日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第31号:318頁〜 第二十九回中央教化研究会議 ←前次→

   部会報告(要旨)

   第一現代教学部会

    座  長 西口玄修
    問題提起 大西秀樹
    記  録 西口玄修(二部)・三原正資(三部)
    運  営 吉本光良・難波宏正
    参 加 者 三十六名

 宮沢賢治の作品や生涯の根底に、法華経弘通の精神が生きていることを賢治の文学から学び、時代にあった布教について語り合おうとすることがねらい。
 部会を三部構成にして、第一部「知ってるつもり・宮沢賢治」スタジオライブ感覚でOHPなどを使い、司会とコメンテーターとの会話形式で、法華経の弘通者としての賢治を浮かびあがらせながら生涯を辿った。
 第二部では、「銀河鉄道の夜」や「青森挽歌」を引用しながら作品と法華経の関係を三原師と福島師の二人に語り合ってもらった。
 賢治は、妹トシの死を契機に、近代に於いて死と取り組んだ思想家であり、聖人のご遺文に精通していた。「銀河鉄道」の夜には、人間の死と輪廻の思想を主題に、法華経の譬喩、十界互具の大曼荼羅、お題目を暗示している箇所がある。我々は、本仏の世界から誓願して、この娑婆世界に生まれてきたのではないか、というのが賢治の法華経を通して観た人間観であろう。
 「デクノボー」とは常不軽菩薩精神であり、我々教師もその精神を賢治から学び、聖人の誓願を受け止めることに、宗門の再生の道があるのではないか。という問い掛けがあって終わった。
 第三部では、それぞれの賢治観や現代布教の有り方にどう学び、生かしていくかを考える自由な討論の場とし、合わせて賢治の誓願と我々の誓願を重ねる方向に論議を向けたかった。以下、主な意見を並べる。
○賢治は、僧侶と檀信徒の接点を探るきっかけになる。
○小学生にもわかる、仏教用語を使わない説き方を学ぶ題材として作品が使える。
○「銀河鉄道の夜」には、死後の永遠の生命(来世に続く命)が表現されている。……壽量品の世界
○賢治は文学で法華経を表現したが、我々は個人それぞれのやり方で工夫して布教すればよい。
○賢治の法華経を受け止める所に出発点がある。
○「雨ニモマケズ」に感動したが、「サウイフモノニ……ナリタイ」(賢治の誓願)に救われる。
○死ぬまで不軽菩薩の心ですべてのものに合掌したい。

 集まった方々は、賢治とその作品に関心が深く“賢治に学ぶ”という意味では成果はあったが、自身の誓願にまで、論議を結びつけるには至らなかった。
                   (西口玄修)
   第二現代教化部会

    座  長 進藤義遠
    問題提起 伊藤立教
    記  録 岩永泰賢・小澤惠修
    運  営 内山智修・田口学正・植田観樹
    参 加 者 二十三名

 第二部会の現代教化部会では、昨年の『七五〇戦略構想』のパート2と題し、昨年のシュミレーションから一歩踏み込んだ、現実の教化現場を想定した教化マニュアルを主題とした運営を試みようと計画した。現実にはこの運営計画は実現出来なかったのであるが、その運営形態をまずは報告して置く。

 まず、「開・示・悟・入」の四つの観点から現代を見据えた教化方法を検討し、「あなたは戦士たりうるか?」というメッセージの中で、最終的な教化を完成させ、新たな戦士を作り出すという戦略構想である。つまり、「開」の場面は、信徒、未信徒にまずは目を向けて貰うという事に対し検討を加えるというものである。これは当然現代社会の構造等を視野に置いた見地を背景にした分析を目的としたものである。次に、「示」の場面は、「開」の場面で目を向けて貰い、認知された教えをどのように示して行くかを検討する。現代人のアンテナにいかに適合した教示の方法を検討できるかがここの大きな問題である。次に、「悟」の場面は、示された教えをいかに理解してもらうかという問題である。既成の教学や伝統的な布教方法などを再検討しながら、それらの応用性や新たな布教方法を検討することが目的である。最後に「入」の場面は、これまで検討されてきた問題をすべてクリアーされたことを大前提として、いかに実践し教化活動の戦士として現代社会に対応して行くかが目標である。このように、ひとつひとつを役割分担し、ひとりの教化戦士を育成して行こうとするシュミレーションを計画したのであるが、部会参加者が少数であった為や分業性の困難さが、現実化できなかった原因ではなかろうかと考えられる。
 いずれにしても、「現代社会」をバックボーンとしているこの部会は、現実的な教化方法を考えるには一番適した周辺の検討の場面ではあるが、それと同時に、あまりに現実的な問題であるがために、現実的思考が先行し、現実を背景とした分析と未来的進歩的思考が非常に困難であることを痛感した。

