日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第32号:295頁〜 |
第三十回中央教化研究会議 |
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基調講演
但行礼拝の行者
藤井日達師の問いかけるもの
今井行順
(日本山妙法寺長老)
ただいまご紹介いただきました今井行順でございます。ご紹介の中に昭和五年にお師匠様が西天開教に立たれたときに、ご一緒したようなことをいわれましたけれども、そうではありません。私はそのとき五歳でした。確かに昭和五年八月二十五日を、お師匠様は西天開教の日として、身延山を起点として発たれましたが、その前日に、身延山の武井坊で二十数人のお弟子さんたちをつくられたのです。得度式をされた。そのときの一番年下の弟子が私でございます。もちろんお師匠様と一緒に行くわけがありません。お師匠様は単身孤影、西天開教にインドへ旅立たれたのであります。私はそのとき右も左もわからない子供ですから、親の意志で、よくも出家させたなと思いますけれども、両親とも信じていたのですね。今、お師匠様は二度と再び日本へお帰りになるかどうかわからない。ですから、今ここでお師匠様の弟子にしておかなければいけないと考えたらしいのですが、そのまま今日に至りました。非常にできの悪い弟子であります。
今日は「但行礼拝の行者・藤井日達師の問いかけるもの」という題をいただきました。まず私、最初にお詫びしてお許しをいただきたいことがございます。今も私ちょっと「お師匠様」という言葉を使いましたが、私、山主藤井上人を「お師匠様」とか「恩師上人」とかいう言葉で呼称いたしますが、弟子がそういう言い方で皆さんにお話しするのもちょっとおかしいと思うのですが、どうかお許しいただきたいと思います。
それから、お師匠様がご遷化されたのは昭和六十年ですが、その前年、もう二カ月ぐらい前に立正大学で講演されました。その前に法華会でもホテルオークラでも講演をされました。そのときに本養寺の難波上人におそばに坐っていただいて対告衆になっていただいているのです。これはどういう意味かといいますと、お師匠様は宗門の皆様に、管長様はじめ指導者の偉いお方に法を説くという非礼さを避けられたのです。それでお若い難波上人にお願いして、そばに対告衆として坐っていただきました。それでお話をされたのです。このことは日本山の人でも気づいておりません。お師匠様という方は、それほど非常に細かいところに心を配られる方でありました。けれども、今日は私は法を説くのではなくて、日本山の信仰理念をご紹介するだけですから、その意味でただ皆様に壇上から、僣越ですがお話をさせていただきます。
一
日本山の思想理念をご紹介するに当たって、いろいろの角度から申し上げることがございます。どれをとるべきかと思いましたが、一番問題なのは、マハトマ・ガンジーにお題目を伝えたということです。これは案外知られていないのです。非暴力主義を旗印にして、インドの独立を指導したマハトマ・ガンジーの名前を知らない人はほとんどいないくらいですが、マハトマ・ガンジーが「南無妙法蓮華経」と毎日、朝晩唱えていたという事実を知らないのです。これはガンジーという人の不思議な一つでして、ガンジーが毎日唱題行を続けられていたことはまぎれもない事実なのです。このことをなぜ日本でも取り上げないのかということが、私はどうも不思議なのです。これが日本山妙法寺という一つの小さな教団の歴史だからというならば、実にばかげた低俗な宗派意識です。ガンジーは日本山の信者になったわけでも何でもない。ガンジーという人は日蓮宗の信者になったわけでもない。それなのに一九三三年十月四日に、藤井上人、お師匠様がガンジーにお目にかかったとき以来、ガンジーはお師匠様の唱えていたお題目をとりあげて、ご自分の祈りの中に入れられたのです。しかもアシュラム、塾のことですが、アシュラムの祈りの中の、十分か十五分ぐらいの祈りが続くのですけれども、その中の冒頭に、まず「南無妙法蓮華経」の三唱から始まるのです。これは今でも決まっております。ガンジーのアシュラムに行きますとお祈りの本を売っております。その本の中に、英語でもインド語でもそうですが、最初に「南無妙法蓮華経」が三回書いてあります。これを三唱して、それからインドの祈りに入るのです。
このことは私は非常に重要な問題だと思うのです。それなのに宗門で一つも取り上げようとしない。これは日本山の話だと思っていらっしゃる。だけれども、これは教育機関でも当然取り上げるべきだと思います。あしかけ十六年間、朝晩唱えておられた。それで一九四八年一月三十日に凶弾に倒れたのですけれども、それは夕方です。これからお祈りに出るというときにピストルで打たれたのです。朝の祈りではやっぱり「南無妙法蓮華経」を言っているのです。しかもガンジーが独立を指導した、拠点にしたワルダというアシュラムは、ネール、ボース、パテルにしても、インドの歴史上に永久に残るすべての人たち、こういう独立の指導者が全部集まったところです。
そしてガンジーのところに集まれば、必ずガンジーと一緒にお祈りをしたのです。そのお祈りをすれば、まず「南無妙法蓮華経」から始まるのです。ですからインドを独立させた人たちは、すべてガンジーとともに「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えた人たちばかりです。これほどの重大な事実を、なぜ放っておくのでしょうか。これは大変な問題です。ガンジーに関して書かれている書物が、英語やヒンディーではない、日本語だけで書かれた書物が、戦前・戦中・戦後をあわせますと、百五十冊を超えると思います。東京と新潟においてありますが、私がもっているだけでも百二十冊ぐらいあります。日本語で一人の人物についてこれほどの本が出た人がいましょうか。ガンジーという人はこれほど人気のある人です。にもかかわらず、その中で一冊も一行もガンジーが「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えていたという事実に触れたものがない。なぜか、こういうことに触れてはいけないように思っている。これは私は宗派意識からきたものではないと思います。これが現代の宗教感覚だと思うのです。
現代の宗教感覚は、ガンジーほどの偉大な人物を追いかけていっても、その人の精神的な面を追いかけようとしないのです。政治面からだけ見ている。もしもガンジーの精神を追求する気があるならば、当然ガンジーが「南無妙法蓮華経」を採用したという事実を見逃すはずがない。これは私は今日の宗教問題の中で重大問題だと思います。この宗教意識がオウムをつくったのではないですか。これが今日の現在の宗教感覚の誤りだということです。これはガンジーの「南無妙法蓮華経」、ガンジーのお題目を紹介しなかったということの大きな証拠です。
では本当に知らないかというと、そうでもないのです。中村元先生が、一九五六年(昭和三十一年)にインドに行かれています。私どものお師匠様もそうだったのですけれども、国賓として招かれました。「ブッダ・ジャヤンティー」といって、仏滅二千五百年という祭りをネールは国を挙げてやったのです。これは大変な行事でした。全世界から仏教の指導者を集めました。日本から宗教家として招かれたのが藤井上人です。それから田中香浦先生、中山理理先生、あとは学者です。中村元先生とか宮本正尊先生とか、そういう方がみんな一九五六年の「ブッダ・ジャヤンティー」に行かれたのです。これはニューデリーの大統領官邸のパーティーなどでは周恩来も、みんなこの部屋に入ってきたのです。それから北朝鮮の仏教徒も、坊さんではなかったようですけれども、その人もおりました。私『英和事典』をその人にさしあげたのです。それから韓国から五人、坊さんがいらっしゃった。これはみんなこういう部屋に一同に入ってパーティーをしたのです。大変なことをインドはやってくれたのです。
