日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 現宗研所報 > 第33号
所報第33号:61頁〜 教化学研究 ←前次→

  日蓮聖人の『平家物語』受用を通して布教教化のあり方を考える

今成元昭
(文学博士 前立正大学教授)

 ただいまご紹介にあずかりました今成でございます。現宗研にお招きいただいたのは初めてで、非常に光栄に存じております。
 今日の題は、こういう題で話せというご指示をいただいたのでありまして、私が選んだのではありません。と申しますのは、私が学位をとりましたのは、『平家物語』がどういうふうに流伝したかということで、今までだれも言っていないようなことをいいましたので、それが学位取得ということになったわけです。では、従来の定説をくつがえしたのはどういうことかといいますと、“日蓮聖人は『平家物語』をお読みになって、御書にいろいろ引用されている”というのが定説であった。何十年もの間定説として通っていたわけです。そうしますと、それは文学研究の方でいいますと、『平家物語』の成立期特定の問題になってまいります。日蓮聖人時代以前に『平家物語』は成立していたという、成立期の特定に日蓮聖人が非常にかかわってくることになります。
 ところが私がご遺文を細かく調べてみますと、日蓮聖人は『平家物語』を読んでおられないのです。それが新説になったわけです。『平家物語』は読んでおられないけれども、『平家物語』のもとになった、当時『平家』といわれていた群小作品があった。そういうたくさんの小作品がだんだん寄り集まって、大きな『平家物語』という一つの作品になるわけです。ですから『平家』といわれていたものと、『平家物語』としてまとまったものとには、同じ文章があって当然なわけです。
 ですから、日蓮聖人の御書の中に現在の『平家物語』と同じ文章があるのを発見して、日蓮聖人は『平家物語』をお読みになったというのが定説になっていた。特に「立正史学」の何号ですか、昭和十年頃に後藤丹治さんが立正大学で講義をなさった、その論文あたりがきっかけになったと思うのですが、きわめて単純に日蓮聖人は『平家物語』をお読みになったというふうになっていた。それが実は『平家物語』ではなくて、それ以前の『平家』といわれていた諸伝承であるということを立証したわけです。それが私の学位論文になりました。風間書院刊行の『平家物語流伝考』という本がそれです。
 ですから『平家物語』研究をしたといっても、結局日蓮聖人のお助けで私の学問が進展したことになるわけです。
 先日、二月十七日、勧学院の研修会議として、すぐそこの京王プラザで、「誓願」というテーマのシンポジウムが開かれました。私は司会をさせていただいたのですが、そのときに一番最初に申し上げたのは、例の神戸の小学生の、友達の首を切って学校の門のところへ置いたという非常にショッキングな事件に関することです。あの後、その事件に類するような事件が続々とおきた。七十歳を過ぎた私でも体験したことのないようなショッキングな事件でありまして、連日新聞にはそれを論評する「識者の意見」が載りました。識者といわれる人々が顔写真入りで連日新聞にでていたのですが、いつ「宗教家」がでてくるかと思ったら、全くでてこないのです。ついに僧形の袈裟をかけた写真がでたので、やっと宗教家がでたと思ったら、それは「作家」と題された瀬戸内寂聴氏だった。一番心の問題に鋭い切りこみをし、指導的な立場にいなければならない宗教家が、ああいう事件のときにおよびでないのは、本当に寂しいことで辛いことだと思います。私自身もいけないわけですが、そういうことを一番先に申し上げて、「誓願」となりますと、狭い範囲の問題でなくて、大きな問題として取り組まなければいけないであろうということを一番最初に申し上げて、そのシンポジウムを始めたわけです。
 そして最後に締めくくりのときに何を申し上げたかといいますと、「誓願」という題で「七五〇」の讃仰会から、各宗務所長さんや、いろんな布教師会長の方々、ここにもいらっしゃるかもしれませんが、何十人という方がお書きになった厚い法話集がでております。あれを最初から最後まで全部読ませていただいたのですが、何かちょっと申しわけないけれども、物足りないような気がする。それは何かといえば、近代あるいは現代の、それから未来の対社会的な宗教活動をする集団として逃げてはならない問題が我々には厳存する。それはいわゆる「四箇格言」といかに取り組むかであろう。あの「四箇格言」について、厳しい現代的な意義付けをなさったものを聞いたことも読んだこともないものですから、これはやっぱり「七五〇」を迎えるにあたって、真剣に取り組んでいかなければいけない問題だろうということを、シンポジウムの最後に申し上げたのです。
 今日は『平家物語』という題のお話ですが、最終的にはそういうことがテーマになると思います。先ほども石川先生(現宗研所長)と上でちょっとお話ししたときに、最終的にはそういう問題について、特に現宗研あたりでは何か指針をだしていただきたいと申し上げたわけです。
 さて、プリントが七枚ありますけれども、No1のプリントは上段に『平家物語』の展開の様子です。これについてあれこれ申し上げている暇はありませんので、飛ばします。下段はあとの方で問題になります。
 No2は、先ほど申し上げました、日蓮聖人は『平家物語』をお読みになっていないという私の説の根拠になったことですので、これも今細かいことを申し上げている暇はありません。
 そこで大ざっぱに方法論がはっきり解るようなことだけ申し上げますと、日蓮聖人のご遺文の中には、本当にたくさんの『平家物語』中の説話や物語が見られまして、中には『平家物語』と全く同じ文章まであるのです。ところが日蓮聖人は『平家物語』をお読みになっていないということ、聖人が読まれたのは『平家物語』以前の『平家』だという証拠を、一つだけここに申し上げてご理解いただこうと思うのです。
 それは日蓮聖人が佐渡に流されて、鎌倉からの使いの者が尋ねてきて非常にお喜びになった。そういうときに中国の蘇武の話を思いおこされていることがしばしばあるのです。蘇武の話は『平家物語』の中にある。
 No2のプリント上段の「蘇武」という見出しの文章の二行目に「鬼界が島の流人」とありますが、これは平康頼とか藤原成経とか、つまり鹿ケ谷事件で逮捕された連中が、清盛の怒りにふれて鬼界が島に流される。―鬼界が島は、たぶん今の鹿児島県の薩南群島だと思いますけれども、そこに安徳天皇その他平家一門お墓が現在でもありますので、たぶんそこだと思いますが、そこに流されます―その中に俊寛というお坊さんがいてただ一人だけ置き去りにされる。そこに都から有王という弟子が尋ねてくる。そして非常に喜ぶというようなところです。その物語を日蓮聖人は佐渡に流されなさったときに引いているわけです。
 No2下段の一番右、これは上段の『平家物語』の続きですが、
  漢家の蘇武は、書を鴈の翅につけて旧里へ送り(ご存じのとおり蘇武は胡の国にとらえられて、故郷に渡り鳥の雁の足に文をつけて送った。それを見た漢王に助けにきてもらったという蘇武の有名な話があります)、本朝の康頼(鬼界が島に流された平康頼)は、浪のたよりに歌を故郷に伝ふ。
これは康頼が鬼界が島で木を削って、卒塔婆を千本作って、そこに歌を書いて、「都へ届け」といって流した。そしたらその中の一本が厳島神社に流れ着いたのです。今、厳島神社にいらっしゃれば、康頼の流した卒塔婆の着いたところという表示があります。そこへ流れ着いた。これがきっかけで都に帰ることができた。つまり、蘇武は雁に書をつけて、故郷に帰ることができた。それから平康頼は、浪に卒塔婆を流して故郷に帰ることができた。