 さて、部会会議の進行は、問題提起の後、先に示した分業の方法では無く、フリートーキングの形態を用い、現代社会の教化場面を浮き彫りに分析を加えながら、その問題点と方法論を討議した。以下、主要な意見を挙げることにする。
○信行会活動の困難性、その組織的な役割等が不透明な現状がある。
○中央や管区などで示された教化方法と現実の現場とのギャップが大きい。
○教学は寺院運営の場において直接は関係がないように見えるが、その信念が実は重要な要素を占めている。
○檀信徒と共有できる教学が必要。
○創価学会対策は、日蓮宗でなければ駄目だという自信と自覚がまず必要である。また、学会対策の専門集団が必要。
○核家族化、個人主義への対応が遅れ、これらの現代社会の構造に対する認識が欠落してしまっている。
○権威の弱体化。上からの権威では無く、信仰的な権威が弱体化してしまっているのではないか。
○寺院運営や信行会などもっと組織的な活動が必要。教師間のネットワークや檀信徒間の横の繋がりを強化する必要がある。
○檀信徒規約を確立して、組織の強化を計る。
○檀信徒を含めた「教化集団」を結成して行くことが必要である。その為に本物の檀信徒を作らなければならない。
 他にも多くの現場からの問題提起がなされ、それぞれ現実的な問題意識の中で討議が成された。

 これらの意見を総合的に分析すると、現代社会の中で「教」そのものの権威(役割)が衰退化し、外に向かっての活動が困難に陥っている。その原因は「教学」が実際の教化の現場において有効な能動性を発揮していないこと、また、檀信徒と共有できる教化の場が作り出せないなどの問題が存在するようである。
 また、それぞれ独立した教化場面では無く、中央と地方がネットワーク化した中で有効な教化活動がなされなければならない。その為の組織の見直しや強化が必要であろう。この組織への要望は、他教団への対策問題を含むものであり、核家族、個人といった社会構造への立ち遅れを指摘したものであり、今後の課題のなかでもこの問題は急務であることが伺える。
 これらの問題の背景には、教師各々の自信と自覚が最低必要条件であり、それを欲する体制と教化を促進する為の教学の在り方、新たなる体系、構築の必要性が求められているのではなかろうかと考えられる。

 以上、今年の部会の報告事項を記したが、来年以降のこの部会の役割については、最後に記したように、教学の必要性の再認識を根底とした、教化活動への能動性を中心に検討する機会を模索しながらより機能的、有効的な部会運営を期待したい。(小澤惠修)


   第三現代教育部会

    座  長 中山観能・宮淵泰存
    プロデュ
    ーサー  田島辨正
    インスト
    ラクター 影山教俊
    記  録 龍沢泰孝
    運  営 間宮啓允

