日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第30号:214頁〜 第二十八回中央教化研究会議 ←前次→

記念講演  救済宗教と現代社会
島薗 進
(東京大学教授)

一、「世俗化」論から「宗教回帰」論へ
 今日は「救済宗教と現代社会」ということで、現代日本で宗教のことを考えるということになりますと、すぐにオウム真理教のことが浮かんでまいります。オウム真理教は、新新宗教だということで、新新宗教とは何であろうか、これこそ現代の宗教で一番の問題ではないかと、こんなふうな雰囲気がマスコミなどでは広がっているわけです。それにも一理あるけれども、もうちょっと視野を広げてみて、世界の宗教の大きな動向の中で、オウムの事件もとらえてみたらどうか、そういうふうなお話をさせていただきたいと思っております。
 まず最初に、これは宗教学の中でも宗教社会学という分野になると思いますが、社会の大きな変化の中で宗教はどういう位置を占めていくであろうか、どういう機能を果たしていくのであろうか、どういうふうに形を変えていくのであろうか、こういうことを考える。社会とのかかわりで宗教を考える宗教社会学、その分野で話題となっていることをまずご紹介しようと思います。
 ブライアン・ウィルソンという人がおりますが、この人がイギリスの宗教社会学者で、最も活躍したのが六〇年代から七〇年代にかけてです。この人はいろいろなことを研究しておりましたが、その中心は世俗化論でした。そこに紹介しました『現代宗教の変容』(邦訳、ヨルダン社)は一九七六年の本ですが、その前に一九六六年に『世俗社会の宗教』という本を書きました。これはペンギン文庫にも入ったりいたしまして、大変影響力の大きな本でした。ただし、邦訳はありません。その六六年から七六年ぐらいまでの間、世俗化ということを唱えていた。では世俗化とはどういうことかというと、社会の中で、宗教の影響力が次第に衰えていくということです。近代化が進み、社会構造がますます合理化していくに従って、宗教の影響力が衰えていく。宗教の分担する領域がどんどん狭まっていって、なくなるのではないけれども、影響力が衰えていく。ですから非常に単純化していえば、宗教衰退論というふうにもいえる。今世界でいろんな宗教があるとすれば、それは社会の合理化がまだ進んでいない社会環境、そういう国々、あるいは進んだ国々、先進国の中でもまだそういう合理化の影響が十分に及んでいない地域なり社会階層の人が、まだ宗教に固執しているというのです。ただし、最も高度に合理化した社会でも、宗教が完全になくなるわけではない。なお宗教に固執する人はいる。しかし、それは公的な影響力、多くの人をともに動かす、社会的なものごとの決定に影響を及ぼすというものではなくて、プライベートなものになる。プライバタイゼーションと申しますが、私ごとになる「私事化」と訳したりしますが、私的なものになってしまう。そういう形で宗教の社会的影響力はどんどん減っていく。政治にしろ、教育にしろ、科学にしろ、あるいは経済にしろ、昔は宗教と密接に結びついていた。ところがどんどん政治固有の論理、経済固有の論理、あるいは科学的知識そのものが追求されていくと、今までまじりこんでいた宗教的なものがどんどん排除されていく。そういうふうにして宗教の領域が狭まっていき、最後にはプライベートな狭いところへおしこめられていく。こういう議論が世俗化論であります。六〇年代から七〇年代にかけてそういう議論が大変強かった。
 ところが宗教社会学の領域で、ある時期から議論の傾向が変わってくる。そのターニング・ポイントとして、ダルエル・ベルという、これは宗教社会学者というよりも社会理論家、社会哲学者でありまして、『イデオロギーの終焉』という本を六〇年代に書き、アメリカでは大変影響力が大きい社会哲学者です。この人がある時期から、これからの世の中では宗教が大切になるのだといいだしまして、かなり長い論文ですが、「宗教への回帰?」という論文を一九七七年にだしました。これは、後に『二十世紀文化の散歩道』という本に収められました。邦訳はダイヤモンド社から出ています。
 これは最初からブライアン・ウィルソンに対する反論から始まっておりまして、世俗化論は間違いであるというのです。確かに社会は合理化していく。政治は政治、経済は経済、政治は民主主義でやっていくとすれば、宗教の介入に対してある限度がある。政教一致はもうできない。そういうことは確かである。だから社会の合理化によって、世俗化は部分的に確かに起こっていく、といいます。しかし社会の論理と文化の論理とは必ずしも一致しない。むしろ矛盾することがあるのです。つまり社会が合理化していくに従って、文化はそんなに合理化されてはたまらんという反応を起こすに違いない。そういう理論です。つまり社会が合理化されていけばいくほど、人間にとって最も根本的な問題、実存的な問題が、答えられなくなってくるといいますか、そのことがはっきりしてくる。例えば死とは何であるか、人生の意味とは何であるか、あるいはなぜ人と人とが争わなければならないのか。こういった人間永遠の問題に対して、社会の側にそれに応答する力がなくなってくる。社会の動きに従って文化が進んでいく、そういう方向は確かにあるかもしれないけれども、そういう方向へ進んでいくと、文化の側に、人間の根本問題に答える力がなくなっていく。そういうことです。
 特に近代文化は個人を大変重視する。自己実現とか個性の開花、個人的自由の全面的な拡大、そういうことを求めていくわけです。政治的にもそれらを第一の目標にして運動が起こっている。今でも人権を中心にして、世界の政治、一つの大きな動きをもっているわけですが、これは個人の自由というものが根本にある。あるいは近代芸術を見ていくと、個人の体験の中からその最も本来的なものがつかまえられるのだということで、あらゆる宗教的な戒律とか、従来の社会慣習などを無視して、根源的な体験を求めて芸術が進んでいく。当然ポルノ的な表現に美の極致があるというような考えも起こってくる。ポルノというのはいかにも生活をこわすように見えるけれども、そこにこそ最も本来的な体験があるのではないかと思う人が出てくる。それが近代文化でありますが、そういう近代文化の進行がやがて限界にくる。もうそれでは社会が成り立たなくなっていく。あるいは人間の生きがい、先ほど申しましたような人類永遠の問題、実存的な問題というものに対して、とても答えが見つからない、そういう状況にいく。そうすると結局人間が戻っていくのは宗教ではないか、そういうのがベルの論旨です。
 この場合、ダニエル・ベルが考えている宗教とは、人生永遠の問題、実存的問題といいますか、そういうものに答えることができるものということです。これは私自身そういう問題、宗教というものをそういうところでとらえるということが、そこだけで宗教はとらえられないけれども、そこに宗教のとても重要なポイントがあると思っております。そういうところを特に取り出して、そこに力点をおく宗教というのが、私の言葉でいうと「救済宗教」ということになると思うわけです。