 こういう和漢の両先例を書いて、佐渡での弟子との邂逅を喜んでおられるわけです。『平家物語』をふくんでいらっしゃるのです。下段の右から三番目のところにまいりましょう。
  彼の蘇武が胡国に入りて十九年、かりの南へとびけるをうらやみ、仲丸が日本国の朝使としてもろこしにわたりてありしが、かへされずしてとしを経しかば、月の東に出たるをみて、我国みかさの山にも此月は出させ給て、
 例の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌を阿倍仲麻呂が中国で詠んでいるわけです。それを日蓮聖人は御書の中に引いていらっしゃるのです。その左もそうです。
  とふ人もなき草むらに・・・中略・・・あの蘇武が、胡国に十九年、ふるさとの妻と子とのこひしさに、雁の足につけしふみ。安部中磨呂が漢土にて日本へかへされざりし時、東よりいでし月をみて、あのかすがのの月よとながめしも(『妙心尼御前御返事』定遺一七四七頁)
つまり日蓮聖人は、中国の蘇武と日本の阿倍仲麻呂とをペアにしてお手紙に書かれているわけです。『平家物語』は蘇武と平康頼とをペアにしている。ここが違うわけです。この違いが一つの研究のきっかけですが、当時の文献を調べてみますと、その違いの意味が明らかになるのです。『宝物集』の一巻本と三巻本を引いておきました。
 一巻本は、まず阿倍仲麻呂とでますでしょう。三行目に蘇武がでます。つまり阿倍仲麻呂と蘇武をペアにして語るという語りが存在していたわけです。日蓮聖人はこれを受けていらっしゃることになります。
 それからその左が『宝物集』三巻本です。三巻本では、一行目の一番下に、康頼入道性照、三行目の上に蘇武、つまり康頼と蘇武をペアにしております。そして一巻本と三巻本とは、時代が全然違うのでして一巻本の方が古い。日蓮聖人は三巻本の話を知らない。一巻本の話きり知らないわけです。三巻本の話は『平家物語』と同じなのですから日蓮聖人は『平家物語』の蘇武談をお読みになっていないで、それ以前の仲麻呂・蘇武をペアにする物語きりご存じでなかった。だから『平家物語』は読んでおられないということになります。
 他にもいろいろあるのですが、そういうわけで日蓮聖人がお読みになったのは、『平家』といわれる『平家物語』以前の群小作品であることになります。
 こういうことは現宗研ではあまり必要のないことかもしれませんけれども、日蓮聖人と『平家物語』との関係を知る上での根拠としてちょっと申し上げました。
 中山法華経寺三世の日祐上人の『本尊聖教録』の中に、第十八箱の目録があります。その第十八箱とは、「説法等」という見出しの紙が貼ってある箱です。その中に「平家要所少々」という記録がある。『平家』の要所、大事なところ、少し抜き書きしたものという記録があります。つまり日蓮聖人は『平家』といわれる軍談の、要所を抜き書きしてもっておられたことが日祐の『本尊聖教録』によってわかるわけです。
 次にNo4にいきます。
 これは日蓮聖人が『平家物語』をいろいろと引用なさってお手紙に書かれている。そのことについて記されている
ところです。上段右側三行目の線を引いてあるところは、平清盛が山王、つまり比叡山、山王比叡神社や、奈良の大仏殿を焼き払ったので、天照大神・正八幡・山王等与力せさせ給いて、清盛を滅ぼしたのだと日蓮聖人はお書きになっているのですが、これも『平家物語』の中にある物語です。
 その左の巻五の「物怪之沙汰」といわれる一章が『平家物語』にあります。真ん中より左に二重線で、「八幡大菩薩」とか「春日大明神」とか「武内の大明神」とか、こういう日本の神々が平清盛に罰を加えたということがあることを示しておきました。そういうのをそのまま日蓮聖人は引いておられます。
 下段にまいりますと、平清盛が死ぬところです。平清盛の死に方は、最後のところに丸点をつけましたが、「あつち死」をした。そういう言葉が当時あったのです。これはどういう死に方か。一説によれば、「あっちい、あっちい」と言って、熱病で死んだというのと、それから「あつち」というのは飛び跳ねることだから、飛び跳ねて死んだというような説があります。
 下段左の後ろから五行目、丸点をつけましたが、日蓮聖人も、平清盛は「結句は炎身より出でてあつちじに(熱死)」した(『盂蘭盆御書』定遺一七七五頁)というように、当時の言葉で『平家物語』にあるままを書いておられます。そんなことをチラッと見ていただくということで、このNo4があります。
 No5は、日蓮聖人は『平家』をいつごろ読まれたかということに関係します。大体一宗の祖となるようなすぐれた僧侶が、『平家物語』のような作品に触れることは非常に異例なわけです。ほかの、古くは伝教さんにしても、空海さんにしても、それから日蓮聖人時代の法然・親鸞・道元、どなたも文学作品を読んでいる方は一人もおりません。仏書を読む以外の暇などはないわけです。それなのに日蓮聖人だけが『平家物語』やその他の説話集の類も目を通しておられるらしい。佐渡でお書きになったものに、そういう外典も送ってくれと、わざわざ『佐渡御書』などにお書きになっています。そういうのがないと「消息も書かれ候はぬに、かまへてかまへて給候べし」といって、手紙を書くのにも外典がないとだめだとおっしゃっている。
 では日蓮聖人はなぜそういう外典をお読みになったか。それは他の祖師たちとは違う方法論をお持ちになっていたからです。日蓮聖人の宗教が、心の中にのみ目を向けるものではなく、歴史的な社会的な事象との関係においてのものであったのはご存じのとおりのことです。
 ですから『平家』も、文学作品としてではなく、歴史書としてまずどうしても必要だった。歴史の展開をみる上に、源平の攻防の歴史が必要だった。そこに宗教がどのようにかかわっているかを学ばれたということが一つです。
 そういう歴史書としての意味のほかに、『平家物語』のような作品にはたくさんの説話が引用されております。先ほどの中国の蘇武の話や、日本の仲麻呂の話、あるいは康頼の話、その他をはじめとして、たくさんの説話類が引用されている。日蓮聖人はこれも非常にたくさん勉強なさって、布教の場で活用しています。話に説得力をもたせるのに共通の話題、例えば大変うれしい手紙をもらったときに、日蓮聖人は「うらしまが子のはこなれや」(『光日房御書』定遺一一五六頁)という言い方をなさっています。「浦島の箱みたいだ」と、これ一言でどんなに喜びが大きいかがわかるわけです。ですから浦島太郎の物語を踏まえて、そういう共通の認識を、弟子・旦那たちともっておられれば、それを利用して有効な布教活動ができる。そのためにも『平家』のような作品に触れる必要があった。
 これは歴史的資料と、説話物語類という、その作品の資料的な面ですけれども、もう一つ大事なことは、『平家物語』の中から、自分の生き方の指針を見つけておられる。これは関東武士の生き方になぞらえることですが、生き方の指針を学んでおられる。というのが日蓮聖人独特のことであると思います。
 まずNo5の一番目の『御輿振御書』は、文永六(一二六七)年、聖人四十八歳のころのものです。次の『法門可被申様之事』も文永六年です。『法門可被申様之事』に初めて平清盛もでてくるし、源頼朝もでてくるし、『平家物語』関係のことがたくさんでてきます。それがいずれも文永六年ですけれども、日蓮聖人はどうやら文永四、五(一二六七〜六八)年の頃に、ということは四十五、六歳を過ぎたころに初めて『平家物語』をお読みになった。それからずっと親しんでおられたと思われます。