このときに、ガンジーの碑がニューデリーにございます。そこに中村先生が行かれたのです。私ども到着したのがちょっと遅れたのですが、そのときに中村先生が終わって、私に「さっきお祈りの初めに、どうも南無妙法蓮華経と言ったような気がするのですけれども、あれは言っているのでしょうか」といわれるから、「そうですよ、あれは南無妙法蓮華経。このガンジーのお祈りは、最初に南無妙法蓮華経から始まることになっているのです」と言いました。私はそこに坐わっていないのです。そこにはインド人だけでしたから、それで中村先生はびっくりしたのです。そのことは何かちょっと書いていらっしゃいました。
それより以前に、中山理理という真宗の坊さんが戦後にインドに行かれて、私らまだ行っていないときですけれども、ガンジーの一周忌にワルダというところで平和者会議の大会があった。それに呼ばれていった。参議院で高良とみという人、それからもう一人キリスト教の人も一緒に行かれたのですけれども、そのときにワルダのアシュラムで、ガンジーの祈りがガンジーのお弟子さんたちによってなされた。そのときに初めて、このときは太鼓を打ったそうです。あの大きな団扇太鼓があそこに置いてあったのです。太鼓を打って、「南無妙法蓮華経」というところから始まった。それで中山先生はびっくりして、「あなたたちは私が日本人だから、そういうことをやってくれたのだろうけれども、私の宗旨は違うのだ」と説明したそうです。「そうじゃないのだ。宗旨に関係ない。これは藤井グルジイという方とマハトマ・ガンジーとの間のつながりができていて、ガンジーの遺言で、このアシュラムが続く限り、ここのお祈りは南無妙法蓮華経から始めるのですよ」と教えられた。びっくりして帰ってこれらて、さっそくお師匠様のところに来られました。これが中山理理さんと日本山の接触の最初です。
こういう事実があるのに、なぜこのことが広まらないのでしょうか。広まると日本山の連中が少し威張りだすのではないかというような気持ちがあるかと思います。事実、日本山のお弟子などはその程度です。だから日本山にも責任があると思います。けれどもこれが事実のことですから、やはり宗門の方も追求しなければいけないと思います。なぜ、ガンジーは「南無妙法蓮華経」を唱えたか。これは私は大変な問題だと思うので、そのことをちょっとお話しします。
まず昭和五年に、お師匠様がインドに発たれました。そのとき八月二十五日に、思親閣の奥に、聖域の一部にご自分のお母さんのお墓を建てて、お祖師様のふところにお母さんをお預けして発たれた。このことも日本山の人は誤解していまして、奥の院の行阿院様というのですけれども、お師匠様がお母さんの墓を建てて、そこを起点にしてインドに発たれたと思っているのです。日本山の今のお弟子さんたちは本当に恥ずかしい。そうではありません。藤井上人がインドに発たれた起点とした場所はあくまで身延山です。身延山を起点にしてインド西天開教に向かわれたのです。そこで一つの願文を読まれております。その願文の一部をご紹介いたしましょう。
日本の仏法西天インドに帰るべき瑞相に先がけせんと欲す。東方アジアの精神文明復興に、六十二見の諸党を摧破せんと欲す。殺人文明の欧米阿修羅の闘諍堅固の迷乱の獄より、一切衆生を平等に勉出せしめんと欲す。二陣三陣、毒鼓雪嶺の頂きに撃ち、法雨を恒河の流れに注がん。もし西天にこの法還らずば、高祖の予言地におちなん。もし西天にこの法還らずば、わられが菩薩行立つべからず。もし西天にこの法還らずば、娑婆の衆生は永く火刀血の牢舎を出づべ期あるべからず。されば諸天善神王のかたじけなくも高祖大士の本懐を扶けて、我等が修行をまもらせたまえ。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
これが昭和五年八月二十五日、身延山を起点として西天インドに開教に発たれたときに読まれた願文の一部であります。この願文の最後に「高祖大士の本懐を扶けて」とあります。お師匠様は、藤井上人は、この西天開教は、高祖大師、お祖師様がされるものだという認識にたっているのです。ご自分がするとは思っておりません。日蓮聖人ご自身が今、西天開教をされるのだというのです。ですからその後に、「我等が修行をまもらせたまえ」と言っている。自分が今から西天開教をすると言っているのではない。お師匠様が、日蓮大聖人の未来記をおれが果たしてみせるのだといっているのではないのです。この点を日本山のお弟子さんたちも全然わかっていない。これは本当に恥ずかしいことです。おそらく、こういうことをいえる日本山のお弟子は私しかいない。だれ一人としてこれを考えた者はいない。日蓮大聖人の誓願を日蓮大聖人がやられるのです。それに対してお師匠様が立ち上がっただけです。ですから我が身はその任をいただく資格があるかどうか、恩師上人は非常に不安におののきながら旅立ちなさったのです。決して勇んで行かれたのではない。自信をもって行かれたのではありません。もちろん再び日本の土が踏めなくなるかもしれない。そう覚悟された決死の鹿島立ちであります。
毎年八月二十五日に、日本山の一門は西天開教記念行事として身延山に参詣いたします。これは参詣することになっているのです。この日は私たち日本山一門にとって、本当は涙の日なのです。それが今の日本山の一門にはわかりません。おめでたい日だと思っている。この涙が枯れて、日本山の人たちにこの意識がなくなったときには、日本山妙法寺崩壊のときです。日本山妙法寺といえども、こんなもの永久に続く教団とは私は思いません。宗教法人日本山妙法寺の中に、藤井日達という名前は入っておりません。日本山妙法寺を宗教法人にしたのは、「宗教法人にしてくれ」と文部省がやたらにいってくるからです。それで届ければすぐ宗教法人になるからということで宗教法人にしたのです。宗教法人にしておかないと日本山は不便なのです。花岡山の仏舎利塔を建てるのでも、土地を買っても、何でも税金がかかるでしょう。お師匠様個人の藤井行勝の名ではやれないのです。それでしようがないから宗教法人になったのですけれども、その宗教法人の初代代表役員は丸山行遼です。藤井行勝という名前は入っておりません。これも日本山の人たちは知らないのです。お師匠様が初代代表役員だと思っています。それでお師匠様が亡くなられたら、今の我々の最高のお弟子さんが二代目を継ぐと思っている。日本山に二代目はありません。日本山妙法寺という教団は原始教団です。このことを日本山の人たちは認識しないと誤ってしまう。原始教団では二代目は出はしません。既成教団では出ます。ローマ法王が死んでも一週間以内にまた次の法王が生まれます。けれども原始教団には二代目が出るはずはない。宗教法人は何代目もいます。私ども宗教法人はやはりつぶれるかもしれない。
ですから宗教法人日本山妙法寺と、日本山妙法寺藤井行勝とは、はっきり分けて考えていただかないと、お師匠様の法門はわかりません。お師匠様にはそういうところがあるのです。
