日蓮宗 現代宗教研究所
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所報第31号:244頁〜 研究ノート ←前次→

  仏教と物理学の類似点について(二)

灘上智生
(現代宗教研究所研究員)

     一、はじめに
 今日の科学の進歩は目覚しいものがある。この様な状況下、私達は科学で証明された事は真実であると鵜呑みにし、それに対して疑問を抱く事は罪悪であると感じる程になっている。世間一般で科学的である事が如何に説得力のある事かを考えて頂きたい。
 しかし、科学は絶対であると盲信した結果、地球における自然や人間も含めた生物に対して、数々の弊害を生じさせる事となってしまった。我々人間は、天につばを吐く事をしてきたのである。この様な危機的な時代にこそ、仏教の教えが必要であり、生かされる時なのである。だが実際、これからの時代を背負う現代の若者は、仏教とは葬式のためにあるという位の認識しかないのが現実である。この様な若者が仏教に目を向け触れるためのイントロダクションになればと思い昨年初めて研究発表をしたのである。(「現代宗教研究」第三十号 一四四頁〜一四九頁)
 前回は量子論、素粒子の持つ粒子と波の二重性、ハイゼンベルグの不確定性原理、確率波の説明を行い、原子物理学と仏教の説いている内容の類似点を述べた。今回はその復習をしながら始めたいと思う。
     二、コペンハーゲン解釈
 一九二七年の秋、ベルギーのブリュッセルにおいて、「ソルべー会議」が開かれ、アインシュタイン(1)、ボーア(2)、ハイゼンベルグ(3)などの著名な物理学者が集まった。会議の中心は量子論に集中した。会議では、今日「量子力学のコペンハーゲン解釈」として知られている結論に達した。この結果、物理学者は新しい量子力学の概念に対して統一的な見解を持てるようになった。その統一的な見解とは次のようなものである。
  1)不確定性
 電子の位置と運動量を両方とも同時に正確に測定する事は不可能である。(「現代宗教研究」第三十号 一四五頁参照)
  2)相補性
 電子はある状況下では、あたかも粒子のように振る舞い、また別の状況下ではあたかも波動のように振る舞う。どちらの記述法もそれ自身としては不完全であるが、粒子概念を用いる方がより適切であるような場合もあれば、また波動の概念を使用する方が有効な状況もある。また如何なる状況下に於いても、電子が同時に粒子と波動の両方の性質を示すような実験方法を考える事はできない。電子が粒子と波動という二つの顔を持ち合わせている事から、この考え方を相補性と呼んでいる。(「現代宗教研究」第三十号 一四五頁参照)
  3)確率
 粒子は実在のものであるが、何処にあるかを確実に知る事は絶対にできない。ある場所に電子が見出されるという事は確率で表され、数学的には波の式と同じ形を取る。この式を波動関数と呼び、波動関数の振幅が粒子を見出す確率を表している。(「現代宗教研究」第三十号 一四六頁参照)
  4)観測されるべき系の観測者による撹乱
 古典物理学においては、観測されようがされまいが、相互作用を及ぼす粒子が規則正しく機能する系(4)を思い描くのに対し、量子物理学では、系が独立した存在を持たないと考えられるくらいに観測者自身と系が相互に作用を及ぼしあう。この内容に関しては次の章で詳しく述べたいと思う。
     三、複スリット実験
  1)回折とは
 実験の説明をする前に波動の回折という現象の説明をしなければならない。回折とは波動に特有な現象で、波動が障害物の端を通過して伝播する時に、その後方の影の部分に侵入する現象のことである。
 スリットの開いたスクリーンを一つ用意する。このスクリーンの片側にはもう一つスクリーンを置き、反対側には光源を用意する(光は波動の性質を持っているため)。光源から発せられた光がスクリーンのスリットを通ってスクリーンに写るようになっている。
 スクリーンに光の波長より十分に大きな幅のスリットを開けた場合は、図1のように光は真っ直ぐにスリットを通り抜けて、スリットの形と同じ形をスクリーンに映し出す。ここで特に注目して欲しいのは像の明るい部分と暗い部分との境界がはっきりしていることである(回折は起こらない)。
 スリットの幅は剃刀の切り込みと同じぐらいに小さく光の波長と同じぐらいにすると回折が生じる。図2のように像の明るい部分と暗い部分の間のはっきりとした境界線が無くなって徐々に暗くなっていく。
 以上は単スリット実験であるが、今度はスリットを二つ入れた複スリット実験を行う。
  2)光の波動性を利用した実験
 図3のように二つのスリットの開いているスクリーンを用意する。スリットは光の波長と同じくらいの小さいものにする。光源より光を発するとスクリーンには図4の様な明暗の縞模様ができる。中心の縞が一番明るく、その両側に暗い縞が有る。また、真ん中ほどではないが明るい縞と暗い縞が交互に、そして中心から離れるにしたがって明るさは落ちていく。これは波動の干渉という現象で、波が重なり合って強め合う所も生じるし打ち消し合う場所もできる。波の頂点同士が重なり合うと光は強くなり(明るい縞)、頂点と谷がぶつかると両者が打ち消し合ってしまう(暗い縞)。
  3)光の粒子性を利用した実験
 光が二つのスリットを同時に通過できるのは、波動の性質から容易に理解できる。また、光は光子という粒子であることも分かっており、個々の光子は確かにどちらか一方のスリットを通過するはずだと考えるのが普通である。
