教化学研究
地球環境の再生と仏教の役割
福岡克也
立正大学経済学部長
(財)地球環境財団理事長
ただいまご紹介いただきました福岡でございます。実は教化学の研究にかかわる会合には、先ほど石川先生からもご紹介いただきましたように、一度だけ京浜教区でやらせていただいたことがございます。
今思い出してみると、もう数年前だなあという感じですが、二回目も環境の話をこの場でさせていただくことは大変ありがたいことだと思っております。
実は私の宗派は、日蓮聖人が勉強されたもとの天台宗です。これは因縁ですので、改宗をせずにずっと我が家はきているものですから、天台宗です。福井県の武生に放光寺というお寺がありまして、ここに実は先祖の菩提寺であります。広い意味で仏教のご縁がありますが、地域としては実は福井が先祖の土地となっております。
その因縁をさらにお話ししますと、一乗谷で浅井長政と朝倉義景が、織田信長にやられたことがあるのですが、朝倉義景の方に知行大名で福岡義澄石見守というものがいまして、それが私の先祖です。朝倉義景について、一乗谷に最後まで頑張って戦ったのですけれども、織田信長にやられました。そこで先祖は武家の家から帰農して、武生の家で百姓を営みました。豊臣、徳川の時代に、だんだん名主のような役割をして、お米を上納する役割を果たしていましたが、徳川時代に先祖の一部が、領主、つまり鯖江藩の藩主が間部詮房のころ、やはり地域対策というのがあるのでしょうね、武家に登用されまして再び武士になった。ということで、福井の地でずっと過ごし、それから士族の血を私が引き継いだという因縁があります。
なぜか地方に行くと、必ず一回は北陸に引っぱりだされるのです。それで今日お集まりの方々、実は宗門の方が多いわけで、私はかねがね、お寺さん方が説教を、両親が亡くなったとか、法筵の度にお聞きしていて、一度説教をやってみたいと思っておりました。大学時代やっているでないかと。大学はやはり在家の人間にお話ししても大して当然でおもしろくも何ともないので、一度や二度は前から説教をやってみたいなと思っていたときに、たまたま京浜教区に一度呼ばれて大変感激しました。その感激が薄れてしまったら、再びまたここでふんどしを締め直せということで、今日はお説教させていただく機会をつくらせていただいて、大変ありがたいと思っております。精一杯頑張らせていただきますが、何せ宗学やその方の専門家ではありませんので、「仏教、何知るものぞ」と思われるかもしれません。ですから、あまりうるさい、やかましい宗学上の論争などいたしませんが、少なくとも環境問題に関して、こういうことを考えていますよということだけ、ぜひお話ししたいと思います。学校の授業と思って、一日、立正大学経済学部入学だと思って聞いていただきたいと思います。
実は先ほど石川先生からも、お話しがありましたように、どこから切り口にしていくかということがありますが、地球温暖化問題に伴う京都会議がありました。CO2に関する国際的な会議だというので、「COP3」という名前がつけられています。
先日、大木環境庁長官と、私どもがボランティアでできている団体の機関誌の対談がありました。一時間にわたり、大木環境庁長官と私と京都会議についていろいろ率直に話し合いをいたしました。その前には京都会議の準備でNGO関係でいろいろ関与させていただいているわけです。
京都会議について、先ほど石川先生がせっかく触れられておりますので、この話をきっかけとしてさせていただきます。それからだんだん全部の環境の話になりまして、また戻ります。
COP3京都会議、これは一九九五年にベルリンでCOP1という最初の会議がありました。そのもとは、実は一九九二年六月にリオデジャネイロで、第二回目の地球環境サミットが開かれたことによるものであり、まだご記憶にあたらしい思います。第二回地球サミットがスタートです。
第二回地球サミットは、ご案内かどうか知りませんが、「環境と経済発展に関する国連会議」が正確な名前です。この会議では、環境という問題と、飢餓や貧困に悩んでいる途上国の人たちの経済発展という二つの柱が立ててあります。
どちらかというと、地球サミットといった場合に、環境問題が中心であるとご理解されている方が多いだろうし、またご理解下さって何の問題もございませんが、環境という問題だけでなく、一方で経済発展という問題がからんでいる。つまり環境を守りながら、どのように経済発展していくかが主題であったといえると思います。
ところで、リオデジャネイロは私も実は参加いたしました。ある保守党の政権党、与党ですけれども、保守党の、政策顧問という資格で参りました。政府は環境庁の役人さんとか大臣さんがなりますので、私は党員ではありませんが、そこの専門家として何人か行ってもらおうということで、顧問の資格で、会議に立ち入り自由ということで参りました。
その前に、環境委員会でいろいろ講義をさせていただきました。私ども教授会などは真剣にやっています。学校の会議にせよ、役所の審議会の委員もやっておりますが、形どおりやられる会議だったら、そうおもしろいものではないです。決まったことを、大体大きな反対がなければ「賛成」ということで帰ってきて、極端な場合はお茶を飲んで帰ってくることもあるのです。そこで生かすためにこの会議、自由な立場で出させていただいたのです。
実は、リオへ行くのに二十四時間かかるのです。私は直行するのに自信がなくて、ロサンゼルス経由でマイアミに泊まっていった。フロリダ半島のマイアミといえば、「マイアミビーチ・ルンバ」などがあるようなところで、なかなかおもしろいところなものです。ルンバなんかをやっていたら、会議に間に合いませんけれども、一応降りました。そのマイアミ経由で、大体ここに来るのに一〇時間で、ここでまた六時間もかかってしまって、それでまた一〇時間ぐらいかサンパウロに行きました。
でかける前にあそこで荷物を置いたらすぐ無くなる。荷物を置いたらすぐ取られるから気をつけていってなどと言われてきました。それで一応背広などを全部カバンの中に入れまして、実際はスポーティな格好で、いつでも取れるなら取りなさいというような労働のスタイルで行きました。行きましたら、取られるどころか何も取られない。だれかきて取ってくれないかと思うぐらい、変化が起きないのです。どうしてだと聞いたら、一〇万人ばかり、その周辺にいるルンペンを全員、政府が収容して、一〇日間、「会議の間だけだまっていろ」と宿泊費をとらないで収容したのです。収容所に入れたものだから、やろうという意識のある人は何もできないわけです。だから何もおもしろいものもなくなった。全然ものは取られない。実に整然とした環境だということでびっくりしたのです。
ところが、会議に行ってびっくりしたのは、戦車と銃剣で、ブラジル軍が周辺を固めている。何の会議だと思いました。戦争と平和の会議か何かやるように、軍事力に囲まれた環境と経済発展の会議は、ちょっとおそれいったのですが、どうもあまりふさわしくないなという感じはもちました。
しかし、とにかく会議は順調にいったのですが、当時のアメリカのブッシュ大統領は、始め忙しくて来られなかったのですが、途中、航空母艦を出しまして、ワシントンから航空母艦経由でヘリコプターで会議に出てきた。こういうことに対して、日本の首相はどうだったかというと日本ではいわゆるだらだら国会、投票をぐずぐずやっている国会をやっていまして、その国会のために来られないというので、何が来たかというと、ビデオテープが来たのです。日本はビデオテープ、アメリカは現物がきた。ところがブッシュ大統領は、あらゆる国務を排して、大事な会議だというので、航空母艦をもっていてよかったと思いますけれども、航空母艦経由で来た。こういうように違いがでてきたのです。
特に途上国の人々が、環境保全だけでなく、経済発展、飢餓・貧困を真剣に訴えようとしているわけです。そこへアメリカは、多用の中をとにかくおしてまでも、航空母艦経由でヘリコプターでブッシュが来た。ところが日本の宮沢首相は、そのときにビデオを送ってきた。パフォーマンスが違うのです。やはりどのように志を示すか。そういう行動が非常に大事です。
そういう意味で、日本の首相がこの大事なリオの会議に出られなかったのは 日本はそういう国だ。日本は首相がだらだら国会に巻きこまれて来なかった。私は正直に申しますと、そういうときには政治休戦をすべきだと思います。つまり、社会党も共産党も自民党も民社党も公明党も、いろいろ考えがあるでしょう。だけど今、地球全体の問題、人類の運命にかかわる重要な国際的な会議をやっているという認識に立つならば、たかが一つの国の中の政治的な争いで、その首相が行けないことは、絶対に避けなければならないことです。政治休戦を一週間でも一〇日でもやりなさい。いいじゃないですか。ゆっくり決めようといっているのだからゆっくり決めましょうと。ならば今、一応日本が世界に問われていることは何かといえば、首相がリオの会議へ行って、そこで日本の考えを示してくる。それが大事な行動なのだ。そういう行動をとらなかった日本人というもの、それから日本国民に対して、世界は批判の目を向けるわけです。
私は、日本の政治的事情などにだれも干渉しようというものはいないし、日本は日本でやってくれといっているのですけれども、今、同じ地球に住む人間として、今悪化する環境と貧困、経済の問題は、いわば慈悲の心といいますか情けをもって集まって、そこでものを解決しようとしているときに、政治休戦もしないで、「国会が忙しいから来られませんでした」というのは、ちょっと理解に苦しむというのが、国際世論の大体のそのときのリオデジャネイロ周辺の雰囲気でした。特にNGOといいまして、国の政府がやる正式の会議の他に、こういう会議は京都でもそうだったのですが、NGOがたくさん集まって、討論をいたします。特に環境に関して非常に熱心な人たちか集まっているときに、こっちの動きも見ているわけです。NGOの会場の中に大きなビデオがあって、そこで会議の内容をどんどん報告されて、みんな演説をする姿が出てくる。ブッシュは現物が来てやっているわけです。日本は現物は来なかったのでビデオでやる。それでひんしゅくを買ったのです。特にこの人たちが、「何だ、日本は熱帯林ばかり伐っていて、こういう会議になるとやって来ない」ということが、非常に大きなひんしゅくを買ったわけです。
京都でCOP3の会議をやったことは、別に罪滅しということではないのですが、日本にとってはラッキーだった。今度は日本が責任をもってやる。ところがその京都会議で、大木議長が会議の途中で「おれは帰る」と言っていったん帰った。それでまた諫められて戻ったということで、まずいことになった。
こういうことで日本のパフォーマンス、外に対するプレゼンテーションというのですけれども、自分の心を示す示し方が未熟なために、非常に誤解を受けたことがありました。
これはやっぱりそういった問題についての国の経験が浅いのだろう。富国強兵以来、いわゆる尊皇攘夷でいろいろ日本の国のナショナリズムを守っていくことは大事ですけれども、同じ守っていくにも守り方があるのではないか。外に対して日本はもっとしっかりしてもらいたい。
ところで「リオデジャネイロ宣言」がでてきた。日本も、政府の役人さんの方は一生懸命やっていた。「リオ宣言」で言っている非常に大事なことは、今までは環境政策は、国から地方、地方から国民という感じで要するに行政が主導して、国民がその規制を守るということだった。つまり公害の防止といった規制を守ることだったのですが、今度の「リオ宣言」は逆になっています。つまりこれからの環境をよくしなければならない担い手は、企業であり、消費者である。いわば国民がまず最初だ。国民が自ら計画を立てて、地方をそして国というふうに積み上げていくことが、基本的な環境保護の対応のあり方だ。治世ではなくて自主的な行動だ。こういうような考え方が「リオ宣言」でははっきりでてきたわけです。
同時に企業や消費者は、自分の出しているごみや、自分の出している公害に対して費用を負担する。環境に損害を与えた場合には、環境に対するコストを負担する。この「負担」ということがはっきりとうたわれてきているわけです。
この「リオ宣言」は、計画を立てプランを立てて、行動をして、アクションを起こし、プランを修正していく。自分を自ら顧みるということ。自己評価というかそれをしていく。けれども、実は環境コストを負担するということは、最も本質的には、規制に対して自主的行動を起こすことです。自主的行動とは何かというと、参加だということです。どういうふうに参加するかといえば、実際はひたいに汗して労力を提供するとか、あるいはお金を出す。何も出すことがなければ頭をだし口を出すというのもある。その労力やお金など、犠牲を払うことを考えているのです。そう考えてみれば、環境コストの負担も、犠牲を払うことで、自ら参加することになります。ただ出ていって自分の言いたいことをいうのではなくて、困ってでもよいから行動を起こし、犠牲を払って、労力をはらい、金を払らって、善意をもって環境をよくするように考えていくのが環境コストの負担ということです。「リオ宣言」では、そういった負担をみんなで負担すべきだといったわけです。
ところが、そういうことをいいますと、そんなことをいっても、コストが負担できるのは先進国ばかりではないか。南の国々は実は今までは、北の国々からどんどん資源をとられて、資源を提供して、資源を採取された。そして自分たちはますます資源がなくなって貧困になっていく。こういうのではバランスが悪い。明らかに豊かな北と貧しい南のバランスが、どんどん拡大するばかりだ。資源を採っておきながら公害をつくり、あるいは破壊をつくってきた先進国は、実にけしからんではないかということです。