では昭和五年に、なぜお師匠様は西天開教に発たれたのか。私は子供のときから、これが疑問で不思議でしようがなかった。だんだん育ってきまして考えていくと、どうも昭和五年は日本では大切なときなのです。お師匠様は関東大震災の報をハルピンで聞かれた。ロシアの開教に行こうとされたのです。ロシアは無宗教でしょう。無宗教のロシアができたというので、宗教を完全に否定するような国家が生まれたというので、これはお師匠様は驚きだったのでしょう。「そこに行ってお題目を唱えなければいけない。そこで太鼓をたたかなければいけない」という決意をされて満州に渡られた。その間、満州布教をいろいろされたのですけれども、目標はロシアだったのだそうです。それでハルピンまで行かれた。ハルピンにも日本山妙法寺をつくられたのです。そこまで行ったら関東大震災が起きて、そのニュースが入ってきた。この報に接して、お師匠様は直ちに日本に引き返しました。ロシア開教も満州開教も捨てたのです。ということは『立正安国論』の鏡にてらして見たときに、この帝都を中心とする大震災は、日本の亡国を天が教えたことだ。これを信じなければいけない。立正安国の明文が正しいならば、間違いなく日本が滅びる、こう確信されて、直ちに皇室のご祈念に入られた。
ここでついでですから申し上げますが、日本山の皇室に対する考え方は、権力の頂点としてとらえているのではありません。あくまで文化の頂点としてとらえています。皇室にその徳がなくなったら日本の皇室は滅びます、なくなります。ですから、それが日本が滅びる前兆になりますから、その徳を絶やしてはいけない。そこで皇室のご祈念をして、国主諌暁をしなければいけないというので、それが立正安国の精神だということで皇室ご祈念をされたのです。これが帝都開教の初めです。
ならば、それからの日本はどんどん悪くなっていくでしょう。昭和三年にはときの首相田中義一でさえ真相がつかめなかった張作霖の爆殺事件が関東軍の謀略で起こされております。満州事変は昭和六年に起きています。昭和四年には、アメリカに経済大不況が起きています。それが昭和四年の暮れには日本に上陸しました。五年から六年あたりは、新潟でもそうですけれども、東北の農家、特に小作人たちは、米は豊作ですけれども、米価は半額になってしまって食うにも困った。たくさん米をとっているのに全部青田刈りされていますから、それをみんな地主にとられてしまう。おまけに現金も借りていますから、お金も返す力がないから娘を売ったのです。ですから東京の吉原、玉の井というところには、東北あたり、新潟あたりの農家の娘さんがどんどん入ってきた。これは昭和四、五、六年の時代です。
こんなときに帝都をご祈念していたお師匠様が、なぜのこのこインドに行くのですか。これは私は子供のときから不思議で、『立正安国論』の鏡にてらして、日本国の亡国を見ている人が、この大事なときに、これは一般でも、この時代のことは、思想国難、経済国難という言葉が出ていたのです。これは心ある人はみんな日本の亡国を憂いていたことです。何もお師匠様一人が『立正安国論』を言って、日本が危ないなどと言っていたのではない。こういう人はたくさんいました。そんな時期に日本を留守にして、一人でのこのこインドに西天開教だという。私はこの西天開教はどうも符におちなかったのです。納得できない。それほど日本のことをおっしゃっている人が、この日本を留守にするとは何だと思いました。もう満州事変が目の前にきています。神兵隊事件だ、五・一五だ、二・二六だ、と次々におきているのです。自界叛逆の難が次々に起きているのです。そして他国侵逼の難に移っていく。もうはっきりしているときでしょう。このときに日本のご祈念をもっと真剣にやるべきではないか。それをなぜインドに行ったのだと、これはだれでも思うのが本当なのだけれども、日本山の人たちはのんきだから、そう思わないのです。
それで私はガンジーを見たのです。昭和二年(一九二七年)からガンジーのインドの独立運動は、急にまた盛り上がったのです。それまで十年の間、ガンジーは鳴りをひそめていた。一九二二年からずっと鳴りをひそめておりました。インドの市民運動は停止されていたのです。それが再び火を吹いたのが昭和二年ごろです。
では、お師匠様はいつごろからガンジーを見ていたのだろうか。丸山行遼という方が私の大先輩でおります。私はこの方の教育を受けているのですけれども、この方が最初にお師匠様を訪ねたのは大正十四年です。この人はもともとちょっと国家社会主義的な思想をもっている人です。ですから下中弥三郎とか、そういう連中とつきあって動いていた人です。あのころは国家主義でも社会主義でも同じようなものがたくさんいました。早稲田に行って、学生時代にはこの丸山上人はロシアの服でルパシカを着て歩いていたそうです。だから青年時代はかなりかぶれていたのです。それが右翼として有名な笠置良明という人がいますが、この人の紹介でいろんなアジア問題について笠置良明に質問したところが、「そういうことはわしは答えられん。それはわしの知っている限りでは、藤井行勝という坊さんのところに行った方がよい。この方は立派な人だから、そこへ行きなさい」といって紹介状を書いてくれた。その紹介状をもってお師匠様のところに行ったのが大正十四年だった。
それでお師匠様のところに行ったときに、丸山上人は、インドへ行きたいといった。インドに行って独立運動の真ん中へ自分も入りたいのだと。そういう血気にわいた人なのです。そのときにお師匠様は、「わしもインドに行く。だけれども今は時期ではない。もう少し待ちなさい」といって、叱ったというのです。これを私は聞いておりました。では、どれが時期なのだろうかということで考えてみますと、ガンジーなんです。『撰時鈔』に、「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」とある。お師匠様はこれに従ったのです。インドにおけるガンジーの非暴力による独立運動は昭和二年からぐっーと上がってきました。昭和五年は最高潮です。「塩の行進」が昭和五年におきているのです。その前にガンジーは十一カ条の要求をアーウィン総督に突きつけています。もし一年以内に我々に自治を与えない場合には容赦なく戦うというガンジーはすごい脅しをかけた。それが昭和四年です。
こういうことをお師匠様はずっと見ていたのです。これはよく調べてみますと、何も藤井上人だけではありません。その当時の日本にいるアジア主義者は全部これに注目していたのです。「アジア主義」というとちょっと変に皆様思うでしょうけれども、アジア主義といっても、アジア主義者の中にはいろんな流れがあります。岡倉天心などもアジア主義者で、その範疇に入る人です。そういう人もいるのですけれども、本来アジア主義者とは、アジアの解放を願っていた人です。明治維新は列強によってアジアが征服されている中で明治維新が起きたのです。日本だけがかろうじて侵略されなかった。運もありますけれども、日本の明治維新は大変な維新なのです。あとは全部列強にやられていたのです。高杉晋作は上海で清の人たちがひれふして、膝まづいて辱めを受けている姿を見て帰ってきています。太平天国を見てきている。そういう時代に日本の明治維新は生まれたのです。だから明治維新はただ徳川を倒して、王政復古したなどという、そんな単純なものではありません。これは大変な時期を日本民族は通りこしてきた。ですからアジア主義者は、その延長で、このアジアの解放を何としてでもしなければいけない、その使命感に燃えていた。そこまでは別に侵略思想でも何でもないのです。
ところがその中の一部の流れが、軍国主義のお先棒をかつぎました。それでアジア主義といえば侵略主義とか軍国思想、軍国主義というのが連想されるようになってしまった。しかしアジア主義そのものは、絶対に軍国主義でもなければ侵略思想でもありません。このことからみれば、お師匠様もアジア主義者の一面をもっていると思います。これは私自身、断言できます。お師匠様自らおっしゃったことはありませんが、そういう範疇に入るだろうと思います。