1、オープニング
 現代教育部会は、メインキャスター中山師によるお題目三唱にて幕を開けた。先ず、時間割の説明・運営委員の紹介・会議進行の順序と説明が行われた。
2、ガイダンス
 コーディネーターの田島師より、会議趣旨の説明、これまで行われて来た当部会の主な経緯の説明に続き、今回は我々自身がどのような僧侶にならねばならないか、自分自身の問題として取り組んでもらいたい。との要請がなされ、エゴグラムを実際に行なって、そのデータに基づいてグループ分けすることが了承された。
3、エゴグラム(仮称 性格診断表)体験
 影山師より、TEGエゴグラムを行なう意味と方法の説明(心というものを客観化して形に表し、そのデータを元に良い意味での人格の変容が出来る等々)がなされた。
4、ディスカッション
 先ず、これまで信行道場に関係した方々より意見を聞いた。
○道場入行者の人柄が分からない為、苦しんだ面があったが、このエゴグラムを使用することにより、レベルの調整等非常に有効に思う。
○道場の備品が足りないことも多く見受けられ(拂子の数がない為ハタキを使用等)修行以前の問題で非常に残念に思った。
○女性は女性が教えるべきだと思った。
○自我偈を読めない人もいた。しかし今になって思うと、その人なりに伸びて行けばいいのだと考えるに至った。
等々。
5、グループワーク
 エゴグラムを活用して実際にABCDEの5グループをつくり、活発な討議がなされた。次にその中の主だったものを列記する。
○僧侶としての自覚の高まった人を入れるべきである。
○終了後も僧侶とはいかにあるべきか持続して学ぶべきである。
○僧風林の強化、僧侶とはこんなにすばらしいものと感じさせる教育をしたい。
○もっと基本的理念を植え付けてもらいたい。
○指導者を十人位に増やしたらどうか。
○発心し、自覚を持ち、感動を持たせて信行道場を出したい。
○班編成は不可欠なのだから、エゴグラムを願書と一緒に出したらどうか。
○信行道場に携わったが、エゴグラムを活用すれば、過ごしやすい道場になると思う。
○学ぶ場所が信行道場しか無い所が問題、何時行ってもいつも開設していて、教師だれもが学べるような道場が必要ではないか。
○生涯に渡って学んでいくこと(カリキュラム)が大切。
○道場を終えたらテストをして、成果の見られぬ人は、再びやらせるような方法を取れば、自然と真剣になると思う。
○一生が求道であることを自覚させるべきである。
○今回は非常によい話し合いでよかった。
6、エンディング、今回のまとめ
 @技術面の指摘(読経テストをもっと厳正に)
 A精神面の指摘(求道心を高め、子供の頃から感動を与えよ)
 B指導者の指摘(充実したスタッフ、立場を考える心をもて)
 Cカリキュラムの指摘(エゴグラムを活用し、グループワーク等よい環境つくって)
 D後のケアについて(ダメな者はやり直しさせ、生涯学習して行くようにしよう)
 現実に東大式エゴグラムという手段を用いてみて、その効果を実感した現代教育部会においては、信行道場の更なる充実を期し、会議のしめくくりとして、次のような部会決議を行なうに至った。

部会決議
「エゴグラムを信行道場で活用し、さらに充実した道場にしていってもらいたい」

 以上の意見を第三部会の決議とし、宗門にアピールすることを決定し幕を閉じた。(龍沢泰孝)


   第四現代社会問題部会

    総合座長 山口裕光
    T日蓮宗ボランティアネットワーク構想
      問題提起 奥田正叡
      記  録 平井良昌
    Uオウム事件の残したもの
      問題提起 貫名英舜
      記  録 灘上智生
    V看取りと臨終教化について考える
      問題提起 柴田寛彦
      記  録 都 泰雄
    運  営 古河良晧・玉川覚祥・吉田永正
         梅森寛誠・石川修道・中井本秀
         岩渕真永

はじめに
 本年は、昨年からの継続テーマと日医研からのテーマの三つを分散して討議した。
 「本部会は、社会的問題に関心を持ち、法華経精神により活動する事を討議する場である」との部会の性格付けがなされたうえで、各問題提起者よりレジメに沿った問題提起要旨が発表された。それを受けて各参加者は希望するパートにわかれて討議を行った。
 各パートの討議内容は以下の通りである。

T日蓮宗ボランティアネットワーク構想
 昨年の当部会で採択された提言をもとに、本年三月十一日に結成された「日蓮宗ボランティアネットワークLOTUS」(本宗教師だけではなく、檀信徒並びに一般の方々が参加しており、平成八年九月現在で計三十五の個人、団体が加盟している)の紹介をしながら、僧俗一体となった日蓮宗宗徒の立場から見たボランティア活動の理念と具体的方向性、今後の展望を下記の五つの項目について検討した。
  Aボランティア活動の基本理念について
 ―法華経信仰の立場を中心に―
 「大聖人の福祉思想」つまり「@娑婆即寂光土という現世肯定、A本化地涌の菩薩という使命観、B摂受と折伏が不可欠であるとの前提」と「忍性批判」つまり「一応忍性の慈善事業は認めるが実際は教行相違である」の二つを題材にして検討をした。
 結論として、
 大聖人の基本は、民衆の宗教的救済であった。大聖人は他の苦しみを自分の苦しみととらえ(代受苦)、これをもとに常不軽菩薩の仏性尊重と人類平等の精神、地涌の菩薩が示す現実社会に仏国土を顕現しようとする現実重視、現実改革の精神の二面性を行動規範とされ法華菩薩行を自覚されたのである。我々もそれにならい、慈悲や四摂法をもとにした現実改革、相互尊重の精神による菩薩行を行動規範とし様々な活動をしていかなければいけない。ボランティアの理念とは、何か特別なものがあるのではなく、菩薩行としての理念の一つの表れとしてボランティアがあるのである。また、菩薩行は我々に跳ね返ってくるものである。現代の我々は、大聖人が忍性に向けた教行相違(言行不一致)がそのまま当てはまることを自覚しなければならない。
  B活動内容
 様々な事例をもとにした意見が出されたが、
 U寺を中心に仏教的価値観を再発見する
 @意義づけをしっかりとし自己変革を目指す
 A相手の自立を目的とした援助を目指す
 これら三つの点を踏まえ、活動の方向性をはっきりとさせ、できた縁によって実働すべきである。との結論に達した。
  C緊急時のマニュアル
  D将来に向けたインターネット
  Eその他
 宗政との関連・宗門内への呼び掛けについては、時間の都合もあり十分に討議できなかったが、まだまだ研究の余地がある項目であった。

