日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第31号:135頁〜 |
研究ノート |
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研究ノート
「宗教法」の歴史的変遷と社会変動
中濃教篤
(現代宗教研究所顧問)
「宗教法」の戦前史
一、「第一次」宗教法案の国会提出
平成七年十一月に国会で可決された「宗教法人法改正案」が、平成八年九月十五日から施行となった。ところで、この「改正案」をめぐり、平成七年度は、さまざまな賛否両論が論壇を賑わしたが、宗教法の歴史とその社会的背景について、学問的にくわしく論じたものが極めて乏しかったことは誠に残念であった。そこで本論では、同年沖縄国際大学で開かれた日本宗教学会の第五十四回学術大会で発表した筆者の「社会変動と宗教法」(『宗教研究』三〇七号)を下敷としながら、研究所の機関誌にふさわしく宗教法の歴史が、いかにその時代の社会動向と密接に関連しているかをよりくわしく論じておきたいと思う。
先づその戦前史として紹介しておきたいのは、
「社・寺・教会・講社等に対する行政上の取扱いについては、教部省・社寺局の時代にしだいに整備され、神社に対する基本的保護策は別として、その他はおおむね共通の法規でまかなわれた。たとえば、社寺取扱概則の制定(明治十一年)、社寺の明細帳(同十二年)財産の保護・取締りに関することがこれである。しかしこれらの法規は、性質・内容上、はなはだ煩雑であった。ここにおいて、宗教法案(神社は除外)が草せられ、条約の改正が成った明治三十二年帝国議会に提出されたが、否決となった」という文化庁刊『明治以降宗教制度百年史』の記述である。これをよりくわしく論ずれば、明治三十二年、山県内閣時代の第十四議会(貴族院)に宗教法案が提出されたが、これに対しては仏教界の反対が強く、議会の審議は約二ヵ月におよび、ついに百対百二十一で否決となったというのがそれである。
ところで、当時の仏教界が、この法案に反対した主たる理由は「これは神仏とキリスト教とを対等に扱うもの」という反キリスト教思想にあったことは残念ながら否定できない。これが、日本で宗教法案なるものが芽を出した最初である。
こうして山県内閣による「宗教法案」が議会で否決されてから、その後の政府は、しばらくの間、宗教に関する法案を手がけることを見送った。この間、時は流れ、日露戦争、第一次世界大戦(大正三年)を経て、日本の資本主義は大きく前進し、中国に「二十一ヵ条」の要求をつきつけるなど彼の国に対する侵略の足がかりを獲得する(大正四年)。同時に国内ではさまざまな矛盾が満ち、経済恐慌の波のなかで日本国民は生活苦にあえがざるをえなかった。大正九年には八幡製鉄所にストライキが起こり、労働者は生活権擁護のために団結を強めた。また小作争議もいたるところでひん発した。
海外に目を転ずれば、ロシアに社会主義革命が起こり(大正六年)朝鮮で民族独立運動(「三・一運動」)が勃発している(大正八年)。まさに文字通り内外激動の時期がつづく。とくに朝鮮独立運動では、「キリスト教宣教師や教徒が深い関係をもっている」と、朝鮮総督府赤池警務局長の談話が発表されたように、当時の日本政府は国内外のキリスト教徒の動向に敏感な反応をしめしていた。
それとともに、国内では新宗教の大本が大正五年頃から教勢を拡大し、信者の終末主義的活動が社会問題ともなっていた。このことを理由に、当局は出口王仁三郎を検挙し、大本本部を不敬罪、新聞紙法違反の容疑で家宅捜査し、活動停止を命ずるなどの処置に出た。これが大正十年の第一次大本事件である。この頃から大正末期にかけて、「ひとのみち(PL)」教団その他、多くの新宗教団体が生まれてくる。このように新宗教がつぎつぎと誕生する背景は、いうまでもなくさきに述べた社会不安にある。それに輪をかけたのが関東大震災(大正十二年)である。
二、「第二次」宗教法案の流産