 つまり「救済」、「救い」ということが問題になるのは、人間が根本的な限界をかかえているからだ。避けられない苦悩というものに人間が直面するからです。普通私どもは、そういうことはあると知っていても、そんなことにふだんからこだわっているとどうもやっていけない。人生に深刻なことはあるけれども、ふだんからそんなに深刻ぶってはいられない。もっと気楽にやっていこう。そんなことを思ったりするわけです。
 救済宗教とは、そういう平穏な日常を突き破る、何か人間の根本的な限界みたいなところに目を向けさせるわけです。そういうところから人間が生きる根本的な生き方、救いの道が見えてくる。そういうことを説くのが救済宗教です。
 歴史的にはキリスト教とか、仏教とかイスラムとか、そういう歴史宗教が体系的な救済宗教の教えを説きました。そして近代社会では歴史宗教を土台にしながら、どちらかというと、社会の下層、民衆的な勢力をバックにもちながら、セクトや新宗教などさまざまな救済宗教運動が起こってきました。歴史宗教と近代の救済宗教運動をあわせると、今でも世界の人口のかなりの部分、過半数は優に越えて、何十億というレベルで救済宗教の教えに従っている。そういうものが念頭におかれています。ですからベルのいっていることは、救済宗教だけがこれから力をもってくるであろう、世俗化の勢いに対抗するであろうというのではないのですが、そういうところに力点をおいた説だと思っております。
 ベルが指摘していないさまざまな問題があります。例えば、七〇年代に大きく進行したことは、近代科学、あるいは近代科学と結びついた合理主義的な文化が限界にきているという意識です。つまり近代科学の進歩によって人間の知識が増大して、環境を人間に都合がいいようにどんどん変えていける。それによって人間の福祉が増進してより幸せな社会がくる。そうするとかつてのように、宗教にしばられないでもっと自由な生き方ができる、こういう科学信仰みたいなものがあったわけですが、七三年にオイルショックがありまして、それから資源環境問題というものが、ますます切実な問題になってまいりました。それは七〇年代ごろからすでに二十数年たっても一向に解決の見通しがたたない。むしろ人類はますます破滅的な方向へ向かっているのではないかと思わざるを得ないようなところもある。そういうふうな資源環境問題が、科学信仰、合理主義信仰というものを突き崩したということもあります。これはベルの論文の中にはあまり出てこないことです。
 そして近代科学の信仰は、人間の力に信頼をおいている。その意味では人間中心主義ともいえる。ヒューマニズムともいえるわけですが、そういうものの失敗、そして人間の知識によってよりよい社会を計画的につくっていけるというのが社会主義でした。これも科学的社会主義というようなことを申しまして、それが多くの信奉者を得ていた。正しい歴史についての知識、社会の進歩の法則についての正しい知識をもって社会を動かしていけば、理想的な社会、ユートピア的な社会がやってくるのだというのが社会主義の背景にあったわけですが、とてもそんなものではない。人間の知識はとてもそんなに信頼できるものではない。むしろ市場原理のようなものにまかせる方が、人間の頭で考えたことによって操作していくよりも社会がうまくいくのではないか、そんな考え方の変化も起こってまいりました。
 これらすべて人間中心の合理的な知識、そういうものの限界を自覚させることでした。そういうことは七〇年代から八〇年代をとおして、ずっとそのまま進行してきたことであって、結局大きくいって宗教衰退論が衰退し、かわりに宗教回帰論、宗教復興論が力を増してくるのがここ十数年の傾向であったと思います。
 もう一つつけ加えますと、この時期は、国民国家が後退していくという時期でもありました。いまだに国家は絶大な力をもっているけれども、今では経済や情報はどんどん国境を越えていく。以前のように国家がまとまっていろんなことを制限していくことはできなくなってきた。国家の秩序を市民に強制していくことがなかなか困難になってきた。そういうわけで、もう国家秩序を守りなさいというのでは足りない。新しい秩序、国民国家という秩序のイデオロギーというのでしょうか、それが後退していく。これは冷戦構造が国民国家を支えていたという面もありますが、それに対して新しい秩序の基盤が求められている。国家をまとめていくにも、もう以前のように世俗的なナショナリズムでは足りない。宗教的なナショナリズムが必要になってきた。
 例えばアラブ諸国でいいますと、一九五〇年代、六〇年代というのは、アラブ人たちが団結して自分たちの国家をつくっていくのだ、こういう路線が強かったわけです。エジプトにしろイラクにしろそういう路線で進んできた。ところが七〇年代から八〇年代にかけて、いまやイスラム国家、アラブとしてのアラブ人という民族的なアイデンティティで国家をまとめていくのではなくて、イスラム的な基盤で国家をまとめていくことが求められるようになった。こういう動きもあります。こういうようなことが八〇年代に宗教社会学で盛んに議論されたことでした。

二、宗教復興の諸形態
 そこで、世界的に見て、宗教へ帰っていく。宗教復興だというのですが、どういう形態があるかというと、大きくいって三つの流れに分けられるのではないかと思います。第一は、いわゆる「ファンダメンタリズム」、これは原理主義とか根本主義と訳されています。こういういい方はそもそも外からの決めつけだというふうに、例えばイスラムの人たちは反発しておりますが、仮にこの言葉を使っておきたいと思います。人によってはファンダメンタリズムという言い方はふさわしくない、宗教的ナショナリズムというべきだというような人もありますが、一応ファンダメンタリズムという言葉でいっておきたいと思います。
 これは政治的な影響力をもつような救済宗教運動といっていいと思います。社会全体を宗教的な原理によってつくりかえていくことを視野におさめた救済宗教運動です。この出発点となりましたのは、非常に大きなモメンタムといいますか、勢いをつけたのは、おそらく一九七九年のイラン革命です。すぐにはそうなりませんでしたが、ホメイニ師の指導のもとに、イスラム共和国というものが今打ち立てられております。この動きはイランだけではとどまらなかった。革命の輸出は常に起こるわけで、それを防ごうと思ってイラクは盛んに戦争をしかけたわけです。しかし今、アラブ諸国、イスラム諸国の間に、イスラム共和国をめざした運動が広がっております。
 世界が最も注目しているのは、アルジェリアかもしれません。アルジェリアはもう選挙をすればイスラム派が勝ってしまう。しかしそれをすれば自由主義が奪われてしまうということで、今矛盾した状態でありますが、軍事独裁政権によって自由主義を守るという政策をとっている。おそらくこれはいつまでもつかわからない。世界が注目しております。ほかにも北アフリカのイスラム諸国は、いつイスラム共和国に転換するかわからない。東の方へきますと、アフガニスタンはソビエトが介入したけれども、結局イスラム派が勝って、イスラム的な国家体制に進もうとしている。隣りのパキスタンあたりもそういう傾向がみえる。そういうふうに北アフリカからバングラデシュあたりまで、イスラム共和国をめざした運動が起こっております。
