日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第31号:46頁〜 |
教化学研究 |
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教化とカウンセリング
〜法華七喩の心理学〜
渡部公容
(身延山大学助教授)
はじめに
今日はカウンセリングそのものの話ではありません。法華経というものを私の経験した心理臨床、カウンセリングという立場から見るとどうなるだろうかという話です。法華経といいましても大変膨大ですが、身近なところで特に「法華七喩」をとりあげまして、それを心理学の立場から見ると結構おもしろいことが見えてきます。端的にいいますと、仏教、法華経の中に一つの心理療法、そういうものが見えてくるのです。しかし、私自身、仏教については大変不勉強でございます。今から話を進めてまいります法華七喩につきましても、多様な解釈もありますので、多々ご批判があろうかと思いますけれども、その辺はどうぞご容赦いただきたいと思います。
法華七喩はご存じのとおり、「比喩品第三」、そして次に「信解品第四」という順序で始まってきます。そうしますと「寿量品第十六」の「良医治子のたとえ」は一番最後にこなくてはいけないのですが、この「寿量品」は、話の展開を見ると、やはり基本にすえるべきものではないか。一番最後でもよいのですが、あえて一番最初に基本として「寿量品」をもってきました。「寿量品」の中の「良医治子のたとえ」から入っていきたいと思います。
一、良医治子のたとえ
すでに皆さんご存じのことなのですけれども、あえて簡単にこのたとえについてお話をいたします。これは、子供たちが父親の留守中に誤って毒を飲んでしまう。医者である父親は、薬を作って飲ませようとするわけですが、どうしても飲まない子供がいるわけです。そこで困った父親は、「父は旅先で死んだ」という方便を用いて、子供たちに薬を飲む心を起こさせる。そして子供たちを救った。非常に端的にいいますと、こういうストーリーだろうと思います。
ここでは、仏さまは名医である父親にたとえられております。法華経は良い薬にたとえられています。そして正しい教えを信じようとしない、いつも悩み苦しんでいる人々のことを、毒を飲んで苦しみながらも、薬を素直に飲まない子供たちにたとえている。それぞれをたとえで表現するわけです。また仏さま、つまり医者であるお父さんのお使いとして登場する人物こそ、仏使上行菩薩としての日蓮聖人その人であるということだろうと思われます。
私はこの話を読みまして、大変重要だと思っておりますのは、苦しんでいる子供たち、これはいろいろなことで悩み苦しむわれわれのことですが、そういった子供たちにどうやってこの特効薬、良薬を飲ませることができたのかということです。この場合、飲ませるということは、信仰をもたせるということとおきかえても同じことだろうと思います。ここでは「方便の死」という方法がとられているわけです。つまり、仏さまは、無理やり薬を飲ませようとはしていない。あくまでも子供たちが、どうしたら自分自身で薬を手に取ってくれるだろうかというところに心を砕かれているのです。つまり特効薬を前にして、子供の主体性あるいは自発性を何よりも尊重されている。その結果として薬が投与でき、治っていったのだという形だろうと思います。
ですからここで大事なことは、その子の主体性の尊重ということがまずあげられるのではなかろうか。また同時にこれが基本ではなかろうかと思うのです。例えばロバがいて、ロバに水を飲ませようとするときに、私たちはそのロバを水場まで連れていってやることはできます。しかしその水場の水を飲むか飲まないかは、ロバ自身が決めることであるということが、カウンセリングの中でも聞かれることがあるのです。この話のルーツは仏教だろうと思いますが、これはまさに自発性・主体性の尊重ということだろうと思うのです。
あるいは身近なところで考えてみますと、偏食ということがあります。特に子供はよく偏食をしますが、そういう場合に、無理やり食べさせようとすると、一旦飲みこんだものでさえ吐いてしまう。まさに心身、心と体がそれを拒否してしまっている。いやがるものを無理やり入れていくのは、暴行といいますか、暴力と同じことなのです。ですから本人の意志、あるいは自発性を無視した強引な方法では偏食は解決していきません。
こういった考え方は教育についてもいえることではないか。勉強なんか大嫌いだという子供に、友達の皆が塾に行っているのだからというので行かせようとしても、はたしてどれだけの効果があるだろうか。やはり本人にやる気がでてこなければいかんともしがたい部分がある。あえてこの点を広げていいますと、教化についても同じようなことが指摘できるのではないか。とにかくお題目の信仰を弘めることが大きな目標となりますが、ではどうやってそれを弘めようとしているのか。どうやって人々の口に飲ませようとしているのか。その点が当然問われてくるわけです。
