宗祖の誓願としての立正安国
浅井円道
(文学博士 立正大学名誉教授)
はじめに
このたび「日蓮聖人の誓願としての立正安国」というテーマで話をするようにというご依頼を受けました。その方面では、日蓮教学ではいろいろな問題がありますけれども、この「日蓮聖人の誓願としての立正安国」についてお話を一時間半ほどさせていただきます。
この資料に入ります前に、二、三、お話ししておきたいことがあります。それはまず「立正安国」という日蓮聖人が三十九歳のときにおつくりになった言葉はいかなる意味かということも大切ですけれども、その前の年に『守護国家論』というご遺文をお書きになった。これは七つのチャプターに分かれています。チャプターを自ら立てられた。日蓮聖人の一番最初は『一代大意』がありますから、二番目ぐらいの著作です。その翌年、今度は『立正安国論』と名前を変えられた。「守護国家」と「立正安国」とどう違うか、どう重みがあるかということですけれども、それは結局一言でいえば、「守護国家」という題のときは、何によって国家を守護するかというよりどころが名前にでていない。名前は大事なのです。「名は体をあらわす」と日蓮聖人はよく使われる言葉です。
そうすると今度は「立正安国」といえば、立正による安国であるというテーマが、言葉として凝縮するわけです。そこに大いなる違いがある。したがって以後の日蓮聖人は、「守護国家」という言い方はなさらない。もっぱらその後は「立正安国、立正安国」とおっしゃっておられる。
この「立正安国」は、例えば行学院日朝上人が身延山での伝承を書かれた『元祖化導記』の中には、池上宗長のお館でお亡くなりになる前に、最後の説法として『立正安国論』の講義をされたと書いてある。宮崎先生がいろいろ書かれたものを読んでおりますと、生涯の間に何度も何度も『立正安国論』を書写したり、あるいは十一通の御書とか、そういう事柄によって「立正安国」の運動を展開してこられた。
したがって日蓮聖人にとって、三大誓願は「立正安国」の誓願でした。「我れ日本の柱とならむ」「我れ日本の眼目とならむ」「我れ日本の大船とならむ」、これは「立正安国」です。これは、誓願であると同時に――同時にとは他の言葉でいえばといった方がよいかもしれませんけれども――日蓮聖人の宗教の目的であると私は申し上げたいと思います。
さて、この場は「現代宗教研究所」でございますから、やはり考えますと、「現代における立正安国とは何ぞや」「現代における立正安国の運動はいかにあるべきか」という問題がおそらく最も重大な問題であろうと思ってはいるのです。そういうふうに私も認識してはおります。しかし私は五十年にわたって、ただ学問、プリンシプル、原則論のみを研究してきました関係上、やはり原則論になってしまう。少なくともお配りしたこの資料の大半は原則論です。しかしそれでは先程、所長もいわれた立教開宗七五〇に向かって誓願を実現していかなければならないという事柄は、いかにプリンシプルの問題ばかり頭の中にあるとしても、誓願の実現には何が大事なのかということを最後にいくつかの例を引いてお話し申し上げて終わりにしたいと思います。それでは次に本論に入りたいと思います。
最初のうちは本当の学問、宗学です。この資料の中身は、一番最初が「法華経と立正安国」です。「立正安国」という言葉は法華経にないではないか。「正法を立てて国を安んぜよ」という言葉は法華経のどこにある、法華経のどこから「立正安国」ということになるのだという問題です。それから後に今度は「不惜身命」という言葉がでてきますが、この二つの問題を今回は取り上げてまいりたいと思います。
一、法華経と立正安国
まず「法華経と立正安国」の問題としては、一番目が「譬喩品」の「今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子 而今此処多諸患難 唯我一人能為救護」の経文です。それから二番目が、「寿量品」の「我常在此娑婆世界」、あるいは偈頌の「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして」と、「我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩」と、「寿量品」のこの三つの経文です。それから次が「本国土妙」、これは天台大師の『法華玄義』の本門十妙の中の第三番目です。その法華経ならびに本国土妙の国土論、仏土論を日蓮聖人が自らの研究と体験とによってまとめられた言葉が「四十五字法体段」です。その四十五字法体を、つまり本時の娑婆世界を実現する運動が立正安国なのです。その運動を支えているのが三大誓願です。その三大誓願を立てて、立正安国の運動に邁進された日蓮聖人のお心は、仏勅の尊守ということになります。仏のご命令だ(『開目抄』)という問題になる。そこから「不惜身命」の弘通が生まれてくる。そういう筋であります。
さて最初の「譬喩品」ですが、「今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子 而今此処多諸患難 唯我一人能為救護」、その中の「今此三界皆是我有」が主、「衆生はことごとくこれ吾が子なり」という言葉が「親」、それから、「しかるに今この処はもろもろの患難多し。ただわれ一人のみよく救護をなす」というのが「師」、という解釈を遅くとも文永元年(一二六四年)四十三歳の『南条兵衛七郎殿御書』において開始しておられる。この御書は小松原法難の一カ月後、日蓮聖人が自分の法難の体験を客観的に南条兵衛七郎に対して述べられたご遺文であることはご存じのとおりです。「主・師・親」とご自身を客観化されている。
昭和定本によりますと、遺文上では、建長七年(一二五五年)、三十四歳に係念されております『蓮盛鈔』(定遺一九)、『念仏無間地獄鈔』(同三四、三五)、『主師親御書』(同四五)等に、既に教主釈尊は主師親であるとある。「今此三界」の経文を主師親にあてて解釈なさるという解釈例がありますけれども、真筆現存の遺文を取れば、右の『南条兵衛七郎殿御書』を始めとした方が確実であるということになります。
文永元年、『安国論』の翌年のころに、主師親の解釈がなされた。この経文を主師親に配当する解釈は天台大師にもありません。それから妙楽大師の『法華文句記』にもなく、そのほかいろんな天台宗以外の法華経注釈家がおりますけれども、その人々の解釈にもこういう解釈例はない。日蓮聖人独自のものであるが、釈尊が我等衆生の主師親であることについては、どういうところに日蓮聖人が求められたのだろうかというと、一つには中国天台宗第二祖、章安大師灌頂が、『大般涅槃経疏』を著しており、これは国訳一切経に入っています。『大般涅槃経』は、坊さんである以上は読まなければだめだということを声を高くしていった人は横超慧日です。あの人は『涅槃経』を仏典の叢書の中で書いております。「坊さんである以上『涅槃経』を読め、読まない人は僧侶ではない」というような言い方をしていますから、私も一つはそれでびっくりした。もちろん日蓮聖人が読まれたお経だから読まなければいけません。釈尊が主師親であることを『涅槃経疏』で繰り返し強調している。