「日蓮宗ボランティア・ネットワークLOTUS」のご案内
 本会は、第二十八回中央教化研究会議・第四現代社会問題部会の提言をもとに発足し、将来の大規模な自然災害に備えて、迅速かつ的確な情報の交換や協力体制が取れる横の連絡組織としての役割を果たすことを目的としております。どなたでも自由に入会できますので、ご希望の方は世話人までご連絡下さい。
連絡先…日蓮宗ボランティア・ネットワークLOTUS
    平成八年度世話人 LAN(ロータス・エイド             ・ネットワーク)
    (世話人事務局…東京都目黒区八雲
             一―二―一〇 常円寺内)
     TEL 〇三―三七一七―一〇二一
     FAX 〇三―三七二三―六八四四
                   (平井良昌)

Bオウム事件の残したもの
 オウム事件により、欧米同様に日本の社会も「宗教カルト」というものの存在を内包するものであることが明確化した。
 この分科会では、「オウム事件の残したもの」を
 Aカルトの発生と若者にとっての宗教
 Bカルトの時代における我々の布教伝道
という二点に分けて論議考察する。
  Aカルトの発生と若者にとっての宗教
 カルトという語について、実は、明確な学的定義があるわけではない。略述すれば、次のような特徴のあるものとして捕捉される。
 V物理的に身体の拘禁を行う
 法外な金銭を献金(布施・寄付・献身)として要求  する
 マインドコントロール(洗脳)を行う
 「宗教カルト」問題の最も厄介な点は、「信教の自由」との関連で法的な対処が制約されることである。カルト自身が極めて法律的に綿密かつ巧妙化している現在、檀信徒の子弟をそれらに入信(入会)させないという予防啓発にあたるということが最も重要である。
 カルトの発生は、それを需要するところに起こるという前提に立たなければならない。オウム真理教の例に見る若者の入信年齢は、男女ともに十九〜二十二歳がピークとなっている。女性の場合は、もう一つのピークとして二十七〜二十九歳がある。前者はその成長過程で、サブカルチャーとしてのSF漫画(アニメ・映画)、精神世界・オカルト関連の書籍、予言や占い等の様々なメディア情報のシャワーを浴びており、そこから彼等の“宗教”に対するイメージ(超能力願望・終末と救済等)が形成されているとするべきである。また後者の女性の第二のピークは、女性にとって結婚という現実の与える様々な心理的軋轢があってのことと考えられる。このような若者達が、積極的にカルトへ入信しているという事実において我々は現状把握をする必要がある。
 制度的な「イエ宗教」の解体と個的な「マイ宗教」への変化が、このような若者を創り出す基底として考えられる。伝統的に、日本における家庭は、大家族という血縁的な共同体として存在してきた。それが高度経済成長期の都市への人口集中の結果、核家族化が促進した。昭和六十年から平成三年に至るバブル経済期は、さらなる家庭の空洞化を押し進めることとなった。社会の効率化は、父の家庭における不在(超過勤務・単身赴任)、母親の就業による不在を進め、そして、受験戦争の激化は子供の塾通いという事態を招いた。その結果、家庭は単に“寝るところ”となり、一人で食事をとる「孤食」が増え、「家庭のホテル化」といわれる様相を示すようになった。このような現象を「個族化」と呼ぶ。このような状況に対応して、宗教もかつての「イエの宗教」から「マイ宗教」への変容を来すこととなった。子供は、模倣すべき父親という権威の表徴と、メタファー(隠喩)としてのイエ=母性性を失うこととなる。そして、その喪失感を埋め合わせるものとして、カリスマとしての教祖という存在に父性的権威を見出だそうとし、カルトの教団にイエのオルタナティブ(代理の“受け皿”)を求めることとなった。
  Bカルトの時代における我々の布教伝道
 次に我々は、このカルトの時代(「個族化」の時代)に寺院を社会に向けてどう表出すべきかという問題に至る。即ち、「末法の時代」において、我々の教化伝道はどのように成り立つのかという問題である。一つの提言として、寺院は人々(特に若者)にとってのアジール(一時避難的な場所)としての空間機能を示すべきではないかと考える。人間という危うい存在、善悪両面を同時に持つ存在であるものとして認識すべきことは、仏教を含む宗教の基本理念である。それゆえ、家庭の崩壊によって喪失したものを我々自身が補完する道を示すことが必要である。即ち、父性性としての久遠教主釈迦牟尼仏(ご本仏)、母性=イエとしての寺という事物として社会に立ち現れる必要があるのではないか。そうした一時避難をへて、社会に向かって旅立つ人々を育て上げること、少なくとも、そうした宗教的機能を約束するところに、社会の宗教に対する信頼を取り戻す道があると考えるものである。(灘上智生)