先進国は社会主義の国もありますが、資本主義の国が多かった。石橋先生の論文を後ほどご紹介しまして、そこでもお話ししますが、実は資本主義にしても共産主義にしても、どちらかというと物質を基礎にしたものの考え方であります。それはなぜかといえば、資本とは、ものの生産や需要供給という必要から生まれたある種の働き、あるいは便宜的にかかわる、物財的な、サービス的なものです。
共産主義は、資本主義が自由にそれをとったり、作ったりできるのに対して、それをやっていると、南がいっているような貧困の問題が資本主義の社会の中に生まれるから、平等にやっていこうということで、理想は分配の平等であったのです。その分配を平等にすることが、物質をどんどん作っていくのに非常に役立つだろうという考え方だった。
ところが実際やってみたら、共産主義の社会をつくったときに、政治的な力を不当に強めたために、官僚国家になってしまい、物質の生産は停滞するし、分配も実はあまり平等にならない。本来の共産主義の目的が達成されない。主義が悪いとか善いとかいう問題ではなくて、システムとして、仕組みとして、決して資本主義と共産主義を比べたときに、共産主義が資本主義より優れているということを証明できないような結果になった。私は近代経済学なものですから、別にマルクス経済学の悪口を言っているわけではありません。私はマルクスが大好きでございますが、今マルクスがおもしろいという本があり、原稿を出したこともあります。今マルクスがおもしろい、何がおもしろいかというと、マルクスがあまりにも物質的な考え方を出したためにそれによって生じた被害について、逆にマルクス経済学自身が制御できない、処理ができなくなっていることが非常におもしろい結果だというのです。
実はそういう物質中心の豊かさの拡大は二十世紀の特徴だった。ところがその結果として、南の国々が資源を提供して、実は自分たちの国を滅ぼしてしまいかねないくらいに収奪されてしまったというふうな意味での不平不満が非常に強くなっているのです。
だから荒廃した国土、資源を、どのように北の国々は補償するのか。環境コストという、例えばごみを出したら、ごみ代を払え。尾籠な話ですけれども、大小便をしたらし尿料を払え。汚したらその責任をとれというのだったら、まずその前に、二十世紀にかかって破壊してきた自然をどうしてくれるのだ。北は回復の責任があると、そういう形の注文が付いてくる。貧困の原因はいくつもあるのです。それは宗教的な原因もあるでしょうし、社会的な原因もあるでしょう。技術があまり発展しない、教育をやっていない、さまざまな理由があるでしょう。しかしそんな理由があっても、大きくいえば北が南を貧しくしてしまったのではないか。やっぱり北は確かに南に対してある種の収奪をしたのは間違いないのではないか。南の国々の反撃にあった。
環境コストの負担は、生物の多様性、熱帯林を守ろうとしたら、種の尊厳をうたうことによって始まる。そうやたらと森林を伐ったり、自然を破壊したりしないようにする。生物の多様性を重んずること、生物の多様性の保護が一つの大きく取り上げられたのもそうした状況がありました。
生物の多くのものを守っていくために森林を保護する。森林保護のための宣言がでまして、それが「森林原則宣言」という形で出されたわけです。
さらに越境公害を防止しようということで、酸性雨とか、あるいはオゾン層の破壊とか、そういう越境公害を防ぐことが大きな問題になった。
そしてもう一つは、地球温暖化がどんどん進んでいる。温暖化防止をやるべきだ。特に原因物質、原因になる物質は、炭酸ガスだけでなく、メタンとか窒素酸化物とかフロン等々がありますが、特に大きなウエートをもつのが、二酸化炭素、いわゆる炭酸ガスといっているものです。
京都会議は実はこのいくつかの宣言のうちの一つ、温暖化防止条約をつくろうという決まりから出発しまして、一九九五年ベルリンでやって、三回目として京都会議をやったというのが流れです。
その大きな特徴は、先ほどまさに石川先生がおっしゃったように、「削減率云々」というようなお言葉がでたと思います。実は今までは炭酸ガスを減らさなければならないということは考えてはいたのですが、頭の中で考えても、それを具体的な目標にするためには、数値目標を定めなければならないだろうということになったのです。京都会議の一つの大きな目的は、具体的な行動のガイドラインとして、数値目標を定めて、その数値目標を達成するところにそのポイントをおくべきだということになりました。
その基準の一つとして、一九九〇年における炭酸ガスの排出量が、人類社会全体で一体どのくらいになっていたかということがとり上げられました。これは正確な数字は残念ながらないのですが、OECDその他の統計から逆算してみますと、私の試算ですが、実は人類社会は一九九〇年において二〇〇億トンぐらい炭酸ガスを排出しています。この場合、二〇〇億トンというのは、CO2の分子量でいくと、12トン+16×2倍ということで、実は分子量は四四です。この計算で二〇〇億トンということです。炭素換算でいう場合には、炭酸ガスは四四生じているのだけれども、それを一二に換算する。少なめに換算するということがありますから、炭素換算といった場合には、トン数が三分の一ぐらいに低めになります。炭素換算で七〇億トン、六〇億トンという場合には、その三倍ぐらいが、CO2そのものの重さになっている。
私がここでいっているのは、やはり国際目標は炭素換算でもよいのですが、炭酸ガスずばりでもよいということで、それでCO2そのものの重さでいきますと、二〇〇億トンが大体一九九〇年にでていたのではないかと思われます。
ところが毎年人口が一億ずつ、二パーセントぐらいずつ増えてくる。人口が増えてくると、もちろん消費も進んでいるので、経済成長も一〜二パーセントぐらいは、平均的には全世界的にはでてくる。食糧の不足、燃料不足がでてきて、燃料を使えばエネルギー消費になるわけで、CO2も実は不思議なことに大体二パーセントぐらいずつ増えてきているわけです。二パーセントということは、一九九〇年以降、毎年四億トンずつ、大体炭酸ガスの排出量は増えているとみなければならない。七年たって現在は一九九八年ですから、今計算すれば、単純に四億トンずつ増えたと仮定しても、4×7=28で二八億トン増えて、二二八億トン、約二三〇億トンぐらいになっている勘定です。
実は目標年次を定めまして、二〇〇八年から二〇一二年の間に、大体一九九〇年の排出量に対して何パーセント削減するかが討議されました。ここで削減率という話がでてくるわけです。削減率はOECD全体としては、大体六パーセントぐらいを目標にして、国々によってそれぞれ事情が違うので、日本みたいに六パーセントという国もありますし、アメリカのように五パーセントぐらいのところもありますし、八パーセントというEUもあるわけです。
たとえば五パーセント削減といっても、増えているものを削減するのではなく、一九九〇年の二〇〇億トンに対して六パーセントですから、これを一八八億トンというレベルに、二〇〇八年と二〇一二年を、一八八億トンくらいのレベルに少なくとも落とそうというのが、国際的な合意の線だといってよいと思います。
数値目標といっても、今までのようにほったらかしておけば、一九九〇年からみますと、たぶん二〇〇八年、二〇一二年は、そこから約二〇年ぐらいたちますから、八〇億トン以上増えて、二八〇〜三〇〇億トンぐらいになっているはずです。それを少なくとも一八八億トンにしようというわけです。削減率という問題は、そのような考え方だとご理解をいただいておかなければいけないと思います。
今度の国際交渉の最中に、アメリカは最初は〇パーセントというようなことを言っていました。日本のマスコミとか一般の人たちは、アメリカはひどいものだ。削減率をゼロにしているというのですけれども、それは大変なことです。なぜかというと、〇パーセントの削減率とは、一九九〇年において、少なくとも二〇〇億トンのものを二〇〇億トンにしていくということです。その間に増える八〇〜一〇〇億トンは削減しなければならないのです。したがって削減率ゼロといっても、それは年率増えていくものを全部帳消しにしなければならない。簡単にいえば、借金をして借金がたまっていった、利息だけどんどんたまっていった。借り入れた値は変わらないけれども、利息の部分を全部償却するためには、それだけの分を返済しなければならないのです。ですから削減率ゼロといっても、実は一〇〇億トンからのものを削減しなければならないということになるのです。
だからアメリカがゼロといった時、それに対して、何だアメリカは何も協力しないというようなことをマスコミがいっていますが、大間違いです。これはそうじゃないのです。〇パーセントだって大変です。アメリカは、なかなかマスコミ的な国ですから、ゼロというイメージが国際的に悪ければ、それではおれたちは六パーセント思いきってやろうという。そのかわり、排出量は人間がだしっぱなしにしているものですが、自然の方で、例えば森林などでいえば炭酸ガスを吸収する能力があるのだから、吸収量を考えるべきだ。これが合理的だ。だから排出量が仮に一〇〇億トンあっても、吸収量が一二〇億トンあれば実は二〇億トン減ってしまうことになるのです。
こういうことは今の自然にはないわけですが、少なくとも一〇〇億トン増えていく中で、吸収量が七〇億トンぐらいだったら、正味三〇億トンぐらい排出量が順増するということになる。二三〇億トンになるのだったら、一八八億トンにはあと四〇億トンだけ減らせばよいではないかという話になりました。この問題をアメリカが提出してきたという最大の背景は、単に排出量ばかりを抑えるばかりでなく、一方で吸収できる自然の能力をもう少し増やしていくということを考えれば、実際の数値目標はある種の妥協線がでてくるのではないかと考えたのです。政治的に考えた要素もありますけれども、生態学的に考えたともいえ、アメリカの提案は非常に貴重な提案がなされたわけです。
一つはアメリカのいっていた〇パーセントが、どういう意味をもつかということを私たちに考えさせたことになった。吸収量という積極的考え方をもつことによって、我々はこれからもっと環境に対する重大な評価の見直しをしなければならないことを示したということになってくるのです。
排出量の削減とは、こういう意味で話し合ったのだということを一つご了解いただきたいと思います。この目標を達成するために、日本が六パーセントぐらい削減するのだったら、毎年増えておりますから、その増えた分に加えてさらに減らさなければいけないことになるのです。実質二〇パーセントぐらい削減することになるでしょう。つまり私たちがいろんなところで生活している燃料の消費を、一挙に三分の一は減らさないと、六パーセントにせよ、実感のある削減をしたことにはならないわけですから、日本の財界だとか、実業界が大変あわてたわけです。つまり今までの総量を維持しながら、売り上げを維持しながら、なおかつエネルギーを三分の一減らすということになりますと、もうこれはドラスティックに燃料比を変えていかなくてはならないことになる。太陽を使うとか風を使うとか水素を使うとか、いろんなことをしなければならないわけです。
もう一つは、排出権という考え方が生まれたのです。皆さんは、お寺さまばかりですから、大きいところに住んでおられると思うのです。東京などにいきますと、お寺さんの周辺は全部住宅になり、お寺さまはお金がある方もいらっしゃるので、庫裏をつくるというので、五階建くらいのマンションみたいな庫裏をつくると、周辺から繰り言がでてくる。高すぎる、日陰になると困るというのです。断固としてやってしまうお寺さんもおりますし、多少遠慮がちに、かまぼこみたいな形の屋根にしてしのぐ人もいるでしょう。お寺さんも三階くらいでおさえておこうとか、四階ぐらいでおさえようとする人が多いのですが、それでも日照権が問題になる。
では日照権とはどういう権利かといえば、はっきりいって、ただ人間は二十四時間のうち八時間ぐらい日に当たりたい。そんなら川っぷちに行って日に当たってくればよいじゃないかということになると、どうも議論にならないのですが、何となく日陰で生活するのはちょっと嫌だなという感じです。それから排気ガスがどんどんでてきて、排気ガスばかり吸っていて、どうも自分のところのお寺の屋根が少し腐りやすいし、それからお不動明王などの石像を置いているけれども、みんな古くなってまっ黒けになってしまってしまう。子供に絵を描かせるとみんなまっ黒な絵を描いてくる。本当はつくったときには白い石なのだけれども、酸性雨でみんなやられてしまってどれも真っ黒です。よけいなおせっかいだけれども、石灰でもまいておいた方がよいのではないかということになる。石仏の上に石灰をまいておくと、粉地蔵になってしまう。
「南無妙法蓮華経」などは私の小さいときから美しい太鼓の音で「ドンツクドンドンツクツク」。お会式の近くになりますと、一斉に全国の日蓮宗のお寺さんで太鼓をたたいているような感じがした。私はいろんな地方へ転々としたのですが、行くところ行くところで太鼓の音を聞いて育ったものです。
やっぱり何といっても日蓮宗は太鼓でもってアピールしますね。あの太鼓でドンドンやられると迫力あります。
とにかく相当な迫力がある。ああいうのはうるさいということはないです。文化的な音だなと思うのです。ただ自動車の音なんかうるさいですね。ロックの音もエレキのギューという音もうるさい。最近は息子たちがやっているものだから聞き慣れてきましたけれども、耳がたまったものじゃない。だから私の声が大きいのはロックのおかげではないかと思うのです。
とにかくうるさいとか、臭いとか、みんな自分の権利を損なっているという意味。どういう権利かといえば、人間は憲法で定めたように、平和に豊かに、心安らかに生活できる権利がある。ところが平和は乱される、豊かさは削がれる、心が乱される、権利なんかは何もないというようにみんなが思うから、環境権を言いだすわけです。
