日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第31号:202頁〜 |
研究ノート |
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「カルト」認定の問題
〜「フランス国民議会
ジャック・ギュイアールレポート」を中心に〜
貫名英舜
(現代宗教研究所研究員)
はじめに
「宗教カルト」と呼ばれる存在が、青少年を主なターゲットに巧妙なテクニックを使って入信勧誘を行い、入信者を教団施設などに家庭から隔離して、修養(修行)の名目の下で特定の価値観の注入(洗脳/マインドコントロール)を実施し、また、教団の維持や規模の拡大、または運営のための資金集めを目的として、強引で脅迫的な詐欺行為を行い、また同行為を信者(メンバー)に行わさせることを強要するなど、市民社会との間にトラブルを発生させている。
日本においては、<オウム真理教>が歴史上まれに見る深刻、かつ、重大な事件を引き起こした。当の<オウム>の教団組織そのものは崩壊過程にある。しかしながら、これとは別の様々な「新奇小」な宗教集団=「カルト(cult)」が、次々と生まれて来るという状況下にあることは確実であろう。そして、それら「カルト」のいくつかが、<オウム>同様に排他的で反社会的な集団(「破壊的カルト」)に移行する可能性があるとしなければならないのではないか。
このような市民社会の秩序と安全に深刻な憂慮をもたらす「カルト」の発生については、これまでは欧米などの高度に発達した先進国の社会にのみに特有の「社会的病理」の現象として考えられて来たが、最近になって、急速に経済発展を見せ始めたNIESやASEANなどの東南アジア諸国や南アメリカ、そして、旧ソ連の各共和国、そして、経済解放政策が進む中国の社会にも出現するようになったという報道が散見されるようになった。急激な社会の変革によって、従来の共同体や家族などの価値観のゆらぎが起き、そこに暮らす人々に不安や動揺をもたらす。このような急激な社会の変化に適合することのできない人々の欲求不満のはけ口が、宗教に向かっているとされる。「カルト」という社会現象は、総じて、このような「宗教リバイバル/復権」の歴史的流れの中で把握されるべきものであると言えよう。
このような見方をすれば、<オウム真理教>という存在の発生は、現代日本の管理社会そのものが内在し始めている病理性をその母体にしているとも言えるのではないか、という印象を持たざるを得ない。少なくとも、「カルト」とは、それを実体と「供給」する側の問題として把握するほかに、それを求め、積極的に関わりを持つことを望む一群の人々(特に青少年)の「需要」の問題をも考慮されなければならないであろう。なぜ、「カルト」という現象が発生するのかは、そこに若い世代の人々がなぜそれに引き付けられるのかという我々自身の社会状況そのものの検証によって解答されなければならないと考える。
日本に先駆けて、ヨーロッパ各国は、「カルト(セクト)」という事象を現代の深刻な社会問題として認識し、それへの対応を国家間で共同検討することの必要性を確認した。これまで、十五年以上の歳月をかけて、この複雑な構造を有する社会問題に対してどのように対処すべきかについて、広範で組織的な議論が展開された。この議論の蓄積に学ぶことは、我々にとっても、極めて有益な示唆を得ることができると考えるものである。すでに、一九八〇年の初頭から、ヨーロッパではこのカルト問題に関する社会の関心が高まりをみせており、八四年の「ヨーロッパ議会決議(EC決議)」としてその対処案がまとめられた。各国が協調して「カルト」の及ぼす甚大な被害から市民社会や青少年の防衛を考え始めているのである。
この試論の論旨は、「EC決議」から十年後の一九九五年十二月二十二日に提出され、決議採択された、フランス国民議会ジャック・ギュイアールレポート「フランスにおけるセクト(カルト)教団]を読むことで、フランスが行政の責任者として「カルト問題」にいかに取り組んでいるかを見ていくものである。
※註フランス国民議会ジャック・ギュイアールレポート「フランスにおけるセクト(カルト)教団」については、天理教宗教事情調査研究会における原題「Les sects en France」の「試訳」 (一九九六・一・一〇)に拠った。
一、ヴィヴィアンレポートとギュイアールレポートの成立の背景
ジャック・ギュイアール国民議会レポート「フランスにおけるセクト(カルト)教団」に先行するものとして、アラン・ヴィヴィアンレポート「フランスにおけるセクト……信教の自由の表現、もしくはマインドコントロールの要因」(ギュイアールレポートでは、このように表記されているが、もともとの原題は「フランスにおけるセクト……信教の自由の表現か、もしくは悪質な担ぎ屋か」)がある。これは、八三年にフランスのモーロア首相の委任を受けて、フランス国内で活動する様々な「セクト」(フランスではこのような新宗教運動を「セクト(sect)」と呼ぶ。本稿は、以後この原資料に拠って「セクト」という呼称を用いる。)について、分析・事実調査した結果を首相に提出したものであり、これは、八五年四月に外部に公表された。内容的には、基本的には「EC決議」の系譜にありながら、それよりも、セクトの及ぼす社会問題に対してフランス国内の行政機関が連携してとるべき具体的な対策を企図したものである。同レポートは、次のような五項目の提言を行っている。
(A)政府高官の責任の下に置かれるセクト専門の省庁間組織を創設すること
(B)予防と情報提供のためのキャンペーンを組織すること
(C)セクト現象に関心をもつ団体を国際的な連合体として組織すること
(D)各地域圏に、セクト入信者の家族の運動を支援するための機構を設けること
(E)子どもの権利を確認し宣言すること、およびセクトが開設した学校を閉鎖すること
