日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第31号:30頁〜 |
教化学研究 |
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日蓮宗、その戦後五十年間の教化をふりかえる
石川浩徳
(現代宗教研究所所長)
はじめに
私は長年、檀信徒を対告衆にいたしましてお話をしてまいりました。こうしたところで、教師のみなさん方を前にして、はたして参考になるようなお話ができるかどうか心配をしております。五十年をふりかえってということでございますので、私の体験を交えて、お話をさせていただきます。
話の内容が順を追って皆様方に分かるようにと思いまして、一応レジュメのようなものをお手元にお配りさせていただいております。時間の関係もありますので、この順序でお話ができるかどうか分かりませんし、話が途中になったりするかも知れません。最近の宗門の動きは皆さん方もよくご存じであろうと思いますので、そこで戦後の軍国主義の崩壊、思想の混乱、価値観の一八〇度転換した国情の中で日蓮宗はどう時代を受けとめ、どう布教教化を考え宗団を指導したか、この点は今日の宗団の原点ともいうべき事なので、くわしく述べまして、次ぎに立教開宗七百年前後に焦点を合わせてお話して参りたいと思います。
それにしましても、最近大きな話題となっておりますのが、例の宗宝の盗難事件でございます。これはテレビも、あるいは新聞・週刊誌、あるいはその他で、外に向かっても相当報道されておりまして、困ったことだと誰もが思っているところです。宗門といたしましても、こうした宗宝の格護について、真剣に取り組んでいかなければいけないのではないかと議論も出てきております。また中四国教区の方からは、この事件についての要望書なども宗務院に出ておりまして、先日の定期宗会(平成八年三月四日〜八日)のときも、これが代表質問の中にも出てまいりました。こういったことについてはお互いに気を引き締めなければいけないと同時に、宗宝の格護と相俟って、宗宝に対する尊崇の念、教師の道念の問題とか、あるいは檀信徒への影響とかを考える必要がありましょう。特に立教開宗七百五十年をお迎えしようとする今日、我々は深刻に受けとめねばならないと思うわけです。
覚醒と復興
さて、五十年間の教化をふりかえるということが今日の講演内容でございます。ちょうど昨年が満で戦後五十年ということで、一つの区切りがあったわけです。今、日蓮宗は「お題目総弘通運動」推進の中で、あと六年先になりますと「立教開宗七百五十年」をお迎えするわけです。それこそ過去五十年をふりかえることは、これから迎えるその「立教開宗七百五十年」はもちろんのこと、その後の宗門の未来のためにも大事なことであろうと思います。
「覚醒と復興」とレジュメの最初に書いてありますように、戦後の日蓮宗は、何をおいても復興がまさに大きな課題でした。だいたい日蓮宗では、御誕生と御遠忌と立教開宗会、この三つの大きな行事が五十年間に必ず一回めぐってまいります。そのつど、一つの節目といいますか区切りとして、布教伝道というものを考えてきておりますけれども、それがはたして教師の意識を高めそうした布教効果をあげてきたかどうか、又、終戦時、覚醒した筈の宗門でしたが、本当に目覚めたのか、その点を少々検証してみたいと思います。
昭和二十年八月十五日、終戦を迎えたときに宗門はどういう動きをしたか。それまで、国のいわゆる軍国主義に加担し協力しその方向にまっしぐらに進んできました。それが一夜にしてがらっと変わったわけです。価値観がまるっきり一八〇度変わった。その中で当時の日蓮宗の主だった方々、いわゆる管長をはじめ、責任有る立場の方々は、どうやって宗団をまとめていったらよいだろうかということに大変苦心をされたようです。国民の大多数は現人神天皇を中心とする軍国主義体制を疑いもなく信じ、追随してきたものが根底から崩れてしまって、心の拠り所、精神的バックボーンがなくなった。一方宗門的には、空襲により宗務院も焼けた、東京の仏教大学の中で唯一立正大学だけが焼けてしまった、あるいは大本山本門寺が五重塔を残して、あとは全部焼失してしまった。全国的には六〇〇ヶ所のお寺さんが戦災にあって灰燼に帰し、もちろんご住職の中には戦地にかり出されて、戦死をされている。檀信徒の方々も、やはり同じような状況であったわけです。それが終戦を迎えて、この宗門の建て直し、そしてまた教師一人ひとりの意識の変革と布教伝道に対する熱意を、もう一度かりたてなければならないという状況がありました。