こうした国内、国外情勢のなかで大正は昭和に変わり、満州侵略の前夜を迎えることとなる。この間大正十五年に、神社を別扱いとしながら宗教を権力支配下におく方法を研究することを意図した宗教制度調査会が誕生している。この会は文部官僚と宗教側代表とによって構成され、文部大臣の任命によるもので、完全な御用団体であった。この会を諮問機関として、昭和二年一月、若槻内閣は第五十二回帝国議会(貴族院)に新「宗教法案」を岡田(良平)文部大臣案として提出した。これを俗に「第二次」宗教法案という。この法案は附則とも六章一三〇条からなる厳しいもので、設けられた罰則には過料のほかに懲役、禁錮、罰金まで設けられていた。たとえば、「宗教の教義の宣布・儀式行事の執行が安寧秩序を妨げ、風俗を破り、臣民たる義務にそむくおそれがあると認めた場合には、監督官庁はこれを制限し、または禁止することができ、この処分に従わないときは、文部大臣は宗教団体の設立許可または宗教指定の取り消しをすることができる(三条)」(『明治以降宗教制度百年史』)とされていた。これについて、やはり前掲書では、つぎのようにコメントされている。「この法案は、条数の多いこと、内容の豊かな点で、明治以降この種法案中最大のものであるが、それだけに、規制が細密多岐であったため、宗教統制法であるとの批判が宗教界で行われた。ア)文部大臣が宗教そのものを指定すること イ)宗教教師の資格を法定したこと ウ)宗教結社の設置を地方長官の許可事項としたこと エ)管長・教団管理者の就職を文部大臣の許可事項としたこと オ)神仏道以外の宗教にかぎり単立教会を認めたこと(寺院は必ず一定の宗派に属しとある――筆者) カ)寺院・教会の離脱を文部大臣の許可事項としたこと キ)『必要ナル処分ヲ為スコトヲ得』などと所轄庁の監督が厳しく罰則が重いこと、などはその例であろう」という批判的論述がそれである。
こうした理由もあり、前述のように第一次宗教法案の際は仏教側の反対が強かったが、この第二次法案では、キリスト教側からの批判が強く、この案も貴族院で審議未了となった。この頃を境として「神社は宗教にあらず」論が、いちだんと強められ現実味を帯びてきたといえる。
ここでとくに注目しておくべき点は、この法案の罰則規定で、「教義の宣布・儀式行事の執行が安寧秩序を妨げ……臣民たるの義務にそむくおそれがある……」というのは、帝国憲法の安寧秩序を妨げざる限りに許可された「信教自由」規定に沿ったものだということである。
三、「宗教法」から「宗教団体法」へ
これまで述べてきたような社会情況に危機感を強めつつあった政府は、悪名高い治安維持法を施行(大正十四年)するなど、国民への弾圧体制を確立する。それとともに、宗教団体への統制強化策として、さきに二度も国会に提案して廃案となった宗教法の失敗に学びつつ、昭和四年、田中(義一)内閣の勝田(主計)文部大臣は、宗教制度調査会に諮問したうえ、「宗教法案」を「宗教団体法案」と改めて、第五六回帝国議会(貴族院)に提出した。この法案が、これまでの宗教法案と違うところは、法を適用すべき対象が「宗教」そのものでなく、「宗教団体」になったということである。この点は明らかに宗教法案提出の失政に学んだ戦略戦術のなせるところといえよう。したがって、主務大臣の監督権について「但シ宗教ノ教義及儀式ニ関スル事項ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ」として、信仰の自由について多少の配慮はあるものの、国会への提案理由を読めば、その本質的意図は明らかとなる。すなわち、「大体ニ於キマシテ、(本案では――筆者)取締ニ関係イタス事柄ハ成ルベク之ヲ制限イタシマシテ、小サクイタシ、最小限度デ以テ取締ハイタス。寧ロ此宗教団体ノ自治的発達、国家ノ保護、斯様ナルコトニ重キヲ置キマシテ、教化団体トシテ国民精神ノ作興ノ上ニ貢献セシムベキ趣旨ニ相成ッテ居ルノデアリマス」というのがそれである。ここに「国民精神ノ作興」とあるのは、関東大震災直後に出された「国民精神作興ニ関スル詔書」に忠実な宗教団体たるべきを求めたものである。この詔書が出されたことにより、いわゆる大正デモクラシーは完全に終息させられた歴史を忘れてはなるまい。
この「宗教団体法案」の提案趣旨でもふれられているように「宗教の保護・監督」という「大義名分」は、いらい宗教法(団体法)の提案理由では一貫して使われていることに注目しておきたい。これまでの歴史的経過を見る限り、この「保護・監督」とは、保護よりも監督に重点がおかれていたことは否定の余地がない。