だからアジアの解放を憂いていたのは当然です。ですからインドを見つめていた。私の小学校のときの校長先生は、インドに行ってきた。それで私が子供のときにインドの話をしてくれたことがあります。子供たちを相手にしてインドを見てきた話をしているのですが、インドのカルカッタで乞食にぶつかったときの話をするとき、この人は声をだして泣いていました。そういう感情が昭和の初めごろの日本にあったのです。ですから何もお師匠様だけが、藤井上人だけがインドを見つめていたわけではありません。けれどもお師匠様はインドの独立、ガンジーの運動を、『撰時抄』にのっとって、「時」として選んでおられた。何の「時」か。いうまでもなく「立正安国」の「時」です。
これは昭和五十八年、お師匠様が亡くなるちょっと前ですが、正月に、多摩の道場で年頭法語としてお話をなさった中にはっきりいっておられるのです。「インドの独立よりほかに西天開教はありません。もしありといえば、それは商賣、宗教の職業であります。日本山の西天開教とは、インドの独立運動でありました」。長いお話の中でこれだけ言いっぱなしですから、だれも気にとめていないのですけれども、私はドキリとしてこの話を聞きました。九十九歳にもなられているお歳ですから、話としては細かいことをおっしゃらない、そのまま言いっぱなしです。でもお師匠様にはそういう考えがあったことは確認できます。インドの独立運動とは、ガンジーの非暴力運動のことです。他のことではない。ガンジーの非暴力がなければ、恩師上人の、お師匠様の昭和五年における西天開教はあり得なかったと私は思っております。
ガンジーが提唱した非暴力による独立運動の成功は、そのときの日本の危機をあとにしても、かかわらなくてはならない重要な「立正安国」のご祈念の対象だったと、お師匠様は判断しているのです。ですから我々日本山一門にとっては、このガンジーの運動を無視して日本山の運動などはありません。この大切な日本の危機をあとにしても行かなければならないほど、立正安国の祈念の対象になるべきものがガンジーの運動だったのです。
ですから、ガンジーを我々はもっと知らなければならないのが日本山の義務です。けれども宗門だって、このことを考えていただきたいと思います。ガンジーの非暴力運動は、インドの独立を達成する力となるだけではない。未来の人類、これから二十一世紀、そしてその先、その時代の人類の生きていく道を示している運動です。いまだかつて非暴力によって独立運動をはかったものはありません。それだけでなく、非暴力による集団行動はガンジー以前にはないのです。お釈迦さまはもちろん、マホメットだってキリストだって、すべての聖者は非暴力です。自分で暴力など使っていません。けれども個人の非暴力です。しかし集団でもって、市民運動として非暴力運動をしたのは、歴史上ガンジーが初めてです。ですからお師匠様は注目していた。これはただごとでないという見方をしていた。そして「立正安国」の祈念の対象とするものは、ここにあるのだということを見つけられたのです。これが昭和五年の西天開教なのです。
このとき、ガンジーの非暴力運動、非暴力を好意をもってみる者と、そして興味を示す者は、世界でたくさんおりました。日本でもそうです。頭山満さんなども、ああいう右翼の親分みたいな人ですけれども、ガンジーの非暴力を非常に高く評価しています。けれども信じてはいません。大きな市民運動を起こして英国を困らせるだろう。英国はこれで手をやくに違いない。けれどもこの非暴力によってインドの独立が達成するなどと思ってはいません。ロマン・ローランにしてもトルストイにしても、みんなこれを好意をもっては見ていました。ガンジーの非暴力は非常によいことをやっている、なかなか立派なことだというようには見ていた。けれどもこの非暴力でインド独立が達成されると信じている者はいませんでした。このときお師匠様ただ一人が信じたのです。これが偉大なところです。たった一人藤井上人を除いて、非暴力によるインドの独立が成功すると信じた人は世界で一人もおりません。これは大変な問題なのです。『諌暁八幡抄』の「日本の仏法、月氏へかへる」という大聖人の未来記に沿った発願には違いないのですけれど、『撰時抄』の明文にしたがってこの時期を決められているのです。
二
また「日本の仏法、月氏へかへる」というのは、日蓮大聖人の未来記ではあります。しかしさっきも申しましたように、大聖人の誓願でもあるのです。単なる言いっぱなしでそうなるであろうという、将来を予言しただけではありません。これはお祖師様自ら誓願されていることなのです。だから西天開教はお祖師様がやられるのだという、その認識にたって願文を読まれているのです。「高祖大士の本懐を扶けて」とお願いしているのです。「我等が修行をまもらせたまえ」、西天開教は単なる修行です。何も得意になっていることはありません。日蓮門下なら当然考えるべき修行です。
ですから、いきなり身延山にお別れにいったのではありません。まず三月に行っています。それから次に七月にもお別れに行っています。それから八月のお別れになっている。三止三請の儀式にのっとって、西天開教の鹿島立ちをされています。お師匠様は非常に慎重です。これは今、日本山の人たちを見ていると非常に恥ずかしい。日本山の古参だ、長老だといっている連中の話を聞いていると、全くこの点を考えていない。熱海を出発点にしたなどと思っている人がいる。こんなことだったら、西天開教とお祖師様を冒涜することになってしまう。お師匠様は大変この点に気を使って、お祖師様におすがりして、それでインドに発たれているのです。
ただここで注目すべきことは、この恩師藤井日達上人の壮挙を日蓮宗の人にも理解されていた事実があるということです。当時の日蓮宗の方の中には、このお師匠様の、この私が今言ったような程度のことはちゃんと理解されて応援して下さった人がいます。さもなければ、藤井上人のお母さんの墓がどうして奥の院の聖域にできるでしょうか。あの場所に作らせていただけるということは、名もない乞食坊主ですよ。日本山なんか吹けば翔ぶような教団です。そんなところの二十人か三十人、弟子をもっているような坊さんが、自分のお母さんのお墓を奥の院に建てるなどということはできるわけがないのです。それをさせていただいたということだけでも、身延山でこれを理解している人がいたということなのです。
特にその前日、八月二十四日に得度式をしています。私もそのとき得度を受けた者です。それがお師匠様が武井坊――武井坊というのはご存じのように焼けたのです。前の武井坊は違うはずですが――の本堂でお師匠様は二畳台に坐わられて、導師として得度式をされた。そのときに小松海浄猊下も、それからお隣の清水坊の内野日運猊下も参列して下さっているのです。武井坊の本堂を使って日本山の得度式をする。日蓮宗の得度式ではない。日本山妙法寺一門の得度式です。それに小松猊下が参列して下さる。これはお師匠様の西天開教に対する理解がなければ、こういうことをやるはずがないでしょう。
だから当時の日蓮宗の指導僧の中には、何人もこういう方がいられたのです。京都の河合日辰猊下、お師匠様がインドに行かれた後、三人のお弟子さんを送ってこられました。永井行慈上人、三木慈教上人、天崎行昇上人さんはまだ生きています。青年時代に上海事件のときに遭難にあった人です。日本山の寒行に出てきまして、寒行の中で太鼓をたたいて一緒に歩いていた。あれは松本清張なんかの書いたもので、東京裁判からとっているからいいかげんな書き方をしています。けれどもあれはただの寒行だった。全くの偶然です。道も決めないで歩いていた。そしたらあちこちで集会がある。たまたま抗日の集会をやっているところのそばまできた。そこで日が暮れたので提灯をつけた。その提灯に「日本山妙法寺」と書いてあるでしょう。それを見て、抗日演説をして、それを聞いている連中も興奮していますから、パーンと石を投げ込んだのです。それをきっかけで周りから襲撃を受けた。それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。ただこの事件を上海事変のきっかけに軍部が利用したのです。この事件を確かに利用はした。けれども事件が起きたのは全くの偶然です。寒行で回っていて、提灯をぐっとあげた。そしたら「日本山妙法寺」と真ん中にでているので石をぶつけられた。それがきっかけになってあの事件が起きたのです。
