日蓮宗 現代宗教研究所
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   気について その二
   −陰陽五行論−
平井良昌
(現代宗教研究所研究員)

はじめに
 昨年、「気」の概念の発想と展開を、中国の古代の文献を通して考察したが、それをいま一度復習してみたい。この定義付けは極めて難しいと思われるが、敢えて言うなら、
  @現象世界における一切の存在ないし機能の根源
  A生命の根源
  B人間の精神機能をつかさどる心の働き
ということであった。つまり、「もの・いのち・こころ」の世界はすべてが「気」の所作であり、様々な形態や機能をともなって現れる「気」は、全てが連続しているものであり、物も身体も精神も「気」から見れば別のものでなく一つのもので、西洋流の物心二元論的思考とは根本的に異なる考え方である。そして、「気」が常に凝集と拡散と流動することによって、全ての物事の生成・変化・消滅という現象が引き起こされるのである。この「凝集・拡散・流動」という「気」のエネルギーが、それだけでは単なる日向・日陰の意味であった陰陽、そして、人々の生活上必要な五つの物質に過ぎなかった五材(つまり金・木・水・火・土……五行)を、陰陽五行論という思想にまで引上げ、人々の生活に活用されていったのである。そこで本年は、この陰陽五行の発生と展開について研究してみた。

一、陰陽論
    1中国古典における陰陽論
 先ず初めに、中国古典における陰陽論の発生と展開を見てみたい。
  a『孫子』(春秋時代末期 紀元前五〇〇頃 著者孫武……呉の将軍・戦略家)
 「軍争篇」・「行軍篇」には、次の言葉がでている。
  其の疾きこと風の如し、其の徐かなること林の如し、侵略すること火の如し、動かざること山の如し、知り難きこと陰の如し、動くこと雷霆の如し(軍争篇)
  凡そ軍は高きを好みて、下きを悪み、陽を貴んで陰を賎み、生を養いて実に處り、軍に百疾なきは、是を必勝という(行軍篇)
 このように基本的に陰陽は出ているが、陰陽論としての展開はされておらず、「ひかげ」「ひなた」の意味、或いは転じて「かくす」「あきらか」の意味で使われているに過ぎない。ただ、後の中国医学の基礎をなした『黄帝内経』(『素問』『霊枢』)に大きな影響を与えた「虚実篇」では、
  夫れ、兵の形は水に象る。水に形は高きを避けて下きに趨く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。……故に兵に常勢なく、水に常形なし(虚実篇)
 陰陽という言葉の代わりに虚実という言葉を使い、相互に対立概念を働かせ相互干渉することを示しており陰陽論のきっかけを成している。
 陰陽が理論として形作られるのは戦国中期ごろからと考えられている。これは、『論語』(孔子紀元前五五三−四七九 成立詳細不明)や『孟子』(孟子紀元前三七二−二八九 成立詳細不明)などには陰陽の記述はないが、孟子より少し時代を下った『孫の兵法書』には陰陽及び陰陽五行論の相剋説が登場しており、それが一つの拠り所となっているからである。
  b『孫の兵法書』(戦国時代中期 紀元前三〇〇年代)
 次にその孫の兵法書を見てみる。この中の「地葆篇」、つまり軍事上から各種の地形の優劣を説いている篇では次の言葉が出ている。
  凡そ地の道は陽を表と為し、陰を裏と為し、……(地葆篇)
 この様に陰陽を単なる日向日陰の意味から脱して抽象的意味を持たせてる。この他にもこの書の中には陰陽の言葉を使っていないものの、明らかに対立する言葉(例えば、雄雌・積疎・衆寡など)を用いてその強弱を論じ、しかもそれらが時と共に互いに変化することを述べている篇がある。これは後の「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」という陰陽観の始まりでもある。
  c『易経』
 次に今でも陰陽=易といわれるくらい密接な関係がある易経を見てみたい。
 @易経を大きく分けると、その本文と解説の部分から成っており、本文を「経」、解説を「伝」という。「経」は、六十四の掛とそれに付せられた掛辞、爻辞で構成されており、掛辞とは掛全体を説明する文章、爻辞とは掛のそれぞれの爻(陽爻・陰爻)にかかる文句で判断の微妙な意味合いを表現している。掛は、六本の爻から成り立ち、上の三本を外卦、下の三本を内卦といい、この三本から成る組み合わせがいわゆる八卦である。