「EC決議」と「ヴィヴィアンレポート」から約十年が経過し、この間に世界に起こったセクトをめぐる悲惨な諸事件、及びその衝撃の影響を受けた市民社会のセクト問題に関する関心の高まりが起こった。セクトの活動は、冷戦の枠組みの解消以前のそれとは、質においても量においても大きく変貌を果たしたと言える。更に、国際的なボーダーレスの進展によって、国境を越えて他国の社会に浸透をはかるセクトという新しい問題要素も加っている。
かつての過激な宗教カルト運動がその崩壊末期に起こす不幸な結末は、内側に向けての自虐的な決着、すなわち、集団自殺(「人民寺院事件」・「五大洋事件」など)というありかたが一般的であったと言える。しかし、近年、起こったカルトをめぐる事件では、カルトは過激な武装集団に変貌し、取り締まりに当たる当局、さらには、一般市民に向けて物理的な敵対行為(テロ)をとるという方向への転換が起こっているとしなければならない。九三年四月十九日、アメリカ合衆国テキサス州のウェーコで起こったデビット・コレシュが率いる終末論を唱える武装カルト<ブランチ・デビィディアン>は、FBIの強制排除に対して銃撃戦で応戦し、最終的に施設に放火したうえで集団自殺をした(死者八十六人 うち子供十七人)。取り締まりにあたったATF(連邦政府アルコール・タバコ・火器局)捜査官四人が殉職した。そして、その事件の余波として、二年後の前述の事件と同日に起きたオクラホマ市連邦政府ビル爆破事件(死者行方不明一六九名)へ連動しているという推測もなされている。また、この報告書が、フランス国民議会へ上程された翌日には、スイスとカナダで<太陽の寺院教団 オーダー・オブ・ソーラー・テンプル>の信者十六人の集団自殺と推定される死体が発見された。そして、九五年三月に起こった<オウム真理教>によるとされる「地下鉄サリン事件」は、市民社会の大衆に対する無差別テロで、死者十一人の他に五千人にのぼる被害者を出した。
これらに共通するものは、教祖という権威主義のカリスマ(メシア主義)を受容していたこと、共同生活を行う比較的少数の集団であること、信者が比較的高学歴のインテリ層に属する人々が多かったこと、強烈な「終末論」を教義に持ち外部に敵対する被害妄想的な心情を持っていたことなどがあげられる。このような状況から、当初穏当な教義を持っていたカルト的存在が、ある条件のもとに急激に変容して反社会的な「破壊的カルト」となる可能性を否定できないこととなった。このような現状に即して、社会及び国家がいかにこの破壊的攻撃から防衛されるかという新しい視点を持たざるを得なくなったのである。九五年六月二十九日、フランス国民議会は、調査委員会(委員会名「セクト現象の研究と必要な場合には現行法令の改正を提案する」 アラン・ジェスト委員長 委員 与野党合わせて三十名)の設置を満場一致で採択した。そして、同年十二月二十二日、フランス国民議会報告者ジャック・ギュイアールによって、国民議会に提出されたものが、この「フランスにおけるセクト(カルト)教団」という本文二十ページにのぼる本報告書である。
ギュイアールレポートは、その序文で、ヴィヴィアンレポートがフランスにおいて初めてセクト問題の核心部分に言及したという歴史的な意義を評価しながらも、「その有益性、正確さにも関わらず死文化してしまっている」と言う。それは、セクトが単に巧妙な手段をもって人々を惑わす詐欺的な行為として入信者を勧誘し、服従を強い、かつ相手の財産を吐き出させるという従来的な認識では、もはやその運動を捕捉することができないのだ、とする観点の変更に基づくものであると考えられる。つまり、現代の若者自身が積極的にセクトへ自己の全人格を投じてしまうという、人々の「需要」あるいは「願望」としての新宗教運動として考慮されなければならないということであるという視点を加味している。このレポートの冒頭に、「セクトは混乱を起こしながら尚栄え続けている。期待に応えてくれると錯覚し聞き入ってしまうような教説の見せかけの宗教性に惹きつけられ勝ちな現代人を、このセクトの中に落としめるものは、我々の社会の動きそのものであると言えよう。」(序文)と鋭く指摘する。セクトがなぜ成立するのか、という設問に対して、それを現代社会に内在する社会的要因(例えば、既存の共同体や家庭の崩壊)として還元しつつ、現代人の精神的傾向(例えば、秩序イデオロギーへの不信や不満、そして不安心理や背信)の問題として捉えることの必要を訴えていると考えられる。したがって、人々が、将来にさらなる拡大が予測されるセクト問題について、人々の関心を惹起する啓蒙活動を行うとともに、公の機関は現行の法的な体系の中でどのような対抗のための法律構成や整備ができるかを試案として示す必要が提言されるのである。
本年二月八日に始まった調査委員会の報告書の説明討論では、カトリック系や共産党に至るまで、この報告書に賛同し、この報告書の価値はフランス国民議会の総意としての公式見解となった。
ギュイアールレポートは、「序」に続く三つの章、及び、「結び」によって構成されている。
T・把握の難しく、伸展し続けていると見られる現象
U・複雑な結果を引き起こす多面的現象
V・セクトの危険性に対する適切な対抗措置の必要性
以下、これらの章を横断しながら、レポートの内容を概観する。
二、セクトを正当な宗教に対してどのように区別するか
T章においては、「セクト」という概念の定義性が改めて問題とされる。「EC決議」でも、「信教の自由」あるいは「公権力の宗教への不介入(政教分離)・あらゆる宗教に対する中立性」を原理に照らし合わせて、特定の宗教的存在(教義・実践・組織など)に対して、「危険性のある」とか「異端的である」とかの予断を示すことは避けなければならない、ということは原則についての考慮がなされている。したがって、このレポートで使用する「セクト」という呼称は、このような原則の存在を十分に踏まえた上に立って、現実的に決断されたものとして受け取らなければならないだろう。正当な宗教の活動に対する区分を明確に示す必要を認めている。原則に即せば、「EC決議」同様の抽象的な(曖昧な)呼び名になってしまうのであり、現実にそれによる深刻な公的秩序の混乱及び被害を招いている以上、市民社会の側に立って、[それ]への対処を優先するという意味で極めて現実的な政治的態度決定として見て行く必要がある。
