波木井郷の歴史について
――「玉葉」(安元二年十月条)と
施薬院及び四条頼基について――
石川修道
(現代宗教研究所研究員)
一、身延山と医療施設
総本山身延山久遠寺には、綱脇竜妙上人によるハンセン氏病医療看護施設の「深敬園」が存した。不軽菩薩の
『我深◎く汝等を敬◎ふ、敢て軽慢せず。所ゆ以えは何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし』
との誓願を法華経精神に基づき実践されてきた。また平成八年八月二十三日には、身延山久遠寺が運営する「身延山病院=財団法人」の新病棟が波木井実長公七百遠忌記念事業として完成し竣工した。身延山病院は昭和二十一年五月二十四日、総門近くにあった一乗学苑の学舎を利用して創立され、昭和四十年に現在地に移り、設備の整った病院として峡南地域の人々の健康保持に貢献している。
日蓮聖人の「夫れ病には二あり。一には軽病、二には重病。重病すら善き医に値いて急に対治すれば命猶存す。何に況んや軽病をや」(可延定業御書)の願に基づいている。
身延山のある波木井郷については、宗祖は
『甲州飯野御牧いいのみまき、波木井の郷の内、身延の嶺と申す深山
(1)』
『此身延の沢と申ス処は甲斐国飯井野御牧三箇郷の内、波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候。
(2)』
と述べている。甲斐国には、小笠原御牧、八田御牧、南部御牧、穂坂牧、真衣まきの牧などがあり、波木井郷は、その中の飯野御牧の北部にあるとされている。飯野、御牧、波木井の三箇所の地名を示したのでなく、「飯野御牧にある波木井郷」と読むべきである。「飯野御牧三箇郷」とは、「飯野御牧にある三箇郷」と読むのか、「飯野御牧は三箇郷と称されている」と読むべきか検討を要する。
「甲斐国志」は「本郷は山多くして田少なし、彊きょう域頗る昿く中世身延山を以て界となす。山北四十三村を北山荘といい、山南二十村を南部御牧という」といい、飯野は「おの」と訓ずるから、今の「大野おおの」と理解されている。
二、玉葉の作者九条兼実と、その後の時代背景
宗祖生誕四十六年前の『玉葉・安元二年十月十一日条』(一一七六年)には、「甲斐国飯野御牧は施薬院領である」と記されている。「玉葉」の執筆者は、九条兼実かねざね(一一四九―一二〇七)である。この玉葉日記は兼実が十六歳より五十五歳までの四十年間を記録している。兼実は右大臣を二十年間務め、後鳥羽天皇の摂政となり、藤原氏の長者となる。女むすめの任とう子こは入内して後鳥羽天皇の女御、さらに中宮となる。日記の内容は、律令政治の政務と文化、更に鎌倉幕府創立という新時代の人間関係を描写している。兼実は栂尾とがのお明恵上人(高弁)、法然上人に帰依し、法然の「選択本願念仏集」は兼実のために著わされたと言われる。
九条兼実の弟に「愚管抄」を著わした慈円(一一五五―一二二五)がいる。寿永三年(一一八四)護持僧として後鳥羽天皇のために祈祷し、以後、後鳥羽天皇の熱心な帰依を受ける。建久三年(一一九二)権僧正となり、翌年六十二世天台座主となる。幕府政治の動揺と後鳥羽天皇による討幕計画という政治情勢のなかで、道理に基づく歴史観を確立し、武家政治を歴史の必然とみた。兼実の嫡子となった九条良経よしつねは、建永元年(一二〇六)三月七日夜、寝所で何者かに暗殺され、その子の九条道家(一一九三―一二五二)へと継がる。
道家が藤原氏の氏寺とした法性寺に、南宋径山寺きんざんじに遊学し、無準師範から臨済禅を伝授されて帰朝した円爾弁円えんにべんねん(聖一国師)を招き開いたのが、京都東福寺である。宗祖の寄進の『日蓮柱』が伝えられている。鎌倉幕府は三代将軍源実朝の急死後、皇族将軍の下向を願い出て、道家の三男・三寅丸の母が源頼朝の姪の娘であることから、三寅丸は鎌倉将軍第四代として迎えられた。これが九条頼経よりつねである。頼経の子息・頼嗣よりつぐ(一二三九―一二五六)は鎌倉薬師堂の施薬院使、丹波良基の宅で生まれ第五代将軍となる