つまり子供の主体性とか自発性を尊重した結果、薬が投与され治っていったのですから、単にここの話で、法華経という薬さえ飲ませればよいのだという表面的な話で終わってはいけないと思うのです。なぜ仏さまは薬を飲ませることができたのか、なぜ投与できたのか、これをしっかりとらえる必要があるだろう。いわば仏さまの教化法がここにあるのです。
またもう一つの視点もでてきます。これは薬が治したということで話が進む。それは一面において事実ではありますが、この点をもう少し考えてみましょう。例えば風邪薬というのがたくさんあります。たくさんある風邪薬の主成分は、どれもこれも同じ、ビタミン剤と安定剤です。この風邪薬を飲んで風邪が治るというのですけれども、その原理は、休養することによって風邪に抵抗できるだけの心身の力が回復してくることです。ですから薬が病気を治したというのではなく、私たちのもっている治ろうとする復元力を助けているだけなのではないか。
こういった考え方は、治療というよりは援助という表現の方が近いのではないかと思います。つまり私たちの心身、特に心の方ですが、心が治ろう、あるいは治りたがっているということでなければ、治療は進んでいかない。これも注意しておく点ではなかろうかと思います。
さらにもう一点、重要と思われるのは信頼関係です。カウンセリングのカウンセラーとクライエントの関係の中で、親近感、親密感、要するに心と心が通じ合っている状態をラポール(ラポート)といいます。カウンセリングではこれを大変重要視いたします。いわば信頼関係を相互の中でつくっていくことがカウンセリングの基本にあるわけです。
この「良医治子のたとえ」の中の父親と子供との間を見ますと、絶対的な信頼関係が基本になっております。信頼関係があるからこそ薬を飲んでくれたのです。こういうところも大切なところではないかという気がします。
私たちも病院に行きましてお医者さんに診察をしてもらうことが多々あります。しかしその診察の時のお医者さんの態度いかんによっては、何か不信感をもつことがあります。そうすると、いくら有名な先生だといわれていても、その先生が処方してくれた薬をすんなり飲もうという気にはならない。あるいは飲むことを忘れてしまいます。場合によっては、それは無意識のレベルで忘れてしまうのかもしれません。しかし信頼をするお医者さんであれば一日に三回、これとこれとこれを間違いなく飲みなさいと言われれば、これは忘れないで飲むのです。そういう事実があります。
そういうことから考えますと、お医者さんも信頼にたる医師でなければならないと思うのです。信頼にたるお医者さんとは、よく説明をしてくれるお医者さんです。と同時によく話を聞いてくれるお医者さんです。だからこそまた信頼されるわけです。そういう意味では、お坊さんについても信頼にたる僧侶になる必要があろうかと思います。信じているから薬を飲むのです。信じているからそれを受け入れることができる。信じているからこそ、それが入っていく。やはり基本はお互いの信頼関係にあるようです。
このように見てみますと、「良医治子のたとえ」というのは、単に法華経は人々の心の病を治すすばらしい薬であるというだけでなく、そこには主体性あるいは自発性の尊重が見えてきます。あるいはその話の中ででてきます治療、治る、あるいは治すということはどういうことなのか。さらには今言いましたように、信頼関係の重要性が指摘されるのではないかと思われます。これは心理療法の基本的なことと共通しています。
二、三車火宅のたとえ
二番めに、「譬喩品第三」から「三車火宅のたとえ」がでてきます。実はこの話にも子供の主体性の尊重を見ることができるわけです。
火事になった家、これは世の中の苦しさや恐ろしさを象徴するものでしょう。火事になった家の中で、火の恐ろしさを知らないで遊びに夢中になっている子供たちがいます。この子供たちは、人の愚かさを象徴しているのでしょう。それを救うために、長者である父親、つまり仏さまは、三つのきれいな車を与えるといって、子供たちを燃えさかる家から導き出す。そして仏さまである長者は、三車よりももっとすばらしい大白牛車――つまりこれが法華経であり、救いの道であろうと思われますが――を与えたという話です。
この話は当然何よりも法華経がすばらしい教えであるというところがクライマックスであり、クローズアップされるわけです。ここでも仏さまは、どうしたら子供たちが自発的に家の中からでてくるだろうか、どうやって火事に気がついてくれるだろう。そういうところに智恵を使われていることがわかります。普通この状況であれば、大きな声でどなって、何とか知らせよう、助けようとするわけです。初め長者はそういうふうにしたかもしれませんけれども、しかしこの状況は、いくらどなっても聞こえない。つまり相手に通じない状況なのです。これは外からの力ではどうすることもできないことを象徴しているのではないかと思われます。