このレポートは、「[それ]が何であるのか」という一義的で実定的表現は、法的にも、語源的にも、社会学的にも、極めて「不明確」なのであって、結局その概念規定は「困難」であると言う。したがって、[それ]がどのように現象しているかという「兆候」における「基準」において、帰納的に「概念」を浮かび上がらせようという立場をとる。
「セクトの危険性に基づくアプローチ」という小項目のテーマは、主として正当な活動をする宗教とセクトをどう区分するかを、概念を二項対立させて分析を試みる。
(A)自由⇔団体に対し強制
自ら納得した上での確信⇔操作による確信
自由参加⇔狂信
長の威厳⇔グル(導師、尊師)崇拝
自発的決断⇔完全な誘導による選択
選択肢(文化、道徳、思想)の探求⇔社会の価値体系との断絶
集団への公正な加入⇔無条件の服従
巧みな説得⇔計画的操作
人にアピールする話法⇔新奇な話法
一体意識⇔混合集団
正統な宗教団体に対して、異端的な存在であるセクトを概念で区分することは、簡単に見えて、実は、大変困難な作業である。このような背反的な二項の概念を列記してみても、どのような異端としてのメルクマールを設定できるのか、そして、そのような境界を誰が何の資格をもって判断するのかという点で客観性を構築することに限界があるからである。ここで、ギュイアールは、「このような条件下では、客観的に思考することや、月並みと見るか悪魔的と見るか、無能で通すか過度の寛容を示すか、あるいは全体を疑ってかかるか、我々の立場をはっきりさせることがいかに難しいか推し量ってもらえよう。が、この道を委員会は選んだのである。」と述べる。さらに、「誰からも受け入れられるようなセクトの客観的な定義付けをし得ると主張するつもりもない」とし、さらに「多くの可能性を損なう危険や、事実の部分的分析に終わりかねない危険を覚悟で、世論がセクトの概念に付している共通の見方を採用することとした。」と自らの限界を一方で慎重に検証しつつ、敢えてふみこえていくことの必要性を重視する立場を優先させるべきであることを主張する。
レポートは、フランス内務省の国家警察局に所属する「総合情報局」によるセクト現象分析において用いられる基準に、委員会として準じて行く方向を示す。以下に、その基準としての現象的「兆候」を列記する。なお、内務省情報局とは、日本で言えば公安調査局のような役割であると思われ、その中にセクトを担当する部局がおかれている。したがって、宗教団体を所轄する「宗務部」とは全く別組織である。この点でも、フランスにおいては宗教団体とセクトを分離して所轄しようとする意志が見られる。
(B)精神の不安定化/法外な金銭的要求/生まれ育った環境との断絶の教唆/健全な身体の損傷/児童の徴用/多少を問わず反社会的な教説/公共秩序の撹乱/多くの裁判沙汰/通常の経済流通経路からの逸脱傾向/行政当局への浸透の企て
※註「児童の徴用」については、ジャーナリスト広岡裕児氏は、原語embrigadementを「子供の囲い込み」と翻訳し、「『旅団編成、隊(班)編成』のことで、ただ単に子供を集めるというのではなく、軍隊のように外界から遮断して信者を養成すること」であると説明する。◎「諸君!」一九九六・五「仏議会が認めた創価学会の危険性」一四九頁
このような「兆候」のいくつかを要素として持つ教団組織をさらに(A)から導き出せる次の条件を満たすものを調査目標とする方針を立てるのである。
(C)◆一人の信仰的指導者(カリスマ的教祖・グル)・一つの存在(信仰対象・信念体系)・特定の超越瞑想(修行法・行法実践)を持つ教団
◆伝統宗教(キリスト/イスラム/ヒンズー/仏教)に無関係の教団
◆公共の秩序や個人の自由に対立するという疑いのある教団
このような手続きを経て、ギュイアールレポートは、一定基準に該当するセクト個々について、名称・信者(メンバー)数・分布・推移などについて、統計的な処理を試みる。総合情報局に過去二十年間にわたる集積(総合情報局は、母体組織一七二、支部や「正体を隠した衛星組織」を入れると約八百をセクトと認定、信者数を約十六万人と見ている)や専門家(医師・学者・キリスト教関係者・ジャーナリストなど)の間接的意見、セクト問題に対応する民間組織の反カルト団体UNADFI(「家族と個人を守る会連合」)などによせられた相談件数などの統計などが掲載されている。
しかし、この数量化は必ずしも事態の正確さを示しているとは言えない。多分に推定的なものを内在し、かつ、また刻々流動する運動そのものを固定的に観察することは不可能であるからである。そして、当初から問題になるセクトと非セクトの境界設定における主観や、観測者の立場の違いや調査にかかる物理的限界などがあって、証言や報告の数量にかなりの隔たりが見いだせる。
このレポートにおいては、フランス国内のセクトの総数を二百から三百ぐらいとし、直接間接にセクトに関わりのある、または、あった人の数量を五十万人とおいているように見られる。そして、「ここ数年は、……(中略)……構造的にも信者数の上でも著しく伸びていることを確認している」とし、その拡大傾向に重大な懸念を表明する。
三、現代のセクトのブームとその背景
セクトのブームを二期に分けて、次のように分析する。
《第一波……二十世紀初頭》
☆キリスト教系新興勢力……エホバの証人/モルモン/ペンテコステ派等
(社会の低所得者層・大人、特に女性が対象)
《第二波……一九六〇年代後半》
☆東洋思想・オカルト・グノーシスなどの傾向……クリシュナ/統一教会/創価学会/サイエントロジー/ラレリアン・ムーブメント等
(中流階級の男女の若者が対象)
