日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第32号:233頁〜 研究ノート ←前次→


  電子ネットワーク布教の現状と今後

田島辨正
(現代宗教研究所研究員)
     はじめに―寺院とコンピュータ
 寺院とコンピュータというと、いかにも似つかわしくない代表のように受け取られることも少なくないが、布教のための文書作成や法人運営のための事務や経理のツールとして、一部寺院ではかなり早い時期からコンピュータは導入されていた。ただ一般に寺院の場合は高齢の住職によって運営されているケースが多いため、自分には無縁のものとして忌避されることも多く、寺族が個人で趣味的に導入する場合はさておき、法人レベルとしては全体に普及が遅れていたことは否めない。しかし平成七年頃からのパソコン低価格化とWindows95発売によるブームの波に乗って、さすがに最近では新規導入する寺院が急速に増えてきている。
 そして時を同じくして我が国にもインターネットが広く普及し始め、いよいよ社会はコンピュータを抜きにしては語れない時代に突入した。パソコンは今や、各自が単独で使用する事務機器としてよりも、世界中と結ぶネットワークの端末という性格がますます強まり、その目的でパソコンを買うという人も少なくない。その点は寺院といえども同様の傾向であるが、まだまだインターネットにアクセスする僧侶は少数派といえる。まして自らホームページを開き積極的に新たな布教の場として開拓していこうと志す人は、残念ながらごく限られているのが実情である。
 もともと宗教は、人々がまだ満足に文字を扱えない時代から、経文をそれぞれの言語に翻訳しながら「文字」という情報メディアに乗せて伝播を重ねてきた。そして印刷技術をはじめとする新しいメディアが登場する度に積極的な姿勢で活用し、今もキリスト教や新興宗教は衛星放送や電子ネットワークに前向きな取り組みを見せている。ところが、こと日本の既成仏教教団に関しては、いつの頃からかメディアを活用しての布教意欲をすっかり失い、他に大きく遅れを取ってしまった。もしこのまま情報革命の波に取り残されることにでもなれば、次の時代に教団が生き残ることはむずかしい。
 今まさに世界規模で広がろうとしているインターネットの輪は、今後の社会を根底から大きく変革し得るパワーを持っている。現在進行中の情報革命は、かの産業革命をも上回る多大な影響力で社会の構造や人々の生活環境を変えていくといわれているが、それは必然的に人々の精神的な拠りどころたる宗教のあり方や価値観をも覆すことになろう。教団や僧侶が今までの旧態依然たる時代認識に安住したままでは、すでに押し寄せつつある大きな波を越えることは極めて困難であり、社会の変化に応じて再構築されるであろう精神文化の旗手に立つことなど到底あり得ない。二十一世紀における「情報通信」は単なる布教ツールにはあらず、新たなる時代を告げる「黒船」だという切迫した認識を私たちは強く持つべきであろう。
 寺の仕事や布教にパソコンや電子ネットワークは不要であるといった声を未だに聞くが、そうした利便性や実用性のレベルで論ずる時期はとっくに終わっている。まして個人的趣味の遊びごとといった認識で済ませられるような状況でもない。時代が今どのような方向に進もうとし、社会がどう変わろうとしているかを考えたならば、すでに得手不得手や要不要で片付ける段階でないことは容易に気付くはずである。世界的な視野で社会を見つめ、鋭い感覚で時代を知るべきは、宗祖の指し示された法華経者の基本姿勢たることを肝に銘じつつ、宗門における電子ネットワークの現状と今後について些か論じることにしたい。
     電子ネットワーク時代の教団
