日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第31号:236頁〜 研究ノート ←前次→

  天台の実相観

岩渕真永
(現代宗教研究所研究員)

 平成八年は、周知の通り、天台智者大師の一四〇〇遠忌に相い当たる。宗門においても、三国四師の一人として、その顕彰も行なわれているが、法華最勝なるを、内心会得迹面本裏とはいえ明らかにして、史実の上、宗祖へと相承されることとなったのはいうまでもない。そこで、拙稿は、まさにこの時宜を得て、天台の把捉を改めて考察し、以てこれを受け継いで成る闔宗教学の認識を深める為の業とし、先ずは試みとして、後学の釈に拠らず原典の内容を虚心に見究めるを主としたものである。
 扠て、『妙法華経玄義』(略して『法華玄義』)に顕れるところの実相とは、当然ながら、その認識、観心に肯綮があり、所観の境においては、観心する心そのものの本質にも顧みられて、能所不二のところ主客隔別虚しく相融する「無諦」だとも表現される所以であるが、こうした妙境妙智へ向かう過程における観智の組成に注視すれば、三軌等の法数による無碍なる謂い、つまり円融論法の運用に満ちて、実はこれ、従前の法門を体系的に総括して法華の開会を闡明にする為であればこその施策であろう。
 最終的には、諸法実相の一説相としての円融三諦における、その構造的局面について、心と一切法の関係から、乃至は実相観形成の契機に関わるところまで、『摩訶止観』等も参看しつつ、具・円・即・是に因む様相を見ていったが、今回は、特に空観思想の展開という通仏教史的な視点から気付く、三諦円融化の契機的理由に関わる部分のみ限って発表したにより、仍て、本要旨では、その結論を述べることとする。 
         一
 抑も、実相は心であり一切法でもあって、またあるときは何れであるともいいようがないが、しかし、畢竟するに、この有り様に即して真理が表現されなくてはならない。具足論では、そこに由来するとされる全てを源処に還元させる点でこれに肉薄しており、例えば「如来秘密之蔵」というにおいて、既に性具されているものが転じて悟りとなり、これは相即の論法なるが明かされるのであるが、将や、この具足の様態は、そのうちで一切法が円かに融じ合い体系的に閉じて遺漏がないし、なおこれが中道自体であるとしたら、中が空・仮とともにあって即空即仮即中なるという円融三諦、特にこの構造的特徴は自己充足的且つ自己制御的ですらある。
 円融三諦とは、その本質が畢竟空であることから考えて、空観史の上にも位置付けられるのであるし、その成立契機には種々の周辺思想も密接に関連するという点も、論法自らが明かしている如くである。また、空観の流れを概観していけば、円融三諦とは、一つの空観を中国の土壌に合って、最もその真意をレトリカルに伝えるという面が浮き彫りにされることも分かるし、延ては、今日の我々に供するに、言葉と真理の関係についても示唆深く、よく言葉の根本的な性質を考えさせてくれる。円融論は言葉においての表現と意味の間の揺らぎについても教えているようである。
 あるいは、こうした大師による表出の試みは、要をいえば実相の統一的な様相を説明することに尽きるであろう。我々の願楽と現実が乖離している苦悩の状況とは、もと虚妄倒の分別に拠って引き起こされる両者の根源的対立に基づくのであってみれば、而してこれらは何れ一つに収束させなければならない。悟りとしての真理は一つだけだからである。諸法実相にしろ円融三諦にしても、この現実と、かの真理とが不二なるという、仏の見る統一の有り様を表顕するものであるには違いない。
         二
 一念三千説についても見直せば、
  介爾有レ心、即具二三千一。
の「心」は過渡期の行者の一念にして、三千これに具在されているとなすは理談であって、行者の目途、究極的には、
  心是一切法、一切法是心、故非レ縦非レ横非レ一非レ異、玄妙深絶非二識所一レ識非二言所一レ言、所以称為二不可思議境一。意在二於此一云云。
という現成でなければならない。
 能観の智と所観の境、能所融じて無縁・無相の上の三智であるならば、三観三諦一如となるが、もしこの境智冥合の三千が心より他なきを一念三千というならば、それは心具論であって、心が境智を超越して某か恰も形而上的な本質規定となってしまう。三観が三諦と無分別なるならば三観の働きは既に必要もないのであり、それでも心という相を存するのは殊更な分別である。心具は認識を契機として実相が立ち顕れることをよく伝えるが、遂には、それと知り得る認識主体の名義は消滅するのであるから、心具は飽くまで止観修得の過程という前提で成立しているに過ぎない。止観の畢竟において一念三千は、心と一切法が是なるべきを理解すべきであろう。
  諸法実相=一実諦無諦=不可思議=絶待妙
        <智 三観 一念  心 >  
  =不二    =  =  =   =
        <境 三諦 三千 一切法>  
         三
 そして、この心と一切法が織り成す統一の容貌は、また絶待妙とも表現されることからも分る通り、よく前の権情を開して一実の仏乗に会帰せしむ『法華経』の開会思想と関連深いであろう。円融三諦は開会についての教理上の根拠となっているのである。いうまでもなく「方便品」十如是の三転読文然り、「寿量品」の「非如非異」等、三諦の義を呈出するが、五種三諦の教判に示されているように余経は例外なく三諦に分析される内実を有している。ただ円教の主張は三諦の円融であって、全てを円満に融通し隔歴なく一切法一法にして妙なればこそ、余経、これに摂有されるのであり、『法華経』が開会の経たる所以である。
 しかし、これが開権顕実というは、これに留まらない。『摩訶止観』の不可思議境における権実二法の解明は更に徹底している。
