日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第31号:228頁〜 研究ノート ←前次→

  現代における「信」と「学」と「化」の三極構造への検索
〜その3〜    
小澤惠修
(現代宗教研究所研究員)
     はじめに
 さて、「教化学」という言葉はあまりに現在の宗門ではポピュラーなものではありませんが、ちょうど二年前の教学大会において、この「教化学」を念頭に置いた試論を発表させていただきました。今回はその引き続きとしまして、さらなる検討をしたいと思います。
     一、問題の所在〜教化学への展望〜
 まず問題の所在として、実際に行なわれている教化活動の現状分析に注目しますと、ここではっきりとした資料の提出、提示はできませんが毎年の中央教化研究会議の席上、あらゆる現場の意見が集約される中に、各寺院の信行会結成の困難性、若い世代への教化の困難性、葬儀に対する庶民の意識変化への対応の困難性、特に「宗学」といわれる教学の有効的な能動性など、あらゆる現実的な問題が提起されています。また、私がある編集社において打ち合わせをしたおり、近年のオウム事件に端を発した話題の中でこんな事をいわれたことがあります。「既成宗教教団の方々が今回の事件についてそんなに困惑することはないと思います。既成の宗教は私たちの日常生活の中に、大きな役割を果たしていただいております。それは葬儀という日本人の大切な文化を守り、その期待に充分に答えていただいております。その事が大切であって、葬儀という大きな文化を継承する意味でも社会的役割を充分担っていると思います。それと同時に、それ以上のことを民衆が求めているかは疑問ですが……」という衝撃的な見解を示してくれました。これは近年の宗教関係の事件を背景として浮き彫りにされた我々の存在価値に関する重要な見解であり、正しく伝道教団を自認する宗門にとって由々しき問題であろうと考えます。その背景には、当然戦後の宗教政策や教育政策が影響していることは周知の事実であり、そのような社会構造の変化に対して、こちら側がどのような対応、分析を試みてきたのかは定かではありません。我宗門でも現代宗教研究所において、創設以来三十年に亘ってその分析、検討がなされてきたことは事実でありますが、その努力がいかに現実の教化の場面に有効に活用されているかは残念ながら疑問を投げ掛けざるをえません。
 現代の社会構造は戦後の転換によって「民主主義」「自由主義」が台頭し、「個人」の権利が保護され、自由に主張される背景が存在します。このような、いわゆる全体主義から個人主義への転換は、日本人の精神構造に大きな変化をもたらしました。個人による価値基準の設定や獲得などの可能性は、膨大な情報化の成長によって自由に保証され、その延長線上には私達に一番身近な「家族」という共同体の変貌にも影響を及ぼしたであろうと考えられます。家族構成の核家族化が進行し、本家、分家意識の形骸化や家族の中においても個人の生活環境、つまり親子といえども、親は会社組織という固有の生活環境を有し、子供達は学校という生活環境があり、さらに家庭環境ともそれぞれ独立した環境価値というように、はっきりと独立した方向性をもって実際の社会に対応し得る状況ができあがったことが重要な要素として存在するであろうと考えられます。
 このような社会状況を背景としながら実際の教化活動を行なう場合、どのような問題が存在するのか?当然のことながら、我々が日蓮宗の教師となるためには、身延山大学なり立正大学なりにおいて「宗学」を研鑽し、または他の大学教育機関において終了した者は、試験制度によって「宗学」を学ぶというように、いずれにおいても「宗学」を避けては僧侶の資格を有することは不可能であります。この「宗学」が実際の教化活動の現場においても有効に機能することが大前提であり、教育目標、理念においても「宗学」即「教化」という図式が成立しなくてはならないのではないかと考えられます。しかしながら、このような大前提を認めた上で、あえて先に述べたところの「宗学」を有効に能動性をもって機能させるためには、その時代単位に「宗学」の周辺への分析、整理、研究の必要性があろうかと考えます。というのは、実際には「宗学」が即教化の場面において機能することが「宗学」の学習過程でありますが、近代の社会機能の変化は不透明性を増し、その「宗学」の周辺のあり様の変化さえ確実に分析することが不可能な状態であろうと思うからです。
 その「宗学」の周辺へのアプローチをいくつかの試論をもって行なっていこうと思うところから「教化学」への展望を計りたいと考えます。
     二、「現代」への現状認識とアプローチ
    (1)「信」の現代的周辺
 現代認識を前提としたあらゆるアプローチの方法として論題の通り、まず「信」について考えてみますと、そもそも「宗教」というものに対しての問い掛けは、常に実際の日常生活におけるあらゆる場面において問い掛けられるものです。この問題について、早稲田大学名誉教授佐藤慶二博士がこのような考え方を示しています。