しかも農地解放令が施行され、新憲法が発布されて新しい宗教法人法、信教の自由といったものが、連合国司令長官マッカーサーによって打ち出された。一体何を目途として、何を主眼として、宗門を束ねていけばよいのか。そんな中で農地解放が追い打ちとなり、当然、寺の経済事情を極端に圧迫させた。一体寺の護持をどうすればいいのか。こうした難題が次から次へとおこってきていました。
私は学生の頃浅草に住んでおりまして、浅草から立正大学へ通った一人です。そのころは浅草の清島町に通称統一閣といわれた建物があり、時折遊びに行ったものですが、それが日蓮宗の宗務院でした。昭和二十年の五月に、それまで二本榎にあった宗務院が焼けてしまった。明治五年以来、七十年間つづいた二本榎で親しまれた宗務院です。宗務院がなくなってしまっては困るわけで、それを何とかしなければならないというので、昭和二十年、終戦と同時にあの統一閣に移りました。統一閣には、焼け出されて家のない数家族が住んでおりまして、実際に統一閣を宗門が購入し、宗務院としてきちんと整備したのは昭和二十七年ですが、昭和二十年から昭和四十年まで、二十年間そこにあったのです。そのあと池上に宗務院が移ったことになるわけです。
昭和二十年の暮れに、当時の宗務総長である――当時は総監といっていました――馬田行啓師が亡くなられて、その後、同じ名字ですけれども、馬田即貞師が総監になっております。復興のためにどうすればよいか。そのためにはまず指導者は勿論、教師の意識を変えなければならない。宗門の方針をがらっと変えなければならない。軍国主義一辺倒で特別な曼荼羅までつくりあげて戦勝祈願を指導したその人たちが、今度は平和主義、民主主義を叫ばねばならないのです。そして焼けてしまった日蓮宗の宗務院をはじめ、大本山池上本門寺の復興、あるいは全国の寺院の復興のために、心を一つにして進んでいかねばならないというのですからずいぶん苦労がありました。
昭和二十一年の三月、終戦の翌年、第五回の定期宗会が行われております。そのとき馬田即貞総監は施政方針挨拶で「軍国主義・全体独善主義が破れて、民主主義が勝利をした。そのことを我々は重く受けとめなければならない。国家主義・全体主義という国の方針に何の疑問も持たずについていったことが間違いであったということを、しっかり教師一人一人が認識していかなければいけない」と述べております。一人ひとりの教師の道念をもう一度、新しい形で作り上げていかなければいけないといわれています。思想の混乱、これはまさに憂慮すべきである。現宗門は新しい宗教法人法に従って、民主化した宗制を作り再出発をしなければならない。当時の教学部長の田賀龍文師も「祖師に帰れ」と言い、「国家に隷属していた本宗は、日蓮聖人の立正安国の真意を全く失ってしまっていた。日蓮聖人の御文章を、都合の良いところだけとってきて、そして国家体制に加担をしてきてしまった。いわゆる『断章取義』していたことをまず反省しなければならない。ご都合主義であったということを反省しよう。日蓮聖人の宗教は日本にばかり都合の良い宗教ではない」と声を大にして宗会で言っております。そのことは後に総監になりました西川景文師も「国家主義や独善的日本国体の礼讃をしていたのは間違っていた。全教師はこぞって懺悔せよ」と、自らも八寒八熱の地獄の攻を受けている思いであるといい、全教師に訴えています。
その当時、ジョン・ブリンクリーという人が全国所長会議で講演されています。この方は天台宗の坊さんで、権僧正という僧階をもっている方ですが、講演の中で「日本には戦争に勝ち抜く資源を何ももっていなかったにもかかわらず無謀な戦争を行った。平和で生き抜く資産はいくらもあるのにそれを有効に使わなかった。指導者に世界の動向を見る目がなかった。だから戦争がこういう結果になったのだ。そして一番残念なのは、戦争開始にあたって日本の仏教界がだれも戦争に反対しなかったということだ」と指摘して言っている。仏教は自利利他である。世界に誇るべき精神文化・仏教がありながら、それが生かされなかったところに、無謀な太平洋戦争が行われ、そして大きな悲劇がそこに生まれた。世界で二千万人からの人が亡くなり、日本だけでも三百万とも六百万ともいわれる人たちが亡くなり、広島・長崎にはあの原爆が終戦間近に落とされた。日本の指導者たちが大きな間違いを犯し、その間違いを正す声を仏教界はあげなかったのだと言っております。日蓮宗も同様です。