  ※八卦……乾()兌()離()震()巽()坎()艮()坤(
 一方、「伝」には、全部で十篇あり、別名十翼とも言われている。
  ※十翼……彖伝上下・象伝上下・繋辞伝上下・文言伝・説卦伝・序卦伝・雑卦伝
   彖伝上下……掛辞の解説で六爻の全体の形から掛の意味をとらえている。
   象伝上 下……「大象」と「小象」に分けられる。「大象」は掛全体の説明だが彖伝と異なるのは、三爻に分けてつまり八卦に還元して、その八卦の持つ雷や風などの組み合わせで全体の掛を説明しようとしている。
         「小象」は各爻の位置に重点をおいて説明している。
   繋辞伝上下……易全体の概論である。易を単なる占いから哲学にまで高めようとしたものである。
   文言伝……六十四掛の内でも最も重要な「乾」、「坤」の二つを説明している。
   説卦伝……前半は易全体の概論、後半は八卦の象徴を説明している。
   序卦伝……六十四掛の序列の意味を説明している。
   雑卦伝……六十四掛の特色を一言で説明している。
 Aこの易経の成立は、部分部分で異なっており(経……通説では東周時代 伝……東周から前漢初期)、当初はおみくじの文句程度のものであったものが、時代を経るにつれて儒教家や陰陽の力により中国の中心思想にまで発展したのである。次に本文と解説文の陰陽を見てみよう。
 B本文中の陰陽は、単なる「ひかげ」「ひなた」の意味でしか使われていない。一方、解説文中の陰陽は、理論として明確に現れている。陰陽という言葉で示してあるところと剛柔と表現してあるところがある。剛柔を使ったものは比較的成立年代が早いものに多く、逆に陰陽を使ったものは遅いほうに多いことから、陰陽思想の前段階として剛柔思想があったものと思われる。
  天の道を立てて陰と陽と言い、地の道を立てて柔と剛といい、人の道を立てて仁と義という。三才(天人地)を兼ねてこれを両つにす。故に易は六画にして卦をなす。陰に分かれ陽に分かれてついに柔剛を用う。故に易は六位にして章を為す(説卦伝)
  (天人地三才の思想を呼吸することにより、陰陽を天道に剛柔を地道に模して、陰陽が剛柔よりも一つ上の概念であることを示す)
 しかし、剛柔思想には、お互いに交流し合う、又は反発し合うという論理はあるものの、陰陽思想のように「気」の循環思想はまだ見られない。そして、成立年代の最も新しい部類に属する繋辞伝に至って、陰陽という言葉とともにこの循環思想が強く表現されている。
  日往けば則ち月来り、月往けば則ち日来り、日月相押して明生ず。寒往けば則ち暑来り、暑往けば則ち寒来り、寒暑相押して歳なる。往とは屈也。来とは信也。屈信相感じて理生ず。また終れば則ち始まる。さらに一陰一陽する。これを道という。これを継ぐものは善也。これを成すものは正也。(繋辞伝)
 この様な循環思想が、自然界の大法則となっているだけでなく、大きくは宇宙生成論、身近かでは四季の変化や為政者の徳という問題にまで拘るようになってきたのである。そして、淮南子にいたって陰陽論は一応の完成を見ることになる。
  道は一に始まる。一なれば生ぜず。故に分かれて陰陽となる。陰陽和して生ず。故に曰く一、二を生じ、二、三を生じ、万物を生ず
 それでは、次に古典医学の分野での陰陽論を見ていきたい。
    2古典医学における陰陽論
  a三陰三陽論
 今まで見てきた文献からは、素問・霊枢・難経などの古典医学で重要視されている三陰三陽論(三陰……太陰・少陰・厥陰 三陽……太陽・陽明・少陽)は論じられていないので、この三陰三陽論は中医学独特の理論として発生展開されてきたものと考えられている。もう少し時代を下って医学以外の書物を見ると、紀元前一二〇年代頃のものと考えられる董仲舒の『春秋繁露』がある。
  少陽は木によって起り、春の生ずるを助くるなり。太陽は火によって起り、夏の養を助くるなり。少陰は金によって起り、秋の成るを助くるなり。太陰は水によって起り、冬の藏を助くるなり。(天弁在人篇)
  春に至り、少陽東より出で、木に就く。之と倶に煖なるなり。(陰陽終始篇)
 しかし、ここでは太陽・少陽・太陰・少陰と五行説との繋がりは見られるが明快な三陰三陽論は論じられていない。