 そういうふうに社会が変わってきますと、どういうことになるかというと、宗教的なルールが社会の中で通用するようになるわけです。例えば今でもいくつかの国ではお酒を飲んではいけない。自由主義国家に協力しておりますサウジアラビアでも、イスラム的な国家ルールがありますので、そうであります。もちろん食事のタブー、豚などを食べてはいけないのは当然です。それから断食、ラマダンなどはきちんとやるし、毎日決まった時間に礼拝をする。礼拝をするためにはモスクに集まってやるべきである。どんどんモスクの整備が行われていく。そしてモスクが地域社会の支えになっていく。
 日常生活では、例えばひげをたくわえなければいけない。服装では女性はベールをかぶらなければいけない。それはコーランに書いてあるとおりだと。家族のルール、夫婦生活のルールなども大変厳しく決められていく。女性は家庭の役割が中心になっていく。そしてイスラムには助けあいの掟もありますので、困った人を助ける。従来ならば企業の中で困った人があると労働組合が助けていた。ところが社会主義が後退していく、国民国家が後退していくと、労働組合はあまり助けにならない。労働組合的な組織もイスラム的な運動が支えていくようになる。そういうことになる。たぶん日本人などがそういう社会にいって寂しく思うのは、大衆娯楽文化というものが乏しい。テレビなどもおもしろい番組がない。もしかすると今日本でもテレビは見たくないという人がどんどんふえているのかもしれません。その方が落ち着いた日常生活が送れるのかもしれない。そしてみなが何が正しいかわからないで迷っている社会に対して、これが正しいということが通用している社会、そういうものが求められているわけです。そういう社会は、すべての近代化に反発しようとしているのではない。近代化は断固進めていく。しかしその近代化を進めていくことと、イスラムの掟に従うということは矛盾していないのだという考えです。
 これは西洋諸国からいうととんでもないことですが、かつて多くの社会が近代化していくときには大変な矛盾を乗り越えて近代化していったわけです。戦前の日本などでも、多くの制限がある中でようやく国家が国民を統制しながら近代化していった。そういうことを考えますと、イスラム諸国がとっている路線を、全く間違ったものであるというふうに見るわけにもいかないのではないかと思います。
 キリスト教の中でもファンダメンタリズムと呼ばれる勢力がかなり台頭しております。これはプロテスタントの中で特にそうですけれども、カトリックの中にも似た傾向があります。これは国家体制をキリスト教へ戻すのだというような運動はあまりないわけですが、しかし国家政策に影響力を及ぼすことをめざす、そういうことは盛んに行われております。世界的に一番大きな問題は、妊娠中絶、堕胎の禁止の問題であろうと思います。この自由化に反対しているのは宗教勢力でして、最も強固に反対しているのはカトリックです。イスラムも反対しています。それからプロテスタントの中では、ファンダメンタリストと呼ばれる人たちが反対している。要するに、人間の命を守る。もうすでに受精した命が母体の中に宿っているではないか。体の外に生まれてくれば初めて人間だというのではなくて、体内にあってもすでに人間ではないか。その人間の命を破壊するということは、そもそも宗教の根本である、あるいはキリスト教の根本である「人の命は聖なるものだ」、そういうことをおかしている。神に与えられた命をおかしているのではないかという考え方がベースにあるわけです。
 しかしそれはそれだけではなくて、妊娠中絶の賛成派は、女性の自由ということを強く主張している。そのこととも関係してくる。つまり家族のあり方、男女の役割の区別のあり方にも関係してきます。宗教的な立場をとると、安定した家族を守って、女性は母親として子供を育てることに専念してほしいという考えをもつ傾向が強くなってきます。そこで妊娠中絶の問題とは、女性が母親としての役割を守るべきである。そういうことを果たした上で、女性の自由をいってほしいという考えかたにつながってくるわけです。
 ですから「家族の復興」ということが世界的に大きな問題になっている。近代化が進んでいくと、どんどん家族が解体していく。独身者がふえてくる。あるいは子供の数もどんどん減ってくる。あるいは同性愛者がふえてくる。そういうことが社会秩序の解体につながっていくのではないか。そういうことに対して、伝統的な家族を守ろうという運動も、ファンダメンタリズムと結びついてまいります。
 もう一つ大きな争点になりますのが、宗教教育の問題です。これも世界で今さまざまなやり方で処理されているわけですが、近代国家は政教分離を柱としている。日本などは最もそれが徹底して行われておりますが、したがってあらゆる宗教教育は行わないということになっている。国によっては一つの宗派的な宗教教育、例えばキリスト教の教育を行うのはやめにして、いろんな宗教について公平に扱うのならよいというやり方をしているところもある。
 ところが、それもいけないというのが日本であります。それに対して、アメリカでも公立学校は宗教教育を行わない。アメリカ、フランスなどは宗教教育は行われていないわけですが、フランスは宗教教育の時間を設けまして、学校以外のところで宗教教育を自由にやるべしとなっております。そうではなくて学校の中で祈りの時間を設けよ、瞑想の時間を設けよ、どんな宗教でもよいから、その時間静かに心をしずめて、宗教的な反省を行うようにと、そういう時間を公立学校の中に入れるべきだということを、ファンダメンタリズムの人たちが主張しております。
 こんなふうに、宗教教育を行うかどうかということも大きな争点になっております。これはアメリカなどではかなり大きな問題になっております。共和党は相当程度、宗教右翼(レリジャス・ライト)に支えられている。それらの勢力がそういうことを主張しているわけです。
 以上、今イスラムとキリスト教のことを話ましたが、世界が注目している中東地域では、イスラエルの中でも宗教的な勢力がますます強まっている。最初ユダヤ人たちがイスラエルに帰るというシオニズムという運動をしたときは、あまり宗教的ではなかった。宗教的な人達はシオニズムに反対していた。それに対して、社会主義に近い、あるいは世俗的なナショナリズムに近い人達が、自分達の国家をもつのだといってパレスチナに帰っていったわけですが、今ではシオニストよりも宗教的な国家主義者が強くなってきている。あちこちに入植運動をして、イスラムに対して絶対聖なる国土を譲らないのだというふうに主張するようになっている。これは大変難しい問題を引き起こしているわけですが、ユダヤ教の中にもそういうふうなファンダメンタリズム的な動きがあります。
 それからインドですが、これは大変な紛争の火種をかかえておりまして、ヒンドゥー教とイスラム教が対立している国です。ヒンドゥー教のナショナリズムというのが近年急速に成長してまいりまして、イスラムとの間に暴動的な争いが起こるようになってきた。また北インドにいきますと、パンジャブ州にはシーク教徒 これはヒンドゥー教とイスラム教が折衷されたような宗教ですが が分離独立運動をしている。それに対して、独立させまいとして、インド政府が介入している。ここでも血なまぐさい闘争が盛んに行われております。ジャムカシミール州にいきますと、イスラム教徒の分離独立運動がある。またインドの南のスリランカにいきますと、仏教徒とヒンドゥー教徒の間に難しい闘争がある。