(3)。頼経の女兄弟の任子(仁子)が藤原一門の近衛兼経かねつね(日昭上人猶父と伝わる)と結ばれ、生まれたのが宰子である。宰子は後鳥羽院の孫・後嵯峨天皇(父は土御門帝)の第二子、宗尊むねたか親王(第六代将軍)と結ばれ、惟康これやす親王(第七代将軍)が生まれる。宗尊親王が第六代征夷大将軍として建長四年(一二五二)三月、鎌倉下向する。三人の近侍が随行する。式乾門院蔵人藤原重房、近衛左中将藤原(冷泉)隆茂(日興上人の和歌師匠)と左近大夫石川新兵衛宗忠である。三人の近侍は鎌倉に屋敷を与えられ、重房は丹波国阿鹿郡上杉の庄を賜わり、冷泉隆茂は駿河国富士下方・須津庄を賜わり、石川宗忠は駿河国富士上方・重須を賜わり駿河守となって、同稲川郷。甲州等々力郷小泉、小作手村。信州小田、辰間村。播州弘次別府の内を領した。北山本門寺開基の石川孫三郎源能忠の父である。宗忠の室は宇都宮下野守藤原泰綱の女で弘安十年(一二八七)三月歿し妙大と号し、宗忠は日蓮聖人に戒を受け道念日実と号した。これが石川家の法華経信仰の始めで、宗忠は乾元元年(一三〇〇)二月朔日七十一歳で歿した。宗忠の後室と思われる妙一尊位は、南条兵衛七郎の二女・時光の姉と言われる
(4)。
宗祖が弘安五年(一二八二)十月入滅し、宗忠の晩年、日興上人正応二年(一二八九)春、身延山を離山され宗忠の息・石川孫三郎能忠を化導し、能忠の寄進を得て永仁六年(一二九八)二月十五日に落慶したのが重須本門寺(北山)である。重須本門寺に現存する棟札に
『一、日蓮聖人御影堂
一、本化垂迹天照太神宮
一、法華本門寺根源
永仁六年二月十五日之これを造立す
(5)。』
とあり、裏面には次の如く記されている。
『国主此法を建つる時は、三堂一時に造立すべき者なり。
願主白蓮阿闍梨日興在御判。
大工本門寺大工 椎地四郎宗友。
大施主地頭 石河孫三郎源能忠。
合力 小泉法華衆等。
大施主 南条七郎二郎平時光。
同 上野講衆等
(6)。』
三、甲斐の黒駒と渡来人
わが国に馬の飼育と乗馬の風習が起ったのは、朝鮮半島との関係が密接になった四世紀半頃からと思われる。軍組織も変わり、騎兵の役割が重要視され、中央への馬の献上として地方豪族が馬飼育を行うようになった。天平三年(七三一)には甲斐国守、田辺史広足(渡来人系)が神馬を献上したと続日本紀に記されている。良馬飼育と増産に渡来人の知恵が重要視されたのだ。甲斐国の巨こ摩ま郡は、良馬の「駒」でなく、「高こ麗ま」に拠るものである
(7)。高麗は高句麗のことで滅亡して六六八年前後に同国人が大挙してわが国に亡命し、霊亀二年(七一六)には、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高麗人一七九九人が武蔵国に移った。また百済系渡来人も白村江の戦のあった天智天皇二年(六六三)に亡命して摂津に入り、三年後に甲斐国に移されたという。
四、御牧と荘園
甲斐国には朝廷の左馬寮に属する御牧(勅旨牧)が置かれ、毎年八月馬牛が献上され、天皇が紫宸殿などで料馬を定め、その後親王以下に分与するという駒牽が年中行事としてあった。甲斐には御牧が三牧あり、真ま衣き野の牧は駒ヶ岳山麓、穂坂牧は茅ヶ岳山麓、柏前かしわざき牧は八ヶ岳山麓である。毎年六〇疋を献上した(延喜式)。のちに天皇退位後の御所、つまり後院領の小笠原牧。平安期に逸へ見み牧、石間いわま牧、飯野牧。鎌倉期に八田牧、武河牧などがある。
甲斐国八代荘には皇室の崇敬を受けた熊野権現社があり、八代荘は久安年間(一一四五―五一)当時の国司藤原顕時が、毎年十一月に行われる法華八講の用途にあてるため寄進したもので、既に鳥羽院庁の下文を得て公認されているものであった。