これは『大般涅槃経』四〇巻本の第二巻で、「お釈迦さま死にたもうことなかれ、お釈迦さま死にたもうことなかれ、なんでお釈迦さまは我々をおいて死んでいってしまわれるのですか」ということを、集まった人々がみんな口々に、「死んだらだめ、死んだらだめ」といって全員がお釈迦さまにお願いするわけです。その言葉がお経にでてくる。それをいちいち「主師親、主師親、主師親、主師親、主師親、主師親」といって章安は解釈しております。
日蓮聖人はもちろん『涅槃経疏』を非常に早い時期にお読みになった。『立正安国論』のころは当然すでに読んでおられます。『守護国家論』のころもすでに読んでおられるから、相当早い時期にお読みになった。『涅槃経疏』で繰り返し強調しているから、おそらくこれらから「主師親」の名目をとりだし、それを「譬喩品」の経文解釈に応用なさったのであろうが、そう思われる節があるというのは、文応元年(一二六〇年)三十九歳に書かれる『今此三界合文』というご遺文があります。その中に『涅槃経疏』の主師親に関する疏文が引かれていることから推察することができます。
それと、ここでは言い忘れておりますけれども、もちろん「貞永式目」の中で「主師親」が大事にされております。それは当時の鎌倉武士の道徳律でもあったと思われます。そういうことからも「主師親」とおっしゃったに違いない。あるいはその方がむしろ日蓮聖人の布教においては、法華弘経においては、力ある理由であったかもしれません。
さて、佐渡配流前の日蓮聖人は、娑婆世界の我等衆生にとって主師親三徳具備の仏は教主釈尊唯一人であるのに、念仏者は釈尊を捨てて西方極楽の教主である阿弥陀仏を信仰するが、これは恰も親父を捨てて叔父に孝行するようなもので、「不幸の失あり」と繰り返しいっておられます。
つまりこの経文によって、もっぱら阿弥陀仏信仰を日蓮聖人は初期の段階では攻撃しておられました。例文を挙げれば『南条兵衛七郎殿御書』に、
仏教の中に入候ても爾前権教の念仏等を厚く信じて、十遍百遍千遍、一万乃至六万(法然念仏六万遍)等を一日はげみて……此等は仏説を信じたりげには我身も人も思ひたりげに候へども、仏説の如くならば不孝の者也(叔父さんを信仰すると)。故に法華経の第二に云く今此三界……唯我一人能為救護 雖復教詔而不信受等云云。此文の心は釈迦如来は我等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。
(定遺三二〇)
というようなお言葉がある。それで主師親三徳具備の教主釈尊は、娑婆世界の我等衆生の「主師親」である。
今度は「如来寿量品」です。我等娑婆世界の衆生にとって主師親であるところの教主釈尊は、今度は娑婆世界に久遠以来常住しておられる仏だということです。「寿量品」の長行に、
我成仏してより已来、復此れ(五百塵点)に過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。
「我成仏已来、復過於此、百千万億那由他阿僧祇劫」といつもお読みしている言葉です。それから偈頌に、
阿僧祇劫に於て、常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり、衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も(衆生の目には大火に焼かれつつあると見えているときも)、我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり。
我が浄土は毀れざるに、而も衆は焼け尽きて、憂怖諸の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。
「我亦為世父」ともあるのが娑婆の開顕です。
教主釈尊について、一切世間の天人及び阿修羅は、伽耶城を去ること遠からざる菩提樹下に坐して始めて正覚を成じたもうたと謂っているが、実には久遠の昔に成道したのであるとて、本果を示し、この仏は娑婆世界に常住し、説法教化をしているのであって、余処にあって或いは己身を示し他身を示し、或いは滅を示し生を示したのは、皆この仏の方便であると説いて、本仏たることをお示しになる。この本仏の常住の土が娑婆であるということは、十方浄土は皆迹仏の住する垂迹の土であるということが明かされたことになる(これと大体似たようなご文章で、『開目抄』にも書かれております)。私がそれに似せたわけです。これが第一文です。
それから娑婆世界は劫末がきて、(火・水・風と大劫です、大の三災です。壊劫の最初に大火がおこる)。大火に焼かれていると衆生が見るときも、我が此の土は安穏だよ。我が浄土は不毀であるのに、衆生は焼け尽きつつあると見るという第二、第三文は、凡見、つまり我等凡夫の目には、火宅の如き燃えつきつつある穢土と映るが(今の日本人はあまり痛切には感じません)、物事の実相を見極める仏眼から見れば(物事の実相を見極めるのが仏眼の力ですが)、浄土であるというのであるから、つまり娑婆世界の本質は、本仏常住の浄土であると「如来寿量品」で開顕されたわけです。迹門では仏土の開顕はなされていない。「三界は安きことなし、なお火宅の如し、衆苦充満してはなはだ怖畏すべし」というのだから、三界は迹門では地獄だ。三界を地獄と見るのは法然ですが、迹門ではそれに近い国土観が示されていた。
天台大師智

は、『法華玄義』の七の上巻において、本門正宗分に基づいて本門十妙を立て、その初めに本因妙、次に本果妙、三番目に本国土妙の三妙をおいたが、本国土妙とは何かというと、こういっています。
三ニ本国土妙トハ、経ニ云ク自従是来我常在此娑婆世界説法教化亦於余処導利衆生ト。娑婆トハ即チ本時ノ同居土也。余処トハ即チ本時ノ三土也。此レ本時ノ真応所栖ノ土ヲ指ス。
本時の真身応身の所住の娑婆が本国土です。そして、娑婆応化の仏は必ず応身です。久遠実成の教主釈尊が、「如来寿量品」において娑婆世界にでてこられたわけではない。「如来寿量品」を説いておられる教主釈尊はやはり応身です。だから什門でいう応身顕本はどういう意味か私もよく知りませんけれども、応身を顕本したということに解釈すると、それは正しいことだと思います。いずれ後で質問がありましょうけれども、私は什門の応身顕本という言葉についてはよく知りません。あとでまた教えて下さい。