その河合猊下のお弟子さんが三人もお師匠様の後を追ってインドに行っているのです。だから藤井上人の壮挙に対して理解を示しておられた。後に日本山と宗門との間のいろいろ争いが出るのです。お師匠様とですけれども。これは満州開教の中で、満州における日本山を排斥しようとして、宗門の教団にそういう政治的な動きが事実あったのです。これに対抗した。それで日蓮宗と日本山とぶつかった。だけどこれはそんなことをやったやつがバカなのです。日蓮宗そのものがそうしたわけではない。
三
ガンジーは「南無妙法蓮華経」の祈りを、これも不思議なことですけれども「仏教の祈り」といっている。今でもいっています。ガンジーのお墓で一月三十日とか十月二日とかに祈りがありますけれども、そのときにプログラムを見てごらんなさい。「仏教の祈り」と書いてあります。「仏教の祈り」というなら、「ブッダン サラナン ガッチャーミ」とか、「ダンマン サラナン ガッチャーミ」、それから「サンガン サラナン ガッチャーミ」というパーリ語の三帰依文があるのですが、それを「仏教の祈り」というでしょう。これならば、インド人ならば回教徒だって、キリスト教徒だって、「仏教の祈り」だということがわかります。言葉でいうのは仏教徒だけしかいわないですけれども、それが「仏教の祈り」であることはだれでもわかります。欧米の人が聞いてもわかります。それをなぜ日本の、一お宗旨のお祈りである「南無妙法蓮華経」をとりあげたのでしょう。
これは日蓮宗のお坊さんが、モラルジ・デサイというインドの首相になられた人ですけれども、この方の晩年に、その人にお目にかかって聞いておられるのです。それは羽田の石井上人やなんかです。このデサイさんに、「ガンジーは、なぜ南無妙法蓮華経をいったのですか」という質問をしている。デサイは「ハーモニーだ」といったのです。このとき案内したのは日本山のお弟子さんですから、私はあとでこの人を叱りました。デサイが「ハーモニーだ」と答えて、それで納得するとはばかみたいなものだ。それで納得できるかと。「仏教の祈り」といって、アシュラムの中でガンジーが、祈りの冒頭に「南無妙法蓮華経」をいう。これがなぜハーモニーなのだ。ハーモニーというならパーリ語の「ブッダン サラナン ガッチャーミ」をいうのです。それをなぜ日本の「南無妙法蓮華経」をガンジーは採用したのだ。ここのところは納得できないではないか。というよりも、ガンジー主義者で有名なデサイという、この総理大臣にもなっている人ですけれども、このデサイのような人物でもわかっていない。
わかっていないのはどういうことかといえば、ガンジーは、「南無妙法蓮華経」をなぜ自分が採用したか。なぜ「南無妙法蓮華経の祈り」を使っているか、一言も説明していないのです。ガンジーの記録は大変しっかり記録されていて、図書館にいっぱい記録が残っている。ガンジーという人は、「今日の断食は何のためにしたのだ」とか、そんなつまらないことを一々そばの隨身や、まわりの人に説明される人です。ところが「南無妙法蓮華経はなぜするのだ」ということは一言もいっていない。記録がない。もちろん書いたものもない。それにしてはあしかけ十六年間、毎日朝晩「南無妙法蓮華経」をいっていた。なぜその記録をしないのでしょうか。このことでも不思議なのです。やはりガンジーという人は、「南無妙法蓮華経の祈り」のただものでないことをさとったのですね。ですから、これはうっかり説明できない、記録もできない。ただご自分でその「南無妙法蓮華経」を生涯、保ち続けられた。この歴史は宗門の方々、無視できないでしょう。
日本国はその当時一等国といわれていた。敗戦なんかは初めてですから。だからガンジーは日本国にあこがれていたのかなというような気もしたのです。ところが日本が負けまして、完全にアメリカから占領されて屈辱を受けているような状態のときでも、ガンジーのお題目は消えていないのです。ガンジーは独立後もまだ生きていましたから。インドが独立した後、ビハール州の農村を回っていました。そこでのお祈りを聞いても「南無妙法蓮華経」をいっているのです。そうすると日本が一等国だ、何だとかそんなことは関係ない。では仏教を知らなかったのだろうかということになるのです。ところがガンジーの道場には、アシュラムには、ダルマナンダ・コウサンビという世界的に有名な仏教学者、お坊さんがいたのです。これはお師匠様がガンジーを訪ねて行ったときよりも十七年も前からガンジーと接触していました。このコウサンビについて書いた本を読んだことがありますけれども、コウサンビという人が初めてガンジーを訪ねたのはプーナというところですけれども、そこでコウサンビは「私は仏教を勉強しておりますけれども、私よりもあなたの行動がはるかに仏教の理念にあっているものです。あなたこそ本当の仏教徒だ」という賛嘆をしているのです。
もう一つコウサンビを通して感じることは、この方は一九四五年に亡くなられた。亡くなる何カ月ぐらいか前に、その時期にバジャージという財閥がおります。その中の私が非常に親しいのがラームクリシナ・バジャージですけれども、この人の兄さんでカマラヤン・バジャージという人がコウサンビに千ルピーご供養しているのです。一九四五年当時の千ルピーといったら大変なお金です。私が行った一九五三年ごろでも一ルピーが七五円六〇銭です。ですから大変な価値です。その金でお弟子さんを三人セイロン(スリランカ)に勉強に行かせようとしたのです。そういうことをしようとすると、ガンジーから手紙がきていました。その手紙がまだあるのですが、その手紙に「そんなつまらないことをやめろ、セイロンの仏教などを勉強しに行くのは」と書いてあるのです。それはガンジーから見ると、セイロンの仏教をまるっきり問題にしていない。ダルマナンダ・コウサンビという仏教学者と長いつきあいがあったガンジーが、仏教を知らないはずがない。仏教を十分研究した人でしょう。そのガンジーが、なんでコウサンビのお弟子さんがセイロンに行くことを「つまらないことだ」といったか。
これも私がガンジーの仏教観を知る一面だと思いましたのは、確かに南方仏教のテラワダの上座部仏教は、独立運動の指導的な立場に立っていないのです。インドだけではない、ビルマでもセイロンでも、何らそれに対して衆生を導く力になっていない。ガンジーの目から見ると、そんな宗教はいらないのでしょう。二〇〇年余をこえる長い搾取の中から、その鎖を断ち切らなければならないこの時期に至って、仏教がその指導的な立場に立てないならば、そんな仏教はガンジーにとって何の価値もないのです。むしろその程度の理念なら、ガンジー一門が毎日あげている『バグワット・ギータ」の「ギータ」という「インド教の祈り」があります。このインド教のギータの理念で十分だと思っていたのではないかと思うのです。それほど事実、ガンジーという人は、このギータの理念を高く評価している人です。『バグワット・ギータ』の理念の方が、はるかに仏教よりまさっている。だから、こんなものどうでもよいのだというのが、おそらくガンジーの仏教観だったと思います。そういうガンジーのところに、お師匠様によってお題目がいったのです。