排出に対していうと、皆さん毎日何か排出しているものがあるでしょう。例えば、いくら出家の方で仏様に使える身でも、食事をされれば大便も小便も出てきます。いくらかごみも出します。そこは人間共通点です。在家も出家もみな人間で、飯を食わなければ生きていけませんが、飯を食えば糞をする、小便をする、そしてごみを出す。要するに排泄物を出す。
では一日に五回小便を出して、一回だけ大便することに制限するといわれたらどうなんですか、正常な排出も権利といえるのかと思うのです。ごみを出すときに、例えば一日に一軒の家で一キロ出すのが限界だ。としたとすれば一キロを超えたときには金をとるとか、粗大ごみみたいに、千円、二千円負担してもらう。
だんだんそういう様になってくると、ごみを出したり、排泄物を排出すること自体が、コストになる。そうなると、一体おれは一日いくら出したらよいのだということを、考えようかなという雰囲気にだんだんなってきている。一年間に、CO2をどのくらい出せるのだということを国全体で考えたときに、その国の排出量は、先ほどの削減率をきめて、削減する努力はしてもらいます。その努力は、各国々が自主的努力でやっていきます、各国の特性に応じてやります、ということになります。しかし、排出できるというふうに各国が考え、逆に各国はそれぞれの特性に応じて、国際的な割り当て量を決めることになる。国際会議で削減率を決めたときには、その削減率を目標として達成するために努力をする。
実際に排出している分量が割り当て量とイコールの場合、現実排出量=排出割り当て量といったときには、この国はちゃんと国際ルールを守ってやっているのだということで、認知されます。日本は頑張ったな、割り当て量をちゃんと達成して偉いなと。これは地区別に割り振ってもよいのです。北陸地域と関東地域だと、関東地域ではいつも割り当て量を超えた排出をしている。ところが北陸地域はそれを節約して、割り当て量よりも下回った消費量で抑えた。 そこで差がでるわけです。そこで割り当て量を排出権と考えたとすると、北陸は関東に余る分を売ることができる。例えばちょっと予定が狂って、景気が非常によくて、経済成長率が予定の三パーセントから一気に五パーセントになったとする。現実の排出量を仮にAとして、割り当て量をCとすると、AがCよりも上回ったという場合がでてくる。AからCを引いた、超えた分があるわけです。これをどうするのかという問題がでてきたのです。
ある国(A′とする)がたまたまあまり使わなかった。そうすると、このA′からCを引けば余りがでる。その余りを他国へもって行く。超えた分を補うシステムにすれば、世界全体では枠があって、そこで出し入れが多少あっても、中で出し入れする限りは、枠全体は変わらない。世界で一年間でだす炭酸ガスの量は変わらないですむという工夫を始めた。それが排出権の取引です。ではいくらでこれを取引するのか。金額はこれから決めるわけですが、排出権を取引するというアイデアがでてきたわけです。
これがでてくると、国ごとにやる。ある部分は国の中では地方ごとにやる。ただ地方の中では今度は企業と企業でやる。お寺とお寺でやってもいいのです。北陸のお寺の炭酸ガスの排出量を何トンと決めるわけです。こちらさんのお寺さんの方ではものすごく排出する。べらぼうに二倍ぐらい排出する。こちらの方はしっかりしていて二分の一だ。節約して残した分を不足の方に売るわけです。売るときには勝手に交渉して値をたたかせないで、福井県とか石川県とかあるいは世の中に「炭酸ガス排出権取引所」をつくって、その取引所を通して売り買いをする。するとお寺の中でも節約している方から、炭酸ガスの排出権を売りますから、例えば金沢のお寺はどんどん排出している。ところが輪島のお寺はあまり排出しない。そしたら輪島のお寺の方に金沢のお寺さんからお金がいきます。そうするとお寺さんは檀家の方に、炭酸ガス寄付なんてとられることが起きるかもしれません。炭酸ガスお布施などをもらって、何だこれはということになるかも知れません。その逆に節約した方では、檀家の方に炭酸ガスの排出権の売上金が一〇〇万円きたから、檀家一〇〇人に一万円ずつ差し上げる。消費税の減税みたいなもので、それで焼酎飲んでも何をやってもよいといって分けるのです。
中には少し感心な人になると、福岡の環境の本でも買ってやろうかというようなことで、一冊二千円の本を一〇〇冊買って檀家に配る。そういうことをやっているお寺さんがいるというので感心したものです。
要するに、排出権を超えた分については取引をする。「地獄の沙汰も金次第」という言葉がありますが、私たちもやっぱり地獄のことを聞かされると、できるだけお寺さんにはサービスしておいた方がよいなと思います。だからお勤めは欠かさないのです。お金の方のお勤めは欠かさないのですが、お参りの方のお勤めは、多少サラリーマン・スタイルでやっていましたものですから、やっぱり何らかの印がないといけないでしょう。
そこで排出権については取引をする。これはこういうことなのです。北の国でどんどん増えていったとき、南の方を使って、割り当て権はこうだから、この部分だけ先進国に売ってやるという話です。
そこであまり違ったことでやるとまずいだろうというので、共同実施といいまして、排出権を取引することを決めると同時に、共同実施、あるいは共同責任がでてきたのです。
共同実施、共同責任の具体例を見ますと、例えばあの仲が悪かったアメリカとロシア、アメリカと旧ソ連が、共同実施に踏み切りました。これは排出権の取引がある。何年かの間にロシアはアメリカに排出権を売って、アメリカはロシアに金をやる。金はやるけれども、その金は省エネだとか、コー・ジェネレーションだとか、CO2を減らす、あるいは経済成長するためのお金として、金を貸すのではなくてあげる。そのかわり排出権はアメリカに売ってやる。ある時期にバランスがとれたら、それはやめるというふうにしていこうというのが共同実施です。
日本は隣に韓国と中国があるわけです。この関係は、かつては米ソの関係の方がもっと厳しかったと思うのです。しかし西欧の人間は、すごくその辺が仲直りが早くて、さっさと仲直りして、今さら旧ソ連だの共産党だの、やれ民主党だ共和党だ、そんなことをいっていない。ロシアの方はロシアの方で、頭がよいものですから、アメリカは国際的にひんしゅくを買わない程度の排出権でつじつまがあえばよいということです。日本は韓国、中国と日韓、日中の共同責任による共同実施をやることが非常に大事なのです。ところがこれは今のところ全然だめです。漁業交渉ひとつだって、うまくいかないでしょう。
北陸の海岸には、韓国のラムネやサイダーの瓶とか、ジュースの缶とか、本当にいろんなものが流れてくる。毎日、外で一年間、お寺の仕事をほっぽりだして、海岸を歩きまわって、ときには油(オイル)の変なやつが流れてくるこ
とがありますが、ごみを拾ってごらんなさい。ほとんど韓国や中国の、特に韓国のごみが流れてくる。
だから漁業交渉だって、竹島あたりをめぐって、どうのこうのいっているわけでしょう。これから竹島とか千島列島とかサハリンとか、そういうのは共同領有というものがあってもよいではないか。共有というのですか、もう面倒くさいところは、入会地みたいに全部共有にしてしまう。国連の管理のもとに共有にして入札する。日ロの入会地としては国後・択捉とか、日韓の入会地としては竹島などです。
こういう意味で、日韓、日中という、こういう間柄で共同実施、共同責任がとれるかといえば、全然できていない。日本という国は今、金融界は徳川時代と同じ状態になっているのです。日本銀行という慶喜がいて、各藩の体制で、住友藩、三菱藩、最近はあさひ藩とか、さくら藩が危ないというとみんな一斉に駆けつける。中にはつぶれた藩もあります。北海道拓殖藩はなくなってしまった。何か郵政藩というのがあって、これが安全で便利だ。ここにみんな金が集まって、東京三菱と郵便局にどんどん貯金が増える。今は東京三菱危ないぞなどといったら一斉にまた郵便局が増えるのですが、郵便局が危ないぞなどといったら、日本人は自暴自棄になってしまう。
ともかく国内体制はこうなっているでしょう。日本銀行を中心に、各地方銀行、それから都市銀行、農協系、農林中金、農協系、こういうふうな体制になって、郵便局があって、日本の金融体制は実によくまとまっているのです。
ところがこの体制に参入しようとすると、みんな中に入りにくい。キリスト教は日本でだめだというのと同じ理由です。理由というか、キリスト教の方が入りにくいのですけれども、そういう関係になっている。
ところが、日本は経済力があり、炭酸ガスでいうと世界の炭酸ガスの一六パーセントを日本が出している、アメリカが三四パーセント出している。ですから、日本とアメリカが一緒になったら、約五〇パーセント、世界中の炭酸ガスの排出量の半分を日本とアメリカが出している。今後どうなるか、中国などは、今は一〇やそこいらですが、これから五〇、一〇〇になるかもしれない。すごい国が隣にいるわけです。中国は、排出権をもうけることを反対しているのです。なぜかといえば、今割り当てられたら反抗する。要するに、いくらでも無制限に排出したい。それが今ここで変な割り当て量をつけられたら困ってしまう。自由化や先進化が成功するまではやり続けるというのです。炭酸ガス覇権主義、炭酸ガス帝国主義にならないようにと希望します。
今世界全体で国際資本が広がってきています。韓国の方が弱いですから、まず韓国に金融恐慌がきてしまう。もちろんタイとかインドネシア、フィリピンなども、どんどんやられています。やられた後に、結局タイが危ないというのでIMFが援助した。これがペリー来航みたいなものです。そこからでてくるのは全部アメリカやヨーロッパの銀行がやってくるから、オランダやフランスの植民地、イギリスの植民地に逆戻してしまう。今やもう一回金融面で植民地化する可能性があるのです。
それで日本だけがじゃま者なのです。これには攻撃をかけてくる。これでまず護送船団方式という方式を、組織を担った大蔵省をはじめとして、日銀を倒さなければいけないということになる。それでどうなるかといえば、山一を狙ってぶっつぶしたでしょう。メリルリンチというアメリカの証券会社が入り込むわけです。
それから今にみてごらんなさい。東京三菱はつぶれないかもしれませんが、あさひとか、さくらは散っちゃったというようにならないとも限らない。あさひはたばこみたいなもので、さくらも散る。さくらが散ったら、ニューヨークのマンハッタン銀行とか、サンフランシスコ銀行とか、ロサンゼルス銀行とか、気がついたときには、日本銀行だけが「日本」という名前をつけているけれども、あとは全部ニューヨーク三菱銀行とか、そういうふうになることをにらんでいるわけでしょう。
だから大蔵省だの日銀のスキャンダルは、何でもよいから、徹底的にやることによって、まず規制を緩和させる。政治家は検察との関係で、どういう関係をもっているのかしらないけれども、規制を緩和させて、そこでどんどん入りこむ。最後が一番狙っているアラブやアメリカの資本などが、日本の市場をある程度、三分の一でいい、四分の一でいいから支配する。大きな企業の株式所得の二五パーセントが、今、独禁法による最大限なのです。その二五パーセントまで株式を取得してやろうと。日立も狙われている、トヨタも狙われている、ソニーなども狙われている、NECもみんな狙われているのです。
そして一方、大学では何を教育しているかといえば、国際化でしょう。我々も国際化時代に加え、「情報化時代」といって教育しているわけです。だんだんナショナリズムをなくす、教育のレベルがどんどん進んでいく。
環境の話だけではなく、これからの経済の話も、もっとおっかない話になります。
だから私は、日本を考えたときに、ある程度国際化も進むでしょうが、よほどそこでしっかりとした対応をしておかないと、いつか香港みたいになってしまうのではないか。香港にはなりたくない。我々が二千年かけて、短くとも千年、あるいは八〇〇年、七〇〇年かけて培ってきたこの日本という国を、日蓮聖人が『立正安国論』をつくられた気持ちになって守る必要があるのです。『立正安国論』は、現代にしてみれば、環境に対する問題にも当てはまり、同時に国際資本の侵略に対しても当てはまります。日蓮宗が国をあげて、不当なケースの国際資本の侵略に反対闘争を組んだら、これは大きなものでしょう。そういう意味では国難なのです。その国難を今我々は受けている。
炭酸ガスの問題でも結局同じ問題で、中国は炭酸ガスをどんどん排出している。迷惑するのは日本だけです。大量の炭酸ガスと大量の酸性雨が日本に降り注いでくる。なかんずく日本海岸に降り注いでくる可能性は非常に大きいわけです。日の丸の旗を立てて、「炭酸ガス防止工場指定」と札を立て、全部封印して、「使うときには日本政府の許可をとれ。被害者一同」ということで、そのくらいの問題があるのです。
アメリカとロシアについては、自分たちは世界の元首だ。ロシアとヨーロッパの資本が、ロシアとの合弁会社をつくってやっている。ロシア人はもともとあまり共産主義をまじめにやるような人間ではないのですね。ロシアは共産主義をやるやると言っていながら、結局できなくてやめちゃった国です。そしてまた今ごろになって、ロシア正教とかキリスト教に戻ってしまっている。エゴということに対する考え方が違うのです。キリスト教の自然に対する考え方は、「神あり、人あり、自然あり」、こういう考え方です。だから神さまが神さまに似た人間をつくって、その人間が神の意を受けて自然を管理する。ところが「神の意」などというのは日曜日だけで、人間の物欲がどんどん盛んできた。そこで出来上がったのが資本主義だし、近代社会、工業社会です。工業はなんで受けるかといえば、あれは生産性が高いからです。四か月で子供まで産むことはできないにしても、少なくとも四か月で子供を産むような仕事をやってくれるわけです。人造人間はつくれる、ロボットみたいなものをつくれる近代社会です。