「本時ノ真応所栖」、本時の真身応身、真身の土とは本時の常寂光土です。「所栖ノ土ヲ指ス、迹中ノ土ニ非ザル也」。迹中の土は何かというと、「迹中ニ土ヲ明スコト又一途ニ非ズ、或ハ(瑞応経ニ)言ク、此ノ三千百億ノ日月ヲ統ブトハ同居ノ穢土也。或ハ(涅槃経ニ)言ク、西方ニ土アリ、名ヲ無勝ト曰フ、其ノ土所有ノ荘厳ノ事ハ猶ホ安養ノ如シ(西方極楽浄土の如し)トハ同居ノ浄土也。或ハ(華厳経ニ)華王世界蓮華蔵トハ此レ実報土也。或ハ(普賢経ニ)言ク、其ノ仏ノ住処ヲ常寂光ト名クトハ即チ究竟土也」。「其仏住処 名常寂光」というが、普賢経でいう常寂光土だという。これが私にはわからない。
常寂光土とは理の土です。理に本土迹土という区別があるかしらと思う。理というのは無始無終ですから。理においては昔も今もないわけです。だがこれは迹土だと。これはちょっとわかりませんけれども、またいずれお考えを聞かせて下さい。一応、これはおかしいのではないかという気もします。だけど日本天台においてもそういう解釈です。
そういうことで「如来寿量品」で仏土開顕がなされた。娑婆世界の本質は主師親三徳具備の教主釈尊が常住しておられる浄土だという。娑婆の本質は浄土だというのです。これは「立正安国」の核です、中心です。これは申し上げるまでもない。皆様方に今までに何度も何度もお話ししてきたことだと思いますけれども、年寄りのくりごとと思って聞いていてもらっていてもよいです。
さて、四十五字法体段です。
今本時ノ娑婆世界ハ三災ヲ離レ四劫ヲ出タル常住ノ浄土ナリ(本国土妙)
これは行学院日朝上人もすでに三妙に配当しておられます。
仏既ニ過去ニモ滅セズ未来ニモ生ゼズ(本果妙)、所化以テ同体ナリ(本因妙)、此レ即チ己心ノ三千具足三種ノ世間也。(定遺七一二)
これは本門の理談です、理です。過去四十五字法体段についての解釈がいろいろなされて、論争もなされてきていますけれども、これはやはり理です。だから法体といいならわされてきている面もあるのではないかと思います。
これが法体となって、『観心本尊抄』のこの次の行には、「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字においては」、仏さまは迹化には授けなかった。本門の中でもただ八品を説いて地涌千界に授けられたということが書いてある。だからこの本門の肝心――これは四十五字法体をさしています。だから四十五字を教法にすると五字になる。そういう言い方は何かゴタゴタするかもしれませんけれども、「神力品」の四句要法も教法です。教法を授ける。それを受けた人が今度は行ずることになります。今度は一、二行おいて、「その本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し」というので、大曼荼羅が開顕されます。本師の娑婆、本師が常住しておられる娑婆世界、それが大曼荼羅には書かれておりませんけれども、その大曼荼羅の中のどこを本師の娑婆にするかというと、一幅の紙でしょう。文字を支えている紙が本師の娑婆だとする。紙だけれども、それが十界を支えている。「その本尊の」の「その」とは四十五字です。これは私が突然変なことを言い出したのではなくて、昔から『観心本尊抄』の解釈はそうなっているのです。だから四十五字教法の法体であり、本尊だから今度は行法です。本尊に向かって合掌礼拝する行法です。その中心、法体をなしているものが四十五字というのです。だから四十五字法体段という。
それは本時の娑婆ですから、娑婆の本質、仏の目で見たところの娑婆世界です。我々凡夫の目で見た娑婆世界ではない。我々凡夫の日常の生活は五欲、つまり、色・声・香・味・触の欲でかたまっている。だから常住の浄土ではないのです。六根は清浄ではない。だから浄土は見えないはずです。ですから本質は見えないはずです。仏の目で見た娑婆世界の本質は浄土です。これが立正安国の核です。玉ねぎの皮をむいてむいて、いくらむいてもむいてもあとは何もないでしょう。そうすると瓦礫の土ならば、掘っても掘っても掘っても瓦礫しかでてこない。娑婆世界は、核をなしているのが浄土です。玉が中に入っている。だから娑婆世界を覆っているところの我々の業を、あるいは五欲、あるいは六根、そういう垢を取り除いていくならば、安国は実現する。その安国とは浄土なのです。それを『観心本尊抄』が示している。
しかし、ここには書いていませんからもう一言申し上げておきたいことは、これはもう皆さんに何べんもお話したことですけれども、要するに、『法華経』以外のすべてのお経は、煩悩を取り除き生死を離れなければ菩提はない、涅槃はないというのです。いや必ずしもそうではないという方がいるかもしれません。例えば『維摩経』にも書いてある。あるいは『華厳経』にも書いてある。『般若経』にも書いてある。それは何かというと、『般若経』とか『涅槃経』とか『華厳経』とかの円の部分です。『法華経』は純円です。もっぱら円を説いているのではなくて、蔵通別を兼対帯した円は、蔵通別の色に染まって円味がなくなるというのです。これは日蓮聖人の初期のお言葉です。日蓮聖人は三十九歳ぐらいまでそういう問題を一生懸命勉強しておられた。だから他のお経にはない。すると法華経だけにあるということになるわけですけれども、その円とは何かというと、要するに「煩悩即菩提、生死即涅槃」ということのみを『法華経』は説いていると天台はいうわけです。それは「開会」です。
これは何かというと、中古天台でいう「煩悩即菩提、生死即涅槃」ではなくて、例えば「信解品」第四において、長者のお城を子供が迷い出ます。そして諸国を展転傭賃して、その日の糧のために日傭いをして諸国を流浪すること五十年、十歳のときに迷い出たとすれば六十になったころ、やっとある一つのお城にたどりついてその門前にたたずんだ。そうすると城の窓から父親である長者が子供を見つけるのです。「ああ、あそこにたたずんでいるのはわが子だ。」十歳のときに迷い出たとしても、もはや六十歳です。十歳とは書いてないけれども、例えば十歳のときに迷い出たとすれば、お城の門前にたたずんだのは六十歳です。それを父親がわが子だと見つける。そしてそばにいた一人の召使に、「あれを連れてこい」、「子供」とはまだいいません。最後まで子供とはいいません。「あれを連れてこい」、「はい」といってとっつかまえてくる。そうすると子供はびっくりして、私は何も悪いことをしていないのに、なんでつかまるのだといって癲癇を起こしたとお経に書いてあります。それがなぜ門前にたたずんだのだ。子供はここが父親の家だとは知らない。たまたま門前にたたずんだ。偶然門前にたたずんだのだけれども、偶然を必然と考えるのが宗教です。日蓮宗とはいいませんよ。全宗教がそうなのです。九鬼周造の『偶然と必然』、何かそういう本が昔ありました。昔むかし読んだことがあります。それを天台大師が何と解釈したかといえば、やはり「煩悩即菩提、生死即涅槃」で解釈する。それは五十年にわたる展転傭賃の辛苦、生死です。生死とは苦の代表です。生老病死の生死です。「展転傭賃の辛苦が」、辛苦が窮子の機感を育てて、それによって仏の応があったのだ。仏の応を得たのは、辛苦というのが原因なのです。そういうことを「生死即涅槃」といいます。
