日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第32号:210頁〜 |
研究ノート |
|←前|▲|次→| |
現代の新宗教における「終末論」について
貫名英舜
(現代宗教研究所研究員)
はじめに
現代における我が宗門の教化の問題を考える上で、次世代を担う青少年層における宗教意識の基礎的な調査と傾向の解析というテーマは極めて重要であることは論を待たない。この目的達成を充実させるためには、多くの若者が入信に至る有力な新宗教運動の周辺についての調査研究は欠くことができない。この意味で「オウム真理教とは何であるのか」という問いは、社会的な関心が薄れた現在においても我々の探求の中心的課題としての位置にとどまっている。
オウムは、その反社会的な破壊行為に対する社会全体の非難が集中する中で、教団としての組織的活動はほぼ停止状態に追い込まれているものと思われていた。しかし、平成九年八月二十六日の公安調査庁の発表(「オウム真理教の組織実態の概要」)によると、組織が再編され、新しい信者確保のための勧誘活動を再開しているとされている。事件前の最盛期に一万人もの信者が入信したこの宗教運動は、依然として完全な終息に至っていない。
初期のオウム真理教々団は、《超能力の獲得》という比較的穏健な通俗的テーマを掲げていた。「オウム神仙の会」の当時は、ヨーガスクールのような形態であった。この段階では、後に引き起こされることになる一連の反社会的行為(そして、教義としての「タントラ・ヴァジラヤーナ」や「ポア」という殺人の正当化論理)を自己合理化する論理は持たない。九〇年に、麻原彰晃以下幹部が政界進出をめざして総選挙に立候補する。そして、その敗北を経過した後に急速に教祖のカリスマ化が開始される。信者は「グル」である教祖の“クローン”になることが修行の目的として理想化され、同時に「グル」の存在と言説に絶対帰依することが求められることになる。そして、これとほぼ同時に、世界の破壊と終末について言及する一連のいわゆる「終末予言」が現れて来た。
現在、オウム真理教のインターネットのホームページ(「INTERNET オウム真理教 webmaster@aum-internet.org)」)には、「麻原彰晃 世紀末予言集」と題するコーナーがある。麻原彰晃が一九八八年から信者にメッセージしたところのさまざまな「終末予言」が編年的に資料化されたものである。ここには、教祖麻原彰晃の世界の終末とその後の「選民」の救済という主題にそった「予言」がファイルされている。
このオウム真理教における「終末予言」の多くは、七〇年代以降に各種メデイアによって流された「ノストラダムスの大予言」・「最終戦争(ハルマゲドン)」・「千年王国論/破壊と再生」・「光の子と闇の子の闘い/選民思想」・「ユダヤ(フリーメーソン)陰謀史観」・「超古代史」等の焼き直しにすぎない。それらの大部分は、オカルト系の月刊誌「ムー」や「トワイライトゾーン」などに繰り返し掲載され、また、やや俗化したパターンで子供向けにアニメやテレビ番組などに報道されたものであり、広く若者向けのサブカルチャーとして定着しているものである。
オウム真理教の元幹部であった者は、「オウムの教義や修行法、そして、終末論の周辺のモチーフなどは、麻原の独創ではない。それぞれの分野で得意な幹部が、麻原の要請に基づいて情報提供したものだ。ただ、麻原という男は大変記憶力が優れていて、また、違った分野の情報を結び合わせ、組み替えることに独特の能力をもっていた。」と証言する。この「終末論」とその周囲を構成するディテールは、一人麻原彰晃の思いつきであったのではなさそうである。むしろ、信者になって行った《オウム世代》の心象風景に共通して蓄えられていたとする方が自然である。
すでに、オウムに入信した世代の人々には、現代の文明に対しての危機心理があり、漠然とした形ながら未来に対する不安心理があったことは間違いない。前述のサブカルチャー群の主要なモチーフは、環境破壊や資源・エネルギー枯渇などの地球的規模の危機の存在が投影されたものであったからである。だからこそ、教団が組織として内部結束をして行く必要が生じた時に、この「終末思想」と救済の教義は教団の意図にとって都合よく極めて有効に機能することとなったのではないだろうか。
さて、法華系新宗教教団の一つである「顕正会(富士大石寺顕正会)」は、平成九年七月十七日に朝日新聞を除く全国紙及び地方紙に『日蓮大聖人に帰依しなければ日本は亡ぶ』(浅井昭衛著)という書籍の出版広告を一面広告で掲載した。その広告には、「平成九年の大彗星」であるヘール・ボップ彗星の写真を配されている。この効果によって、《他国侵逼の先兆》という教団の主張するところの論理を印象付けようという意図が見える。同教団の機関紙が報じるところによると、すでに登録会員数五〇万人を越えたとされている。この教団の実情に詳しい研究者の報告によると、同教団への入信者は十八歳から二十五歳ぐらいまでの若い世代がピークであるという。
この顕正会の会長である浅井昭衛(宗教法人「顕正会」代表 浅井昭衛)は、教団の機関紙(『富士』三三頁 平成九年三月)の中でこのように言っている。
このように立正安国論の種々の難が、いま一つ一つ事相に現れつつあるということは、容易なことではない、只事ではない。なぜかといえば、立正安国論には、これらの天変は国土変乱の兆すなわち他国侵逼の前相なりとして、御教示下されているからである。大聖人御入滅後七百年、いよいよ「未来も亦然るべきか」の時を迎えたということである。