マッカーサーが占領政策の中で、いわゆる思想の自由、信教の自由、集会の自由といったものをうちだしていった。宗門もそれに従って、民主化をしていこうということになったわけです。
機構改革
その民主化への第一歩としまして、宗会議員の選出制度を見直したことがあげられます。当時、宗会議員は一級、二級、特選となっていました。一級宗会議員、二級宗会議員、特選宗会議員という制度でありました。それを見直そう。発言権は平等でなければならない。選出の形も民主的でなければおかしいではないか。一級とはどういう方から選出されているかといえば、別格本山、あるいは本山から議員が選出されている。本山の貫首に議員の資格がある。六名ですけれども、そうした方が一級宗会議員ということで選ばれておりました。当時ちょっと資料を見ましたら誕生寺、頂妙寺、九州佐賀の光勝寺住職が一級宗会議員です。二級宗会議員は、全国の優等寺院といわれるところから二十四名が選ばれております。例えば中四国でいえば岡山の太然寺、山口の法性院の名が見えます。特選宗会議員は十一名おります。龍口寺とか藻原寺とか妙蓮寺(島根)、愛媛の妙蓮寺が選ばれておりまして宗会が構成されていました。その選出制度を改め、発言権は平等でなければならないとした。管長選出もこのときに改められたということです。
それから住職罷免あるいは住職を宗内から排斥するという宗制もよくないのではないか。民主主義の世の中で教師が教師を裁くのはいけない。それから審査会も同様に、坊さんが坊さんを審査するというのはおかしいではないかというので、審査会をやめて、陪審院のようなものがその時生まれております。これは又後年復活しております。
管長は総本山身延山の住職が就任する。これも年限を決めるべきだということがいわれております。それから宗規顧問会、特権階級的なそういった機関がありましたが、これも単なる諮問機関という形にしようではないかというふうに変えていった。大本山の住職は公選であるべきだ。当時はそのお寺で推薦した人と、それからいわゆる護山会といいますか、そちらの方から推薦された人と、だれがよいだろうかと、大体当該の寺院の候補者が住職になるということがあったそうですが、そうした形もやはり公選という形に変えていった。中央集権的なことをやめて、地方分権に移行していこうというようなことが打ち出された。
教化活動
布教の拠点たる寺院の復興については、復興局を設置しました。委員を九名選びました。増田宣輪師とか、望月一雄師とか、小野光洋師という方々が委員になっている。戦後の宗門の立て直しと、戦災孤児の救援・救出、あるいは海外同胞の引き上げの援助とか、こういったことどもが宗会で決定した。支局が全国に十三ヶ所設けられたとでています。こちらの方では渡部公允師の名が見えます。そこでなされた役割は、身元不明の戦死者や復員の遺骨の奉安、あるいは戦災寺院の復興、バラックの資材の調達、自由財産の処分、移転・合併等です。その当時の身延山の法主でいらっしゃった深見日円師は、身延山の豊富な山林をぜひともそうした復興のために使って下さいという発言をされています。戦後のそういう動乱の中で、どうやって宗門のあるべき姿を復興させ、そして実際に布教・教化をしていけばよいのかということで、為政者は苦心して進めていったようです。
その頃「立正青年連盟」が結成されています。人類愛の平和運動とか、宗門布教興学とか、信仰形態の民主的確立といったようなことを柱として全国に六十六名の連盟員が実行委員として委嘱されております。その中には皆さんもよくご記憶にある金子弁浄師、白川栄澄師、横山邦雄師、まだご存命の方もいらっしゃいます。
当時の布教伝道といいましても、一番大事なのは、なんといっても戦後の混乱状況の中で、正しい大聖人の教えに基づいて、社会教化に力をそそいでいかなければいけないのではないか。そういった実際の地域社会に教師が積極的に入っていって、宗教家としての役割を果たしていくべきだというので、社会事業の推進が非常に大きな課題として打ち出されております。
したがって宗務院の機構の中にも社会部というのができました。総監が庶務部長も兼ねておる。田賀龍文師は教学部長兼社会部長というようなことです。財務部長は昨年お亡くなりになられましたけれども、沖鳳亀師が財務部長ということで、この三人で内局が構成されていました。