ところが、我々の住んでいた社会で、エゴといったら、個人です。個人は個人でも、こりかたまっているから、今の犯罪や事件は全部エゴ教育の矛盾がきているわけです。自分がおもしろくないからと人を殺してしまう。自分がおもしろくないからといって強盗をする、火をつける。他人が迷惑をする。他人の被害が何だというのです。
民主主義とは、他人の人権を尊重することだといって教育して、五〇年が経ったはずなのです。ぼくらだってまじめに天皇陛下のために戦っていたところが、終戦と同時にいきなり教科書に全部黒を塗られて、今のは間違っていたという。それでは今までやってきた中学一年か二年までの教育とは一体何だったのかと思うぐらい。戦後は「民主主義が大事だ、民主主義が大事だ、平等だ、平等だ」というから、「そうだ、そうだ」と思って一生懸命にやってきました。しかし親に対する孝行はしました。家内も一生懸命やってくれましたが、少しは自分の親の糞ぐらい処理をしなければならないといって、水洗便所に手で持って行って流して、臭いをかいで看病した、そういう経験もあります。おしめも一〇〇回、二〇〇回替えた。自分がやってもらった分のおしめだけは全部替えたと思っています。
今のおしめは全部使い捨てでしょう。昔ぼくらが育ったときには綿で洗って、何回も替えてくれた。だんだん黄色くなってきて、おしめというのは黄色いのかなと思うくらい黄色くなって、やっと捨てる、廃棄処分になる。汚いと思えば汚いけれども、きれいだ、尊いものだと思えば、どんなものでも尊いのです。
そういう時代に生きていたのが、今の人は素晴らしい教育を受けているのだなと思ったら、ものすごいエゴイストばかり揃っているのです。若い人というと、本当にエゴイストが多くてどうしようもない。神・人・自然といっても、自然破壊を平気でできるわけです。人間がまず中心です。ヒューマニズムというのは人間中心です。人間主義というのは、エゴ的人間主義というようになってしまった。
ところが我々の世界はどうかといえば、神なり仏なり、ここに人と自然があるのです。自然と人間は一つになっている。だから仏か神か知らないけれども、我々の統べているものがあって、その下に自然と人間が一緒に共生している。こういう考え方ですから、人と人、人と自然、自然と自然というふうなつながりが、「山川草木悉く皆成仏」などという言葉があるように、全部仏心がある平等なものと考えている。
そういうふうに考えてくると、個人が確立されていないとよく悪口をいうけれども、確立されていないのではなくて、エゴが共にあるのだ。自然の中にあるという点からいえば、特別なエゴです。
ということで、中国がこれからどういう生き方をするか。近代化、近代化というのはよいのだけれども、韓国は非常にキリスト教が伸びましたから、韓国の人たちの考え方の中には、かなりキリスト教的な考え方が入ってきている。
あの自然をみればわかります。一生懸命植林をしていますけれども、日本の自然の方が恵まれています。中国と日本の人たちが、韓国の人たちと一緒になって、これから共生していくことになると、日中の協力が非常に大事な問題に、
日韓の協力も非常に大事な問題になるわけです。
さて話を戻しますが、排出権は割り当て量と対応しています。これからは割り当て量は一年目、二年目、三年目と毎年割り当てられていくわけです。一年目に余計に使ったときには二年目から借りる。二年目に余計に使ったら三年目の割り当て量から借りる。ということで、自分のものもまた借りてくる。そのかわり、自分のものを借りるのならよいのですが、そのかわり来年は節約しなければならないことになる。四年目も五年目も借りてくると、借りはどんどん先へ送られる。また借りた、また借りた、借りっぱなしでずっといった場合、最後には一年間ぐらい炭酸ガスを出すわけにはいかないことになってしまう。
私が博士過程をつくるために文部省にいったときに、「博士過程などつくる必要あるのですか」と尋ねられた。「必要あるのかというけれども、必要あるから申請に来ているのでしょう」といいたくなった。「何か特徴あるのですか、人はくるのですか」というから、「特徴はあります。うちは普通の経済学部とは違います。世界経済システム、今金融恐慌といわれているのですが、それをやっています。それから環境システム、環境保全型の経済はどういう経済かということをやっている。この二つを柱にしてやりたいと思います」と言ったら、「ああ、他にはないわね。早稲田にも慶応にもないね。」というようなことで、「そうか、それではやりましょう」というのです。博士過程をつくったときに、法人課へいったら、「お金はあるの」と言われたので、何を言うかと思ったけれども、学園の理事やったことがありますから、こういう財務書表ですといったら、「ずいぶんお金がありますね」という。いや、あるわけではない。あるわけではないけれども、必要なものを必要なだけ負担することはできますといった。宗門から毎年六千万円の寄付をいただいている。本当は学園全体に対する寄付金ですから、私も一〇万や二〇万円もらってもよいのですけれども、今のところ仏教学部の方に使っていただくことになっております。どんぶり勘定というわけではないのですけれども、学園の勘定は収入と支出は一本ですから、当然宗門が毎年六千万円寄付していただいたものは、立正大学全体のために使われているのです。
ということで、話し合いはここではできたのです。これから具体的に値段をどうする、学校の授業料の問題です。これからは授業料はできるだけ安くしなければならないと思っているのですが、不況の最中です。今年は非常に受験生が減りました。なぜ減ったかといえば、だんだん少子化傾向といって、学生の数も減ってきています。しかし結果としては、定員の一・一倍か二倍ぐらいまでは十分とれましたからご心配はいりません。ただこれからは、学生を集めるのに、同窓会、宗門、OB、父兄の協力のもとで集めるのがよいと思います。今までは床柱を背にして、大蔵省の役人みたいな顔をして、今度は偏差値がやや高くないと入れませんとか、「今や受験は難しくて、そう簡単にいきません」などいい、片一方で六千万円の寄付をもらってきたのですがこれからは変わるでしょう。
経済学部は、二部を夜間主昼夜開講コースに変えました。環境関係では農林高校とか商工業校関係の人達にも門戸を開いた。
二十一世紀への長期戦略として、大学が安定した攻勢をとっていくためには、農林高校、商工業高校からも経済の夜間主コースに一〇〇人ぐらい推薦入学を受けているのです。これは画期的な試みです。補助金が増えるのです。学生を安定してとるため、これからいろいろ工夫しなければいけない。皆さんもぜひひとつ檀家の人たちに、なまじっかの大学に行くよりも、『立正安国論』の、これからは国難に敢然として立ち向かう大学、仏教学部・経済学部へぜひ一つ行って経済のことを勉強し、「あそこでは現代がわかるよ」といって下さって、入学するように勧めて下さい。そういう時代が必ずきます。本当にぼくらが平身低頭して拝みにあがらないと入っていただけない時代がくると思っております。
脱線しっぱなしでコーヒーブレイクで悪いのですけれども、区切りがよいので、まだ話は半分ですけれども、一応京都会議のお話がありまして、日韓、日中関係とか、こと環境に関しては、非常にこれから国際協力が必要な時代になってきている。ある程度は免疫をつくりながら、我々も国際資本を受け入れていかないと、完全な鎖国はまずいのです。開国もしたらよい。しかし、開国のしっぱなしというわけにもいかないわけで、自分自身を守っていかなければいけない。
そういう意味では自衛という、軍事力の面だけではないですけれども、自分を守ることも考えながら、受け入れていくことを考えていただきたい。
特に北陸の教区としましては、大陸から流れてくる廃棄物について、徹底的に監視して行く方向もあります。
地球環境というと、なぜ炭酸ガスが問題になるかといえば、これから環境問題は国と国との間で、どういう方法でやるのかが大切でエネルギーの問題が基本だからです。
外交交渉は、昔は軍事力を背景に、もっている兵力で脅かしていたわけです。アメリカもそうだし、旧ソ連もそうです。原子爆弾をもって外交交渉をやろうというのが、パキスタンとかインド、イランなど、まだあります。困ったものです。けれども軍事力を背景にしてやっていく国際交渉は、よくよくのときであって、これからの国際交渉は、先ほどのように話し合いによって、お金の負担とか、義務や責任をはたしながら協力をしていく。言い換えれば、コストの負担ということで、お金で負担するか労力で負担するか、みんなが犠牲を少しずつ払いあって協力していこうという、むしろどちらかといえば仏教精神のような、協力の精神に変わっていく世界ではないかと思っているわけです。
ところで、現実はどうかといえば、もっと厳しいのです。炭酸ガスばかりではない。例えばどのような破壊があるかというと、オゾン層の破壊があります。オゾン層とは、大体地上一〇〜五〇キロぐらいの間の上空にあり、一〇キロぐらいの上空はよくジェット機で、小松から東京へ行かれるとか、小松から韓国とか、外国に行かれることがあるでしょう。大体ジェット機が通っているところは一〇キロです。あれから上のあたりから五〇キロぐらいまで、オゾンが大気中にバラバラにちらばっているわけです。上にいくと気圧が低いですからちらばっていますが、これを一気圧状態にすると、つまり地べたに下ろしてくるとたった三ミリの厚さしかないのです。これは一〇〜五〇キロの間にちらばっているのですけれども、一気圧状態でぐっと圧縮してオゾンだけにするとたった三ミリしかない。
我々の地球上には一千万種、二千万種の種類の生物が住んでいるのですが、これがたった実質三ミリの薄いオゾンの膜でおおわれていて守られている。有害な紫外線をそこで防いでくれているので、陸上で生物が生まれるようになったのです。もともと三五億年前に、水の中に生物が生まれた。それが光合成をやって、ほとんど水の中に生物はいたのです。ところがご存じのとおり一〇万年ごとに水面が上がったり下がったりしている。氷河期と氷河期の間、水面は何メートルか上がるわけです。今まで最大上がったのは八〇メートルか一〇〇メートル上がっています。四〇〜五〇メートルというのもありますが、測り方が違うのです。大体一〇〇メートルぐらい上がったり下がったりしています。
上に上がっているときには、今の陸のところに水生の生物がきているわけですが、これが下がったときには、大気にさらされてしまうわけです。さらされてしまうと、オゾン層がないことには全部死んでしまうわけです。ところで今から六億年ぐらい前に、徐々にでき始めて、四億年ぐらい前にオゾン層は完成しました。そうすると、水面が下がっても残る生物がでてきた。その残った生物から進化論的には、進化論があるのかどうか知りませんが、陸上の生物を生み出すのです。陸で生まれる生物ができたのが約四億年ぐらい前です。その中で人間は三〇〇万年ぐらい前に、人類として生まれたという歴史があったのです。
だからオゾン層は、そういう意味では地球史のうえで重要な意味を持ちます。今地球は寿命が約一〇〇億年と考えています。そのうち今四六億年まできています。残りは五四億年です。あと五四億年で、地球は爆発してなくなってしまうかどうするか、最後の終末の姿はまだ予想がつかないのですが、つまり寿命がなくなってしまうのではないかといわれています。
だから、おそらくその兆しがあらわれてくるのは、もっと先にいって出てくるのだろうと思いますが、四六億年まできてしまった。だから「生あるものは必ず滅す」で、あと五四億年でなくなってしまう。こういう話をすると、どうせなくなるからどうでもいいやという話になりますが、ぼくらの人生、いくら長生きしても、せいぜい七〇か八〇、九〇歳ぐらいでみな死んでしまうわけでしょう。一〇〇年と五〇何億年では比較にならない。五四億年先まで考える人はないわけです。
しかし、地球史四六億年の中で、陸上に生物が生まれてきたのは、実は今から四億年ぐらい前のことなのです。しかも人類は三〇〇万年ぐらいですから、除夜の鐘のなるごく何秒前ぐらいのところで人間がでてきて、今生きていることになるわけです。
オゾン層によって、今陸の上の生物、名前のわかっているものだけで一四〇万種類です。これは今私が地球環境研連という学術会議の委員をやっているのですが、その学術会議の中で話を聞いていると、一四〇万種類だそうです。だから生物学者はその他に一千万種類から二千万種類あるというのです。それがあるとわかっているなら、なぜ二千万種類あるといわないのかと私が言ったら、名前のついているものだけで一四〇万種類、だから名前のついていないので一千万種類か二千万種類あるというのです。それがわかっているのに何で全体で二千万種類といわないのだと、頑強に抵抗しているのですけれども、わかってもらえない。何種類あるかというから、二千万種類あると素直にいえばよいのに、名前が付いているのが一四〇万で、あとの差し引きして一八六〇万種類はまだ名前が付いていません、ごめんなさいと言ってくれればよいじゃないかといっているのです。
名前の付いたものだけで一四〇万種類の生物が守られているのはオゾン層によるわけです。
ところでこの三ミリという数字ですが、外国のドブソンという人がいて、三ミリというのは、ちょうどこれは三〇〇DUという単位でいうのです。ドブソンという名付け親の名前を付けていう。日蓮さんが付けたらNUです。そういうことでです。私がつければFUになる。