 「いかに始元を獲得すべきであるか、という問い掛けをもって始めなければならない」と述べられています。この「始元」について考えるに、本来への帰依、その対象となれば「久遠実成の釈迦牟尼佛」であることはいうまでもありません。この「始元」をいかに獲得するかの相互の主体的関係について、我々に対する「信仰の要請」とその「始元」がいかにその「要請」に働き掛け、呼び掛けて行くのかの関係を茂田井教亨博士が「本尊論」を説明する中で指摘されています。この「要請」という概念と「働き掛け」という「行為」との相互関係が宗教的価値観という問題において、現代にどれほど有効性があるものなのかが一つの周辺的課題であります。その手掛かりとして、三年程前に「宗教と情報」という課題をもって考えた事があります。近代の情報化社会の発展によってあらゆる物事の価値観が多様化し、それを獲得する我々の情報に対する認識は大きな転換期を迎えることとなりました。価値観の多様化は我々にあらゆる状況における「選択」の可能性の多様化をも同時に誕生させたのです。これは「新日本文明」とも称されるものとなり、伝統的日本文化と見事に融合して今日に至っているわけです。このような意識革命は「自由な選択」という新しい価値観を生み、これによって「自己を考える」という思考運動から「自己に選び取る」という自己選択思考型へと移行する傾向が生じたのではないかと考えられます。これはまたマスメディア関係の標語で「撰民思想」という言葉まで生み出しました。私自身、早急な考え方ではありますが、「自己を考える」という人間本来の本能的思考運動の欲求から、現代の宗教意識の不透明さや混乱が生じたのではないかと考えていますが、これは今後の課題とすることにして、昨年の現宗研の所報では「五義」について現代を支柱に置いたアプローチを試みました。当然これは従来の宗学的な考え方ではありませんし、少々強引な試論ではありましたが、これは日蓮聖人が当時御自身の強靭な「信」の姿勢を体系的に教相判釈されたものであり、その重要性を明かす意味でも必要と考えたからです。
 ここで簡単にその説明をさせていただくと、「経」とは『法華経』、「妙法五字七字の南無妙法蓮華経」であり、それへの絶対的随順の信仰姿勢であります。これを基盤とした宗教的必然性によって、以下の「機」、「時」、「国」、「序」が体系化されるわけですが、その「教」そのものの主体性が消極化に向い、その機能が形骸化してきているとしたらどうなるのか?という疑問点の提示です。
 「経」としての主体的機能が稀薄化し、『法華経』の宗教的価値が社会的にあまり意味を持たなくなれば、当然日常的場面においての「五義」の構造も自ずから考え直さなければなりません。これは「教学」を変えるという理論ではなく、いかに現在の我々の周辺を分析するかという問題です。
 先に述べました戦後の日本社会の構造の変化や、情報化社会の台頭に関連し、価値観の固有化、分割化の進行は、宗教的人格というものが日常の外壁に追いやられ、「信仰」というものが非日常的な価値として存在し、さらにその独立性が進行するのではないかという可能性は非常に大きいと考えます。日蓮聖人の門下であり、また同時に伝道教団である以上、この由々しき可能性にどのような見解、対応を執るのかは聖人の「五義」の教判に示された歴史的必然性を同時に宗教的必然性とも捕らえるならば、急務の問題であろうと思っています。
    (2)「学」の現代的周辺
 次に「学」の問題ですが、これも当然、先の「信」の場面での問題が大きく関わってきます。これは、「いかに学ぶか」という学習機能の問題であり、現在の宗学教育にも及ぶ問題でもあります。我々の世代はマニュアル世代、コンピューター世代ともいわれています。先に示した価値独立性の思考運動は現在の日本の学校教育の中で、偏差値を誇張した学歴社会を含め、確実に私たちの年代の物事に対する価値意識を支配しています。その状況は近年さらに拍車を掛け、学校社会における深刻な「人間性的事件」、例えば「いじめ」、「自殺」など人間の人格、精神に纏わる問題に危機感を募らせている事は周知の事と思います。このような背景が存在する中で、いかに『法華経』、「宗学」を伝達、継承されるべきかを考えることは重要であろうと思います。つまり、『法華経』、「宗学」を「学習する」という行為は単位性の情報を集めるという知覚的情報学習機能、つまり単一的な個々の情報として、その一つひとつの情報の有機的な関わりという学習機能が低下するという傾向が強くなってきた気配が感じられます。「宗学」は日蓮聖人の学問であって、それが「自分にとって」どのような価値が存在するのかという有機的、実践的情報学習機能が低下しているのではなかろうかと思います。聖人の「信」は聖人のものであって、自己のものではない。少々極端な試論ではありますが、これは我々の世界にだけいわれている問題ではなく、現代の世代が持つ「学」の周辺ではなかろうかと思っています。私たちが「学」の場面において、いかに聖人の門下としての学習が可能なのかは、大学教育だけではなく、教化活動を行なう日常の価値として考えて行かなくてはならない問題であろうと思っています。日常の諸々の価値に対し、いかに『法華経』、聖人の「教学」を部分的、分割的価値ではなく、我々の日常にいかに同一性の性質を導き出し、有機的な機能を持たせるかは今後の大きな目標であろうと思います。これらを踏まえて、次の「化」の問題に入りたいと思います。
    (3)「化」の現代的周辺