私はここに仏の智恵を見るのです。どなるだけでは救いではない。どなって通じるならば、ある意味では楽なのです。声の大きいことが一番ということになる。どなることに限界を見たときに、相手、他者の主体性の尊重が重要なことに気づかれるのではなかろうか。向こうが気づくのを待ってやる心遣いです。
これを臨床場面というか、相談場面でおきかえて考えてみるのですが、私たちはその人のため、あるいはその子供のために一生懸命に心を砕く。何とか問題を解決してやりたいと思うのです。一生懸命にやる、その心、熱心さは大変すばらしい。しかしそれが一方的になっていないだろうか。独善的になっていないだろうか。本当にそれがその人のためになっているのだろうか。よくチェックする必要があるだろうと思います。
例えば、テレビやラジオなどでよく人生相談のコーナーがあります。その日その日でゲスト回答者が何人か出てくる。それが有名タレントであったりする。そこでいろんな悩みをゲストにぶつけていく。そうすると、そのゲスト回答者というか相談を受ける側は、「それはあなたがちょっと悪いのじゃないの」とか、「それはちょっとおかしいよ。むしろ今日からは、あなたはこうした方がいいのでは?」などと言う。最後に「わかりましたね。今日からこうするのですよ」というふうな形で終わることが多い。そうすると相談をした方は、「はい、わかりました」と答えるのですが、実際には何もわかっていない。一見、何か的確な指示をして、それに対して、「はい、わかりました」で、きれいに形がつくように感じるのですが、それは見かけだけの話です。一方的な助言、あるいは忠告、指示、そういうものはその場限りで終わってしまうことがほとんどなのです。問題が軽い場合は別ですが、ちょっと難しい問題になってきた場合には、そう簡単にはいかない。大事なことは、その本人の中から、自分の中から、「そうだ、こうしてやっていけばよいのだ。こうなのだ」というふうに、自分自身で気がついていく。これがカウンセリング、あるいは相談の中で大切なことです。
こういった相談という仕事が苦手な職種の人がいる。それはお坊さんであろうと思われます。どうもお坊さんは、聞くより話す方に力が入ってしまうので、ついついお・説・教・になってしまう。もう一つは、学校の先生、これもあまり上手ではない。ですからお坊さんで、なおかつ学校の先生というのは、最悪(!?)といってもよいのではないかと思います。ただ、今日ここにいらっしゃっている方はそんなことはありません。つまり、人の話を聞いてやろうかというふうに、聞こうという姿勢を示して下さる。これは素晴らしいことです。これとは反対に、いや、そんなことはわかっているから聞くことはないという方が心配なのです。
そういうことが「三車火宅」の中で見えてくるわけです。
三、長者窮子のたとえ
三番目に「信解品第四」から「長者窮子のたとえ」があります。これは長者(仏さま)が、長い放浪の末、再びめぐり会うことのできた自分の息子――これは私たちのことだと思います――に、まず汚い仕事から徐々にいろんな仕事を与えていく。これが修行ということなのでしょう。次第に自分は仏の子であると気づかせていく。仏子の自覚です。そしてついにその自覚が得られたときに、長者の財宝(悟り)を譲り受けることができる。簡単にいえばこういうストーリーだろうと思います。
この話で重要な点は、長者自らが立派な衣服を脱ぎ捨てて、汚い衣服をまといながら、その息子同様にみすぼらしい姿になって一緒に生活をする。つまり相手と同じ立場にたつというところです。これがこの話の基本だろうと思います。
こういった長者の態度は、まさにカウンセラーの態度だろうと思います。長者は決して上から見下ろすような見方をしておりません。また安易に答えを教えようとしたり、忠告したりということはしない。カウンセリングにおいて、相手を批判したり非難することは、当然のことながら絶対にすべきではない。今もお話ししましたけれども、指示をする、あるいは忠告をする。安易に助言をする。あるいは場合によっては説得をする。命令をする。あるいは叱りつけるということはカウンセリングではありえないことです。しかしそれがカウンセリングだと思ってやっている人が中にはあるのです。クライエントが自分自身で変化し成長をしていく、そういうプロセスに辛抱強くつき合っていってあげる。これがカウンセラーです。つまりクライエントは、カウンセラーという存在に支えられて、次第に自分の力で自分の道を歩いていけるようになるというわけです。このようにしっかりと息子を見守っている。そういう長者の態度というのは、まさにカウンセラーそのものであるといってもよいのではないかと思います。