さて、なぜ、現代の若者はセクトを「需要(「宗教的渇望」)」するのであろうか、という問いに対して、レポートは「確認のための意味でのみ触れる」「これらの現象の深い研究に関わることは委員会の役割ではない」という立場上の制約をおきながら、「生産第一主義への疑問、政治理念の崩壊、科学万能主義・物質主義の挫折、伝統宗教の衰退などが、十九世紀以来、西欧社会の発展が辿ってきたパターンを厳しく問い直す契機となった」、その結果として「伝統的信仰や社会機構の大原則が揺れ動き、多くの失望、フラストレーション、再定義の試みを引き起こした。未来の不確実性は、人間の包括的解釈あるいは新たな宗教性を示す集団の続出を助長した。」と分析する。
新しい創造的な価値体系であるかのように見せかける擬態的なものこそがセクトの正体である。反対に伝統的価値の頽落に対応するだけの創造性を制度的宗教の方が打ち出せない断絶状況こそが、若者を伝統的キリスト教の教会の言説に無関心にさせ、逆にセクトへ向けさせる原因であることになる。
さらに、セクトへの入信への動機には、ヴィヴィアンレポートを引用して、「家庭問題」、家庭に充たされないと感じる人々の「より大きな家庭的幸福、あるいはより大きな心の充足への渇望」が原因としてあると分析する。そして、その背景には、現代の社会全般の「家庭崩壊」の状況があるとしている。もう一つの要因は、「理想への願望」であると言う。あるいは、「自己変革/能力改善」(<オウム>で言えば「超能力開発」)への願望がセクトへの積極的関わりを助長するということになる。レポートは、これらのいくつかの要素が重なり合って、人々(特に青年は)はセクトに関心を抱くのだと結論を出している。それらの要素を概ね含んでいる元信者の証言の引用があるので、ここに転載する。
「まず世紀病という、これは生きる苦しみのことで、ますます顕在化しているように思う。家庭の枠は大概崩れ、特に父親が不在か、あるいは逆に暴力などでその存在が強すぎるかのどちらか。セクトを通じて我々に欠けている仮の父親、権威、手本というものを求めている。今日明日でもあなた方を受け入れ歓迎してくれる二〜三〇〇人の友を得ることが出来る。そこにはあなたの食事が用意され、話も聞いてもらえ更に信頼し合う気持ちをもてる。
セクトに入る人達は多く理想主義者で、完璧とまでは言わないが、多分にそういうものを求めている。自身、個人的には、家庭崩壊、理想への願望がセクトに向かわせた。
グルが言うには、『世界は悪い方へ向かっている』と。それを知るにはテレビのニュースを見れば十分。戦争、病気、問題が至る所にある。世界は悪い方へ向かっている。一個人として、世界が良くなるためには何ができるか。それをグルは我々に示してくれる。我々は大地、地球、その他あらゆるものを良くしようと考えてきただろうか。『あなた方自身がまずとりかかるのです。あなた方自身が変わることから始め、そして世界を変えていきなさい。』私はこれを信じていたし、世界を変えるために私が変わろうともした。」
当然、セクトとそのリーダー(グル)が示す疑似家族的雰囲気は、マニュアルに基づいた演出であり虚構でしかないかも知れない。また、その説くところの理想も虚偽や空論でしかないとも言える。しかし、この証言から明らかのようにセクトへの入信者は、総じて世界の改善・救済というテーマを比較的真剣に考えようとする傾向があることだけは確かであろう。セクトへ入信して行く若者は「学生、知的エリート、とりわけ科学者」のような「懐疑の思考に耐える苦痛、つまり包括的解釈を提示する」セクトへ傾倒しやすいし、「知識人ほど、自分はマインドコントロールされないと確信している」が、この過信こそが「脆さ」としてセクトの攻略を受けるのだという。
セクトのますます巧妙化する信者のリクルートの手段とあいまって、セクトへの入信の契機は拡大していると言わなければならないだろう。
四、セクトの「宗教現象」(教義・修行・組織・etc)の多面性
<オウム真理教>という宗教教団における信仰や教義、修行における身体技法は、「東洋思想・仏教・チベット密教系」に位置付けることができる。そして、その教義・内容と宗教実践を詳細に見ていくと、「オカルティズム(超能力)」・「予言及び終末論(黙示録的運動)」・「ヨーガとメディテーション(瞑想)」などを「ニューサイエンス」を援用して説明するなど、極めてシンクレティックな混淆が見られる。
多様なセクトの宗教教義や実践を類型的に分析し、新宗教運動全体の中にどのように位置付けるかという試みが、このレポートでは意欲的に行われている。当然、一つの宗教現象を分類抽出することの試みは大変難しい作業であろう。ヴィヴィアンレポートでは、「東洋志向」「習合主義」「秘教主義」「民族主義」「ファシズム」の五分類であった。 このレポートより先に成立している総合情報局(調査総数一七二)の分析においては、次にあげる十二分類が列挙されている。 ※( )内の数字は、その累計数を示す。
(1)「ニューエイジ」グループ(49)
個人及び地球的規模の意識の覚醒や拡大、超越と内在、輪廻転生やカルマ、「エネルギー」=意識、など。
(2)「代替宗教」グループ(4)
これまでとは異なる機構を持つ経済・生産・交易・人間関係を提示。人道主義的援助。個人の改革を社会改革へ連動させ、世界の暴力と貧困の克服を図る。
(3)「福音的」・「疑似カトリック」グループ(9)
伝統的キリスト教に依拠しながら、リーダー的存在の教団に対する発言力が強化される。また、「疑似カトリック」は正統的神学からの距離が極端なものをいう。
☆この分類において取り上げられる団体で日本社会にも関係あるものは、〈統一教会〉である。
(4)「黙示録的」運動(15)
近未来に起きる世界の破局を説く。
☆<エホバの証人>
(5)「ネオ異教」運動(3)
聖書に示された神以外の神(ケルト・北欧神話・精霊神話)を信仰する。
(6)「悪魔崇拝」運動(4)
(7)「祈祷師」運動(18)
科学としての現代医療ではない治療法として、東洋の医学である「気功」・「ヨーガ」・「瞑想」、そしてニューサイエンス系の「エナージェティクス」・「波動理論」などを取り入れる。
(8)「東洋志向派」運動(19)