社会教化のことに関しましては、社会教化班を編成しまして、社会奉仕を主眼とした街頭布教隊の教育・活動、それから配るパンフレットとかそういった教材の作成にも力をつくしています。各管区ごとに代表者による研究打合会がもたれ、やがてそれが社会事業協会になっていくわけです。具体的にはやはり外地からの引き揚げ者の救援とか、あるいは戦災孤児の収容救済を主な役割としています。そのため援護事業連絡員の委嘱も行われております。また寺院に対しては、広い場所があり施設を造ることも出来るだろうからということで、保育園とか幼稚園とか、といったものがだんだん設置されていくようになっていった。同時に社会的には民生委員になる方とか児童福祉員とか連絡員とか、そういった形でいわゆる昭和二十年代、あるいは三十年にかけての布教・教化が、復興を中心としつつ、社会との接点を多く持つようになっていったのです。その中で戦前から活動している綱脇龍妙師のハンセン氏病療養所「深敬園」、鈴木修学師の福祉事業等は特筆すべきことでありましょう。
清澄寺が日蓮宗に
昭和二十四年に入って、宗門史に燦然と輝く劇的な慶事が起こりました。それは清澄寺の改宗です。立教開宗七百年を前にして、それまで真言宗智山派の本山であった清澄寺が日蓮宗に帰属しました。この改宗には住職の岩村義運師の言語に絶する苦労がありました。改宗にあたって岩村師の覚悟と決断を知ったとき、私は涙が出るほど感動しました。そのときの様子が宗報にありますので、皆さんに聞いていただきたいと思います。
岩村義運師はこう述べております。
「宗派的感情を超越して、宗祖大聖人に最も由緒の深い山、大聖人を離れて清澄はない、清澄を離れて大聖人はないともいうべきこの人法不二の清澄山を、今日なお真言宗に属せしめていることは妥当ではないと、私は三十年来考えてまいりました。私は真言宗の僧侶ですが、独断でご本尊虚空蔵菩薩の向かって右側に日蓮大聖人のご尊像を、奉安させていただきました。右側は真言宗では上位としてあるのです。下位の左側には弘法大師を安置しております。大聖人の尊像は弘法大師よりも上位に安置したわけで、日蓮宗の方々からは大変に喜ばれたのですが、所属宗派である真言宗からは大変に叱られました。本堂内陣の両側の柱に、やはり右側へ大聖人の立正安国、左側に弘法大師の鎮護国家と、常に日蓮宗を上位において考えてまいりました。京都の本山の智積院が炎上しました。その復興のために困難をきわめているので、ではいっそのこと清澄を日蓮宗に売って、本山の復興の助けにしようと真言宗の智山派の本部で話があった。そのうわさがたったのに私は怒り心頭に達したのでした。たとえ清澄を日蓮宗に譲るとしても、私がそんな商取引に類するようなことをやろうという考えなどは毛頭ありません。本山復興のために身売りをするとはけしからん。
昭和二十三年十二月八日、身延山の法主でいらした深見日円猊下がご来駕下さって、ねんごろなご依頼をいただいた。そのときに改宗の決心をいたしました。しかし身売りの形は絶対に好ましくない。のしをつけて進上する形で交渉してもらいたいと、一切を当局におまかせした。当局とは智山派の方ですが、当局に一任したところが、一向にらちがあかない。ついに一遍の返事もこなかったので、とうとうしびれをきらして、私は決心をしたのです。あるときは寝こみを襲われ、あるときは大挙して脅嚇をし、ただ改宗絶対反対と末寺四十五カ寺が私に対してまいりました。絶縁を迫ってまいりました。一方的に決議して私を排斥してまいりました。そして卑怯にも、妻や子供にまで憎悪迫害の手を伸べ、子供に対してまで、おまえの親父は清澄を日蓮宗に売ったそうなといじめたのです。深い決心はしていても、結局は私も凡夫です。二度までも先師の御前に自決を覚悟したのですが、それを妻がとどめてくれました。
大体清澄は真言宗としてはただの田舎本山にすぎないが、日蓮宗としては大本山としても恥ずかしくない由緒をもった尊い寺である。それを真言宗でもっているということは、他人の宝をもちぐされにしているようなものだ。当然日蓮宗となるべきである。しかし私としては、ことここに至っては進退すでにきわまった。それに肉体的にも衰弱がはなはだしい。いつ倒れるかわからない。そこで一切の重要文書を手箱の中に入れて、妻と委任の方々に呼びかけ、自分が死んだら自分に代わって改宗のことを断行してもらいたいと遺書まで書いた。改宗を断念せよ、さもなくば山をのけと、脅迫をされましたが、私は、もはや法門の情誼も師弟の恩義もなく、絶縁を宣告して、清澄を日蓮宗に改宗をする決心をしました。清澄は当然日蓮宗に属すべきものだと日ごろから考えていたことを実行したのです。今後はただ信念に向かって邁進するよりほかはないのであります。