看取りと臨終教化について考える
    〜「千代見草」と事例に聞く看取りと
               臨終教化の在り方〜
 「今生の命の終末を、私達はどのように迎え、看取るべきか。そして臨終における日蓮宗教師としての教化はいかにあるべきか」という問題提起のもと、医学心理学的な観点から、死に向かう患者の心理の特徴や、状態に応じた援助の在り方などについて認識を深め、日遠上人著作と伝えられている「千代見草」に本宗的な臨終教化の在り方を学び、がん告知の下に、人生の終末における教化活動を行っている実例等の紹介を通して、日蓮宗教師としての臨終教化のあるべき姿について検討討議が行われた。
○病人に応対する時には病気の状況や心理状態を十分に理解した上で接する事が大切。病名の告知は、かえって混乱を招く場合もあり得るので、心理状態を理解する事は特に重要である。
○どれだけ相手の気持ちになって話ができるか、がん末期の患者では、痛みのあまり人格を失ってしまう場合もある。「モルヒネの投与だけでなくメスで脳の神経をカットして痛みを取り除いた」という事例もある。
○「命というものは量ではなく質である」とした上で、良い人生だったんだと道理をわきまえ納得させるのは大変な事であるが、医師(病院)と患者とその家族と僧侶がひとつになって、時間を惜しまずケアにあたらなければならない。
○医師自身が命に対する考えを変えなければ何も始まらない。医師によって「死」の解釈が様々である。これは医師や病院に対する不満へとつながる。ある病院で、一週間のうち金曜日に亡くなる人が一番多いという事例があった。病院は土・日が休みである。生まれるのも土・日が少ない。
○僧侶が病気に対して無知ではいけない。病気をよく知り病状を把握した上で、信仰に入らしめ、臨終を前にどのような心の持ち方をすればよいか。単なる慰めではなく、教義を持って接する。来世に対する教化、後生善処、来世へと続く安心を説く。
○千代見草の中に、「恩愛を絶つべし」とあるが、恩愛を大事にすべき時もある。欲望を控えさせるのか満たしてあげるのか、宗教者としてどうあるべきか難しい。
○聖マリアンナ病院にはマリア像が立っているが、仏教の仏様が立っている病院がない。
○病院の中に「いのりの部屋」を造る運動を進めていきたい。
○病院において僧侶が受け入れられないのは、日常の教化の在り方に問題がありはしないか。一般人の宗教観。葬式仏教という考え。
  まとめ
 医療法人の本来あるべき姿をふまえて、日蓮宗としての教義を持った施設(病院)を造る事ができないだろうか。宗門としても具体的な活動を進めていく必要がある。しかし、どこにどれだけ病院を造っても足りない。とにかく御見舞いに行って、話をする。それも臨終教化ではないか。今は八〇%の人が病院で亡くなっているが、これからは在宅ケアが重要になってくる。それが一番できるのは僧侶ではないか。我々は足下の機会を失わせていないか。とにかく自分が今できる事から始めてそれが大きな輪となっていく事が望まれる。まず行動を起こすことが大事である。
 我々日蓮宗教師は、「日蓮聖人だったらどうされるだろう。この病気に悩める人を前にした時にどうされるであろうか」という事を常に問いかけていきたい。
(都 泰雄)
おわりに
 最後に全体で集まり、簡単な各パートの討議内容が報告された後、参加者より今後の取り上げてほしい問題を述べてもらった。
 それによると
○死刑制度について
○女性問題を含む共生の問題について
○原子力行政に代表される国策に我々はどうするのか
などがあげられた。

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