仏教、ヒンドゥー、道教などの東洋の形而上学的宗教への志向
☆ヒンドゥー瞑想系(<ハレ・クリシュナ意識協会>など)・<創価学会>
(9)「オカルト」運動(16)
宗教とも科学とも受け入れられていない秘教的諸技術(占星術などの占い・未来予知、心霊主義、テレパシーなどの超能力実践など)の「見えない世界」の存在を信じ、その入会儀礼(イニシエーション……「人間を肉体・霊性・神性の三要素の合致したものという認識に立って、そのバランスの乱れをイニシエーションによって正す」)を重視する。
(10)「精神分析」運動(9)
さまざまな無意識下の障害を治療しようという超心理学(パラサイコロジー)的手法を用いる。
☆<サイエントロジー>
(11)「UFO崇拝」運動(5)
宇宙に“複数の有人世界”があり、そこからの来訪者(地球外生物)があると信じるところから始まる宗教運動。ただし、“遺伝的特権階級”を称揚する傾向、すなわち、選民思想に問題がある。
☆<ラレリアン・ムーブメント>
(12)「習合主義的」運動(9)
原始的宗教と伝統的な東洋と西洋の宗教の合体融合を目指す。全体として神秘主義の傾向が顕著。
実際の宗教セクトの「教義」は、これらの類型の幾つかを要素として組み合わせながら存在しているものである。もちろん、このレポートの主眼は、どのようなセクトが社会的に危険かを第一基準に設定するものであるから、(4)・(6)・(7)・(10)の項目の要素を多く含むものに高い危険度を見ていることになろう。
新宗教運動の一つの特徴として、教義や実践が、時代のトレンドの影響を受けて変容するという点がある。それは、結果として時代の人々の需要を直截に取り入れることに成功したセクトが、生存競争に勝ち残れるという意味でもある。つまり、セクトはどれだけ人々の願望を吸収できるかによって、勝敗が決せられるのであるとも言えよう。
レポートは、最近のセクトは固有の教義や修行の内容を時代の傾向に合わせて変容させていることの事実を指摘する。このような分析は、次の時代に肥大化するセクトの動向を把握する上でも重要な試みとなるものであろう。
(1)「ニューエイジ」の進展
八十年代の中盤にアメリカから移植された「ニューエイジ」系の思想の流れが、拡大傾向にあり、また、在来のセクトも積極的にその思想と実践に注目し、自らに取り入れようとしている。この「ニューエイジ」の進展により、かつての「代替宗教」や「福音型」が吸収していた階層の人々を移動させている。また、七十〜八十年代の主潮流であった「東洋志向型」のセクトにも同様の影響を及ぼしつつある。
(2)「祈祷師」のセクトへの侵食
「疑似治療」への人々の期待が、セクトの「祈祷師」型への変容を推進している。単なる祈りによる自然的治療の段階から、通常医療の放棄という極限へ移行している。こうした新しい「疑似治療」を与えるものとして、日本の<真光>系の教団の進出がある。
(3)精神分析を打ち出す「近代的セクト」への需要の高揚
<サイエントロジー>を代表とするこの流れは、伝統的宗教実践の代替として広がっている。職業訓練の一環である「自己啓発セミナー」や「研修会」という形式が現代人に受け入れられている。しかし、これらがテクノロジーとして持つマインドコントロール技法は、その絶大なる効果とともに破産、精神錯乱、自殺などの被害の広がりを招致している、としている。
五、セクトの危険性
セクトの全てが違法行為、または、入信したメンバーに重大な精神的悪影響を及ぼすわけではない。むしろ、それに入信することで解決が図られることもあるのであって、セクトの危険性への判断は、外見的な判断や先入観に拠るべきではないとする。ギュイアールレポートは、「最大限客観性を尊重する裁判所の判決と総合情報局の集めたデータを基礎にし、また旧信者による直接証言も、最小限に絞」るという基本的態度で臨んでいる。
セクトの違法行為のうち裁判所において有罪とされた事例をもとに六項目に分類する。
(1)人への肉体的損傷に対する罪、すなわち、虐待・殴打・傷害・監禁・危険に瀕した者の放置・不法医療行為。
(2)家庭的義務、特にセクト信者の親が子供に対する責任の放棄
(子供の未来を阻害する惧れが生じたことから、子供は守られなければならない)
(3)セクト反対者に対する名誉棄損・誣告・プライバシーの侵害
(「行動するもの全てを幻惑する、この魅入る力を持った団体の行為を告発し止めることは、信教の自由、表現の自由のために最も重要なことだと思われる。《八二・三・一八の高等裁判所の判決》」)
(4)脱税
(5)詐欺・ごまかし・背任
(6)労働権や社会保障の権利侵害
しかし、セクトの被害はこのような法的に立証される範囲を越えたところにもあると指摘する。「セクトが、個人や社会に対し及ぼす危険は、判決文が示唆するものよりもっと数多く、もっと幅広く、もっと重大である」とする。以下、この個人と社会に与える危険性を十に分類して列挙する。
[A]個人にとっての危険性
(1)精神の不安定化
自己喪失・依存性・重度の無力感・抑鬱感・など
(2)法外な経済的搾取による損失
(3)家庭や社会からの断絶/社会への不適合
(4)虐待・暴力・監禁・不法医療行為・性的暴力
(5)「児童徴用」・子供の人権への収奪行為
[B]社会に対する危険性
(1)反社会的教説
社会の倫理規範との背離
(2)公共の秩序の混乱
極右、ネオファシズムなどへの政治的偏向/民主主義に対する拒否
(3)多くの訴訟や裁判
セクトに反対する人々への反撃
(4)巧妙な資金獲得と組織的な財産隠しによる大規模脱税
(5)セクトの組織的な行政当局への侵入・浸透
六、行政機関は、危険なセクトに対しどのように対応するか