それが円です。円備、円足、そういうような意味があります。すべてを包含している。それは天台流にいうと中道です。増道損生、一番簡単な言葉でいうと、すべてを肯定するといいますか、すべてに価値を認めるといいますか、それが法華だというのです。その道は初心から仏に至るまで、『法華経』の場合は歩む。華厳の場合は十地から先しか中道は歩めない。法華の場合は初心、一番最初から歩んでいけるという。それを本当に歩みだすのは初住以後です。つまり修道の段階ではだめで、証道の段階になると歩みだす。それを増道損生といいます。それは何かというとこれなのです。一切の価値を認め、それを包含している。それが完璧にできたのが仏、それが完結したのが仏です。これが『法華経』の教えです。だから『法華経』の場合は、煩悩を捨てなくてもよいのです。むしろ煩悩を活用しなさい。苦を活用しなさい。苦しみにもだえて、日常生活でもそうです、苦しみにもだえ七転八倒している中から、これではだめだというので、菩提心がおきてくるものです。くる日もくる日ものんべんだらりとして、働かなくても金はいくらでもあるし、ごはんは食べきれないほどあるというところからは菩提心は生まれない、だめだというのです。本当にそう思います。思うけれども、私の場合は思うだけで日常生活に、それを具現するところまではなかなかいかない。というと、それでは現宗研の話ではないではないかと石川所長に怒られる。これは半分冗談です。
だから『法華経』は、我々凡夫にとって一番信仰しやすいのです。煩悩を捨てろといっても、どうやって捨てられますか。捨てられる人はだれ一人おりません。死ぬまでだめ。なぜならば我々の体は色受想行識の五蘊からできている。その五蘊がなくなるのは死んだときです。五蘊は煩悩の巣です。六根も煩悩の巣です。それをもっている以上は煩悩があるのです。これは非常に簡単な言い方にすぎないが、現実はもっといろいろ重複しておりますけれども、簡単にいうとそういうことになる。だから『法華経』は一番信じやすい、我々にとって一番身近なお経です。煩悩はなくさなくてもよい。生死があってこその進歩なのだ。生死がなければ進歩がないということです。
今度は『立正安国論』です。これは有名な『立正安国論』の一番最後の結論ですが、「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ」。『法華経』に帰依しなさい。「然レバ則チ三界ハ仏国也」。『法華経』に帰依するならば三界は仏国だ。「仏国其レ衰ヘンヤ」、仏国に衰微ということはない。「十方ハ悉ク宝土也。宝土何ゾ壊レンヤ」。壊れるということはない。「国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ、身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン。此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ」。(定遺二二六)身は安全だ。心がちりぢりばらばらになることはない。「此ノ詞、此ノ言」は暗には今までお書きになった『安国論』全体をさしておられると思います。つまり日蓮聖人自身の言葉を、「此の詞、此の言、信ずべく崇むべし」というふうに解釈できると同時に、もう一つは『法華経』の此の詞です。『法華経』の此の詞、此の言は、信ずべく崇むべしということです。本当なのだよというふうに私は数十年来、解釈してまいりました。
これが立正安国の誓願です。この言葉を信じなさい。信じているだけではだめです。そう思っているだけではだめだ。そう思ったならそれを実現しなければいけない。それが立正安国の運動であって、その立正安国の運動を死身になって展開してこられたあげくの言葉が『開目抄』のこの言葉です。「善に付け悪につけ『法華経』をすつる、地獄の業なるべし」。『法華経』を捨てるということが人間としてなしてはならない最も悪いことだ。人間として一番悪いことは『法華経』を捨てることだ。それはそう思います。なぜならば、『法華経』を捨てた人間はまっとうではない。だから念仏はまっとうではないのです。真言も『法華経』を信仰していないからまっとうではない。もうすべてまっとうではない。『法華経』を信仰していますから、まっとうなのは我々だけなのです。実際問題として本当にそうです。
「本願を立」、これは望月先生が昭和定本を編纂するときに「もと」と読ませることにした。「本願をたつ」ではだめ、「もと願をたつ」と読みましょうということになさった。それはぼくも覚えています。「日本国の位をゆづらむ、『法華経』をすてて観経等について後生を期せよ」。『法華経』を捨てて、観経とは『観無量寿経』です。つまり南無阿弥陀仏です。浄土三部経の一つ、観経等について後生を期せよ、そしたら日本国の位をゆずるよ。「父母の頸を刎、念仏申さずわ」。おまえが念仏しないならば、おまえの父母の首をはねるぞ。「なんどの種々の大難出来すとも」、ここに書かれている大難は、「勧持品」の二十行の偈文にも書かれておりません。
「父母の首をはねん」ではないですけれども、こういう問題を書いたのが遠藤周作の『沈黙』です。毎日毎日キリストの信者が長崎の牢屋でさかさつりになって、耳の両脇に穴をあけられて、ポトポト耳の脇の穴から血がしたたり落ちながら死んでいく。そのときの苦しみの声が、牢屋に入れられている牧師さん――何という人だったか忘れましたけれども――の耳には浪速節に聞こえるのです。いいな、おそらく手ぬぐいでも頭に乗せて月でも見ながら、「泣いたとてぇ」などと歌っているのだろうと思うのです。私は糞尿はたれ流し、立ち上がることもできない低い天井の牢屋にとじこめられている。ところが話を聞いたら、それは自分の信者が、自分がころぶまで一人ひとり殺されていった。その人たちのうめき声だったのです。その話を聞いたので、その牧師さんはころぶのです。キリストならばやはり信者の命を助けるだろう。自分がいつまでも強情をはって踏絵を踏まないと、一人ひとり信者が殺されていく。キリストならば信者の命を助けるだろうというのでころんだという『沈黙』という小説があります。それと似ている。
日蓮聖人は、そんなことではころばぬというのです。
なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずは用じとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ。我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願(誓願)、やぶるべからず。 (定遺六〇一)
「立正安国を実現しますよ」と仏さまに誓った。だから誓願です。仏さまとの約束ごとです。「誓いし願やぶるべからず」。仏さまとの約束ごととは、『法華経』の教主釈尊には仏勅があるということです。
『法華経』の中から仏勅に関する主たる経文を列挙すると、
一、若し此の経を説かん時、人あって悪口し罵り、刀杖瓦石を加うとも、仏を念ずるが故に忍ぶべし。
(「法師品」第十)
二、如来久しからずして当に涅槃に入るべし。「如来不久 当入涅槃」。
これは『法華経』の中のただ一カ所の如来は死ぬよというお言葉です。もうやがて死にますよ。
仏此の妙法華経をもって付属して在ることあらしめんと欲す。「仏欲以此 妙法華経 付属有在」。
(「見宝塔品」第十一)
三、もろもろの大衆に告ぐ、我が滅土の後に誰か能くこの経を護持し読誦せん。今仏前において自ら誓願を説け。 (同品)
今仏前において自ら誓いの言葉を述べよ。
四番目は六難九易があって、
もろもろの善男子、我が滅後において誰か能く此の経を受持し読誦せん。今仏前において自ら誓言を説け。
(同品)
「見宝塔品」には三回仏勅があります。
五番目は、
我ら仏を敬うが故に、ことごとくこの諸悪を忍ばん。
これは「勧持品」第十三の二十行の偈文の中です。
それから六番目は、
仏の告勅を念うが故に、皆当にこの事を忍ぶべし。
その一番最後の方には、
我はこれ世尊の使なり、衆に処するに畏るる所なし。「我是世尊使 處衆無所畏」。
以上の六文の中の第二番目は、教主釈尊が証明法華多宝如来の七宝塔、つまり舎利塔(お墓)の中にお入りになり、二仏並坐されてからの最初の言葉です。「仏欲以此妙法華経付囑有在」という言葉が、宝塔からの最初の言葉です。
この品で、仏勅が三回繰り返される中の、第三回目に当たる四番目の六難九易を説いての仏勅は強烈です。これについても、私の心持ちをお話ししなければならないけれども省略します。仏勅は強烈であり、既に早く伝教大師も『法華秀句』で、右の二番目の「如来不久当入涅槃。仏欲以此妙法華経付囑有在」の経文と、四番目の「六難九易」の経文をあげて、「多宝分身付属勝九」という、第九章を立てて以来の天台法華教学の伝統的着眼点なのです。ということは、伝教大師も日蓮聖人がおっしゃるように「法華経の行者」です。伝教大師も法華経の行者値難の経文に深く感銘するところがあった、思いこむところがあったということです。
有名な言葉として、「六難九易」というのは伝教大師が初めて数えたのです。天台大師も妙楽大師も「六難九易」は数えていません。以上第一易、以上第二易といって、経文を一々あげながら伝教大師が「六難九易」を数えた。ただし六難九易とはいっていない。以上六難とまではいっているけれども、六難九易とはいっていない。それを日蓮聖人がまとめて「六難九易」と受けとめた。つまり下種仏教ですから、したがって言葉を四文字でまとめる。しかも的確におまとめになるということが非常に優秀だった、お上手だったのです。
これ等の経文を、ただ経の中での出来事にすぎないというので見過ごしたりはしないで、滅後末法の自分自身に対する教主釈尊の告勅、仏の強烈なご命令として強く重く受け止め、告勅に対する自身の決意のほどを表明した日蓮聖人の遺文の代表は、佐渡配流の第二年目(一二七二年)、塚原三昧堂でお書きになった『開目抄』である。
『開目抄』では、二番目を「第一の勅宣」、三番目を「第二の鳳詔」、四番目を「第三諌勅」、これに「提婆達多品」第十二の提婆成仏と龍女成仏とを「二箇の諌暁」として追加し、アドバイスとして追加し、「已上五カの鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり」(定遺五八二〜五九〇)と。このあと、日蓮といいし者はいぬる文永八年九月十二日、龍口で頸を切られた。これは、「魂魄佐土の国にいたりて」という有名な言葉が、この直後にでてきます。
以下に「勧持品」の二十行の偈文と、自己の今までの受難体験とを一々照らしあわせ、そして結んで、
抑たれの人か衆俗に悪口罵詈せらるる。誰の僧か刀杖を加へらるる。誰の僧をか法華経のゆへに公家武家に奏する。誰の僧か数々見擯出と度々ながさるる。日蓮より外に日本国に取出んとするに人なし。(定遺五九八)
こういう言葉で「五カの鳳詔」が結ばれる。つまり教主釈尊の仏勅を非常に強く重く受け止めたのが日蓮聖人です。そこにやはり立正安国実現の情熱があるわけです。『法華経』を仏として、仏の言葉として受けるという、一口でいうと信仰、法華信仰というものが、やはり平成時代の我々とは非常に違う。全然異質であるという反省に私は立つのです。
「宝塔品」の三箇の勅宣に対する認知は、『開目抄』の前年の文永八年(一二七一年)十月二十二日、佐渡が島の目前の越後寺泊まで連行されてきたとき、下総の富木常忍に宛てた「寺泊御書」なる書簡において初めて見られます。
「正宗はこれを置く、流通に至って宝塔品の三箇の勅宣」、ここで初めて仏のご命令という言葉がでてくる。
霊山虚空の大衆に被らしむ。勧持品の二万、八万、八十万億等の大菩薩のご誓言は、日蓮が浅智に及ばざれども、ただし恐怖悪世中の経文は末法の始めを指すなり。当時当世三類の敵人はこれあるに、ただし八十万億那由他の諸菩薩は、一人も見えたまわず。日蓮は八十万億那由他の諸菩薩の代官としてこれを申す。かの諸菩薩の加被を請うる者なり。(定遺五一五)
この「八十万億那由他の諸菩薩の代官」なる自己認識は、即ち二十行の偈文の体験者としての自己認識の意味であり、佐渡期から身延期へと展開するにつれて、やがて「地涌千界」――『勧心本尊抄』では「地涌千界」――「上行菩薩」――このお言葉は、法華取要抄、佐渡の一番最後、身延の一番最初、自覚へと昇花していくのです。佐渡の一番最後に上行菩薩、上行自覚、上行菩薩の法門が生まれます。
三、不借身命
こういう仏勅による誓願を実現するための努力、情熱、それが不惜身命です。この不惜身命ですが、日蓮聖人の大難四カ度ということも実は我々が耳にたこができています。ああわかっている、知っているよ、もう聞かなくてもいいということで、あまりひしひしと感じないような向きがあるのではないでしょうか。私自身がそうなのです。それでまず大難四カ度の経文をだしている。それとよく似たそういう情熱は、お釈迦さまも天台大師も、章安大師も伝教大師も、そういう情熱のもとに、死身弘法の熱意のもとに生涯を終えられたことを、日蓮聖人の大難四カ度をさらに強めるために申しそえておいたということです。大難四カ度は『開目抄』です。