 実験は前項と同じ条件で行い、ただしスリットは二つ開け、開閉自由なものとする。一度に光子を一つしか発射しない光線銃を使用する。光子を発射すると、スリットを通過し、スクリーンに当たる。スクリーンは写真乾板を使用する事により、光子が何処に当たったか知る事ができる。
 十分な時間をかけ、数多くの光子を発射すると、片方のスリットを閉じた実験の場合には、スクリーンに描かれるのは、単スリットにおける波の時と同じような結果を得る。二つのスリットが開いた場合には、干渉が起ったかのように、明暗の縞模様が生じる。一つのスリットで描かれた像の記録を二つ重ね合わせても縞模様はできない。
 ここで問題なのが、片方のスリットを閉じていた実験で、光子は片方のスリットが閉じているのをどうして知っていたのかという事である。光子を一個の粒子と考えると、どちらか一方のスリットを通過すると考えるのが自然である。この時、もう片方のスリットが開いていようといるまいと光子には何ら関係が無いように思える。しかし上で述べたようにスクリーンに描かれる結果は違ってくるのである。言い換えると、実験の初期条件が完全に同じでも、人間の意図でスリットの一方を開閉する事によって光子は同じ所に届かないのである。
  4)波動関数の崩壊
 今度は、光子が二つのスリットのどちらを通過するかを観察する。一個の光子がどちらのスリットを通過するか記録し、我々は常に一個の光子がどちらか一方のスリットを通り、決して両方を同時に通らない事を確認する。この時、スクリーンに描かれるのは、単スリットにおける結果と同じであり、干渉による明暗縞は起こらない。光子はスリットが両方とも開いているかどうか知っているだけでなく、我々が観察しているかどうかも分かっており、それに応じて行動するのである。これは、実験装置と観測者の相互作用を表す。
 広がった光子の波を見ようとすると、それは崩壊して限定された粒子となる。逆に我々が見ていない時には、波になるか粒子になるか分からないのである。我々が測定する事によって、光子は行動の可能性の配列の中から一つの行動を選択せざるをえなくなる。光子がある確率で一方のスリットを通過できるのであれば、同様の確率でもう一方のスリットも通る事ができるはずである。しかし、我々が光子を観測するという事は、その光子がある特定の場所に居るから可能なのであり、その観測という行為は、可能性の有る光子の列から一個を取り出す事になるのである。この事は波動力学において、一個の本当の光子を表す波束を除いて、全ての確率の波束を消滅する事に等しい。このことを波動関数の崩壊(波束の収縮)と呼ぶ。人間の観測するという行為が、波から個という実在を現出させている。これは、観測者の行為に現実が依存していると考えられる。
     四、依正不二について
 依正とは、依報と正報のことである。正報とは我々衆生の心身のことであり、過去の業因によって得た有情、生有るものの心身をいう。また依報とは、正報たる衆生の心身のより所となる環境世界をいい、国土山川草木食物等の非情のことである。依報と正報は、人間と環境との関係であり、この二つは常に相依相関であり、不二の関係であるとされている。
 中国天台の第六祖妙楽大師湛然は、天台が『法華玄義』で説いた十妙を解釈して、『法華玄義釈籖』において「十不二門」を立てた。その中の第六に「依正不二門」があり、「已證遮那の一體不二は良に無始の一念三千に由る、三千の中の生陰の二千を正と為し國土の一千を屬するを以て既に一心に居す。一心豈能所を分たんや、能所なしと雖も依正宛然なり。」と言っている。一念三千の思想により、衆生世間と五陰世間の二千世間を正報に配し、国土世間の一千世間を依報に当て、この依報と正報の三千世間は一心にありとして、依正不二を述べている。
     五、原子物理学の世界と依正不二
 第三節で述べたように、原子物理学では、対象の性質を観測するためばかりではなく、その性質を定義するためにも、観測者である人間が必要とされる。対象の性質は、観測者との相互作用によって意味を持つ。人間は独立した観測者でいる事はできず、常に対象の性質に影響を与えてしまう関与者となってしまう。
 また第四節で述べたように、自然環境(依報)と、そこに存在する人間(正報)とは切り離す事ができない、不二の関係であり、相関関係にある。
 以上の事から、原子物理学における、観測される対象を依報とし、観測する人間を正報と考えると、極微の世界である原子物理学の世界でも依正不二が言える。また、仏教の考え方から見ると、原子物理学の不可思議な世界は何ら不思議なものではなくなるのである。
     六、おわりに
 元来日本人は自然に対し畏敬の念を持っていたように思う。しかし現代の日本人は、西洋思想に毒され、自然は人間のために存在し、人間によって支配されるものだと考える傾向にあるのではないか。自然を客体とし、人間から分離したものと考えているのではないか。そうした考えが、現在の日本の自然破壊を招く原因となっているように思う。しかし、今まで述べてきたように、我々は環境に対して客観的存在でいる事はできず、絶えず関与者となってしまうのである。我々人間は自然の一部であり、自然環境の現状を見ると、自分で自分の首を絞めているようなものではないだろうか。仏教の教えを如何に現代に生かすかを早急に考えなければならない。

