日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 現宗研所報 > 第30号
所報第30号:163頁〜 研究ノート ←前次→

   ニューサイエンスとパラダイムシフト
現代の宗教動向の背景にあるもの
松井教一
(現代宗教研究所研究員)

はじめに
 本論は、日蓮宗現代宗教研究所の「現代教学プロジェクト」の作業の中に位置づけられるものであり、「現代教学」の方向性と可能性を模索することを目的としている。
 また平成七年度の「第四十八回日蓮宗教学研究発表大会」の原稿を、紙面の都合で三分の一に要約してあるので、詳細を欠く部分もあると思われるが、その点をあらかじめご了解いただきたい。

一、問題の所在 現代の宗教動向から
 井上順孝氏は、一九九四年六月の読売新聞の「宗教に関する国民意識調査」を分析して、「民族宗教やオカルト的なものへの信仰には減退傾向はないが、とりわけ宗教団体への不信感が強まっている」と指摘している。
 これに補足して島薗進氏は「@『宗教』や『信仰』という言葉に好ましくない響きを感じる人が増えている。Aしかし、広い意味での宗教的なもの、霊的なもの、精神的なもの、神秘的なものへの関心は減少しておらず、高まっている。」としている。
 「宗教ブーム」と言われるように、一般の人々の宗教的なものへの関心は高まっているにもかかわらず、既成宗教に対してはむしろ不信感を増大させているのである。
 一体、現在の宗教動向の中では今、どのような事態が進行しているのであろうか。なぜ、こうした事態に至ったのであろうか。
 ここでは、「ニューサイエンス」を中心にしながら、現代の宗教傾向、社会状況を探ることにより、現在の事態に応えるものとしての「現代教学」への糸口を模索してみたい。
 島薗氏は、「現在の宗教ブームは『新新宗教』『呪術=宗教的大衆文化』『新霊性運動』の三つの現象から成り立つ」もので、そのうち「呪術=宗教的大衆文化がマス・メディアにおいて情報として販売消費されて、すぐに忘れられていく不定型な性格を持つのに対して、新霊性運動は世界観として組織だっていて、個々人の思想や意識態度の形成に直接影響を与えていく」とする。
 島薗氏が注目している「新霊性運動」の特徴を形作っている思潮の柱にあるのが「ニューサイエンス」である。
 ここで「ニューサイエンス」について取り上げようとするのは、それがこの時代の宗教動向の一つの思想的基盤となっているからであり、「ニューサイエンス」の提示している主張に耳を傾けることによって、この時代の宗教傾向を知り、既成教団の置かれた状況(危機的)を認識し、いかに応えていくべきかを模索する一つの足がかりとしたいのである。

二、ニューサイエンスの提起する問題
1ニューサイエンスの概略
 『現代思想辞典』には、「ニューサイエンス」は次のように紹介されている。
  一九六〇年代初めの、アメリカ西海岸を中心にして、いわゆるカウンターカルチャー(反抗文化)運動が起こった。ヒッピーや幻覚芸術、ヴェトナム反戦運動や東洋への傾斜に代表されるこの運動は、既成体制の袋小路を感じとった人々が、ともかくもそこから脱出しようとするどちらかと言えば否定的で非理論的なものであった。この運動自体は、いったん姿を消したが、その運動のモティーフは七〇年代になってより積極的かつ理論的な形で復活する。つまり七〇年代を期に、
  @西欧近代の世界観や科学(とその方法)を理論的に批判する一方
  Aかつて無批判に憧れた東洋の文化・思想を冷静に評価し
  B究極的には新たな文化と人間観を創造しようとする
  さまざまな試みが一斉に浮上し、それは現代まで続いている。思想、科学、技術、生活など多領域にわたる人間観の改革運動を総称して、和製英語で「ニューサイエンス」と呼ぶ。
 「ニューサイエンス」は多岐にわたるため、これだけではとても説明されているとは思えないが、紙面の都合で以下重要点のみ補足させてもらうことにする。
  @不確定性原理の発見による物理学のパラダイムシフト
 従来の科学(一般にデカルト=ニュートン的と言われる科学)では、主体と客体は分離したもので、主体の恣意性を消し去って、客体の多くの側面を観測することにより、究極的な客観的真実に到達できると信じられていた。対象を細かく分割していく要素還元主義の手法もその確信から生まれた。