にもかかわらず、第一次宗教団体法案については、当時のような絶対主義的天皇制の国内事情下にあったとはいえ、仏教界がその本質を見抜けず仏教連合会の名で「宗教団体法案賛成」を決議したという歴史的事実は記憶されておいてよかろう。にもかかわらず、反対論も強く、国会ではついに廃案となった。
四、「宗教団体法」の成立
時は移り昭和十一年に二・二六事件が起こった。これは日本ファシズム史上最大のものといわれるが、この事件を境として軍部の政治的制覇が確立する。翌年には「国民精神総動員運動」がはじめられ、同年上半期に激増した労働争議も、権力による圧迫で下半期に入って急速に減少して行くが、国民の不安感はますます深まっていた。こうした情況のもとで、立正交成会が創立されるなど、新宗教の発生と信者の増加が続く反面で、世界救世教(メシヤ)の岡田茂吉が療術行為を禁止され、ひとのみち教団への解散命令が下されるなど宗教界も新宗教団体を中心にさまざまな現実に遭遇していた。とくに大本教団は昭和十年、不敬罪、国体変革など治安維持法違反容疑により徹底的な弾圧を受けている。これが大正時代につづく第二次大本事件である。こうした社会事情は、国家権力にとって法的に宗教統制を強化する絶好の機会となる。そこで平沼内閣は昭和十四年二月、貴族院特別委員会に宗教団体法案を提出した。その提案理由を平沼総理は次のように述べている。「いずれの宗教に致しましても我国体観念に融合しなければならぬということは、是は申すまでもないことでございます。我が皇道精神に反することはできないのみならず、宗教によって我が国体観念、我が皇道精神を涵養すると云うことが日本に行はる宗教として最も大事なことで……これがためには一面においては宗教の向上発展を図るということが必要であります。就てはこれに国家と致しまして保護を加へることは是非やらねばならぬことである。是と同時に宗教の横道に走るといふことは是は防止しなければならぬが、これがためには、これに対して監督を加えることが必要であろうと思います」(「宗教団体法案貴族院特別委員会議事速記録」)と。この発言には、「保護・監督」の実態がいかんなく語られている。したがって、法案の内容も、宗教団体やその教師が行う宗教行為が、安寧秩序を妨げ、日本臣民たることの義務にそむく場合は、その宗教行為を制限し、または禁止することが出来るし(「同法第一六条」)、この権限は、寺院、教会、教師に対しては文部大臣から地方長官に委ねられていた(「同法一九条規則五七条」)。と同時に文部大臣、地方長官は教派、宗派の管長、教団統理者、教会主管者、寺院住職等を解任することもできた(「同法一七条一項および一九条」)のである。とはいえ、さすが当時でも、これら諸条項を乱用することは不可能だった。だが二年後に国会で成立した治安維持法の「改正」法との相乗効果により、宗教弾圧の嵐が吹き荒れたことは周知のとおりである。これは本宗における遺文削除、曼荼羅不敬問題とも密接につながっている。また、宗教統制をネライとして、神道十三派はそのままとしながら、仏教の五十六派は二十八派に、キリスト教の二十余派は二教団にと強制的に統合させられ、敗戦後まで感情的なしこりを残す結果を招いた。
新憲法の成立と宗教法
一、宗教団体法の廃止と宗教法人令
このように国内で厳しい宗教統制を敷いていた日本支配層も、太平洋戦争に敗れ、軍国主義は崩壊した。と同時に「宗教をして国家への奉仕者たらしめたところの枝巧をこらした戦時中の組織は、降服と共に一掃された。したがって一連の占領工作は、宗教と国家との旧来の関係を撤廃する」(GHQ『日本の宗教』)ことになった。昭和二十一年十月、ポツダム宣言の「宗教及び思想の自由」にもとづいて、連合軍総司令部は「国家神道に対する政府保障、支援、保全、監督及び弘布の廃止に関する覚書」すなわち「神道指令」を出し、神道の国教的性格が、軍国主義、極端な国家主義の精神的深源であり、政教の分離こそ民主主義確立の必須の前提であるとして、国家神道のもっていたあらゆる国教的特権を剥奪するとともに、宗教団体法の廃止を命じた。その結果、同年十二月、新たに宗教法人令が公布されることになった。
