日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第31号:276頁〜 第二十九回中央教化研究会議 ←前次→

 パネルディスカッション

  問題提起
  戦後五十年を検証し「誓願」を考える

石川浩徳
(現代宗教研究所所長)
     はじめに
 貴重な時間でございます。私に与えられた時間は三十分です。長いようですが、実は短いのであります。そのあと皆様方からのいろんなご質問等も承りたいと思います。
 「立教開宗七百五十年」の大きなテーマが、「誓願」ということに決定しました。それを念頭において、思想、信条が一八〇度転換した昭和二十年当時のことを回顧し、あるいは検証し、そして今日を考えていきたいと思います。そこで、当時の宗務総長――当時は総監といっておりましたが――の方々がどのような発言をし、また全国の教師に対して、どのような指導をされたのか、そういったことを含めてまずお話をし、そのあと「立教開宗七百年」を昭和二十七年に迎えておりますけれども、この前後にどんなことが起こっているかを中心にくわしくお話をしまして、そのあとパネルディスカッションに入っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 レジュメの五頁に「問題提起」ということで、「戦後五十年を検証し『誓願』を考える」、一応話の順序は組み立ててありますが、時間の関係もあり、先ほど申しました二点について、中心にお話をしていきたいと思います。
     軍国主義追随を猛反省
 さて、本日ご出席の皆様方の大方は、あの太平洋戦争の体験はないのではないかと思います。昭和二十年八月十五日に終戦を迎えましたが、多分それ以後お生まれになられた方々が多かろうと思います。私は当時は小学校四年生でした。ほんのわずかな記憶ではありますけれども、横浜に住んでおり空襲を受け、じゅうたん爆撃という焼夷弾の雨あられの中を命からがら逃げた経験があります。
 昭和二十年を境にして日本は大きく変わりましたが、宗門も変わりました。それは戦争の悪夢から覚め、本来の日蓮主義を蘇らせたことです。しかし今日五十年たって、はたしてその当時の思いをしっかりともち続けているかどうか、そこが問題であります。終戦直後の覚醒した思いこそが六年後にまいります「立教開宗七百五十年」を迎える原点であろうと私は思っております。
 日蓮聖人のすばらしさは、申すまでもなく、法華経の信仰を絶対とし、権力におもねない反骨精神にあるわけです。それが戦時中においては全く忘れ去られてしまっていた。それを猛反省した上で、時の総監、馬田即貞師及び田賀龍文教学部長が発言し、さらにその後、西川景文師がやはり総監になられて発言したことを、参考までに引用してお話しいたします。
 昭和二十年暮に馬田行啓総監が亡くなられました。その後を受けたのが馬田即貞師です。馬田即貞師は為政者として、それまで日蓮宗が軍国主義に追随し、加担し、しかも積極的にそれを全国の教師に進めてきたことは間違いであったと気づかれて、昭和二十一年三月の宗議会において次のように発言をいたしております。
 「日本は、ドイツ、イタリアと組んで、国家主義、全体主義、軍国主義を進めてきたが、アメリカとイギリスの自由主義に負けました。日本はポツダム宣言を受諾をして、天皇ならびに政府は、連合国に隷属をすることになった。明治五年以来の太政官布令による宗教監督の枠ははずされて、宗教団体法は勅令をもって廃止をし、いよいよ信教の自由、新しい時代がやってきた。その中で我々は何を反省し、何に向かっていけばよいのか。まず戦争への加担について反省し、宗祖のみ教えをもう一度思い起こす必要がある。」と。また田賀教学部長は、「宗門は戦時中、本宗の独特の気迫と信念を忘れて、国家迎合の色彩を濃厚にしてきた。日蓮聖人の立正安国の真意を没却して、祖訓を断章し、都合のよいところだけを取り上げて、国家に忠誠を尽くしてきた。宗祖日蓮聖人をたてるように見えて、実は祖師に最も不忠なる宗団となってしまっていた。宗祖の宗教は、日本にばかり都合のよい宗教では断じてない。大聖人の立正安国、日本の柱は決して民族主義を基本にした国家的宗教でもなければ、独善的な日本国体の礼讃でも何でもないのだ。払拭すべきは時代的環境の中に埋没して、国家権力に追随し、時代を洞察することを忘れていたことである。」こう述べております。