 都内のある小学校で、先生と生徒たちがインターネットにホームページを開設し、自己紹介文や写真を公開したところ、区の教育委員会から情報保護の条例に違反するとして、その動きを差し止められたという。欧米はもとより国内でも多くの小中学校ですでに多数のホームページが作られている中で、何とも時代錯誤な役人がいるものだと呆れ果ててしまったが、要するに何らかの不都合な情報出入を恐れた役人の責任逃れであり、旧来の管理型社会における体質が如実に表われた事例といえよう。そしてこの出来事は、到来しつつある情報化社会の本質を垣間見ることができる好例と見るべきなのかも知れないのである。
 情報の流出や流用に関する危惧や管理責任の問題は、宗門でもしばしば議論されるところである。たしかに従来の管理型社会では、国や企業、団体といった縦型構造社会の構成単位が情報発信・受信の末端基盤であったため、当然その管理や責任は末端基盤たる組織が負うべきであった。しかし、人々はインターネットの登場によって、史上はじめて個人が従来の所属組織を超えて世界に情報を発信し得る段階に達し、末端基盤が個人へと移ったことを想起せねばならない。人々は国境や所属組織の枠組みを自由に超えて主体的に結び合うことが可能となり、もはや管理や規制によって個人を押し込めることは殆ど困難になってきた。
 電子ネットワーク社会においては、個人の発言や情報はあくまで発信した本人の責任においてなされるべきであり、組織が全てを掌握し管理し責任を負う従来のあり方とは根本的に異なる認識を迫られる時代に立ち至ったと考えなければならない。子供たちは今や学校や教育委員会はもちろん、親の管理すらも超えて自在に情報を発信し、また様々な情報を自由に受信できるようになった。企業に属するサラリーマンも新宗教教団の会員も同様であり、縦型の管理枠に閉じ込められる時代は終焉した。僧侶もまた教団や寺院という社会との窓口を経ずして、個人レベルで世界規模の情報発信が可能になっているのである。
 情報の管理は、その発信・受信の末端基盤における社会的責任であり、それが実際に機能していればこそ意味があったのであるが、組織は事実上その末端基盤としての立場をすでに喪失しているにも拘らず、相変わらず自らがその管理責任を担おうと任ずるが故の喜劇は、まだ暫く各所で散見されるであろう。しかし世界的な電子ネットワークの普及によって、次第に縦型ピラミッド社会は崩壊し、個人が既成の枠を超えて連携していく横型ネットワーク社会へと推移していく中で、否応なく実態に対応し得る新たな社会形成が築かれていくに違いない。宗教教団もそうした意味で、組織形態の大規模な変革を余儀なくされることであろう。
 幕末期、黒船来航を機に我が国は鎖国状態が崩壊し始めていたが、幕府はあくまでも海外の情報も貿易も一手に握り、諸藩や民衆を支配し続けているかの錯覚に陥っていた。その間に薩長両藩から脱藩志士に至るまで、海外の情報や物資を自由に入手・発信して独自のネットワークを構築していった。その結果があの明治維新へと繋がっていった歴史を私たちは思い出す必要がある。今、日本はネットワーク化において世界の後進国たらんとしているが、その最も立ち遅れている点の一つが、実はこの情報流通の基盤に対する認識だと思うのである。教団もその点では全く変わらない。情報革命は果たしてどのような教団組織を求めているのであろうか。
     ロータス通信をふりかえって
 平成九年三月末日をもってロータス通信の運用が停止した。正式名称を日蓮宗情報ネットワークシステム「ロータス通信」というこのBBSは、中央教化研究会議で数年にわたって出された要望を受けて、平成四年春に日蓮宗現代宗教研究所の通信プロジェクトチームによる自主実験ネットとして開設された。運営予算が全くない中で、我々プロジェクトメンバー有志が資金を捻出し、当時NHKのBBSを手掛けていたリップス社の無償協力を得て一年間の研究運用が行われた後、翌平成五年四月から情報網整備準備費の予算枠で正式な宗門ネットとして四年間にわたる試験運用が始まったのであった。
