日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第32号:175頁〜 研究ノート ←前次→


 日蓮聖人「立教開宗」における
     妙見尊と虚空蔵菩薩の関係

石川修道
(現代宗教研究所研究員)
      一、明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり
 日蓮聖人は建長五年(一二五三)四月二十八日、安房国清澄山にて「立教開宗」した。清澄の地は、宗祖が十二歳にして登山、のち発心得度した霊地である。
  『生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給ハりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思シ食シけん。明星の如クなる大宝珠を給ヒて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗ほぼ是を知りぬ1)。』
 宗祖と虚空蔵菩薩の出合い、接点は少年期から始まっている。虚空蔵菩薩は梵名Akasa-garbha(阿迦蘗婆)といい、アーカーシャは天空・虚空。ガルバは胞胎蔵を意味し、「虚空孕」と訳される。広大無辺の功徳を包蔵していることが虚空のようであることから虚空蔵菩薩といわれる。その具有する五智を表わした五大虚空蔵菩薩があり、一)法界(解脱)虚空蔵、二)金剛(福徳)虚空蔵、三)宝光(能満)虚空蔵、四)蓮華(施願)虚空蔵、五)業用(無垢)虚空蔵があり、清澄寺は能満虚空蔵菩薩と伝わる。
 また虚空蔵菩薩の化身は「明星天子」といわれ、脇侍は「雨宝童子」といわれる。虚空蔵菩薩は、日・月・星・雨・雷等の自然現象に関係する。宗祖の星信仰(虚空蔵信仰)が自然現象の天変地異に注目し、のち『立正安国論』に取り上げられる「日月失レ度 時節返逆」の先駆的思想となっている。
 『法華経序品第一』には、「復有名月天子、普光天子、宝光天子」と天の三光天子が登場し、明星天子は「普光天子」の名で会座に列なり、帝釈天に率いられて法華経の行者を守護する。『法華文句』巻二下には、
  『名月等の三光天子は是れ内臣、卿相の如し。或いは云く、是れ三光天子のみと。名月は是れ宝吉祥にして月天子大勢至の応作なり。普香は是れ明星天子にして虚空蔵の応作なり。宝光は是れ宝意にして日天子観世音の応作なり。』
 明星天子の本地は虚空蔵菩薩と説かれ、天台宗においては『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」を説き、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社神は三光天子の垂迹と説き、天台教義の中で三光天子は山王信仰と結びついている。千光山金剛宝院清澄寺は、宝亀二年(七七一)不思議法師が虚空蔵菩薩を刻み開創、桓武天皇の勅願所で慈覚大師が承和三年(八三六)中興したと伝わる。日蓮聖人は、清澄寺修行期に「虚空蔵求聞持法」を会得し、智恵を表す摩尼(如意)宝珠を感得し、一切経の勝劣を知った。「求聞持法」とは「聞持」を求める法であり、「聞持」とは、「憶持不忘」、つまり一旦聞いたことは永久に忘れないこと、記憶力の獲得である。その虚空蔵菩薩への報恩のために立教開宗の地を清澄山に決したとされる。
  『虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東條ノ郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申ス者並に少々大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申ス2)。』
 日蓮聖人の星信仰(三光天子)は、是聖房蓮長より「日蓮」と改名自称するときにも関係する。
  『明かなる事日◎月◎にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日◎月◎と蓮◎華◎となり。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日◎月◎と蓮華との如くなり3)。』
  『日蓮となのる事自解仏乗るも云ツつべし。…経ニ云ク、如日◎月◎光明 能除諸幽冥4)』
 また、宗祖の星信仰(三光天子)は必ず法難と関連してくる。更に五綱教判の基礎理念ともなる。伊豆法難(一二六一)に、
  梵天・帝釈・日月・四大天王等5)
という宗祖の法華経守護神観が確立され、日天子法門へと発展してくる。伊豆で発表される『教機時国抄』の五綱教判は、神力品「如日月光明」の前文が依用される。
  如来ノ滅後ニ於テ――――――知時
仏ノ所説ノ経ノ ――――――知教
因縁――――――――――――知機
           ―――知国
オヨビ
次第ヲ知ッテ――――――――知序
義ニ随ツテ実ノ如ク説カン。
日月ノ光明ノ、能ク諸ノ幽冥ヲ除クガ如ク、斯ノ人世間ニ行ジテ、能ク衆生ノ闇ヲ滅シ、無量ノ菩薩ヲシテ、畢竟シテ一乗ニ往セシメン―――法華経行者
 文永八年九月十二日(一二七一)龍口法難後、佐渡守護・武蔵守大仏おさらぎ宣時の家臣、守護代・本間重連の依智の館にて月天子の使いとして明星天子が下る。
  『九月十三日の夜なれば月大にはれてありしに、夜中に大庭に立チ出でて月◎に向ひ奉リて、自我偈少々よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経のあら<申シて、抑モ今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし……いそぎ悦ヒをなして法華経の行者にもかはり、仏勅をもはたして、誓言のしるしをばとげさせ給フべし。……いかに月◎天◎いかに月天、とせめしかば、其しるしにや、天より明◎星の如クなる大◎星◎下リて前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろへにげぬ6)』
 龍口法難その時には、
  『江のしま(島)のかたより月◎のごとくひかりたる物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる7)。』
 以上の超常現象により斬首の法難をのがれたとされる。
  『三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ、龍口の頚をたすけ、明星天子は四五日巳前に下て日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ8)。』
 流刑地の佐渡においては、三光天子を「天」と表現する。
  『設ひ大梵天として色界ノ頂に居し、千眼天といはれて須弥ノ頂におはすとも、日蓮をすて給フならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいづるごおはせじ。此罪をそろしとおぼさば、いそぎいそぎ国土にしるしをいだし給ヘ、本国へかへし給へと、高◎き◎山◎にのぼりて大音聲をはなちてさけびしかば、九月十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり。かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将どもよしなく打チころされぬ。天◎のせめと、いう事あらはなり。此にやをどかれけん。弟子どもゆるされぬ。而レどもいまだゆりざりしかば、いよ<強盛に天◎に申せかば、頭の白キ烏とび来リぬ9)。』