此に日蓮案じて云く、世すでに末代に入て二百餘年、邊土(日本という)に生をうく。其上へ下賤、其上へ貧道の身なり。輪廻六趣の間には人天の大王と生て、萬民をなびかす事、大風の小木の枝を吹がごとくせし時も仏にならず(自分は仏になれなかった)。大小乗経の外凡内凡(外凡から内凡へ、内凡から聖位へと)の大菩薩と修しあがり、一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入ぬべかりし時も(円教でいうなら初住です。ここから先が増道損生)、強盛の悪縁にをとされて仏にもならず。しらず大通結縁の第三類(これはまだ法華経を聞いたことがない。大通智勝仏の第十六王子釈迦菩薩沙弥から法華経をきかなかった人)の在世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来るか(どうして退転したかという強盛の悪縁の説明です)。法華経を行ぜし程に、世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍し程に(忍んでいたが)、権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者(悪鬼入其身の者)、法華経をつよくほめあげ、機をあながちに下し、理深解微と立て(深い教理をもった教えを末法において選んでも、受ける人は下機下賎だから、何にもならない。受け入れる能力がない。猫に小判を与えるようなものだ。猫にとっては小判をもらってもうれしくない。それよりは猫にはかつおぶしがよいのです。かつおぶしとは何かというと念仏です。易行念仏です。この邊では日蓮聖人は法然念仏の特徴を理深解微の言葉でおさえておられるようです。これが悪縁なのです。『守護国家論』のころは、法然念仏について非常に多くのことをいっておられますが、この辺では理深解微という一言で――一言でというといけないかもしれないけれども――おさえておられるように見受けられます)、未有一人得者千中無一等とすかししものに、無量生が間、恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ。権経より小乗経に堕ちぬ。(小乗経から今度は)外道外典に堕ぬ。結句は悪道に堕ちけり(ころがっていって落ちていった)と深く此をしれり(自分は知っている)。日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必来るべし。いわずば(国主の王難がおそろしいからといっていわずは、日本国にこれを知っているただ一人の自分がいわなければ)慈悲なきににたりと思惟するに(どうしたものか、いうべきかいわざるべきかと思惟していて)、(そして結局は)法華経、涅槃経等に此の二邊を合せ見るに(いうべきかいわざるべきかの二邊をあわせ見てみると)、いわずわ今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必競ひ起るべしとし(知)ぬ(いわなければ地獄に落ちるよ。だからいうことに決めた)。二邊の中にはいうべし(いうことにしましょうというので、立教開宗しようと思った)。(しかし)王難等出来の時は退転すべくは一度に思ひ止むべし(しかし、いいだしたことはよいけれども、王難がやってきた。たまらないというので退転するぐらいであるなら、今のうちに一度に思いとどめておこう)、と且くやすらい(休)し程に(考えをめぐらしておられた。どこでかといえば清澄です。それは想像にすぎませんけれども、茂原の藻原寺から裏山の方にずっと登っていくと、皆様ご存じの五大院安然の墓があります。五大院安然の墓は日本じゅうに三カ所か四カ所あるのです。その墓のところをもう少しずっと行くと、笠森観音――これは紫式部の時代にすでにあったそうです――があって、そのお堂の一角に「日蓮聖人おこもりの間」というのがある。そこに何べんかおまいりに行った。観音さまだから「おまいり」という言葉を使ってもいいだろうと思うのですが、「おまいり」という言葉を使うなんて、昔の坊さんはやかましかったです。日蓮宗寺院に行く以外は絶対「おまいり」といってはだめだった。それはそうなのです。それはそうなのですけれども、阿弥陀さまにしても大日如来にしても、薬師如来にしても、お釈迦さま、教主釈尊の分身です。『開目抄』にも書いてある。分身ならばおまいりしてもよいじゃないですか。だめですか(笑い)。だけども「おまいり」というのをあえてさけるとしても、大日如来の前をよく通ります。例えば比叡山にいくと大日如来の前を通ります。阿弥陀如来の前を通ります。それからいろんなお寺に大日如来、阿弥陀如来、薬師如来をおまつりしてあります。奈良の寺院、平安の初期の寺院の薬師如来。そこを仏さまの前を通りながら、知らんふりして通りすぎるのはやはりいけないだろうと思います。例えば自分のお寺で、全然他宗の人かなんか知らないけれども、本堂の前をしらんぷりして、パッとつばでもふっかけながら通り過ぎられてごらんなさい。ぶんなぐりたくなるでしょう。そんなことはないですか。これは冗談ですが。分身ならよいじゃないですか。「此の過去常に顕わるる時、諸仏みな釈尊の分身なり」と『開目抄』に書いてあります。『開目抄』で引いてあるのだから、あながち冗談ともいえません)、(そこでやすらうておられたのではなかろうか。これは想像です。そのおこもりの間に入りますと、私が行ったときは曇っていたので、あまりよく見えませんでしたが、非常に眺めがよくて、そこから清澄が見えるそうです)宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者須弥山はなぐとも(なげることができるとしても)、我等程の無通の者乾草を(背中に背)負て劫火にはやけずとも(焼けないで通りすぎることができるとしても)、我等程の無智の者恒沙の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるるはこれなるべし(これだと)。今度(宝塔品の六難九易に遭遇したときに)強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ(退転しないと、これも誓願です)。(そこで願をたてて)既に二十余年が間此法門を申すに(三十二歳から五十一歳まで)、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ(伊豆の伊東と今回)。今度はすでに我が身命に及ぶ(ですから龍口法難です)。其上へ弟子といひ、檀那といひ、わづかの聴聞の俗人なんど(日蓮さんという人が松葉谷の草庵で法華経の話をしておられるそうな。せっかく近所にきたから、ちょっとのぞいてみようかというので)来て、(たまたま松葉谷の草庵にやってきたがために)重科に行はる。謀反なんどの者のごとし(謀叛などの者のごとし)。(定遺五五六〜七)