  b『史記』(紀元前九一年成立 著者司馬遷)
 次に、司馬遷の史記「扁鵲伝」を見てみる。原始的な医療が、シャーマンなどの呪術師に委ねられていたことはどの民族でも共通のことだが、中国ではそれが「巫」に代表されていた。呪術的病因観というものが一般的であり、祭祀や祈祷などにより病因つまり病気の原因を取り除くことが行われていた。しかし、時代が経つにつれて病気は体内の「気」の異常と考えられ、当人の不摂生に対して外界の「気」が体内の「気」に作用して病気になるという呪術的病因観から脱却した思想が表れてきた。扁鵲とはそうした過渡期の時代に現れた何人かの人物の呼称である。この伝によると、陰陽が互いに交錯し合って臓器のバランスを取ると考えられ、従来の病因観に「気」の概念をベースにした陰陽論が組み込まれたのだが、ここではまだ三陰三陽論は登場していない。
  太子の病が如きが、いわゆる戸蹶というものである。それ陽、陰中に入るを以て、経にあたり、絡をまとい、分かれて三焦、膀胱に下る。これをもって陽脉下遂し、陰脉上争し会気(八会穴)閉じて通ぜず、陰上りて而して陽は内行し、下って内に鼓せずども起ず、上下絶して使と為さず、上には絶陽の絡あり、下には破陰の紐あり、陰破れ陽絶し、色は廃し、脉は乱れ、故に形静かにして死状の如し。それ陽が陰に入るを以て藏をささえる者は生き、陰が陽に入るを以て藏をささえる者は死す。(扁鵲伝)
  (太子の病は、いわゆる「戸蹶」と呼ばれるものだ。それは陽気が陰の部に入ったため胃を動かし、経絡をまとって流れ、別れて三焦、膀胱に下った。これにより陽の脈が下行し、陰の脈が上行して、陰陽の「気」が閉塞して通じなくなったのだ)
  c『素問』
 次に古典医学の基礎ともなった『黄帝内経』を構成する一つである素問を見てみる。
 素問の成立年代は、各篇でバラツキがあり明らかではないが、だいたい前漢中期より後漢にかけてと考えられている。素問ではその前半部分で陰陽論が述べられており、その中でも最も古いとされている「四気調神大論」では、
  陰陽四時は万物の終始也。死生の本也。之に逆すれば災害生じ、之に従えば則苛疾起らず。是を道を得ると謂う。
  陰陽に従えば則ち生き、之に逆すれば則ち死す。之に従えば則ち治まり、之に逆らえば乱る。(四気調神大論)
 陰陽が万物の根本であり、災害も病気も陰陽の法則に従うか否かにより起ったり治まったりすると述べている。また、「陰陽応象大論」では、
  陰陽は天地の道なり。万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始、神明の府なり。(陰陽応象大論)
 陰陽は宇宙一切万物の変化消滅の元であると説いており、自然界のみならず天人地から人体内部に至るまでその法則に従っていると説いている。
 この様に素問では、自然と人の関係、病気の在り方などの変化を陰陽によって論じ説明しようとしている。これがやがて『傷寒論』(つまり急性熱性病の理論)に継承され、素問では単なる経絡分類の呼び名にすぎなかった三陰三陽を病気の変化を捉らえる理論にまで発展し、より細分化した病気の状態を示すことが可能となった。
  d『傷寒論』
 傷寒論は素問と同様に陰陽論を骨格理論としているが同一ではない。一番大きな相違点は、@素問がその成立に数百年かけていること、そして、A内容が、自然と人の関係、病気の在り方、経絡と臓腑の関係、発病理由からその予防法までと非常に広い範囲に及んでいるのに対して、傷寒論は、成立が後漢初期と限定でき、また、内容も傷寒つまり急性熱性病の発病から死に至るまでと限定されていることである。その理論は、発病から死に至るまでの経過を体の衰弱度により大きく陰病と陽病に分け、更に各々を三陰三陽すなわち太陽病・陽明病・少陽病・太陰病・少陰病・厥陰病の六つに分類している。そして、その経過を追う尺度として寒熱・表裏・内外という考えを取り入れている。表裏・内外は体の部位を示し、寒熱は発熱の量を示すバランスシートの役割を持ち、一般に熱多く寒少なき状態が陽病とされ、その逆が陰病とされた。これらの寒熱・表裏・内外という表現は、あくまでも陰陽という基本概念の代替えの言葉に過ぎず、同じ事を表現するのに混乱を避けるために使っているにすぎないのである。しかし、この様に他の表現を使うことにより、より細分化した病気の状態を示すことができた。