 宗祖には、外で(高き山)三光天子を拝む信仰型態がある。清澄山における立教開宗の唱題誓願もそうである。現在は日天子を拝むことが中心に理解されているが、旭日昇天の前の暗きうちから日蓮聖人は山頂で拝んでいる筈である。その時は月天、明星(虚空蔵)、あるいは北辰妙見を拝んでいる筈である。夜が白しらみ始め、月天、明星が姿を消して、日天が昇るのである。虚空蔵求聞持法により「日本第一の智者となし給へ」と祈った日蓮聖人が、月天・虚空蔵(明星)を忘れる筈がない。佐渡において日蓮聖人が「夜もひるも高き山に登リて、日月に向ツて大音聲を放ツて呪咀し奉る。其音聲一国に聞ふと申ス10)。」佐渡守護の大仏宣時(武蔵守)は、宗祖の山頂唱題(外拝そとおがみ)を呪咀と恐れた。宗祖の外拝み(星信仰)は大音声で行われたらしい。周囲の人々が驚いたのは無理ないであろう。身延期の思親閣(奥之院)での故郷房州遙拝、富士山経ケ岳に法華経埋経一百日の祈願伝承も、宗祖の信仰基盤に星信仰(外拝み)が存したからである。
 建治二年(一二七六)七月、四条金吾の釈迦仏開眼に際し、四条氏が四月八日より七月十五日まで日天子礼拝したことにつき、
  『御日記ニ云ク、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕ヘさせ給ふ事。大日天子と申スは宮殿七宝なり。……日月天の四天下をめぐり給フは仏法の力なり。(中略)法華経の序品には普香天子(明星)とつらなりまします。……日蓮モ又此ノ天◎を恃たのみたてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地す。利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず11)。』
と述べて、建治二年の時点でも日蓮聖人は、日天子を含む三光天子(星信仰)を重視され、「此ノ天を恃たのみたてまつり、利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず」と、四条氏を教化している。清澄寺は、「明星の井戸」、「虚空蔵菩薩」、「妙見尊」を祀る星信仰の山岳修験の道場であった。
(清澄の図)
     二、安房国とその領主
 立教開宗の地、安房国は斉いん部べ広成の『古語拾遺』によれば、天富命(アマノトミノミコト)が神武天皇の命を受けて、四国阿波忌部いんべの祖・天日鷲命(アマノヒワシノミコト)の後裔を率いて四国阿波に赴き、穀かじと麻を殖培し、更に房総半島に上陸し、土地を開拓し穀と麻を育成したことに始まる。麻の古語が「総フサ」で、安房、上総、下総の三国とも「総フサの国」と呼ばれた。天富命は安房に祖神の天太玉命(アマノフトダマノミコト)を祀ったのが安房坐神社であり、延喜式によると安房四郡(平へぐり、安房、朝夷あさひな、長狭)は神郡となっており、神社の所領であった。天太玉命(金工神)は天児屋根命と共に天照太神の重臣で、天孫邇に邇に芸ぎの命みことに従い高天原より葦原中あしはらなかつ国(豊葦原の瑞穂みずほの国)へ降り立った神である。国家祭祀の神へ奉る種々の幣帛へいはく(麻、鏡、玉、矛盾、刀、斧)などを司る。安房開拓の祖・天富命の墳墓は安房神社より東北三十五キロメートル、清澄山の西隣の富山にあり、その廟所が清澄の妙見山であった(明治の神仏分離令により天富命廟所は下の小学校近くへ移る)。
 清澄山は標高三四七メートル、安房分水嶺山脈の中心地で、清澄山系は冷たい北風を遮り、南は黒潮の暖かい風を迎えて気候温暖、年降水量二〇〇〇ミリの多雨地域である。清澄寺は摩尼山(妙見山)・宝珠山・如意山・露地山・金剛山・鶏けいもう山・独鈷山・富士山(浅間山)の八名峰に囲繞され、台密、真言の回峰行、星信仰の道場(虚空蔵求聞持法)であった。五十四代仁明天皇の承和三年(八三六)に慈覚大師円仁が来山し、虚空蔵求聞持法を修し、祠堂二十五、僧坊十二の名刹となった。円仁は清澄寺の前嶺に露地檀を築き求聞持法を修したので露地山と称し、独鈷を投じた山を独鈷山といい、南嶺に棲む怪物を法力で退治して鶏山、不動明王を安置して金剛山、北嶺に浅間菩薩を祀って浅間山(富士山)と命名したと伝える(大川善男博士の資料提供によると)。
 荘園志『安房国』によると、
  群房荘へぐりあは
養和元年(一一八一)院廳下文に見えて、新熊野いまくまの社領なり、平郡二郡に瓦るを以て、かく云ふなり。
  新熊野社文書曰、云々。養和元年十二月八日。
  ○東鑑曰、建久六年(一一九五)七月廿四日、新○熊○野○領○安房国群房荘領家年貢事、有去年末済之由訴出来、
  ○相模大船村熊野別当多○聞○院○文書曰、新熊野社領安房国群房荘事、相伝領掌、不可有相違者、院宣如比、仍執達如件、貞和二年(一三四六)五月廿四日、権大納言、柳原資明。亮大僧都御房。
とある。またこの当時の安房国知行国主は、藤原経房が長寛二年(一一六四)二月二十八日より就任し、国司の安房守は藤原有経、藤原定経、藤原定長へと続いてゆく。清澄の属する安房国群房荘は、天皇の護持僧・京都新いま熊野社領である。いわば天領と同じである。その別当寺(神宮寺)が大船村の真言宗多門院であり、多聞院は虚空蔵信仰である。
     三、熊野信仰と清澄山
 清澄寺を含む平へがり群、安房の二荘の領主が新いま熊くま野の社しゃであり、別当寺が相模国大船村多聞院であれば、房州に熊野信仰が流入したのは当然であろう。清澄山の西方に鋸山がある。法相宗を学んだ行基により日本寺が開創されたと縁起にある。元来法相宗の僧は、護命や勝真、神叡の如く吉野の山寺へ求聞持法のため入山する者が多くいた。火砕岩層や凝灰角礫岩から成る鋸山は、長年の風水蝕で鋸歯のような奇形を呈し、断崖を作り絶好の山岳修行の場であった。第四十五代聖武天皇の代、光明皇后の発願(東方・薬師如来信仰)により、行基を東方に遣して霊山を求めさせた。行基は房総に至り三尊来迎の山姿を鋸山三領にみて、山領の中央を薬師の異名瑠璃光如来にちなんで瑠璃山とし、左右の山領を日輪山・月輪山と名づけ、薬師如来を安置し神亀二年(七二五)堂宇建立、日の本に象かたどって日本寺と名づけた。良弁僧正や空海が来山し、慈覚大師円仁は薬師如来、日光・月光・十二神将、十一面千手観音、仁王像を造った。日本寺は円仁の後天台宗となり、中世天正期に富浦正善院配下の修験寺となり、正保四年(一六四七)勅特賜普照禅師によって曹洞宗に改宗した。
 関東の三大修験名山は、榛名山・筑波山・鹿野山である。房総における三修験霊場は、鹿野山・鋸山・清澄山である。特に鹿野山は熊野修験の東国布教の総本山である。神野寺背後の中岳は、熊野峰と呼ばれ、修験ゆかりの地名が多く残っている。「鹿野山八塚」には入定塚、火定塚、行人塚があり、金比羅祠や、天狗杉などがある。
 真言宗の聖宝(八三二−九〇九)は金峯山を開いて金剛蔵王を勧請し、醍醐三宝院を創し「当山派修験」と呼ばれ、真言山伏という。天台の増誉は寛治四年(一〇九〇)、白河法皇の熊野行幸の先達をつとめ、熊野三山の検校に補され、京都聖護院を建立し熊野三所権現を勧請し「本山派修験」の天台山伏といわれる。天台山伏は聖護院を本所とし、熊野より大峯に入り修行する。これを「順の峰入り」と称し、真言山伏は三宝院を本所とし、大峯より熊野に入り修行する。これを「逆の峰入り」と称す。