皇室領だった逸へ見み荘は、鎌倉期の建長五年(一二五三)の「近衛家領目録」に逸見荘(須玉・長坂町)が見え、摂関家領となり、大井荘(甲西・増穂町)は遠江守源基俊の相伝領で、それが藤原(中御門)宗重に嫁した娘に伝えられている(中右記)。志摩荘(敷島町)は山城国松尾社領だったが、正応六年(一二九三)以降は九条家領となる。鎌田荘(昭和町)は保延三年(一一三七)に摂関家領となり、安元二年(一一七六)には八条院領となり、以後皇室領として南北朝期まで続く。八条院の

子は父が鳥羽天皇、母は美福門院の藤原得子であり、鳥羽上皇と美福門院の遺領を伝領した。田富町には安楽寿院領の小井河荘、東北院領布施荘、奈胡荘がある。篠原荘(竜王町)は安元二年に八条院領目録で皇室領となっている(山科家古文書)。同荘は八条院から三条姫宮、春華門院、後鳥羽院、後高倉院、安嘉門院、亀山院、後宇多院、後醍醐天皇と相伝される。加賀美荘(若草町)は「愚管抄」の著者、青蓮院門跡の慈円の領となり、代々青蓮院門跡の荘園として伝領される。市川荘は山城国法勝院領から摂関家領となる。石間いわま牧(六郷町)は左大臣藤原頼長領だったが、保元の乱(一一五六)後、没収されて後院領となる。石和町の石禾いさわ御厨は、平安末期より伊勢神宮の外宮領であった(神鳳鈔)。青島荘(豊富村)は長講堂領で、領家は鷹司家である。長講堂とは、後白河上皇が院の御所六条殿(六条西洞院)に設けた持仏堂の「法華長講弥陀三昧堂」である。上皇の死後、堂宇と所領の広大な荘園は、寵愛の丹後局(高階栄子)を生母とする宣陽門院(覲子内親王)に伝えられ、更に鷹司院(後堀河天皇の中宮)に、天皇領へと伝領され、後嵯峨法皇の意志を利用した鎌倉幕府執権北条時宗の政策で、後深草と亀山の両皇統が皇位継承を争うことになった。
五、波木井郷は施薬院領なり
日蓮聖人は、文永十一年(一二七四)五月十七日、身延山に入山される。
『この身延の沢と申す処は、甲斐国の飯い井ゐ野の御牧みまき三箇郷の内、波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候。』(松野殿女房御返事)
飯野御牧は、朝廷左馬寮に属する真ま衣き野の、穂坂、柏前かしわざきの三勅旨牧(延喜式)の次、平安期にできた御牧である。その領主は、後鳥羽天皇の摂政となった九条兼実の日記、『玉葉・安元二年十月十一日条』(一一七六年)によると、
『(前略)施薬院領、甲斐国飯野牧下司政○綱○、追年不済年貢、負累多積、加勘責之間、陳申云、彼庄住人貞○重○、為先生一作元猛悪為事對悼、因之未済多積、早召給件男、慾辨負累者、即訴申公家、申下宣旨、召件貞重、付右大将被召之、為兼光奉行下給了、仍付下司、為致沙汰、預給件政綱了、後日沙汰之時、司令召進貞重死去了、而近日憲○基○下司興心令殺害之由、有経院奏之人、一昨日被召問子細、即具以言上、其後雖未承左右、大略御気色重云々、仍不能罷行』
身延山のある波木井郷は、施薬院せやくいん領である。施薬院とは、病者に薬を施し治療する施設である。天平二年(七三〇)光明皇后(藤原光明ノ子)の意志により、皇后宮職に創設され、悲田院とともに病者や孤児を収容し、左京官人の賻物の出納や葬儀にも関係した。
右の「玉葉」の要旨は、「まず甲斐国飯野牧は施薬院の所領で、施薬院の医師丹波憲基のりもとが給主、飯野牧の下司職ゲスシキ(現地管理人)が武田政綱である。後鳥羽天皇の摂政・藤原氏長者となった九条兼実かねざね(一一四九―一二〇七)は、この憲基に灸治を依頼していたが、憲基が一向に来ないので使者をやって事情を尋ねた所、憲基の返事によれば、飯野牧の下司職・武田政綱まさつなが追年々貢を未納して、その負累が積ったので、政綱を呼んで勘責した。政綱は現地の住人・小笠原貞重が猛悪な男で、年貢を抑留して納めないためだと言うので、太政官に申請して宣旨を申し下し、小笠原貞重を呼んで取り調べることにした。太政官は兼光を奉行人として政綱にその旨を伝え、七月七日承諾の請文を提出させたが、翌八日に小笠原貞重が頓死してしまい召換は不可能になってしまった。その後この件について、丹波憲基と政綱が結託して貞重を殺したのだという訴えがあり、一昨日憲基が尋問を受けたため、行くことができなかったというのである。