 というのは、それ以前に『平家物語』関係のことは御書に全くありません。ではどうして文永四、五年のころから『平家物語』に特に親しまれることになったのかといえば、いくつかの理由が考えられます。と申しますのは、例の小松原の法難から二、三年たつわけですが、小松原の法難の後に房総方面を巡錫なさっています。どこに行かれたか、細かいことはご遺文の上ではわかないけれども、房総方面をずっと巡錫されて鎌倉に帰られる。その日蓮聖人は久しぶりに比較的平穏な草庵生活を送られることになっています。これが一つです。
 日蓮聖人の御書を、『昭和定本日蓮聖人遺文』によってずっと時代を追ってみますと、文永四〜六年ころは、草庵で平安な生活を送られていたはずなのに、文献が少ないのです。お書きになっているものは少ない。これは勉強なさっていた。自分の宗教理論を組み立て直したりなさっていたらしい。この時期に『平家』のような作品もお読みになったろうということが第二であります。
 それから第三には、ちょうどこのころ蒙古が不穏な動きをしてまいります。そうすると当然、国家意識が高まってくる。そういう時期です。すると日蓮聖人はどうしても動乱の歴史を学ばなければならなかった。ですから動乱を扱った作品の『平家』に関心が高まることが十分考えられます。
 そのころ日蓮聖人は、日蓮聖人のご生涯の中では非常にめずらしくゆったりした時を過ごすことができた。それが文永四〜七(一二六七〜七〇)年であるわけです。
 『金吾殿御返事』文永七(一二七〇)年に、「大師講、三四年〔前〕に始めて候が、今年は第一」(定遺四五八頁)といっておられます。これはもちろん天台大師講です。天台大師講に今年は一番人が集まったとおっしゃっています。
 これは日蓮聖人がかなり立場がよくなられ、のどかな時を過ごすことができた証拠です。それが文永四〜七年ぐらいまでということになるわけです。
 『上野殿母尼御前御書』文永七(一二七〇)年十二月を読んでみますと、
法門の事。日本国に人ごとに(多くの人々に)信ぜさせんと願いて候いしが、願や成熟せんとし候らん、当時(現在)は蒙古の勘文(蒙古の襲来を予言した文書)によりて、世間やわらぎ・・・・て候なり。(定遺四六〇頁)
といっています。自分に対する風あたりがやわらかくなった。この時期だけ「やわらぐ」という言葉がここ以外にもでてきます。
  子細ありぬと見え候。本より信じたる人々は、ことに悦ぶげに候か。(定遺同頁)
といって、「世間やわらぐ」状態にうきうきしていらっしゃいます。このように「世間やわらいだ時期」、日蓮聖人に対する風あたりが非常に穏やかになった時期、そのころに天台大師講にも人がたくさん集まってきていることになります。
 ですから文永四〜七(一二六七〜七〇)年頃は日蓮聖人にとっては思いもよらなかったような穏やかな時期ですから、ちょっと錯覚をなさったらしくて、下段の右ですが、
  禅宗、以ってかくのごとし(この文章の前には念仏宗もほとんどやっつけたということが書かれています。そして禅宗もやっぱり壊滅する。今にそうなる)。一を以って万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めんこと、手に握りて覚ゆるなり(『善無畏三蔵鈔』定遺四六五頁)
もうわしは勝ったぞとおっしゃっている。禅も念仏も真言も、もう手に握ったようなものだ。これはゆとりの時節だからこそ出た言葉です。日蓮聖人の実感だったわけです。「手に握りて覚ゆるなり」といっています。
  況や、当世の高僧・真言師等は、その智、牛馬にも劣り、蛍火の光にもしかず。ただ、死せる者の手に弓箭を結いつけ、寝言する者にものを問うが如し。(定遺同頁)
といって、意気軒昂たる日蓮聖人の姿がここに浮かび上がってきます。こういう時期が『平家』をお読みになった時期なのです。
 ちょっと先のことまで言ってしまいますと、日蓮聖人はこの時期非常に調子がよかったので、調子がよすぎまして、その反動として、翌年文永八(一二七一)年の龍口の難を受けることになっていくわけです。
 ですから龍口から佐渡へという、一番大きな法難の直前、二、三年間は、日蓮聖人にとって非常に穏やかな、世間が自分に全部屈伏したと錯覚するくらい、これは明らかに錯覚なわけですけれども、錯覚するくらいのうきうきした時節であったわけです。そのころに『平家』をお読みになっておりまして、『平家』の中の武士の生き方、生きざまと申しますか、それを取り入れておられます。
 ですから、「関東御一門の棟梁なり」(定遺六一三頁)と。これもこの時期の『佐渡御書』に「棟梁」だといっております。これは自分を関東武士の棟梁、源頼朝などの、その棟梁に擬しているわけです。次は、
  仏法は摂受・折伏、時によるべし。たとえば世間の文武二道のごとし。(定遺六一一頁)
「文武二道」という言い方は軍記物語の中にでてきます。
 そのすぐ左の一段下げて書いてあるところには、
  乱世には武を以て静むべし。(『保元物語』上)
  文を以ては万機の政を助け、武を以ては四夷の乱を定む。(『平治物語』上)
 こういう文武の使い分けは軍記物語の中に盛んにでてきます。これは武士の心得であります。日蓮聖人がおっしゃっているのは武士の心得と一致するわけで、たぶん軍記物語の影響があると思われます。その左のセクションですが、
  いたずらに朽ちん身を、『法華経』の御故に捨てまいらせんこと、あに石に金を替うるにあらずや。
(『佐渡御勘氣鈔』定遺五一一頁)
  命は『法華経』に奉る。名をば後代に留むべし。(『開目鈔』五八九)
 こういう文章があります。考え方によっては、出家たる者、名を後代に残すなどというのはもってのほかだともい
えるわけですが、日蓮聖人は命を『法華経』をたてまつって名を後代にどとめる。これは軍記物語の武士がいつも言っていた言い方であります。その左に一段下げて書きましたが、こういうのがあります。
  生命な惜しみそ、名を惜しめ。(『保元物語』上)
  芸(武芸)をこの時にほどこし、名を後代に挙ぐべし。(『保元物語』上)
それから、
  命をば兵衛佐殿に奉り、骸をば平家の陣に曝し、名をば後代に留めん。
これは『平家物語』の一種である『源平盛衰記』の中にありますが、こういうのが軍記物語にしばしば出てきます。ですから日蓮聖人はこういう文章、こういう関東武士の生きざまを、おのが生きざまに合わせておられることがわかるわけです。
 No6です。いわゆる「勧持品」のような「命を『法華経』に奉る」というようなことを盛んにいっておられる日蓮聖人ですが、軍記物語などから、武士社会の裏面のいろんな駆け引きなども学んでおられるようです。
 と申しますのは、例えば不思議にお思いになりませんか。日蓮聖人のお弟子方が、なべかむり日親上人にしろ、常楽院日経上人にしろ、傷つけられたり、あるいは殺された人もいるわけですが、日蓮聖人はついに殺されなかったわけです。
 考えてみると、当時日蓮聖人一人殺すのは簡単なことだったと思うのです。どうして命まで奪われないですんだのか。しかも日蓮聖人は、法的な流罪にお遭いになった様子ではないのです。例えば親鸞でも法然でも、還俗させられて流されています。法的な、公式の流罪であるならば、僧侶を出家のまま流すわけはないのです。ですから、日蓮聖人の場合は、うるさいから、所払いというようなことだったのではないでしょうかね。とするなら、なおさらのこと護衛の武士も無責任ですむわけですから、あちらこちらで、日蓮聖人一人の命を奪うくらい、無頼の徒がいてやれば簡単にできるはずです。それなのにどうして殺害の危難に会わなかったのか。
 これは日蓮聖人が、かなり武士社会の裏面にも通じておられたし、人の心の機微を把握されていて、事件を未然に察知して、何か生き方を上手くなさったに違いないと思います。そういう手だては軍記物語を読めばたくさんでてくるわけです。