 インドは独立以来、国民会議派というネールやガンジーがつくってきた勢力が、政教分離の路線でやってきた。しかし今それを維持できるかどうかが大変難しい問題になってきております。
 以上、世界の政治の困難な問題が宗教がらみで広がっていて、米英仏流の近代的な原理、政教分離的な原理ではもうやっていけないのではないかというところまできているということを申し上げました。その背景には、世界の多くの地域で下からの宗教運動が盛り上がっている。もう西洋先進国的な路線で近代化を進めていくというのはたくさんだ。ああいうふうな国に自分たちはなりたいと思わない。そういう声が世界の草の根にあるということを考えなければいけない。
 こんなふうに、ちょっと危険な運動だけが救済宗教の政治的な動きではなくて、民主主義、自由主義と、ある程度共存できるような形で、宗教の影響を増していこうという運動もみられます。例えばポーランドの社会主義からの解放の運動は、ワレサ議長の「連帯」によって進められてきました。連帯はワレサ議長自身が熱心なカトリックであったわけですが、カトリック勢力と結びつきながら解放運動を行ってきた。また、中南米のカトリックの中には解放の神学というのがあって、今の抑圧的な世界の政治のあり方、経済秩序のあり方を克服していくには、宗教的な信仰に基づいた解放の運動を進めていく必要があるのだ、そういうことが唱えられております。解放の神学の動きは、アジア、例えばフィリピンなどにも大きな影響を与えております。今、ミャンマーなどでも民主化の動きが起こっておりますが、そこでは仏教勢力、お坊さんたちが民主化のために運動を行ったりしております。
 こういうぐあいに、自由とか人権と合致する方向でのファンダメンタリズムというよりも政治的な宗教運動、そういうものもあちこちで見られます。以上が第一の動き、ファンダメンタリズム、宗教的なナショナリズム、あるいは政治的な影響力をもった救済宗教運動ということです。これはどちらかというと、先進国でない地域、第三世界を中心にそういう動きが起こっている。世界の政治の上で大きな意味をもつものです。
 世界の宗教復興の流れの二番目は、「個人的救済宗教運動」と書きましたが、これはある宗教を信奉する人が、仲間をつくって、一人ひとりその仲間をふやしていく。そういう集団をつくっていく運動です。日本でいったら新宗教、西洋諸国でいうと、キリスト教の中でそういう分派活動をする運動ということで、セクトの運動ということになります。
 今こういう運動が最も盛んに起こっている地域はどこであろうかということですが、十年前だったら、これは韓国だったかもわからない。今はもしかすると中国かもわからない。あるいはロシアかもわからない。あるいは中南米かもわからない。中南米では以前からカトリックが強かったわけですが、どんどんプロテスタントの個人的な回心運動が起こっている。これは主にぺンテコステ運動、あるいはカリスマ運動という形をとっているのですけれども、そういうことが起こっております。
 日本の中でも、沖縄はもうかなり中国、韓国的なそういうキリスト教の影響を受けるようになっていると思います。韓国へ行きますと、ソウルにヨイド純福音教会というのがありまして、これは世界最大の教会といっています。一つの教会だけで六十万とかそれ以上というそれほどの信徒をもっている。そんな教会があります。韓国へまいりますと、どの村にいっても教会があります。そして夜になると教会の十字架に光がともって、あちこちキラキラ光っているという状況です。人口の三〇パーセントといわれておりますが、かなりの勢力をもっている。これはインテリ層にもかなり入っている。教育の高い階層にも入っていると同時に庶民の運動でもある。庶民的な層ではさかんにいやしの運動、病気を治す運動がキリスト教の中で行われております。そういう勢力こそ最もよく伸びているわけです。ヨイド純福音教会というのは日本にも支部がありまして、東京にも大阪にも支部がある。それには韓国系の日本に住んでいる人が中心ですが、日本人の信徒もふえているようです。
 こういうことを見ておりますと、従来のようにキリスト教というのは西洋の宗教だといえるかどうか問題です。韓国で最も勢力のある宗教はキリスト教ですし、もしかすると中国も将来そうなるかもしれない。十数億の国ですから、もちろん仏教もこれから台頭してくるけれども、東アジアのキリスト教というのも相当大きな勢力になると思います。
 私の知り合いにカトリックの神父さんがおりまして、その人はシカゴで神学の教育を受けたのです。その人の修道会の寮ですが、そこに何日間か泊めてもらいました。そうすると、その人がその寮に住みながら勉強していた十数年前は、大体そこにいる神学生は西洋人だった。ところが今その寮はアジア人が多い。アメリカというのは世界のいろいろな人たちがどんどん来やすいところですが、そこでキリスト教徒というと、白人の宗教というふうにはもういえないかもしれない。
 新宗教ということでいうと、日本の新宗教が海外、日本人以外の人達に受け入れられ始めたのは六〇年代であり、ブラジルとかアメリカに進出して成功したわけですが、今では創価学会などは世界中へ広がっております。公称ですが数百万人単位で日本の新宗教の信徒が外国におります。アメリカ起源の新宗教も、モルモン教とかエホバの証人とか、世界中に広まっております。韓国起源の統一教会も世界中にあります。
 そういうぐあいに、従来の伝統的な宗教とは違う宗教集団、これもどんどん広まっている。これは二十世紀の後半に非常な勢いでそういうことが起こっているのです。
 宗教復興の動きの三番目としては、「新霊性運動・新霊性文化」をあげたいと思います。これは私がつくった言葉なのですが、どういうことをいおうと思っているかといいますと、今、大都市の本屋さんに行きますと、宗教書のコーナーの横に、時には宗教書コーナーより大きく、精神世界というような本を集めたところがあります。それはもう多くの人にとっては独自の領域、宗教に近いけれども、宗教とはちょっと違う領域と考えられていると思うのですが、その精神世界の運動みたいなものを考えているわけです。これを新霊性運動と、新霊性文化と呼べないかということです。
 どういう本がおいてあるかというと、最近多いのは、いやしの関係です。体をいやす、心をいやす、そのためにはもちろん薬を飲んだり、お医者さんに行ったりするのもいいけれども、あるいは精神科医にかかるのもいいけれども、それよりも精神世界からいろいろな知恵を学びとる、あるいは技術を学びとるということです。例えば気功もこれに関係しております。気功はいやしの大変重要な手段でもあります。ヨーガもそうです。そういうぐあいに、身体を使って、呼吸法などを使いながら、自分を変えていく。身体を変えて、心を変えていく。身体と心は離れていない。心身一如、心身相関の考え方でやるのです。