論者は、この教団のメンバーの一人が友人を《折伏》(入信説得)するために書いたものと思われる文書を入手している。その内容を列記すれば、「諸天は(日蓮)大聖人の御化導を助ける宇宙の意志である。」「彗星は日天子の使いであり、これが出現したことは『他国侵逼』が近いこと、すなわち、戦争が近いことの証拠である。」「使いの警告が終わってもなお全国民(が)信じなかったらいよいよ本格化してくる!それが今年から!」「したがって、一国諌暁を急がなければ日本は危ない」などである。
この顕正会を含め、最近活動が活発な新宗教のいくつかの教団には、それぞれ特有の「終末思想」が散見される。本来、副次的な教義であったはずの「終末論」が、その教義体系全体の中で主要な位置を占めるような感がある教団も存在する。中には、具体的な《日本や世界の滅亡のシナリオ》や《滅亡の期日》まで特定し、その期日を目標にすることで具体的な数値をあげ教団組織の拡大を図っているケースもある。
なぜ、このような新宗教と終末思想との密接な結び付きが起きるのだろうか。そして、その終末思想を背景とした救済教義に若い世代の方がむしろ積極的にシンクロして行くのはなぜだろうか。このような問題設定で、七〇年代以降の思想状況や情報環境について構造分析を試みたい。
一、宗教回帰
一九七〇年代は、世界的に見れば宗教回帰、あるいは、「宗教の復権」の時代の幕開けとされる1)。
イスラム世界におけるいわゆる「イスラム原理主義」の台頭はその最も顕著な例であるが、欧米の先進工業国の社会においても、政治的イデオロギーの影響力の相対的な低下と反比例するように、これまで社会の深層にあった宗教が一つの勢力として表出していることが観測されるという2)。
そして、これに加えるに、社会的病理として深刻さを持って受け止められ始めた「カルト(ヨーロッパでは、通常《セクト》《若者宗教》と呼称される)」問題に、社会的関心が集まっている3)。
このような世界的な「宗教回帰現象」が、七〇年初頭から日本でも起こって来た理由は、産業主義に対する楽観主義の変更、例えば、公害の発生などによって、工業化が必ずしも人間に幸福のみを与えるものではないという認識の広がりをあげなければならないだろう。工業化は、人類に確かに多大な物質的な貢献をしているのと同時に、地球規模の環境汚染や資源の枯渇、発展途上国の人口爆発、それにともなう飢餓や紛争などの危機的な状況をもたらしていることが知られるようになった。
しかし、一度手に入れた快適で豊かな生活と豊かさを生み出すこの画期的な生産手段を放棄することもできない。このような意味で、世界が行くことも戻ることもできないアポリアに落ち込んでいるということが意識された。
このような意識が市民社会に広がるにつれて、産業主義を思想的に支えた科学的合理主義への信頼の低下が起こる。そして、急速な科学的技術の進歩に対する抵抗運動が生じることとなった。このことは、近代概念の人間中心主義、または、理性に対する信頼という近代の人間観に動揺を与えることになった。
ところで、六〇年代にアメリカのカウンターカルチャー(対抗文化)が生れた。このカウンターカルチャーは、ベトナム戦争に対する反対、公民権運動への同情とこの運動を抑制しようとするアメリカ社会に対する反発などを契機として開始されたが、その基盤として進みつつあった高度管理社会への移行という社会変動に対する抵抗運動としての性格を有していた。この運動は、日本においては全共闘運動としての熱気を帯びた「政治の季節」を形成した。
カウンターカルチャーは、ベトナム戦争終結を境に急速に沈静化するが、それは同時に「政治の季節」そのものの挫折と意識された。つまり、高度管理社会への抵抗は、管理社会を指向する時代の流れの中に飲み込まれたということであり、この後は、管理社会への積極的柔順へ向かうもの(例えば、日本では《企業戦士》)、管理社会に居住しながら精神的には一定の距離をおこうとするもの(思想としての《ノマド》)、そして、もう一つの選択が「宗教」への緊急的一時非難へ向かうものであった。後に触れるところであるが、アメリカでは「福音派(エヴァンジエリカルズ)=聖書根本主義派(ファンダメンタリスツ)」は、この時以来、多くの若者を吸収し組織を膨張させて行くことになる4)。
そして、日本においても、「心の時代」という標語が現れ、《第三次宗教ブーム》の「新・新宗教」と呼ばれる新たな新宗教運動発生の社会的条件が整えられて行くことになる。
二、ニューエイジと宗教
さて、アメリカのカウンターカルチャーの沈静化は次世代として七〇年代のニューサイエンスを生み出す。ポストモダニズムの時代要請を受けてより洗練された体系であるニューサイエンスは、近代の「知」である科学的枠組みを《パラダイムシフト》する試みとして位置づけられている。
その広範な試みの中に、非キリスト教的宗教の再評価、すなわち、東洋の宗教(仏教、ヒンドゥー教、道教など)や、ネイティブアメリカンの精神文化、ヨーロッパ中世の非キリスト教的宗教への評価の高まりなどとして見られる。そして、社会体制の底辺に置かれていた「呪術」や「心霊主義」などのオカルティズムを呼び戻す運動も含まれている。
このような個人の唯心的な内的体験の重視を指向する(例えば、仏教の瞑想やイスラムスーフィズムなど)運動は、一括して「神秘主義」の範疇に収められるであろう。ニューサイエンスは、宗教の復活をこの「神秘主義」で捉え直そうという指向性を持っていたことになる。これらの新しい試みとしての宗教運動を「ニューエイジ」運動と呼ぶことが通例である5)。