 例えばNo6の上段の最初の『佐渡御書』に、
  謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしが、かくなるを一旦は悦ぶなるべし(これは佐渡へ流されたことを喜んでいるだろう)。後には彼等が歎き日蓮一門に劣るべからず。例せば泰衡がせうと(弟)を討、九郎判官を討て悦びしが如し。(定遺六一三〜六一四頁)
この最後のところは、藤原泰衡のもとへ義経が逃げました。それを頼朝が義経を殺すためにいろんな策略をめぐらせて、泰衡に弟を殺させて、それを言いがかりにして義経を殺させた。そういう手を打っているわけです。こういうことが武士社会では盛んに行われていたわけです。当然といえば当然ですけれども。
 それをもう少し詳しくいったのが、次の『小乗大乗分別鈔』です。
  ……例せば頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に(泰衡は義経をかくまった)、泰衡を誑かして義経を討たせ(こういうことをやった)、太政入道清盛は源氏を喪ぼして世をとらんが為に、我伯父平馬の介忠正を切る。
(定遺七七四頁)
 このように自分の身内を殺すことによって、自分の集団にひびをいらせて、結局は勝利をつかむ。そういう策略は武士社会では日常的にあったわけです。
 そういうことも日蓮聖人は軍記物語でいろいろとご存じになっていたし、事実武士階級の弟子・旦那がたくさんおりましたから、そういう実態を見聞なさっていたはずです。
 ですから四条金吾に対しては、こういう「仮病を使って逃げろ」とかおっしゃっています。それがNo7です。
 『四条金吾釈迦仏供養事』の場合を見ます。四条金吾はご存じのとおり主君の江馬入道にだいぶ悪く思われていました。二行目をご覧下さい。
  どうれひ(同隷)ならびに他人と我宅ならで夜中の御さかもりあるべからず(夜中に酒を飲んではいけないよ)。
主のめさん時はひるならばいそぎまいらせ給ふべし(昼ならば大急ぎでいきなさい。それで主人によい印象を与えておきなさい)。夜ならば三度までは頓病の由申させ給ひて(仮病を使って三度までは行かない方がよい)、三度にすぎば下人又他人をかたらひて、つじをみせなんどして(辻々で殺し屋がでるかもしれないから)、御出仕あるべし。かうつつませ給はんほどに、むこ(蒙古)人もよせなんどし候わば(そうやっているうちに、たぶん蒙古が攻めてきて)、人の心又さきにひきかへ候べし。(定遺一一八八頁)
蒙古がくれば江馬入道との関係なんか、そんな細かいことはすっとんでしまうから、それまでがまんしろ。うまく逃げなさいとおっしゃっています。
  申させ給ふ事は(申させ給ふ事とは、江馬入道との主従関係を解消したいと四条金吾が日蓮聖人に相談したわけです)御あやまちありとも、左右なく御内を出でさせ給ふべからず(まあまあ主人のところに仕えていなさい)。ましてなからんにはなにとも人申せ、くるしからず。をもひのままに入道にもなりてをはせば(もう出家したいとまでいったのです)、さきさきならばくるしからず(今はちょっと具合が悪いよ。もっと先になってからまたそういうことがあってもよいかもしれない)。又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば、なかなか悪縁度度来るべし。このごろは女は尼になりて人をはかり、男は入道になりて大悪をつくるなり。ゆめゆめあるべからぬ事なり。身に病なくとも、やいと(灸)を一二箇所やいて病の由あるべし。(定遺同頁)
お灸の跡をつけて、こうやって私は病気なのだと証拠をつくっておきなさいと、こういうことを武士である四条金吾にお坊さんが教えたのですからおかしいですね。
  さわぐ事ありとも(ちょっと騒動があっても)、しばらく人をもて見せをほせさせ給へ(様子をみさせなさい)。
事事くはしくはかきつくしがたし(あまり細かいことは今はいえないけれども)。此故に法門もかき候はず。御経の事は、すずしくなり候て、かいてまいらせ候はん。(定遺同頁)
仏法のことは今ちょっといっている暇がないとおっしゃっています。
 次に二七三番の『四条金吾殿御書』建治四(一二七八)年も、同じようなことが書いてあります。
  今度はことに身をつつしませ給ふべし。よる(夜)はいかなる事ありとも、一人そと(外)へ出でさせ給ふべからず(一人ででてはいけない)。たとひ上の御めし有りとも、まづ下人をごそ(御所)へつかわして、なひなひ(内々)一定をききさだめて、はらまき(腹巻・よろい)をきて、はちまき(鉢巻)し、先後左右に人をたてて出仕し、御所のたかわらに心よせのやかたか、又我がやかたかに、ぬぎをきてまいらせ給ふべし。
(定遺一四三七頁)
ですから武装をしていって、主人のそばの家にそれを預けてそれから入りなさい。
  家へかへらんには(今度は逆に帰ってくるとき)、さきに人を入れて、と(戸)のわき(こういうところに敵は隠れているぞ)・はし(橋)のした・むまやのしり(うしろ)・たかどの一切くらきところをみせて入るべし。せうまう(燒亡)には(火事のときには、特にワーッとあわてて出たらそこをねらわれるぞ)、我が家よりも人の家よりもあれ(自分の家から出火しても、他人の家から出火しても)、たから(財)ををしみて、あわてて火をけすところへ、づづとよるべからず(財産がもったいないなどといって寄ってはいけないよ)。まして走り出る事なかれ。出仕より主の御ともして御かへりの時は、みかど(御門)より馬よりをりて、いとまのさしあうよし(ちょっと今日は急ぎますからというようなことです)、はうくわんに申していそぎかへるべし。上のををせなりとも、よ(夜)に入りて御ともして御所にひさしかるべからず(夜、長居をしてはいけないよ)。かへらむには、第一心にふかきえうじん(用心)あるべし。ここをばかならずかたきのうかがうところなり(敵はこういうときに必ず狙うものだ)。人のさけ(酒)たばんと申すとも、あやしみて、あるひは言をいだし、あるひは用ることなかれ(酒一杯ごちそうしてくれるといっても、あやしんで何かいいわけをして飲むな)。又御をとと(舎弟)どもには常はふびんのよしあるべし(弟たちを怒らせてはいけないよ)。つねにゆせに(湯銭)ぞうりのあたい(艸履価)なんど心あるべし(風呂代、草履の値、そういうちょっとしたチップをいつもやっておきなさい)。もしやの事のあらむには、かたきはゆるさじ(何かのときには敵は許さない)。我がためにいのち(命)をうしなはんずる者ぞかしとをぼして、とがありとも、せうせうの失をばしらぬやうにてあるべし(少しくらいのことで小言でいうと大変なことになるよ)。(特に始末におえないのが女です)又女るひは(下女たちは)いかなる失ありとも、一向に御けうくん(教訓)までもあるべからず(もう女に教訓してはいけない。小言をいってはいけないよといっています)。ましていさ(争)かうことなかれ。(定遺一四三八〜三九)
まして喧嘩してはいけないといって、『涅槃経』までだして、女心というのは微妙だから気を付けろといっておられる。
 下の段も同じようなことです。細かい細かい注意、日常の身の危険からのがれる手立てを教えていらっしゃいます。下の段はあとでお読みいただければよろしいのですが、そういう細かい注意は、武士社会の暗黒街の様子を日蓮聖人は体験して把握なさっていたろうし、それから軍記物語から学んでおられた。その軍記物語から学ばれていた証拠が、下の段の後ろから三行目をご覧いただけばわかります。
  義経(源)はいかにも平家をばせめおとしがたかりしかども(なかなか平家を滅ぼすことができなかったのだけれども)、成良をかたらひて平家をほろぼし、(『崇峻天皇御書』定遺一三九三頁)