このレポートにおいてギュイアールは、「セクト防止法」のような新規の特別な法律を制定するような根本的対策は、「望ましくない」し、「時宜にかなっていない」と言う。あくまでも、現行法の運用において、最大限の有効性を持つことが可能な組み立て・体系化を促進することで対応すべきであるという立場を強調する。そのような法律運用の「調整」によって、ここ十年余りに拡大し、これからも増加するであろうセクト活動による個人と社会の被害を制圧することができると言う。それに加えて、セクト現象とは何か、それによってどのような悲劇が引き起こされるかを行政を始めとして教育と公的メディアを通じて、広く市民社会に告発することが必要であるという。そして、もう一つの柱として、セクトの脱会者が必ず負うこころの傷、マインドコントロールによって引き起こされる精神的な後遺症について、社会の側が理解を示すことも啓発されなければならないと提言する。セクトによる被害は、ある精神傾向を内在することを条件とする特定の人々にのみ起こり得るという先入観があるとしたら、全くの間違いであり、現代の進んだ洗脳テクニックは誰でもこれらセクトの犠牲者になりうることは、すでに実証されている。このような意味で、元信者の社会復帰への援助の必要性にも触れているのである。
また、すでに述べたように、セクトが拡大し続けるこの現代社会の根底には、「深い社会不安の徴候であり、道徳及び公民の危機の表象」があるのであって、「現代という時代の重要課題すべてに対する包括的回答を求めているものだ」とし、セクトの問題をそれ自身の領域に限定せず、広く現代社会の根本問題として捕捉していくことの重要性を指摘する。この分野への検証と提言は、大変長く、また、フランスの法律的問題にも抵触している箇所が多く散見される。したがって、できるだけ、要約しつつ、その主張の最も重要と思われる箇所についてのみ述べる。
(1)セクトの破壊行為に対する法的対応
宗教に関して、少なくともそれが信仰を説く限りにおいて、信教の自由は保障されていなければならない。しかし、それは、公的秩序の尊重、すなわち、広義の市民社会の平穏と安全、道徳性という範囲内のことである。さらに、「自由と権利の尊重」という原則に触れてはならないものである。「個人の自由は他人に危害を加えないこと(「人権宣言」一七八九)」という範囲を逸脱する行為は違法である。さらに、セクトの行政機関への浸透を防ぐためには、「政教分離(「共和国はいかなる宗教に対しても給与の支払い、助成をしない」一九〇五」)」という原則、すなわち、国家の宗教に対する中立性の尊重という枠組みで、対処することが重要であると言う。
すなわち、「法律は、信教の自由の行使という名目で犯されるあらゆる誤謬を罰し得る」のであって、抜本的な法制度の改革を必要とするものではなく、「総合情報局の調査によって明らかにされたセクトの様々なタイプの危険に対して、犠牲者、並びにセクトに対抗する行政当局が用いうる法的手段を検討するだけでよい。」と結論されている。
以下、セクトの被害という視点から次のような項目をあげて、前節(五、セクトの危険性)で示した(A)個人と(B)社会の危険の十項目に対応するそれぞれについて、その適用すべき法的根拠と法律構成および運用について詳しく述べる。本稿では、その項目については割愛する。
(2)セクトに対する情報収集機関の設置構想
レポートは、セクトについての情報を収集し、できるだけ正確な分析をして、それを市民社会への告発と警告を含む啓発活動の任に当たるべきであると提言する。そのために、レポートは、情報を一元的に収集する目的で、首相直轄の各省間監視所(「公的セクト集団情報収集センター」)の創設という構想を打ち出している。
セクトという現象は、社会学・心理学・医学・法律などのクロスオーバーする多面的で学際的な研究によってしか捉えられないものであり、それゆえに、それらの専門家とリンケージした行政各省庁間(内務・社会問題・司法・財務・文部・外務など)の連絡が一元化されていなければならない。このことは、すでに、ヴィヴィアンレポートでも指摘され、かつ、EC会議の司法問題及び人権問題委員会でも支持されたことでもある。
しかし、首相任命による各専門家と各省庁の代表によって構成されるこの機関は、あくまでも、情報収集と分析にあたる「監視所」に留まるべきで、首相に対して報告(年次活動報告)と提言を行う機関であるべきであると言う。
(3)啓発活動の有効性と必要性
セクトについて、「よりよく知り、そして知らしめること」が重要であり、正確な分析結果を根拠にして、セクト現象とその手口について「関係行政局、国民全般、とりわけ若年層」に向けて情報を伝えるべきであるという。その目的を果たすうえで、第一に、行政の関係諸機関においてセクトについての認識を深め、どのような対応がより効果的かを普段から熟考しておくことが必要であると言う。そして、その目的の達成のためには各省庁に継続的に担当する係員を一人置いて、他の省庁と連携する。このようにして、まず、行政諸機関の中にセクト問題への注意を喚起し、関心を高める努力をするということが提言されている。
セクト被害を防止する手段とは、「予防」であることは自明のことであろう。そのためには、広報活動(キャンペーン)をコンスタントに行うことが求められる。特に、義務教育期間の児童や生徒、青少年を対象とした広報活動は有効であると言う。もちろん、報道機関のセクト問題キャンペーンも有意義ではあるが、センセーショナルな話題についての一過性の報道があった後、人々の関心が薄れると急速に終息する傾向がある。公営テレビ放送網を通して「エイズや薬物中毒キャンペーンと同じ性格」の広報活動を行うべきであるという。特に、セクトが国家の中枢部へ浸透を図ったり、地方自治体を幻惑したり、また企業への結び付きを強めようとすることを防止することに意義がある。また、それと知らないままに人々の善意の支援を差し伸べるというようなことも防ぐ必要があるとする。
※註セクト予防のためには、マスコミを通じての広報活動が必要であるという認識によって、このジャック・ギュイアールレポートが公刊された日(一月十日)に、民放TIF局は、ゴールデンアワーの二時間、スタジオ討論とルポルタージュでセクト問題を扱った。視聴率五二・三%、約一千万人のフランス国民がこの番組を視たとされる。(広岡裕児 前掲書)