しかし立場を変えて考えて下さい。私にとっては実に一大事であります。しかるに日蓮宗のある一部の人々は、熱心なる信仰のあまりには違いないが、何をぐずぐずしているのだ。早く決心しろと、こういうふうに迫られました。私の身になってみれば、実に容易ならない大問題だったのです。自分の現在の苦痛は耐えがたいが、百年後にはきっとわかってもらえる。もうこうなったら寺とともに自分も改宗するよりほかに道はない。
ついに二月十六日、宗団所属変更の登記を済ませました。それは全く偶然でありますが、意識してこの二月十六日、すなわち大聖人御降誕の日をねらったわけではありませんが、その日に登記を完了したのです。決して公に誇るなどというものではありません。そんなさもしい心はみじんもございません。清澄山の復興と発展とを願うだけであります。分裂している大聖人門下の各派がうって一丸となって、ぜひとも全宗門がことごとく一宗祖に集まって、強固なる団結をつくってほしいと思います。岩村が真言亡国といわれた日蓮宗に降参をした。何といういくじのないことだと嘲笑されておりますが、自分は何とののしられてもよろしい。毅然としてそびえたっているその宗教がまさに日蓮宗です。どうかよろしくお願いいたします。」
こうやって清澄寺は昭和二十四年に日蓮宗になったと、岩村義運師はそのいきさつと心境を語っておられます。涙なしには聞けない話だと私は思いました。そのくらいの決心をされて、あのお山は日蓮宗になった。こういう経緯を考えますと、それこそ一層気持ちを入れて、清澄寺の復興、あるいは顕彰をしていかなければいけないのではなかろうかと思わないではいられません。
植林券問題
さて、立教開宗七百年を目前にして、このようなすばらしい、しかも意義深い、清澄寺の帰属という慶事が実現し、いよいよ昭和二十七年のご正当に向けて、慶讃会が発足しました。発足したのがたったその二年前の昭和二十五年です。そしてその資金づくりに実行されたのが植林券販売でありました。ところが、この植林券販売でつまづきました。これは慶讃事業を行う資金を全国から集めるための起死回生策だったのですが、寺院は復興途上にあり、そう簡単にお金が集まるものではない。教化と護山の一環として、植林券を販売して全宗門人の協力を仰ぐため、全国の寺院に協力を依頼しましたが、植林券の売れ行きは思わしくありません。教師と檀信徒に植林券を買ってもらい、それによって何とか財源を得ようと一生懸命声をかけましたが、全国から集まったお金は、目標額の一〇分の一にも満たないものでした。なかなか皆さんがそれに応えてくれなかったので、大変苦労をされたようです。
まず運転資金として一八〇〇万円を銀行から借りて始めたわけです。植林券が完売すれば約二億五〇〇〇万円が入ってくる予定だったようですが、せいぜい集まった額が一四〇〇万円ということでした。借りたお金は一八〇〇万円です。とてもじゃないが借りたお金の利息も払うのさえ容易でない。昭和二十五年に生まれたばかりの全国檀信徒協議会の会長、山口喜久一郎氏が、大の日蓮宗がこれでは恥ずかしいから、檀信協で一億ぐらいのお金をあつめようではないかと、総会の席上で決議した。掛け声だけは非常によかったのですが、これは結局空手形でした。檀信徒協議会は当時、頭ができていても下部組織が無いようなものでした。私が護法伝道課長の頃、昭和五〇年頃ですが、アンケート調査をしまして、護持会が全国の寺院でどのくらい結成されているか調べましたところ、約六〇%でした。護持会などいらないという寺も結構あるわけです。昭和二十五・六年頃は、全檀協はできても下部組織たる護持会が十分でないから、お金が集まる訳がない。七百遠忌の報恩感謝基金一億五〇〇〇万円でさえ簡単には集まらなかったんです。一億円あれば、事業もできる借りた金も返せるということでしょうが、そう計算どうりにはいきませんでした。この植林券問題はずっとその後尾を引いて、身延の法主が途中でお辞めになるというようなことにつながっていったようです。
立教開宗七百年とその以後