 しかし、物理学における物質の根源探しにおいて、最小単位である物質の性質は観測者によってその観測結果が影響を受け、粒子とも波動ともなる二重のリアリティーを示すことがわかった。
 この量子力学における「不確定性原理」の発見により、近代科学の確定的予測をなす絶対的客観性の信仰は崩壊し、科学の記述は確率的な近似値にすぎず、観測主体と客体との相互作用ぬきにリアリティを語ることはできないことになった。
 にもかかわらず、科学全体は依然として機械論的世界観と要素還元主義の手法が主流であるため、こうした傾向に対して批判的立場に立って、非合理な領域をも取り込んだ新しい科学を目指しているのが、ニューサイエンスと言える。
 物理学に端を発する、デカルト=ニュートン的な西欧の知の様式への問い直しはそれが近代を支えていた原理でもあったために、単に物理学の領域にとどまらず、人間観、世界観、存在論、認識論にまで波及し、既成のものに対する「問い直し」と「パラダイム(思考、価値観の枠組み)の転換」の要請と改革・創造の運動という形で展開していくことになった。
  A一元論的神秘主義的傾向と相依相関的視点
 従来の主客二分的な西欧的知の様式への批判的立場に立つため、主客未分を理想とする東洋的な知の様式に新しいパラダイムの可能性を求める。
 また、心身二元論的立場に立つ現代の医療に対しては、心身相関的な東洋医療的ホリスティックな視点を、環境問題においては、人間と環境(世界)を対立的にとらえるのでなく、相依相関的にとらえるディープエコロジーの立場を提唱する。
  B意識変容と自己開発・自己実現
 カリフォルニアのエサレン研究所において展開された「人間の潜在能力開発運動(ヒューマンポテンシャルムーブメント)」の研究によって開発された「意識変容」状態の誘導と「自己開発・自己実現」の技術は、学問的にもトランスパーソナル心理学として展開し、それは現在の神秘体験へ意識変容への関心としての「新霊性運動」の基盤となっている
  Cパラダイムシフト
 トーマス・クーンが『科学革命』において提唱したパラダイム概念(思考・価値観の枠組み)は、やがて拡大解釈されて、科学の領域のみにとどまらず、思想、技術、生活全般を含めた旧来のパラダイムの転換運動として意識されるようになった。それは、近・現代文明に行き詰まりを感じる者からは、現代の「危機」を越える運動として期待されるに至り、「ポスト・モダン」の意識とも重なりあって、更に広範な運動として展開している。
  D科学と宗教(特に東洋)の新しい関係
 フリッチョフ・カプラの『タオ自然学』と、ケン・ウィルバーの『空像としての世界』は、ニューサイエンスの思潮を学問領域にとどめず、一般に広めることになった著作である。特に、科学と宗教の新しい関係を提唱するものとして注目に値する。
 量子力学では、物質の根源は特定できる実体ではなく、万物は「複雑に入り組んだ現象の織物」と言うべきで、相互作用こそ物質の根源の実態であり、また観測者の影響を受けないような「客観性」はないとされる。
 カプラは、この量子力学の物質観が、東洋の宗教や哲学と相似していることを指摘し、特に仏教の中間派による空の哲学と華厳の世界観に結びつけた。
 また、ウィルバーも同様に空の思想と主客合一を理想とするアートマンの立場、更には部分に全体が含まれ全体に部分が含まれる「ホログラフィー」理論から相依相関的な共通点を見いだし、『空像としての世界』の他にもトランスパーソナル心理学の立場からの『意識のスペクトル論』『アートマンプロジェクト』などを著し科学と宗教の統合による新しいパラダイムの可能性を提唱している。
2ニューサイエンスの宗教観
 「ニューサイエンス」は、近代の思想的基盤とも言えるデカルト=ニュートン的な西欧の知の様式に対して批判的な立場に立ち、人間観、社会観、世界観も含めて旧来のパラダイムの転換を求める広範な思想的文化的な改革運動となっている。
 それは、現代社会に不満を覚える人々の要求に応える形で呼応し、現代文明の限界と危機を越える「希望的なヴィジョン」や試みを提唱する運動ともなっていると言える。
 特にその宗教観について見ると、カプラやウィルバーのみならず、ニューサイエンティスト達は、宗教的瞑想や神秘体験を積極的に評価し、超能力や超常現象をも旧来の科学者のように頭こなしに否定したりしない。