そういう形で、DUという単位です。今どこまで減ったかというと三〜五パーセント減っている。要するに、二八五〜二九〇DUになっているのではないか。少し薄くなったわけです。
ところでこれはどうして起きたのかといえば、アメリカの環境庁の計算では、二〇〇万トンぐらいのフロンガスが成層圏に上昇してオゾン層を壊している。つまり「CFC」と書くのですけれども、フロンガスは冷房に使ったり、トランジスタの洗浄に使ったり、非常に便利なのです。無色透明で、目に見えないのです。化学的に安定していて、あまりあちこち反応しない。しかし、塩素の働きでオゾンを壊してしまう。
一九三一年にデュポンという会社がフロンを発明したのです。大体悪いことばかりやるのはアメリカです。原子爆弾も作ったし、フロンも作ったし、大体今地球を動かしているのはみんなアメリカの会社が作っている。一九三一年にデュポン−プラスチックとかビニールとかナイロンとか繊維をつくったのは全部デュポンですが今、会社をあげて、環境をこわしたから今度は直そうというので、環境保全にものすごく必死になってやっているそうです。切り換えが早いのです。共産党から自民党になってしまうみたいに。日本の社会党も結構気がきいていて、自民党と連立政権をつくって三年以上やってきた。みんなそれで調子が狂ってしまった。今まで反対ばかりやっていて、のろのろ国会なんかやって、宮沢を行かせなかった国が、いつのまにかくっついてやっている。それで真ん中にいた連中がみんな浮き上がってちゃって、何か風船みたいになって、民主党だの民友連だの、新進党だ、前進党だ、何が何だかわけがわかない。
一番おもしろかったのは、富山県に講演に行ったときに、富山県の代議士はほとんど自民党です。新進党はいない。今度の政権は、細川政権から羽田政権ということで、自民党は野党へ回っちゃった。富山県の議員は聞くところによれば一〇〇パーセント近く自民党だそうですが、これでは富山県には金がきませんと言ったら、みんな変な顔をしていた。本当に金の場合は大変だというので、危機感をもっていたものだから、今度は自民党政権を願っていた。そのためには社民党だって何だっていい。そのうち共産党とも連立政権を組むなどといっているが、さすがに共産党とはちょっと、組む方の相手もちょっと相手が悪いというので、社会党の範囲ですね。
私は国立大学の先生をやりました。山形大学の教員をやりまして、国家公務員になった。立正大学の場合、国立大学を大体定年退官して立正大学で雇ってあげるというケースが多いのですが、そうではなくて、ぼくは途中で立正大学にきたので、他の人たちとは違うのです。国立にいたときに、定年は立正大学で迎えようと思っていたのです。それで、国家公務員は誓約書を書かせる。やれ悪いことをしてはいけない、やれみだりに何とかをやっていけない、政治活動をやってはいけない、何をやってはいけない、かにをやっていけない。みんないけない、禁止事項ばかりです。これを見たときに、これじゃおれは生きていけない。正直いってこんなことはできない。誓約書を返すといったら、いやそんなことは必要ないです。これは建前であって、原則だ。判子だけ押せばそれで通りますからという。考えてみれば大蔵省はあんなことをやっているし、ひどいやつらばかりです。あれは国家公務員の大違反です。国家公務員は謹厳実直で、金はたまらない。金は一切取ってはならない。物くらいとったってよいけど、そういうことになっているわけです。現金でもらわなければ商品券でよいのかということになりますが、そういうことはないのです。戦前の官吏の歴史などをみていますと、給料の二〇パーセントの範囲だったらということもあったが大抵はすぐ返したでしょう。
一九三一年、デュポンでフロンを作って以来、日本でも作っているのです。日本は潜水艦だとか冷蔵庫、特に福井県だと、三国とか、そういうところに立派な漁港があります。輪島も七尾もそうです。冷蔵庫はみんなフロンで急速冷凍できるようになったのです。ですから日本の水産業の発展には、戦前からずっとフロンの影響が強い。
ところでこれは現在まで二千万トンぐらい作られています。今は生産禁止をかけているから、もうあまり増えませんけれども、これが今、皆さんの冷蔵庫とか車の中とか、いろんなところに出回っている。これをどうするかは大問題です。
というのは、今一四〇万種類の生物が全部だめになる。限界線は二五〇DUです。ここまできてしまうと、我々の細胞の活動とか、あるいは遺伝子の活動を支配しているDNA、染色体が突然変異を起こします。男が女に変わり、女が男に変わるような程度の問題ではありません。生命自体の持続性を失うような事態になってきます。これはたったの五〇DUです。たったの五〇DUというのは、破損率一五〜二〇パーセントぐらいです。一五〜二〇パーセント、オゾン層が破壊されたら、今や一四〇万種類の生物は、DNAに変異を起こして、場合によったら滅亡するかもしれない。そこへきているわけです。一五パーセントというと、三〇〇に対して四五DUです。これをこっち側にもってくると、あと約四〇〇〜五〇〇万トンぐらい、もしフロンガスを大気中にほうりなげたら、我々人類は滅亡する。人類ばかりでなく他の生物も滅亡するという危機を迎えるわけです。
だから我々も本当に、じゃ、やろうかというので、ゲリラが一斉蜂起して、世界中でフロンを全部放出する。やったら間違いなく来年の今ごろは、全員玉砕、北陸教区合同慰霊祭(笑い)、私なんか定年を機会にして、もはや全員殉職です。理事長から学長、学部長、教授、全員がガス栓を含んで死んでしまうのと同じわけですから、そういう状態に実はなってくるのが危惧されるのです。
あわてたのはアメリカです。そういう情報をアメリカだけが握っている。日本なんかそのおこぼれを頂戴しているだけです。例の宇宙衛星をとばして観測しているNASAが、「情けないな」というので(笑い)、これは大変だということになった。それで直ちに、これだけ小うるさいことをいっているヨーロッパの国々が、即生産中止したのです。使用中止までかけられないから、今、必死になってフロンの回収をこれから始めようとしています。だから冷蔵庫を回収したら、まず最初にやらなければならないのは、本当はフロンを抜かないといけない。自動車は、ベンツに乗っている人もいるでしょうし、BMWに乗っている人もいるでしょう。トヨタに乗っている人もあるでしょう。お寺さんなんかベンツに乗っているのは、いかがなものかなとぼくは思うのだけれども。国際収支のバランスをよくするという努力は、孤軍奮闘の感じがしますが、それは大いに結構です。私だったら給料に相当したものを、カローラクラス、セリーヌクラスに乗って、本当によい車でした。特注なものですから二二〇万かかったのですけれども、もう六年乗っていますが、ほとんど故障しない。ぼくは日産サニーに乗っていたのですけれどもやめてしまった。トヨタにした。何とかならないか。国際紛争に巻きこまれるといけないから。今度はベンツ買ってなんていわれて、ベンツの中古のうんと安いのを買おうと思ったら、排ガスの量とNOXの排出量が多いのでこれはやめた方がよい。どうしたらよいのだと、アメリカのレスター・ブラウンという『地球白書』を書いた人に相談したら、「きみ、自転車で行くとよい」、自転車で神奈川県の葉山から、東海道の五十三次の戸塚の宿、保土ヶ谷宿、川崎宿から品川宿を越えて立正大学まで自転車で行く。測ってみたら一〇時間ぐらいかかる。そうすると寝ているひまがないので講義が終わったらすぐ帰る。自転車で行ったら一日、二十八時間ぐらいないと人生やっていけないと思って、しようがないからJRで、それも最近は、元気でやるにはグリーン車に乗っていた方がよい。普通車に乗ると疲れちゃうでしょう。ぼくだってそんな無限に力があるわけではなくて、こういう会合だからこういうところに来て、喜んで話をしているので、ここで全力投球して、帰りは貧血を起こして倒れる。それでもよいわけですが。仕事に対しては猛烈にやるということで、グリーン車に乗っている。学校の方はけちだから、やっぱり普通料金しかくれない。ですから、ぼくは自分のお金を上のせしてグリーン車に乗っているわけです。学部長だけがグリーン車に乗っているなんていわれたらいけません。
さて、どうしてもフロンを回収しなければいけないのです。日蓮宗の北陸教区の人たちが、お寺の使っている車については、これからリサイクルしてその回収を確認する。確認でよいのです。トヨタならトヨタで、おまえはこのフロンを回収していますね。いや、回収していません。これは代替フロンです。代替フロンというのは上にいかない。一〇キロぐらいまでいったら、あとは上にいかないのです。だけど温暖化物質ではある。だから京都会議ではフロンは全部代替フロンも含めて禁止です。オゾン層に対しては、代替フロンは大体大丈夫です(笑い)。本当に大丈夫なのです。だから代替フロンというのです。
そういうことで、代替フロンにしたからよいというものではない。あれやってもだめ、これやってもだめというのが現在なのですが、代替フロンをだしているのは、上へいかないからこわさない。今までのフロンは全部こわしてしまう。だから二千万トンぜひ回収したい。自分で回収するのはちょっとしんどいです。穴をあけてやっているうちに、回収どころか噴出してしまったりします。
とにかく二千万トンを絶対上げてはいけない。四〇〇〜五〇〇万トンは絶対増やさないようにするためには、これから回収に努めることです。実はメーカーも必死になっています。これは総理あたりが、今や政権維持には大変なくらい、いろんなところでいろんな事件が起きますから、突如として「国民に告ぐ」といって、特別にテレビで放送するわけです。総理が、「今フロンを放出すると、我々日本人ばかりでなく人類全体がだめになる。皆さん、フロンをだしてはいけません。風呂に入ってもいいけれども、フロンだけは出していけません」(笑い)、そういうようなことをいって講演する。「不況の最中でみんな会社が倒産しているのに、冗談じゃないよ、お父さん」となっていくのですけれども、そのくらいのものなのです。緊急記者会見をやって、やらなければならない。したがって、これは製造禁止、使用禁止になるのです。
これを作ってしまった人間の業といいますか、そういうものがあります。便利になりたいとかいろいろあって、結局最後は、自分の命を縮めることをやっているわけです。人間も結構おろか者です。
それからもう一つは酸性雨です。これはいうまでもなくSO2が元凶です。石炭を燃やす。特に石炭を燃やす。中国あたりがどんどん燃やしていて、今二千万トンぐらい年間作っています。日本は徹底的におさえていますから、四〇万トンぐらいにおさえている。約五〇倍です。日本は排煙脱流装置といって、硫黄を除去する装置を付けています。これはアンモニアをかけて硫黄をとるのです。硫安という、昔は使って、今はあまり使わないけれども、副産物として硫安肥料をつくった。今火力発電所は、脱硫装置を付けています。そのかわり中部電力の一〇〇円の電気料金のうち約二〇円が、大ざっぱにいって公害防止コストになっています。だから今私たちが明かりをつけているわけですが、その五分の一のライト分ぐらいは実は公害防止コストです。だから私たちは自動的に環境貢献しているわけです。ではどんどん電気を使って環境貢献しようと解釈してはいけません。使ったものの中で二〇円ぐらいは、環境コストで排煙脱硫装置を付けるから、四〇万トンぐらいで抑えられている。
ところがアメリカでは、約二千万トン、五大湖シカゴ中心で、排出している。中国では大体二千〜三千万トンぐらい。それからロシアなども、二千万トンぐらいになっています。ヨーロッパは六〇〇万トンです。中国がものすごく多いのです。これがみんな偏西風にのって日本にくる。日本から飛び越して太平洋にいってしまう。
これがどういうことになるかといえば、ご存じのとおりSO2は一旦空気中に入るとSO3という亜酸化硫酸になって、それがH2SO3という亜硫酸になる。それがさらに酸化してH2SO4という硫酸になります。硫酸のような形で実は雲の中にいるという状態です。雲の中でどういう状態になるかといえば、雲の下の部分に三〇パーセントぐらいだと思うのですが、ここにH2SO4のような形になって蓄積される。これが雨になって降ってくるわけです。降り初め一〇〜三〇分ぐらい、酸性度の高い雨が降るわけです。だから雨がザァーッと降り初めたら、ちょっと檀家にいって、いろいろお経をあげてからお話をしていると、ちょっと酒がでて一杯やっていると、安全でしょうか。携帯電話か何かを使って、「ちょっと遅れるから待って」などと言って、硫酸の影響を受けて頭がおかしくなっちゃうと困るというので、とにかく檀家で少しお茶でも飲んで、三〇分ぐらいのコーヒーブレイクを作って待っている。様子みて出てくれば、大体安全だということです。
空気中には炭酸ガスがあるので、水気が多くなるとH2CO3という炭酸になる。これにナトリウムを入れてつくると炭酸ソーダになります。炭酸は、ラムネです。ラムネといってもわからない人が多いと思います。コカコーラなどは炭酸飲料です。飲んで「スカッとさわやかコカコーラ」です。そういったようなものです。
コカコーラ一杯に、若い人だったら歯を一個抜いてみて、一カ月おいたらボロボロになってみえなくなってしまう。溶けてしまうのです。コカコーラの中には、カルシウムを溶かす物質が入っています。それが公害食品だということで問題になって大騒ぎになったのですけれども、安全は確認されています。コカコーラは世界的なシェアをもっています。
中国に行ったときに、中国ではまさかコカコーラは売っていないと思ったら、天安門事件のすぐ後ぐらいに中国に行ったのですが、コカコーラをもってくるから、コリャコーリャだなと思って(笑い)。世界中に麻薬のように広がっちゃったな、コリャコーリャ、これはもう全部だめだと思ったのです。