成良は四国の豪族で、阿波民部成良という武士です。これがなかなか強いのです。それから村上水軍などという瀬戸内海の水軍もなかなか強くて、義経は攻めあぐんだ。そこで成良を滅ぼすためにどういう手をうったかというと、息子の田内左衛門を生けどりにしまして、息子をこれから八つ裂きにする。息子がかわいければ降参しろ、降伏しろといって責める。成良は息子田内左衛門かわいさのあまり、義経の軍門に降りるのです。そういう話が『平家物語』にあります。日蓮聖人はそれをちゃんと踏まえておられるわけです。
  大将殿(源頼朝)はおさだ(長田)を親のかたきとをぼせしかども。
長田が義朝を討った。これは『平治物語』にあるのですが、平治の乱で、源義朝が渥美半島の方に逃げたわけです。そこにいる長田忠致は元の家来ですからかくまってもらった。ところが長田は源氏方の旗色が悪いと見ると裏切って、今度は平清盛方から賄賂をもらいまして、元主人の義朝を風呂場で暗殺する。そういう話が『平治物語』にあります。日蓮聖人はそれをちゃんとご存じで、「大将殿(源頼朝)はおさだ(長田)を親のかたきとをぼせしかども」(定遺同頁)、つまり源義朝の子の頼朝は、長田忠致は親の敵だけれども、平家を滅ぼすまではわざと泳がしておいた。わざと生かしておいたのです。日蓮聖人が「親のかたきとをぼせしかども、平家を落さざりしには頸を切り給はず」(定遺同頁)と書いているのは、『平治物語』をふまえていることなのです。
 こういうようないろんな策謀……策謀というと印象が悪いようですけれども、乱世に生きるてだては策謀がなければ生きていられないわけです。こういうことを日蓮聖人は軍記物語から学ばれたし、それから実際の鎌倉を中心とする武家社会の暗黒街の実態からよくよくご存じになられた。そういうことがやはり日蓮聖人が殺害されずにすんだことと関係があると思うのです。
 そういうように日蓮聖人と申せば、先ほどの「命は『法華経』に奉る。名をば後代に留むべし」というあの勇ましい側、つまり武士たちの軍記物語に描かれた勇ましい側面を大いに取り入れて、「『法華経』に命を捨て、名を後代に留むべし」とおっしゃっている一面が有名ですが、それとは全く裏腹に、軍記物語などに記されている武士社会の暗黒街の実態を、自分の生き方の参考になさったという、そういった両面あることがわかるわけです。ところが両面あるにもかかわらず、聖人没後の教団は、その勇ましい側ばかりをとりたてて世の顰蹙を買っているむきがあるのではないかと思うのです。
 例えば、No6の下段右側をご覧下さい。例の「八幡諌暁」です。『種種御振舞御書』にあるのですが、「いかに、八幡大菩薩はまことの神か」といって、鎌倉引き回しのときに八幡宮の前で八幡大菩薩を怒鳴りつけているところであります。
  八幡大菩薩はまことの神か。……日蓮は日本第一の『法華経』の行者なり。……日蓮、今夜首切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まず天照大神・正八幡こそ起請を用いぬ神にて候いけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。痛しと思さば、急ぎ急ぎ御計らいあるべし。(定遺九六五〜九六六頁)
といって八幡大菩薩を怒鳴りつけたという、いわゆる「八幡諌暁」の時、こういうのは他の文書にはない。『種種御振舞御書』にあるだけです。ところがこれと全く同じパターンの話が『平家物語』にあります。京都の高尾の文覚上人が逮捕されて伊豆へ流されるときに天竜灘で嵐にあいますが、そのときに竜王を怒鳴りつけたというのです。それがその左です。「竜王やある、竜王やある」この調子で、これは「八幡大菩薩はまことの神か」と全く同じパターンです。
  竜王やある、竜王やある。いかに、これほどの大願起こしたる聖が乗ったる船をば、あやまとうとはするぞ。ただ今、天の責、蒙らんずる竜神どもかな。
といっているのです。こういう語りのパターンが当時軍記物語の中にあったわけです。
 『種種御振舞御書』には若干疑念を抱く面があるわけですが、これは実際に日蓮聖人が鎌倉八幡宮の前で、こう言われたかどうかわかりませんが、少なくとももしご本人が本当に言われたとしても、軍記物語のこういうイメージが、そのころ頭をよぎっていた可能性は十分あります。
 それから例の龍口で光ものが飛んできて、太刀打ちの太刀が折れた。これも『平家物語』系統にあります。まず『種種御振舞御書』を見ますと、その左ですが、
  江の島の方より月の如くに光りたる物、鞠のようにて辰巳(東南)の方より戌亥(西北)の方へ光り渡る。十二日の夜の明け暗れ、人の面も見えざりしが、物の光、月夜のようにて、人々の面もみな見ゆ。太刀取り目くらみ倒れ伏し、兵ども怖じ恐れ、興さめて一町ばかり馳せのき、或は馬より下りてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。(定遺九六七頁)
これはどうみても日蓮聖人ご自身の文体ではないのですけれども、とにかくこういう文章が伝えられています。次に、
  いかがして候いけん、月の如くにおわせし物、江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれて切らず。とこうせし程に子細どもあまたありて、その夜の首はのがれぬ。(『妙法比丘尼御返事』定遺一五六二頁)
これは偽書であることがほとんど確かな御書です。
 左は『平家物語』です。『平家物語』の中でも下関神社の赤間神宮からでたので、「長門本」といわれる『平家物語』(巻二十)です。
  土屋三郎宗遠に仰せて、首を刎らるべしとて、文治二年(一一八六)六月二十八日に、盛久を由井が浜に引きすえて、盛久、西に向かって念仏十遍ばかり申しけるが、いかが思いけん、南に向かって又念仏十遍ばかり申しけるを、宗遠太刀をぬき首をうつ。その太刀、中より打ち折りぬ。また(二度目に)打つ太刀も目抜きより折れにけり。不思議の思いをなすに、富士の裾より光り二すじ、盛久が身にさしあてたりとぞ見る。
 これが平家が滅亡の後に、京都で捕らえられた主馬の判官の平盛久という者が、鎌倉に連れて来られて頼朝に面どおしされる。それから由井が浜で切られるところで、こうやって光ものが飛んできて、太刀打ちの太刀が折れるのです。日蓮聖人の龍口の物語はこういうベースの上に成り立っているということになるわけです。
 いずれにせよ、その勇ましい日蓮聖人が次から次へと脚光を浴びてくるわけです。先ほどの非常に緻密な、人の心の機微を弁えて、非常に細かい神経を使っておられる。布教活動もそういう側面を大いに生かしておられる。そういう日蓮聖人はあまり取り立てられないできたわけです。特に江戸時代の歌舞伎・浄瑠璃の類は、全く華やかな日蓮聖人ばかりが演ぜられて、鬱屈の中にある江戸町人たちに生きる力を与えたという、そういうプラスの側面があるのですが、それは江戸庶民、江戸町民たちに特に有効なことであったわけです。
 「日蓮宗新聞」の四月一日号に、中村潤一先生が、現宗研顧問という肩書で書かれておられたので、今日のお話によいかと思って出しますが、大見出しは「真の安心へ戦う覚悟」という見出しです。例の石川教張氏が最近お出しになった『人間日蓮』という小説に、梅原猛氏が推薦文を書いている。それを引いておられたのです。「日蓮は、必ずしも日本の知識人に好かれているとはいえない。彼はともすれば狂信的な超国家主義者と思われているからである」。
