京都鷹峰檀林の宝物
−檀林法度について−
奥田正叡
(現代宗教研究所嘱託)
天文・安土の二大法難は、それ以前の日蓮宗の外面的拡張の気運を内面的緊張へと転換させた。他方、泉州堺の三光勝会に見るように次第に興学の熱意が高められ、宗門復興の兆しが醸成されそれが檀林設立へと展開していった。
近世、日蓮宗の檀林は天正年間から元禄年間に至る約百五十年間に関東八檀林・関西六檀林が設立され、多くの学僧が雲集し近代宗門教育の拠点となった。
今回の発表においては、関西六檀林の一つである鷹峰檀林の宝物・蔵書中新たに作成した古文書目録を提示し、その中にある檀林法度を紹介し、法度がどのように檀林生活を規制していたか、また法度が不受不施派・勝劣派にどのような立場を取っていたかについて考察する。
まず、資料にあたる前に檀林の概要について触れておきたい。
檀林の教育過程は、名目部・四教義部・集解部・観心部・玄義部・文句止観部・御書部の順に進むことになっていた。檀林内では、学僧は下四部(名目部・四教義部・集解部・観心部)から大部(玄義部・文句止観部・御書部)に進み、更に上座部・玄能・文能という任務分担があった。上座部は、一老・二老・三老・四老・五老の五人で檀林内の事務一切を取り扱い、講義も受け持った。特に、一老は板頭(二老が板頭の檀林もある)とも呼ばれ檀林を取り仕切る権利を持っていた。玄能は法華玄義、文能は化主として法華文句を講義し、両者共に外部から請待した。
檀林は、春(二月一日より五月十日)・秋(八月一日より十一月十日)の年二回開講され、これを夏と呼び講義のない期間つまり夏合には学僧達は学費の調達をした。また、檀林内では身分がはっきり定めれており、檀林内の歩き方から法衣・履物・役扇・名刺にいたるまで区別されていた。
次に、鷹峰檀林について述べておきたい。
元和元年(一六一五年)本阿弥光悦は徳川家康より東西二百間、南北七町の洛北鷹峰の地を拝領し、本阿弥一門とその家織に連なる集団を引き連れ移住した。光悦の子、光瑳は同所に法華の鎮所を建立、当時鷹峰を弘通していた寂照院日乾を招いてこれを奉じ、日乾はその鎮所を寂光山常照寺とした。寛永四年(一六二七年)日乾は同寺に学室を創設し、鷹峰檀林とした。同年、心性院日遠の弟子、知見院日暹が二世として招かれ開講した。故に、日乾を檀林の開祖、日暹を開講の祖としている。明治六年に廃檀になるまで二百四十六年間に、往時は大小三十二の堂于が甍を並べ三百名を超える学僧が勉学修行に勤んだ。
常照寺には鷹峰檀林の刊本・写本・古文書などが格護されているが、今回まとめたのはその内の古文書百五十点の目録である。
資料一)
洛北鷹ケ峰 寂光山常照寺
蔵 書 目 録 古文書の部
次に、示すのは寛保三年(一七四三年)の山門永則(法度)である。
資料二)
山 門 永 則
一 毎事不可違于上座五人評議縦雖一述所存再述任上座下知事
一 徒黨引率事永々追放
一 於好放悪破却檀林事永々追放
一 若有欲陥害人者聞知其事則速可告上座若隠覆之族罪同本人
一 深

悪心或以両舌破和合僧事永々追放
一 出于境外喧嘩酒狂之事永々追放
一 喧嘩助成事罪倍本人
一 打擲他人事一歳之間須追放也若其人住忍度則是沙汰之外也
一 縦令雖為酒狂於有格外之放埒依上座評議可處罪過之事
一 帯刀杖事三月制文庫
一 令他人蒙無實事罪蒙其人
一 悪口事三月不列存講席
一 白衣出于門外事過銅四百字以當其罪
一 上中下礼節不可相亂事
一 若賓客投宿乃以其事可告上座之事
一 若有女人年未至五十者縦雖為親戚堅禁止其宿
一 蹴鞠圍其管絃歌舞事罪銅四百字
一 博奕事過銅可為上座評議
一 觀心集解一部之族呵責新来之僧事堅禁止焉
一 従新到之日至大師會不許用傘及高木履唯聴竹笠及短木履
一 名目之従巡行一山須低頭折腰而揖
一 歸于故國環于檀林時至講主院入上座寮必當告其往復事
一 所有祝儀一切禁之但以其資財或為修補収之可也
一 諸部々入即日可納部入銀事
一 隣舎高談及以高聲誦經等之事過銅八十字
一 設種々曲會不納出銀之事停止若於違犯者至償其出銀期可制出講席之事