これは非常に大変なことでありまして、そういう日蓮聖人の誓願を実現するための情熱がなければ、立教開宗七五〇は、お題目総弘通は実現しない。最終的にはそうに違いないと思います。
さて、日蓮聖人の外相承の師、釈尊、天台、伝教、それに章安大師を入れます。お釈迦さまは、前正覚山で阿若

陳如等の五比丘とともに六年苦行をなさった。その間は水しか飲まなかったということです。そして苦行ではだめだというので、尼連禅河で体の垢を洗い落とされた。垢を洗い落とすと同時に、エネルギーが全部流れでてしまったというのか、ぐったりなってしまわれた。百日の荒行からでると、ああ済んだというのでやっぱりぐったりなるでしょう。ぐったりなって河岸からはいあがることができないでいると、川上からスジャータが牛乳をもってやってきた。それでそのお乳を下さいと一合ばかりいただいた。それでやっとはい上がって、菩提樹下に安坐した。仏陀伽耶です。その仏陀伽耶で明けの明星を見て、明けの明星が輝いたときにお釈迦さまはさとりを開かれた。
そのさとりの中身とは『華厳経』です。そうすると、そのさとりの中身をお釈迦さまはだれにまずお話ししようか、だれに伝えようかと考えた結果、自分と六年間苦行をともにした阿若

陳如等の五比丘に伝えたい。その五比丘の所在をたずねると、彼らはベナレスだ。つまりバーラーナーシ、鹿野苑にいるということがわかったので、お釈迦さまはそこまで歩いていかれる。私が巡拝したときは、ガタガタバスにゆられて仏陀伽耶からベナレスまで行った。それであまり長い時間がかかったので、何キロぐらいあるかと運転中に尋ねたら、確か二百四十キロといっていた。二百四十キロというと六十里です。そのうち日本に帰ってきて、皆様方ご存じか、釈尊会の小野兼弘という人は百回ぐらいインドに行っているので、インドから帰ってすぐ、あの道は大変だったのだよねと兼弘君に話したところが、いわく「それは新しい道なんですよ。お釈迦さまが歩かれた道はもっと迂回した道なのです。その道を歩くと三百六十キロある」というのです。ざっと百里です。お釈迦さまは百里の道を歩いていかれた。しかもその前は牛乳一本しか飲んでいないのです。出山の釈迦は骨皮筋衛門でしょう。おそらく蹌蹌踉踉、蹌蹌踉踉としながら、はいずりながらかもしれません。石のごろごろしたひどい道を歩いてゆかれた。これはどうしてか。やっぱり弘道の精神にもえて初一念を貫徹なさったということでしょう。
それからもう一つお釈迦さまについて申し上げるならば、『大般涅槃経』北本四十巻は国訳一切経にあります。私もある夏に読んだ。すると、まず「寿命品」第一というのが巻一と巻二に分かれております。巻一は「お釈迦さま、お亡くなりになるのですか、それでは最後の我々からの供養を受けて下さい」といって、臨終の涅槃の座にやってきた人々全員が「私の供養をうけて下さい、私の供養をうけて下さい……、私の供養をぜひ」と、もう死にかかっているお釈迦さまにみんなで言うのです。それが第一巻です。第二巻は、今度は「お釈迦さま死んではいやだ。お釈迦さまは我々の主師親ではないか(主師親という言葉はたしか経文にでてきたと思います)。我々を残して死んではいや、死んではいや、何で死ぬのだ、死んではだめ、死んではだめだ……。」と死にかかっているお釈迦さまに全員がいうのです。どうするか。これは浅井円道ならば、うるさい、あっちへいってくれという(笑い)。静かに死なせてくれと当然いいます。
ところがお釈迦さまはそうじゃない。金棺から起き上がったわけです。それから死にひんして一日一夜で三十八巻のお説教をなさった。これはやっぱり本当に我々とは違います。本当は、それでなければだめなんです。そうでなければだめだと思うけれども、そこまでは我々ではちょっとできない。だけれどもお釈迦さまはそういうふうになさった。
それから今度は天台大師です。ここにだした資料は、佐藤哲英さんの「天台大師の研究」の一節です。
智

は『浄名玄義』十巻を第一回目の献上本として晋王(晋王広、天台大師滅後、隋の煬帝なるお方、この人が天台大師の最大のパトロンです)に差出し、開皇十五年(五九五年)の秋、(亡くなる三年前)天台山に帰ったが、その後も智

は『維摩疏』(浄名経の文句にあたるもの)の述作に専念した。その後一年有半の歳月を費やして、先に献上した「十巻玄義」を新たに手を加えて六巻の玄義となし、これに文句八軸(今度は経文解釈書八巻)を添えたものを第二回目に献上したのは開皇十七年の春であったかと思う。亡くなった年の春(亡くなるのは秋十一月二十四日、だから霜月会という)。智

はさらにその年の夏安居中も玄義を改治し、一百余日の間(もう臨終の床です)病苦と戦いながらも、経文の解釈を進めて、やっとのことで仏道品に至り、漸く三十一巻が出来上がった(あと三巻を残す)。(ところが)開皇十七年十月、晋王は使者を天台山に派遣して迎えたので(紹興、つまり紹興酒の紹興にいらっしゃいと。紹興に晋王は住んでいた)、智

は王使と共に下山して(やむなく)石城寺まできた。
石城寺というのは天台の西門だと書いてあるのですが、私は今日に備えてあらためていろんな天台山の図面を、あれを見たりこれを見たりして調べたのだけれども、どの図面にも石城寺というのがない。いろいろ中国の地名事典とかを調べましたが、「石城峰」はあるけれども、石城寺というのはありません。だけど天台山の西門というから、図面で見ても何川か知らないけれども川が流れている。そうすると天台山がこうあると、ここから入っていく門と、ここから入っていく道と二つありますから、こちらがおそらく出口です。
西門、石城寺まできた。しかるに病が改まってさらに進む能わず。遂に死を覚悟した智

は晋王に対して(ここで死んだのです)長文の遺書を口授したが、その中に『浄名義疏』三十一巻を献上すべきことを告げている。このように智

が晩年に死期を早めてまで心血を注いだのが『浄名義疏』です。これはパトロンの求めに応じて、臨終の病をおかして書きあげた。ある本によると、このとき自分が書いた三十一巻を石城寺までかついできたという話もあるぐらいです。それは正式の例えば佐藤哲英さんの研究書等にはそういうところまでは書いていない。これは大変なことです。これはいわば学者・伝道者としての情熱です。