  権不可説故非レ権、実不可説故非レ実。非レ権而強説為レ権、非レ実而強説為レ実。等是強説、何意不二名レ権為一レ実耶。以レ有レ説故、故皆是権。又此権実悉是非権非実、何以故。皆不可説故。此非権非実、不レ得レ異二於向実一。向以レ見レ理為レ実、実是非権非実、此義不レ異。若異者応レ有二別慧一、応レ照二別理一。理惑既同、不レ可レ使レ異。対レ権故説レ実、廃レ教故説レ理、故言二非権非実一。即レ教而理、権実即非権非実、無レ二レ無レ別不レ合不レ散。非権非実、理性常寂、名レ之為レ止。寂而常照、亦権亦実、名レ之レ為観。観故称レ智称二般若一、止故称レ眼称二首楞厳一。如レ是等名不二レ不レ別不レ合不レ散、即不可思議之止観也。此非三但開二実是非権非実一、開二権亦是非権非実一。
 権は不可説の故に非権であり、実も同様に非実であるという。権実という自体は観念であるが、観念を越えているものを指示する点で非権非実でもある。つまり、この権実と非権非実とは不二不別不合不散であって、権、実ともに非権非実を開くといい得る。そして権実二法の教以て理をいうとしたら、その理性は常寂でありながら常照の故に、非権非実は亦権亦実であるともいう。
 この辺の筆致、三論宗吉蔵の教理観に類似するとはいえ、大師においてより特徴的なのは、非にして而という論法である。まさしく不可思議絶待妙の上の語りであるが、事は権実の問題に限るのではない。不可思議を敢えて説明する際のこうした表現は、果たして真理が言葉を超越しているのを示すに他ならないであろう。龍樹は八不でアプローチするに大師は否定即肯定を以てする。徹底した否定の果てに露わとなるもの、それは愈々肯定せざる得ないことに大師は着目したらしいのである。
 例えば、相待仮なる言葉を否定しても、言葉の存在そのものは問われない。虚妄倒であるといっても、固よりそうでない事柄から始まる場合はない。修性の転換にて煩悩は即菩提なるというように、この相即は現に有るものが真の有り方を顕すことであって、その際、有るという自体は所与としてある。実在するか否かと言う設問すら<観念=言葉>による囚われにはなるが、しかし仏ばかりか凡夫の目から見て少なくとも自明なのは、凡・仏・法の三を成立させている、いわば公理的な空間である。そこに起きていることの何と確かなるか。苦渋に充ちて不如意なるを現実という。この現実という枠組は疑い得ないからこそ、仏法が存在するのである。仏は、現象即実在を説くわけではないが、ただ苦なる凡夫の現実を見ているだけである。大師が実相に妙有という異名を与えるときには、かくの如き憶念があって、妙有とはこうした前提の枠組を暗に示しているとも考えられるのである。その実相観は、どこまでも現実について肯定的であるといえるだろう。強いての解釈を行なえば、妙有なるが故にこそ、実相は円融三諦においてあると見ることが出来る。畢竟空でありながら仮といい現実を復権する。その上で空・仮がともに等しく一切法の有り様を顕しつつ相即の関係なるを積極的に伝える中をこれらのもとに措いて、一切法は即空即仮即中であると締める。三諦が同時に成立する為には互具互融して全体は一円とならなければならないであろうし、逆にこのように捉えられる全体は否定出来ないのであるから、円融三諦とは、現実との調和を求めた諸法実相の究明であったといえるのでもある。
 現実は、それを把握したといっても依然そうし切れないままの羨余がある。故に我々の把握の試みを擦り抜けていってしまう現実には終局において肯定的とならざる得ないのである。思想が現実に即して評価判断を受けるが如く、それがどんなに高度な観念体系といえども現実に合致する点に価値を有するであろう。ある意味では、妙有ということが、大師の思想根底を規定してもいたようである。
         四
 ところで、これが俄かに真理であるということの局面、すなわち大師が真理に言及するについては、よほど注意がなければなるまい。境智冥合で真理と一体となった時、真理という表現すら出来なくなるからである。真理に執すれば、それは真理観といい境に対する観智になってしまうのであり、真理とて観念の所産にして、元々人間が造り上げたといえばそれまでである。ならば、現象から真理を見て取ったといっても、それは現象から乖離している、真理という<観念=言葉>に過ぎない。これはまた構造的体系であり、しかも自律性を持ちつつ作用し、却って我々の心を支配するのである。
 人間の諸々の文化は帰するところ言葉そのものである。極端な場合は、その過信から、それが指示するカウンターパートの実在すらいい出しかねない。けれども大師が真理と一つなるを企図して不可思議不可説というは、言葉の限界性を示す。徹底して一切の言葉を放擲するによりこの構造の束縛を断ち切る試みであり、実相というは、かかることを内含した究極の表明であるともいえるだろう。
 <観念=言葉>は、先ずそれ自身をテーマとしなければなるまい。己れの性質に精通し、己れの動向を監視しながら、己れの造る陥穽を回避しなければならない。勿論、大師の哲理とてまた例外ではなかろうが、しかし、こうした経緯を暴いてみせて愈々自覚に達した特筆すべきことである。
 <観念=言葉>の本質とは相待仮にして無自性であり、実体視すべき固定的要素ではなく、問われるべきはその関係性にあろうし、思想の歴史は既に考えられただけでも、そのバリエーションの豊富さを見せているが、これらを俯瞰してみても分るように、たとえ思想がどんなに雄弁多弁で完成されても、固定的意味付けに依らば、世界を把握したと豪語するは、みな独り善がりの満足に過ぎない。何となれば、言葉を無理強いに現実に当て嵌めては、真実を覆い隠しているという反省に乏しいからである。
 而るに、大師の実相観ほど、この真相を伝えるに功を奏しているものはないであろう。且つ、そのタームすらも自己言及的に制御している。いわば、これは<観念=言葉>が「遊心法界」の境中にあって自由無碍となり、己れ自身を知るによってはじめて可能なことなのであろう。