 こういう書きだしです。石川氏のご本は私も拝見しましたけれども、確かにそういう書きだしの推薦文がありました。このことを取り上げて、中村氏は「私(中村)の周りにも、『日蓮さんてやたら他の宗教をけなした人でしょう』とか、『自分の宗教で天下とりを考えていたのではないですか』という連中が結構いるのである。・・・(中略)・・・知識人はおくとしても、一般の人にまで宗祖が狂信的と思いこまれているのではなさけないではないか」というようなことを述べて、最後の方に「梅原氏が、『しかし日蓮は、宮沢賢治の師であり、はなはだ深い慈悲の心をもっている法華経信者である』と述べているのが嬉しかった」といって、そこに救いを見出しておられるのです。
 宮沢賢治の師だから日蓮さんが偉いという言い方はずいぶん失礼な言い方だと思うのですけれども、梅原さんはそういうふうに推薦文でいっております。
 それから東京西部の教化センターの教化情報がでておりますが、今第三号がでたのでしょうか。その前の第二号に、兼子義雄氏が、真宗と本宗の教師のあり方について書いているのがあります。「ことに真宗には聞法という習慣というか、制度というか、お互いに信心を僧侶も信者も語り合い、その中で自己の信心を反省し、確認し、深め合うということがあるようだが、ひるがえって当宗(日蓮宗)には、一方的に説教をすることはあっても、互いに己の内の信心を語り合うことは少ないのではないか云々」と書かれているわけです。
 これは前向きの驀進する日蓮聖人の姿が、日蓮聖人没後、ずっと前面にでて、日蓮聖人の、内面を深めておられるという、先ほど読みました後半の部分ですが、そういうところが比較的に本宗ではおろそかにされてきた。そういうことが例えば今読みましたようなことになっているのではないかと思うわけです。
 実は私もそういう思いをしたことがあります。「朝日新聞」で「自分と出会う」に書くようにといわれたときのことですが、たまたまこれはこういう話になるずっと前、二年前の「朝日新聞」の二月二十五日号です。それがNo3です。
 私は先ほどご紹介にあずかりましたように、もともと三派合同時代の顕本法華宗の大変大きな寺、品川の国道沿いの本光寺という本山の一室で生まれました。国道一号が通っていて、夜中に戦車、タンクの輸送があって、ほとんど夜中じゅうガアガアいっているようなところだった。国道ができる前は、その部分に大きな池があって、そこに船を浮かべていたようなことがあったと、私の父などは申しております。立正大学からずっと目黒川を下ったところのお寺です。
 昭和十二(一九三七)年に祖父が亡くなりまして、今の早稲田のお寺にきましたら、静かすぎて、時計のカチカチいう音がうるさくて寝られなかった覚えがあります。そんなようなところに生まれ育ったのです。祖父がなかなか政治的な坊さんだったわけで、本多日生師と仲間で、本多日生さんのお寺がやはり品川で、すぐそばですから、しょっちゅう行き来していた。それから父は「中外日報」に勤めておりまして、警視庁詰めなどになったりして、だいぶ暴れた方です。例の児玉誉士夫氏などが松戸で大奸を暗殺して逃げてきて、家に随分かくまっていたこともあるくらいです。児玉さんが投獄されて出所祝いのときに、父が主になってパーティを開いた写真が残っていますが、そういう非常に右寄りのところで生まれ育った。しかも日蓮法華宗ですから、ますます先ほどでている強い方の、右寄りの日蓮さんばかり子供のときから叩き込まれていたわけです。それでだんだんもの心がついてくると、どうもそういう日蓮さんは胡散臭くて嫌になったわけです。それで先ほどの梅原さんが言っているような、どうも狂信的で、排他的で、傲慢で、という感じ、それが非常に印象的だったのです。
 私の文、No3の二段目の左の方に、
  そのような私であるから、日蓮系法華宗の寺に生まれ育った身でありながら、日蓮を胡散臭い人物として敬遠するようになった。私の周辺には、日蓮を価値と権威の固まりのように崇めて喧伝する人が多くいたし(実際にたくさんいた。それからその人たちの生活態度が傲岸だった。それで日蓮とはこういう人なのかと思ってしまった)、その人々の傲岸不遜な態度は、彼らの説く日蓮の人物像を彷彿とさせるに十分なものであった。ところが大学に復して(軍隊にいきまして大学に復学した)、仏教と文学との交渉に関心を懐き、日蓮の軍記物語享受について学んでいるうちに、私の疎んだ日蓮像は後世に歪曲された虚飾のそれであって、本当の日蓮は、既成の価値や権威を極端に忌んだ人であることが分かってきた。
ということで、私の日蓮観が百八十度変わっていったわけです。
 次の段には例の「旃陀羅が子なり」。『佐渡御勘気鈔』に「旃陀羅が子なり」とあります。『開目抄』にも「下賤、そのうへ貧道の身なり」というような言葉もでてまいります。「旃陀羅が子」というのは二回だけでます。これは佐渡へ流されなさったときだけです。あとは「賤民が子」というのは何回もでてきます。日蓮は「東海の国の何々とか」盛んに言っておられる。だれもあんなことを言った人はいない。たぶんあれは軍記物語とかかわっていると思うのです。軍記物語の中で武士が名乗りをあげますね。あの名乗りの様式を日蓮聖人は採用なさったと思います。
 No5のプリントの下段、右から二こま目、
  日蓮は、安房国東条片海の石中の賤民が子なり。(『善無畏三蔵鈔』定遺四六五頁)
  日蓮は、日本国東夷東条安房国海辺の旃陀羅が子なり。(『佐渡御勘気鈔』定遺五一一項)
  日蓮は、今生には貧窮下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出たり。(『佐渡御書』定遺六一四)
 こんな言い方をする名乗りはないわけです。こういうことを言っている人はだれもいません。日蓮聖人だけです。しかも佐渡へ流されなさったときだけに「旃陀羅」という言葉がでてまいります。
 『日蓮宗事典』に、日蓮聖人が漁村出身であるからと書かれていますが、私は全くそうは思っていません。というのは「旃陀羅」という言葉の他の人たちの使い方をみるとわかるのです。例えば源信の『往生要集』の中に旃陀羅が三回ぐらいでてきますが、例えば『往生要集』の第五のところに、「旃陀羅および狗犬」、旃陀羅と犬という言い方もでてきます。旃陀羅は人間扱いされていないのです。日蓮聖人が、「自分が旃陀羅だ」などというのは、自分のことだからよいでしょうということになったとしても、「旃陀羅が子」というと「親が旃陀羅だ」ということになります。親が犬畜生の類だということになってしまうわけですが、日蓮聖人はそんな方ではないはずです。それから自分の周辺、地域社会が、漁民社会ですから、その漁民たちが旃陀羅であるとすれば、日蓮聖人は地域社会に対しても親に対しても、大変軽蔑したことを言っていることになるわけです。日蓮聖人は決してそういう方ではないと思いますので、そこで漁民の出であるからそういうふうに言ったのだという説には全く与することができません。そんなはずがないのです。
 というのは、他の理由もいえるのです。「旃陀羅」という言葉をお使いになるときの、文章の前後をみないといけないのです。例えば先ほどの『佐渡御勘気鈔』の「日蓮は、日本国東夷東条安房国海辺の旃陀羅が子なり」の次にどういう文章が続いているかと申しますと、「いたづらにくち(朽)ん身を、法華経の御故に捨まいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや」とおっしゃっています。つまり旃陀羅のような私だけれども、『法華経』のために命を捨てる。これは石を金(こがね)にするようなものだと。つまり旃陀羅は比喩として用いられているのです。つまり旃陀羅は石であって、この石ころのような者でも、『法華経』にお会いしたので金になったという比喩的表現です。