(8)」
施薬院領としての飯野御牧の成立は平安期と考えられ、成立当初は乳酪などを生産する牛の牧だったと考えられる。文中の丹波憲基のりもとは典薬頭かみ・丹波重基の次子で、施薬院の医師であり(施薬院使)、当時飯野牧の給主であった。さすれば、その給人は医家でなければ務まらない。宗祖の身延入山当時の給人は医家の四条頼員よりかず、その子金吾頼基以外に考えられない。
六、四条金吾頼基の出自は丹波家か
丹波家は後漢霊帝より初まり、高貴王の時始めて来朝した。第十五代応神天皇(在位二七〇―三一〇)の頃帰化する。日本の神

時代の医術は、まず祈祷であった。病あれば占ト・占合して神の教えを仰ぎ、歌舞祈祷し、神霊を調和して治病した。また禁厭(まじない)により、桃を用いて鬼を避け(古事記神代巻上)、水、匏ふくべ、川奈、埴を用いて火神の荒ぶるを防ぎ(延喜式鎮火祭祝詞)、薬物は酒を以てその始めとし、草木、根、果実および葉であった。外科術では大オ穴オ牟ムナ遅チ神が赤裸の白莵を蒲黄をつけて治し、大穴牟遅神が火傷された時は、蛤(きさがい)を焦がし、水にて乳汁の如くして塗り治した。神代後期には瀉血の刺鍼ししん術も行われたらしい。『不レ能二歩行一(中略)、而密破レ身治レ病』とある(日本書紀・允恭天皇紀)。その後の日本医学の発展には渡来人の新医療の技術が必要とされた。
丹波国を賜わった志し拏じょう直は坂上姓となる。針博士、医博士の丹波康頼やすよりは「医心方」三十巻を撰述し、永観二年(九八四)円融天皇に奏進し丹波宿すく称ね姓を賜わり、左衛門佐従五位上、丹波介となり医道の家となる。子孫は天皇の侍医・施薬院使(長官)、従三位昇殿となる
(9)。康頼の曽孫、丹波雅忠は「医略抄」を著わし、後冷泉天皇の治療に功あり、丹波権守に任ぜられ施薬院使となる。丹波時長(生歿年不詳)は鎌倉中期の名医。父は長基、兄は頼季。針博士、典薬頭かみである。正治元年(一一九九)三月、源頼朝の次女乙姫が重病の際、幕府より治療のため鎌倉下向を再三求められるが固辞、のち院宣により下向治療に当る。宗祖生誕三年前の承久元年(一二一九)正月、将軍源実朝が公暁により暗殺され、同六月九条道家の子、三寅丸が頼経よりつねとして四代将軍として鎌倉に迎えられる時の侍医として丹羽時長は下向した。九条道家の祖父が「玉葉」の著者九条兼実である。
第五代将軍の頼嗣よりつぐ(一二三九―一二五六)は延応元年十一月二十一日、鎌倉薬師堂の施薬院使、丹波良基の宅で生まれた
(10)。丹波長世(?―一二六六)は、父の時長に従い鎌倉に下向、みずから権侍医に任じられ将軍家に仕えた。日蓮聖人活躍期の六代将軍・宗尊親王(一二四二―一二七四、後嵯峨天皇の長子。中務卿)の病気に際し治療に専念、その功により文応元年(一二六〇)従四位上に叙せられた。 四条左衛門尉頼基は、中務なかつかさ三郎左衛門尉とも呼ばれ、日蓮聖人から医術治療に全幅の信頼された名医である。
『日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすし(医師)をば用ヒまじく候なり。
(11)』