 註(引用文は、原意を損なわない限り当用漢字に改め、諸本と校勘して返点・句読点を付け直した。)
  隋朝開皇十七年[西暦五九七年]十一月二十四日遷化。
  『妙法華経玄義』大正蔵三三・六九八頁中。
   三諦猶帯二方便一直顕二真実一、次明二一諦一。一諦猶有二名相一、次明二無諦一。
  真性軌、観照軌、資成軌の三軌により三道、三識、三仏性、三般若、三菩提、三大乗、三身、三涅槃、三宝、三徳等は類通される。
  『妙法華経玄義』大正蔵三三・七三九頁中。
   円教発心雖レ未レ入レ位、能知二如来秘密之蔵一即喚二作仏一。初心尚然、何況後位乎云云。
  『摩訶止観』大正蔵四六・五四頁上。
  同右五四頁上。
  『妙法華経玄義』大正蔵三三・七〇四頁下―七〇五頁上。
   即有二五種三諦一。約二別入通一、点二非有漏非無漏一三諦義成。有漏是俗、無漏是真、非有漏非無漏是中。当教論レ中但異レ空而已、中無二功用一不レ備二諸法一。円入通三諦者、二諦不レ異レ前、点二非漏非無漏一具二一切法一、与二前中一異也。別三諦者、開二彼俗一為二両諦一、対レ真為レ中、中理而已云云。円入別三諦者、二諦不レ異レ前、点二真中道一具−二足仏法一也。円三諦者、非三但中道具−二足仏法一、真俗亦然。三諦円融一三三一。
  『摩訶止観』大正蔵四六・三四頁下。
  その約教二諦説によれば、空・有という教を以ては中道を得ず、これは、言忘慮絶において顕される。
  『妙法華経玄義』大正蔵三三・七八二頁中―下。
   実相之体是一法、仏説二種種名一。亦名二妙有、真善妙色、実際、畢竟空、如如、涅槃、虚空仏性、如来蔵、中実理心、非有非無中道、第一義諦、微妙寂滅等一。無量異名悉是実相之別号、実相亦是諸名之異号耳。

  ※本稿は、平成八年十一月九日、身延山大学において開催された第四十九回日宗教学研究発表大会での発表内容を要約したものである。












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