日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第30号:202頁〜 |
第二十八回中央教化研究会議 |
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現代における「信」と「学」と「化」の三極構造への検索
〜その2〜
小澤惠修
(現代宗教研究所研究員)
一、「心の貧乏」現象と「信」
前年の日蓮宗教学研究発表大会に発表の機会を頂きこの論題において、特に「信」の問題において発表させて頂いた。その要点をさらに述べさせて頂くならば、現代を歴史的流れのなかで鑑る場合、戦前、戦後という社会変動による分類を行うことが可能であろうこと。そしてその観点から日本文化の継承と、高度経済成長との歪みによる精神構造の価値多様化の現象は、我々の身近に存在する宗教環境に多大な影響を与えたであろうと考えられる。価値多様化の現象は、その分割化、分業化の構造を生み出し、新たな宗教文化の創造が始まった背景が伺える。その特徴として「情報化社会」の誕生と発達があろうと考えられる。この「情報化社会」は「新日本文明」と称せられるほどにその存在は確立されていったことは言うまでもない事実として実感されるし、その「情報化社会」のもたらしたメリット、デメリットの部分は前回指摘した通り、あらゆる情報の提供によりその選択種は拡大され価値多様化の構造の基盤をなし、経済運営、さらには政治的分野にもその効果をもたらし、私達の日常の中にも隅々まで浸透して現在のような生活環境を作り出したのである。
対して、デメリットの部分については、物事の価値観の分割化により、個々の価値観の独立化が確立した背景において、それぞれの情報同志の有機的関連性というものが人間の持つ本能的思考性の外側において処理されてしまうといった現象を生み出した。これによって、あらゆる情報によって発生した現象はそれを司る人間の精神面の形骸化を生み、本能的矛盾が日常化され、それでも現実優先の社会構造はさらに進歩を奨励している。そこには「心の貧乏」を引き替えに肯定してしまう悲しい納得が存在しているのではなかろうか。さらにその背景には、先に示した「多種多様化による選択種の拡大」といったメリット部分までもこの「心の貧乏」現象によって制御され、その限界が指摘されているのである。
「信」、つまり宗教的心理状況は先に示した如く、人間の本能的思考運動の重要な問題であることに注目しなくてはならない。
二、「信」の現代化
1「五義」と「社会」
先に示した如く、現代の社会構造の中で、人間の心理面に多大な影響を及ぼした「情報化社会」の台頭が日常生活の中に於ける宗教的「信」にある変革を及ぼしたと仮説を立てることにしよう。現代社会を土壌とした教化方法を考察する上で、この「信」の現代的有り様に検討を加えたいと思うからである。
「宗教」と「社会」との関わり合いは、その時代背景に大いなる問題を含んでいることは言うまでもないことである。
日蓮聖人の御在世中において、社会現象と自己の信仰形成の過程には大きな関連性が考えられる。聖人の出家の動機、特に文応元年(一二六〇年)著述の『立正安国論』に見られる社会現象を起点とした宗教者としての基本的視点は、常に聖人の宗教理論の背景にあったと考えられる。以後、聖人はそれらの社会現象を自己の「体験」として捕らえ、宗教的体験として観念論を打破して行くことになる。そこに、聖人は強靭な「信」を信即証的に把握しようとする姿勢が見られるのである。もっと具体的にその姿勢を体系的に示されたものとして「五義」が注目される。
この「五義」は、聖人が「本門の法華経」が末法救済の教法であると規定し、それを、「教・機・時・国・序」の各方面から詮顕し諸経典の類型化、さらにはその位置づけを行い、最深の法門に到達する為の教相判釈を行ったものであることはここであらためて論述するまでもないことである。この「五義」の成立は、聖人が弘長二年二月、伊豆流罪の地において著述された『教機時国鈔』に示されたものであるが、これにより、聖人の思想と行動の原理を知ることができるのである。
さて、この「五義」の教判に現代的「信」を探る手掛かりを模索するといかなる理論的背景が存在するのかについて考察を進めて見ることにする。
この小稿の目的は「現代」という時代認識に先行するものであり、先の「五義」の理論をそのまま併合させて論じるには現代認識の部分でまだまだ検討を必要とする。同時に聖人の御在世当時の時代観と現在の状況とはいうまでもなく同一に論じることは不可能であろう。しかしながら、聖人の教学を規範とした教団の教化活動の土台となすものとしてこのような検索、考察を行うことも不可欠であることを認識しての試みである。