私がワルダに仏舎利塔を建てましたけれども、建てた場所は、お師匠様がガンジーと会見した場所とちょっとすぐそばです。そこに建物が見えるくらいです。だからお師匠様がこの場所を決められたときに、二カ所候補地があったのですけれども、最初に今の仏舎利塔が立ったところに行かれまして、「ああ、ここだよ」といわれた。「なんでここがよいのですか。もう一つありますよ。セワグラム・アシュラムのそばにもう一つ土地があるのですが」といったら、「いや、ここにしよう。ここは毎日、私がご修行にきて、ご祈念していて、夕日を拝んでいたときに見た景色なのだ。だから見おぼえがある。だからここにしよう」こうおっしゃったのです。
するとそこで、恩師藤井上人が太鼓をたたいて回っていれば、いやというほどガンジーの耳にお太鼓の音が入ります。お題目の声も一日じゅう聞こえます。お師匠様のご祈念は生半可なご祈念の仕方ではないですから。それをやっておられた。これがガンジーには非常に不思議に思ったでしょうね。しかも「何を祈っているのだ」とおそらく聞かれたに違いない。これも記録にありません。ガンジーの記録にもないしお師匠様もいっていないから、私の推察でしかない。けれども当然ガンジーは聞きますよ。「そんなに一日じゅう何を祈っているのだ」と。すると「インドが独立することをお祈りしているのだ」と答えるでしょうね。これでびっくりしたのです。これが「立正安国の祈り」ですけれども、こういう祈りは世界中ないのです。これをガンジーは直観的にすぐわかった。
ガンジーが毎日唱えているお祈りにしても、世界の宗教界で使う祈りの中でも、「独立を祈る」という言葉はあり得ない。これは「立正安国の祈り」以外にありません。ですから立正安国の講義をしたわけでもなければ、お師匠様は『法華経』の説明をしたわけでもありません。第一お師匠様は、英語も使わない、インド語もしゃべらない。通訳についてきた沖津というお弟子さんは、この人は一級建築士の免許をもっている人だから、英語ぐらい少しはわかっていたかもしれませんが、片言の英語です。そのくらいの人が通訳です。それだからガンジーに『法華経』の講義などするはずがない。事実していないとお師匠様がおっしゃっているけれども、できはしないのです。だから、ただお題目を聞かせていただけです。ガンジーの周りをお題目を唱えて太鼓をたたいていただけです。何を祈ったかといえばそれは独立を祈った。もしガンジーでなかったら、それを自分の祈りにはしません。しかしガンジーという人はただ者ではなかった。この祈りの意味、どこを対象にして祈っているかがわかった瞬間に、自分の祈りにされた。これは世界中に独立を祈れる祈りなどありはしません。国を祈れる祈りなどないのです。
ついでに、さっき中野先生から指摘されたのですけれども、日本山では『立正安国論』を拝むのに、「まず国家を祈りて仏法をたつべし」というあの箇所を、「まず国家を祈らんには」とお師匠様は私どもにいわしているのです。これは中野先生の論文に書いてあったのです。「まず国家を祈りて仏法をたつべし」というこの言葉をみんな誤解してしまって、国を本尊にして国を拝むのだ、国を中心にするのだ、というふうに日蓮門下の連中の中には、そういうバカな考え方を起こすやつがいたから、こういう誤解をしてしまった。お祖師様はそんなことはやっていないというような意味のことをお書きになった。その通りなのです。
お師匠様はそれを私たちに紹介したときに、こういう過ちを侵すから、だから私は「国家を祈らんには」と読ましているのだとこうおっしゃったのです。お師匠様みたいに漢籍に詳しく漢文をよく知っていらっしゃる人が、「国家を祈らんには」と読むか読まないかぐらいはご存じです。百も承知しておられるけれども、「祈りて」といってしまうと、みんなそういう誤解をしてしまっていたから、だから「祈らんには」と私たちに読ませているのです。
これはついでに申し上げますけれども、「祈る」ということは、私どももこうやって拝むことには違いないけれども、「願う」ことです。「祈る」という意味は「願う」ことです。国家の何を祈るかというのは、これは典型的な日本語です。国家の何を祈るか、何を願うかということです。だから、いうまでもなく「国家の安穏、国家の平和を願わんには」という意味ですから、「願いて、願って」という意味です。だから別にこれはそんなに気にする内容ではないと思うのですけれども、どうもこれは宗門の学者でもそれを気にしている人がいます。久保田先生などでも、この場所はお客さんのいっている言葉だから、あまり気にしないで用いない方がよいなどとおっしゃっている。そんなことをいうとよけいわからなくなってしまうのです。これは国家の安穏を、国家の平和を祈るという、願うというこれだけのことで、別に単純なものだと思います。そんなにここで引っかかるような問題ではないと思っています。
インドには非常に問題になるものがあるのです。それはコミナリズムというものです。宗教の回教徒とインド教徒との対立があります。それは非常にインドはやかましい。このことでボースでもネールでもガンジーでも、みんな独立前から苦労しているのです。独立した後、インドのコミナリズムをどう打破をするか。これは指導者がみんな全部苦労しています。ボースがインド国民軍をつくって率いるときでも、このことをこの国民軍の編制にあたって非常に心配した。ワルダに仏舎利塔を建てましたけれども、このワルダの仏舎利塔は見事にこれを打破しています。みんなガンジーの悪口をいっていた新仏教徒もお参りに行きますし、ガンジィーアンもお参りにくる。毎年何回かお祭りをしますと、みんなどっちもお参りにきて参列してくれる。こういうことは他になかった。それで私がワルダに帰りますと、カトリックの人も回教徒の人もみんな遊びにきてくれて、一緒にお茶を飲んでくれます。ワルダというのはガンジーの育てた町ですから、そういうところが非常に徹底しています。こういう一つの大きなことにもやはり「立正安国の法門」は力があると思うのです。
私らちょっと反省しなければいけないのは、日本山の人は、お師匠様の徳が高いから、藤井上人の徳が高いから、ガンジーにお題目を伝えたのだとそう解釈してしまうのです。ガンジーはもちろん聖者だから偉いです。だから聖者と聖者とがまみえることによって、お題目が伝わったのだという解釈を日本山の人はしているのです。これは間違いです。もしも聖者と聖者であっても、「南無阿弥陀仏」をもっていったらどうなりますか。これは伝わりはしないのです。「南無妙法蓮華経」だから伝わった。「南無妙法蓮華経」が「立正安国の祈り」だから伝わったのです。ですからこれは「立正安国」という祈りの性質のあるお題目が行ったのです。一人歩きをしたのです。その走り使いにお師匠様がなっただけなのです。こう解釈するのがお師匠様のお心に沿った解釈なのです。聖者と聖者があいまみえることによって、お師匠様の徳によってお題目を伝えたなどと解釈したら、私がそうお師匠様の前でいったら、「ばかなことをいうな」といっておそらくしかられます。これはたとえ聖者と聖者であろうと、お題目だったからガンジーに伝わったのです。お題目にはそれだけの力がある。さっきも申し上げましたように、「立正安国」という祈願のための祈りです。このための祈り、これは世界のどの宗教の中にもこの「南無妙法蓮華経」以外にはありません。これをガンジーはよく見抜いて下さった。これは我々日蓮門下の者よりも、はるかにガンジーの方が高いのです。これははっきりいえます。「然るに日蓮は、何れの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」というお祖師様のこのお題目は、ガンジーが示してくれたのです。
私も子供のときからお題目を聞いて育っています。私の両親はお師匠様の弟子になった人ですけれども、その前はやっぱりお題目を一所懸命に唱えていた信者なのです。堀の内のお祖師様の二十三夜講に入って一生懸命やっていたのです。だから私子供のときから、もの心ついてから、母のお乳をしゃぶるときからお題目を聞いている。だからお題目を聞くと、どうしてもやっぱり日蓮宗というようなイメージになってしまう。「南無妙法蓮華経」といえば日蓮宗。今でも私はそうなります。