 最初は健康であればいいというようなことでしたが、だんだんもっと奥深いものを見つけていくのだということになる。そうすると神秘主義のようなものにつながっていく。世界中の宗教がもっていた神秘主義的なものが見直される。仏教の中では、禅とか密教にそういう要素が強いので、そういうものが見直される。神道の中では、歴史的に政治化した神道よりも、もっと自然に親しむ神道、日本の国家ができる以前の神道ということで、古神道というようなことがいわれたりする。
 あるいは個々人が霊的なものに目覚めて、自分の霊性を伸ばしていく。そうするとシャーマンになるのだということで、シャーマニズムというものが見直されていく。西洋の伝統でいうと、シャーマニズム的なものはどういう形で残っていたかといえば、たとえば魔女の運動だった。これはキリスト教がつぶしたのだけれども、十何世紀まで残っていた。その魔女の集団を今復活させる。大体女性たちだけです。当事者たちはウイッチ(魔女)ではなくウイッカといいますが、その魔女運動みたいなものも起こっている。これはキリスト教的な父なる神ではなくて、女神を崇拝する。それからシャーマニズムとしては、アメリカ大陸でいうと、西洋人が入ってくる前のいわゆるインディアン、ネィティブ・アメリカンの宗教を復興させるということで、カリフォルニアなどでは、週末にネィティブ・アメリカンの主催するセミナーが屋外で行われる。そうすると白人のどちらかというと教育程度の高い人がこぞってそれに参加するというような現象が起こっているのです。
 これは最初はそういうふうに精神世界 これはアメリカでいうとニューエイジと呼んだりするわけですが、そういう書物に触れる、あるいはそれだけではなくて、ビデオとかCDとかにも、そういうニューエイジのジャンル、精神世界のジャンルというものがあります。ニューエイジのミュージシャンという人たちもいます。日本ではたとえば宮下富美夫というような人が今盛んにそういう路線で活躍しています。
 最初はそういうぐあいにメディアから入っていくわけです。ですからそういうジャンルのベストセラーが次々に出てくるわけです。今このジャンルで一番はやっている本といってもいいかもしれませんが、ジェームズ・レッドフィールドという人の『聖なる予言』という本が角川書店から出ております。これは精神世界の考え方を小説の形で述べている。舞台はペルーです。ペルーというのはインカの滅びた文明があるということもあって、精神世界では好まれる地域ですが、そのペルーで古文書が発見された。これは紀元前六〇〇年に書かれた古文書の写本が発見された。それにはどういうことが書いてあるかというと、二十世紀の最後の二十年間に人間社会が大変革を起こす。それで人間が変わっていく。人類が新しいレベルに変わっていく。そのための十の智慧が写本に書かれている。ところがペルーの政府を中心として、おそらくアメリカ帝国主義などがそれをじゃましている。それが世界に知られるのを恐れている。ちょっとオウム的な世界に近いところがあるわけですが、その中で何とかその十の知恵を学びとっていく。そういう冒険的な話です。冒険の中にニューエイジ的な考え方がちらちらと書かれている。
 これはごく最近でたものですが、アメリカではもうすでに二百万部ということです。日本では翻訳されて半年ぐらいの間に六十万部でている。新宿の紀の国屋書店の前で配っていたビラをもらったのですけれども、この本をめぐってセミナーも行われている。実は『聖なる予言実践ガイド』という本もでているのです。「聖なる予言」というのは小説ですが、それに従って知恵を獲得していくガイドブックもでている。これはレッドフィールドともう一人の人がつくった本です。それに従って、訳者の山川さん、この人は日本の精神世界の運動のかなりリーダー的な人の一人ですが、その人がセミナーをやる。こういうものに限定募集、「定員となり次第締切」と、こんなことをやったりして広めていくわけです。
 こういうぐあいに、書物を読み、セミナーとかワークショップというようなものに参加する。ワークショップというのが今たくさんあちこちで行われております。これはそういう筋の代表的な本、今、大書店に行くとおいてある『フィリ』という雑誌があります。年に何回か出ているのですが、その別冊で『ワークショップカタログ』というのがでておりまして、最初は東京から始まりましたが、今大都市だけでなく、全国の都市でさまざまなセミナーとか講座とかワークショップというのが行われています。こういうものに参加していく人がいるわけです。
 これはその一つですが、たくさんこういうのが何十と並んでいるわけです。例えば「霊気」というのがある。これはウスイミカオという日本人が、最初ハワイに行って、アメリカで広めた。それが今ではアメリカの宗教として広まっている。そしてアメリカ人で「レイキ」を修得して、日本へ出かけてきて「レイキ」のセミナーをやる人がいるわけです。そしてアメリカから逆輸入された「レイキ」を習っている、教えている日本のリーダーもいる。こういう人たちが月に何回かセミナーをやる。こんな形で広めたりしているわけです。
 こういうのが私の考えている新霊性運動ですが、大体イメージはもっていただけたと思います。こういう人たちがどういっているかというと、もう宗教の時代は終わったのだと。なぜかというと、宗教というのは、人間の自由を抑圧するところがある。近代を通過して自立していく現代人にとっては、もう宗教に従っていくことはできない。宗教は人をしばるし、人を依存させる。そして神様とか教祖とか、そういうものに人間が従属する。あるいは指導者であるとか僧侶であるとか、そういう人達に従わなければいけない。
 そうではなくて個々人が独立して、それぞれに大事なものを探究していくのだ。それはもう宗教とはいえない。むしろ個人が自分の中にある「霊性(スピリチュアリティ)」を大事に育てていくべきなのだ。自分を大切にしていく。それによって一番大事なものを得ることができる。自分を変えていく。そのためには、今ある意識の状態、生まれてから家族や学校でおしつけられてきた、現実とはこうだという固定観念、あるいは自分はこうだという固定観念を破っていかなければならない。そのためにはまず意識を探究する。さまざまな意識の可能性を探究していくべきなのだ。異次元のリアリティーというようなものに接近していくべきだ。あるいは意識の中でいうと、無意識的なもの、あるいは個人の無意識を超えたようなレベル、そういうものに向かっていくべきだ。そういうことによって本来の自己というものが見つかる。それは本来の自己であると同時に、地球的なもの、宇宙的なものにつながっている。決して何々宗、何々教というものではなくて、人類的なもの、あるいは宇宙にいる別世界の存在とも共通するような、何かそういう真理に近づいていくのだ。そういうことを主張するわけです。
 今こそ人類は新しいレベルに達しようとしている。近代が終わったというのは、わずか二、三百年の変化、時代が終わったというようなことではなく、もっと長い二千年の人類文明、あるいは農業文明以来の何千年という人類の文明が終わって、もっと新しいレベルに人間は今向かおうとしているのだ。そういうことからいうと、従来の伝統ある宗教といっているけれども、せいぜい二千年ぐらいの歴史、三千年ぐらいの歴史しかない。もっと深い人類の精神性、霊性というものへ向かっていく時代にきているのだ。こんなことを主張するわけです。