 この「化」の問題は、先程までの「信」、「学」の問題の分析、研究を踏まえなくてはなりません。例えば、「信」がその宗教的価値において日常の場面に、普遍的価値として機能しなくなっている。また、「学」は学問の領域から「教化」という場面に直結できなくなっている。つまり、学問的価値が信仰的価値として応用的機能まで有機的に昇華できないという自己矛盾的現実があるからだと思います。このような現実を見れば、恐らく後に指摘されるあまりに断片的な理論である事は承知していますが、私が現在、現宗研においてこのような機会を得させていただき、また、色々な宗教団体の調査、宗教を根源とした様々な社会的事件等を背景とする現状を踏まえながら、そしてさらに、まだまだ教化される側の年代の一人として、この理論、つまり「化」の現代的周辺への一つのアプローチとしては遠からずではなかろうかと考えています。
 ここで誤解をしていただきたくないのは、今の大学教育の場での「宗学」、「宗学教育」のあり方についての問題ではなく、それを受け取る側の存在するところの社会構造への理解、そして、宗教的価値観の多様化への新たな宗学的検索、分析、伝達など新たな試みの必要性があるのではないか、また、その事が可能なのかどうなのか、という私の個人的な見解と試論であります。
 さて、時間も少なくなってきましたので最後までまとまった結論を導き出す事はできないかもしれませんが、ここで、今後の手掛かり、また「教化学」の可能性を考える意味を込めて、「事の法門」に着目し、さらに試論を進めてみたいと思います。
 この「事の法門」はご存じの通り、天台の「理」に対する聖人独自の宗教的世界観でありますが、これは「語られた實相」である「理」の世界観をその語られた事実を可見的、つまり現実の日常の世界観において立証しようとするものであります。これが聖人の宗教が「体験の宗教」といわれる所以でありますが、観念的事実を体験、実践という媒介において宗教的価値を導き出すという歴史的現実に生きる立場が重要な観点です。浅井圓道博士はこの「事の法門」について「観念論の打破から始まる」という表現をもって指摘されていますが、この観念論こそ現代の「情報化至上主義」に培われた価値分割化思考運動の我々の年代、さらに現代の社会構造に置き換えて考えられるのではなかろうかと思います。いわば、日蓮聖人の「教学」の「観念論」への逆行現象、または宗教的価値を単一的な一つの情報として摂取し、その「情報」が現実の日常において有機的な関わり合いの中で実践できない状況は、「観念論」への埋没現象に他ならないのではなかろうかと考えられます。
 国立国際日本文化研究センター教授の濱口惠俊氏は「情報」との我々の付き合い方があまりに無機的なため、また、「情報」の過多現象のため、「情・知・意」の意義付けに限界が生じているとの見解を示し、さらに、ある「情報」についての現代人の生活理論の中で、「機能性」と「必要性」とはまったく別の次元において存在するというような認識を指摘されていますが、その通り、ここには「体験なき体験」、つまり「情報」を獲得した時点で「体験したつもり」という精神的錯覚が現代の「観念論」を生み出し、聖人の信仰的機能性は理解しても、その「必要性」の問題はまた別の次元の問題として存在しているのであろうと考えられ、そんな可能性があるのではなかろうかと思います。
 望月歓厚博士は、「事の法門」についてその表現方法を十四項目にわたって示されています。中でも「事證事」として我等の行動的實證を貴び、日常の諸事をもって佛界と同一の価値観として理解すること。また、「人間事」においては、人間のあらゆる心のあり様や、行動において「信仰」の何たるかを考えなくてはならないとし、聖人は『祟峻天皇御書』に「教主釋尊の出生の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」と信仰の日常性を教示されています。さらに、「現在事」として、「今」、「現在」への宗教的価値を重要視するのであります。『観心本尊抄』に示される「今本時」の世界観は、釋尊の「久遠実成」の「常住」の「今」を我々が実感する日常の「今」とを同一的に、またいかに同時的に「信解」するかの問題であろうと思います。この「事の法門」への試論はまだまだ浅きものですが、今後の「教化」を、さらに体系的に考えていく上で重要な提起と指南を与えてくれるものと思っています。
     おわりに
 以下、「教化学」の必要性と体系化の問題は、さらなる「宗学」への研究等を含め様々な問題を残しています。今後の課題は、「教化学」がどのような状況下において必要であるかという解答が得られるのか、また、その体系化の方法論など、先に示した「現代社会」への分析、検討の必要性、さらに、日本文化と「宗教」という特殊な文化との相互関係、つまり、伝統的な葬儀、先祖崇拝なるものの再認識等の様々な問題が累積していると考えられます。これらの分析、検討によって、「現代」を思考する価値多様化の社会構造とその中における宗教価値の受容過程の問題が浮き彫りになるのではと考えています。
 これらの問題点については後日の機会に譲らさせていただきまして、かなり乱雑、安易、簡潔な提起ではございましたが、お許しをいただき、本日の発表を終わらせていただきます。

 ※本稿は平成八年十一月九日、身延山大学において開催された第四十九回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものです。

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