一 毎月両度祈祷宗祖智者忌日并一山掃除不出之徒過銅各四百字
一 衆會之時卒爾起其席事過銅八十字
一 於譚林不可着絹衣服事但除下着
一 可著布衣布袈裟事
一 以朱墨塗抹名簿過銅四百字
一 當番之曹至晩必将名簿次第可届翌日作務之僧事
寛保三癸亥仲秋
寛保三年の山門永則から当時の厳しい檀林清規を理解することができる。
特徴としては、イ. 三二条というかなり多くの規制が設けられていること、ロ. 喧嘩・悪口・暴力を厳しく戒め、囲碁・管弦などの娯楽を禁止し、身だしなみから歩き方など生活の細部にまで規制していること、ハ. 厳しい永久追放の規定があること(四箇条)、ニ. 罰金があること(七箇条)、ホ. 上座部の権限のつよさを示す(六箇条)などが指摘できる。
檀林教育の特徴は、檀林が単なる学問知識を享受する場であるだけでなく全人教育を目指していた点である。それは、檀林教育が長期間(十年から十三年前後)の全寮制を原則としてこの山門永則に示されたように生活の細部まで規制されていたことからも理解される。
檀林では全学僧が学寮に寄宿し、三宝諸天はもちろん化主(学頭)、先輩への給仕奉公を根本に、草抜き掃除、火災その他緊急対処の用意訓練に至るまで監督され、個人的には朝昼夕の勤行出仕、講義の出席はもちろん礼儀作法、立居振舞、障子の開け閉め、法衣のたたみ方にいたる生活の細部まで事細かに指導された。つまり、三宝給仕の修行から修学や日常生活の一挙手一投足に至るまで全人格的に社会の模範となるよう厳しく指導されたのである。檀林内に教授職以外に指南役と呼ばれた指導僧が置かれたことや、各檀林に設けられた法度がその厳しさを物語っている。
次に示すのは、明和五年(一七六九年)つまり寛保三年の山門永則から二十六年後に定められ、文政十一年に書き改められた法度である。
資料二)
慎奉誓罸文之事
一 近来於都鄙宗風異流之沙汰就有之此度自先聖方當檀諸生之中遂吟味之條々如左
一 或僻依祖書一処之文假於名但信口唱永存唱題誦經勝劣似一部修行廃捨之事
一 或偏見妙判一紙半行但奉讀寿両品不讀余品相似勝劣之事
一 或於法筵欲演台當異目妄破廃圓頓者之事
一 或為利養對僧俗人法共自讃毀他之事是尤破和合僧之重科也
右之條々義之善悪者且置之僧門之偏異可為宗外者也
當山者乾暹両尊開闢已来糺明不受者悲田等之邪義之江陵也況當時為利養宗義挌外之存異念
至珍説之事僧中之蠧害最可慎若違背之輩者
三寳高祖開山鎮守妙見大菩薩七面大明神奉蒙御罰不可久住學校者也仍而起證文如件
明和五年戊子二月
衆徒名前花押積盈故今般改之
維時文政十一戊子春
以下 名前花押
この法度は、勝劣派・不受不施派に対する当時の檀林の対処について示したものである。すなわち、鷹峰檀林は開祖日乾・開講日暹以来、不受不施悲田派等の邪義を糺し究明する要の学室である。自讃毀他して宗義外の異念・珍説を致す勝劣派・不受不施派等は害を及ぼす長虫のようなものであるから、最も慎むべきである。もし違背の輩は、三寳高祖開山鎮守妙見大菩薩七面大明神の御罰を蒙り檀林に久しく住すべからずと述べ、勝劣派・不受不施派等を堅く戒めている。
大阪対論―日奥流島(一五九九年)・身池対論―日樹流刑(一六三〇年)・寛文惣滅―不受不施派新寺建立禁止など(一六六五以後)の背景には、重乾遠を中心とした身延一致派の圧力のあったことは既に指摘されているところである。(関東諸檀林の形成と展開―冠賢一著)。日蓮宗教団の檀林は、江戸幕府の成立前後にそのほとんどが成立しており、不受不施派対受不施派、勝劣派対一致派の対立が大きく影響している。各檀林では教団の同行と同じく幕府の後押しを得た一致・受不施派が、その力を背景に勝劣・不受不施派を圧倒し排除していった。
この資料において鷹峰檀林においても勝劣・不受不施派に対して断固とした態度をとっていたことが理解できる。
※本稿は平成九年十月二十四日、立正大学において開催された第五十回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものである。