 熊野三所(社)権現とは、左方=国常立尊−本地・金剛界大日如来。中央=彦ひこ火ほ火ほ出で見み尊−本地・虚空蔵菩薩。右方=国狭槌尊−本地・胎蔵界大日如来である。
 彦火火出見尊は、日子番能邇邇芸ひこほのににぎ命と木この花はな之の佐さ久く夜や毘ひ売めとの間に生まれた神で、本名は火遠理ほおり命。一般的には山幸彦の通称である。山幸彦は兄の海幸彦の釣り針を持って海に出かけたが、一匹も釣れず、それどころか大事な針を海中に落としてしまった。海幸彦に責められた山幸彦は塩椎しおつち神のいう通り綿わだ津つ見み神の宮に出かけ、ワダツミ神の娘・豊とよ玉たま毘ひ売めと出合い結ばれる。山幸彦の釣り針の件を聞き、ワダツミ神は鯛の咽に引っかかった針を取り出して山幸彦に渡し、海幸彦に返す時の呪咀の言葉を教えて地上に帰した。山幸彦はワダツミ神の教示により海幸彦を苦しめ、ついに海幸彦は山幸彦の守護人と仕えることになった。古事記では九州隼はや人と族の朝廷への服従を山幸彦と海幸彦に凝して描写している。また日本書記によれば、孫である神武天皇の諱いみなは「彦ひこ火ほ火ほ出で見み」である。初代天皇は象徴的に日ひ子こ穂々手見ほほでみ命そのものであった。豊葦原とよあしはらの瑞穂みずほの国の統治者としての日子番能邇邇芸命と神武天皇とをつなぐ重要な位置を占めている。
 このように、彦火火出見尊(山幸彦)――初○代○天皇――本地虚空蔵菩薩――明星天子という真言・台密の熊野信仰の理解の上で日蓮聖人は、虚空蔵菩薩と接合した故に、「日○本○第○一○の智者となさしめ給え」というマクロ規模の「発願」となるのであろう。
 また山岳修験がその本拠を吉野・金峰山におき、「金剛蔵王権現」を祀る。金剛蔵王権現という仏教に存在しない仏は、「埋蔵する金属を支配する王」の意味が真言の山岳修験にあったと考えられる。「金峰山」は鉱山である。修験道と金属は関係が深い。
     四、虚空蔵菩薩と鉱山神
 弘法大師空海の出自は佐伯氏の父と阿刀氏系の母との間に讃岐国(香川県)多度郡で生まれた。佐伯とは砂鉄堀りをする砂剥さとぎ↓サヘギの技術者で、常陸国風土記によると「香島郡に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。それが茨城の語源である」という。この敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられた。母方の阿方氏は、中国華南地方から南九州に渡来したアタ族の系統ではないかと思われる。航海、幡織、金属精錬の技術に秀でていた。採鉱部族の佐伯氏と南の技術集団アタ族の家系から弘法大師は生まれたため、彼は真言僧のみならず、土木、採鉱、医薬の智識を持つ人間だった。空海が産鉄民であるとの伝承は、高野山開創のとき、大師をこの山へ導いた二匹の犬である。その犬は高野山の地主神、狩場明神の使いだったことから判る。狩場明神の母は「丹にゅ生う都づ毘ひ売め」という丹生にゅう(水銀)を司る鉱山神である。
 清澄寺を再建した中興の慈覚大師円仁は、下野国(栃木県)都賀郡の壬生みぶ氏の出自である。鬼怒川、姿川、黒川、思川の近くで採鉱する産鉄系の出自と思われる。桓武天皇より征夷大将軍となった坂上田村麻呂(七九七年)の蝦夷討伐のあと、仏教を布教する一団が東国に千手、十一面観音の観音信仰と鉱山神の虚空蔵菩薩、妙見尊信仰を広めるのである。その仏教集団には、数多くの「円仁」たちがいた。多くの天台僧は布教師兼産鉄民(山伏修験)だった。円仁が開創した山形県山寺(立石寺)には懸け造りの五大堂がある。土地を寄贈した老狩人・磐司伴三郎はこの地を支配する産鉄民の頭領だった。
 坂上田村麻呂は観音信仰により、京都に懸け造りの音羽山清水寺を開創する(七九八年)。本尊は十一面千手観音。清澄山系を源流とする夷隅川の千葉県夷隅郡鴨根にある板東三十三番札所の二十二番は、京都と同じく音羽山清水寺(天台宗)という。熊◎野◎権現の霊力により伝教大師はこの地に導かれ、十一面観音を祀り、坂上田村麻呂が開創する(八〇七年)。のちに伝教大師の志を慈覚大師が継ぎ、当地に来て楠木の千手観音を刻み、庵に安置して帰京する。この夷隅川沿いの清水寺は川砂鉄採鉱の中心地であったと考えられる。慈覚大師が清澄寺再興のため来山したのは、ちょうどこの時期だろう。『岬町史』によると、夷隅川河口には砂鉄業の昭和砂鉄(株)太東工場が太東町和泉に昭和二十年の終戦まで経営し、乾式選鉱機により砂鉄を採取、日産砂鉄一〇〜一五トンであった。砂鉄の鉄分含有量はFE六五で日本でも有数の優良砂鉄地帯として知られていた。従業員は四〇〜八〇名ほどである。昭和二十三年二月、前の昭和砂鉄(株)太東工場を継承して「太東工業株式会社」が設立され、湿式選鉱機により日産砂鉄一五〜三〇トンであったが、昭和三十年に至り、需要が減少し操業を中止したとある。
 夷隅川流域の大多喜町古墳、大宮氏旧宅裏山古墳からは、半円方格帯神獣鏡が勾玉、鉄鏃、馬具片などと発見されている。
 小湊と興津と勝浦とを三角に結んだ線の頂点に立つ、県指定上野村の大椎で知られた土地は、古新田・大森・赤羽根・中里・上植野である。夷隅川に注ぐ小河川が何本もあり肥沃な土地で、古来から房総開拓した天富命の忌部いんべ族(斉部)の本拠地ではないかと言われている。この地は清澄山の東方で、勝浦市植野を囲むように熊野社が五つある。同市の守谷の海岸では、現在日本冶金(株)が操業している。小湊、興津、勝浦の三港は、古代人が黒潮に乗って船で西より東上したとき、太平洋岸に船を接岸するには最も都合好い場所であり、清澄山の東側は古代文明の宝庫として今後の調査が期待される12)。
 虚空蔵菩薩は梵語で「アーカーシャ・ガルバ」(Akasa-garbha)、アーカーシャは虚空と訳され、アーユルヴェーダ(インド医学)では雲母を指す。密、酥、牛乳と共に症状に応じ服用する。虚空蔵求聞持法は雲母を用いて記憶力を伸ばす技法である。アーユルヴェーダでは水銀と雲母は記憶力増強、不老長生の霊薬である。求聞持法は善無畏三蔵(六三七〜七三五、シュバカラジンハ)によってインドより唐代の中国へ請来された(玄宗帝・開元五年・七一七)。求聞持法は『出金剛頂経一切義成就品』の抄訳とされている。「一切義成就品」の内容は、地中に埋蔵されている財宝(伏蔵)の発見と取得に関係している。金剛頂経が伏蔵(金属・鉱物)の薬種の見つけ方を、求聞持法はその発見された薬種で霊薬を調整する方法を説くものとした。つまり求聞持法は、ヨガによる精神統一の修行と、牛酥・雲母を酸化剤として神薬製造の化学的操作の二面性がある。その神薬により記憶増進することは、アーユルヴェーダ(インド医学)のラサーヤナ(不老長生術)に符合する13)。