弘長元年(一二六一)四月二十八日の「椎地四郎殿御書」にその名前が見え、宗祖の伊豆法難以前からの檀越である。父の中務左衛門尉頼員よりかずは、北条氏一門の名越朝時、同子息の江馬光時に仕え、四条頼基も光時に仕えたと言われる。頼基の姓である「中務なかつかさ」は律令官制・大宝令(七〇一年)の宮中八省の中務省によるものと思える。中務省は左弁官局に属し、中宮職、図書寮、縫殿寮、画工司、内礼司、大舎人寮、内蔵寮、陰陽寮、それに天皇の医療機関の『内薬司』がある。頼員、頼基の祖は、宮中医療の内薬司に関与して『中務姓』を賜ったと推察される。または、中務卿であった宗尊親王に在京時代、頼員は仕えて「中務姓」を拝命したかも知れない。
天皇の医療機関は「内薬司」で掌つかさどり、内薬司が廃止された後は宮内省の「典薬寮」が掌るようになる。そこに仕えるのは伝統的に丹波家と和気家である。
四条金吾は江馬氏のみの家臣であろうか。もし江馬氏の家臣なら、江馬邸の屋敷内、もしくは隣接地に居を構えるべきだが、四条邸の収玄庵は長谷の表通りに面し、北条時頼の重臣宿屋光則邸の表に位置している。場所的に収玄庵は四条家の医療施設たる施薬院とも考えられる。頼基は、鎌倉将軍家の医師、北条家一門の医師とみるべきである。四条邸の裏坂・極楽寺坂を越えると、釈忍性の極楽寺がある。忍性は十七歳にして東大寺戒壇に登り、覚盛、叡尊に就いて学び、仁治元年二十四歳にして西大寺住侶となり、常施、悲田の二院を開き病客を扶けている。建長四年三十六歳にして鎌倉に赴き、さらに常陸の清涼院に居りて律学を開く。弘長元年、鎌倉刺史北条長時(義時の孫)の延請により極楽寺に住し、桑谷病屋に病者を収容して治療を施していた。
当時の医師は、医術と病気平癒の祈祷をする役を帯びていた。医療施設長としての忍性と頼基の対立もあったろう。極楽寺忍性(良観)と四条金吾の信仰の対立――真言律と法華信仰の対立が当然あったであろう。医家の丹波家は北条一族が支援する真言律の忍性を当然崇めていただろう。その真言律を破し、法華経の絶対性と法華経行者が法華経本門に説く本化菩薩であると顕示したのが、佐渡国から四条金吾を対告衆として著わされた『開目抄』である。
『但シ此経(法華経)に二十の大事あり……華厳宗ト真言宗との二宗は(一念三千義ヲ)偸ひそかに盗で自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり
(12)』
日蓮宗門では、四条金吾の系譜を藤原末茂孫の「四条隆季たかすえ系」とみていた。山川智応博士は本化聖典大辞林に四条蔦次郎家の系図を紹介している。
『中務頼員よりかず……隆季ヨリ五代、初テ中務ト称ス。乃チ頼基ノ父。承久ノ乱後、江馬朝時ニ臣事ス。建長五年三月廿八日卒ス。』
『公卿諸家系図』によると、隆季―隆@房―隆A衡―隆B親―房名C(正応元・一二八八歿)―隆D名(元亨二年・一三二二
歿)となる。頼員が五代隆名と同世代とすると、頼員の歿年・建長五年(一二五三)とは六十五年の年代差がありす
ぎる。子息の四条金吾の歿年・正安二年(一三〇〇)三月十五日、行年七十三歳とも年代が合わない。つまり四条金吾は『四条隆季たかすえ系』ではないのである。隆季系は、『笙・包丁四条流』の系統で、医家ではない。
波木井郷が施薬院領で、その給主が丹波憲基であった。だとすると、その給人は医家の四条頼員でなければ務まらない。憲基亡きあとは丹波家が給主を受け継ぎ、頼員亡きあとは四条頼基が給人を引き継ぐのは当然の理である。日蓮聖人より鎌倉の名医と称せられ、丹波家から給人として信頼された四条頼員、金吾頼基父子は、丹波家一類の縁者と考える方が妥当である。四条隆季系の子孫は『隆』の一字を名前に冠することが多く、丹波系では、『頼』又は『基』の一字を名に冠することが多い。丹波系には、「康頼○、為頼○、秀頼○、重頼○、重基○、基○康、憲基○、親基○、頼○基○(初代)、長基○、経基○、良基○、頼○幸、頼○兼、頼○清」などの名医を輩出した。丹波家は施薬院使(長官)、典薬頭かみの他に、知長は「中務大甫」、嗣長も「中務大甫」、頼直は「中務少甫」、に就任している。