またこの話では、仏子としての自覚に至るまでには、辛い修行があるわけです。それを自分の力で乗り越えていくところもまた重要な点だろうと思います。つまり何かを達成するためには、あるいは悩みの世界から脱却していくためには、そこにどんなに人の助けがあったとしても、それで目的が達成されるわけではありません。最後は自分自身の力で進んでいく、自分の足で歩いていく、これが重要だろうと思われます。これもまさに心理療法の基本です。
さらにもう一点、この息子は諸国をさまよって、乞食同様のその日暮らしをし、すさんだ生活の日々で心まで貧しくなってしまった。これは消極的な生き方、否定的な生き方、自信のない生き方であるといえましょう。また仕事を与えられるわけですけれども、そんな心持ちで仕事に向かうわけですから、嫌々やることになるわけです。これは「受け身」です。受動的な態度といってよいでしょう。しかし最初はそうであったけれども、次第に自分から進んで仕事を行うようになっていく。つまり「受動的態度」から「能動的態度」へと変化をしていく。これが大事な点だろうと思います。子供でも大人でも「受け身」というのはだめなのです。「受け身」、つまり「受動」を「能動」へと変えていかなければならない。これは心理療法です。
現実の生活では、子供でも大人でも受動的な体験は大変に多いものです。自分が選んで自分の好きなことだけをやることはなかなかできない。特に子供の世界では毎日毎日が受け身の生活です。これは私自身でもよく反省するのですが、考えてみると子供に対して朝から晩まで命令ばかりしております。ほとんど命令で一日が終わってしまうという気がします。ですから一方で命令をする人があり、片方では命令される人がある。一方で支配しようとする、一方で支配されてしまう、そういう関係がでてくるわけです。
このように、子供は一日中親から命令を受けて過ごしていることが多い。ある程度大きくなればだんだん減っていくのですが、小さければ小さいほど、赤ちゃんは別ですが、かなり命令で動いている一日です。それはそれでよいのですけれども、問題はそこからストレスなどがでてくることです。あるいはいろいろな身体症状がでてきます。これは詳しくお話している時間がありませんけれども、たくさんの症状があります。こんな子供たちに遊びを通した心理療法(遊戯療法)を行っていくわけです。相談室(プレイルーム)では子供の自由にしてよいというのが大前提ですから、例えば一緒に遊んでくれる先生に対して、お前は今日はこれをやれと、子供が命令をする。それで自分はどういう役割をとっているかというと、お父さんの役割をとるとか、お母さんの役割になりきっている。立場を変えることができるのです。考えてみれば、日頃、お父さんやお母さんに言われっぱなしです。それは結局、現実の生活ではひっくり返すことはできません。しかし遊びの世界においては、それが逆転できる。そのことによっていわばプラス・マイナスを調整する。そして心のバランスをとってプレイルームから出ていくことがある。これは児童の遊戯療法の基本ですけれども、そういうふうに考えるわけです。
こう見てみますと、この話の中で、息子は長者(仏さま)に支えられて、見守られて、次第に自分から進んで仕事に向かうという、能動的で主体性をもった心へと変化していくのが見えます。これはカウンセリングのプロセスの中で生じてくる心の変化ともいえるわけです。
四、三草二木のたとえ
四番目として、「薬草喩品第五」から「三草二木のたとえ」があります。
世の中にはたくさんの草や木がある。それも大小いろいろある。これは人それぞれということを示しているのだろうと思います。天からの雨は、すべての草木にみんな平等に降りそそぐ。雨が平等に降り注ぐということは、仏の説法、教化ということだと思います。そうしてみんながうるおって成長して、それぞれに花や実をつけていく。つまり、分に応じて平等ということだろうと思います。
この話の中で最初に大小いろいろな草木のことが出てきます。これはどう考えましても、我々一人ひとりのことなのですが、それぞれ個人の能力、性格、あるいは考え方は皆違うということです。またそれぞれの悩み、それぞれの目標があるということです。そこで相談に訪れるクライエント、あるいは病者といいましょうか、病をもっている人たちの心理を考えますと、多くのケースでそうですが、どうして自分だけがこうなってしまったのかということを言います。自分は世の中で一番不幸な人間である。隣りの人はあんなに幸せそうだ。しかし自分は何で不幸なのだろう。場合によっては、どうせ自分は頭の悪いばかな人間だというふうな言い方もでてくるかもしれません。いろんな表現がありますけれども、世の中の苦労を全部自分一人で背負っている、そういう感じが共通してあります。つまり他との比較の中で、周りとの比較の中で迷いが生ずる。そして頭の中は堅くて狭いのです。