 このパソコン通信を構築するにあたっては、独立したBBSシステムを組むべきか、あるいはニフティなどの大手商用ネットが提供するCUGを利用すべきか、その長所短所を様々な角度から慎重に検討を行なった。その結果、将来的に宗門全体をカバーする一大ネットワークの構築という目標を前提に、より自由度が大きく専属システムオペレーターを抱えることができる独立型を選択した。担当したのはリップス社である。その営利を度外視した全面的な協力によって、宗門ネットとしての運営方法研究やノウハウの蓄積・人材の育成を中心に、志ある教師の参加を募りながら運用実験を続けたのだった。
 以来四年、準備段階としての成果は着実に積み重ねていくことはできた。しかし、その将来に翳りを落とす大きな見込み違いもあった。一つは予想以上に宗門全般のパソコン普及が鈍く、また理解や関心も深まらなかったことだ。一般企業で積極的にコンピュータを導入しネットワーク化も加速度的に推進される中で、既成教団は布教メディアとしての電子ネットワーク活用に必ずしも前向きではなかった。それはほぼ同時にBBS運用に乗り出した浄土宗や先発の浄土真宗でも共通の悩みであったが、従来の布教方法に固執しがちな既成教団の体質や、住職の平均年齢の高さという点などが大きな要因として挙げられよう。
 一方、若い僧侶の中には当然パソコンに強い関心をいだき、早くからアプリケーションのプログラミングを手掛けたりしながら各方面に活用する人も少なくなかったが、そうした人々が必ずしもロータス通信に進んで参画してきたわけでもなかった。むしろネットへ積極的に参加してきたのは、ロータス通信にアクセスするために初めてパソコンを導入したという人のほうが多かった。パソコンをコミュニケーションツールと化する電子ネットワークには、ハードウェアやソフト開発への興味より教化情報への関心や布教への意欲が求められる故であろう。その関心が残念ながら多くの若手僧侶に育っていないことも指摘せざるを得ない。
 平成九年三月三十一日、ついに日蓮宗ロータス通信は計五年にわたる歴史に終止符を打ち、会員有志が独自にインターネットへ進出する道を選択することになった。試験運用停止は低い利用率がその主な理由であった。予算打ち切りにより会費制による受益者負担方式の継続運用も検討されたが、会費だけで必要経費をカバーできる現状ではなかった。たしかに登録会員数は伸び悩んだ。運営する側の消極的な姿勢やPR不足なども原因としては挙げられる。しかしそれにも増して、全般的な傾向として教師が電子会議への参加やデータ提供に甚だ消極的であるという点が気にかかった。この問題については項を改めて述べることにしたい。
     ネットワーク社会と情報提供
 ロータス通信の事務局を担当していて、しばしば耳にしたのは「ロータス通信には情報が少ないから魅力を感じない」「もっと布教データを用意しなければ人は集まらない」という意見であった。ある一面では確かに尤もであり、会員が増えない理由の一つであったことは否めない。むろん宗門情報を中心に収集・掲載する計画はあったが、結局その体制を整えるには至らなかったのは残念である。しかし私は常にこう反論した。「ネットは青空市場のような場所だ。みんながデータや情報を持ち寄って初めて相互利用の関係が成り立つのだ」と。双方向性を特徴とする電子ネットワークは情報や意見・データを交換する場であって、一方的に誰かが提供するためにあるのではない。その基本的な認識があまりに不足していた。
 仏教では「布施」の行を説く。ある意味でネットワーク社会におけるフリーウェアの提供などは、まさにこの布施の精神に満ちたものだ。想像を超えた苦労を重ねて作成したソフトやデータを、人のために役立つならと見返りを求めず喜んで公開する。電子会議室での情報提供も同様だ。文字どおり喜捨である。どのネットでも、こういった人々の努力によって支えられている。ところがそうした教えを説く立場にあるはずの僧侶は、最もこの精神から遠いところにあると思わざるを得ないほどデータや情報を出し惜しむ。そして自らはひたすら収集にばかり専念する。ロータス通信にはデータがないという言葉もそうした一つである。