丹波家の先祖、高貴王は来朝し、丹波の国で生まれて坂上姓を賜ったのが『志拏シジョウ直』である。『医心方』三十巻を撰述した丹波康頼より「志拏」が分家する。「志拏シジョウ」の音写が「四条」と変化したものとも考えられる。また施薬院などが京都四条近くにあったので「四条」を名乗ったとも考えられる。
四条頼員がいつ来鎌したのであろうか。三説考えられる。前述の如く
一)正治元年(一一九九)源頼朝の次女乙姫の重病に際し、丹波時長が治療のため来鎌した時、頼員は同行した。
二)承久元年(一二一九)六月、九条頼経(三寅丸)が四代征夷大将軍として下向する。その時、名医丹波時長が一族の長世等を連れて同行、鎌倉に住む。その時に頼員も丹波一族として来鎌した。
三)承久の乱(一二二一)後、四条頼員は個人的縁で来鎌し、北条家一門の名越朝時及びその子息・江馬光時に仕官する。
以上の三説が考えられるが、二)の承久元年説(一二一九)がもっとも妥当と思われる。鎌倉将軍と有縁の四条頼員が在鎌し、のち頼基が生まれ法華信徒となり、建長四年(一二五二)三月、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が第六代征夷大将軍として鎌倉下向する。その時隨行供奉する左近大夫石川新兵衛源宗忠及びその息・石川孫三郎能忠(重須北山本門寺開基)を宗祖の法華信仰に縁付けたのは、四条頼員、頼基の影響であり、日興上人、南条殿の法縁である。
以上の如く、丹波家における四条金吾頼基の系譜を考察すると次の如くになる。
施薬院領の給人、四条金吾は領内の任命権がある。飯野御牧(三箇郷)の波木井郷の現地代官(下司職)として任命されたのが波木井実長公と思われる。波木井公が地頭となるのは、四条家が鎌倉幕府滅亡(元弘三年・一三三三)時、北条軍として参陣し討死した後、波木井郷が施薬院領と関係なくなったのちに波木井家は地頭になるのではなかろうか。波木井家がいつ地頭となるか今後の文献研究が待たれる。
七、鎌倉末期の丹波家活躍
金沢文庫資料、金沢貞顕書状(重文)と西園寺公衡きんひらの「公衡公記」には、丹波家の一三〇〇年代の施薬院使、丹波長周ながちかの活躍を伝えている。北条一族の金沢貞顕(弘安元年―正慶二年・一二七八―一三三三)書状には、
『七日夜より違例事候しか、
自一昨日増気候て、以外候つる
を、長周朝臣加療治候、食
事もつやく□され候ハす候。身も
くるしくて候、祈祷事、殊
御意ニかけられ候ハゝ、本意候。
去年の所労と同躰候、それよりハ、
かろく候、医師もことなる事
候ハしと申候之間、安堵して候、
此事により候て、御出ハあるま』
金沢貞顕かその親族の病状を伝える書状である。昨日からの容態は悪化していたが丹波長周の治療により、今日は少し熱が引いているという。貞顕は釼阿に対して病気平癒の祈祷を依頼し、丹波長周には治療を依頼している。西園寺公衡きんひら(文永元年―正和四年・一二六四―一三一五)の『公衡公記』、正和四年(一三一五)三月十六日の条に
『施薬院使 (丹波)長周朝臣注連之、
三月八日夜ゐのときに、かまくらいゐしまよりひ(火)いてき候て、あくる日のうのときまてやけて候。わかみやいまみや(若宮今宮)・将軍家(守邦親王)・典厩(高時)御宿所……政所・問注所・公文所同前、若宮別当坊、今宮別当坊同前、此外僧坊不知其数。……建長寺飛(火)候て塔焼失候。』
丹波長周は、典薬頭てんやくのかみ丹波頼基の四代の孫、施薬院使丹波長光の子で四位に進んで施薬院使を務める。『公衡公記』は、三月八日夜におきた鎌倉大火を記した施薬院使丹波長周の注進を収録している。この書状は「宝寿抄」の紙背文書で、長周は鎌倉に長期滞在して活動していた。元徳三年(一三三一)八月六日の北条高時クーデター未遂事件では高時の側近に典薬頭丹波長朝朝臣がいる。医家丹波氏は鎌倉時代になると数多くの分家を成立させ、鎌倉に下向し活躍する人々がいたのである。