私は立場上、現場の中で、一方では子供に接しますけれども、一方では、悩み多きお母さんたちともたくさん接してきました。いわゆる育児ノイローゼというケースにもたくさん出会いました。あるいは育児ノイローゼ一歩手前のお母さんといってもよいでしょうか、そういうケースのお母さんとたくさん出会ってきました。そうすると大体これと同じです。「隣りの○○ちゃんと、うちの△△は同じ年なのに、隣の子供はもうここまで成長した。どうしてうちの子はこうなのでしょう」。相手との比較の中で見てしまうのです。子供というのは、特に幼児期あたりを見ますと、非常に個人差が激しい時期です。身長もそうですし、特に精神発達の面でも違います。言葉が発達していく過程を見ていきますと、ずいぶん個人差がある。二歳、三歳であまりしゃべらなかった子が急にしゃべり始めるということはよくあることです。隣りの何とかちゃんはもうこんなにしゃべっているのに、うちの子はかたことしかいわない。それが悩みの種になる。ですから他との比較の中で迷いが生じ、もうそこしか見えませんから、頭の中は狭くて堅いものになってしまう。
すべての草木に雨が降りそそぐ、つまり仏の説法ですけれども、これはカウンセリングの過程と思います。まず大木がぬれます。そしてさらにその下の小さな草や木に雨が降りそそぐ。そしてだんだんに地面に到達して、地面からさらにゆっくりゆっくりとしみこんで、最終的にはそれが根まで届くわけです。雨が浸透していくには時間がかかる。地表だけぬれるのではだめです。目に見えない根っこの部分にまで雨がしみこんでこそ意味があるのです。それには時間というものを待ってやらなければならない。時間を待つということ、これは当たり前のことですが、意外と忘れてしまう。大切なことなのですけれども、ついつい見過ごしてしまう。特に世の中は大変早いスピードで動いております。時間を待てないような流れです。だからこそ余計にあせるのかもしれません。時間を待つという大切さがここにあろうと思います。
そして最後に、皆うるおって成長して花や実をつける。これは分に応じて平等ということですけれども、結局、つまりカウンセリングが進んでいった結果、「何だ、みんな同じなんだ」ということがわかってくる。人それぞれに悩みがあるのだということもわかってくる。確かにつらいことや苦しいことがあるけれども、でも楽しいことだってあるじゃないかというふうな見方になってきます。
というふうに考えますと、個性の尊重というのでしょうか、それぞれに分に応じて平等なのだということが理解されてくる。つまり自分は自分なりの生き方をすればよいのだと気づいてくる。最初お話ししましたように、初めは狭くて堅い頭です。それが広くて柔らかい頭へと変化をしていく。これは大変大事なところです。
五、化城宝処のたとえ
五番目に「化城喩品第七」から「化城宝処のたとえ」というのがあります。
宝を求めて旅にでる。この宝とは正しい教えです。旅にでるとは求道の旅ということです。旅に出たわけですけれども、その道程は大変に長く困難なものであった。これは人の世の中のことを示しているのだろうと思います。彼らは途中で疲れ果てて一歩も進むことができなくなってしまう。いくらリーダー、つまり仏さまが励ましても、彼らは動かない。そこでリーダーは、まぼろしの城を見せます。そして彼らに休息を取らせるわけです。しかしそこはあくまでも一時的な休息場所でしかない。そこで元気をとり戻した人たちは、再び勇気をだして宝を求めて旅にでる。こういうストーリーです。
人々と一緒に苦しい旅をするリーダー、すなわち仏さまですが、これがクライエントとともに歩むカウンセラーをさし示しております。城を見せるということは、人々を自力で歩かせるための一つの方法というわけです。リーダーは、疲れた人たちを見て、「疲れたならば、自分の背中に乗りなさい。自分がおんぶしていってやる」とは言わない。あるいは「もう歩けないのなら車を手配するから、その車に乗って行け」とは言わない。これはその人の主体性、自発性を尊重するからです。つまり自立をめざしていると言えると思います。お城で休息を取らせるということですが、この休息とは、不安を取り除くということ、あるいは緊急避難の場所の重要性というふうにもいってよいと思います。私たちの心にとって、不安、あるいは恐怖もそうですが、特にこの不安は大変良くない。そういった不安が出てきた場合には、まず鎮静させる必要があるのです。あまりにもずっと不安をもち続けますと、社会的に不適応をおこしてしまうことになる。逆にいいますと、不安を鎮めて、それが取り除かれることによって新たな力が生じてくる。新たな力を生み出すためにも、何としても一時的に休息をとって、この不安をまず取り去らなければならないということです。