 そしてその後、昭和二十二年に、馬田即貞師の後を受けて総監になられた西川景文師は、
 「敗戦は反省、懺悔の好機である。この戦争は負けるべくして負けたのだ。本宗は国家に隷属し、無力化され、国家に盲目的に追随し、社会民衆に向かう布教でなければならないのに、それを忘れていた。もう一度弘教の三軌を根本的に学ぶ必要がある。その使命に恥じることをまずもって懺悔という形であらわさなければならない。一度でも宗門のだれかが、戦争遂行を阻止した人があったであろうか。だれもいなかった。自分を含めて、まさに八寒、八熱の苦しみを一時に受けているがごとき思いをいたしている。法華経は六根の懺悔を説いて結経としている。罪の自覚なきところには神仏はあらわれないし、布教もない。懺悔の心なきところには、神仏はあらわれぬ。徹底的な懺悔が必要である。万事それから始まるのだ。」と申しております。
     復興への道
 しかしながら、当時の宗門の現状は惨憺たるものでした。戦争により、心の崩壊はもちろんのこと、物質面でも、どう復興すればよいのかというような状況でした。何しろ全国の寺院を統括する宗務院が焼けてしまっていました。それまで芝二本榎に立派なものがありました。明治以来七十年間も続いた宗務院です。それが昭和二十年五月二十四日に空襲で全部焼けました。そしてわずかに持ち出したものを身延山に運ぶ途中で、甲府でまた爆撃にあって焼失してしまいました。
 ただちに宗務院が浅草の清島町の統一閣に復活しました。統一閣には罹災した家族が何組も住んでいましたが、昭和二十七年にそこを購入し大改修して移り、名実共に宗務院の業務が行われるようになったのです。昭和四十年までそこに宗務院がありました。戦争の被害は当然、寺院にも及びました。大本山池上本門寺が二度にわたる空襲にあいまして、五重塔を残して、一山、御真骨堂まで爆撃にあって灰燼に帰したのです。全国寺院の焼失は六百カ寺に及びました。住職の中には戦争にかりだされ、檀信徒も同様な状況でした。大学はといえば、これまた立正大学がどういうわけか仏教大学の中でたった一校、大学・高校・中学、全焼しました。その後大変な思いをして立正大学は復興することができたのです。
 そうした状況の中で、思想的にも一八〇度転換し、その上こうした宗内の状況をどう建て直せばよいのか。馬田総監はまず行政、立法、あるいは司法と各部門において、為政者の立場にある者が懺悔をし、反省をしよう。民主的な方法をとっていこうではないかというので、宗制を相当改変いたしました。
 手はじめに宗会議員の選挙を民主的にしようというので、それまでの一級、二級、特選というような選出方法を廃止しました。さらに管長の推戴につきましても、任期制をもうけていくこと、審査会も陪審院のような形をとって、人が人を裁くのは民主的ではないというようなことで、司法の面でも陪審院制度をとり、また宗機顧問会という大変力の強いものがあったようですが、それも単なる諮問機関にすべきであるというふうに、宗内の宗規・宗制を変えていきました。
 さらに戦後ただちに示された布教教化の方針は、まず戦災孤児の救済でした。それから戦災にあった寺院の復興のために、バラック資材の購入とか、寺院の移転合併とか、あるいは財産処分についてもゆるやかにするとか。そしてできるならば、身延山のお山を開放していただいて、あの豊富な木材を寺院復興のために提供してほしい、こういう要望もしたようです。海外からどんどん引き揚げてくる方々への援助、戦災にあわなかった京都の寺院の方々には、ぜひとも戦災孤児を収容する場所として提供してほしい、こういうお願いもされたようです。