ところがガンジーの「南無妙法蓮華経」には、日蓮宗も日本山もありません。まるっきり「平和の祈り」として「南無妙法蓮華経」を唱えている、採用している。これこそお祖師様の我々に残してくれたお題目ではないのですか。ですから、日蓮大聖人のお題目は、ガンジーによって受け継がれたのです。ガンジーが唱えたお題目、あれこそがお祖師様のこの世に残されたお題目だと、こう解釈しております。
いろいろの話がありますが、時間もありますから、この「平和行進」について最後に触れておきます。平和行進も、お題目を唱えて下種結縁、太鼓をたたいて町を歩いてお題目の声を聞かせるということですけれども、本来これはある地点からある地点まで太鼓をたたいていけばよいというものではない。街頭修行するのが日本山の本来の修行です。ここに平和行進している武田さんという人がおります。この人も佐渡を開教しているときには、佐渡の両津の町を毎日ご修行して歩いていました。時計のように横町からずっと太鼓をたたいて、あっちの横町で聞かれた後、今度はこっちの横町から太鼓をうつ、そういうご修行をしていた。これが日本山の街頭修行です。これが日本山の本来の修行です。
その街頭修行を平和行進というようにもっていったから、私どもは平和行進によって平和に貢献できると信じているのです。これを間違えて、平和行進のときだけ参加すればよいのだなどと、こんなことを考えている者がでてきたら危ないのです。放浪の延長みたいになってしまう。こういうことに陥りやすいところに今日本山はかかってきていますけれども、出家は放浪の延長ではない。日本山といえども、このところをわきまえておかないと、これからの日本山はおそらくいいかげんな日本山になってしまう。そんなに皆さん期待されるほどの日本山などありはしません。今の日本山はこの点がはっきりしていないから危ないのです。放浪ではありません。
お師匠様がインドに行かれたのもたった一人でいかれました。しかしこれも放浪ではない。みんな見落としていることは、それ以前にインドのことをよく調べています。言葉はわかりません。英語も知らない、インド語も知らない、でもインドのことをよく調べられている。だから向こうでまごつきません。しっかりこちらで準備された人に会っています。それからガンジーに会うのが目的ですけれども、昭和五年に日本を立たれて昭和八年までガンジーに会っていない。その間、カルカッタにおられたときもあるのですが、タゴールに会おうとしないのです。カルカッタから三時間、汽車に乗ると、そこにタゴールがいるのです。あのタゴールに会おうとなさらない。日本の商社の人やなんかで、お師匠様が偉い人だと思う人がいて、そういう人が、ガンジーは今、円卓会議やなんかで忙しいからなかなか会えません。だからタゴールにちょっと会ったらどうですかという。タゴールに会うことは何も危険がないのです。英国からにらまれている人でも何でもない。だからタゴールに会えばよいのですけれども、お師匠様はタゴールという人が偉大なことをよく知っているくせに会おうとなさらない。西天開教の対象とする人が、これはガンジー、だからタゴールに会ってはいけないのです。それで会わないでおりました。
それから、みんな今日西天開教を誤解していることは、お寺を建てたということ、仏舎利塔を建てたということです。これもお師匠様は、西天開教の数に入れておりません。はっきり言っておられる。仏舎利塔は建造物だから平和をつくるわけではないというのです。これは私もインドのカカサーブという人から質問されて困ったことがあります。カカサーブはガンジーの直弟子の人で、博士で、なかなかの文学者ですけれども、この方が日本にきたとき、「今井さんね、仏舎利塔、仏舎利塔と藤井グルジイはいうけれども、仏舎利塔などはインドにはくさるほどあったのだよ。パールフットの仏舎利塔だ、サンチーだ、アマルバティーだ。これはあなた今はどうなっている、みんな廃墟になっているではないか。それからスリランカ(セイロン)、ビルマ、タイ、もう村々にみんな仏舎利塔があるではないか。ビルマだってセイロンだって、みんなインドと同じ植民地で属国だったではないか。ポルトガルに支配されたり英国に支配されたり、オランダにいじめられたり、ずっとそういう歴史をもってきている。その間、仏舎利塔は何を救ってくれたか。だから仏舎利塔を建てれば平和がくるぞなんて、そんなことを信じられるか」とカカサーブがいわれた。カカサーブ・カレルカールという人です。
そのとき私は困っちゃったなと思ったのですけれども、思わず答えたのは、「鎮護国家の法門です。日本でもそれは仏教が六世紀に入ってきて、一番最初に仏舎利塔が四天王寺に建ったのは六世紀です。けれども日本の仏舎利塔は、鎮護国家の祈願をこめた塔ですよ。しかしパールフットやアマルバティーにしても、みんなそういうところの塔は、生天を願って、個人の救いを願って、それでみんな仏舎利塔を建てたのだ。今お師匠様が祈願している仏舎利塔は、そんな仏舎利塔ではありません。この日本の仏教文化の源に帰そうとしている。日本人はまず仏教をどういう面から採用したか。仏教は自然に流れてきたとは思っていない。日本人は日本民族の仏教を選んで、ピックアップしてとったのだ。その中で鎮護国家の法というもの、これを選んだのが日本民族の仏教です。それを今藤井グルジイは我々を通して運動しろと言っている。ただ仏舎利塔を建てろと言っているのではありませんよ」。こう言ったら「わかった。それで初めてわかった」といって、このカカサーブが非常に感動してくれたのを思いだしました。
こういうものを日本山の人がわからないと、ただ仏舎利塔をやたらに建てればよいと思ってしまう。そういうものではない。お師匠様はインドで、ガンジス河の石を拾ってきたのではないのです。お釈迦さまの真身舎利を感得してきたのです。釈迦牟尼世尊真身舎利をそうやたらに感得できるものではありません。お師匠様が感得した仏舎利の数は二百粒近い感得です。
私はネールさんが自ら下さった仏舎利を奉侍して、日本に船で私自身がお随身して帰ってきましたから、そのときその仏舎利を拝みまして、それで私自身もお随身している仏舎利と比べてみると全く同じです。この仏舎利というものはどういうものかというのは私実際拝んでおります。その仏舎利をお師匠様は二百粒近いものを感得しているのです。一番最初に感得したのは昭和八年の八月にスリランカのギニガテーナというところで、行脚をされていて初めて泊まったお寺で下さった八粒、これが最初の感得です。それからまたこのギニガテーナのご住職が、また後から王舎城におられるお師匠様のところに送っていますけれども、それだけではないのです。お師匠様の記録にはありませんけれども、カシミールにおいても、ビルマにおいても、それから王舎城の中でもみんな集まってきた。
なぜこういうふうに集まったかといえば、その当時仏舎利塔は全部壊されていた。ラジギールでも荒れ放題なのです。今でこそラジギールでもクシナガラでも全部整備されていますけれども、その当時の仏跡は完全に廃墟になっていました。どこが何だかわからない。道もあるかないかわからない。私が行ったときでも、ご祈念に霊鷲山に上がっていく途中には、虎の足跡がいっぱいあった。あそこが舗装されていないのです。私は下のお寺から毎日日参する。そうすると舗装されていないから、虎の足跡が明るくなったときに見える。行くときには真っ暗の中を歩いていく。帰ってきたときに虎の足跡を見て、新しい足跡ですからギョッとしたことがあります。そういうところだったのです。そのときにみんなお仏舎利を奉侍している人はインドの中にたくさんいた。その人たちがお師匠様の徳の高いことに感激して、みんなお仏舎利を奉侍してお師匠様に差し上げたのです。これをお師匠様は記録していないし、言い伝えていない。それからお弟子さんもいただいて、丸山上人もお仏舎利を何粒もいただいている。これをやっぱりお師匠様に差し上げています。これも言っていない。けれども二百粒近い仏舎利がお師匠様のところに集まったのです。