 のみならず、トランスパーソナル心理学やサイコセラピーのように、科学的な立場から宗教体験の内容を研究し、精神療法などとして実際に活用している。
 このことによって、これまでは特定の宗教的権威の名によって閉ざされていた主観的宗教体験の多くの部分に光が当てられ、公開されて、人々に共用されるようになった。人々は、宗教という権威を抜きにして、宗教に触れられるようになったのである。
 また、ニューサイエンスは物心二元論を批判する立場に立つために、その宇宙観、自然観、人間観も「霊性」や「神秘性」を重んじた、きわめて宗教的なものである。ニューサイエンスの思想にあっては、「科学と宗教」は誠に親密な関係にある。これは、「科学と宗教の新しい関係」の提示であり、今や宗教が科学され、科学が宗教されて、統合的な立場から人類に寄与する時代が来たと言ってもいいであろう。
 しかし、注意しておかなければならない点は、それが既成のものに対する変革運動であるためでもあるが、概してニューサイエンスは既成の宗教に対しては批判的立場に立ち、おそらく第一章でも問題点として指摘したように、その影響は現代人の宗教傾向としても反映しているように思われる。
 ちなみに、『季刊 仏教29 宗教のゆくえ』に掲載されている島薗進氏の「宗教を越えて? 新霊性運動の宗教観をめぐって 」より、ニューサイエンスを思想的背景に持つ新霊性運動の立場からの「宗教」批判の幾つかを紹介してみる。
 1セオドア・ローザクの『意識と進化と神秘主義 科学文明を越えて』は、科学文明に異義を唱えつつ、六〇年代以降にアメリカで発展した宗教的・神秘的意識変容的な運動や試みを一つの集合としてとらえ、現代は大きな転期とするこの大きな意識の進化に属するものとして「秘教研究」「霊的治療」「東洋宗教」「健康精神療法」「身体療法」「新原始主義および異教精神」「有機体説」「乱調科学」(ESPと超心理学研究)「霊媒、降神術、オカルト・グループ」「心理工学(神経サイバネティックスなど)」「大衆文化」「ユダヤ・キリスト教リバイバル諸派」があげられるとしながら、これらの多くは宗教的なものと関わりがあるが、「宗教」はこれらを指すにはふさわしい言葉ではない。今、多くの人が求めているのは、超越的な経験、神秘的な経験であり、そうした不思議なものから個人的な意味を引き出すことである。ところが既存の「宗教」はそうした経験を解放するどころか、それらを検閲し抑圧してきた。またそれらは本来、普遍的であるはずなのに、「宗教」は他を排除し攻撃することに躍起になってきた。だからこの大きな大衆運動は「宗教という名を使わない宗教」と見なすべきである、という。
 2マリリン・ファーガソンの『アクエリアン革命』は、現在進行中のさまざまな宗教的神秘主義的意識変容的な運動や試みが、一つの変革の方向性を持っており、人間が歴史上はじめて自然にとけこみ、物質的精神的資源を自ら管理し、高次の自己の発見や意識の進化を伴うものであり、一つの新しい文化と社会秩序を形成していくものであるとする。
  この変革は、人間生活のあらゆる側面に及ぶものであり、「もの」に焦点を合わせた科学から「つながり」に焦点を合わせた科学へ。大企業や官僚制に代わり小さな集団やネットワークが強まり、心を大事にし環境を守る仕事の広まりへ。人間を無視した薬漬けの医療から、人間同士のつながりを重んじ、心と体を全体として癒す医療へ。教育は、感性や精神性(霊)を重んじるトランスパーソナル教育へ。
  こうしたさまざまな局面における変革は、平和な人類社会をめざす「たくらみ」の一部なのであり、この「たくらみ」の奥底には、個々人の精神的霊性的成長がなければならない。ところが、従来の「宗教」はその役に立たない。形式的な礼拝や権威的な押しつけに人々はうんざりしている。本来的な意味での精神的成長をもたらしてくれるのは、盲目的な信仰ではなく、個々人の直接体験であり、そうした体験を通して世界をあるがままに見ることである。神秘体験を通してこそ、世界の諸宗教や思想が教える深いもの、「全体性」が見いだされる、という。
 島薗氏は、新霊性運動やそれに近い立場からなされる「宗教」批判の論点は次のように整理されるとし、更に多くの「宗教」信仰者は、これらの批判のいくつかに思い当るふしがあることを認めざるをえないはずであり、新霊性運動的な「宗教」批判は、自己反省の材料として大いに意義があるが、またこれらの批判をそのまま受け入れることができないと感じるのも事実であろう、とする。