 それから何といいましても、教師の再教育、布教法の根本的見直し、そして大事なことは、これからの宗門は、社会へどんどん進出することが大事だというので、社会事業が推進されております。そのための「復興局の設置」をいたしました。あるいは「援護事業局」もできております。さらには若い人たちが集まって、新しい宗門づくりをしようというので、「立正青年連盟」が昭和二十一年の暮れに結成されております。少し下りまして、昭和二十三年には、「日蓮宗革新同盟」の誕生がありました。これは宗門の新しいあり方を考えていこうではないか。宗学・宗制の現状を批判を恐れず見直してゆこう、将来の日蓮宗を背負って立つのだという意気込みをもって、そうしたものが結成されております。
 馬田即貞総監は、これからの宗門活動の基本理念として、教化を主としていこう。寺院にとどまって引き籠もり、ただ儀礼的なことだけを良しとして、儀式収入で生活をたてているような寄生虫的宗門教師であってはならない。「はつらつたる自主的生命の躍動がない宗門や寺院は形骸化するだけである。いまや宗門は存亡の岐路にある。今後はどんな時代になろうと国家権力に迎合するようなことのないように、反省・懺悔は常に忘れてはなるまい。」と反省をこめて発言しております。
     清澄の改宗
 終戦直後の混乱は想像に絶するものでした。そうした中で「立教開宗七百年」が近づいていたのです。その「立教開宗七百年」を目前にして、宗門史上燦然と輝く慶事がおこりました。それは何かといいますと、清澄山の日蓮宗帰属です。奇しくも昭和二十四年二月十六日大聖人ご生誕の日に、登記を済ませて清澄寺は日蓮宗に帰属いたしました。その崇高なる慶事は、当時の住職でありました真言宗智山派の岩村義運師の涙なしには語れないような努力、覚悟、悲壮な決意があって実現したということを忘れてはならないと思うのであります。それについて私は『宗報』をもとにダイジェストして皆さんにお伝えしたいと思います。
 岩村氏はこう述べております。
 「宗派的感情を超越して、日蓮大聖人に最も由緒の深い山、清澄山を今日なお真言宗に属せしめていることは妥当ではないと、私は三十年来考えてまいりました。私は真言宗の僧侶ですが、独断でこの本尊虚空蔵菩薩の向かって右側に日蓮大聖人のご尊像を奉安させていただきました。右側は真言宗にとっては上位です。下位の左側には弘法大師を安置しております。大聖人の尊像は、弘法大師よりも上位に安置したわけです。日蓮宗の方々からは大変喜ばれました。だが所属宗派からは叱られました。本堂内陣のその両側に柱があります。やはり右側に大聖人の『立正安国』、左側に弘法大師の『鎮護国家』と、常に日蓮宗を上位において考えてまいりました。
 昭和二十三年十二月八日、身延山の法主深見日円猊下がご来駕下さって、ねんごろなるご依頼をいただいたとき、私は改宗の決心をいたしました。しかし、真言宗の智山派の本山当局に申し出ましたが、一向にらちがあかなかった。とうとうしびれをきらして、私は独断で決心をしたのです。あるときは寝込みを襲われ、あるときは大挙して恐喝し、ただ、改宗絶対反対と末寺四五カ寺が私に対してまいりました。絶縁を迫ってまいりました。一方的に決議して私を排除しました。そして卑怯にも、私だけではなく、妻や子供にまで憎悪迫害の手を伸べ、子供に対しては、『おまえのおやじは清澄を日蓮宗に売ったそうだ』といじめたのです。深い決心はしていても、結局は私も凡夫です。二度までも先師の御前に自決を覚悟したのですが、それを妻におしとどめられました。
 大体、清澄は真言宗としてはただの田舎本山にすぎないが、日蓮宗としては大本山としても恥ずかしくない由緒をもった尊い山です。それを真言宗でもっているということは、他人の宝をもちぐされにするようなものだ。当然日蓮宗となるべきである。しかし私としては、ここに至って進退すでにきわまった。それに肉体的にも衰弱がはなはだしい。いつ倒れるかわからない。そこで、一切の重要文書を手箱の中に入れて、妻と委員の方々に呼びかけ、『自分が死んだら、自分に代わって改宗を断行してもらいたい』と遺言書まで書きました。『改宗を断念せよ、さもなければ山をのけ』と迫害をされましたが、私はもはや法門の情誼も師弟の恩義もなく、絶縁を宣告して、清澄を日蓮宗に改宗することに決心したのです。清澄は当然日蓮宗に属すべきものだと日頃から考えていたことを実行いたしました。今後はただ信念に向かって邁進するよりほかはありません。