 ネットのサーバー記録を見ると、データを格納した資料ライブラリにだけ盛んにアクセスしている人たちがいた。しかし、ついに彼らは一言もその謝礼を会議室に書き込むことはなかった。もちろん自らがお返しにデータや情報を置いておくこともしない。その受け取る一方である彼らから「大したデータがない」といわれると、何ともやり切れない思いがしたものだ。自分が作るデータや発言など、恥ずかしくて人に見せられるものではないという気持ちもあるという。それは私とて痛いほどよく分かる。仲間内のネットだからこそ尚更であろう。しかし、それではいつまで経ってもネットは栄えない。
 どんなにつまらないと思える情報でも、必ず誰かの役に立つものである。たいしたことのない自分の行為では世や人の役に立つまいと引っ込んでしまえば、布施もボランティアも成り立ちはしない。ネットは一般社会からかけ離れた別世界ではない。まさに社会の生き写しなのである。日常の中でわが身を世に捧げようとする志を持っていない者が、どうしてネットの中だけ布施に励めるであろう。逆にネット社会で利を貪るばかりの関わり方では、現実社会にいても同じことをやっているのではなかろうかとさえ思う。ロータス通信を運営していて特に悲しかったのは、実はこのことなのであった。
 結局は教師ネットの段階で終焉を迎えたロータス通信であったが、本来は一般市民とのコミュニケーションおよび布教情報の提供を目指していた。その果たし得なかった目的はしかし、ロータス通信開設の頃にはまだ未来の世界と誰しも予想していたインターネットの急速な普及と発達によって、にわかに現実味を帯びることとなる。パソコン通信と比べて遥かに少ない予算であっても運用できるインターネットを利用することにより、教団運営より柔軟かつ迅速な対応が可能な個人レベルでの情報提供ルートの確保が可能となり、事実上ロータス通信の理念は会員有志個々に引き継がれる形で再び始動することになった。
     仏教系ホームページの趨勢
 インターネットとは、世界中のパソコンが専用回線や公衆電話回線、さらにはケーブルテレビや電灯線などを介して結び合い、情報やデータを共有していこうとするシステムで、いわば世界の人々がパソコンを介して一つの大きな輪として繋がる電子ネットワークである。普及が遅れていたわが国でも、ここ数年急速に広まってきた。元々インターネットは三十年以上前にアメリカ国防総省によって軍事目的で開発されたネットワークだが、やがて学術関係でも利用されるようになり、それが今や企業や官公庁・学校・個人の参入により、多方面に利用されるメディアへと発展しようとしている。今後は、高度情報化社会の中核として極めて重要な役割を担うことになろう。
 インターネットの機能は多様で、個人間の電子メールをはじめ、多数同士による電子会議やデータファイルのライブラリなどにも活用されており、最近では格安の長距離電話やビデオ電話など声のやりとりにも積極的に使われはじめている。そうした中で最も人気を集めているのがホームページ(WWW=ワールド・ワイド・ウェブ)と呼ばれる機能である。ホームページは、ネット上に広告看板やパンフレットを開くような機能で、文字情報のみならず画像や音声なども自由なデザインで組み込むことができる。この機能を使って雑誌や新聞、あるいは小冊子の内容をオンラインで提供することも容易に可能となった。紙による媒体とは違って、印刷・製本や配布といった過程を経ることなく、個人レベルでも簡単に情報を不特定多数に発信できる点が、従来のメディアにない大きな魅力といえよう。
 作成したホームページのデータは、インターネット上のサーバーと呼ばれる専用のコンピュータに登録する。閲覧したい人は、その所在地を示す記号(URL)を端末のパソコンから入力するだけで画面に表示させることができる仕組みだ。最近ではテレビ受像機でも見ることができるようになってきた。またホームページ上に他ページの所在地を書き込んでおけば、その文字をマウスで押すだけで自在に移動することもできる。このリンク機能を活用することによって、ホームページ同士を輪のようにつなげることができるのだが、実はこの機能こそが、ホームページの普及に大きな役割を果たしているのである。