  @本来の宗教体験を押し隠し、形式的抑圧的な教義や儀礼や集団を尊んでいる金集め、人集めに走る場合も少なくない。
  A絶対的な力を持つ神やメシア、あるいは特殊な救済手段などの信仰、すなわち非合理的な信念体系を持つ(教義に従う)ことを要求する。
  B一つの体系に従うことを強い、排他的な信念を持つことを強要し多元性を認めない。それゆえに社会闘争を煽る要因となる。
  C個々人の主体性を認めない権威主義的な教団秩序を持つことが多く、権威主義的、抑圧的、差別的な社会秩序を支える機能をはたす。
  D二元論的な考え方と結びついたり、人間中心主義に陥ったりして自然を搾取し、破壊する文明の悪を支え、増進する。
3ニューエイジャーの特徴
 〈ニューサイエンス〉の影響を受けて、新しい時代(ニューエイジ)への変容を期待する人々は、一般にニューエイジャーと言われる。
 島薗氏によれば、ニューエイジャーの主張をまとめると、次のような思想・信念内容のリストができあがるという。
 [A]
 1意識変容という目標 個々人は通常の醒めた意識から、異なる意識状態へと意識を変容させることによって高次のリアリティーに触れることができる。それが自己実現の基盤であり、人生の目標ともなる。
 2一元論的宇宙原理=自己本体への尊崇 高次のリアリティーは意識の高いレベルであり、高次の自己であると同時に宇宙全体を構成している霊的原理でもある。量子論等の現代科学の展開はそうした霊的原理の実在を指し示している。
 3感性・神秘性の尊重 過剰な知性や醒めた意識による批判や恐れを抑え感性を尊び、神秘体験や超常的な意識体験にも心を開いていくことによって、意識変容と自己実現は可能になる。
 4意識変容による身体と環境の変化 個々人は高次の意識に触れることによって現実を変化させていくことができる。肉体的には癒しがもたらされるし、社会的には自然や他者との調和が可能になる。健康な自己と社会がもたらされる。
 5近代合理主義から科学/霊性の統合へ 精神と物質を二分する二元論的思考と、それに立脚して展開してきた近代合理主義が現代文明のゆきづまりをもたらしている。かわって科学と霊性が統合しているような考え方が登場しており、こうした方向こそが未来を切り開く。
 6エコロジーや女性原理の尊重 調和を重んじる霊性開発の思想と態度は自然や肉体に対する支配ではなく、それらとの調和を求めるエコロジーの考え方に通じる。また、父権的男性支配を是正して女性原理に適切な地位を与えようとする動きとも一致する。現代の霊性追求運動は人類全体の意識と文明の大きな変容と連動している。
 [B]
 7超常的感覚や能力の実在 人間は皆、超常的な感覚や能力を発揮する可能性をもっており、意識変容の修練によってそれは可能になる。気功師はそれを実証している。また、世界各地のシャーマンや霊能者などは事実、透視や予言、あるいは癒しなどの神秘的な力を持つ。
 8思考が現実を変える 個人の意識は外界とつながり合っており、意識の変容はそれだけで、現実に超常的ないし神秘的な変化を与える。明るい想念を持てば、明るい現実(成功)がもたらされる。恐れが失敗をもたらす。
 9現代こそ意識進化の時代 ある程度の数の個人の意識の変容が達成されると人類全体の意識が新しいレベルに進化する。現代こそ新しい意識進化のレベルへの移行が始まろうとしている人類史の大転換点である。
 10意識進化は宇宙的進化過程のひとこま このような人類意識の進化は、天体の運行などとも関連した、宇宙・地球・人類の大きな進化過程の中で起こっている。
 [C]
 11輪廻転生とカルマの法則 人間の魂は死後も存続し続け、この世に再生してくる。再生までの間、別の次元に存在し、この世とも交流することがある。またカルマは前世から現世へ、現世から来世へと受け継がれていく。
 12ETとの接触 地球外の天体にも意識や心を持った生物が存在し、地球人との接触を求めてきており、すでに接触をもった人たちがいる。彼らの中には、地球人よりも霊的に高いレベルの存在もおり、人類を指導しようとしている。