(13)
八、四条頼基の所領地
文永八年晩秋、宗祖は佐渡へ流された。佐渡の雪中の配所に日用の調度、嗜好の日々を四条頼基は使者に持たせ送り伺候せしめた。翌年二月、京都六波羅の乱が起った。最明寺時頼の長子・六波羅管領北条時輔ときすけが弟の執権北条時宗に謀反を企てた。頼基の主君江馬光時の弟教時のりとき、時幸の子の公時きみときなども時輔に加担した。この陰謀を知った時宗は、京都にいる同族の義宗よしむねに命じて時輔を討たしめ、同時に鎌倉の一味を捕えた。いわゆる宗祖の「自界叛逆の難」は適中したのである。江馬光時もそれに与同したとの嫌疑により自刃することになった。伊豆の領地にいた頼基は、愛馬で箱根を越え鎌倉に馳せつけ、江馬光時に殉死すべき八人衆の中に加った。やがて光時の容疑は晴れ、頼基自身佐渡の配所に伺候した。
四条頼基は伊豆江馬の近くに四条の領地を父頼員以来伝領し、現在近くの戸へ田た村には頼基の母(妙法尊霊)を祀った蓮華寺がある。弘安元年十月と弘安三年十月の四条書には「信濃国、殿との岡おかより米が送られた」とある。
(14)信濃国伊那郡伊賀良村の殿岡(現・飯田市)である。富士川流域の内船に居を構え、身延の宗祖に仕え、現在約五十軒の四条頼基後裔が住している。建治二年九月の四条書には、
『若しやの事候ならば、越後よりはせ上のぼらんは遥なる上不定なるべし。たとひ所領を召さるるなりとも、今年は君を離れまいらせ候べからず
(15)。』
とあり、越後に領地を持ち、三島郡和島村に四条金吾邸遺跡の大栄寺がある。
『日蓮が佐渡の国にてもかつえし(餓死)なず、又此の山中(身延山)にして法華経を読みまいらせ候は、誰かたすけん、偏に殿の御たすけなり
(16)』
と四条頼基の外護に感謝している。その四条氏は弘安元年(一二七八)十月、佐渡国の三箇郷の領地を賜わった。
『かの処は殿岡の三倍とあそばして候上、佐渡の国のもののこれに候が、よくよく其の処を知りて候が申し候は、三箇の郷の内にいかだ(井箇田)と申すは第一の処なり。田畠はすくなく候へども、徳は量はかりなしと申し候ぞ。二所は御み年ねん貢ぐ千貫、一所は三百貫と云々
(17)。』
以上の如く四条金吾頼基は、一)鎌倉施薬院と思える四条邸(収玄寺)、二)父頼員より伝領の伊豆の領地、三)甲州内船の四条邸(内船寺)、四)信濃国殿岡の領地(または代官)、五)越後和島村の領地、六)佐渡国三箇郷の領地、七)甲斐国施薬院領の波木井郷の給人(管理人)に関与している。
九、波木井実長公の喜びと苦悩
波木井南部氏は、清和源氏の武田氏族で源頼義の子・義家の弟義光(新羅三郎)の次男義清が、常陸国武田郷(現ひたちなか市)に住んで刑部三郎武田冠者と称し、所領争いに敗れて甲斐国市川庄に移り、甲斐源氏が始まった。南部の領地は甲斐国巨摩郡に属し、往古、百済くだら(コークル)の帰化人が移住してきた「コークルの地」で、「高麗」と漢訳され、それが「コマ」と読まれ、「巨摩郡」と表記されるようになった。その百済くだらの帰化人の中、美濃国各務かがみから一団が移住した所に「カガミ」(加賀美)の地名がつき、美濃の帰化人が移住した所から「ミノの部」の意で「ミノブ」と称され「身延」という地名になった。
文永十一年(一二七四)五月、日蓮聖人の入山を機に波木井実長公が身延全山を寄進し「身延山妙法華院久遠寺」と命名された。日蓮聖人と波木井公の関係を、身延山大学町田是正教授は、平成八年「みのぶ」誌十月号に次の如く述べている。