八〇年の中盤から「ニューエイジ」という新しい知の在り方を示す運動に発展する。日本にも紹介されて、人々に広がる契機となったのは女優のシャーリー・マクレーンの『アウト・オンア・リム』の出版であった。全米で三〇〇万部を売り、その《チャネリング》《瞑想》という宗教実践による《霊性の覚醒》と《意識の変容》というテクニカルタームが一般化することになる。
三、ニューエイジと終末論
しかし、この「神秘主義」によって宗教が捉え直されるという現実が、旧来の保守的中間層の宗教的心性を刺激することとなった。それが一つの形に結実したものが、キリスト教をファンダメンタリズムで捉えようとする保守的福音主義の運動である。
ニューエイジの「パラダイムシフト」が、時代を未来に向けて進めようという指向性を持つものであるならば、ファンダメンタリズムは過去のキリスト教の原点へ向けて回帰という指向性を持つ運動であることになる。動揺する「近代」を逆ベクトルに牽引し合う構図として理解されよう。この神秘主義とファンダメンタリズムという二つの相反するように見える運動の顕在化は、宗教を「脱魔(呪)術化」することで人間の理性への絶対的信頼の制度疲労的動揺を背景にすると言える。モダンというパラダイムに対して、「ポスト」を主張するか、「プレ」を主張するかの違いでしかないことになろう。
アメリカのキリスト教ファンダメンタリズムは、伝統としての「聖書根本主義」を主張する流れを活性化させた。現在、「クリスチャンライト(キリスト教右派)」と呼ばれる勢力の、政治に対する直接行動を含む運動の勃興が著しいとされている(実際にはそうでもないという意見もある)。基本的に、彼らは聖書の記述そのものにいかに自己の行動が忠実足り得るかに関心が高い。そして、聖書の記述に反するとされる事柄に対する実質的な反対運動を起こしている。例えば、「中絶反対」や「ダーウィン進化論の教育からの締め出し」などを主張し、一部に過激な行動を起こすケースもあると報告されている6)。
さて、カウンターカルチャーに直接的系譜を求めることができるエコロジズム(環境主義)であり、こちらも、現代の極めて有力な政治経済的イデオロギーとして整備され、人々の支持を受けるにつれて発言力を増大している。
このエコロジズムは、さらに、ニューサンエンスの中で「ホーリズム(全体性主義)」という思想を喚起した。例えば、「地球ガイア説」のように、人間も「自然/大きな生命」の一部であり、その「自然」を一方的に破壊するものに対しては、「自然」は「淘汰」の方向へ進むであろうという考え方である7)。
この「生きた全体としての自然」という生命論的な理念によって進められるエコロジー運動は、「この自然については、人間はほとんど知りえない」という限界を自ら示す。このことで、一つの「神秘主義」の体系と接近することとなる。「自然」は、伝統的キリスト教観念の「神」の隠喩と表裏一体のものとなる。
ある意味で、無機質な「抽象的な唯物論」に対する裏返しの心情、あるいは、ロマンチシズムな世界観を表象している感がある。この意味で、エコロジズムもまた一つの「終末論」の現れとして“宗教化”されるコンテキストを最初から内在することになると言えないか8)。
四、宗教的ファンダメンタリズム
宗教学者島薗進は、「現代社会における救済宗教の位置」に関する論考において、社会人類学者アーネスト・ゲルナーの学説を引いて、現代世界を導いている主要な思想的アクターとして、「宗教的ファンダメンタリズム(啓示宗教・救済宗教)」に対するところの「合理主義ファンダメンタリズム(啓蒙的合理主義)」、そして、「ポストモダニズム」の三つを上げる。そしてこの三極が相互に相関しつつ、「この三者がそれぞれ欠点をかかえたまま、三すくみの状態にある」というゲルナーの捉えかたを紹介している9)。
このようなゲルナーの学問的意図は、ニューサイエンス以後に広がりつつある解釈学的相対主義的な文化理論の在り方に対する批判的論評を成立させようというものである。ゲルナー自身は、この三極のアクターの中で合理主義ファンダメンタリズムの立場を重視するものであるが、このような三極構造を仮説概念として考察することで、現代における知のありかたを弁証法的に把握しようとしている意欲が伺われる。
この論の興味深い点は、近代が宗教を越える普遍としての知を確立するうえで合理主義、特に、科学への信頼と人間の理性への無限なる信仰という枠組みを示すことで、近代というパラダイムを充足させることに成功した。近代の啓蒙主義的合理主義の機能が制度疲労したところに立ち現れて来たものとして、ポストモダニズムの思想的発生を見るのである。それは、近代知が宗教の文化的個別性を乗り越えることで「普遍的に知」あるいは「普遍的真理」に高められたものへの反動として起こって来たという歴史認識に立つものであると考えられる。
もちろん、我々はポストコロニアリズム(植民地主義)の時代認識に立って、西欧近代のユーロセントリズム(ヨーロッパ中心主義)的な思想に対する批判を文化的相対主義の立場から行われることの有効性についても知っている。ゲルナーにとって、このようなポストモダニズムの思想の行き過ぎが、必ずしも、現実の認識と結び付かず、むしろ、その主張の比較的なあいまいさから自閉的な言説への閉じこもりという事態を招いているのではないかと指摘するのである。
しかし、このようなポストモダニズムという「第三の立場」が果たして現代人の普遍的な知として拡大する方向にあるのかという疑問を持たざるをえない。このポストモダニズムの相対主義の方向は、確かに、他の二極の持つファンダメンタリズムに対する緩衝として機能し、穏和な合理主義あるいは穏健な宗教の範囲についてそのモデルを指し示すことには成功するかもしれない。しかし、結局は、そのファンダメンタリズムの圧倒的な決定力に対して無力化して行かざるをえないのではないだろうか。