 13過去の文明の周期と埋もれた文明の実在 人類の文明は過去に何度も発展と衰滅をくり返してきた。レムーリアの文明やアトランティスの文明はその一部である。
 14人体におけるチャクラや霊的諸次元の存在 人間には七つのチャクラがあり、またアストラル体、エーテル体など、物質と霊的原理の間の様々な次元が含まれている。
 15水晶による神秘力 水晶は霊的物質であり、水晶を通して意識の高次化が促進される。また、水晶はさまざまな神秘力を発動させる媒介となる。
 16指導霊の実在 個々人にはそれぞれ生れる前に指導霊が選ばれており人が高次の目的に向かって歩いていくのを助ける。人はふだんから指導霊に触れ、その指示を仰ぐことができる。
 17チャネリングの真正性 異次元の「ソース」から高次の霊的な情報を得ることができるチャネラーが多数存在する。チャネラーの伝えることが、ことがらの中には、信頼すべき重要な情報が豊富に含まれている。真実の情報が得られる根拠として、世界のすべての現象を記録した霊界のスーパー・コンピューターとも言うべき「アカシック・レコード」の実在を信じる者もいる。
 このリストの分類のうち[A]の諸項目は新霊性運動の全体に分け持たれているものであり、日本の新霊性運動の支持者たちのおおかたが同意できるものであり、これらに対して[C]の諸項目はニューエイジャーでない人たちはみな持ってはいないが、典型的なニューエイジャーならばその全部を持っている思想や信仰であり、[B]の諸項目はその中間であり、ニューエイジャーになりきれないものの、ニューエイジ運動にかなり共鳴できる人たちも持っているような考え方であるという。

三、現代社会の中の宗教
 一章において見てきたように、「宗教ブーム」「宗教回帰現象」「新霊性運動」と呼ばれる現代の宗教動向の内容は、「宗教」すなわち既成宗教教団にとっては、非常に厳しいものであることがわかった。
 こうした事態にどう対応し、どう応えていくかということは、それぞれの教団において真剣に問題とされ、研究されねばならないであろう。
 その問題に入る前に、ここでは「なぜ既成宗教が、批判されるのか」という事情を確認する意味で、大村英昭・西山茂編『現代人の宗教』(有斐閣)によってもう一度「現代の宗教状況」を探ってみたい。
1なぜ若者は神秘や呪術へと向かうのか?
 若者が、神秘や呪術へと向かう背景には、現代の日本における「豊かさの中の新たな貧困」という状況がある。
 高度経済成長によって実現したフィジカルな豊かさとは裏腹に、「一億総飼い殺し」のような時代の閉塞感があり、それはなま身の人間がそれなりの手触り感覚をもって生き生きと生きられるメンタルな環境は却って悪化してきている。
 山と谷(節目)のない平坦な、実感性の希薄な人生は、自分の「生の証」になるようなものはなく、自分で生きているというよりも、外部のおおきな力によって流され、運ばれているようにしか受けとめられない人生の感覚。そこに見いだされる著しい緊張と甚だしい倦怠は、近代合理主義によって「意味抜き」された社会の両側面である。こうした乾いた日常性の中で、内面的な渇きを覚えた時、彼らは非日常的な神秘・呪術によって一時的にではあれ日常性から離脱して、神秘体験を媒介にして、乾いた日常の中に潤いを取り戻す「意味の呼び込み」を行なったとしても何の不思議はない。「物にあふれて心に飢える」と言われる状況がそこにあり、明治・大正の宗教動向が物質的な貧しさを背景とした具体的剥脱「からの」解放をめざしていたのに対して、現代の若者の求めるものは非日常的な世界「への」飛躍と変身をめざすものである。
 こうした現象に通底している主題として、合理的な理性原理に疲れた現代人の感性への郷愁がある。
 理性的な自己確認の方法に代わる、感性的な自己確認の方法が求められ、「飼い殺し」の状況下にあって生きることの実感性の希薄な現代人は、「実感したい」という熱い願望を持っており、それは自己のアイデンティティの確認を求めての試みであるといえる。
 抽象よりも具体を、言葉よりも体験を、強調することによって、救いの実感性と生活上の実効性のない「たしなむ」だけの宗教(教養人の宗教)の限界を超えようとしているのである。
2近代の世俗都市と「たしなむ」宗教