 以上、古典の文献を見ると、もともと「ひなた」「ひかげ」という意味に過ぎなかった陰陽が、物事の対立概念として生まれ、万物の根源であり、「凝集・拡散・流動」という「気」のエネルギーによる循環思想が誕生し、自然界だけでなく四季の変化や為政者の徳という問題にまで拘るようになった。一方、巫に代表される呪術的病因観にも陰陽が組み込まれることにより、より詳しく人体を知り、病状を細分化することによって病を知り、治す或いは予防するという方向に進んできたのである。

二、五行論
 現代の中国や日本の文化にまで大きな影響を及ぼしている五行説の発生は、明確にはできないが通説ではおよそ春秋時代と言われている。しかし、ここでは後の相生・相剋というお互いのエネルギー移動といった相互関係はいまだなく、五行も人々の生活に必要な五材といった観念にすぎなかった。また、五行の起源については、中国には古来より五居・五族・五山・五鳥・五鳩など五の数が大変多く用いられていたこと、及び四方と中央とで五方概念が確立し五方に神々を祀る習慣があり、その習慣をベースに風はその神々の使いとする五方信仰があったことが起源であるという説がある。つまり、五行の初めは、五方信仰から季節の順調な変化や五穀豊饒を祈り、やがて祭礼や生活との関連において、季節や方向を示すものとしての五材(金・木・水・火・土)が考えられるようになったと思われる。
  天、五材を生じ、民ならびにこれを用う。ひとつも廃すること不可也(『春秋左伝』「襄公二七年」)
  水・火・金・木・土・穀、これを六府という(『春秋左伝』「文公七年」)
 そして、この五材が五行として抽象化され、相対化され特に相剋説などが考えられるようになったのは陰陽家の鄒衍が大きな役割を果たしたと言われている。鄒衍は(紀元前三〇五〜二四〇年とも三二〇〜二五〇年ともいわれている。鄒衍の著作は現存していない)、およそ戦国時代末の人と考えられている。彼は、大九州説という地理的世界観を提唱しただけでなく、五徳終始説と陰陽主運説を元にした陰陽五行論の体系化を行った人物でもある。五徳終始説とは、王が五行の徳に則って徳をたっとび仁義の治を敷くべきことを説いた説だが、これを陰陽及び方位に結合して陰陽主運説を展開した。
    1陰陽主運説
 鄒衍は、土を(「和平用均、中正無私」として)四時の中心に位置させ、木・火を陰、金・水を陽として陰陽主運説を作り、君主はこの五時に従って徳を行うべきことを説いたもの。この陰陽主運説により一応陰陽と五行はドッキングをし、以後、陰陽五行論へと展開していくのである。また、素問などに多く使われている土王説(五行は全て同格ではなく、土がより一段高い位置にあり、それゆえ中央に位置して他の四行に影響を与えているという考え)の原型にもなっている。
    2五行説における相互関係
 次に、五行説における相互関係を見てみよう。五行の行とは天の「気」を行らせるということで絶えず運動し変化するもので、そしてその法則には次の四つの相互関係がある。
  @相生関係
 相生とは、互いに他を生じる協調関係のことを言う。生ずるものをつまりエネルギーを与えるものを母、生じたものをつまりエネルギーを貰うものを子とする親子関係ともみられ、これを順と言う。逆に子から母を見た関係を親しむという言葉で表現され、相和または逆という。即ち、「木が燃えると火となり、火は後に灰土となり、土の中から金属鉱物が得られ、金属は溶けて液体となるとか、金鉱のある所には水源があるといわれ、水があればそこに木が育つ」というように考えられる(図−1)。
★図1・2  A相剋関係
 剋には「勝つ・殺す・抑する」という意味があるが、五行の間には全て相互制約・相互阻止の関係がありこれを相剋と言う。木火土金水の一つおきの関係で、剋する側から見たときを縦、逆の側から見たときを相畏又は横という。即ち「木は土から養分を吸い取り、土は水をせき止めたり吸収したりし、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属は木を切る」ということ(図−2)。
  B勝復関係