 古代人にとって月と星は太陽信仰に先駆けて信仰されていた。月の「満ち欠け」は月日と生命の死と再生を意味していた。星は方角と季節の指標となった。夜空に煌めく星座は神秘を感じさせると共に、天変地災を司り、人間の運命を左右する。畏怖すべき神だった。日本の大和朝廷において天照太神の太陽信仰が中心になると、表の世界(太陽・常とこ世よ)が強張され、裏の夜世界(黄泉よみ・夜見・闇)は敬遠排除されてくる。天照太神の弟神たる月読つくよみ命と須佐之男すさのお命は「食物神を殺す」神として農耕起源を説明する神話に排除追放される神として登場してくる。裏の闇世界(黄泉よみ)を支配するのは星である。灯火の無かった原始古代、月の存在は昼間の太陽以上に有難く思われただろう。一方、夜空でもっとも明るく輝く「明星」(金星・虚空蔵)は、満ち欠けもし、「第二の月」であった。金星は「明けの明星・昼の明星・宵の明星」と一日三回出現し、白昼に現われることから、太陽の地位を奪う存在として、記紀神話では悪神・天津赤星(赤星あかぼし↓アマツミカボシ)と反王権の立場にされた。しかし、天照太神は昼の表世界から天の岩戸(夜の裏世界)に入り、再び出現した時、高天原と葦原中つ国に光が戻ったという。この事は、日神が星神と一如となり再生してきた事を示唆している。日神が星(北辰・妙見・太一、明星虚空蔵)と深き関係であることは、裏の世界(天の岩戸)で認識される秘儀なのである。伊勢神道の秘儀が妙見尊信仰であることは、近年明らかにされてきた14)。
 古代人は、隕石落下の自然現象から天空の星は磁気を持つ金属であると知っていた。そこから鉱山神としての星信仰が生まれたのであろう。日本神代の神である磐裂いわさけ神は、日本書記にあるとおり、イザナギ尊が香か具ぐ土つちを十握剣とつかのつるぎで斬殺したとき、その血が天空に昇り五い百お箇つ磐いわ石むらとなったときに生まれた星神である。火神香具土が五百箇いおつ石を血で染めた神々のうち、最後の神が香取神社の祭神・経ふ津つ主ぬし命である、(経津)とは物をふっつり切る意味で、国土平定に使用した太刀の神格化した名である。つまり金属である。星と金属の結合である。各地の磐裂いわさけ神社、星宮神社は祭神を磐裂、根裂神としながらも、本地は虚空蔵菩薩とする所が多い。日光〜石裂山〜大平山ラインには虚空蔵を本地とする神社が多い。東海村村松の虚空蔵も一時星宮神社と称した。足尾銅山には別所の妙見社(今の磐裂神社)があり、北斗七星の破軍星を『北斗延命経』は本地を東方薬師瑠璃仏とし、「真言」では本地虚空蔵菩薩とすることが、「岡崎妙見本縁」に説かれている。ここに妙見――虚空蔵――明星の星信仰の一体化が窺える。鉱山のある所が聖山であり、そこには虚空蔵・妙見尊が宿り、鉱物は星から養分を与えられ育成され、星神の神託により鉱山が開拓されたのである。戦国大名が大規模に鉱山採掘する以前は、山岳修験者の開発する所であった。鉱山と虚空蔵信仰は明瞭に結びついている。若尾五雄氏の「鉱山と信仰」は次の如く紹介している。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野町丹生川)   水銀・銀を産する波佐見鉱山
虚空蔵尊 冠嶽(鹿児島県串木野市)    金・黄鉄鉱・輝銀鉱の芹ケ野金山
虚空蔵山(広島県浅口郡里庄町大原)    銅山、近くに金山集落あり
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)     金鉱、宝加勝・東川・大西・奈半利鉱山
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)   鉢ケ嶺、マンガン鉱その他
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺) 含銅黄鉄鉱
虚空蔵尊(徳島県阿南市加茂町大龍寺)   水銀鉱
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂明星輪寺)   金生山、金・銀・銅・水銀
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山金剛証寺)  銅・クロム・コバルト・ニッケル・鉄を含むカンラン石・ハンレイ岩からなる
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)      銅山・マンガン
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)     鉄鉱(砂鉄)
虚空蔵宮(栃木県下都賀郡金井町金井神社) 金の出る井戸の伝えから小金井郷と称す
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)   銅山、銀山川が流れる、軽井沢銀山
虚空蔵山(宮城県伊具郡丸森町大張大蔵)  山麓に金山集落がある
虚空蔵尊(山形県南陽市小滝白鷹山)    吉野鉱山、硫化鉄、亜鉛・銅・重昌石
虚空蔵尊(岩手県気仙郡住田町五葉山西宮) 金山、平泉金色堂の黄金の産地とされる
虚空蔵尊(青森県百沢村百沢寺)      鉄鉱
修験者は鉱脈の存在有無を雲母、丹生にゅうなどで察知したのだろう。虚空蔵菩薩の所持する「如意宝珠」は雲母、水銀に擬せられる。
     五、清澄、小湊、夷隅、君津の採鉱地名
 安房、上総には多くの産鉄地名が残っている。
一)小湊町―砂田、須賀神社、引土、浅間神社。
二)御宿町―須賀、浅間神社。
三)夷隅町―須賀谷、百鉾、音羽山清水寺、熊野神社、出雲神社、引土。
四)勝浦市―丹生神社、熊野神社五ケ所、守谷に日本冶金鰍り。
五)館山市・木更津市―長須賀
六)鴨川市―男金神社、(天御中主命=妙見尊)金束
七)富浦町南無谷―丹生の地名
八)君津市―久留里。鹿野山。
九)長生村―金田、熊野社。
十)白子町―剃金
(十一長柄町―針ケ谷、金谷
(十二富津市―笹毛、浜金谷
(十三鋸南町―鋸南そのものが鉄に関係
(十四千倉町―朝夷あさひなは俘囚産鉄民の居住地、
(十五富山町―産鉄族の金工神・天富命の地名。
(十六平群へぐり郡に溶鉱炉を示す「多々良たたら荘」あり。
 一)、三)、五)の「須賀スガ」とは、鉄の別称。須佐之男すさのお命が高天ケ原を追放されて出雲国肥の川に天下り、この地の国っ神の乞いを容れて八や岐またの大おろ蛇ち(先住の産鉄豪族)を打倒し、稲田毘売ひめを妃とし「須賀宮」を造る。この地は清田せりたの古代製鉄所の近くの場所である。神奈川県の横須○賀○、龍口寺近くに浜須○賀○がある。「引土」とは砂鉄を採る砂取りである。八)の久留里くるりは清澄山の裏側の小櫃川沿いの地名。久留とは製鉄ルートの発生地の一つアラビア語源Kur(クウル)・溶鉱炉の意。陸奥国の俘囚鍛冶場の多くは「久留」の名がつく。朝鮮語クル()は鉄○製の器を意味し、高句麗には久留の地名が多くある。養老川河口には宮地鉄工所、三井造船がある。現在、小櫃川河口近くに新日本製鉄君津工場、日本金属がある。八)鹿野山の「鹿」は、日本古代製鉄史において「鹿」が出たら「鉄」と理解するのは常識とされている。タタラ炉の火力は鹿皮のフイゴが最良とされていた。産鉄発生のペルシャ語でShuga(スカァ=牡の鹿)が日本語のシカ(鹿)に転じたと考えられる。「冶金」をアラビア語でmadani、ペルシャ語でkaniと言うのが、日本語の探鉱が狩猟に転ずる「またぎ」、kaniが日本語の鉄をいう金(かね)に転じたと考えられる15)。「香島の大神」が藤原氏によって「鹿島神宮」に替字させられるのも製鉄が絡んでいる。製鉄技術はトルコ半島のヒッタイ帝国が亡んで、秘密にされていた技術が紀元前一二〇〇年以降、世界中へ拡まり、製鉄用語がのちに日本に流入したのだろう。(十四の朝夷あさひなは、大和朝廷の捕虜となった蝦夷の俘囚ふしゅう産鉄民の居住地・別所をいう。