先ほど言いましたけれども、子供がプレイルームで遊びを始めようとするが、自分の家のようにさっとは遊べない。初めてきたところですから不安が強く緊張しております。どうなっているかといえば、一緒に来たお母さんにぴったりとくっついています。お母さんの手を握ったり、あるいはスカートの裾をもったり、後ろにぴったりとくっついている。これは、お母さんは子供にとって安全基地であることを示しているのです。お母さんについていれば大丈夫です。ですから、怖い、不安なときにはぴったりとお母さんにくっついている。そこでむりやり引き離して、さあこっちに来て遊ぼうというのは無茶な話です。遊びが展開していくためには、まず不安を取り除き、ゆっくりゆっくりと自発的に子供が動いていくのを待ってやるしかない。五分、一〇分たちますと子供が慣れてくる。一歩二歩とおもちゃの方に歩いていきます。ところがまだ自由に遊べない。同じ部屋にいる先生をちらっと見て、ああまだちょっと怖いなと思うと、また、さっと走ってお母さんのところへ戻っていく。何度も行ったり来たりしながら、安全基地へ戻ったり、それを繰り返しながら、しだいに遊びを広げていくという事実があります。これはやはり安全基地の必要性を示しているのです。
あるいはサラリーマン社会でのいわゆる過労死の問題もそうです。今日、ストレスからのノイローゼが多発している現状であります。その大きな原因は休まないことにあると思われます。会社のために朝暗いうちから出ていって、夜中になって帰ってくる。そしてまた翌朝早くから出かけていく。日曜日でも休まない。そういうふうにとにかく休まないというリズムで、働きづめなわけです。だからこそまた休むことが大切な意味を持つと思われるのです。
最近よく考えることですが、我々はあまりにも「ガンバレ」という言葉を安易に使いすぎているのではないかという気がします。時として、これは相手にとって大変なプレッシャーになる場合がある。現状を無視した一方的な言葉になってはいないだろうかと心配することがあります。自分は今一生懸命やっているのに、必死でやっているのに、さらにこの上「ガンバレ」とはどういうことなのだというのです。
カウンセリングなどの場合にでてくるのですが、例えば障害をもった子供のために、お父さんやお母さんは毎日頑張っているわけです。その相談の中では、「もっと頑張りましょう」とは言えない。カウンセラーという立場に立ちますと、むしろ「あなたが一生懸命やっていることはよくわかっている」としっかり受けとめてやる。場合によっては、「そんなに頑張らなくてもいいのですよ。のんびりやりましょう。休み休みでもいいじゃないですか」という気持ちで対応することが、かえってそういった人たちの大きな力になっていく場合がある。受験勉強でもそうです。受験生は徹夜で一生懸命勉強しております。それにさらに「ガンバレ、ガンバレ」とはちょっと言いづらい。
そこで最近ふと思いました。「ガンバレ」というのと、「ガンバロウ」というのはちょっと違うのではないかということです。「ガンバレ」というのは、ややもすると自分はそこにいなくて、外から応援しているだけではないか。例えばマラソンとか駅伝などが中継されます。それを見ると、道路沿いで一生懸命「ガンバレ、ガンバレ」と旗を振って応援している。それはある意味で選手にとってはありがたいことかもしれません。しかしそれが場合によっては無理をさせることになって、疲労骨折とかになってくるわけです。むしろ「ガンバロウ」というのは、相手と同じ立場に立って共に歩むという感じがするのです。
例えばプロ野球のオリックスのユニホームに、「がんばろう神戸」と書いてありますけれども、やはりあれは神戸のチームだからそうなのでしょうけれども、自分と一・緒・に・みんな頑張ろう、というふうな響きがある。あれは、「がんばれ神戸」ではだめなのです。やはり自ら一緒にそこに関わって、共に頑張ろうやという気持ちが大切なのです。ですから「ガンバレ」と「ガンバロウ」は、分けてみると微妙に違うことに気が付きます。
特に私はいくらか臨床的な面で話をしておりますから、うつ病の人を考えてみるとよくわかるのですが、うつ病の人に「ガンバレ」というのは禁句です。うつ病の人に「ガンバレ」といったらどうなるか。自殺に追い込んでしまいます。よく考えて「ガンバレ」という言葉を使わなければならない。
あるいは、拒食症は最近皆さんもよく聞かれると思います。大体思春期以降といいますか、若い女性などに多いのですが、今、小学生にも広がってきております。十五歳以下の拒食症が七年前の三倍ぐらいに増えています。つまり小学校ぐらい、あるいは中学校のあたりに拒食症が出てきて、それがどんどん増えてきている。これはやせていると注目をしてもらえるとか、いつまでも赤ちゃんでいたいからとか、いろんな理由が考えられますが、一番多いのは何かといえば、よい子になろうと頑張っている子に多いのです。親によい子であると認めてほしい、親に認められたい。よい子だと言われたいがために頑張る子供に拒食症がふえているという事実があります。ですから普通に私たちも「頑張れ」などと言ってしまうのですけれども、あらためて使い方を考えなければならない。場合によっては、お城で一休みということも必要ではなかろうかという気がします。