そして、むしろ、このあいまいさこそが、宗教のファンダメンタリズムの台頭を助長しているようにすら思われるのである。特に、ポストコロニアルのヨーロッパ周縁世界、とりわけ、イスラム世界における民族的アイデンティティ獲得への流れ、すなわち、農民社会や部族社会というミクロコスムの認識からマクロな世界認識への脱皮(脱個別文化化)という事態にあたっては、宗教が根源的に持つところの原理性が大衆にとっての重要なアクターとなり得る。既存の宗教経典の字句そのものが、日常の生活実践に影響することとなる。このような意味で、宗教的ファンダメンタリズムは、「正統的な歴史宗教が大衆化して行く動向の現れ」となる。
「救済宗教の大衆化」としての宗教的ファンダメンタリズムは、イスラム世界だけのことには限らない。むしろ、先進的な工業国の市民社会にも立ち現れているという意味で、世界的な現象として定位されるべきものであろう。
五、日本の場合 「心の時代」とサブカルチャー
さて、日本においての七〇年代は「心の時代」というキャッチフレーズに示されるように、衣食住の「生きる」ための基礎的な要素の充足とともに「それでは、生きるに価するとは何か」を求める思想的な運動が形成されてくる。教養主義的な宗教書ブームが起こり比較的富裕な階層に受容された。そして、マスメディアは、俗化した疑似的宗教のサブカルチャーである「心霊」・「霊界」・「呪術」・「超能力」・「超科学」・「超古代(ムー大陸など)」・「占星術」・「予言」など、一括すればオカルティズムのカテゴリーを積極的に取り上げ報道して行った。さらに、これらの要素をふんだんに吸収したマンガやアニメーションが多数製作され、青年から児童生徒に至るまでの広い世代の支持を受けた。
日本における五〇年〜六〇年代は、戦後復興、すなわち、欧米に経済的に追いつくという一つの価値に一元化されていた。しかし、日本の近代化過程の一応の「完了」という事態の到来にともなって、急速に当初の目的を喪失する。そして、高度経済成長期以後の「目標なき時代」を「どう生きるか」という別の課題に直面することとなる。
戦後の政治イデオロギーは結局日本の「近代化」をいかに果たすかということをめぐって対立と融合を繰り返したものであったような観がある。このような「大義」としての制度的イデオロギーの意味が目標喪失によって不明化することとなった。
ところで、大衆の世界観的欲求の高揚に答えるものとして、「宗教」はその不明化を埋め合わせ、新しい世界観を提示するオルタナティブとして「機能」して来た。「宗教は庶民の哲学である」ということば通り、動揺する価値観を新しいパラダイムの宗教運動によって乗り切ろうという潜在的欲求が生じて来た。ここに、戦後高度経済成長期型の新宗教である創価学会や立正佼成会によって代表される諸新宗教の歴史的役割は終結することになる10)。
このような情況の下に、次なる宗教ブームへの条件が整えられていった。
六、現代の新宗教における「終末論」の現在
現代の「終末思想」、サブカルチャー的に表現すれば、いわゆる「ハルマゲドン思想」の拡散に最も影響を与えることになった出発点は、『ノストラダムスの大予言』(五島勉著 光文社)シリーズの発刊であり、すでに初刊は発売以来四〇〇冊を越えている。
この本が出された一九七三年は、戦後日本経済のターニングポイントとなったオイルショックが起こった年でもある。日本は、戦争という破滅のイメージのほかに、複雑の国際関係や資源問題によって、容易に現在の快適な生活を奪われる可能性があるという危機感を持つに至った。また、工業化の進展は、社会に活力と豊かさを与えると同時に公害による自然破壊を招きよせる。経済的発展は、同時に自然と人間を破壊しているものであるというイメージは、「人間/文明の人間に対して行うカタストロフ」という思念に行き着くに至る。七〇年代は、全国規模の公害反対運動の起点にもなった。もちろん、核兵器配備による抑止的均衡という冷戦構造が重く人々の心にのしかかっていたことも加味されなければならないだろう。
このような「人間自身による世界の破局」は、ユダヤ=キリスト教における伝統的終末論、すなわち、「神による創造という始まりと終わり」という基本的モチーフに変更をもたらした。この「神」の部分が「人間」が置き換えられた。この「始まり」に対する探求は、例えば「ビックバン説」のような宇宙物理学の学説として捉えられた。そして、「始まり」に対する対称として、「終わり」の方も科学が人間の文明を最終的に破滅に導くという形となっていく。「現代文明」という言葉自身が、「未来に対して創造的である」という従来のイメージを変更して、「暴力と破壊」をイメージさせるものに変質して行ったとも言えよう。
十九世紀の楽観主義的科学主義のコンテキストの中では、個人の「私事」として、極めて内在的な宗教思念として保たれていた「終末論」が、人間が神の“代行”を行うことができるという観念へと変更されることとなった。この時に、「私事」としての「終末論」は、人類の破局、歴史の終焉というグローバルな視点を持つ全く別の次元に属するものに変容したとも言えるであろう。