『和名抄』の駿河国益やき津ず郡(焼津)の朝夷郷に蝦夷が居住しており、遠江国城飼きこう郡にも朝夷郷がある。今の掛川市辺りで、城飼とは城養の意味。俘囚を柵の中に養い置くことをいう。朝あさ比ひ奈なの地名は今も御前崎近くに残っており、近くの小笠町には虚空蔵尊が祀られており、西方の隣町は、鉄を表わす大須○賀○町がある。小湊に流罪される前の遠州貫名家の領地の太平洋側である。安房国に朝夷郡があり、駿河国益頭部の朝夷郷にも蝦夷が住み、近接して志太郡がある。常陸国の信太郡に朝あさ夷ひな郷(新利根村根本)がある。安房国朝夷郷は和田町辺りで和田町小向に俘囚の〈別所〉がある。常陸国信太郡朝夷郷の根本の西方には竜ヶ崎市〈別所〉がある。九)の金田は、字の如く鉄を吹く所である。上総一宮・玉前たまさき神社近くの南宮社は鉱山神・金山彦かなやまひこを祀る。社伝によると金田郷開発のため、美濃国タタラ師穂積氏が移住して南宮社を勧請したもの。穂積は「火津見ほつみ」でタタラ炉の火を扱う産鉄民である。全国に三千ある南宮社は刀鍛冶かじ、包丁職に信仰されている。九十九里や夷隅川など房総の豊富な砂鉄を求めてタタラ師が美濃国から移住してきたのである16)。
     六、鉄を意味する語
一)笹――大坂今宮えびすの笹、清澄寺「凡皿の笹」お酉さま熊手の笹。
二)麻(サ)・佐――清澄山の麻綿原、佐野。
三)生姜しょうが・山叔(ハジカミ)―二宮神社祭。
四)稲――稲村ケ崎、稲荷は「鋳成いなり」
五)鴨――製鉄の窯が鴨になる(鴨川)。鴨川市貝渚に鴨川鉱山が大正九年まで営業。
六)麻アサ・足・浅――足尾銅山、富士浅間神社、清澄の麻綿原、紀州朝熊あさま山金剛証寺。
七)金剛―千光山金○剛○宝院清澄寺。
八)丹生にゅう――夷隅川は産鉄地、丹生(水銀・朱)、砂鉄が採れる。
 一)の笹は、今宮えびすの笹は金かねを表し、浅草お酉とり神の本地は北辰妙見菩薩(鉱山神)で、その性の鉱物を竹の熊手で表し、熊手の中に必ず笹が飾られている。清澄寺には日蓮聖人が虚空蔵祈願したとき吐血した「凡皿の笹」がある。これは清澄山そのものが鉱山であることを表している。民謡「会津磐梯山」は、
  会津磐梯山は宝の山よ
   笹◎に黄金こがねのまたなりさがる
と歌っている。「宝」とは黄金こがねであり、笹の砂鉄である。磐梯山は産鉄地であり、周囲に金山、金堀、金田、金山、金道、福良などの地名が残っている。その隣の安達太良あだたら山はタタラ山(鉱炉)で、鉄そのもののくろがね鉱泉がある。
 二)麻・佐(サ)の麻の字は金属から読めば古代朝鮮語の鉄を示すサ○、またはソ○()であると吉野裕氏らは指摘している。清澄の麻綿原は麻の原産地と共に砂鉄産地の原であったと考えられる。香川県、徳島県の大おお麻さ山からは銅鐸が出土している。栃木県渡瀬川近くの佐○野の(サ)は砂鉄(サナ)の変化であり、佐野は天てん明みょう釜の鋳物の産地であり、勝浦市松野の長勝寺(日持上人開基)の隣町が佐野である。佐○倉市、信州佐○久も産鉄地名であり、サノがオノに転じて小野(小野田セメント)になる。
 三)生姜・山叔(ハジカミ)は「スズ鉄」の象徴で、水辺のアシ、笹、生姜の根に水酸化鉄が析出して付着する。(真弓常忠著『古代の鉄と神々』)妙見菩薩の採りものが生姜とされている。東京・あきる野市の二宮神社「生姜祭り」は有名であある。
 七)清澄寺の山号は千光山、鉱山神の一つ千手観音より由来する。千手観音を千光仏ともいう。。院号は金○剛○宝院。金剛とは金剛薩(バジュラ・サットバ)、ダイヤモンドのように堅くて不変の金属をいう。空海は梵・漢両語に通じ、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を構成して独自の神仏習合の世界を作った。採鉱冶金の神仏を金剛界に入れ、その他一切の神仏を胎蔵界に入れ、両界の頂上に本地仏・大日如来を据え、その垂迹を天御中主あめのみなかぬし命とした。
     七、清澄山は産鉄地の信仰拠点
 寛政五年十月(一七九三)の清澄山名所附九十二ケ所の記録が残っている17)。
一七七 清澄山名所附
        寛政五年一〇月(一七九三)
(表紙)
  寛政五年丑十月日改
   清澄山名所附
        当山
          役人
壱番 名所獅子岩
二番 仏供谷
三番 扇キ間
四番 佐比谷
五番 大べら
六番 慶□□(虫損)
七番 う坪沢
八番 遠矢ケ台東西江拾六間
南北江四拾五間
九番 船ケ沢
拾番 硯石
但し近江山頂
拾一番 物見山
但し木爪沢と云
拾二番 瀧之上
拾三番 児子ケ瀧
拾四番 観音之瀧
拾五番 □□(虫損)
拾六番 □□(虫損)
拾七番 上武者所
拾八番 鍛冶風尾
拾九番 鍛冶屋坂
二拾番 大久保ミ之尾
二拾一番 求聞持尾先
二拾二番 赤井尻
廿三番 金剛山尾先
廿四番 方丈沢
廿五番 [ ](虫損)
廿六番 小岩戸尾
廿七番 樽□(虫損)
廿八番 鳥(ママ)帷子峰
廿九番 但し下野森と云
下のさいと□(虫損)
三拾番 上のつけ森
三拾一番 一ノ台
三拾二番 二ノ台
三拾三番 丸山の尾先
三拾四番 一盃水□尾(虫損)
三拾五番 [ ](虫損)
三拾六番 [ ](虫損)
三拾七番 丸山の[ ](虫損)
三拾八番 山番所之□(虫損)
三拾九番 但し俗ニ次式□□□云
一盃水
四拾番 小屋場
四拾一番 高天原
四拾二番 桜ケ尾
四拾三番 道陸神ノ尾
四拾四番 久留里領江続地
道陸神番所
四拾五番 [ ](虫損)
四拾六番 [ ](虫損)
四拾七番 上宿戸
四拾八番 上宿戸尾
四拾九番 中の尾
五拾番 金剛山尾
五拾一番 金剛山
五拾二番 金剛石
五拾三番 妙見山
五拾四番 □(虫損)経堂
五拾五番 [ ](虫損)
五拾六番 [ ](虫損)
五拾七番 輪蔵□(虫損)
五拾八番 摩尼山
五拾九番 如意山
六拾ばん 求聞持堂
六拾一番 赤井□(虫損)
六拾二番 露地山
六拾三番 地蔵
六拾四番 □□(虫損)堂
六拾五番 [ ](虫損)
六拾六番 [ ](虫損)
六拾七番 船ヶ沢
六拾八番 白幡八幡宮
六拾九番 近江山清澄領但し
久留里□三又
長狭郡□□辻
七拾番 日の森
七拾一番 □(山カ)神
七拾二番 独古山
七拾三番 地蔵堂
七拾四番 独古山尾先
七拾五番 観[ ](虫損)
七拾六番 白[ ](虫損)
七拾七番 地蔵堂谷
七拾八番 八色石
七拾九番 袋峰
八拾ばん 千本杉
八拾一番 冨士見所
八拾二番 赤坂地蔵
八拾三番 一本杉
八拾四番 弓立石
八拾五番 越[ ](虫損)
八拾六番 地蔵[ ](虫損)
八拾七番 本八色石
八拾八番 音無神
八拾九番 地蔵
九拾ばん 向峰
九拾一番 前峰
九拾二番 豆腐ケ台
 清澄山名所附九十二番のうち、4、10、18、19、21、23、50、51、52、53、58、59、60、62、72、78、が産鉄地名に関係している。
 山岳修験道の法具として金剛杵しょは独どっ鈷こ杵しょとも言い、単なる仏具でなく武器であり、採鉱用のツルハシであった。「独鈷杵、金剛杵」が、のちに「ドッコイショ、コラショ」の掛け声になった。錫杖しゃくじょうの鳴輪は岩石を突くとき、音声のちがいにより鉱脈を探る検査器でもあった。