 しかし立場を変えて考えてみて下さい。私にとっては一大事であります。しかるに日蓮宗のある一部の方々は、熱心なる信仰のあまりには違いないだろうけれども、何をぐずぐずしているのだ、早く決心しろと、迫ってくるのです。私の身になってみれば実に容易ならない大問題だったのです。自分の現在の苦痛は耐えがたいが、五十年後、百年後には、きっとわかってもらえると信じております。」
 以上が岩村師の心境の大要です。
 清澄寺が日蓮宗に改宗したいきさつを知りましたとき、つい涙を禁じえず、この部分を二度、三度読みました。
 こういう経緯を考えてまいりますと、今度「立教開宗七百五十年」は、まさに清澄寺を中心としまして、全宗門的に気持ちを一つにして顕彰し、未来に向かって大きく羽ばたく時であると思います。日蓮宗が宗団のための組織ではなく、世界に通用する本当に必要な宗団となるために、一丸となって新しい宗門づくり、二十一世紀に飛躍する宗門づくりをしていかなければならないと思うのであります。そうした意味においても、今日の「誓願」のテーマは非常に大事なことである。教師一人ひとりのその考えは、これからの宗門をどのような方向に向けていくかにかかわってくるのではなかろうかと思うのであります。
     開宗七百年と問題点
 ところが昭和二十七年、「立教開宗七百年」を迎えるに至ったあたりから、宗門は終戦直後の総監たちの発言を忘れたかのように問題がいくつか起こってまいりました。
 まだまだ戦後の復興が十分になっていないころですが、全国に「立教開宗七百年」を迎えるための資金づくりの妙案として「植林券」を販売した。「開宗七百年」の準備は、二年前の昭和二十五年から始まりました。二十七年までたった二年間しかない。その中でどう資金を集めようかというところに起こったのが、植林券販売です。身延山のお山がまる裸になっている。そこに植林をしよう、植林券を販売して、開宗七百年の資金を集めようと一石二鳥の妙案として実行されたが、これが予定どおりにはいきませんでした。目算どおりにはいかないばかりか宗議会をゆるがすほどの問題となり、宗門人の不信の念を深める結果となってしまいました。
 その他にもいろんなことが起こりました。例えば、荒行堂離脱問題とか、あるいは本圀寺売却問題、あるいは立正大学復興に関する問題、等々です。更に昭和四十五年には身延山祖師像お首盗難事件が起きております。新しい宗門を作ろうと懺悔反省をし、宗祖のみ心にかえろうと終戦時誓ったことを忘れたかのような事件が次から次へと起こりました。当時の宗会では、それこそ具体的にそうした問題が大きく取り上げられております。
     宗門運動の流れ
 一方、「立教開宗七百年」を期して宗門意識の高揚のため、全国的に総決起大会を開催されておりますし、昭和二十七年以降は、社会教化事業に大変力を入れてまいりました。その後、社会教化事業本部というものもでき、昭和二十七年には神田の共立講堂で社教の東京大会も開催されております。さらには「立正平和運動」が昭和二十八年に提唱され、静岡の焼津におきまして、ビキニ水爆の実験のために犠牲になった、第五福竜丸と乗組員の慰霊祭等も宗門として行っております。「原水爆禁止」、「世界平和」、こういったことが叫ばれ始めたのもそのころからであります。日蓮宗宗徒の目指すところは「娑婆即寂光」である。「永久戦争放棄」である。こういったことが式典において管長により述べられ、また各教師、檀信徒もこぞって唱題行脚して、武器の全廃、あるいは原水爆の禁止、製造停止について世間にも訴え、一宗の管長は、それを国連をはじめ各国に訴えております。その「原水爆禁止」のアピールは、全国的な規模で報道されました。