宗教団体法と宗教法人令の主要な相違点は、前法にあった@行政官庁による宗教団体の設立認可権、ならびに管長、教団統理者などの文部大臣による認可権の消滅と行政官庁の監督権が消滅したこと A法人設立については届出のみで可能となったこと B宗教法人以外の宗教団体でも宗教行為が許されるようになったこと などを挙げることができる。まさに「信教自由」「政教分離」の原則をふまえた法規になったといえる。だが国民は敗戦後の生活苦にあえぎつづけていた。そうした社会的不安と、戦時中布教の自由を抑圧されていたことの反動とが相まって、「神々のラッシュ・アワー」と呼ばれるように新宗教が雨後のタケノコのように発生してきた。その背景では前述のように宗教法人令で宗教法人設立が「届出」制になったという現実が大きく影響したことも事実である。
二、「宗教法人令」から「宗教法人法」へ
こうした「神々のラッシュ・アワー」のもとで、新宗教を中心とする宗教団体の不祥事件がひん発する。たとえば昭和二十四年には、霊友会の脱税、麻薬、金塊事件(不起訴)が起こり、翌年には皇道治教、神道大和教、成田山大社教などの検挙があいつぎ、宗教法人の名による脱税問題が世間を大きく騒がした。この社会情勢は、「淫祠邪教いんしじゃきょうの取締り」を口実に、国家権力が宗教法人令を「改定」する絶好の機会となった。そこで時の政府は「法人令が十八条の小規定では、戦後の日本の宗教界の実状にそぐわない」とし、「届出制の濫用、行過ぎ(非宗教団体又は個人が宗教法人として届出をし、その蔭で脱税行為や風紀を乱す行為が平然と行われたことや、新宗教の乱出などがそれを意味する――筆者)」などを理由に、法人令制定後満五年後の昭和二十六年二月に宗教法人法案を国会に提出、これを成立させるにいたった。この法人令と「法人法」との大きな違いは、「届出制」が「認可制」(「許可制」にすると「団体法」の再現になるという反対意見を考慮して――筆者)となったことと、「罰則規定」が強化されたこと(「解散命令」など――筆者)、また新らたに「宗教法人審議会」が設立されたことなどをあげることができる。
さて当時の世界情勢はといえば、東西の対立が激化し、朝鮮戦争の勃発などがあり、国内では警察予備隊(自衛隊の前身)の設置にからんだ「真空論」「戸締り論」(戸締りをしないと盗賊に襲われるということ――筆者)が横行していた。また敗戦後に自由を取りもどした労働運動は、松川事件、三鷹事件、下山事件など奇怪な事件の続発で圧力が続き、社会不安は増大の一途をたどっていた。したがって、これまでの歴史でも明らかなように宗教法の「改定」が叫ばれる時には、必ずその時代の政情(社会)不安を基礎に宗教団体(とくに新宗教団体)の一部が腐敗堕落し、今日よくいわれる「カルト的宗教」行為がひん発し、それに対する社会からの厳しい批判が起きているという歴史的教訓は真剣に受けとめなければなるまい。
ところで、宗教法人法が制定されて七年の歳月を経た昭和三十一年十一月、当時の清瀬文部大臣は宗教法人審議会に対し、宗教法人の行過ぎを法律で是正抑制する方法を諮問し、宗教法人法の「改定」を企てている。
その社会的背景には、昭和二十九年、アメリカによるビキニ環礁での水爆実験で久保山氏などを乗組員としたマグロ漁船が死の灰を浴びるという事件が起き、宗教者を含め各階層による原水爆禁止を求める運動が大きく盛りあがったことや引きつづく砂川の米軍基地反対闘争に日本山妙法寺が積極的役割を果たしていたことなどがあげられよう。なぜならば反米反政府運動にもなりかねないこうした宗教界の動向は、政治権力にとって好ましいことではなかったからである。そうした動きに加え、またもや新宗教団体によるさまざまな反社会的行為がつぎつぎと発生した。たとえば、霊友会岩手県下の信者“フミ殺し”事件、ほんみち信者病死事件、大日教団の永原仲による三千万円着服事件などがそれである。たまたまこの頃、東京地方裁判所に「立正交成会は著しく宗教法人法第二条掲記の目的に反し、同法第八十一条第一項第二号に該当するから、速かに解散を命令されたい」旨の訴えがされ、いわゆる「交成会事件」が起こされた。この問題は衆参両法務委員会でもとりあげられたため、それこれを含めて宗教法人法「改正」に格好の材料とされ、前述のように、文部大臣の宗教法人審議会への諮問となったわけである。
三、「宗教法人法」改定の再燃