 清澄山の下に広がる鴨川海岸の嶺岡山地の心厳寺辺りは、角閃石と斜長石で作られ、少量の黒雲母と石英及びチタン鉄鉱を含み、弁天島の斑糲岩と粗粒玄武岩には、斜長石・輝石・角閃石が富み、その中に鉄、マグネシュウムを含んでいる。鴨川の貝渚字八岡に銅鉱脈が明治二十五年に発見され、大正九年まで操業した鴨川鉱山があった18)。また清澄山系を水源とする夷隅川流域には水銀が採れた。昭和四十五年大原町の土屋門次郎家で古代の多量の朱塊が発見された。丹生にゅうは朱で硫化水銀である。それは縄文土器いらい、塗料や染料に親しまれたばかりか、銅鏡の光沢面の磨研に使われ、あるいは石棺の充填物として、また薬用として用いられ、アマルガムを利用して鍍金めっきしたり、黄金を精錬した。勝浦市芳賀に丹生神社がある。初期日本の金属冶金は鉄、銅でなく水銀だった。硫化水銀の蒸気が固まったものが水銀鉱床である。朱は単に生活に利用されただけでなく、当事の呪術的悪霊を鎮める御霊みたま信仰の対象として考えられていた。神武天皇の熊野より大和へ入るルートはみんな水銀採りの跡だった。中国では鉄という漢字が「鉄・銕・鐡・鐵」をはじめ多種ある。漢以前では鉄を意味する言葉も、「丹青・丹粟・丹沙・赭しゃ」がある。丹生は鉄と水銀を意味するようになる。虚空蔵の梵語、アーカーシャ・ガルバのアーカーシャはインド医学(アーユルベーダー)で雲母を指し、雲母・水銀が虚空蔵の「如意宝珠」に擬せられる。虚空蔵求聞持法を修し、雲母・水銀などの重要鉱物を探し求めることが「智恵の宝珠」で、山岳修験の錬丹・錬金秘法であった。その重要拠点が清澄寺のシンボル虚空蔵と妙見尊である。産鉄技術の発生地のペルシャ語で宝珠たる「智恵」を「ホシ」と言う。日本語の「星」はペルシャ語からきた言葉なのであろうか。
     八、妙見菩薩と日蓮聖人
 妙見菩薩は北極星を神格化したもので、「妙たえに見あらわす」という。常に北極を指し、旅する人々の道しるべとなった北極星は、唯一不動の星として、天の中枢・天を支配する天帝(太一)として崇敬されるようになった。北辰とは具体的には北極星を含む北極五星と四輔四星からなり、これらを紫微垣しびえんとも紫微宮ともいう。地上においては天子の居所を指し、内裏の中心建物を紫宸殿と名付けている。北極五星は横一列に並び、北極・後宮・庶子・帝・太子と名付けられ、この極星を囲むように四輔(四弼)の四星が配置している。北斗七星は北極星を規則正しく巡り、つねに北極を指す星座である。伊勢神道は北斗の柄杓ひしゃく形(魁かけ)は食物を太一・天帝(天照太神)へ運ぶ食物神、或は車の形から天帝の乗物と考え、豊受大神が丹波の竹野の里から勧請され、外宮に奉斉した。天照太神への神饌は、人間が直接供えても届かず、北斗の豊受大神を通さなければ太一・北極星の天照太神に届かない。北斗七星は一時間に十五度ずつ動き一昼夜で北極星を一循し、一年で柄杓ひしゃくの柄は十二方位を示す「天の大時計」である。夏冬の陰陽と四季の推移、二十四節季の農耕基準を示す生活暦である。
 天智、天武天皇(六六八―六八六)は、白村江の戦い(六六三)で日本連合軍として敗れた百済からの学者、文人の亡命者より陰陽五行思想を受容し、一)太極(太一)は子ねにあり、北極星は天の中央にある不動星で天皇大帝である。二)子ねは月に宛てれば冬至を含む旧十一で、陰が極って「一陽来復の象」。午○は夏至を含む旧五月で陽が極って「一陰萌す象」。つまり子↓午は無から有への軌みち。午↓子は有から無への軌みち。万象は子と午の軌道に乗ってはじめて、輪廻転生の永遠性が生まれる。太一の一元から陰陽の二極(二元)が派生し、対立する陰陽は、対立する故に互いに交感し五原素(木火土金水)を生み、この五気は循環輪廻し万物に永遠の生命を与える。この循環軸は、日本古代信仰の横の東西軸を、縦の子午軸(南北軸)へ変えた渡来の百済人の思想である19)。神道の宇宙観に天上の神々がいる高天原たかまがはらがある。この宇宙に最初に現れた神が天御中主あまのみなかぬし神で、宇宙の中心の神である。初代御中主神のあと何代にわたって人類は生活し、国土形成の時(住居建設の発明)の神が国常立くにとこだち神である。天神あまかみの初代国常立神の親たる天御中主神は、宇宙最初の出現神として北極星になぞられる。国土形成神の国常立神の八人の子供は、北極星を取り巻く八星に当てられる。北斗七星(柄杓の注ぎ口の方から、貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍の名がつけられ、更に武曲の傍らに輔星が加えられる)と輔星である。親星の北極星と子の八星を合わせての九星を、天皇即位の大嘗祭にユキノ宮(悠紀)に祀る。大おお嘗なめえ祭は寒い冬至の近い日に行う。その理由は、北極星に御中主、国常立を立てたため、冬至日は地球が最も北に位置し、北極星に一番近づくためである。太一天帝の北極星と即位する天皇との距離が一番近づくのである。ここに北辰たる妙見尊を天御中主神と同一視する神道的解釈が成立する。
▼下総・香取郡
東庄町石出   星宮神社(天御中主・八また彦・八また姫)
同 町栗野   星宮神社(天御中主・大田姫)
小見      星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同       星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同 町下飯田  星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同 町小見川  星宮神社(日本武尊)=妙剣大神
同 町下小川  星宮神社(須佐之男命)=妙剣大神
山田町神生   星宮神社(天御中主・日本根子星・統野照尊)
同 町府馬   星勝神社(天御中主)
佐原市鴇崎   星宮神社(天御中主・菅原道真)
同 市多田   妙見神社(天御中主)
同 市鳥羽   星宮神社(天御中主)
大栄町久井橋  星宮神社(天御中主)
同 町中野   星宮神社(天御中主)
同 町奈土   磐裂神社(磐裂・天手力男・木花開耶姫)
下総町成井   星宮神社(天御中主)
同 町大和田  星宮神社(天御中主)
同 町高倉   北辰神社(天御中主)
多古町喜多   妙見堂(天御中主)
同 町一鍬田  妙見堂(天御中主)
同 町桧木   妙見堂(天御中主)
同 町川島   妙見堂(天御中主)
同 町北中   妙見社(天御中主)
同 町北中   妙見社(天御中主)
同 町南中   妙見社(天御中主)
同 町同南玉造 妙見社(天御中主)
同 町     天御中主神社が二社ある
 日本の星神信仰で、皇室の先祖神たる天御中主あまのみなかぬし神を北極星(北辰妙見尊)=太一とし、更に天照太神を太一にする両者の習合は、伊勢内宮の秘事中の秘事、口伝でりあり、一切記録に残さなかった。妙見信仰は天皇に許された信仰であり、妙見信仰の庶民性は虚空蔵信仰(明星天子)となって発展する。北極星と金星(明星)は違う星であるが、庶民信仰のレベルでは、両者とも星信仰で同一視されてくる。
 日蓮聖人が立教開宗前に伊勢の天台宗常明寺に参籠し、「誓願の井」で身を浄め伊勢太廟に百日参拝、「三大誓願」で奏上したとの伝承に岡崎宮妙見堂がある。長く妙見菩薩が安置され(正安三年=一三〇一年記の像が現存し、現在読売ランドに祀られている)ていた。常明寺は伊勢外宮(豊受皇太神)の祭式一切をとりしきる渡会わたらい氏の氏寺である。安房国天津の神明社を日蓮聖人は「今は日本第一の御み廚くりやなり」(『聖人御難事』と述べる。その当時の神官は渡会一族の會あお賀か小太夫(渡会光倫)であった。「あおか↓おかの」と転じて「岡野」となり、現在の神官・岡野氏へと続いている。一族の同族祭祀である「山宮祭」は単に祖霊祭祀にとどまらぬ、北斗妙見菩薩を中心とする星神信仰であった。『高た庫蔵かくら秘抄』には山宮祭の発祥を次の如く述べている。