「五義」と「現代社会」を関連づけて考察する場合、特に、「信の現代化」というものを意図した場合、どのような理論的体系が可能であるのか。
「教」はいうまでもなく『法華経』への絶対性の認識であり、体験的実証をもってその「教」を認知することの重要性を示している。特に、『開目抄』に示される、
一念三千の法門は、但だ法華経の本門壽量品の文の底にしずめたり。(定五三九頁)
一代経々の中には此経計り一念三千の玉をいだけり。(定六〇四頁)
等は「一念三千論」「十界互具」が理論的背景にあり、「妙法五字」を絶対媒介とした実践論へと展開する。そこに『観心本尊抄』に示された「受持法体段」による信仰の世界観が表わされるのである。
さて、「機」については『顕謗法抄』に、
されば逆縁・順縁のために、先ず法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。(定二六〇頁)
と「教」の必然性により「機」を規定するという特色がある。そして、末法は「謗法の機」という表現が佐前の一般的解釈であったが、以後、その解釈が拡大され国土の謗法性へと関わりが深まっていく。
さてこの「機」の認識がその時代背景全体、あるいは、一切衆生を媒体とした認識であると共に、その対象として「教」の絶対性とそれを柱とする宗教的人間性の存在の肯定が伺える。つまり、「謗法」の対象は宗教的「教」、聖人の場合『法華経』の絶対性とその「教」以外、つまり『法華経』以外への「信」への否定理論であり、当時の社会背景をも含めた現象として捕らえた解釈ではなかろうか。当時の「社会」と「宗教」の関連性は、現在とは違い、宗教そのものの存在が社会と融合し、相互関係の中で影響し合ってひとつの歴史的事象を形成したのではなかろうかと考えるのである。ここに現代的な「機」との相違点が伺えるのであるが、これに関連して、次の「時」・「国」・「序」等の問題を先に検討し、後にさらなる考察を行いたい。
「時」は「末法思想」と関連し、聖人が客観的に歴史を認知する立場から、「教」、「機」の必然的肯定を前提として、聖人の宗教的自覚を確立して行くものである。これには、聖人の宗教的体験と、それを歴史的必然性として認識する社会的視点があり、社会現象をいかに宗教的観点において分析し、検討を加えて行くかという理論的な背景が存在するのではなかろうか。
「国」は『顕謗法抄』に示されているように、
日本国は一向に法華経の国なり。(定二四四頁)
という自覚的認識である。国土という認識は現実の社会認識によって裏付けされたものであって、「教」と「機」を包括し、「謗法」という社会現象を歴史的、宗教的に検討を加えたと同時に、聖人の宗教的理想の姿ではなかろうか。
一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(定七二〇頁)
と示される所以は、末法流布の必然性と普遍性へと展開する世界観が伺えるからである。
「序」については「教法流布の前後」という具体的説示であるが、『南条兵衛七郎殿御書』に、
仏法を弘る習、必ずさきに弘まりける法の様を知るべきなり。(定三二四頁)
と示し、仏教流通の道理を明らかとし、それを実践実現の為の方法論を示したのである。この実践方法論は以後、聖人の「師」自覚へと発展し、「五義」の有機的関連性と聖人の宗教的自覚が、重要な意義をもつ概念として存在して行くのである。
これより、現代社会を前提とした「五義」への考察を再び試みたい。
2「五義」の現代的意義
「現代」という時代観念の中で、「五義」にアプローチを加えることが可能であるのか、そうではないのかについては、正直明確な解答が浮かばない。しかしながら、純粋に聖人の教学を研鑽し、「布教の日常化」を一目標として考えた時、その時代時代の「社会」との関わりは避けて通れない問題ではなかろうか。これを基調として、「五義」への再考察を試みる理由は、「五義」が聖人の社会観に密接な関係をもっているのではないかという性質に手掛かりを求めたいという視点からである。
「教」は『法華経』であることはいうまでもない。そして、「妙法五字七字の南無妙法蓮華経」の題目である。しかし、現代の法華系新興教団の乱立状況を見るに、その解釈の相違によりその背景にある「一念三千論」や「十界互具」の解釈にまで相違性が波及している事実がある。ここでこの問題の詳しい検討は省略するが、印象的には、「教」を媒体とした「信」の核心は「先祖崇拝」、法座などに見られる「心の告白」という人間の主我的部分を否定しきれない概念が存在するのではないかという仮説が可能であろうと思う。ここには自己の肯定を大前提としたものがあり、客観的に釈尊に純一的に随順するという「教」の能動性が認められない。しかしながら、この信仰形態が現代の「教」の能動価値であるという概念も正当理論として存在することも事実である。また、この人間の主我的欲求はどの時代でも存在する本能的心理であり、同時に自己の肯定心理も同様であり、そこに「宗教」の存在が肯定される側面があるのではなかろうか。「信じたい」という欲求は時代の変化にとらわれず常に人間の心理面において大きな影響をもっているのではないかと思われる。