 また、邪教創価学会の跋扈が著しくなり折伏大行進が始まり、昭和三十年にはご承知のとおり北海道でいわゆる「小樽問答」が行われました。無防備状態であった本宗は、急遽反省の中で熱心な教師により創価学会破折の活動が展開されていきました。問答集ができたり、「出家の誓い」「宗徒の信条」が制定され、宗門の教学的信仰の基盤となります『昭和定本日蓮聖人御遺文』や『宗定日蓮宗法要式』が発行されました。
 そして、檀信徒には信仰を確立し深めるためにも、まず仏壇にご本尊をきちんと勧請して、家庭信行に精進しようと、本尊勧請について宗務院の方から布令がでました。住職たるもの、檀信徒に必ずご本尊を勧請するように指導しなさい。それができないような住職は、怠慢である。こういう布令がでております。
 創価学会や、いわゆる日蓮宗を取り巻くいろんな教団につきましては、最近現宗研が出版した『日蓮宗の近現代』という本があります。皆様方もおもちであろうと思います。どうぞお読みいただきたいと思います。
 また、昭和二十八年には日蓮宗新聞の前身、日蓮宗新聞局ができ、その後、昭和三十年に日蓮宗新聞社が誕生したのです。日蓮宗現代宗教研究所も昭和三十九年に呱呱の声をあげました。時代を見きわめ、研究と調査、情報提供を主たる役割とする、現代社会に即応できる総長の諮問機関として、現代宗教研究所が生まれたのです。
 昭和三十八年、門下連合が結成されて、連携を保ちつつ迷信邪教に対して結束していこうというようなことも活動の一環として打ち出されております。
     庁舎池上移転と護法運動
 日蓮宗宗務院は昭和四十年、金子日威総長の時代に、庁舎が池上へ移ったのです。台東区清島町にありましたあの統一閣の宗務院は、二十年で閉鎖いたしました。
 そして昭和四十年以降、ご承知のとおり「護法運動」が「立正平和運動」の精神を引き継いで提唱されました。これはまさに正法をまもり、邪教を積極的に攻めていこうではないか。護法の中に「破邪顕正」の四文字をこめた運動として展開されたのです。
 昭和四十五年には、片山総長の後を引き継ぎ、渡部日皓師が総長になられました。護法運動は意識を高揚するためであり、いよいよ檀徒を信徒にしようというのが目的でした。そこで、『信行必携』をもとにして、檀信徒の研修が行われるようになりました。いわゆる「護法統一信行」が全国で行われるようになったのであります。これは今日も続いており、息の長い運動として効果のあるものとなっております。
     新世紀への「誓願」とは……
 その「護法運動」のさなかに昭和五十六年「大聖人七百遠忌」をお迎えしたことは記憶に新しいところであります。やがて昭和六十年に、いよいよ「お題目総弘通運動」へと移行していったのです。その「お題目総弘通運動」は、いまその最中であります。その最中に「立教開宗七百五十年」をお迎えするのです。一応の目途として「立教開宗七百五十年」、西暦二〇〇二年、まさに二十一世紀に向けての宗門のあるべき姿を構築し、大聖人の御前に出ても恥ずかしくない「開宗会」を迎えることが何より大切です。単なる形で迎えるのではなく、信行を深め現代に視点をおいて行動する新世紀に必要な宗門づくりをしていくこと、それが大事ではないでしょうか。
 そういう意味あいにおきまして、今日これからパネルディスカッションをいたします「誓願」という大きなテーマでありますけれども、その原点は、あの昭和二十年の敗戦と同時に、総監が述べた「宗祖に還れ」というあの覚悟を思い起こし、これから先、教師一人ひとりが、具体的にどういう宗門づくりをしようとするのか、そして実際にどう行動するのか、それを語りあう場でございます。開宗七百五十年は、ある意味では一つの節目であり、通過点です。我々は新しい時代、七百五十年の向こうを見据えて前進しなければなりません。
 ぜひとも皆様方の活発なご発言をお願いをいたします。時間がきましたので、最後の方は駆け足で終わりましたが、問題提起といたします。ありがとうございました。


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