 次の『佐渡御書』をみますと、「日蓮は、今生には貧窮下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出たり」、この文章に続くのはどういうのかといいますと、あとでご遺文でお確かめいただければよろしいのですが、「身は人身に似て畜身也」、この体は人のようだけれども畜生なのだ。「心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐しと思はず」、心は『法華経』を信ずるから、梵天も帝釈も恐ろしくない。「身は畜生の身也。色心不相応の故に愚者のあなづる道理也」。身は畜身だが、心は『法華経』にある。つまり『法華経』にある尊いものと、その反対のいやしいもの、旃陀羅と『法華経』、石と金というふうに、旃陀羅とは比喩的表現であることが明らかです。これを日蓮聖人が漁村の出だから用いたとお説きになる方がいますが、私は、それははっきり誤りだと言い切ることができると思っています。
 元に戻りまして、No3のプリント、下から二段目の四行目に、「地方蔑視・土民軽侮・貧者凌辱」、これが一般的価値観です。つまり地方、田舎者というのは軽蔑されているのです。それから土民は軽侮されますし、貧者は、「貧乏人が」といって凌辱されるわけです。
 そういう通俗的な価値観や古代的な権威主義の全否定に身を挺して挑んでいる日蓮聖人の姿が浮き彫りにされているのですが、この現象に、日蓮聖人の出自が東海辺鄙の漁民であったという歴史的事実との契合を見るだけでは事足りません。
 なぜなら日蓮聖人が己れを辺土・下賤・貧道の身であると云う時、それは現実社会における立場に事寄せながら、実は人間存在の根元にかかわるところの、仏の国での位置づけを明らかにしているからなのです。日蓮聖人の表現は独特なものですが、その趣旨は親鸞聖人の「愚禿」という自称に異ならないでしょう。即ちここに明かされているのは、人の深層から発する不調和音は消し去ることのできないものであるから、自我中心主義の社会にあっては、平等と云い和平と云っても、所詮幻想に過ぎないということ、しかし人が、仏の国の秩序の中に身を置いて、つまり曼荼羅を考えればよいのですが、そういう仏の国の秩序の中に自分を投げこんだときにどうか、己れを、仏から最も遠い存在であり、限りない劣弱者であるとの自覚に達した時そういう自覚の徹底した者同士の間には、本当の連帯が生まれるであろう、同様の思いを深めた隣人たちとの間に限りなく深い慈しみの情が涌いて、無碍の連帯に安心して身を委ねられるようになるということなのです。
 私は戦争に行って非常に絶望的な敗戦を迎えたのですが、戦争という人間の啀み合いの極限状況の中で、自己を徹底的に破壊された経験をもつ私は、私を襲った悲劇の類は、人と人とが直に向き合う限り永遠に除去することのできない問題であるとつくづくと感じたのです。そして、仏と対峙して、己れの卑小さを嫌というほどに思い知らされた人たちだけが、人間の幸せや世界の平和について語る資格を有するのだとの思いを深めたのです。日蓮聖人はまさにそういう方であったのではないでしょうか。にもかかわらず、日蓮聖人の強い面、勇ましい面ばかりが喧伝されてきた。残念ながらそういうきらいがあるのではないか。これからはそれでよいのだろうか。まさに現宗研の先生方にそういう点に気をとめていただきたいと思います。
 そこで左側の『法門可被申様之事』。これは三位房が京都で貴族の屋敷に招かれて、『法華経』を講じて、得意になって日蓮聖人に報告したあのときのです。大体ご存じでしょうけれども、読んでみます。
  又御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其上、一閻浮提にありがたき法門なるべし(僧となり、しかも法華経の侍者ではないか)。設ひ等覚の菩薩なりともなにとかをもうべき(等覚の菩薩でも、この法華経の行者は問題にすることはないのだ)。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて(つまり一番上にお釈迦さまがいらっしゃって、その下に梵天・帝釈がいる)、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まほり(毘沙門天なんかは門番ではないか)。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし(四州の王等は毘沙門天の家来ではないか)。其上、日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり(定遺四四八頁)
日本国の国王は、そのまた下の島の長にすぎないではないか。その長につかえる官僚などに召されて、そこで『法華経』を読んで褒められたなどと喜んでいるとは何事だ。おまえは仏を辱めるのかと、叱っていらっしゃるのです。
  上なんどかく上(三位房が招待された貴族を「上」と書いた)、面目なんど申は、かたかたせんずるところ日蓮をいやしみてかけるか。總じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて、後には天魔つきて物にくるう(定遺同頁)
始めは忘れぬようにといっていますから、日蓮聖人は京都へ留学にだす弟子たちに、厳しく京都かぶれになることを諌めていらっしゃったのです。ですから始めのうちは忘れないのだけれども。
  少輔房がごとし(少輔房はだめだったのですね)。わ御房も(おまえさんも)それていになりて天のにくまれかほるな。のぼりていくばくもなきに実名をかうる(替)でう物くるわし。定てことばつき音なんども京なめりになりたるらん。(定遺四四八〜四四九頁)
ここはおもしろいですね。普通だったら田舎なまりというのですけれども、日蓮聖人は京なまりというのです。関東人は関東弁を素直に使っていればよろしいのに、京なまりになったのではないか。
  ねずみがかわほりになりたるやうに(ねずみとこうもりのお話)、鳥にもあらず、ねずみにもあらず、田舎法師にもあらず京法師にもにず、せう房がやうになりぬとをぼゆ。言をば但いなかことばにてあるべし(定遺同頁)
田舎なまりでよいではないか。何で京都弁などを使っているのだということです。
  なかなかあしきやうにて有なり。尊成(尊成と名前をかえたらしいのですけれども)とかけるは隠岐の法皇の御実名か、かたかた不思議なるべし。(定遺同頁)
 隠岐の法皇のお名前と同じだ。何をいっているのだ、おまえら。そういうお手紙です。ここに見られる日蓮聖人の世界の構図は釈尊御領と申します。釈尊がいらっしゃって、その下に梵天・帝釈がいてという宇宙観、国家観、つまりこの御領は釈尊御領である。これは皆さんご存じのとおりです。
 今読みました三位房宛てのお手紙の上段の後ろから三、四行がそれです。梵天・帝釈、それは、お釈迦さまが一番上にいらして、その下に梵天・帝釈がいる。梵天・帝釈の下に毘沙門天がいる。それからその下に四州の王がいる。みんな家来の家来の家来の家来、それでその家来にまた日本などの人間の国家の王がいる。その王に仕えている官僚、その官僚貴族のところに呼ばれて喜んでいるとは何だと。つまり釈尊御領の中に身をおいておられるわけです。
 釈尊御領ということを考えますと、釈尊御領の中で我々がどういう位置づけにあるかといえば、実に下の下の下の、本当に身も蓋もないような愚かな、つまり『法華経』を黄金にすると、石ころのような旃陀羅であるという。すべての人々が「旃陀羅が子なり」という日蓮聖人と同じ立場に立ったときに、その旃陀羅同士には、本当の慈しみ合いができるのではないでしょうか。