こうして昭和三十一年に文部大臣の諮問を受けた宗教法人審議会は「現行の宗教法人法は昭和二十六年に制定され、じらいこれによって宗教法人となったものは、約一八万の多きにのぼっている。しかし、その中にはその運営において検討されるべきものが少なくなく、また、法人法の運用に当っても適正を欠くものがある」として、つぎのような十一項目におよぶ問題点を指摘した。その点はのちにくわしく紹介するとして、この審議会で極めて重要なやりとりのあったことは記録しておかなければならない。それは、審議のなかで神社側委員から伊勢神宮に関し、宗教法人法改正の一項目として審議することが提案されたことである。ところが、これに出席していた仏教側審議員をはじめ、そのほとんどが意見を述べず、ただ一人キリスト教側委員であった渡辺善太牧師だけが、「これは神宮参拝を宗教活動、信仰問題の枠外におくもので、ひいては一般国民の神宮参拝を非宗教という理由で正当化し、信仰問題でなく信仰の自由にも抵触せぬという口実の下に強行されるおそれがある」と正当な反論を行い、ついにその提議は宗教法人法改正の項目として審議するには妥当でないと決定したという一幕である。これは神社側の指導層は、敗戦前の「神社非宗教論」への郷愁が強く、神宮・神社が宗教法人として扱われることに抵抗感があることをしめしている。そうした意向をもふまえたかのように、この審議会答申の第一項では
@この法律における宗教活動の定義を明確にすること(この法律では、宗教団体を「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行ない、及び信者を教化育成することを主たる目的とする」と定義しているが、これでは神社等の宗教活動がじゅうぶんに示されていないのでより適切な表現に改める必要がある)
とされている。神社庁には今日なおこうした願いが根強く存在するようだ。
またこの答申は
A宗教法人となることができる宗教団体の基準を設けること
B合併に関する規定を簡素化すること
C公告制度を改善すること
D役員制度を改善すること(代表役員の配偶者若しくは近親者だけで責任役員を構成することがないようにするなどこの点は、今日では大分改善されている――筆者)
E財産処分等の手続きを改善すること
F公益事業その他の事業を明確にすること(公益事業その他の事業が宗教法人としてふさわしくない形態で行なわれないようにするため、ある程度の制限を加えること)
G宗教法人審議会の機構を改めること
H宗教法人に対する調査及び報告の取扱いを明確にすること(宗教法人の業務の適正化を図るため、所轄庁は宗教法人の業務及び事業に関し報告を求め、またはその報告について実状を調査することができるよう明記すること。ただし、その実施に当たっては、宗教団体の宗教上の事項にわたらないことは当然である)
I包括宗教法人の所轄を改めること(包括宗教法人のうち都道府県知事を所轄庁とすることになっているものは、文部大臣所轄の法人に改めること)
J被包括関係の廃止に関する取扱いを適正にすること(この項は、戦後分派独立の動きが激しかったことに関連している――筆者)
以上、清瀬文相の諮問に対する当時の宗教法人審議会の答申(これは条文化されることなく国会上程にいたらず)をくわしく紹介したのは、平成七年十一月に国会で採択され平成八年九月から施行となった「改正」宗教法人法の諸項目の柱は、すでにこの答申に含まれていると思えたからである。要するに、このたび成立した「改正」宗教法人法は、政治権力にとってみれば、四十年来抱き続けた念願のある部分が果たされたことにもなる。しかし彼らにとってはまだ不充分なものといえようが、そのことを勢いづけた第一の理由は、いうまでもなく反社会集団オウム真理教の動きであり、第二は政教一致ともいうべき創価学会のなりふりかまわぬ政治運動についての国民的疑惑の高まりである。それと同時に基督教統一神霊協会などに代表される霊感、霊視商法に対する国民の厳しい批判と怒りであったといえよう。だがその底流をなす社会的背景に、バブル崩壊による国民不安の増大があることを見逃してはなるまい。
四、清瀬文相への答申と今回の改正点