立教開宗七百年は、植林券問題がクローズアップされたため、本来の布教体制の方が疎かになってしまったかのようですが、決してそうではありません。報恩総決起大会が各地で行われていますし、全国に布教隊を編成し活動していますし、また日蓮宗新聞の前身ともいうべき新聞局もでき、文書をもっての布教を積極的に推進していくようになりました。更に、特筆すべきは『昭和定本日蓮聖人遺文』が完成出版されたこと、三派合同以後手掛けてきた『日蓮宗法要式』の編纂が完成したことです。宗門史に残るだけではなく、その後の教学の振興、法要儀式の確立に大きく寄与し、基本となっています。昭和二十八年には「出家の誓い」、「宗徒の信条」が制定された。これは制定委員会で三年越しの検討の結果決定した、本宗の宗徒が守り行う信仰基本である。同時に檀信徒の家の仏壇が正しく祀られていないのは、住職の怠慢による重大責任であると、その指導をせよとふれがなされています。
新興宗教の創価学会が雨後の筍のごとくにどんどんと蔓延していったのは、昭和二十年代の後半からです。創価学会は、昭和二十七年に法人格を取得して以来、折伏大行進をはじめた。その方法は折伏の名を借りた非常識極まりないもので、しかも蔓延の仕方は既成教団がびっくりするようなスピードであった。特に身延山を総本山と仰ぐ私ども日蓮宗の者にとりましては、これは何とかしなければならないという気持ちでしたが、当時は無防備に近い状態でありました。その攻勢は身延山の山門にまで大挙やってきて、口汚く邪教呼ばわりをしていく。ちょうどその頃山門の前に商店がありまして、その商店が火事になった。それみたことか、だから足元に火がついたなどといわれた。私ども学生でおりまして、消防隊として一生懸命小さな消防車で、山門のところにいって消火に努めた覚えがあります。あのときあのまま山門に火がついて、お山まで燃えたら大変なことになったであろうと今でも思い出すとぞっとします。あの北海道の小樽問答事件があったのが昭和三十年です。こうした刺激をうけて危機感が高まり、宗門としても理論武装をしていかねばならないとの認識から、創価学会破折のために立ち上がった人たちが次から次へと出てきました。邪教から正法を護ろうという意識の高まりの中で誕生したのが、護法運動です。
戦後の宗門の大きな布教の流れとして、まず復興ということが第一義でありましたが、ビキニ岩礁での水爆実験での第五福竜丸被爆を期に、「立正平和運動」が大きな柱となっていきました。大聖人の「立正安国」の精神を信仰運動としたのが「立正平和運動」です。世界で唯一被爆国である日本は、あの悲惨な体験から、再び戦争は起こすまじ、あらゆる武器の全廃、とくに原水爆の製造、実験、使用の禁止を広島長崎を中心に多くの人たちによって、世界に向けて訴えて来ましたが、我が宗門も、仏の慈悲と平等の教にもとずく世界平和実現を掲げて、平和運動を展開したのです。各地で檀信徒を巻き込んだ平和行進や慰霊法要が行われ、管長の名において国連をはじめ世界に向け平和宣言を発しました。
自らの「安心立命」は世界全体の平和があってはじめて確立するものでありましょう。そのためには、常に世界に目を向け、現代と言う時代を的確に把握することは、宗教者にとって重要なことです。日蓮宗はいち早くその点に着眼し、教学の振興はもちろん、現代社会に対応し得る研究機関が必要である、として「現代宗教研究所」を設置したのです。昭和三十九年のことです。この「現代宗教研究所」から「宗義大綱」解説書が生まれ、最も大切な「本尊」についても明確にしています。
昭和四十年に入って「立正平和運動」はその趣旨と精神を継承しながら破邪顕正を謳って提唱された「護法運動」へと引き継がれていきました。邪教創価学会の急進横惑から正法を護ろう、宗徒意識を盛り上げようというのが目的です。金子日威師、片山日幹師の総長時代は、全国で総決起大会が盛んに開催されています。やがて昭和四十五年「護法統一信行」が渡部日皓総長によって打ち出され、「信行必携」が発行され護法講師団が活躍し、全宗門的に、創価学会に備え信行を深めていった。「宗祖御生誕七百五十年」の前後です。
