に至るのである。
 本書の概略を『日蓮聖人遺文辞典』には、
  本抄は仏法興隆の瑞相を詳説したもので、法華経の教理から瑞相を説明し、末法に日蓮弘通の妙法が広布することを示している。すなわち、まず法華経説示の瑞相について、天台・妙楽の地動瑞の釈を引用して依正不二の原理から説明し、人の身心と天変地夭とは深い関係があることを提示する。(五九九頁)
と説明されているように、聖人ご自身の世界観を理論的に明示されたものである。本書で聖人は「十方は依報なり。衆生は正報なり。依報は影のごとし。正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし(略)人の眼耳驚躁すれば天変あり。人の心をうごかせば地動す」(定八七三頁)と依正不二の理論を述べられるが、この立場は初期の御遺文以来一貫している。
 本書の中で注目したい点は、
  仏、法華経をとかんとし給ふ時、五瑞六瑞をげんじ給ふ。(定八七二頁)
此神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入って、法華経の肝要のひろまらせ給ふべき大瑞なり。経文に云く、仏滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず等云云。(定八七四頁)
と述べられている点である。ここでは依正不二の論理に従いながら、それを一歩超えて「現無量神力」の経文を引用されて、自然現象を仏・菩薩などの超越的人格者の作用によると解釈されているかのように見える。『観心本尊抄』の大地震・大彗星は「偏に四大菩薩出現せしむべき先兆なるか」という記述とあわせて興味深いところである。

        2、『法蓮鈔』の世界観
 法華経の行者を謗る罪報について書き始められた本書の筆は、地獄界、提婆達多、阿闍世王、転輪聖王、四大天王、帝釈天、第六天の魔王、大梵天王、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界の説明に及んでいる。この内容は『観心本尊抄』の第十八番問答の叙述や大曼荼羅の列衆の表記とほぼ共通し、聖人が十界という他界の実在を信じられていたことを示している。
 また書写の功徳を明かされた中で、
  今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとへば餓鬼は恒河を火と見る。人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各別也。此法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種種の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。(定九五〇頁)
と述べられた箇所は、十界互具の世界の在り方を示されているようで興味深い。
 「果報にしたがて見るところ各別也」とは依正不二ということであろう。同じ娑婆世界を仏の果報を得た者は浄土と見、凡夫の果報を得た者は穢土と見るのであるが、それだから単に二つは一つというのではない。本来一つでは互具ということが成立しないからである(この点については優陀那院日輝師が『一念三千論』で「十界差別の故に互具功有り互融徳有る也」等と論じている。『現代宗教研究』第二十二号所収拙稿「優陀那和上の事観と現代」参照)。
 各別である世界が同時に存在し、互いに隠れているのである。法華経化城喩品第七で大通智勝仏が悟りを開いたとき、「其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能はざる所、而も皆大に明かなり。其の中の衆生各相見ることを得て、ことごとく是の言を作さく、此の中に云何ぞ忽ちに衆生を生ぜる」という事態が起こったとあるのは、このことを指しているのかもしれない。

       3、『撰時抄』の世界観
 本書においては主題に関連した次の文章に注目してみよう。
  此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我身に入りかわらせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門これなり。(定一〇五四頁)
 この文章に類似した内容のものは他にも
  只事の心を案ずるに、日蓮が道をたすけんと、上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか。又教主釈尊の御計ひか。(『四条金吾殿御返事』定一三六二頁)
等とある。これは仏・菩薩界が本時の娑婆世界からこの世界に姿を現し、活動していることを示されたものに他ならない。また本書に
  天の御計ひとして、隣国の聖人にをほせつけられて此をいましめ、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし、自界反逆せしむ。(定一〇四七頁)
とあるのは、この娑婆世界に対する天界の活動を述べられたものである。
      おわりに
 本稿は、「出現」という言葉を手がかりとして、聖人の世界観を考察してきた。近現代の世界観は他界や異界の実在を認めない。大方の仏教学においても同様であろう。しかし日蓮聖人の教学においてはそれらを無視して聖人の教えを理解することは不可能であるという一面を持っていると思われてならない。聖人の「一念三千」とは在他に実在する仏界を心に具えるという不思議な世界観だからである。広い視座に立って考察することが必要ではなかろうか。この「娑婆世界」はニュートン的宇宙観を超えた広大な世界であるかもしれないではないか。ユダヤ教の神学者マルチン・ブーバーは次のように述べている。
   この労働者の口から出たその短い言葉(私はですね、この世界のことに精通するのに、何も別にこうした『神』などという仮説を立てる必要はないという経験をしています。筆者註)は、私の心にこたえた。(略)私の心に浮かんできたのは次のような思いであった。「この人物の抱いている自然科学的世界観の確実性をぜひともゆさぶってやる必要がある、彼はそれにのうのうとあぐらをかいて、人が『精通』しうるような『世界』なるものを考えているのだ。」〔そこで私は彼に向かって説いていったものである。〕「いったいそれはどのような世界なのですか。(略)われわれが見る赤い色は、われわれの向こうに、すなわち『事物』の中にあるのでもなければ、こちら、つまり『心』の中にあるのでもありません。それは折りにふれておこる両者の組み打ちから燃え上がり、そして、まさしく赤を知覚する目と、赤を生ずる『波動』とが向き合って存在する間だけ赤い色として輝くのです。いったい世界とその確実性とはどこにあるのでしょうか?」 (みすず書房刊『隠れた神』七頁)
 このようにあたかも六根六境六識を説く仏教の認識論に似た方法で、ブーバーは自然科学的世界観の不確実性を述べ、神の存在を提示している。このような観点からすると、自然科学的世界観と似ているところから、しばしば仏教的世界観の正しさが説明されてきたが、これは順序が逆であって、ブーバーのようにこの世界は私たちの眼に見えるようなものではない、と人々に説くことが私たちの取るべき立場なのかもしれない。
 「近代化」された仏教が近現代の病弊をえぐり出すことが可能なのだろうか。近代文明に内在する危険を察知することもたいして出来なかった。「天災地夭」を神の心のあらわれと見たことを迷妄だとして片づけても、それに代わる姿勢を私たちは用意できないでいる。とは言いながら、眼に見える世界が不確実であるとすれば、「我等は凡夫なり。過ぎにし方は生てより已来すらなをおぼへず。況や一生二生をや。況や五百塵点劫の事をば争てか信ずべきや」(『法蓮鈔』定九四二頁)と日蓮聖人も実に現実的な感覚で述懐されているように、隠れた仏界の存在とその働きを信じることはなお難しいことと言わなければならない。そのために「現在に眼前の証拠あらんずる人、此経を説かん時は信ずる人もありやせん」(同 定九四三頁)と述べられ、ここから日蓮聖人は大地震・大彗星を四大菩薩出現の先兆と捉え、法華経の真理を歴史的に顕現するために身命を賭して宗教的活動を開始されたと、私は推察する。聖人にあっては隠れた仏界の発現は彼方から来るのではなく、自己の足下から湧き出すものであったのである。
  日蓮聖人の主義は、文字の法華経に説いてある功徳、光栄、理想を、ことごとく自分の生命に実現しようというにあった。この「法華経色読」主義からいえば、法華経の実体は、これを他に求むべきでなく、信者行者みずからがその実体なのである。(博文館刊『法華経の行者日蓮』一二九頁)
という姉崎正治のことばはこのような意味に理解できるのではなかろうか。私たちがお題目を仰ぎ、唱え、伝えていくことは、隠れていた本仏の浄土(本時の娑婆世界)の出現に他ならないのである。

※本稿は、平成十年十一月六日、立正大学で開催された第五十一回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。

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