それでは、ここで、さきの「答申案」と、平成八年九月に施行となった「宗教法人法」の「改正」点を比較検討してみよう。そこですぐに気づくのは、同類のものが、「答申案」のGHIとあり、情報公開という意味でCに類似した傾向をもつ項目があるということである。ただGについていえば、現行法では、「宗教法人審議会の委員数を十人以上二十人以内とする」というだけで、内容問題には、ふれられていない。現行法は、その多くが具体性に欠け、甚だ疑問が多いという特徴をもっているが、これもその例である。ここで注意すべきことは、宗教法人審議会委員の増員について、学識経験者とかの名目で、政府、与党に従順な人選をさせてはならないということである。またHについていえば、現行法では、「質問権」という極めて曖昧な表現になっている。けれども政府、与党側としては、法案作成段階で「調査」権という表現を用いたかったようだ。だが宗教界の強い反対論に押され、このような表現にせざるをえなかったというのが本音といえる。このことを、これまでの歴史に学べば、「質問権」が「調査権」へと容易に転化させられる可能性は充分にある。ところで、もう一つ問題なのはCに類似した現行法である。Cでは、公告に際し、「信者の意見が十分に反映しないから」となっていたが、現行法では、歯止めはあるものの「宗教法人は、信者その他の利害関係人であって、事務所備え付け書類を閲覧することについて、正当な利益があり、かつ当該閲覧請求が不当な目的によるものでないと認められる者から請求があったときは、閲覧させなければならない」とされていて、いわゆる「閲覧権」が「信者その他の利害関係人」に附与されることになっている。これは被包括法人としての一般寺院や神社などでは、無用な混乱を招くもととなりかねない。Iについては、現行法にそのまま生かされているが、そこでは、「他の都道府県内に境内建物を備える宗教法人」という多少とも具体的表現が使われている。
このような内容の現行法は成立したが、こうした法「改正」が浮上してきた背景は、さきにもふれたがオウム真理教のような反社会的宗教集団に対する厳しい国民的批判と大教団とくに新宗教教団のなかに、信者から集めた莫大な布施収入その他が不透明であるものが存在することや、それが政治家や政界などにまわされているのではないかとの疑惑がもたれてきたという現実がある。こうしたことについて疑惑の対象となった教団は厳しく反省してもらわなければなるまい。
たとえば、平成七年十月はじめ、田沢法相(当時)が、一九九一年に立正佼成会から二億円の融資を受けながら、九三年の国会議員資産公開で資産等報告書に記載していなかったという問題で国会において追求されようとした。ところが、その追求をするとされていた新進党の石井議員が、参議院本会議での代表質問の際、田沢法相を追求する部分を読み飛ばしたという事件が起きた。その背後に、新進党と平成会の大久保会長(公明)が、田沢法相は立正佼成会を支持母体としている関係もあり、「(宗教法人法改正反対で――筆者)味方だと思っている」旨発言したためだと報道され、政教癒着の疑惑がいちだんと深まり、田沢氏は法相を辞任した。このように政治がらみの宗教団体の在り方こそ、徹底的に追及解明されなければならない。こうした点が、いつも不明なまま残されるというのが今日までの実態である。したがって政府、与党はもちろん、政治家たちの姿勢を改めさせない限り、「信者の閲覧権」を認めても、金と票にまつわる裏面での政治取引が改まるとは到底考えられない。ましてや、政教一致ともいうべき宗教団体についてはなおのこと問題は大きい。
したがって、日本の宗教界にとって今後より一層重要なことは、宗教法人法をうんぬんすることよりも、宗教団体と政治との不純な癒着を徹底的に絶ち切らせることである。そのためにも、真の「国家諫曉」に徹することが重要である。それと同時に、このところ跡をたたない霊感、霊視商法を断絶させることの必要性はいうまでもない。
そうでないと、またもや宗教法を改悪させる口実を与え、権力による宗教統制、信教自由の侵害を強めさせる結果を招きかねない。このことは、これまでの宗教法の歴史がいかんなく物語っている。宗教界の自浄努力を願うや切。
参考文献
文化庁編『明治以降宗教制度百年史』
中濃教篤・鈴木徹衆著『宗教法による統制と弾圧』
日蓮宗現代宗教研究所刊「現代宗教研究」(第十三号)中濃教篤稿「宗教法の変遷と今後の問題」
中濃教篤著『近代日本の宗教と政治』
中濃教篤編『戦時下の仏教』
中濃教篤編『庭野日敬』
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