これがあるために、pHというのは、本当は中性、中性とは男性と女性の中間というのでなくて、アルカリ性と酸性の中間で、pH七が中性という意味です。
ともかく中性はpH七ですが、炭酸ガスが入るとpH五・六になるのです。そしてこれ以上にpHが低くなると、酸性化する。今皆さんの頭の上に、瞬間的ですとpH四・四ぐらいの雨は降ります。福井の若狭の海岸から新潟まできて、この辺で軒並み四・五とか四・七とか、地方に大学があるのですが、新潟大学とか富山大学だとかたくさんある。そこで観測をしている筈です。
話が飛びますが、福井工業大学へ行ってびっくりしたのは、日の丸の旗が各教室に全部貼ってある。これには感心したというよりはびっくりした。ハァーすごいなと。筑波大学の先生で、大変ナショナリストがいて、定年退職後就職を世話したら一発で決まった。
日の丸とはいいませんが、立正大学でも『立正安国論』でも日蓮宗の言葉がいくつもあるでしょう。これを毎日見るのも普及啓蒙になる。
国立大学を全部私立大学にしたら、今の収入支出の問題とか、本当の教育とは何であるかがわかるだろう。全部建学の精神をもてばよいのです。今は何も特徴のある精神的な柱えになるものがないのです。私も国立大学の教員をやったからわかるけれども、すべての党に寄付をとられた。立正大学にいって一度もそういうのに寄付したことはありません。国立大学でそんな党派の寄付金をなぜとられるのだと思った。そのくらいなのです。
国立大学といってもさまざまですから、私立大学にして独立採算でやって、建学の精神を立てる。福井は何がよいかなと思って考えたら、一乗谷自滅の話などはだめだし、やはり禅の心、おのずから足るを知る。おのずから足ることを知らなければいけない。足るを知ることを知らない人間が多いから、今日本はだめだというので、福井大学の建学の精神は「足るを知る」とか。金沢大学は昔の老舗だけれども、兼六公園には兼六の精神とか、建学の精神とか。富山の薬売りは商売で薬を売って歩いたり、蜃気楼があるから、霞の精神というか、ものごとをぎりぎり論理的につめないで、すべて丸くおさめようという、霞の精神を建学に立てたらよいのではないか。
新潟は広くてどうしようもない、原子力発電所がある。米と酒があるから、要するにこれは食糧を、身土不二という言葉があります。体と土と一体である。あるいは医食同源とか、薬ばかりでなくて食物生活をちゃんとやって、医食同源を建学の精神にする。桜沢如一の身土不二を精神にしてみんな自然食だ。朝から晩まで、例えば新潟大学の学生は全部自然食で栄養失調になる。一切肉は食わない。いいですね、肉は食わないで、全国野球大会でいつも二〇対〇で、あるときは一〇〇対〇で負ける。負けても誇りがある。おれたちは蛋白質は食べていないと。みなさん笑っていらっしゃるけれども、私も経験しています。
私のゼミナールにある学生がいまして、愛媛県のタオル屋の息子です。大きいタオル工場をもっていて、金持ちの息子ですが、彼がぼくのゼミにきた。環境のゼミです。環境と健康は非常に関係があるといったのです。そこで福岡正信という自然農法をやっているぼくと同姓で遠い親戚みたいな人がいるのですが、この人の『わら一本の革命』、無の哲学、これをやっていまして、その学生が無の哲学に非常に心酔してきた。無我夢中という言葉は知っていますが、無の哲学はわからない。自然食というのは知らない。
福岡正信さんが作っている畑には農薬を使っていないから、その畑の上に赤とんぼが飛んでくる。他のところは農薬を使っているから赤とんぼひとつ寄りつかない。福岡正信さんの畑の上、たんぼの上だけ赤とんぼが飛んでくる。これを話したら、「よし、おれはやる」というのです。今きみやるといっても一ぺんにやれない。徐々にやらないとひどいことなるといっても、「いやドラスチックにやる、卒業までやります」という。そして三年のときに下宿して多摩川に行って、たんぽぽを摘んできては食べている。それから絶対にラーメンとか食べない。油っこいものを食べないで、全部徹底的な菜食にしてしまった。みるみるうちにげっそりと痩せて真っ青になってきた。心配になってしまった。医者に診てもらえといったら、「いや、私は信念をもって貫きます」というから、えらいことになった。教育効果上がりすぎで困った。死生間をさまよっているのではないかと。
ところがやりとげました。卒業までに完全な菜食主義になったのです。医食同源といった場合、やっぱりドラスチックにやらないとできない。新潟大学は医食同源の風をつけるといったら、茶髪の人がみんな集まってきて、立派な男になって、女になって古里に帰っていくかもしれない。国立大は、そういうのを建学の精神にしたらいかがなものかなと思うのです。こんなことを文部大臣にいっても全然通じないでしょう。そういう時代だからこそ、少しもよくならないのです。
酸性雨、pH四・四、じゃんじゃん降ったらどうなるかというと、酸性雨が降ると、水道管なんか全部やられます。それが鉛とか鉄のイオンがどんどん皆さんの体の中に入ってきます。それが癌を誘発したり、あるいはアルミニウム
なんか入ってきた場合には、よくいわれるように、脳軟化、痴呆状態になる。痴呆といえば難しいので、ボケということで、酸性雨は非常に危険なのです。笑っていられないのです。
特に日本はダムがあってダムでこれを止める。北陸地方はダムといっても山と海とが近いからどんどん川が流れてきて、きれいな美しい川が多いからよいですけれども、富山湾なんて神通川のイタイイタイ病が起きたくらいで、この辺に変な工場があるとひどいことになるわけです。
とにかく工場は何もださなくても、水自体が悪くなったら非常に問題だ。それが米に入っていったり、全部農産物に入ってきて、長年蓄積すると、ダイオキシンみたいに自分の体の中に、細胞の中にそういうものが蓄積される。どうも最近はさびたような色になってきた。これは鉄が入りすぎているからだ。まあ最近どうもおれはボォーとしちゃてどうしようもない。テレビゲームばかりやっているとか、パソコンゲームばかりやって、パソコンやってワープロやっていると思ったら、何のことはない麻雀やったり、ゲームやったりする人も、あるんです。「山陰本線」などという列車ゲームを運転手になって始めると、鳥取から松江をずっと通っていかなければいけないけれども、鳥取駅をでたとたん脱線転覆、交通事故が起きて、全然進まない。これにしても、酸性雨にしても根は一つの問題でゲーム同様に関心はもたれているが進んでいない。
それから廃棄物です。いろいろあります。炭酸ガスの問題は先ほどお話ししましたが、私たち一人当たり日本人は大体一年間に二・三トンぐらい炭酸ガスを出しています。アメリカは五・一トンです。これだけ違う。OECDの平均が三トンです。だから大体今一九九〇年の排出量といった裏には、OECDの一人平均三トンのあたりをめどにしているということがいえます。削減率をいくら変えても、もともと使っている量がこんなに違うわけです。フランスは原子力発電をやっているので一・九四ぐらい、少ないですね。それが一・七ぐらいにまで下がってきている。だから原子力発電をやることによって減らすと考えればよいのか、それは危険性を考えれば悪いという人が多いのですが、現実に困っている。ドイツなんか三・一トンぐらいです。
ですから日本は非常に少ないのです。それはさっき言ったように、電力会社やその他が非常に省エネをやっていることと、アメリカ人からみれば皆さんの生活がわりと質素だ。アメリカ人は軍事力なんかにもかなりエネルギーを使い、炭酸ガスを使っているので、どうしても軍事力をもっている以上はこれになってしまうということです。
そういう点で、炭酸ガスに関していえば、今度は国の削減率を減らすと同時に、我々としてもこれを減らさなければいけない。一人ひとりがやっていく場合に、特にアメリカあたりがしっかり減らさないと元は減りません。ただアメリカの場合は非常に研究費をかける。そして今、太陽熱や太陽光発電とか、風力発電、これは小松の方でもちょっとやっていますが、あんな規模でなくもっと大規模にやる。それから潮位差発電、潮の満ち引きの差を用い、物理のエネルギーを変えていく潮位差発電、あるいは水素発電といいまして、電力を蓄えておいて、水を分解して水素をつくって発電する。こういうところまでいってきています。
それで大体現在は、普通の火力発電や何かだとキロ当たり、七、八円ぐらいまで値段が下がってきたのですけれども、水素発電でも太陽光でも、コストが高く、現在の一〇倍ぐらいです。ところがあと数年すれば、一〇円以下に下げることができるという状態になってきましたから、これからは、地域においては地熱の発電を使ったり太陽光発電にしたりすることができる。今は大きな電力会社が発電所をつくって供給するような大規模供給発電ですけれども、これからは地域分権的な、地域分散型の発電形態に変わってくる。最後は自家発電です。それぞれの皆さんが自分の家の電力は自分で使う、起こしていく。最後は自家発電になっていくと思いますから、二十一世紀は、自家発電の時代になるのではないでしょうか。だからお寺さんでも、自分のところの発電は自分のところでなさるということになってくる可能性がある。ごみの発電とか。自分のところのごみを使って発電をする。それから雨が降ったときに、雨の水を引いて、そのエネルギーでつくるとか、海岸の近くだったら潮位差発電を使うとか、それでもだめな場合は、水素を買ってきてやるとか。これは処理し損なうと爆発しますから、沈んでしまいます。水素爆発でもして○○寺がすっとんだなんてニュースになってしまう。
そういうふうに、水素発電、太陽光線、太陽光発電なんかやりますと、これは結構やれるわけです。曇った日はどうするのというでしょう。曇った日は晴れた日の分を全部蓄えておけばよいのです。晴れた日にフルに蓄えておいて、それを地下に電池に入れておいて、それで電池を使ってさっき言った電気分解して、水素を使って水素を供給していく。太陽のエネルギーで、一方では直接太陽光発電をやり、一方では蓄えておくことで、一年間の発電を蓄えることになりますから、自然的なものが中心になっていく方向に向かっていくわけです。
それから電気も、今使っている蛍光灯を全部ハロゲン灯に変えた場合には三分の一に減らすことができます。だから蛍の光計画といいますか、これからはむしろ「蛍の光窓の雪」というぐらい、自然のあかりを使っていくことです。
自家発電のお寺とか、水素発電のお寺とか、「私のお寺はこれでやっています、そして自在に風をおこします」なんていって、風を起こしたけれども屋根がすっとんだのでは困りますが(笑い)、とにかくそういうふうなことです。
最後は熱帯雨林です。森林の破壊は実は非常なスピードで進んでいるわけです。年間二千万ヘクタール、今年は特にエルニーニョ現象でたくさんの森がなくなりました。なぜなくなってしまうかというと、異常乾燥で乾燥したところに火がついて、それが消えるまで、森がなくなるまで燃え続けるのです。今でも人工衛星の写真を毎日毎日見ていると、煙が出っぱなしで燃え続けています。どこかで燃えている。全部なくなるまで燃え続ける。普通だったらこのくらい燃えたときに、山火事だというので消すわけです。だからこっちは残るわけです。それが残らない。全部に広がってしまう。
一つは焼き畑という農法によって、これは北陸地区で昔やっていたような焼き畑とは違って、非常に規模が大きいわけです。それから森林の伐採です。これによって失われる酸素の量は、年間約三億トンぐらいです。生きるために酸素の消費量は一年に一人大体一トンですから、三億人分の酸素が失われる。炭酸ガス(CO2)の吸収量は四億トンも落ちます。だから年々人口が増えてプラスになっていく四億トンに、炭酸ガス吸収のための森が二千万ヘクタールなくなることによって減る四億トン、あわせて約八億トンが、毎年プレッシャーになっているから、炭酸ガス濃度が、私らの生まれたときが、三〇〇ppmぐらいだったとすると、今は三五三ppmぐらいになってしまった。これがどんどん進むと、いずれ二〇世紀の終わりごろには七〇〇ppmになる。どうなるかというと、水面が約一〜三メートルぐらい上がるだろうと予想されています。そうすると島には、人も住まなくなる。どんどんマングローブの林みたいになってしまうと思うのです。関東平野が藤岡あたり、栃木県あたりまで海になってしまうだろう。いろんなことがあるわけです。栃木県からは遺跡も貝塚なんかがどんどん出てくるのですが、そういう時代に戻ってしまい、とんでもないことになる。
特に一番問題なのは、島国が沈んでしまうのです。今南太平洋にある島国はみなフラダンスなんか踊っているわけですが、そんなことをやっていられない。全部海に没していってしまう。これを島国が一番恐れている。炭酸ガス濃度が上がって島がつぶされることを恐れている。皆さんそういうことなのです。
酸素で三億人分、炭酸ガス吸収力で約四億トンぐらい年々減っている付けは大きい。この森林の面積は北海道を除いた日本全土の森ですから、一分間で大体四〇町歩の森林がなくなるわけです。ですから東京ドームの一〇個分ぐらいが一分間でなくなっているわけです。もう現在の講座が終わるまでに新潟県のおおかたの森林がみんな禿頭になる、というか全部消えてなくなってしまうくらいのスピードです。ですから本当にゆっくりしていられないのです。