 だからそういう場合、その人々の間には本当の意味の平等が成り立つわけです。ということは、それ以外には本当の平等とか和平とかはありえない。そういうことを徹底していかなければいけないのではないかということです。
 実はこの「朝日新聞」の編集長が来まして、いろんな問題があるので、私が書いた文章に一応目を通しました。私は「差別」という言葉を使ったのです。すべてのものは本来差別的な存在であると。これは仏教の言葉で有と無の「有」は、「有」=差別、これはご存じのとおりです。差別のないものはないわけですから、そこで差別という言葉を使ったのですけれども、これはちょっと同和問題で、その言葉はやめて下さいといわれて、下から二行目の後ろの方、「不調和音は消し去ることができない」などと、どうも自分の文章として気にくわないのですけれども、この辺に差別という言葉を使っていない。あらゆるものは差別の上に成り立っているわけでしょう。その差別を取り払って、本当の平等。本当の平等とは、つまり二乗作仏がそうなのですけれども、それが釈尊御領の中の底辺にあるものという自覚ですね。この自覚に徹したとき、そこで初めて、そこ以外に差別のないことはないといえるのではないか。それ以外には必ず差別がでる。ですから一般的な価値基準の中で絶対平等なんて、口先でいっても本当の平等はありえないということです。
 日蓮聖人が、他のだれもいっていないような「自分は旃陀羅が子なり」などというあの表現は、釈尊御領の中の無差別の、差別のない本当の平等の世界、そこに位置する自分である。あるいはせめてあろうとする、そのことの呼びかけではないか、そういうふうに私は思うわけです。
 そういうような日蓮聖人の精神構造などを形成する上で、『平家物語』のような作品がかなり大きな影響力をもっていたのではないかと思います。
 今申し上げてまいりました日蓮聖人の、虚像と実像に分けて申しますれば、日蓮聖人の虚像の面、元気のよい虚像の面が強調されすぎているのではないか。虚像が方便、実像が真実とすれば、方便と真実は一緒で、方便即真実ということで、虚像もまた大事であることはあるのですけれども、その虚像が一人歩きしてしまうと、先ほどの評言のように日蓮とは狂信的で排他的で、傲慢で、知識人に非常に嫌われているとか、そういうようなことになりかねない。ですからそこを我々はどうしたらよいか、どういう対応をすべきかという問題が残るのです。
 例えば、これもまた一般的にいえばびっくりするようなことですけれども、私が印象的にみましたのは、「朝日新聞」のおととしの十一月に、真間の弘法寺の酒井日慈氏が、「現代仏教」に「日蓮宗ではなくて法華宗にしたらどうか」と書かれました。そのことを「朝日新聞」が取り上げております。酒井氏のいわれるのも、私が今申し上げていたようなことと同じようなお気持ちだろうと受け取ったのです。
 つまり、いわゆる日蓮本仏論に通じるような、日蓮の虚像がパッとでて、「日蓮宗」というその名前のために大きな誤解を招くようになっている。日蓮聖人は法華経のままに生きなさった。法華経と自分とが黄金と石との関係にあるという、そういう法華経のままに生きなさった。その日蓮聖人を我々は仰いでいるわけなのですけれども、その法華経が消えてしまって、日蓮本仏論的に、日蓮が表面にですぎている。だからそこは気をつけなければいけないのではないかと酒井さんはおっしゃっていると思うのです。
 ですから、現実にこれに対する反応がまた「現代仏教」の次号に載っていました。「法華宗というのは実在するから具合悪いじゃないか」と、そんな手紙などがあったようですが、実在する、しないの問題ではなくて、心の問題として、日蓮宗という「日蓮」の固有名詞を表面に立てすぎて、日蓮嫌いを生んでいったのではつまらないじゃないか、そういうお気持ちでおっしゃっているのではないかと思うのです。
 それから例えば、「立教開宗七五〇年」がもうじきですけれども、旭が森に東を向いて合掌なさっている日蓮聖人のお像があります。あれはそれでよろしいのですが、別に日蓮聖人は旭が森でお題目を唱えたなんてことはどこにも記されてないのです。たぶんこれは虚構なのであって、いかにもパッと朝日があたるあの巌頭に立たれた日蓮聖人のお姿で、いかにも勇ましいのですが、清澄山頂でお題目を唱えはじめたというだけなら問題ないと思いますけれども、“旭が森で”というと虚構になってくるわけです。
 それから、例えば日蓮聖人の霊験を讃えようとするあまり、毒饅頭を犬に食べさせて、犬が死んだから助かったとか、こんな動物虐待はないのでありまして、そういう言い方で通った時代はもうすんでしまったはずなのです。
 それから例えば身延山にお入りになった「三度の諫めによる」ということ、これは現実に現在でも身延山でそうおっしゃっていますし、マイクでも放送していますけれども、「三度の諫め」とは、中国の『礼記』とか『孝経』にあるわけでしょう。どうして日蓮聖人があの時期に中国の『孝経』の教えによって「わしは山に入るよ」とおっしゃったのか、不思議というか、これはあってはいけないことではないでしょうか。やっぱり法華経の教えによって行動していただかなければ困るのです。それまではずっと弟子・旦那たちを叱咤激励したあの日蓮聖人が、いよいよ最後になって、「中国にこういう教えがあるから、わしは身を引くよ」なんて、そしたら弟子・旦那は戸惑ってしまうのは当たり前なわけです。
 ですからそういう点なども、虚像と実像ということをみなければならない。例えば「三度の諫めによる」ということは、三つ真蹟のあるご遺文にございますけれども建治年間だけです。建治二〜三(一二七六〜七七)年のご遺文だけです。あとは全くありません。この時期にそうおっしゃらなければならない、またはおっしゃった方がよいという事情があったに違いないのです。
 ですから要するに私たち教師としては、虚像も実像もいずれも尊いものではあるのだけれども、虚像が先走りしすぎた気があるので、実像をもう一回確認して、日蓮聖人を円満に捉えていかなければいけないだろう。それにはどうすればよいかといえば、偽書がたくさんありますから、確かなご遺文を時代順に読んでいくことが大事であるということを特に申し上げたいのです。
 法然さんの『選択本願念仏集』とか、親鸞さんの『教行信証』とか、道元さんの『正法眼蔵』とか、ああいうまとまった教義の著書が日蓮聖人にはございませんでしょう。一番長いのは『開目抄』です。『開目抄』にしても結論がないのです。『開目抄』というのは本当にのたうち回って、こうじゃないか、ああじゃないかと、自分は法華経の行者かと、そうなればこんな目に遭うはずがないと、それがずっと続けられていて、しり切れとんぼだと云われてもしょうがないような著述です。つまり聖人には、他の祖師たちのようなまとまった教義の著述はありません。日蓮聖人のご一生のものが一つの主張を現わしているわけですから、それを私たちは着実に受け止めなくてはならないでしょう。そのためにはご遺文を時代順にきちんと読んでいって、日蓮聖人の実像を求め、確認することが必要です。その上で、望ましい虚像は結構、しかし望ましからざる虚像も今まで喧伝されて、それが日蓮嫌いを生んだりしている。そういう点は気をつけなければいけないのではないかと思います。

 ※本稿は平成十年五月十三日、東京都新宿区常圓寺にて開催された第三十一回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。

このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.