 相生・相剋は単独に影響し合うのではなく、相剋の中にも相生が働いて互いにバランスを取ろうとする。これを勝復という。例えば、木が相剋関係にある土に勝つ場合、一方的に土は剋されるのではなく、土の相生関係の金が(金は木の相剋関係にある)働いて五行間のバランスを取ろうとすることである。勝とは相乗の意味で、復とは報復の意味。五行がコントロールを失って一方を損害させた場合、それが一定限度に達すると、損害を受けたほうに相応の反応が現れて、新たなバランスをとろうとする。病気の際に自然治癒が行われるのもこの勝復関係の現れと考えられた(図−3)。
★図3・4  C相乗・相侮関係
 相乗とは相剋の度合いが過ぎた状態をいい、相侮とは普段剋されていたものが逆に剋すようになる逆転の現象をいう。例えば、木が強くなり過ぎた場合、土を剋し過ぎる。これが相乗で、そのバランスを取ろうとする働きが勝復であるが、それでも木が弱くならない場合、木を剋すべき金も相生にある土が弱くなるのに引き摺られて弱くなって木に剋されてしまう。これを相侮という。乗とは相手の虚に乗じて入ること。侮とは反対に相手を剋しバカにすること(図−4)。
 このように五行は、絶えず運動変化して、どの一行も他の四行に対して常に「我を生ずる」「我が生ずる」「我を剋する」「我が剋する」といった相生・相剋の関係をもってバランスを保っている。そのバランスが崩れた時に回復させようとする働きが勝復であり、それでも回復できないときに相乗や相侮となる。人体でいえばこれが病気の状態とされていたのである。

三、まとめ
 以上、「気」のエネルギーをもとに、自然界のみならず人体・政治・果ては人の在り方などあらゆるものにまで応用されていった陰陽五行論の概要を見てきたが、それではこの理論は現代にどういった意義をもたらすのであろうか。
 中世のヨーロッパのルネッサンス運動を起点に始まった近代科学技術は、デカルトの物心二元論やニュートン以来の近代物理学に支えられて発展し、我々に多大な物質的恩恵をもたらしてきたが、それだけでは行き詰まりを見せているのも事実である。「中国の科学と文明」の著者ジョセフ・ニーダムは「我々は、機械論的自然観の上にたって科学を発展させてきたが、行き詰まりを見せている今、それが唯一の科学の在り方ではなく、あらゆる存在を有機体と見なす必要が生まれてきた。」と言っている。つまり、あらゆる存在は有機的繋がりによって存在しているという認識が必要になってきた時代なのである。
 ここに「気」のエネルギーを元に対立・循環・相互の交流によってあらゆる事象を説明しようとした陰陽五行論の思考がクローズアップしてくるのである。
 宗教は、肉体を相手にするのか、それとも心を相手にするのかを問うた時、十人中九人までが心と答えるであろう現在において、宗教が人間性(人格)の向上を目指した思想であるなら、心のみを相手にしてきた今の宗教は果たして本当の宗教といえるのであろうか。肉体だけの人間、心だけの人間は存在し得ない。肉体と心が有機的に繋がり、つまり表裏一体となって初めて存在するのが人間である。そして、その人間を相手にする宗教も当然の帰結として肉体と心を同時に相手にしなければならない筈である。そういった意味でこれからの宗教者には、心身論(身心論)ともいうべき領域が不可欠になってくるのではないであろうか。
 いまの宗教は余りにも心ばかりを強調し精神論的になりすぎている気がする。本来はもっと肉体と心の向上を説く身心論的思想であるべきではないのだろうか。それゆえ昨年よりの研究において、自分なりの「気」をキーワードにした宗教の見直しとは、「心身の両面をとらえた行学を目指すべきである」との一応の結論を導けることができたのではないかと考える。

〈参考文献〉
 『陰陽五行説』 根本幸夫 根井養智 (薬業時報社) 平成三年
 『気』 丸山敏秋 (東京美術) 昭和六十一年
 『仏教ヨーガ入門』 飯島貫実 (山喜房仏書林) 平成五年
 『気流れる身体』 石田秀実 (平河出版社) 昭和六十二年
※本稿は平成七年十月二十八日、立正大学において開催された第四十八回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものに加筆したものである。








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