護法運動は、昭和五十六年の「七百遠忌」をその最中にお迎えし、昭和六十年まで二十年間続き一応幕を閉じました。その後、護法運動を発展させた形で提唱されたのが「お題目総弘通運動」十八年計画であります。目途を平成十四年にお迎えする「立教開宗七百五十年」におきました。当時は昭和七十七年といっていましたが、西暦二〇〇二年、まさに二十一世紀の初頭にお迎えする「立教開宗七百五十年」です。この運動は、一天四海皆帰妙法の理想に一歩でも近づくよう、宗徒全員が法華経弘通の担い手であるという自覚にたって、自らも信行を深め未信徒にも勧める、自行化他運動である。
このように戦後、「立正平和運動」「護法運動」「護法統一信行」「お題目総弘通運動」と信仰運動が継承されてきたが、大事なことは、自らの揺るぎなき信仰心と時代を見る目をしっかりもって進めることであろうと思います。今日の日本の状況、国民の意識をみますと、終戦を迎えた混乱時代とあまり変わっていないのではないか、と思えてなりません。
今日的問題点
つい先日、総理府がだした最近の世論調査(平成六年十二月)では、今の日本に不安を感じている人がどのくらいいるかといいますと、過半数を超えている。ご承知のように戦後大変な復興をいたしました。もう経済的にはまさに世界一だといわれるようになった。それが最近どうやら様子がおかしくなってきている。それに加えて自然災害とか、例のオウム真理教というような宗教の名を騙った殺人集団の出現で日本が悪い方に向かっていると感じている人が過半数を超えている。経済的な豊かさも、最近はどうもそうじゃないのではないか。あるいは治安の方も、世界に誇る治安状況であるといったが、いろんな事件がおきていることを考えると、これもまた大きな不安材料の一つである。政治は相変わらず混乱しております。そうしたことが国際的な信用を失墜させている。自然災害には強い備えがあったはずであるにもかかわらず、結果としては大変な災害をこうむっている。個人の生活は安定しているかというと、これもまた決してそうではない。いわゆる神話がくずれてきたということです。
日本の現在、そして未来に対する希望に大きな不安を感じているという人が過半数をこえているという総理府の調査が、昨年の十二月にでております。経済不安、政治不信、自然災害等と人心の動揺は、戦後の混乱期を再現したかの如くであります。そして、内には具体的には採り上げませんでしたが、いくつかの歴史的未解決事件や、講演の冒頭にも言いましたが、宗宝盗難事件があります。内外のこうしたことを無視して正しい信仰はありませんし、大聖人のお心に適うとは思えません。
この日蓮宗がどうあればよいのかということは、宗会議員や当局にすべておまかせをするのではなくて、教師一人ひとりが愛宗護法の念をもって真剣に考え、提案し、そして行動することが大事なんです。宗会は宗内の声を十分聞き、論議し、宗門としてのあるべき姿を考え、時の総長が舵取をしていく。そうすることにより、宗門は過ちなく機能し発展していくのであろうと思います。
立教開宗七百五十年は単なる記念日ではない。日蓮大聖人の死身弘法のご決意を二十一世紀の世の中に、あらためて示す新しい出発の時であると私は思います。だからこそテーマが「誓願」と決定したのではありませんか。それは教師全員が地涌の菩薩の自覚に立って、二十一世紀に対応できる宗門づくりと、正法法華経の広宣流布の担い手として、人心の浄化と争いのない世の中を実現していくことに力を尽くす事だと思います。
むすび
戦後五十年を駆け足で振り返り、特に終戦直後と立教開宗七百年前後の宗門の状況を中心に、話をしてまいりました。推進しつつあるお題目総弘通運動も、その最中にお迎えする立教開宗七百五十年慶讃も、一宗の拡大を計るためのものだけではなく、新しい時代感覚と国際的視野にたった、現代に生きる宗門を築き、お題目で世界全体の成仏を目指すためのものでなければならないと、思うのであります。「如我等無異」と仰せのみ仏の「誓願」は日蓮大聖人の誓願であり、我々宗徒の誓願であるはずです。宗門の過去半世紀の歴史は、平坦なものではありませんでした。むしろ問題多きものでしたが、それらのすべてを明日への糧として二十一世紀に向かって歩んでいこうではありませんか。
時間がまいりましたので、皆様のご健勝とご精進をお祈りして、私の話を終わります。ご清聴有り難うございました。
※本稿は平成八年三月二十五日、広島県福山市良縁閣にて開催された第二十六回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。
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