 こうしたホームページを新しい布教メディアとして活用しようと考えるのは当然で、すでに国内にある宗教関連サイトは千件を超え、仏教系だけでも三百件以上のホームページが現在確認されている。教団別に見ると浄土真宗系が最も多いが、日蓮宗関連でも四十三件(平成九年十一月現在)と他宗に劣らぬ数のホームページが開設されており、とくにこの一年間は他宗を凌駕する勢いで数を増している。なお教団主催のホームページは、浄土宗・曹洞宗・真宗大谷派・本門仏立宗などがすでに開設しており、日蓮宗や日蓮宗新聞社でも開設に向けて目下制作中という。おそらく本書が発行される頃には一般公開されているに違いない。
 これら仏教系ホームページで提供されている内容は実に様々だが、最も多数を占めているのが寺院の縁起紹介や諸堂・行事の案内。布教活動の場として肝心の教義や説法、経典解説などを主体としているところは残念ながらあまり多くない。その他、寺院に関係する文化や社会活動の紹介、人生相談への対応に力を入れるサイトや、お経や声明・梵鐘などの音が聞けたり、自作の寺院管理ソフトを無償提供するところ、あるいは来訪者が自由に書き込める伝言板・会議室を用意したり、バーチャル参拝でおみくじや賽銭箱が用意されているページなど、WWWの高機能性を積極的に活用しながら様々な工夫が見られる。いずれにせよ、内容的にはまだ試行錯誤の段階にあることは否めず、実際の評価はこれからとなろう。
 ホームページの作成に関しては、プロのデザイナーに委嘱しているケース、住職や副住職、あるいは寺族自らが手掛けているケースなどいろいろだが、全体的な傾向としてプロに委託して作成されたページはデザイン的に洗練されているものの、内容が定型的で信仰・布教面への追求が浅く、一方の自作派は個性的かつ信仰的色彩が濃厚だが、制作面での負担や障害が大きいためか途中で行き詰まるケースも多く見られる。しかし、いずれの場合も開設より維持のほうが遥かに大きな労力を伴うことは間違いなく、いつ接続しても同じ内容のままでは来訪者の定着が望めないため、絶えず新しい情報や記事を追加していく定期的な更新作業への多大な努力が求められよう。ただこうした労苦を重ねてもホームページ作りを続ける理由は、何といっても新しい可能性への挑戦にある。実際、新しい仏教との出会いの場として、老若男女を問わず既に多くの仏縁が結ばれている。新たな寺院のあり方がインターネットを通じて追求されようとしているともいえよう。
     情報発信の質的転換と仏教界
 世界中を結ぶネットワークの中心的メディアとして、インターネットは確実に急成長を遂げている。双方向から時空を超えて瞬時に様々な情報を送受信し合えるという一大特徴によって、今後も従来のメディアを統合しながら発展を続けていくに違いない。経済性や速報性からいえば、おそらく宅配の新聞や一部の雑誌は将来インターネット配信に切り替わっていくであろうし、紙のメディアである必要のない出版物類もオンライン化されていくと思われる。またラジオやテレビ、あるいはビジュアル系ソフトや音楽ソフトなども、デジタル化の進歩につれて一層インターネットとの繋がりを深めるはずだ。
 一方パーソナルな情報発信も、インターネットの登場で大きく様変りしつつある。これまで相当の資金力がなければ不可能だった個人出版も、オンラインでの提供ならば誰にでも簡単にできるようになった。デジタル回線化が進みコンピュータや通信アーキテクチャーが高度化して動画や音声が自由に扱えるようになれば、インターネット上で個人放送局を開くのも決して難しいことではないし、個人制作の音楽作品や映画が直接オンラインで流される時代もそう遠くはない。あらゆる情報や資料は電子ネットワークに置かれ、個人間で自由に活用される世の中になってもいくだろう。