現代の「終末論」は、その受容の濃度によって階層化されている。その最も極端な現れとしての、終末を「熱核兵器による終末とその後の救済」という新しい「希望」を与えるという文脈も生まれている。このような文脈を、単に集合的な「妄想」あるいは「幻想」と一括処理できないのは、前述したように、まさに「事実」として核兵器の配備という極めて恣意的な危うい均衡のもとに世界が未だに置かれているからである。そして、情報化のシステムが進行した現代世界にあっては、ウィトゲンシュタインが指摘するように「世界とは関わりのあるものすべて」なのであって、世界的危機の認識は同時に個々の生活者の切実な危機認識となりうるのである。
このようにして、「幻想」としての「終末論」が特に若い世代の共通認識になっていると考えるべきであろう。現代の新宗教は、このような若者の「需要」を分析的に読み取っている。そして、片方で徹底して恐怖感を扇動しつつ、同時に「福音」を与えるというパターン化した教説を用いることが行われている。それは、現代の「終末思想」の原型である『ノストラダムスの大予言』における最後の定形言説であるところの「人類がこれまでの意識を変えれば・・・」というモチーフと同様である。
ここでは、ニューエイジ思想のキーワードである《自己の意識の変容》、すなわち、「自己変容は癒しと環境の変化をもたらす」「思考が現実を変える」「現代こそ意識進化の時代」という思想の反映が見られる。そして、もし、この《自己の意識の変容》が実現しない時に、世界は終末へ向かって崩れ落ちざるを得ないというところへ結論付けられて行くことになる。この《自己の意識の変容》の自己実現、すなわち、「自分を変えたい」という願望は依然若者の世代の共通認識なのである。
オウム真理教の「超能力獲得」というテーマの段階は、この《自己の意識の変容》の自己実現という守備範囲にあったと言えよう。
しかし、もう一つ要素として指摘しなければならないものは「ナショナリズム」の問題である。『ノストラダムスの大予言』には、しばしば「日本がこの危機を回避する重要なアクターになるかも知れない」とか「日本からこの世界を救済する何かが出現する・・・」などの文脈が登場する。オウムは、教団内に疑似国家に類するものを作ろうとしていたことが報告されている。そして、国会や皇居などへの破壊活動を計画し、特に地下鉄サリン事件では日本の行政機構そのものへの破壊活動を目的にしたとされている。また、序章で紹介したように、顕正会の場合には《他国侵逼難》というタームをかなり意図的に多用している事実がある。《本仏日蓮を迫害した国=日本》は、《仏法外護の善神の使者=外国》によってその反省と自覚を求められる決定的宿命にあり、もし、この宿命が回避されるとしたら同教団が日本における唯一の正統教団(《国立戒壇》建立)として認知されることであるという文脈が示されている。具体的には、同教団の信者はこの目的にそって《折伏(信者獲得)》に努力すべきことが求められるという構造になっている。
この一連の文脈の根本に「ナショナリズム」が隠喩されていることは言うまでもない。結果として、同教団の信者は「ナショナリズム」そのものに奉じて行くことになっている。そして、この「ナショナリズム」は、近代の国民国家形成のイデオロギーとしての啓蒙主義的なナショナリズムとは異質な「宗教的ナショナリズム(ユルゲンスマイヤー)」なのであることに注意を要するであろう。
世界的視点で、宗教が近代の制度イデオロギーに代わって、共同体の統合原理としての機能としての期待を集めつつあることについては既に述べたところであるが、実際に、日本の新宗教運動にもこれに類するカテゴリーが現れたことについては注目しなければならないだろう。いわゆる「グローバリズム化」という思想が、日本という地理的・民族的・歴史的枠組みとしての国民国家というイメージを希薄化させていることは一面の事実である。ナショナル・アイデンティティのボーダーレス化への不安と再構築欲求の顕在化であるとの観察も可能であろう。
しかし、このような特定宗教によるナショナル・アイデンティティの再構築というテーマをおった過剰な「宗教的ナショナリズム」が、その非寛容さのゆえに、「合理主義的ファンダメンタリズム(ゲルナー)」との間に衝突を見ないとは限らないという危惧をいだかされる。特に、日本のような基盤的制度宗教が一元化されていない風土にあっては、突出した「宗教的ナショナリズム」に対する制度宗教側からの対処において脆弱なままであるのではないだろうか。
いわゆる「カルト的なるもの」に対して、我々はどのように対処すべきなのだろうか。
七、カルト的なるものをめぐって
現代の宗教情況に関わるものとして、いわゆる「カルト的問題」がある。家庭から多くの若者を引き離し、学業や就労などの日常的市民生活から隔絶させるに至り、その中のいくつかは取り返しのつかない反社会的行為に至らしめる、「社会の異物」という評価を受ける存在である11)。
ニューサイエンスの宗教化、及び、ファンダメンタリズムの拡大傾向は、必然的に伝統的宗教の中にあったさまざまな「終末思想」を現実的に受け取る心性を育むことになった12)。
特に、一九世紀にアメリカで成立したアドヴェンティスト派とその分派の問題は大きいのではないかと考えている。この派は、むしろ、「終末主義」の福音派原理主義と呼ぶべき傾向を根底に備えている。伝統的なキリスト教終末論を「宇宙の激変/カタストロフィー」として捉える教義をもつ。日本にも信者の多い「エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)」もこの分派の一つである。この派の流れは、現世でこの現身において終末が来訪することを過剰に意識する。「エホバの証人」は成立以来数度の「終末の期日」を特定し、その都度「予言」が外れる度に組織を増減させて来た13)。