六、衣裏繋珠のたとえ
六番目に「五百弟子授記品第八」から「衣裏繋珠のたとえ」というのがあります。これはお金もちに姿を変えた仏さまが、酔っぱらった貧乏人の友達、つまり、これはわれわれ凡夫のことですけれども、その友人の衣服の裏にそっと宝石を縫いつけておいた。しかしその友人は自分のもっている宝石に気がつかない。そのためにその日暮らしの貧乏生活を送ることになる。そして金持ちの友人と再び出会って、やっとその宝石のことに気がつくという話です。
おそらくこのたとえ話は、人間にはみな「仏性」が具わっているのにそのことに気づかないでいるということではないかと思います。
心理療法の基本に自己治癒力というものがあります。例えば手をちょっとけがをする。そうしますと小さなけがは放っておいても自然に治ってしまいます。大きなけがでも、手当て等はしますけれども、時間はかかるけれども確実に肉がもりあがって治っていきます。それは自然の治癒力です。実は我々の心の中にも、だれでも自己治癒力をもっているという考え方があります。自己治癒力とは別に体だけのことではない。我々の心の中にも具わっているのです。
ところが人間の意識は大変に頑固なところがある。せっかく持っている自然の自己治癒力に逆らったりすることがあるのです。そこで治療とかカウンセリングが必要になってくる。つまりこの宝珠、仏性といいましょうか、それはカウンセリングなどでいう自己治癒力と見てよいのではないかと思います。どんな人の中にもあるのだけれども、なかなかそれに気が付かない。それに気付いて、それを磨いて、それが動き始めると、その人の本当の姿があらわれてくるだろうと思います。
この仏性を児童臨床心理学の面から考えてみますが、児童臨床では、お母さんと子供という母子関係が大変重要になってきます。特に大切なことは、母子相互作用、つまりお母さんと子供がお互いに影響を与え合いながら発達をしていくという点です。赤ちゃんで考えてみるとよくわかるのですが、お母さんと赤ちゃんという関係は、もっぱらお母さんが、小さい何もできない赤ん坊にただ世話をするだけ、一から十まですべてをお母さんがやってやる。一方的なかかわりといいますか、そういうものでイメージしている方が多かったと思いますが、そうではないのです。今日では、子供も、赤ん坊といえどもお母さんに対して一生懸命かかわりをもっている、お互いがお互いに影響を与えているのだといわれます。そして、子供がお母さんの母性行動を引き出しているのだといわれています。母性行動といいますと、お母さんから一方的に子供に与えるものというイメージが強いと思うのですが、実はその引き金となっているのは、子供の多彩な表情とか笑顔、声とか言葉とかしぐさ、その他さまざまな行動が微妙にお母さんを刺激する。そのことによってお母さんのもっている母性行動が花開くという考え方です。これを「母性の解発」といいます。この「解発」という字の語源は「リリース(release)」という言葉で、「解放」とか「解除」という意味です。心理学あるいは生物学的なところで使われる言葉です。
子供が、特に乳児とか生まれたばかりの新生児がお母さんの母性行動、母性本能といってもいいのですけれども、それを引き起こす。乳児がお母さんに刺激を与えることによって、本来その人の持っている、内蔵されている母性が解発される。つまり母性を呼びさます。眠っていた母性を刺激によって揺り動かすのだということです。聞きなれない言葉ですが「母性の解発」、こういうことを考えてみますと、カウンセリングの中で、その人の主体性、自発性を尊重して、自分自身で本当の自分に気がついて、自分の力で自分自身を変化させ、成長させていくということは、まさに「仏性の解発」といってもよいのではないか。
七、髻中明珠のたとえ
そして七番目ですが、「安楽行品第十四」から「髻中明珠のたとえ」です。これは大きな力をもった王様(仏さま)が国を統一しようとする。けれどもそれに従わない国がある。従わない国とは煩悩のことをさすのだと思います。そこで部下(修行者)を向かわせて平定するわけです。その中で手柄を立てた者へは褒美を与える。褒美とは説法です。法を説いてあげることがご褒美でしょう。しかし王様の髻(もとどり)の中にある宝、つまりまげの中に大事にしまってある宝――法華経とか悟りということ――だけはなかなか与えない。そして最高の手柄を立てた者にだけ、やっとそれを与えるというストーリーです。