 先ほどの『聖なる予言』という本は、アメリカでベストセラーになりますと、一、二年で日本に翻訳されてベストセラーになるというぐあいに、この運動は国境を越えております。ですからグローバルな運動といえる。アメリカのニューエイジの本屋で見られるものが、一、二年ぐらいずれて日本に見出され、あるいは韓国、ブラジル、ヨーロッパでも見出されるようになってきております。ですからこれは情報社会ということに深いかかわりがある。情報産業ともかかわりがあるし、世界的な情報の流通ということも、そういうものに接しやすい先進国の住民が、そういうものを通じて連帯感をもっている、そういうふうにもいえると思います。
 以上、三つを世界的な宗教復興の流れととらえるわけです。新霊性運動は、自分たちは宗教ではないといっているけれども、宗教概念を広くとれば当然宗教的なものに入ってくると思いますので、宗教復興の運動といっていいと思います。少なくともこの人たち、またはこういうものに共感する人たちは、近代合理主義や唯物論には反対するといっているわけですから、宗教的要素の濃い運動といっていいと思います。ただ宗教教団という形をとらないので、政教分離にもひっかからないということがある。ですから学校の中でこういうことを、例えば心理学の先生が、トランスパーソナル心理学というようなものが今どんどん広がっていまして、これはほとんど宗教に近いのですけれども、アカデミズムの中で教えることができるわけです。それから企業研修をやる場合でも、禅の研修とかいうと、これはキリスト教徒がいやだというかもしれない。ところが、これは心理学に基づく精神性を高める運動だということになると、なかなか反対しにくいし、法律的にも問題がないということで、宗教と呼ばれることをいやがる人が今ふえていると思いますが、それにはそういうような理由もあると思います。
 そんな形で、ワークショップとかセミナーというのは、単に個人を集めるというわけではなくて、場合によっては制度の中に入ってくる。そういうものが学校の中で行われたり、大企業の中で行われたりするということが起こってきております。企業がクリエイティビティを増していくには、精神的なものが必要だ。どうやって精神的なものを会社の中へ持ち込むかというと、セミナー、講習会を開く。その場合にどういう講師が呼ばれるかというと、いくらかなりと精神世界的なものに親しみをもった人が呼ばれるということが起こっております。それはアメリカでも日本でもそういうことが起こっているのです。

三、日本の新宗教と新霊性運動
 ここで日本に話を移しまして、日本の状況をどう見るか、日本の中で宗教復興をどう見るかというと、さしあたり新宗教と新霊性運動が目立つということになると思います。他の地域では、歴史的なイスラムとかキリスト教、あるいはタイやミャンマー、あるいはスリランカでいえば、仏教復興ということになるわけですが、日本ではむしろ新宗教という形ででてきている。ただ新宗教の中にも創価学会は仏教でありまして、自分たちも仏法と主張しておりますし、歴史的に見ても法華経の伝統をひき、日蓮宗の伝統をひくということが明らかでありますから、戦後には日本では大仏教復興運動が起こったといえないこともないけれども、それと並んで神仏習合的な大本教とか天理教とか、そういう系統の宗教も大変伸びたので、日本ではそういうものを合わせて新宗教と呼ぶことになっています。これは大乗仏教の伝統と結びついたシンクレティックな宗教の土壌というものが東アジアにあって、そういうところで宗教が大衆化してくると、新宗教というような形で出てくるといっていいと思います。
 新宗教の中で、先ほどいいました世界的な宗教復興の流れというのは一九七〇年代からだとすると、日本の中では新宗教もその時期から新しい流れに変わってきたということがいえると思います。それはいわゆる新新宗教というものがでてきたということです。新新宗教というとオウム真理教が大変目立ったわけですが、オウム真理教とか幸福の科学というのは、一九八〇年代にでてまいりましたが、もうちょっと古くでてきたものもあります。真光のような手かざしの宗教とか、オウム真理教の麻原が修行をした阿含宗というようなものも七〇年代以降に大発展をとげたということで、新新宗教とよばれています。これらに共通してどういう特徴があるかというと、まず若者の入信が多いということです。それまでの新宗教では、例えば創価学会は、どちらかというと青年層も多かったけれども、立正佼成会とか霊友会というと、まずは中年の主婦が中心というふうに考えられていた。ある程度人生の悩みにぶちあたって、家族生活とか職業生活をやりながら、そこで体験する難しい問題を解決しようと思って宗教にかかわる、こういうのが旧新宗教であったわけですが、戦後に発展したそういう旧新宗教は七〇年代になるとあまり伸びなくなってきて、どちらかというと高齢化の傾向があるかもしれない。
 それに対して今度は二十代を中心とした若者のメンバー数が非常に多いそういう宗教が伸びてきた。これが一つです。しかも比較的高学歴である。新宗教というとどちらかというと、学歴的にはあまり高くない人達が多いというふうに考えられていた。民衆的な宗教だというふうにみなされていたわけですが、高学歴の人がふえてきた。そして入信動機は、以前ならば貧・病・争というような生活の悩み、苦しみ、そこから入ってきた。それを解決する。とりわけ家族生活の立て直し、身の周りの人間関係の立て直し、それによってよい社会生活を行っていこうというのが旧新宗教でしたが、新新宗教は、入信動機というと、むなしさ、なぜ生きているのか、生きていてどんな意味があるのか、とにかく今の生活はむなしいと、これはオウム真理教がそういう教えをとても印象的に説いたわけです。この世で、マイホームで、きれいなお嫁さんをもらって、お金をもって、よい自動車を買って、そして何のためになるのだというようなことを麻原は盛んに説いたわけです。それが若者に対して大きなインパクトをもった。
 そしてそういう入信動機と関係ありますが、何を目指しているかというと、この世で幸せになるのが従来の新宗教でしたが、もう現世救済ということにあまり興味がない。もちろん現世利益も説かれないわけではないけれども、それよりももう一つの現実、もう一つのリアリティ、霊界とか来世とかそういうようなレベルに関心がある。この世の人間関係とは異なる、それは人間の内面の奥深いところにある魂の問題でもある。魂のレベルでの幸せを求める。それは瞑想などをして意識が大きく変わった、そういう状況で初めて体験できる何か、あるいはこの世で今生きている間に体験できない、死んでは生き、生きては死に、輪廻転生を繰り返して、その末に高いレベルへ到達していく、そういうようなものなのだ。ですから現世救済に対して、現世離脱的であるし、場合によっては来世救済といってもいい。そういう意味では新宗教よりもかつての仏教の世界に近い。そういう方向に向かってきた。輪廻転生を重んじるということは、今生きているこの世の人間関係を軽く見ることです。今生きている人達は、たまたまこの世で一緒になったにすぎない。前の世では別の人が一緒だったかもしれない。ですから時には先祖なんてあまり大事ではないとまでいう。そういうような考え方が強まってきているわけです。