また、このアドヴェンティスト派は、別の分派として「セブンズデイ・アドヴェンティスト」を生み出し、さらにこの後継分派の一つが「ブランチ・ディヴィディアンズ」教団である。一九九三年にテキサス州ウェイコで起こった銃撃戦と幼い子供を含む八十人を越える犠牲者を出した凄惨な事件の記憶は新しい。
私は、ここでは「カルト」という語を避け、「カルト的」というタームをここでは用いたい。その理由は、実のところ、現時点で、我々は、「カルト」の定義付けについて決定的な手立てを持ち得ていないと考えるからである。
前述した現代の二つのニューエイジとファンダメンタリズムの思潮は、果てしない人間の欲望への、そして、その制度的現れとしての社会システム全体への懐疑と異議という方向において、共通するものであると言える。この社会のシステム、及び、それを体系付けた近代概念(例えば、民主主義や国民国家の理念)への懐疑というところに至ることも一つの必然であると言える。もし、すでに、“良識のある”ファンダメンタリズムとエコロジズムの存在が市民的な了解を受けているとするならば、その条件は、例えば「共生」というような他者受容、そして、「寛容」を前提とした関係論上の人間観について自己内面化されているか否かであろう。多様化した現代社会において、そして、特にマルチ・カルチュアリズム(多文化主義)を前提としたアメリカ社会にとって、この関係論において他者を受容して行く、そのための自分自身のリスクを背負って行くということはすでに義務以前の問題であろう。
この、例えば、「共生」という理念を受け入れられるかどうか、そして、そのために果たさなければならない自己の欲望の制御というリスクを意識できるかどうかが、ある組織が、そして、ある特定の個人の宗教的指向性が「カルト的」であるかどうかの分岐点となると考える。
この意味で、カルト的逸脱行為とは、社会的ルールの遵守への違反というレベルの範囲における批判を別にして、社会の中の人間と人間の関係論上のパースペクティブに還元して考えなければならないものとなる。要するに、カルト的なものの持つファンダメンタリズムにしてもまた神秘主義な要素にしても、関係論上のパースペクティブのある無しを除外すれば、伝統宗教においてすでに試みられたものばかりであるからである。特に、「終末論」は、その主張が現代の情況を背景にして直接言及するものである程、(特に若者には)リアルに受け取られるものであろう。また、自己の疎外感が、ある悪意ある他者による欺瞞的な行為の結果なのだと指摘されることで、自己自身が本来背負わなければならない市民としてのリスクを回避することにもなるであろう。しかしながら、それらは既に、人間と宗教の間で歴史上何度も交わされた範囲を越えるものではないと言うことである。
おわりに
現代における「宗教批判」の最も有力な手段である精神分析的宗教批判について言及しなかったことは、現代の新宗教における「終末論」を解析する上で不十分であったことは否めない。精神科医高橋紳吾氏によれば、「若者はみずからのうちに潜む発達史的課題によって危機感を抱くとき、内的カタストローフを外界に投影して、世界の破滅を予感する」として、終末論へコミットして行く若者の心性を「世界没落体験」という妄想確信の一つであると分析する。内的カタストローフ崩壊の不安とともに、例えば神との合一の昂揚感、それが、外界に投影されれば、世界の破滅とともに新しく更新されるという方向を示すものだと言う14)。
ということは、終末論には時代の閉塞的状況を乗り越えて行こうとする、つまり、更新して行くという方向性もあるということでもある。宗祖日蓮大聖人における「末法意識」は、あくまでも時代を乗り越えて行こうとする意志において、例えば「娑婆」を「寂光」に変えて行くという困難さに自ら身を委ねようとする人々を勧奨するものであるとしなければならないだろう。ともすれば、孤立感や厭世観に陥りがちな人間を勇気付け、現世そのものに生きて行く主体的意志を持つ者としての使命を見いだすことを求めているとしなければならないだろう。
この時代の閉塞感は、何も若者だけの問題ではない。産業主義と環境問題とのダブルバインドの中での課題は重い。核兵器廃絶や地雷などの一般人を巻き込む通常兵器の制限の問題。そして、もはや正常に機能しなくなった近代の諸概念、そして、それに依拠する社会システム。これらの問題解決のための「更新」の手続きについて、我々は怠惰であってはならない。このような危機において、具体的な模索が始まっている。温暖化ガスの排出基準の策定。金融制度の抜本的改革や行政制度、とりわけ、近代日本の国民国家を支えた官僚制度に対する是正などの問題への取り組みが始まっている。
しかし、確かに、この更新のための手続きは容易ではない。おそらく、若者の新宗教への、とりわけ、終末論にとらわれて行く心情は、この手続きのスピードの遅さへの「いらだち」(あえて若者に広く行き渡った表現をすれば、「ムカツク!」)を表象しているように思われる。
現在のオウム真理教が、信者からの資金集めのための言説として、「近く日本経済は破綻するので借金してでも布施するように」(公安調査庁の発表文書 前出)と言っていることが大変興味深い。他の教団においても、世界の終末を前提としてこの世における人間としての努力の意味を無化しようとする。
さて、社会学者クリフォード・ギアツの宗教論に従えば、宗教は「制度」である15)。
我々の時代の「制度」が、新しい宗教の在り方に投影し決定している。したがって、オウム真理教などの現代の新宗教の「終末論」は、我々の社会の「制度」の投影としての終末論以外の何物でもない。しかし、だからと言って、すべてを破壊した後に新しい「制度」を作るのだという想念が正しいのではないことを若い世代に伝える義務が我々にはあるということである。