私もインドに長いのですけれども、そう簡単にお仏舎利は集まりません。それほど向こうの人たちは大事にしていたのです。回教徒の侵入のときに髪の毛の中に隠したりしてみんな逃げたのです。そういう仏舎利をみんな保存していた。それから廃墟になった仏舎利塔の中のものをみんな持ち出していた。それもお師匠様のところにもってきた。お師匠様自ら拾いだしたのではないけれども、そうして集めた人がみんなお師匠様のところにもってきた。それでお師匠様は仏跡復興を誓願したのです。ただ仏跡が荒れているからというのではない。そこで仏舎利塔を建てなければいけない。また戻さなければいけないというので仏舎利塔を復興したのです。建てたのです。ここのところも申し上げておかなければいけないのです。
四
西天開教という大聖人様のご誓願、それから大聖人様が自らなさっているという認識のもとに、お師匠様が立ち上がってご修行されているわずかな中に、かかる大量の仏舎利が集まってきたということは、今申し上げましたように不思議なのです。不思議というよりも、これは大聖人自らがこの仏舎利をいただいたのと同じなのです。お師匠様が仏舎利を感得したのではない。お祖師様が西天開教でこの仏舎利を感得されたのです。ご妙判に書いてないからとか何とかみんなおっしゃいますけれども、確かに書いていない。書いていないけれども、西天開教という文字もありません。そんな文字はありません。西天開教という言葉は、お師匠様が言われている言葉です。「日本の仏法、月氏へかへる」という、これを西天開教というご修行によって実現しようとした。その跡を踏もうとした。「日本の仏法、月氏へかへる」という予言は、そのまま日本の仏法を月氏へ返すお祖師様の誓願です。それが七百年たって、お師匠様によって、藤井上人によって実現して、実行してみたらお仏舎利が集まってきたのでしょう。だから身延山にお仏舎利をおまつりしているのです。このことを日蓮宗はわかってくれない。「舎利を安んずるを須ひず」とお経にでている。これは確かに舎利否定の方から編集した言葉だと私は思います。けれどもとりようによっては、これはむしろ積極的に、「舎利をまつらなくても塔を建てろ」ということになるのです。
仏舎利は八万四千に分けられているという伝説がある。八万四千の塔を建てたにしても、八万四千一塔目はだれが建てるのですか、どうするのですか。仏教徒の信徒の数は、もう法華経成立の当時には八万や十万ではありません。ですから華厳系の経典の中にも、むしろ仏舎利信仰を否定している言葉も確かにあります。「舎利を安んずるを須ひず」なんていうのはまだ否定のうちに入っていない。「舎利をおまつりしなくても塔を建てろよ」と、こういう意味にもとれるのです。むしろそうとった方が自然です。「経巻を須いず、堂塔も須いず」。寺もいらない、経巻もいらないといってもやっぱり信仰は残るのです。
そういうことで、こんなことに仏舎利塔反対というのはおかしい。この機会にはっきり私は申し上げておかなければいけない。仏舎利塔否定などは法華経信仰の中にありません。ご妙判になくても、「舎利をとどめて正像末の衆生を利益したもう」と、『観心本尊抄』にあるとおり、事実利益しているのです。ならば今我々が仏舎利塔を建立することが、立正安国の祈願の象徴だとするなら、なんでこれを否定する理由がありますか。反対する理由がありますか。宗門の方自らが建てて下さったら、私の奉侍している仏舎利だって差し上げます。こういう仏教徒の数が、大乗仏教が成立した当時は、インド中にいたのです。仏舎利を奉侍している信徒はわずかです。一握りです。おそらく仏舎利を奉安している人たちの中には驕慢心がおきたでしょう。「おれは仏舎利があるぞ、おまえにはないだろう」と、そこで当然こういう経典ができるのです。だから華厳系の経典が生まれた当時の背景を考えて下さったら、だれでも常識的に判断できることです。こんなことをことさらに何か鬼の首でもとったように、仏舎利塔建立の反対の理由にしたり、仏舎利信仰反対の理由にする根拠にはなりません。そんなことをいうなら、経典もいらなければ仏さまの仏像もいらない。本尊は我々の感覚では、目に見えないものを本尊だと思っています。それを何とかあらわそうと努力して墨にしてお祖師様は、本尊も書かれました。それをまた彫刻にもできましょう。絵にも描きましょう。しかし本来、本尊は目に見えるものではありません。本尊には目に見えなくても、はたらきがあるのです。その躍動している本尊のはたらきが、仏舎利塔を建立しているのだという信念のもとに、お師匠様は動かれていました。だから晩年、宗門の方々の集まりで、仏舎利塔が本尊だという言葉がでたのです。だからみんな「とんちんかんなことをおっしゃるな」と思ってまごついたと思います。けれども、そのときお師匠様の年齢を考えて下さい。もう九十八歳、九十九歳というときのお話です。このときちょこっと言われたからといって、そのことをあまり追求されるとおかしい。本尊が建立したもの、本尊の活動によって生まれたものと思えば、仏舎利塔は本尊なのです。それとも稲荷町の店先に並んでいるあれが本尊だとでもいうのですか。本尊は本来目に見えないもの、これが日本山妙法寺の法門認識です。
このお師匠様は立正大学で最後に講演なさった。これはご遷化されるわずか二カ月前です。そのときに、私、隣りの部屋で遠慮して聞いていたのです。日本山の者だけ入って、お師匠様の前を占領したら悪いと思ったからです。そのときに、「大崎を出て先がけしたけれども、後に続く者がいない」という言葉をおっしゃったのです。私このとき本当に泣けました。これはお師匠様のようなお方でも、もう百になられたお方が、思わずもらしたぐちなのです。お師匠様は宗門に期待されている。「大崎を出て先がけしたけれども、後に続く者がいない」。宗門の中から新しい時代がこれからどんどん変わってくるでしょうけれども、この藤井上人のなさった西天開教というものをもう一度考え直してもらいたいのです。
日本山妙法寺の山主などと思わないで下さい。日蓮宗の皆様の大先輩だと思って考えて下さい。私のお師匠様には違いないですけれども、宗門の大先輩でもあるのです。その方が自らお祖師様の未来記を果たされて、お祖師様自らがすることをやられた。だったら、これにけちをつけてもしようがない。これを追求してもらいたい。「ガンジーが、なぜお題目を唱えたか」ということさえも、何も耳を傾けようとしない。立正大学でだって、身延山大学でだって、出たものはそのことを聞いたことがない。教師が言わないのだから生徒がわかるわけはないでしょう。だけどこれほど重要な歴史がありましょうか。インドを独立させたマハトマ・ガンジーが、十六年間にわたって毎日「南無妙法蓮華経」を唱えていたという事実、これを無視して日蓮宗の教育はありません。ですからこれを無視することは、宗派根性ではないといっているのです。現代宗教の感覚の誤りです。オウムをつくった宗教観がこの誤りを作っているのです。私はこういうことを申し上げるのが非常に失礼だと思いますけれども、このような機会を与えていただいたことで、あえて申し上げる次第でございます。
どうもありがとうございました。失礼いたしました。(拍手)
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