 これが新新宗教というもので、今述べたことはいくらか新霊性運動とつながっている。非常に個人主義的である。この世の現実とは違うリアリティーに向かっているという面で、新霊性運動と新新宗教とはたくさん共通点があります。ですからオウム真理教に入るような人は、もともと新霊性運動みたいなところに親しみをもっていて、そこでは満足できなくて、宗教教団に入ってくる。個人的にいろいろやってみようといわれた。ヨーガもやってみた、気功もやってみたけれども、何か深いものにまでいけない。それよりもしっかりしたシステムのある宗教団体に入った方がいいのではないか、そういう人がかなり多いわけです。
 続いて日本の新霊性運動について見ていきたいと思います。新霊性運動も日本では相当の勢いをもっておりますが、その中で世界の他の地域と違う点は、日本の新霊性運動は、主流派の文化に近い。例えばアメリカで『聖なる予言』というような本の位置を見ると、これは主流のキリスト教やアカデミズムから見ると、異端的、オカルト的な、いんちきな宗教だとみなされやすい。気功とか東洋宗教などというと、何か変なことをやっているとみなされやすいわけです。ところが日本でいうと、密教とか禅とかヨーガとか気功といっても、これは東洋宗教の正統ではないかということになると思います。
 アカデミズムの中でも新霊性運動はかなり力をもっているということですが、その例として一九九一年に設立されました人体科学会という学会のパンフレットを見てみたい。これはどういうことを研究するかというと、気功というのは本当に何か起こっているのであろうか、本当に力があるのであろうか、気功師の体というのはどういう構造になっているのだろうか、そういうことを科学的に調べてみよう。あるいは瞑想修行することによって人間の体はどう変わるのか、あるいは意識状態はどう変わるのか、そういうことを研究するのです。超心理現象とかいろんなことが起こる。とても説明できないようなことが起こる。何千キロもあるところに捨てられた犬が、もとの飼い主のところに帰ってくるとか、そういうような現象を調べる。スプーン曲げというようなことが本当であるのか。もしかするとそれは宗教的なものと関係のない答えがでてくるかもしれないけれども、そういう可能性も含めて、そういうことを考えようというものです。
 案内パンフレットを見ると大組織でありまして、学会というよりも、政界や業界、経済界、実業界が関与しているという感じです。名誉顧問にはかつての外務大臣の大来佐武郎さんとか、かつての東大総長向坊さんとかが入っています。顧問の中には遠藤周作というような有名作家が入っている。会長はカトリックの神父で上智大学の教授の門脇佳吉先生、副会長には文化、科学、心理学などの代表的な学者が入っている。こういう学会ですが、この学会は、アメリカでいえばニューエイジ的な、私の用語で言えば新霊性運動的な思想の展開と関係があります。
 「おもな活動内容」ですが、一二項目のうちの九番目のところを見ると、「物心二元論を克服するための理論的・実験的研究」ということで、西洋の近代合理主義というものは二元論だった。これが行き詰まっているのが現代文明の問題だ。これを超えていくための研究をやるのだ。ですからある科学研究の団体でもあると同時に、ある思想運動の団体でもある。当然宗教的なものに関係してくるということになります。これがかなり日本の学会なり他のエスタブリッシュメントと連携しながら、こういうものが起こっているということが日本の特徴です。
 これは同時に、まず中国に人体科学会ができて、その後日本にもつくったわけです。ですからこれはある意味では東アジアの共通の運動ともいえます。気功の運動というのは、今韓国でも中国でもはやっている。世界的にそれぞれの文明が自分たちの文明の根拠は何かということを探っている。その中で東アジア的な動きとしてこういうことも試みられているということです。
 もう一つの例として、参考文献の中にあげました梅原猛さんという人をあげたいと思います。この人は京都にある国際日本文化研究センターの初代の所長でした。この人は哲学者なのですが、宗教に関心をもっていたけれども、従来は親鸞とか道元とか日蓮とかそういう人達、日本の伝統的な仏教の思想を掘り起こすという仕事をしていた。それが七〇年代になりまして、学園紛争の時代に一度大学をやめてから、日本の怨霊の文化の研究をやっていた。ところが八〇年代になってから、霊性的なことを盛んにいうようになりました。アニミズムの復興であるとか、「森の思想」というようなことをいってきました。そこで彼がいおうとしているのは、縄文文化こそ日本の文化の本流なのだ。それは弥生時代になりまして、農耕が広がって森を切って環境を破壊していく以前の文化である。自然と親しみながら、自然と生きていく思想が縄文時代の宗教であった。それは今ではアイヌの文化、沖縄の文化にかろうじて残っている。それを日本の宗教の中でいうと神道の古い姿なのだ。だから神道の鎮守の森は、今でも切り倒さずに残っている。だから「古神道」です。それはいいかえればアニミズムだ。そういうものを今取り戻さなければいけない。そういうことを主張しているわけです。
 そして日本人の「あの世観」ということをいいまして、仏教が入ってきた。そして仏教に影響されたけれども、縄文時代以来の、あるいはアイヌ的なあの世観というのは日本人の中にしぶとく残ったのだ。死後、極楽とか地獄なんてない、信仰した人だけが救われるなどということはない。どんな人でも、悪い人もいい人もあの世にいくのだ。そしてまた生まれかわってきた。自分も親戚の近くに生まれかわってくる。そういう考えこそ日本の伝統的なあの世観だ。そういうふうに死者とも身近、自然とも身近、そういう宗教性、そういうものを彼はアニミズムと考えている。それは歴史時代の仏教とかキリスト教では否定されるような考え方なのだけれども、そういう考え方こそこれから必要な考え方だといったりしております。
 これは実は、一部かなりナショナリスティックな要素をもっている。と同時に新霊性運動に近い思想であると思います。彼はそういう思想を基盤にして脳死にも反対している。脳死というのは、西洋的な心身二元論に結びついていると。脳が死んでも体が生きている。そうすればそれは生きている。それが日本人の自然なアニミスティックな感受性なのだ。そういうことも主張しております。そういう主張がかなり影響力をもって、世界の中でも脳死がなかなか人間の死として認められない珍しい国というのが日本の状況ですが、これは考え方によっては新霊性文化的なものが今日本でかなり力をもっているので、そういうことが起こっているというふうにもいえると思います。ちなみに脳死を人間の死とするということにはさまざまな立場からの反対があり、私も賛成はできません。
 梅原的なアニミズム礼賛はナショナリズムと結びつくという面がありまして、その点は注意して見ていかなければならないものだと思います。西洋文明批判ということが、日本の文明こそ人類を救う文明なのだという主張につながることがあるということです。