では、現代的な「教」との関わりあいについて何が問題であるのか。
「信じたい」というものは普遍的に存在するものである。しかし、「何故に」という部分はその時代背景や、日常的環境によって様々な背景が存在するのではなかろうか。これは、宗教と社会の接点について常に流動的な思考の認識を要求される所以である。
「教」について『法華経』でなくてはならない、『法華経』でなくてもいい、信じたものが偶然に『法華経』という教であった。
というように、「教」の絶対的主体性という規定概念は稀薄な部分において存在し、その宗教的価値の形骸化が現代の「信」の深層的背景として存在しているのではなかろうかと考えられるのである。
現代の信仰形態の中では、「教」の宗教的価値への問題はあまり現在の社会的価値として意味を持たない状況が存在するのではなかろうかと考えられる。
では、「機」についてはどうであるのか。「五義」においては、「教」によって「機」を規定するという特徴がある。『法華経』による必然性による歴史的事実として「機」の認識が存在するのである。
さて、先述の「教」についての考察を踏まえて検討を加えることにする。
「教」の存在が社会的価値としてあまり意味を持たなくなっているという認識、つまり、「教」の主体性が稀薄化し形骸化した状況をいかに理解すればよいのかという問題である。聖人の謗法観は、『法華経』以外への「信」という宗教的、信仰的「機」の存在の肯定から出発している。それは、人間の生活、日常的環境に宗教的環境が融合して存在していたのではないかという、御在世当時の社会認識を考えなければならない。聖人が時の執権に上呈した『立正安国論』に見られるような社会の現状分析と宗教的視点に検討されたものが政治的場面において影響を及ぼし、それが聖人の宗教的体験として「信」の体系的意義づけを可能としたことは重要な問題である。
しかし、現代のように「教」そのものの意義が形骸化の状況に存在している環境においては、「社会」への対応が基本的に異なってくることになる。現代においての「社会」と「宗教」との関わりが問題となる。現代の社会構造は先述した通り、分割、分業化が確立し、宗教もその構造に組み込まれている現状が存在する。戦後の宗教政策等の影響、高度経済成長における人間の生活環境の変化、さらには、それらを背景とした教育政策の問題など、数々の要因をもって宗教的人間性が形骸化した結果、宗教は日常の外壁に追いやられ、「信」は我々の生活環境の中で非常に特異性のあるものとして認識されるに至ったのではなかろうか。であるからして、「信」は日常生活の場面において本来の宗教的概念を有しなくなっている現状を認識すべきである。このように、「教」の形骸化に連動して「機」も同様、その社会的価値観と宗教的価値観の分割化が進行している。「社会」と「宗教」が人間の精神面、心理面において分割した価値を単一的に発展させることにより、さらにこのような社会構造は確立し、宗教的という様相はさらに形骸化し、特異性を強調した場面において登場することになるのではなかろうかと考えられる。
「情報化社会」の台頭によって、多種多様の価値基準が有機的関連性を不必要とした形態において確立して行くように、宗教的価値の独立性はさらに進行するものと想像できる。
このような背景をもって、「信」の現代化への模索、検討を行う必要性が存在するのである。
三、小 結
私は、ある編集社においてこのような話しを聞いた。近年の新興宗教、新新宗教の出現によって、日本の宗教環境は日々変様を遂げている現状について、既成宗教教団の一員として将来的不安を述べたことがあった。その不安について、その編集者は次のように答えてくれた。
「そんなに心配することはないんじゃないですか。皆さんの既成教団はしっかりと役目を果たしています。葬儀という伝統文化の中で私たちの心を慰めてくれているし、現代の要求に答えてくれている。それと同時にそれ以上の要求もないことも事実ですが。」
これを聞いて大変ショックを受けた。既成宗教は文化であって、その文化的役割を十分に果たしているというのである。
「信」の現代化はこの文化的認識と大いなる関係が存在するのではなかろうか。
「教化学の体系化」を念頭においてのこれからの考察に、「文化的宗教」の存在についてさらなる検討が必要であることを認識した。
「信」の現代化は我々既成宗教の重要な未来的テーマである。
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