 註
  (1)アルバート・アインシュタイン(一八七九〜一九五五)
スイスの理論物理学者。光量子仮説、相対性理論など根本かつ革命的理論を発表。二十世紀物理学の基礎を築き、光電効果の法則の発見により、ノーベル物理学賞を受ける。
  (2)ニールス・H・D・ボーア(一八八五〜一九六二)
デンマークの理論物理学者。原子、分子の構造を解析し、古典論と量子論を使い分け水素原子のボーア模型を提唱した。彼の相補性原理は、近代量子論の基礎を成す。ノーベル物理学賞を受けている。
  (3)ヴェルナー・K・ハイゼンベルグ(一九〇一〜一九七六)
ドイツの理論物理学者。量子力学の創始者。古典物理学の限界を示した不確定性原理を提唱。ボーアの相補性原理と共に量子力学のコペンハーゲン解釈を確立。一九三二年にはノーベル物理学賞を受賞。
  (4)一定の相互作用または相互関連を持つ物体の集合体

 参考文献
  『タオ自然学』 F・カプラ著 吉福伸逸・田中三彦・島田裕巳・中山直子訳 工作舎 一九七九年
  『シュレーディンガーの猫 (上)(下)』 ジョン・グリビン著 坂本憲一・山崎和夫訳 地人選書 一九八九年
  『踊る物理学者たち』 ゲーリー・ズーカフ著 佐野正博・大島保彦訳 青土社 一九九二年
  『新版パラダイム・ ブック』 C+Fコミュニケーションズ編著 日本実業出版社 一九九六年
  『死後の世界を突きとめた量子力学』 今野健一著 徳間書店 一九九六年
  『天台学』 安藤俊雄著 平楽寺書店 一九六八年
  『日蓮宗事典』 日蓮宗事典刊行委員会編 日蓮宗宗務院 一九八一年

 ※本稿は平成八年十一月九日、身延山大学において開催された第四十九回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものです。
                                                    





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