四、救済宗教をめぐる葛藤
 最後に、今のことと深い関係があるわけですが、救済宗教をめぐる現代世界の葛藤ということについて考えてみたいと思います。一方で世界的にみると救済宗教の復興の動きがあるわけですが、他方で、新霊性運動に代表されるような、宗教嫌い、とりわけ救済宗教嫌いというのも大きな傾向としてあるのではないか。世界的にそれがある。先進国で特に強い。日本ではさらにそれが強いかもしれない。梅原猛さんの九四年にでた「環境と文明」という文章を見ると、次のようなことが書いてあります。
 人類は過去に二度環境破壊を進展させる革命を行った。一つは農業革命であり、もう一つは産業革命である。それによって大地を侵略してきた。そして森をこわし、植物や動物が住む環境を奪っていった。そして第一次の環境破壊、農業革命を正当化する思想というのが世界宗教の思想、あるいは紀元の始まり前後にできた文明を支える思想だった。それを代表する思想家というのは、四聖、すなわちイエス、ソクラテス、ブッダ、孔子、この人達の思想の共通点は人間中心主義だ。自然の価値を否定する。自然に対して関心をもっていない。仏教はまだいいけれども、それでも自然に対して冷たい。神道と比べると、自然に対してずっと冷たい。この中ではキリスト教、仏教が批判されているわけですが、もちろんそういうことになればイスラムも入ってくるでしょう。そういうふうな世界宗教、世界の有力な救済宗教とは、梅原さんによると環境破壊の哲学だ。要するに人間中心主義だ。自然軽視の哲学だというのです。
 第二次の環境破壊が近代になって起こりまして、これが西洋の近代合理主義、物心二元論であった。今やこの二つの思想を乗り越える時代がきている。最初の四聖があらわれた時代は、ブッダがあらわれ、キリストがあらわれた。その時代は、人類文明の大転換の時代、軸の時代と呼ばれております。人類文明が大きく変わる時代と呼ばれておりますが、それが第一の軸の時代だとすると、今は第二の軸の時代なのだ。長い歴史の中で有力であった世界宗教、救済宗教が克服されなければならない時代だと主張をしております。これはかなり新霊性運動的な立場からの救済宗教批判だと思います。
 もう一つ救済宗教が今嫌われる理由、そのとても大きな理由は、これは簡単に説明できないことですが、宗教の商業化あるいは消費主義化ということがあると思います。これは既成宗教にもあるし、旧新宗教にもあるし、新新宗教にもある。一番はなはだしいのは新新宗教だけれども、その影響を旧新宗教も既成宗教もこうむっていると思います。新新宗教のいくつかの団体をみておりますと、信徒というのはまず消費者です。まず書物を買う。ビデオを見にいく。あるいはセミナーや講演会に料金を支払っていくのです。そしてそれは何のためにお金を払うかというと、自分のため、自分が変わるため、自己投資のためです。ちょうど英会話を受けたり、資格試験を受けたりするのと同じように、自分を変えるために宗教に接する。
 過去の宗教とどこが違うかというと、「ともに何かをする」ということがない。宗教のために自分を犠牲にするというのは昔からあったわけですが、かつてはそれは「ともにした」わけです。仲間でやった、共同体としてやったわけです。お金をだすにしろ、お布施をするにしろ、寄進をするにしろ、みんなと一緒にやった。仲間でやった、仲間のためにやった。それは教団のお金になるけれども、同時に地域社会を助けるためにもやっていた。それから自分を犠牲にして、例えば出家をするというのは、これは家族からみると、自分の家族のメンバーを出家させるということは、それ自身で功徳になることであった。また地域社会の中から出家者がでることは、地域社会の精神的な向上のためにいいことでもあった。あるいは奉仕活動をするといえば、お寺の何か集まりがあれば、檀家の人たちがこぞっていってみなで協力したわけです。そういうタイプの奉仕、あるいは献金というものはお金にできないわけです。
 ところが今はすべてそれがお金にしないとできなくなってきた。するとお金を払う。それも個々人バラバラに払うというふうになってきた。こういうことが救済宗教の根底にあった自分を犠牲にして、みんなのために尽くすという相互扶助の精神、そういうものが崩れてくるといいますか、商業的なものになってしまう。そういう背景がある。そういう宗教の土台を揺るがす変化が起こってきているということがあると思います。これを救済宗教の商業化、消費主義化というふうにいえるのではないかと思います。
 オウム真理教というのは、まず最初は消費者です。そしてあれは出家するというのだけれども、最初は出家といわないで、スタッフ入りと言っていた。そして麻原の書いた本を売る営業マンとなることだった。それがスタッフ入りだったわけです。それがだんだん出家になった。だからあれは出家の修行の集団のように見えるけれども、同時に冷たい見方をすれば、会社みたいなものだ。業務遂行組織が、要するに教団職員だけれども、教団職員ができるだけ有効に営業成績を上げる、そういう組織になっている。統一教会のような組織はほとんど企業連合みたいな部分を含んでいる。そういうふうな形になります。ですから宗教に所属すると消費者として参加するか、それでなければ、業務遂行組織、最も効率的にメンバーをふやし、財産をふやしていくためのそういう組織のメンバーになる。こういう形になっている。
 もちろん旧新宗教や既成宗教は簡単にそういうものにはならないわけですが、しかし、資本主義の力はなかなか抵抗しがたいものがあって、どんなところでも効率的にものごとを進めていこうとすると、どうしてもそうなる。そうすると救済宗教の商業化ということが起こってくる。ですから救済宗教に対する反発、特に先進国での強い反発というのは、いろいろな事情がありますけれども、こういったことも大きくからんでいるのではないかと考えているわけです。そして新霊性運動はそれを逆手にとって、情報産業の拡大にうまく乗っかって拡大しつつある。
 このように考えるとこれからも救済宗教をめぐる葛藤が続いていくのではないかと思います。その際に、先進国がどんどんそういうふうに新霊性文化的な方向に向かっていく。救済宗教も超えていくのだというふうなものに向かっていく。それに対して第三世界の方では、助け合いの宗教、先進国の消費主義的な文化に対抗するために、宗教をよりどころにして横に団結していく。そういう方向に分裂していく傾向があるのではないかと思います。もしそうだとすると、現在の世界的な経済体制のあり方や政治秩序のあり方を根本的に考えていかないと、宗教の未来もなかなか難しい状況が続いていくのではないか、そんなふうに考えています。
 大変大ざっぱな話で、また勢いこんで話をいたしまして、お耳をけがしましたけれども、何か拾っていただけるところがあれば幸いと存じます。
 これをもちまして私の話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

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