 こうしたインターネットを中心とした新たなメディアにおいて注目すべきは、従来マスメディアに独占されてきた情報発信の権利が再び個人に開放された点である。かつて情報伝播の手段が小規模であった時代、その担い手は個人であった。しかし出版や大マスコミの登場によって、大きな組織と資金なくして人々は個人で情報発信側に立つことはできなくなった。私たちは井戸端会議やミニコミ的な発信手段しか持てず、故に情報そのものも一部の権力者や財閥たちによって握られるに至る。むろん受信する側も、自由に情報を選択する余地は与えられなかったのである。
 既成仏教教団や寺院にしても、情報発信の範囲は極めて限られていた。資金的な都合などでマスコミュニケーションに乗る機会はさほど多くなく、主に檀信徒や一部の関係者に向けて紙のメディアで送られていたに過ぎず、その結果として寺と縁を持たない多くの人々は殆どその情報に触れる機会すら与えられなかった。わずかに一般的な啓蒙書やガイドブックなどで概略を知るのが関の山で、そのためマスコミなどを通じて伝わる歪められた宗教情報もすんなりと受け入れられてしまう。仏教教団側もまた、その歪曲を是正する手立てすら持ち得なかったのが実情であった。
 しかしインターネットの普及で、そうした閉じられた情報伝播の空間に大きな風穴が開けられたといえよう。どんな小さな寺からも大マスコミと同じ土俵で情報を発信できるようになり、また人々も時を選ばず自由に情報を得られる状況を享受できるようになった。サイバースペース上では、個人も寺院も教団も、大企業や大新聞サイトと同等のレベルで情報を発信し得るのである。相変わらず情報収集やデザインなどで資金力や組織力は問われるものの、しかし有益な内容でそれをカバーし太刀打ちすることは十分可能だ。にもかかわらず、伝統仏教教団や寺院の動きはまだまだ鈍い。まずは社会的なニーズをもっと感ずる必要があるように思われる。
 本来インターネットが学術関係機関を中心に発達してきた歴史を持つにもかかわらず、宗門関連の学術部門での利用が殆ど皆無に近い状況であることも極めて遺憾である。立正大学や身延山大学の研究機関、現代宗教研究所などに眠る多大な研究文献や各種資料が、電子ネットワークを通じて広く一般に提供されることは、世界における法華経研究や宗学研鑚にどれほど大きな寄与をもたらすであろうか。これまではごく一部の参加者しか接することが出来なかった教学研究発表大会や各種研修会などでの内容も、電子ネットワーク上に公開することによって誰でもが享受できるようになるのみならず、さらに発展的な形態として常時オンラインで研究発表を継続的に開催することも決して不可能ではなくなる。従来は組織内にとどまっていた多くの情報を広く一般に提供する姿勢は、情報化社会に参加する一員にとっては既に必須条件であり、とりわけ宗教団体や学術機関など公益的な立場においては、いわば社会への義務として求められつつあることを強く自覚せねばなるまい。
教団における従来の規則や判断・慣習のままでは、新しい情報伝達手段である電子ネットワークに全く対応し切れないことはロータス通信の運営などを通じて痛感したところであるが、それだけに今後これまでの枠組みを超えた横型ネットワーク社会の到来に即応し得る新たな組織形態を如何に築いていけるかが宗門全体にとっての大きな課題となろう。この問題は、教団さらには寺院が次代にどういう形で生き残れるかを決定付ける命運を背負っているといっても決して過言ではなく、教団論や法器養成・社会教化など幅広い分野にわたる総合的視野から早急に取り組む必要があると考える。そしてその前提として求められるのは、何よりも各教師の時代を読み取る先見性と積極的な布教姿勢であることを私たちは決して忘れるわけにはいかないであろう。

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