(4)行政や各国の関係機関における具体的なセクト対処への提言
これからのセクトへの対処をより拡充するためには、行政はどのような具体的な行動をするべきか、についてレポートはかなり詳しい提言を行う。
第一に、この問題を担当することが予定される公務員(憲兵・司法官・教師・社会問題担当官・医師・公証人など)の養成に際し、セクト問題について研修を受けさせることが必要である。と言う。そのようにして、セクト問題に対処し得る公務員及び民間の関係者(セクト問題に接触することが予測される職種)の人員を拡大する。
第二に、検察官は、セクトのもたらす被害について一層の理解を深め、被害者の法的な訴えに答え得る知識と注意をさせなければならない。そのためには、法務大臣は検察官に対しこれらを内容とした一般通達を行うべきである。
第三に、内務・国防大臣は、各地域の警察組織に、セクトへの警戒を指示すること。また、被害者保護や検察による財務差し押さえなどの措置について、配慮すべきである。
第四に、各省間監視所の情報にしたがって、危険性の高いセクト集団に対し、各行政当局は一層の厳正対処をするべきである。
第五に、セクトに対する公的助成を慎重に扱うべきこと。
第六に、法によって定められた条件を満たした場合、必要に応じて、迅速に組織の解散を宣告という徹底した対処をするべきこと。
第七に、脱会信者(メンバー)を経済的に救済するために、損害賠償請求への道を開くことが大切である。
第八に、年間予算が五百万フラン(日本円で約一千万円)を越えるような団体は、年間予算と総会報告書(「収支計算書」・「財産目録」)を定期的に所轄(県)へ届け出を義務づける規定を設けるべきである。財政面の透明性を高めることで、信者からの搾取、資産の隠匿、マネーロンダリングなどの違法行為に制圧を加える。
第九に、セクトは、係争事件の審理を妨害する行動を起こすケースがある。そのような場合を想定して、セクトとの裁判に向けて委託を受けている鑑定人に対しても、圧力を加えることから身辺警護を強化する必要がある。
第十に、セクト制圧のために法的措置を強化する必要がある。
◇その中で、セクトの違法性が法的に認められた場合、セクトに対して課せられる刑罰及び賠償金についての見直しを行うことが求められる。
◇セクトの出版などを通じて行われる反対者への攻撃に関して、名誉棄損の規定を見直すことで抑止する。
第十一に、セクト問題は、一国の問題に限られず国際化している。したがって、国際的な協力体制を整備することが必要である。こうした目的にかなうものとして、「セクト主義に関する調査・情報収集センター・ヨーロッパ同盟FECRIS」(一九九四創設 パリに設置 私的機関であってEUとは関係を持たない)などの活動を視野にいれながら、各国の関係諸機関での協力体制の強化を行う。また、国際協定締結なども有効。現時点では、相互に情報の調査と交換、問題のある人物の追跡調査、行方不明者の追跡などで協力する。
最後に、セクトの旧信者(メンバー)の援助、特にセクトを脱会したばかりの信者に公共サービスを受けさせる、または、彼らの抱える問題の解決を可能にする団体や行政機関へ導くことを任務とする係官を置く。また、セクトには信者を外国へ送るケースがあり、そのような国外へ出た信者を援助する必要が生じている。海外の大使館や領事館は、そのような人々を帰国させることを支援するべきである。また、行方不明者捜索や本国送還について、各国間の国際協力の強化も進める必要がある、などが提言されている。
結語
(1)日本における「宗教法人法」の改正と変容する新宗教運動
日本における戦後の「宗教法人法」は、戦前の宗教統制に対する反省に立って制定されたという歴史的経緯がある。また、いわゆる憲法によって保証された「信教の自由」に対する「政教分離」の原則にたって、公的な介入は必要最低限に限られるべきであるという立場に立っている。また、宗教的存在としての教団は基本的に誤りをおかさないものであり、かつ、自浄的能力を本来的に有すると言う意味での「性善説」が前提されているとされる。しかしながら、宗教法人を隠れみのにした<オウム真理教>による組織犯罪の実態が明らかにされるにつれて、現行の宗教法人法の規定と運用に欠陥があるのではないかと指摘する声が国民の間に高まり、ある程度の法的な規制を加えるべきであるという世論が形成された。
こうした世論を背景として、第二十二期宗教法人審議会の開催(一九九五・四・二五)にあたり、与謝野馨文部大臣は、「全国的な宗教法人の所轄の在り方」・「宗教法人設立後の所轄庁による活動状況の把握の仕方」・「宗教法人の情報開示の在り方」などについて現行法の改正を前提にした諮問を行うこととなった。そして、その審議会の答申を基礎として、国会の審議を経て可決成立することとなり、平成八年九月十五日の補正された「改正宗教法人法(平成7年法律第百三十四号)」が施行され、早速運用されている(<法の華三法行 アースエイド 福永法源代表>の行ったとされる多額の布施の返還要求をする被害弁護団は、「被害者」を「利害関係人」として「財産目録」の「閲覧請求」を求める訴訟を起こした)。
このような状況は、戦後の宗教と市民社会との関係性が大きく変革されようとしていることを示しているとも言えよう。それは、戦後の新宗教運動がターニングポイントに差しかかっていることをも意味するとも言える。いわゆる第二次宗教ブームの「新興宗教」は、主として社会的疎外感を強く内在する都市中間層や、あるいは、家庭の主婦層を信者として吸収することで発展した。「貧・病・争」の克服という現実的テーマを共有し、比較的穏やかな社会変革への理想(「世なおし」)へ結び付けること、すなわち、比較的社会的に埋没していると感じている信者に社会参加への道を勧奨することで、疎外感を緩和するという形態を表徴した。