『浄名経』は天台が重んじた『法華経』、『涅槃経』、『金光明経』、それから『大集経』などと共に重んじた。『大集経』といいますと、このごろ必要があって身延の日向上人の『金鋼集』をずっと読んでいるのですけれども、善見門のところに大集経全部が書いてあるのです。第一巻、ここのところとここのところ、こういうことが書いてある、これは大事だ。第二巻、これは大事、第三巻、これこれこれが大事だと書いてある。
日蓮聖人はそれほど『大集経』はひいておられない。大集経というと大体において五五百歳のところだけです。まだ他にもあるけれども、大体において五五百歳のところです。なぜ日向上人がそんなに『大集経』を一生懸命になって読まれたのだろうかと思っていた。たまたま今『法華玄義』の講読を大学院でやっていたところが、『大集経』と書いてある。それと『維摩経』です。やっぱり日向上人はずいぶん一生懸命になって一切経も読んだお方です。驚いています。私はまだ『大集経』を読んだことがない。そのうち死ぬまでに読まなければいけないです。
次に章安の場合です。章安は天台三大部をノートして、それを整理して今日の本にしたてあげた人です。天台大師智者大師智述、章安記。これは何からの資料かといえば、天台大師全集の中の「法華文句」の部分の解題です。その解題を書いた人は多田孝隆。
章安尊者は題下細注の六難に続いて「余二十七にして金陵に於いて(法華文句を)聴受し、六十九にして丹丘に於いて添削す」としてある。
これはどういう時期かといいますと、章安尊者が二十七というのは、隋の開皇七年(西暦で五八七年)です。それから六十九歳は、唐の貞観三年(六二九年)、隋が滅んで唐が興るという隋末、唐初の戦乱の巷なのです。その間を講義ノートを風呂敷に背負って、あっちに逃げこっちに逃げて、戦乱を避けながら、ノートを整理し成文化していった。これも大変なことです。できることではない。しかも例えば一切経とかそういう参考書などが座右においてあると、いくらか整理しやすい。ここのところはこういうふうに書いてあったけれども、原文に当たるとどうなのかということがなければ整理できないです。そういう資料も一切ない。そういう中で、わずかに例えば吉蔵の「玄論」とか、そういうものを一冊か二冊もって参考にした。これは章安さんのご苦労です。これもやはり相当な強固な意志がなければできるものではない。
最後に伝教大師の場合は、これは川越の喜多院のご住職だった塩入亮忠さんの『伝教大師』です。
五月十五日、大師は義真(比叡山の初代座主。伝教大師は根本大師で数には数えない)に一宗を付嘱して、比叡山寺の私印を授けた。(私印とは公には政府が認可しなければだめなのです)。付嘱の書に「最澄、心形久しく労して一生ここに窮まれり(つまり遺言です)。天台一宗は、桓武天皇の公験に依る。同く前入唐天台受法沙門義真に授くること已に畢んぬ。」と。
ここに「心形久しく労して一生ここに窮まる」とは、大師の遺告であった(もう自分は疲れたという言葉が、遺言の第一行目に書いてあるということです)。桓武天皇崩御以来ここに十有六年間、大師は、一は大戒の樹立のために、一は権実論諍の為に、身も心をも労し盡して、臨終の期が刻々に迫ってきた(臨終のときを迎えたのだ)。
それは延暦二十五年(八〇六年)に五十代桓武天皇は天台宗を許可して、すぐ死んでしまう。五十一代は平城天皇は平城と書いてあるように奈良の方ばかり向いておられた天皇です。桓武天皇のときに京都に遷都なさったけれども、平城天皇になると今度は桓武天皇が奈良仏教を弾圧したから、平城天皇は奈良仏教をたてた。それから大同五年(八一〇年)が弘仁元年、嵯峨天皇になると、嵯峨天皇は一口でいえば空海を友達としていて、最澄の方は見向きもしなかった天皇です。そういう中にあって、伝教大師は弘仁七年(八一六年)、『依憑天台集』を書いています。これは有名な奈良六宗および真言宗、禅宗に対する戦宣布告の書です。「大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集」といいます。
弘仁八年(八一七年)から弘仁十三年、亡くなるまで、一三権実論争、仏性論争を法相宗の徳一と戦わせた。その中に引かれている仏性論関係の書物は、何百冊にも及んでおります。インド、中国、日本にわたっている。それから弘仁九年、翌年から、今度は大乗戒壇独立運動のための論争に入る。そして大乗戒壇独立運動とは、権実論争と違って、相手に勝ったということだけではだめなのです。相手を納得させなければ勝利を得たことにはならない。相手に「うん」といわせなければ勝ったことにならない。だから「事相たる故に一重の大難これあるか」というお言葉が日蓮聖人のご遺文にあります。
そういうことで、日蓮聖人が外相承の師とたてられた方々は、いわばそれぞれ一宗の開祖です。開祖には生みの苦しみがある。それで我々はそれを持続していかなければならない。持続するためにはどうあるとよいかという一端として、皆様方もこうありたいということを望むわけであります。
おわりに
これはまた話が違ってまいりますけれども、最近の世の中で何が大事なことかといえば、世相を見ると大事なことがいろいろあります。世相を見ないということは、塵沙の煩悩があるということです。塵沙の煩悩をなくすためには世相をよく見なければならない。「見思塵沙の無明」と。社会現象を見ていると、天変地異ももちろんありますけれども、一つは若者どもの秩序というか、礼儀というか、男女関係というか、そういうことの頽廃がある。それは文明の利器に押しっぱなしに押されているという面もあるかもしれません。自動車ができたために犯罪がしやすくなった。それから携帯電話ができたために、警察が電話かけてきたその発信地を探すことができなくなってきた。いろいろそういうことがありましょうけれども、現在において大事な事柄の一つは、これはお題目総弘通運動とあるいは関係ない、あるいは間接的に関係がある、あるいはお題目総弘通運動とはそういうことかとも思いますけれども、いわば仏教的な言葉でいえば、戒律、道徳、倫理、そういうことを声を大にして矯正していくということも大事ではないかなと思うのです。
日本国はだんだん滅亡していきますよ。例えば結婚しても成田離婚というのがはやっているという。成田まで帰ってきたら「さよなら」と離婚してしまうのがはやっている。それは一口でいうと倫理問題だと思いますけれども、そういうことも大事にしてほしい問題の一つだと思います。
龍頭蛇尾というか、最後のしめくくりもあまりないままに私の話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
※本稿は平成九年五月十五日、東京都新宿区常圓寺にて開催された第二十九回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。