『実長公が幕府の御家人であったことを考慮しなければなりません。まず実長公と身延山の関係で問題になることは、文永十一年五月、日蓮聖人が身延入山されるに当たって、実長公が聖人を御招きしたのか、どうか、ということです。若し招来おまねきしたのであれば、前もって草庵を整備され、衣食なども準備をしていたと思われるのですが、聖人の御入山当初、全く準備がなされていなかった事が知らされています。……日蓮聖人は赦免されたと云っても刑余の身であったのです。……幕府は身延入山後の聖人の動静を監視する必要がありました。その監視役をさせられたのが波木井実長公であったのではないか。従って幕府の御家人だった実長公が、流罪刑余の日蓮聖人を公然と招来したり、表立って給仕することは許される事ではなかった。実長公は一方では聖人の檀越として、他方では御家人の立場にあったので、その板挟みの苦境に立たされたことが推察されます。』
実長公の監視人と檀越としての板挟みの苦境的立場に、蒙古来襲という現実的外交極面が相まって、現実救済という宗祖の法華信仰に傾倒してゆく訳である。前途の町田教授の指適されるが如く、「実長公が日蓮聖人を招来されたのか、どうか」、の疑問に答えるとすれば、波木井公の宗祖招来の意志の前に、身延山を含む「施薬院領」の給人「四条金吾頼基」の至誠に基づく、宗祖招来の強き意志が優先されていたと感じ取れるのである。
以上の考察により、次の事が理解されよう。
一)宗祖生誕四十六年前、波木井郷の属する飯野御牧いいのみまきは施薬院領であった。その因縁により「身延山病院」があり、「深敬園」があった。
二)飯野御牧の領主は施薬院であり、その長官たる施薬院使であろう。その給主は医家の施薬院使丹波憲基のりもとである。九条兼実の『玉葉』は給人について不詳であるが、丹波一族の者であったろう。のちに四条頼員、頼基が任官したと考えられる。
三)飯野御牧の下ゲ司ス職シキは、甲斐源氏の武田政綱であった。
四)鎌倉幕府は北条氏が執権として実権を掌握し、施薬院使に丹波家が任官し、丹波一族は、朝廷、鎌倉将軍、幕府、施薬院などに務めていた。鎌倉幕府滅亡の元弘三年(一三三三)五月までは、少なくとも波木井郷は施薬院領だったと考えられる。
五)医家丹波家は、四条頼基の出自と関係あると考察できる。
六)四条頼基は、施薬院領の給人であると同時に、信州飯田の「殿岡」、「越後」、「甲州内船」、佐渡に新領地「いかだ」(井箇田)、鎌倉収玄庵、更に父頼員以来の伊豆の領地を伝領される程の医家武士であった。
七)四条頼基の所領問題で、同僚が頼基を嫉視策動して領地替えの事件が起こる。そこに言う「御内みうちの人々」とは、江馬光時の家臣同僚のみならず、頼基と信仰を異にする極楽寺良観忍性の信奉者、丹波一族も「御内の人々」に含まれると考えられる。
八)波木井実長公は鎌倉幕府御家人と施薬院領の下司職を兼ねていたと考えられる。
九)波木井家が何時から地頭職に就任するのか、南部家文書の歴史的検証と、それ以外の文献資料の研究が待たれる。
十)宗祖の身延入山の招来に波木井実長及び四条頼基の強き要請があった。身延山を宗祖に寄進したことについて、波木井実長公のみならず四条頼基公の功績大なることを再評価すべきであると思える。
註
(1)下山御消息 一三一二頁
(2)松野殿女房御返事 一六五一頁
(3)鎌倉室町人名事典 一六三頁
(4)富士石川氏史
(5)日蓮宗々学全書第二巻 一一一頁
(6)本門寺大工の部分、三位日順師の雑集にあり。
(7)甲斐史学七、「甲斐の帰化人」
(8)遠野博物館講義集一)より引用。
(9)日本医学史綱要一) 三五頁
(10)鎌倉室町人名事典 一六三頁
(11)四条金吾殿御返事 一六六八頁
(12)開目抄 五三九頁
(13)金沢文庫特別展「役人たちの中世」参照。
(14)四条金吾殿御返事 一六〇〇頁、一七九九頁
(15)四条金吾殿御返事 一二五九頁
(16)四条金吾釈迦仏供養事 一一八七頁
(17)四条金吾殿御返事 一五九三頁
※本稿は、平成八年十一月九日、身延山大学において開催された第四十九回日蓮宗教学研究発表大会にて発表した原稿に加筆したものである。