註
1)『宗教の復讐』ジン・ケペル 晶文社 一九九二 を参照。
2)|a『ナショナリズムの世俗性と宗教性』M・K・ユルゲンスマイヤー 玉川大学出版部 一九九五
2)|b『近代社会の公共宗教』ホセ・カサノヴァ 玉川大学出版部 一九九七
ユルゲンスマイヤーは、先進国の「世俗的ナショナリズム」に対抗するものとして、途上国の「宗教的ナショナリズム」に向かう動きの内に、世界的な「宗教の復権」の現状を捉えようとしている。このような捉え方によると、現在欧米で問題となっている「イスラム原理主義」の台頭という問題は、他の非キリスト教を基盤とする諸国のナショナリズム形成に影響を与えるものであることになる。
ホセ・カサノヴァは、逆に、キリスト教を社会基盤とする一部の欧米や東欧、中南米やフィリピンなどで、「公的宗教」というべきものの台頭が著しいと指摘する。このような地域では、カトリックや福音派根本主義のプロテスタントなどの形で、実質的な政治要求をして行くような動向にあると言う。
これらの傾向が、七〇年代の中盤あたりから世界同時多発的に起こっていることを考慮すると、全体として近代の啓蒙的合理概念についての信頼の凋落として見ておく必要がある。
3)「現代宗教研究」第三十一号所収 拙稿「カルト認定の問題〜フランス国民議会ジャック・ギュイアールレポート〜」
ヨーロッパ諸国における「カルト(セクト)」問題への取り組みの現状の一端について報告した。カルト問題が、現代社会に共通の課題であり、若者をそのような《被害》からいかに防衛すべきかが国家的プロジェクトとして取り組まれるべきことが提言されている。
4)『新宗教時代』D所収 「カルトと終末思想」越智道雄 大蔵出版 一九九六 越智氏は、六〇年代のカウンターカルチャーから八〇年代ニューエイジまでのアメリカ社会における思想状況を俯瞰しながら、それが宗教を巡る状況についても密接な結び付きがあることを浮き彫りにする試みを行っている。高度管理社会の到来にともなって、その抑圧(「非人間的かつ空疎な不安」)からの解放を「幻想的に解決」するものとして《宗教》に対する期待感が高まったと分析する。この広い需要に対して、カルトや原理主義、さらには疑似宗教が対症療法的に増え続けていると指摘する。
5)|a『現代救済宗教論』島薗進 青弓社 一九九二
5)|b『精神世界のゆくえ』島薗進 東京堂出版 一九九六
島薗進氏は、アメリカのニューエイジ運動や日本の「精神世界」を含んだ先進諸国を中心に世界的発展しつつあるより広い範囲の個人的霊性追求運動を総称する用語として「新霊性運動」(『新宗教時代』D一七六頁)と呼ぶ。この「新霊性運動」の展開を軸にして他の宗教を含む思想運動を位置付けようとしている。
6)|a『宗教から読む「アメリカ」』森孝一 講談社 一九九六
6)|b『新宗教時代』D所収 「カルトと終末思想」越智道雄 大蔵出版 一九九六 森孝一は、福音派根本主義派を含む「新宗教右翼」が、政治的にも批判の対象とするのは、「世俗的人間中心主義(humanism)」「伝統的な家族を守ること(Pro-family)」「アメリカ至上主義」の三点であるという。この運動が社会的関心を集めたのは、六〇年代以降のアメリカ社会の道徳の崩壊に対する危機感があったからである。レーガン政権がこの道徳的混乱に対して示した「古き良きアメリカ」というテーマは、これも「一九六〇年代、七〇年代の「対抗文化(カウンターカルチャー)」に対する「カウンター(対抗)」であり、復古主義にすぎなかった 二一三頁」という。
7)『タオ自然学』F・カプラ 工作社 一九八〇
8)『現代日本の宗教』共著 新泉社 一九八五
田端稔氏は、「戦後三期と『宗教回帰』」という論考で、マルクス主義の立場から現代日本の宗教を批判的に分析し、「現代物理学が東洋の神秘思想への回帰を行いつつあるとする『ニューサイエンス』運動というイデオロギー運動もある。もっと通俗的形態を含めれば、科学自身の神秘主義化、オカルト化、SF化、つまり科学の疑似宗教化のこの傾向は、宗教の疑似科学化と連動しつつ、『反科学』よりもはるかに強い吸引力を若者達に対して持つ」という。
9)|a 岩波講座 現代社会学七 『〈聖なるもの〉と〈呪われたもの〉の社会学』共著所収 「現代宗教と軸の時代―救済宗教の位置をめぐって」島薗進 七七〜九二頁
9)|b 『ファンダメンタリズムとは何か』 井上順孝・大塚和夫編書 新曜社 一九九四
9)|c 『原理主義とは何か』 西谷修・鵜飼哲・港千尋共著 河出書房新社 一九九六
「原理主義」ということばの使用については慎重であるべきである。この言葉の持つ負のイメージ(例えば「反現代主義者」)は、主として西欧のジャーナリズムから出されて来たものであり、このユーロセントリズム的な「先入観/偏見」に対する批判も行われている(『イスラム報道』エドワード・W・サイード みすず書房 一九九六)。この意味で、論者としては「ファンダメンタリズム」をそのまま用い、その訳語としての「原理主義」ということばを極力用いないようにしなければならないと考える。
10)『新宗教事典』井上・孝本・対馬・中牧・西山編 弘文堂 一九九〇