  『貞観元年(八五九)、渡会氏の遠祖・大内人高主の娘で大物忌の少女が御贄河(豊川)で水死した。遺体を探したが見つからず、代わりに妙見星の童形の像を得たので、尾上の御陵の聖地に安置し、岡崎宮として祀った。その翌年から高主には三年続けて双子の男子が誕生した。その六男春彦が三十歳の時、妙見菩薩の霊託を受けて、氏人を率いて清浄の山谷で妙見菩薩や日光月光、孔雀王や八神を祀ったのが、山宮祭の始まりである。』
現在の『高庫蔵たかくら秘抄』は永保二年二月八日(一〇八二)常明寺別当性順が書写したものである。この秘抄に収まる「岡崎宮妙見本縁」に由ると、妙見尊は「名日軸星。所居之宮殿名之日紫微宮。軸星者国王也。故名之日一字金輪也。諸星主也。」といい。北斗七星は「一天皆是盧舎那普門一身也。或七仏薬師一体分身也。七仏分身顕七星辰。」と言う。
      (『北斗延命経』説)  (真言説)
○貪狼星 東方最勝世界運意通証仏 東方大白衣観音、千手観音
○巨門星 東方妙宝世界光音自在仏 寅方馬頭観音
○禄存星 東方円満世界金色成就仏 丑方不空羂索観音
○廉貞星 東方浄住世界広運智弁仏 子方水面観音 又深沙大王
○武曲星 東方法意世界法界遊戯仏 亥方阿力迦観音
○文曲星 東方無憂世界最勝吉祥仏 戌方十一面観音
○破軍星 東方瑠璃世界薬師瑠璃仏 頂上虚空中間虚空蔵尊
秘抄に収まる「妙見秘記」には、
  『軸星諸星頂輪王……一字金輪……御本地仏眼仏母如来也。……出阿字本覚都、住真如実相満月輪。亦一字金輪住一切衆生心月輪。転成尊星王。……変成妙見菩薩。顕昼○日○天○子○。顕夜月○天○子○。比日月和合顕明○星○天○子○。』
妙見星は紫微宮に居住し、不動の星で諸星の中心たる「軸星」であり、「諸星の王」である。ゆえに「一字金輪きんりん」であると説く。北辰を一字金輪きんりんとするのは、陰陽道の本命星思想と関係する。生年月日によって北斗七星の一つを本命星とした本命星供が盛んになり、天皇の本命星は北辰で仏智の最尊である「一字金輪きんりん仏頂」と考えられた。また妙見は日天子・月天子・明星天子の三光天子であると説く。一字金輪とは、仏頂尊の一。種字ブルーン(bhrum一般的にはボロン)の一字を神格化したもので、世界統一の聖主たる転輪聖王の中で金輪王こんりんのうが最高であるとする。結跏趺坐して法界ほっかい定印を結ぶその上に金輪をおく「釈迦金輪」と、日輪中に五智宝冠をつけ智拳ちけん印を結ぶ金剛界「大日金輪」の二種がある。
 このように北辰尊星信仰が日本へ渡来する経緯は、欽明帝の五三八年、百済聖明王が日本に仏教伝来し、推古帝六〇二年、百済僧観勒により暦本、天文地理書が献上され、辛未の六一一年聖明王の第三子琳聖太子が肥後国八代郡白木山神宮寺に、七星と諸星を画き、下に道教の奇妙な文字を記した七十二霊符をもたらしたことに始まる。
 紫微宮に居住する妙見菩薩は、帝王を守護する。帝王が仁政により天下を平和に治めるならば、妙見は諸星と共に国土を守り災害を除き悪人をしりぞける。宮中を中心に妙見信仰が如何に篤かったか想像できる。
 前述の如く、北辰の妙見菩薩は軸星であり一字金輪、三光天子(日・月・明星)である。やがて一字金輪仏頂は七宝を具すことから、北斗七星に擬せられ、北辰と北斗七星が一体と理解され、北斗七星の本地は七仏薬師とされ、千葉氏の妙見信仰は、軍神たる北斗の「浄瑠璃世界主薬師如来」の破軍星である。その破軍星を真言密教では『類秘抄』や『平等房次第』に「虚空蔵尊」を本地と見たのである。妙見尊と虚空蔵(明星)の「一体二身」である。日蓮聖人が清澄寺で祈願した摩尼殿の虚空蔵尊の真裏の頂上が、妙見山であり、現在も小湊の漁民が篤く信仰する「妙見尊」が祀られ「一体二身」を表している。また『源平闘諍録』巻五の「妙見菩薩之本地事」には妙見は自ら「吾ハ是十一面観音之垂迹五星ノ中ニハ北辰三光天子ノ後身也。」と告げている。奈良朝の貴族達は、天平勝宝元年頃(七四九)、皇后宮職を改めて置かれた令外官司の紫微中台での観音信仰、特に十一面悔過所が注目される。天平勝宝七年『経疏出納帳』に
  陀羅尼集経一部十二巻
 右、依次官佐伯宿弥判官石川朝臣天平勝宝五年二月一日宣、奉請紫微中台十台十一面悔過所。
とあり、当所の十一面悔過所は東大寺内でなく、内裏の紫微中台にあったと推定された。紫微中台にあった十一面悔過所は北辰と十一面観音の関わりを示している。悔過とは、罪過を懴悔し、罪報、災禍を除く修法である。東大寺二月堂の十一面観音悔過、お水取りがある。
 のちに天台宗において『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」を説く。日吉三聖とは、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社の神を言うが、三光天子は天台教義の中で山王信仰と結びついている。七仏薬師と十一面観音を普及させたのは、慈覚大師円仁と坂上田村麻呂である。七仏薬師は病気と怨霊の祟りを鎮めると信じられ、天平七年(七四五)聖武天皇が重病の時、奈良の新薬師寺の本尊に七仏薬師が造立され、全国に造営中の国分寺では、本尊釈迦如来から薬師仏に変更されていった。七仏薬師法を始めた慈覚大師円仁は、下野国都賀郡で生まれ大慈寺の広智に入門し天台思想を学び、経蔵に入り『観音経』を得て観音信仰を感得した。円仁は観音と薬師信仰に篤く、円仁の東国教化により房総、香取、鹿島に十一面観音と薬師信仰が東国武士に広がっていった。奈良朝以前から常陸、上総、下総、上野、下野の五ケ国は中臣なかとみすなわち藤原氏が蝦夷を征服しながら領土を広げ、鹿島神宮に建御雷たけみかづち命を祀って氏神としていた。僧聖冏の『破邪顕正義』の「鹿島大名神御本地之事」には
 『本地観音 常在補陀落 為度衆生故 示現大名神……三尊観音造玉フ。其内一體今神宮寺本尊十一面是也』
 鹿島大明神の本地仏は十一面観音となっている。佐原市荘厳寺の十一面観音は、香取神社の神宮寺の本尊であったと伝える。九条兼実の『玉葉』建久五年(一一九四)七月八日の条に
  第一は鹿島、本地は不空羂索観音
第二は香取、本地は薬師如来
第三は平岡、本地は地蔵菩薩
第四は伊勢内宮、本地は十一面観音
第五は若宮、本地は十一面観音
とある。
薬師如来は日月の象徴たる日光菩薩・月光菩薩を脇侍とし、現実的災難を救済する功徳は、法華経の「観世音菩薩普門品」の諸難救済と共通項が多い20)。
     九、宗祖の養育の小湊西蓮寺伝承と別所について
 安房国小湊は日蓮聖人誕生の地である。清澄寺と同じ天台寺院は、宗祖在世当時、丸山町の石堂寺、天津の二間寺、小湊の西蓮寺である。信仰熱心な貫名重忠公と母梅菊は、寺院僧侶の教化を受けた筈である。当然身近な小湊西蓮寺に参詣しただろう。西蓮寺は清澄寺と同じ慈覚大師の開基で天安二年(八五八)に創建された。本尊は薬師如来。山号は東光山、院号は地福院。上総国夷隅郡山田村星◎応寺の末寺である。西蓮寺第二十一世が道善房であり、貫名重忠公が遠州より流され小湊の浜に着きしとき、滝口三郎左衛門(兵庫朝家・小湊代官)が援助し、宗祖降誕後、善日麿(日蓮)を三郎左衛門の娘「雪女」が乳母として宗祖十二歳まで養育したとの伝承がある。薬師堂裏に山王権現社があった。日蓮聖人の乳母「雪女」の墓は現存している。歴代住職は宗祖降誕会に誕生寺楓経席に現在も着座している。寺伝によると、道善房が清澄寺諸仏堂の房主として昇るとき、善日麿を修学のため登山させたとある。そのとき西蓮寺の本尊「薬◎師如来」と「山王◎権現」の名を戴き、「薬王丸」と改称したと言われる。