 既成教団は、一定の勢力を持つようになると、社会的な安定性を志向するようになり、教義の上でも事業の上でも、ひとびとの非常の苦難に対処するより平凡な日常を支える修養ないし教育が、主たる任務とするようになる宿命を持っている。これを「苦難からの撤退」と言うのだそうだが、かくして教団内部からも「たしなむ宗教」は志向されるのである。
 また社会的には、近代化による科学技術の進歩の中で、専門化と機能分化が進み、個人の経済活動・政治活動その他諸々の活動が、宗教的価値と切り離されることによって、オーバーアーチングな立場を失った宗教は、社会秩序の維持に自らの役割を求め、形式的な宗教儀礼の執行の中にその場を見いだすようになる。
 加えて、現実の中である程度の満足をし、生半可な科学的知識を所有することになった世俗都市の人々は、自己を空しくして絶対者にすがるにしてはいささか不遜になりすぎており、「たしなみ」の宗教はちょうど好都合なものとして支持されたのであった。己れを空しくして絶対者にすがるといった自己否定の作業を必要とする〈信の宗教〉は「世俗都市」にはフィットしがたいのである。
 こうした状況の中にあっては、「たしなみ」の宗教と、〈霊=術〉系の宗教が、しばしば対になって、救済神(仏)信仰ないし〈信の宗教〉と対抗するような関係になる。
 つまり、≠ォれいごとでは済まない何かの苦難(日常性の破綻のような)に遭遇すると、順調なあいだは〈信の宗教〉のメンバーの人たちは、もっと手ごたえのある〈霊=術〉系の宗教へはみ出してしまうのである。
 また制度化された教団宗教が、「たしなみの宗教」のように切実な人間の問題から遠ざかることによって宗教的価値を衰退させていく一方で、ドイツの宗教学者ルックマンの指摘によれば、にもかかわらず「人間は生物学的性質を超越して自己へと発展しようとする」欲求を持つ人間には、宗教的な欲求が内包されてあり、人々はそれを制度化された宗教ではなく、個人の場に求めるようになり、ここに旧来の宗教の概念では説明できない¥@教的なるもの≠ニしか表現しえない〈見えない宗教〉が現われてくる。
 生の意味を求め、アイデンティティを求める人間にとっては、伝統的な宗教が衰退すればするほど、それに替わるものが必要となるが、情報の豊富な現代社会にあっては、個々人は昔のように、教会に出席し、説教を聞き、入信して、その教会の構成員にならなくとも、出版物やテレビなどのマスメディアを通して人生の意味を探索できるので、宗教の〈個人化〉あるいは〈私化〉がおこってくるのである。
3では〈信の宗教〉は無意味か?
 E・デュルケムが『自殺論』で分析したように、「世俗都市」には、もともと底流に、献身対象の喪失感 彼の言うエゴイズム が蔓延しており、むしろそのゆえに、強迫的な退行現象が見られる。
 E、フロムが問題にしたように、人々は自由の重荷に耐えがたく「自由からの逃走」に駆られ、しばしば狂信的グループへの没入によって、ようやく生きがいを見いだしたりもする。
 だが、己れを無にして献身することが、はたして救済になるのかどうかということがそこにおいては考えられなければならず、教えの中身がいよいよ問題になってくる。
 「世俗都市」の人々は、全般的な不信感の故に、かえって何ものかを信じ、自分の生の確かさを、なんらかの∴モ味秩序の中に求めようとする。
 ところがこの∴モ味秩序には、完全になろうとする固有の論理によって自ら閉じてしまう傾向があり、己れの∴モ味秩序にフィットしない事実を認めようとしない「意味の病い」があり、一般的な〈信の宗教〉にも°カ信という落し穴がないわけではない。
 しかしだからといって、「たしなみ」の宗教に留まるという近代日本人の在り方は、安直に過ぎる。
 信じているとも意識できないほどに、実は深いところで信じているところの「日常性フェティシズム」とも呼べる、日常の「自明性の世界」も実は「潜在的に非現実に脅かされ続けている」一つのリアリティに過ぎないからだ。
 「何もかもがわからなくなる」ような日常性のリアリティが破綻する痛切な経験に出会った時、はたして自己を空しくするまで自己と向かい合うことなく安易に「自明性の世界」にもたれかかっていた、虚弱な精神はそれを乗り越えて生きてゆけるのであろうか。