創価学会を例にとると、八〇年中盤を境にして以前の根本主義的な教義(例えば「国立戒壇」や「宗門離脱」)を引き下げ、「脱根本主義」の流れを作るようになる。また、立正佼成会は、「宗教間対話」という路線で「寛容」や「共生」理念を強調しようという方向への脱皮を図ろうとした。これらに共通の課題は、「脱根本主義」と「脱呪術(神秘)主義」の在り方、すなわち、表現主義や教養主義への移行によって自ら「世俗化」あるいは「合理主義化」の方針を打ち出すことで社会の批判をかわし、組織の動揺を緩和しようという教団の現実主義的な戦略として考えるべきであろう。しかし、これらの「脱根本主義」と「脱呪術(神秘)主義」は、新宗教運動としてのポテンシャルを減じて行くこととなり、もはや、かつての爆発的な教線の拡大は見られない。そして、新しく登場した「新・新宗教」に宗教運動としての中心的位置に世代交代することとなる。
11)|a「現代宗教研究」第三十一号所収 拙稿「カルト認定の問題〜フランス国民議会ジャック・ギュイアールレポート〜」
11)|b『現代宗教の反近代性 ―カルトと原理主義―』阿部美哉 玉川大学出版部 一九九六
11)|c『なぜカルト宗教は生まれるのか』浅見定雄 日本基督教出版局 一九九七
11)|d『オウム・超常信仰と科学』日本科学会議編 浅見定雄他共著 清風堂書店出版部 一九九七
11)|e『カルト』マーガレット・シンガー 飛鳥新社 一九九五
11)|f『カルトの構図』フーゴー・シュタム 青土社 一九九六
11)|g『宗教とナショナリズム』中野毅・飯田剛史・山中弘共著 世界思想社 一九九七
オウム真理教事件の報道で「カルト」という言葉が人口に膾炙したが、「カルト」という語義についてスタンダードな定義がなされているのではないのが現状である。
アメリカには市民社会の中に根強い「反カルト運動」が存在し、積極的に「破壊的カルト」の実態について専門的な立場から報告がなされている(e)。また、ヨーロッパ(フーゴー・シュタムはドイツのジャーナリスト)でもこのカルト問題に対する社会的関心が高く、啓蒙的な立場から提言がなされている(a・f)。
反対に、この「反カルト運動」に対して基本的人権としての「信教の自由」に対する侵犯とする反対意見も強い。特に「反カルト運動」が根拠とするカルトが信者を対象に行うとする「マインドコントロール」の実体性については疑問を呈する意見もあり、司法においても一方的に「反カルト運動」側に有利な判断が下されているのではない。日本でもアメリカの「反カルト運動」に対する批判的な意見を紹介する論考が出されている(g)。
中立的な立場からは、文化庁の「宗教問題調査審議会(一九九五年〜二〇〇一年までの六年間)」の委員の一人でもある阿部美哉氏の論考(b)が出されている。日本の行政側としての一定の理解の形式を反映しているが、抽象的である感もある。
論者としては、(c)及び(d)の浅見定雄氏の「破壊的カルト」に関しての論評を判断基準の標準として置きたいと考える。当事者である本人(信者・元信者など)あるいはその家族などが“被害”を感じている場合に、その“被害”をもたらした対象となる教団をその“被害”を与えたという事実的意義において、「カルト的である」という認定を下す態度をとりたいと考える。
12)|a『世紀末 神々の終末文書』草野巧 新紀元社 一九九七
12)|b『地中海 終末論の誘惑』蓮實重彦・山内昌之編書 東京大学出版会 一九九六
ユダヤの伝統的終末論における、終末へのプログラムは例えば『ダニエル書』によれば、次のようにまとめられる。
◆「最後の審判」↓「神の玉座」↓「神の計画の開始」↓「四つの世界帝国の勃興と滅亡(四番目の“獣”=ギリシャ帝国)」↓「人の子の降臨」↓「永遠の国の成立」
また、現代の終末論に最も影響を与えているものは、キリスト教黙示文学として唯一新約聖書に収録された『ヨハネの黙示録』の描く終末である。五島勉氏も、ノストラダムスに関する著作の中にこのヨハネの黙示録系統のアポカリプスのモチーフをしばしば援用し、最も日本において知られているモチーフである。
◆「イエスによる封印解除」↓「七番目の封印解除と七人の天使の登場」↓「七番目の天使のラッパとともに終末の到来」↓「キリストによる千年王国の樹立(至福の時代)」↓「サタンの復活と最終戦争」↓「最後の審判」↓「エルサレム(新しい天地)の降臨」
13)|a『新宗教時代』C所収「エホバの証人―ハルマゲドンと輸血拒否―」大泉実成 大蔵出版 一九九五
13)|b『エホバの証人 カルト集団の実態』 ウィリアム・ウッド 三一書房一九九七
14)現代の宗教八『超能力と霊能者』 高橋紳吾 岩波書店 一九九七
15)『二つのイスラーム社会』クリフォード・ギアツ 岩波書店 一九七三
アメリカの社会学者クリフォード・ギアツは、一九六八年にイスラム世界の東端と西端にあるインドネシアとモロッコの現地調査を行う。他の宗教との比較上、一元性が高いと見られていたイスラム教が、全く異なった現れを示していることを発見する。その結果として、宗教を支えるものは「イメージ」と「制度」であり、ある宗教の本質は様々なイメージとメタファーの中で具現化するという見方を示す。さらに、宗教の歴史的展開過程は「制度」に依存するという。すなわち、「制度」が可変的であるならば、その受容される宗教も可変的であるということになる。
現代が、近代から脱近代(ボストモダン)への移行期であるとするならば、すなわち、社会制度/社会システムの改編期であるとするならば、宗教もまたその制度の変化に対応して大きく様変わりする可能性を有しているということになる。
※本稿は平成九年十月二十五日、立正大学において開催された第五十回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものに加筆したものである。
Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.