 俘囚ふしゅう研究家の菊地山哉氏は、大和朝廷の東征に抵抗した先住民または蝦夷系住民が捕虜となった居住地が〈俘囚の別所〉と言う。その別所の特徴として、東光寺、薬師堂、本地仏十一面観音の堂社(白山神社など)を祀り、慈覚大師円仁の伝承があると言う。まさしく小湊西蓮寺は、山号が東光山、院号は産鉄が豊富とする地福院で、本尊は薬師如来、山王権現は天台教義において「三光天子の垂迹」であった。そして仏教無縁の東国に観音、薬師信仰を広め、非仏教系産鉄民等の先住民を教化した慈覚大師円仁が開基である。西蓮寺こそ安房国別所の重要拠点であったと考えられる。この先住民たちこそが日蓮聖人の言われる「旃陀羅」と考えられる。つまり産鉄系ワダツミ漁民・春夏は漁採すなどりし、秋冬は浜砂鉄などの漁採すなどりする漁民である。宗祖がその西蓮寺で養育されたことは、別所の管理者側に宗祖の両親は関係していたと見るべきだろう。
     十、金輪聖王と妙見思想
 日本の星神信仰の原始修験は、道教の錬金術と仏教の須称山思想から発して、修験道場のある所は鉱物産出の山々であった。鉱山における妙見尊と虚空蔵は、星神信仰という共通性から同一視する思想背景が生まれてきた。天照太神の先祖神たる天つ神、造化三神の天御中主あまのみなかぬし命が北極星に配され、天御中主命―妙見尊―虚空蔵―明星天子の同体化思想が形成されてくる。天台比叡山と日吉社の山王神道から生まれた思想と考えられる。道教的には妙見尊、仏教的には虚空蔵尊という関係である。
 また、妙見尊と一字金輪きんりんの関係がある。金輪王とはインドにおける理想的帝王・転輪聖王の最高位をいう。輪とは政治的統治の権力、権威を象徴し、正法をもって世を治める。四洲全部を統一するものを金輪王とする。
 北極星―軸星―一字金輪―妙見尊―天帝の関係である。
 更に日蓮聖人は、その理想的帝王を『守護国家論』・『立正安国論』などにおいて具体的仏法の守護者として「有徳王と覚徳比丘」に擬して述べる。有徳王は『大般涅槃経』金剛身品に説かれる釈尊の本生の一つである。正法を弘通する覚徳比丘を守って殉教した国王である。宗祖は『守護国家論』に「在家の諸人正法を護持するを以て生死を離る」の段に、『立正安国論』では「謗法者対治」の段に涅槃経「有徳王と覚徳比丘」の経文を引用する。「今の釈迦仏の本生は有徳王、迦葉仏の本地は覚徳比丘」と四条金吾殿御返事に示す21)。また『有徳王・覚徳比丘の其乃往むかしを末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申シ下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋て、戒壇を建立すべきか』の、日蓮聖人の帝王思想が戒壇論と結合してゆくのである。帝王たる賢王と対峙するのが不軽菩薩である。『此の四菩薩折伏を現ずる時は賢◎王◎と成て愚王を誡責し、摂受を行スル時ハ僧◎と成て正法を弘持す22)。』の、観心本尊抄の弘経予言となるのである。
     折伏(愚王誡責)―賢王―有徳王
     摂受(正法護持)―僧―覚徳比丘
 日蓮聖人の虚空蔵菩薩・妙見尊信仰は、立教開宗前の清澄修学期より始まり、一宗建立の法華至上主義の信仰確立後も、宗祖の思想形成に大きな影響を与えている。法難と守護神の関係、法華弘教と帝王思想、戒壇論の関係などである。
 『本化別頭仏祖統紀』には、建長年間に宗祖が伊勢間あいの山やま常明寺(天台宗・現在ハ日蓮宗)に一百日沐浴参篭し、満願の日に「皇大神の宝殿中に於て獅子の座に坐し玉ひ……本門の大法正しく宣示顕説の時なり。高祖ただ頭を低れるのみ……高祖常明寺に退き神恩を謝す。(中略)時に妙見大菩薩の示現あり。光明顕奕、最明最勝にして威客然たり。」と、日蓮聖人は妙見菩薩から法華経護持の誓いを得たと伝えられ、そして清澄へもどられたのである。日蓮聖人が清澄の地で立教開宗された理由は、@虚空蔵菩薩への報恩、A道善房への報恩、B両親への報恩、C天照太神の棲む東條郷(御厨)と言われている。
 以上の考察から次の事柄がうかがえる。
一、日蓮聖人が智恵宝珠を授与された大恩の虚空蔵菩薩をなぜに大曼荼羅に勧請されなかったかの疑問が解けてくる。
日蓮聖人が曼荼羅本尊に虚空蔵尊を「天の三光」、特に「明星天子」として勧請する。その底意には、虚空蔵菩薩と妙見尊(天御中主命)の神徳を表示している訳である。
一、明星天子の本地は虚空蔵菩薩であり、妙見尊にも関係している。宗祖は大恩ある虚空蔵菩薩を明星天子として勧請し、そこには妙見信仰の「天帝」思想が背景にある。そこから宗祖の世界統一主たる転輪聖王観が形成され、教行証御書の「己ニ地涌ノ上首上行出サセ給ヒヌ。結要ノ大法亦弘ラセ給フベシ。……金輪王ノ出現ノ先兆、優曇華ニ値ヘルナルベシ」。観心本尊抄の「賢王」地涌の垂迹へ連がる思想が、清澄寺虚空蔵信仰の奥に見えるのである。
一、日蓮聖人在世当時の清澄寺を含む安房の領主は、産鉄民と関係ある、虚空蔵信仰と関係ある新熊野いまくまの社である。よって宗門史において判明しない「領家の尼」とは誰か? それは新熊野社または大船村多聞院の関係者と推定される。
一、清澄、小湊、鴨川、夷隅は古代より産鉄地であった。
一、小湊西蓮寺は、俘囚ふしゅうの別所と考えられる。
一、日蓮聖人の出自は「施せん陀だ羅ら」を統率する立場の系譜ではないか。
一、日蓮聖人の言う「施陀羅」とは、産鉄系ワダツミ漁民と考えられる。
一、宗祖在世当時の清澄寺は、十一面観音と熊野信仰を基盤とする虚空蔵尊の山岳修験道場であった。
一、日蓮遺文に伊勢内宮奏上と岡崎宮妙見尊参拝の記述はないが、宗祖の虚空蔵(三光天子)信仰と日本守護神たる天照太神の尊重よりみれば、宗祖は必ず伊勢参拝した筈である。宗門・地元宗務所は岡崎宮妙見堂跡地を布教拠点として取得し、顕彰すべきである。


1)『清澄寺大衆中』 一一三三頁
2)右 同 一一三四頁
3)『四条金吾女房御書』 四八四頁
4)『寂日房御書』 一六六九頁
5)『行者仏天守護鈔』 二四六頁
6)『種々御振舞御書』 九六九頁
7)右 同 九六七頁
8)『四条金吾殿御消息』 五〇五頁
9)『光日房御書』 一一五四頁
10)『種々御振舞御書』 九七八頁
11)『四条金吾釈迦仏供養事』 一一八五頁
12)石井則孝著『古代房総文化の謎』参照
13)佐野賢治著『虚空蔵菩薩信仰の研究』参照
14)吉野裕子著『隠された神々』参照
15)榎本出雲・近江雅和著『古代は生きている』参照
16)柴田弘武著『鉄と俘囚の古代史』参照
17)『天津小湊町史・史料集』 五〇五頁
18)『千葉県 地学のガイド』、『千葉県安房郡誌』
19)吉野裕子著『隠された神々』参照
20)宮原さつき『千葉妙見の本地をめぐって』
21)四条金吾殿御返事 一五九四頁
22)観心本尊抄 七一九頁
























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