最高の褒美として、もとどりの中の宝を与えられたことは、王位の象徴、すなわち仏の象徴をいただいたことですから、これは凡夫でも仏になれる。つまり「悉有仏性」ということを示しているわけです。部下である兵隊(修行者)が煩悩という敵と戦う、これはまさに悩み多き人間、クライエントそのものです。そして手柄をたてた者に褒美は与えるけれども、まだもとどりの中の宝は与えない。これはカウンセリングの途中経過です。仏さまはまだじっと見守っている。ただひたすら待っている。待ちの姿勢をくずさない。これは前に少し述べましたけれども、なかなか大変なことなのです。われわれは待てなくなってしまう。待てなくて何かを言ってしまう。もう少し待ってやることができない。そのうち大きな手柄を立てた者が出てくる。これはクライエントの方から、「何とか、もう一人でやっていけるような気がします」とか、「もう長く相談に来ているけれども、大丈夫だろうと思います」、そういうふうな言葉が出てくることがあります。これはもう大変なことです。これがカウンセリングの終盤にでてくる終結宣言、終了宣言です。もう自分は大丈夫だ。また、カウンセラーの側から見ておりましても、ああこれなら大丈夫だなというレベルがあるのです。これがいわば卒業ということになるわけですが、同時にこれは一個の自立した人間の誕生というふうにもいえるでしょう。そうするともとどりの中の宝とは卒業証書といえるのかもしれません。
おわりに
以上、「法華七喩」を、私なりの心理臨床的な視点から見てまいりましたけれども、やはり基本は「寿量品」ではなかろうか。ですから「比喩品第三」から始めて、順番にいって最後の十六で終わるのがよいのかもしれませんが、あえて「寿量品」を頭にもってきてお話をいたしました。
今日の話を一言でいうとすれば、その昔、仏さまという偉大なカウンセラーがいた。そしてその仏の説かれた法華経というのは、今日の心理療法と多くの共通点を持っている。それは一人ひとりの人間性というものを何よりも尊重するものであり、それぞれの心を癒して、安らかな世界を実現するものであった、ということになるのかもしれません。
今日、このお話を通して皆さんにお伝えしたいことは、物事にはいろんな視点があるのだということをわかっていただければ結構です。
例えば、布教・教化といいますと、当然のことですけれども、いかにしたら多くの人たちにお題目を唱えさせられるのだろう。良薬をどうしたら口に入れられるのだろうと考えます。これはこれでよいことですけれども、一歩間違えば、いかにして相手を説得するかという方向にいく場合がある。この辺はまだよいかもしれません。これをさらに進めていきますと、ディベートになっていくわけです。例のオウム真理教の上祐被告がディベートの達人だといわれます。これまで中央教研でも何度かディベートをやりました。これは説得の技術ですから、一つの技術論として勉強していくことは一向に構わない、良いことだと思うのです。しかし、ディベート=布教法・教化法ではないのです。このディベートをさらに進めていくとどうなるか。洗脳になっていきます。洗脳でよいというのであれば、教義などはあえて必要はない。むしろ教義よりは、生理学、心理学といった手段を駆使してどんどん責めればよい。究極はオウムです。そういうふうになっていきます。洗脳でよいというのならそうすればよい。しかし私たちの布教・教化は決して洗脳ではないだろうと思うのです。それどころか個人個人の意志を尊重して、その人の主体性、自主性、人間性を尊重するのでなければならない。これが基本にあるからこそ法華経の信仰といえるのではなかろうかと思います。
私は法華経を全部読んでおりませんが、少なくとも今見ました七喩が、主体性の尊重、人間性の尊重という意味では一貫しております。その意味でこの法華経は、個の自立をめざしているのではなかろうか。あるいは日蓮聖人の信仰とは、個の自立を支援するものではないかというふうにも思います。
最後にもう時間がございませんので一言だけ付け加えます。私のわずかながらの臨床経験の中で感じたことですが、人が人に何かをしていこうという時、常に自分自身の心の豊かさ、これがいつも同時に問われている。相手に何かをしようというときには、必ず自分も問われているのです。同時にまた自分自身、人のために何かをするというおこがましさを、十分に自分の頭の中に入れてやらなければならない。これは臨床的な立場から言っておりますけれども、そういうことをずっと感じております。
法華経は自覚の宗教、自ら目覚めていく、そういう教えだろうと思います。そして自立をめざすものであろうと思います。まず我々一人ひとりの自覚から教化活動が始まるのではないかと思います。
※本稿は平成八年三月二十五日、広島県福山市良縁閣にて開催された第二十六回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。
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