しかし、「新新宗教」と呼ばれた第三次宗教ブームの到来が言われ始めた頃から、新たな「宗教」を求める一群が青年層の比較的学歴のある人々にシフトしていることが明確になった。このような傾向は、七十年代の「政治の季節の終焉」の頃から始まったとされる。すなわち、当時の青年の心を捉えた社会変革への指向性が挫折し、行き場を失ったものが、個人の内的改革(=「心の時代」・「自分が変われば世界が変わる」)へ向かうこととなり、この一連の流れを助長したものに「カウンターカルチャー」とその後継である「ニューサイエンス」の輸入と各メディア(出版・報道)への流入の拡大が密接にかかわっている。書店に「精神世界」のコーナーが置かれ、テレビでは特番(「超能力特番」のような番組)が組まれ、比較的知的好奇心の強い青年層に受容された。
このような状況を基盤として初期の「新新宗教」(代表として<真光系><G・L・A><真如苑><阿含宗>など)が形成される。これらの「新新宗教」の教義や修行の技法の要素には、個人の身体体験性(霊的な体験・超能力願望)を重視した傾向が顕著である。しかし、これに、反秩序・反社会規範というような負の情念が加わるのは、冷戦構造の解消(東欧諸国の自由化・ソビエト連邦の解体)、そして、プラザ合意以後無限に伸長するものと思われていた日本の経済成長の急激な停滞への移行と産業構造の空洞化(バブル崩壊)が明確化した以後のことである。世紀末をひかえて、これまでの価値体系やイデオロギーの急速な不明化が、若い人々の心に不安心理を醸成して行くこととなった。サブカルチャーの世界に「終末論」や「陰謀論」が色濃く現れ、後に、後期の「新新宗教」である<オウム真理教>に入信することとなる一群の青少年の精神構造に大きな影響を与えることとなった。このような青少年の非相対的で一元的な価値を希求する心理を巧みに取り入れることで、<オウム真理教>は教団の組織を膨張させる。
今回の改正法は、このような「新宗教」そのものの質的変化、すなわち、社会規範の否定から始まり、反社会性や破壊性に至るという可能性に対して備えようとする社会の側の防衛的姿勢が根本にあることになろう。また、「宗教」が現代の一つの有力な産業(「第四次産業」)として成立することから、金融・ゼネコン・企画会社などの参入するものであるという、別の視点も持つべきであろう。さらに、国際的なボーダーレス化によって、諸外国からの「カルト」の新規参入も恒常的に起こっていることも加味しなければならないとも言える。
今回の宗教法人法改正論議の最も重要な点は、「信教の自由」と「公共の福祉」との関係という近代市民社会の一つの根本理念の問題が改めて注目されたということである。宗教における「聖」なる部分に対しては、公権力が踏み込むものではないという原則は絶対に守られなければならない。しかし、「宗教」の形態をとる集団(=カルト)の社会への浸透による経済的、人的被害の拡大によって、既存の宗教法人自身に、より厳格な自己検証を求められることとなったと理解されなければならないだろう。社会内存在でもある宗教法人には、「俗」なる部分(施設の建設、組織運営や経営など)を同時に含むのであって、この「俗」なる部分と「聖」なる部分はどのような指標で分けることができるのかという問題は、立場の違いによって異なった認識を生じる必然をまぬがれないものである。今回の改正法が宗教法人に求めているものは、宗教法人が自己の活動状況や経理などの情報を必要に応じて開示し、実態の透明性を高めることを市民社会に対する責務として課す、というものである。こうした自主的な情報開示を進めることが、宗教法人の公益性につながるという文脈で捉える必要があると思われる。
(2)問われる「宗教」の本質
ところで、今回の改正論議の冒頭において与謝野馨文相は、「宗教の目的」を次のように言明した。「宗教は、人心を安定させ、また、日本の精神文化を向上発展させるために不可欠であり、宗教法人の存在は、国民一人ひとりの生活に深く定着し、大きな役割を果たしており、急速に高齢社会を迎える我が国においては、その意義と役割はますます重要となってきております。」(一九九五・四・二五 第21回宗教法人審議会の開催に当たっての挨拶)。ここで、行政担当者の責任ある発言として示された「宗教」の概念について検討すると、文化事象一般としての「宗教」の存在性と、日本社会の共同体の安定の維持のための倫理性に帰結されている。当然、このような概念規定は「宗教」を「本質論」ではなく、「作用論」として捉えている。そして、このような「宗教」への概念規定は、概ね、現在の我々の市民社会全体の認識と重なり合っていると言える。
しかし、このような「宗教」の捉え方は一面的な認識であるのではないか。確かに、宗教は葬祭儀礼などの具体的な社会的慣習事象を通じて、家族や地域共同体の紐帯(=絆)を強調し、世俗的倫理規範の基盤の一部を担うものという「作用」としての面がある。しかしながら、全く一方で、世俗的倫理では補足しえない捉えきることのできない個人的で実存的な思念や懊悩に対峙し、かつ、受容し、それらに解決と救済を付与するものとしての面こそが、「宗教の本質」として理解されなければならない。人間存在の深奥には、「善」なるものを求める心性とともに、不安や猜疑、嫉妬の心理に陥ったり、社会に対する嫌悪、破壊や攻撃などの衝動をも生み出す側面も合わせ持つものでもあるからである。宗教とは、そうした人間自体の根本的な「悪」に立ち向かい、負の衝動を緩衝するものとしての役割という根源性に担保されることで、共同体の規範の発言者(モラルボイス)としての真の信頼が獲得されるものではないだろうか。
我々制度宗教に属するものにとって、「宗教の本質」について改めて市民社会に理解を求め、アピールを行う努力がなされなければならない時に至っていると言えよう。
※本稿は平成八年十一月九日、身延山大学において開催された第四十九回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものに加筆したものです。
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