日本はちなみにどのくらい酸素をだしているかといえば、日本の森林は一年間に約六千万トンぐらいです。一人一トンですから、人口一億二、三千万でしょう。一億二千万としても、六千万人分の酸素がどこかからきているわけです。日本は酸素を欠乏国、酸欠国家です。金欠になって、金欠、酸欠に全部なったら、本当に大変な騒ぎになってしまう。どこからきているか。今まで蓄積してきた酸素です。それからフィリピンとか、ブラジルとかで出来た酸素がやってくるし、お釈迦さまが生まれた頃のそういった酸素がまだ残っている国もある。今、皆さん吸っている酸素の一部は、お釈迦さまの酸素を吸っているのです。その時代にできたものを吸っている。新潟辺りはお米などをつくって、なかなか良いことばかりやってきたのでお釈迦さまの酸素ができて、東京あたりはそれこそ昨年あたりできたまだほやほやの少し炭酸ガスまじりの酸素がやってきたりしている。そういうようなことで、約六千万トン、これはやっぱりどんどんなくなっていくと、それだけ大変なのです。自然の浄化能力がなくなります。
こういうふうに今、地球全体では大変大きな危機がきていることを皆さんひとつ認識しておいていただきたいと思います。
それではどうしてそんなことが起きたのか、少しまとめていきますと、実は我々の現世の生活は、こんな形になっているのではないか。地球全体を自然全体として考えますと、だんだん人間の枠組みが広がっていった。昔はささやかにやっていたのが、どんどん成長してきて、大きくなった。人間の進歩あるいは人間の進化といっているのですが、とにかく進歩はしてきた。
ところで、どういう状態になっているかというと、枠組み全体を人間の活動とすると、今我々の生活では、生産をする部分と、消費をする部分と二つがあるわけです。そしてもう一つはリサイクルする部門が、これからどんどん大きくなると思います。こういう大体三つぐらいの構造になっています。生産をするために、私たちは自然から資源をとってくるわけです。これは(1)(文末資料参照)としておきますと、人間は生きるために資源をとる。これは皆さんもご承知のとおりだと思います。例えば木を伐る。あるいは農産物を作って採る。あるいはアルミニウム、鉱石を採る、ウラニウムを採る、鉄を採る。我々は与えられた自然の中で生きるために、まず資源を採ってくることをやるわけです。
資源を採ってくるときに、私たちは今まで考えていなかったこと、例えば先ほど言った熱帯雨林の破壊などを思いきりやってきた。再び生まれることのできる、再生できる資源を、再生させないで採ってきています。それからまた石油とか石炭のようにもう無くなってしまう、枯渇してしまう資源を補うことを考えないで資源を採ってきたと思います。
いわゆる自然破壊は、一つはこの熱帯雨林を破壊して再生させなかったり、鉄や鉱石を採りっぱなしにして、石油を採りっぱなしにしてくるところから生まれてきているといえるわけです。
だから、それに対する環境コストといいますか、そういうものをかけていませんでしたから、今までの企業とか生産者は、再生コストとか枯渇の補いを全然考えないでやってきた。例えば、山林所有者などになりますと、自分の森林を例えば杉林を伐っても、子孫のために残そうと思えば再造林して、伐った後また植えている。これはあくまでも持続していく、続けていくことでやるでしょう。それが再生することです。
ただ今、造林者側に言わせれば、昔は千万円、二千万円で売れた山が今は、三〇〇万円か四〇〇万円ぐらいにしか売れない。五〇年もかけて、何で三〇〇万か四〇〇万ぐらいにしか売れないのか。そこでまた五〇年かけて、二〇〇〜三〇〇万円のお金をかけて植林をするとなったら、何の儲けもでてこない。丸太などの生産費が高くなればなるほど、立木の値段が安くなってしまうことで、再生できなくなって、福井県や富山県や石川県、新潟県の山林所有者も、なかなか再造林できなくなってきているという事情があり、森林が荒れてきている。それに人工林にしたところは、間伐もしていないし手入れもしていないのです。だんだんだめになってくるのは、生産するプロセスで、再生や枯渇を考えないでやってきた私たちのやり方の間違いです。しかし、とりあえずそういう問題をもちながらも、資源をとってきて、生産や加工をやるわけです。
そのときにこれから注意していかなければならないと私がいっているのは、一つは(3)にも書いておりますが、いわゆる産業廃棄物といわれている廃棄物の排出です。昔はこれをたれ流しした為に公害が生まれた。公害が生まれたのは、産廃の排出物をいいかげんにやっていたからです。それがいけないというので「産業廃棄物処理法」という法律ができて、これで処理する。また処分する。こういうプロセスが生まれてきた。ところでここで処理とは燃やしたり壊したりすることです。処分とは壊したものを捨てる。燃えた灰を捨てるなどのことです。処分に伴って、危ないものは、「遮断型」といいまして、放射能みたいにコンクリートで固めた箱みたいなところへ捨てるのですけれども、大体の場合、塩化ビニールのシートを敷いて、そこに安全性を確認した上で捨てているのが「管理型」です。生ごみや建築廃材は公害がないだろうというので、素ぼりのところにどんどんほうりこんでいます。これは「安定型」といいます。安定型と管理型と遮断型、こういう三つのタイプの廃棄物処理をやっているわけです。
ところが今問題になっているのは、最終的な処分場でいいかげんな処分をするものですから、公害がでてくる。したがって責任はどんどん追求していくという形で、処分地からさらに処理している産廃業者、さらにその業者にごみをだした企業にまでさかのぼって、その責任を問うようになっています。これはものを排出する排出者の責任、あるいは汚染者の負担の原則、排出者負担の原則、PPDというのですけれども、そういうものになってきた。これは一九七二年のストックホルムの公害サミット以降、特にリオデジャネイロ以降、どんどんひどくなってきているのです。だから企業はまず生産を確保するときから、どんな廃棄物をだすか、できればリサイクルをして廃棄物をださないようにするところまできています。
最近は環境監査といいまして、環境に悪いことをしていないかどうかを自ら監査する制度が取り入れられたりしています。財務監査でお金の勘定を監査するのは皆さんもやると思います。最後に金が足らないとか多いとかいうことで、お寺さんなんかは本当に金持ちですから、どんぶり勘定でやる。
それはちょっとおいておきまして、環境監査を企業がやるようになった。ISOといいまして、SOSではないです。これはインターナショナル・スタンダリゼーション・オーガニゼーションといいまして、国際標準化機構、今は九〇〇〇シリーズといって、書類番号九〇〇〇、これは品質監査です。一四〇〇〇シリーズというのは組織管理規格です。労務が一六〇〇〇で、財政二〇〇〇〇までいく予定です。今は一四〇〇〇までいっていますけれども、まだまだ全部は普及していません。どんどんいきますので、これから楽しみです。皆さん、いろんなことを聞くでしょう。NHKだけが喜んでいるだけ、新聞社が喜ぶだけで、企業はちっとも喜ばない。金がかかってしようがない。これはやるたびに何千万円という金がかかる。止むをえないコストだが自分でしっかりやろうということになると思います。
消費者はどうかといえば、消費者は今まで(5)、使い勝手がよいとか(使い勝手がよくなければしようがない)、値段が安い方がよい、それから格好を考えるということで、使い勝手や、安い、ファッション性ということを考えてものを買っていたのです。
ところが消費者が、所得が増えればどんどん消費を増やすという形で、皆さんも時代の中で一緒になっていらっしゃいますから、所得が増えればそれだけ消費も増える。消費が増えればそれだけ資源もたくさんいるわけです。資源は必ず廃棄物になりますので、消費者も贅沢な生活をすれば、ごみを排出するという(6)のプロセスがでてくるわけです。そこでいわゆる一般廃棄物とか生活系の廃棄物をだすわけです。これはし尿とかごみです。
ところがこれもさっきいったように処理場、処分場がだんだんなくなってくると、コストが高くなってきますから、コンポストをやってなるべく生ごみをださないようにするとか、それから分別をちゃんとやって、燃やしてはいけないごみ、燃やせるごみを分けることで、分別を一生懸命やっていく。さらにアルミ缶や紙に関していえば、リサイクルするために分別排出をやる。昔は無分別な男だ、無分別な人間だというときは、本当に分別のつかない人間を「無分別」といったのですが、現在の分別は、分別排出、ごみをだすのにめちゃくちゃにだすやつは無分別な人間で、ちゃんと分けてだすやつが分別のわかっている男(女)だというふうに変わったのではないか。
そのように分別責任が我々に課せられてきたのです。ただ不法投棄して面倒くさいなと、どんどん裏山に放り投げたり、海に放り投げてきたが、それはいつまでも続かない。リサイクル法だとか法律がでてくると、今度は刑事問題になってくる。捕まったり、罰金をとられることもでてくる。ペナルティーがかかってきます。
リサイクル(8)です。今はまだルートがきちんととできていないけれども、リサイクルをきちんとやるようになるとその結果として、再びプラスチックなり紙なりアルミなりがもとへ戻って、生産者の方で使われてくる。しかしそれでも残ったものは、ごみになって、リサイクルの廃棄物になってくる。
(1)から(10)までの動きが今私たちの生活の中にある。従来の我々の考え方は、(1)と(2)と(4)、(5)ぐらいのところで考えたのです。それを「動脈」と私は言っています。つまり私たちの体に栄養を運んでいる動脈と同じようなプロセスを動脈という。そして(3)とか、(6)とか(7)とか、(8)とか、(9)とか、(10)というのは、処理処分も含めていくと、商品を使った後の処理、使用後のプロセスです。
今までの私たちのものの考え方、価値というものの考え方には、使用後のプロセス、つまり「静脈」といっているのですが、静脈についての考え方はなかった。静脈は自然が自分でやってくれる、こう思っていたのです。ところがどっこい我々が排出する廃棄物はだんだん増えてきたわけです。とった資源は必ず産業廃棄物か、あるいは一般家庭の廃棄物か、あるいはリサイクルの廃棄物になって、いずれは自然に戻るわけです。これは自然の法則です。自然の摂理といってもよい。自然のルールとは、自然からとった資源は、やがて人間が使って、時間はかかっても最後はその同じ分量のものが廃棄物で自然に戻るということです。
我々はそういう意味で動脈ばかり考えないで、静脈に目を向けなければいけないと警告してくれたのが環境問題なのです。我々は自分たちの所得を増やし、自分たちの幸せは所得が増えることだ、貧困をなくすことだと考えていた。ところが、豊かも貧しさもすべてものに関わる限り、資源をとって、廃棄物へ戻すことを考えておかなければならない。ところが資源を採ることばかり考えて、儲けようとすることばかり考えていたけれども、廃棄物で戻すということを初めてはっきりと知らされたのが一九五〇―一九七〇年の公害問題だし、現在の地球環境問題です。
そうすると、我々はこれから人生を生きていく上において、まず第一に考えなければいけないのは、動脈と静脈のプロセスを一貫したプロセスでいくということと、とった資源は必ず廃棄物で戻るというこの現実を、自然のルール、
仕組みといってもよいのですが、そのことをしっかりと認識していかなければならないということです。
我々は自分のエゴばかり追求して、豊かさばかり増やせば、取る資源の量は当然増えるわけで、取りっぱなしにして自分は楽しんでいても、最後は必ずごみとなって戻るのだ、つけをまわされるのです。我々の業は、原因と結果で考えていかなければならない。その原因は、我々が生きるために資源をとることですが、結果としては、自然に対するごみを戻すことではない。そのごみが、かつて農村社会のときには、村ごとに一応リサイクルできた。しかも自然に分解できるようなものを戻した。ところが自然が分解できないようなものを今戻している。つまり自然力というものをNP(ナチュラル・パワー)と考えると、NPの方がWP(廃棄物)よりも大きければ自然はこわれません。しかしNPを超える廃棄物をだした場合には、それは完全にマイナスの負担になります。排出量だけでなく、廃棄量が自然の浄化能力を越えた場合にもマイナスの負担になる。
我々は自然の中で生かされていることを考えたときに、かつてより実は傲慢な生活をしてきたのではないか。自然の力は無限大だ。NPは無限大で、どこまでもやさしく私たちを包んでくれるものだと考えていても、我々がだしてくる廃棄物が無限大と思っている自然力を超えた場合のつけというのは、私たち自身が負わなければならないということがはっきりわかったといえましょう。
だからこれからの私たちの生活は、基本的にいえば、自然のルールに従っている我々の地球上の生活を考えたときには、廃棄物は、自然が分解できるような形で、自然力とイコールになった量で排出しなければならないということです。
そういうコントロールをこれから私たちはしなければならない。それは産業廃棄物だけではありません。生活廃棄物も同様ですし、リサイクルも同様です。ということは、全体で動脈と静脈の上での物質の収支のバランスをとらなければいけない。すなわち、自然とのバランスということです。
よく自然との調和ということをいいます。あいまいといえばあいまいな言葉です。しかし私からすれば、物質収支を均衡にさせるのは自然との調和、バランスだと思います。我々が自然の中に生かされている限り、我々の最低限の責任として、自然との物質上のバランスをきちんととることです。それをとるためにどうしたらよいか。企業は先ほどいったように自分自身が出す廃棄物に対して責任をもつ。できるだけゼロになるように少なくする。そのためにいろんなコストがかかりますが、自分で工夫をしてゼロにしなければならない。自然に対するつけは残さないようにする。再生できるものは再生していくことを、資源をとる条件にする。熱帯雨林を伐りっぱなしにしないで、植林をした上で伐っていく。伐ったら必ず植えることを繰り返しやっていけば、二千万ヘクタールの熱帯林の破壊はありません。また廃棄物として二千万トン、数千万トン、何億トンの酸性雨を排出することもそこではなくなってくる。