 どんなに、科学技術が進歩したとはいえ、現在の「世俗都市」にも「わからない」ことはたくさんある。だが、人々は「世俗都市」への不遜な過信から、あるいは「自明な日常性」の中に自閉する「意味の病い」から、「わからない」ものを「わからない」と認めることから逃げているに過ぎないのではないか。近代の科学的思考は本来、「わからない」ことを素直に認める勇気を人々に与えたはずであったが、それすらも「自明性」や「意味の病い」の側に加担しているように思われる。
 〈信の宗教〉は、本来の科学と同じく、「わからない」ことを隠そうとはしないだろう。しかし、科学と違って「賜わりもの」としての信仰の故に、「わからない」ままにも、多くの人々に生きる勇気を与えてきたのである。

四、現代教学の課題と可能性(むすびにかえて)
 「世俗都市」における〈信の宗教〉の困難さは、三章でも見たように、それが「世俗都市」にフィットしないばかりではなく、往々に「たしなむ宗教」と〈霊=術〉系の宗教と対抗関係の立場に立たされることから、外的には二重の困難さに囲まれていると言える。
 加えて、既成教団化することによって、日常的な秩序の維持を説く必要から自らも「たしなむ宗教」、儀礼執行者となる必要を内に抱えるのだから、外と内からの三重の困難に囲まれていることになる。
 〈信の宗教〉の真価は、日常性の破綻のような≠ォれいごとでは済まない困難な事態に遭遇した時に、本来発揮されるはずのものであるが、では「たしなむ宗教」儀礼執行者としての役割を全く破棄できるかといえば、教団の構成員の大半を切り捨てるわけにもいかないので、それは現実的には不可能な事である。
 ではこのままでよいのかと言えば、もちろんよかろうはずもない。
 思うに、既成化して広い層の構成員を抱え、かつ時代のニーズも多様化している状況の中で、そもそも一つの教義体系のみをもって対応しようとすること自体すでに不可能なのではあるまいか。
 既成教団の大半が上半身に〈信の宗教〉を据えつつ下半身に〈民族宗教性〉に依存している現実を、理念的に極論化して二者択一を迫ることは、既成教団の再生にとって有効であるとは思えない。
 むしろ現実は現実として受けとめながら、〈信の宗教〉を根幹とした多面的な教義形成こそが、必要なのではないかと思われる。
 ニューサイエンスの分析によっても明らかになったように、現代社会において人々が求めているものは、次のようなものであった。
  1生の証が実感できる体験主義(感性・神秘性)の宗教
  2乾いた日常の中に潤いを取り戻すものとしての、「生の意味秩序」を回復もしくは再構築してくれる宗教
  3宗教体験や神秘性を開放して、意識変容による自己開発や現実対応を可能にしてくれる宗教
  4権威的に思考放棄や自己を空しくすることを迫ることなく、集団的な拘束や自己のポジションへの干渉のない、個人主義的な宗教
  5現実社会への危機意識をもって、現実への不満感や批判を肯定してくれる宗教
  6近代合理主義の欠点を批判し、科学と霊性の統合という視点から、新しい人間観や生と死のヴィジョン、コスモロジーを提供してくれる宗教
 この中には、「世俗都市」での自身の欲望を顧みることなく、更なる自己拡張を求める虫のいい欲求も含まれてはいる。
 しかし、日蓮聖人も『教機時国抄』において言明されているように、「機」を知らずして教えは成り立たず、機の求めに応えつつ、それを昇華・教導していくところに、教化の真義があるとすれば、スマートな学的立場に立って頭ごなしにそれを否定することなく、求めは求めとして受け入れていくところに現代教学の可能性はあると言える。これに加えて、1教団が下半身として受け入れている〈民族宗教性〉祖霊信仰とオカゲとタタリの信仰にいかに宗教的意味づけをしていくか、2社会生活の部分において科学的知のリアリティを受け入れつつ、如何にして世俗都市の不信の根拠たるエゴイズムを照射していく論理を用意するか、31と2をふまえて、如何にして宗教本来の人間への問いかけ、生の意味への問いかけを復権し、〈信〉という自己転換による究極的解決を提示してゆけるか、が〈信の宗教〉の復権としての「現代教学」の課題と可能性であろう。
 ※本稿は平成七年十月二十八日、立正大学において開催された第四十八回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものを要約したものである。
このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.