消費者は、今まで企業の責任とばかりいっていたけれども、自分たちにも責任がある、自分たちも加害者だ。し尿とかごみの排出で加害しているではないか。東京湾の汚染の六〇パーセントが一般廃棄物だという状況からいっても、消費者は使い勝手がよいとか、安いとか、格好がよいということで買っていくのではなく、これからは使ったものはどういうごみになり、どういうふうにリサイクルできるかを考えた上で買う。つまりそういうことに対してマイナスになるものは買わないように、はっきりしたライフスタイルを持つことがこれからの消費者に必要な態度です。今までは民間商法でごまかされたとか、不適性なものでごまかされたとか、いんちきものをつかまされたとかありました。その次元の問題を超えて、さらにもっと重要な問題として、自然のリサイクルの過程をぶちこわすような商品は排除するぐらいの強い決意が必要になってくると思います。
また同時に、リサイクルの方も、リサイクルしたってもとへ戻らない、みな捨てられているのでは虚しいわけです。ならばここでは、ドイツなんかの場合は、生産者と消費者が協力してお金をだしあって、リサイクル会社をつくって、すべてリサイクルのプロセスにあげているわけです。例えば電気メーカーが共同で出資して、テレビでも電話機でも何でもかんでもメーカー別にしないで、とりあえずリサイクルセンターに集めて、そこでメーカーの責任で仕分けして、自分の再生品、自分の出した品物を受け入れる。こういう責任、つまり企業は売ればよいのだというのではなく、売った後の始末まで責任を持つように変わってきてくる。こういうリサイクル方法をこれから育てていくことが、我々の仕事としてでてくるわけです。
このように考えてきたときに、私たちは自然との調和、自然のルールを再確認する必要があると思います。つまり我々は自然のルールの中に生かされていることと、自然のルールに従った生き方を高度に発達した人間の科学の中で、物質社会の中で考えていかなければならないということなのです。
一つはこういう仕組みをしっかりとつくることがあります。しかし仕組みをつくっても人間がだめならだめであり、人間の心を、こういった仕組みを動かすことのできる心にしていかなければならない。仕組みをつくることはどういうことかといえば、一種の規制です。共同体的な共生からいろいろありますが、緩やかな共生もあれば、きつい共生もありますが、一種の共生です。心の問題は各一人ひとりの問題でもあるわけです。一人ひとりが自然を本当に愛するならば、この循環の仕組みをよく頭の中においておかなければいけない。輪廻といってもよいと思います。過去・現在・未来の輪廻もありますけれども、自然のエネルギーやものの輪廻もあるわけです。そういう意味では循環と同じことです。
私たちの頭の中にしっかりと、自然の循環とは何であるかを考えていなければならないし、そこで自然を再生させることを常に考えていく。自然と共に生きているのだということを考えていかなければならないと思います。また世の中で生かされているなら、その中で自分たちは負担をするという、ある種の参加を考えていかなければならない。
その結果として、できればこの地球は、私たちのために非常に持続的な、輝かしい天体として残ることができるだろうというところにきているのだろうと思うのです。
そういった意味から私は、今人間が一つの大きな精神的な復興をするとすれば、この自然のルールをしっかりと現代の眼で見定めていく必要があります。「立正安国」は、まさにその意味で、自然との循環、共生、参加、持続を自ら進んで行うことにあると思うのです。
今日は最後にパンフレットをお配りしましたが、このことをまた別な意味で論じている方がいらっしゃいます。我が崇拝する石橋湛山先生です。我が経済学部をつくって育てて下さった方です。石橋先生の日蓮宗における考え方の位置付けはよくおわかりかと思いますが、私は実は石橋先生の昭和三四年の論文に注目しました。一九五九年の『立正大学経済学季報』に掲載された「明日の経済学」で、石橋先生は「一天四海 皆帰妙法(一天四海、皆妙法に帰る)」
という仏教の教えを説いておられました。妙法とは私の解釈では自然です。あるいは自然の摂理です。自然の摂理とは、近代科学的に考えれば私のいう物質循環論、エネルギー循環論です。これはすなわちエコロジーです。これに準じているのはエコロジーだ。すべてのものはみなエコロジーに帰すると、最後に私は理解できる。「一天四海、皆妙法に帰る」、その「妙法」とは、自然の摂理であり、実はエコロジーなのだという意味に理解されるというのが、私の考えです。
この論文で石橋先生は、まず朝鮮戦争後の東西の冷戦の結果としての混乱をいったのですが、非常に私が重要だと思っているのは、共産主義と資本主義はそれぞれ長所があり、欠点がある。武力をもって一方が他方のイデオロギーを強制しないならば、両者の欠点が排除され、平和を守ることによって、おのずからお互いに長所をもって相補うのだと。
日蓮聖人の教えに「和平を願う」というのがあります。和平とは何かといえば、喧嘩をしないことではなく、喧嘩をしてもよいと思うのです。しかし最後に他を否定するという形でなくて、両方が相補っていくという「共生」の理念でいくならば、第三の生活原理が生まれるだろうと思います。
私は日蓮宗の教えはある意味では、創価学会ではありませんから、第三ということにこだわるのではありませんが、日蓮のこの考え方は、まさに調和を生活原理にもっていくというもくろみをもっているではないか。そのためには正
義や真実を尊んで戦っていくこともあるだろう。しかし戦いの最後は、否定することではなく、調和することだという第三の原理を追求していると考えます。
一九五九年のときに、資本主義と共産主義の融和などといったら、みんなげらげら笑ったわけです。何を言っているのだ、とんでもないことを言っているといったけれども、一九九八年、その四〇年後に、私たちはこれは正しい考え方だったということを、国際社会の現実をもって知ることができるのです。
なぜこういう考え方がでてきたのか。それはやはりその基本に、自然の摂理に従うという、「妙法に帰る」という仏教思想があったからであります。
実は講談社の『サピオ』という雑誌でこの特集号をやったことの内容です。石橋先生のお話をしたら、講談社がのりまして、私のところにやってきて特集号をやりたい、「先生、とにかく石橋論文を紹介して下さい」という。石橋湛山全集二十五巻で、図書館に全部あるのです。あまりきちんと読んだことがないのですが、経済学部長室に全部持ってきて、授業が終わってから一週間、ずっと読み続けたのです。一応全部目を通しました。熟読したのではありません。ただ最初の五巻ぐらい、若かりし頃にのものは常に理念を書いてあって、興味を持ちました。あとは全部、恐慌だ、不況だと、経済の記事なのです。こっちの方は記事なのでむしろ始めの部分に私は注目したのです。
読んでいるうちに、「時代主張の検討」というところに、「境遇順応の機関」、「伝承と新要求」という論文がありました。これは簡単にいいますと、私の理解からいえば、環境順応とは、単に環境を変えることではなくて、人間として自然と調和するという、そういう意味での順応ではないかというふうに書かれてあるのです。本来、自然との調和を考えて生きていかなければならないはずの人間が、農業もそうですけれども、農業よりも極端に工業の時代になって、自然を破壊してしまって、自然を変えることができるという。つまりキリスト教の思想で、神・人間・自然という序列の中で、人は自然を管理する、変えるという。そこに全ての根源が、自然悪の根源があるのではないか、ということを考えたときに、資本主義経済のもっている矛盾も、共産主義経済のもっている矛盾も共通したものがあるということになる。人は自然を変えられるのだということにこだわる限りは、そういうことがおきるのではないかと考えたのです。
『現代において、我が日本ほど『自然に反れ』の哲学を必要としておる国はない。国家の政策を確立する上よりいうも、産業の興隆を企図する上よりいうも、ないし社会人心に帰向(帰依)する所あらしむる上よりいうも、
今の日本は、この哲学を除いて、どこにもその出発点、その立脚点を見出し得ない。『自然に反れ』とは、言い換えれば『本然の性に戻れ』ということである。『本然の性に戻れ』とは、言い換えれば我が要求の存する所をよく考えて、その命ずる所に従って万事を取り行えということである。
(中略)
ここにおいて人は時にそのいわゆる自然に反り、本然の性に戻り、我が要求を存する所を省みて、目的を確立し、以って手段のために煩わされる弊を矯正し、行動を律する必要がある。』
こういっているわけです。
言葉は違いますけれども、実は私はこういうことを考えついて、また主張している中で、石橋先生のこの論文を見て、我が意を得たりというか、しつるところの共通性というか、つきるところの真理というか、そういうところで石橋先生のお考えに触れることができたように思います。
まだ私は勉強中の身であります。年はとってきても、心は青年でありまして勉強を続けますが、石橋先生の考え方を、さらに私の専門で徹底的にこれからも勉強し続けたいと思います。特におもしろいのは次の所です。
『現代の世界は、稍や物質文明を偏重し過ぎた結果、其弊を受くるに至った傾がある。殊に独逸、日本の如き新興国に於てそれが著しい。近頃独逸では従来の中学の外に哲科中学、即ち哲学的学科を入れた中学の設立を必要とするという論が余程盛んに起って来た。これは此物質文明の弊に堪えなくなって来た処から起った一種の運動である。
人も知って居る如く、独逸人が最近に於て科学工業の上に非常な力を用いたことは目覚ましいものである。然るに、彼等が其力を科学工業の上に用ゆるや、其教育も亦偏に実利主義にのみ傾いて了って、青年の精神教育というものは殆ど全く顧みられざるに至った。而して其結果は近頃独逸の教育界の大問題となっておる中学生の自殺者の増加というが如きものになって現れてきた。
(中略)
吾輩は我が日本の現状に於ても、稍や此独逸の蒙っておる物質文明偏重の弊を受けかかっておるのではないかと思う。』
こういっているわけです。これは現在の毎日毎日起きる事件を顧みるときに、私はこれは心の問題の奥に我々の物質中心主義の考え方が、大きく社会の弊害となって現れてきていると思うのです。
それは経済学の立場からいえば、先ほどいった生産至上主義だけの、供給・需要・価格ということ、利益と効用、満足ということのみで理解しようとする、近代経済学ならびに新近代経済学へのアプローチの弊害でもあると同時に、単にケインズ経済学のように、有効対策をすればよいという物質主義だけではだめだ。マルクス主義がいっているように、貧富の差の格差の是正も必要です。しかしマルクスといえども、動脈の分配ばかり平等にすることを考えて、静脈の分配については何ら資本論には触れられておりません。これはマルクス経済学の大きな失敗であり、また大きな弊害にもなっているわけです。その証拠に、ロシアや中国がどんどん公害をだしているのがその弊害の例です。たとえ人民解放をいっても、公害を垂れ流して、他に迷惑をかけていくのは、工業文化が本当に、人民の真の幸せや幸福を願ったやり方であるかに疑問を持つと私は言いたいのです。
これはまさに人類社会の、二〇世紀において行ってきた近代化の弊害・病弊があらわれているのではないかと思うわけです。エコロジーを単にエコロジーとしてだけでなく、人間の問題として取り組む姿勢が、今日の我々を非常に啓発するのではないかと思います。
さらに「生活向上の源泉は自然の能力涵養にあり」ということであります。石橋先生は小農主義を唱えております。
皆さんに最後に申し上げておきたいのは、私自信は「自然と人間の共生の原則」というものを提唱し、そのなかで自然の能力を養い、その能力の増えた範囲で経済成長をするということがこれからの原則だ、と訴えています。
これから私たちは、石橋先生によってあらわされている「仏教精神」を、経済復興と我々文明復興の起点にしていかなければならないと思います。なかんずく「法華経の精神」は、なかなか深遠奥深いものがあるのと思います。この強い信念と、自然に戻っていくという仏教精神を、ダブル・スタンダード、二重の基準にして、広く多くの人たちを含んで日蓮宗が中心になって、二十一世紀に向かって大きな力を発揮していただくことを念願いたします。
私は今日は京都会議などの話で、新たな国際社会の現実を知っていただきたいと思いました。しかしその心には、やはり「法華経精神」を生かしていく大きな世界が、これから開けていくのだということ、またそれを求めているということを訴えたかったのです。私たちのささやかな努力が、皆さんと、この世において、力を合わせてやっていける部分があると思います。これからも一緒に力を合わせてやっていきたいと念じております。
今日、私一日ここでお話しをさせていただく機会を下さった現代宗教研究所に対して、大変感謝の意を表すると同時に、ご多忙のところをここまできていただきました皆様、ありがとうございました。「一期一会」という言葉がありますように、袖振り合うも多生の縁で、ご縁を通しまして、環境の問題について、ご理解いただけたら大変な幸せと感じます。これも日蓮聖人のおかげだと思います。感謝の言葉を申し上げて、私の話を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
※本稿は平成十年三月二十六日、新潟県新潟ワシントンホテルにて開催された第三十回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。
