日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第30号:105頁〜 寄稿 ←前次→

寄稿  宗祖のご舎弟・貫名藤平家の伝承考
石川修道
(元現代宗教研究所研究員)

 日蓮聖人は、自身の家族について御遺文中言明されていません。両親の名も挙げず、ただ「父母」と呼びます。
日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云フ ところに生れかわり給フ (1)か
父母の御恩は今初て事あらたに申ス べきには候はねども、母の御恩の事、殊に心肝に染ミ て貴ク をぼえ(2)候
 『法華本門宗要集』下巻(二一五八頁)には、父が「東条小湊の浦の釣人権頭」といい、日朝『元祖化導記』(一四七八 文明十年)には、父の名を貫名五郎重実の次子重忠と記し、日潮の『本化別頭仏祖統紀』には、母は清原氏出身、舎人親王の後裔・畠山一族の大野吉清の女梅千代といい、法名は妙日・妙蓮。父は正嘉二年(一二五八)二月十四日、母は文永四年(一二六七)八月十五日に歿したと伝えている。
 宗祖の兄弟は四人説、五人説がある。いづれも男兄弟である。
  一、系図御書・当家宗旨名目(寛正二年 聖滅一八〇年)
重実 貫名仲太
〃仲三 日蓮
〃仲四 
  二、長禄寛正記(長禄四年 聖滅一七九年)
盛直 良道
俊直
政直 重実 重忠 日蓮 
  三、本門宗要鈔
安房国長狭郡東条小湊の浦の釣人権頭の子なり。
 
  四、元祖化導記(文明十年 聖滅一九七年)重実  長男
重忠
  藤太
夭死
仲三郎
日蓮
藤平 
  五、註画讃(記作未詳 著者日澄歿永正七年 聖滅二二九年)
重忠 四男日蓮
 
  六、小湊系図・貫名氏系図  
重実
 貫名六郎
   
重直
貫名太郎
  
重忠
貫名三郎
  重政 貫名太郎藤太
早死
薬王丸
重友 貫名三郎藤平 
  七、本化別頭仏祖統紀(享保十五年 一七三〇 聖滅四四八年)重実 重忠 重政
夭死
日蓮
重友 貫名仲三郎藤平 
  八、日蓮大士真実伝
重実
 
  早世
 
重忠
 
  藤太重政
早世
仲三重仲
日蓮
藤平重友 
 日蓮聖人に兄弟がいたことは確かである。その長兄藤太重政と次兄仲三重仲の系類が続いた記録はない。末弟の藤平重友の系類は、現在に至るまで続いている。『本化別頭仏祖統紀』には、
重友ハ 呼 二貫名仲三郎藤平ト一也。平カ 之後裔豪富ニ× 子孫ノ 居多クハ 今住ス二手(上)総之於多喜郷ニ一(大多喜)一族皆以 二藤平ヲ一為ス二家公ト一(3) 
 『日蓮大士真実伝』には
末子を藤平重友と号し。此子孫藤平を姓として、今猶上総国大野の郷に存在せ(4)り。
 上総国、現在の千葉県夷隅郡夷隅町大野附近には、藤平一族が一〇三軒集落している。大野より藤平一族の末流は、大多喜町に十九軒、大原町に七十二軒、長南町十二軒、富津市に一二三軒、茂原市に二十一軒、木更津市に十五軒、鴨川市に八軒、館山市に三十五軒、君津市にフジヒラ(藤平)十九軒、トウヘイと読む(藤平)が久留里に六軒、市原市に二十二軒、勝浦市に二十三軒、鋸南町に十二軒ある。
 日蓮聖人の葬送儀が行われた弘安五年(一二八二)十月十四日のあと、宗祖の御遺物が第子檀越に分け与えられた。日興上人がこまかに書き留めた『御遺物配分事』に(5)は、
御きぬ一、安房国新大夫入道
御きぬ一、かうし後家尼
御小袖一、安房国浄顕房
御小袖一、同国義成房
御小袖  同国藤平
とあり、宗祖の弟に藤平がおられたことが記録されている。山川智応博士は『日蓮聖人伝十講』に、「長兄を藤太 末弟を藤平と通称する所を見れば、宗祖は貫名氏の出で、更に貫名氏は藤原氏の後裔なり」とするは、正当なりと述べている。
 玉沢妙法華寺系、京都本満寺四十九世、境達院日順上人記による『御書略註』に(6)は、
男金新大夫入道ハ向師ノ舎兄
清澄ノ浄顕房ハ吾祖ノ御舎兄
小湊の藤平ハ宗祖ノ御舎弟
と説明している。
 夷隅町大野に在住の藤平孝子氏所蔵の藤平氏系図(古系図を嘉永三年・一八五〇、藤平重賢新平が写書したもの)
重政藤太 後出家シテ浄円坊ト云フ。其後日蓮聖人スゝメニヨッテ法華宗ニ成ル。
 (次男)早死
薬王丸 貞応元年御誕生、延応元年出家アリテ是性ト云フ。其後自ラ日蓮ト改メ玉フ。弘安五年御入滅也。是則チ法華経弘通之祖也。
重直 出家シテ浄顕房ト云フ。
重友藤平

重継 安房三郎、(一三四九)貞和五年十一月十八日 蓮継居士。重友之長子也、重友之仮名藤平ヲ苗字トス、是則チ藤平氏之元祖也。重継ニ男三人女二人有り、二女共ニ早世。三男亀松家督相続ナリ。後喜平太重輝ニ改ム、重継父子北条相模守平時行ニ属シテ相州小田原ニ住居也。
 この系図は、三男の重直と四男の薬王丸が逆になっている。ともかくこの系図と御書略註の説明により、宗祖の長兄が浄円坊となり、次兄の重直、または仲三重仲が清澄寺の浄顕坊となり、宗祖を御養育し外護したのである。よって宗祖の兄達は出家したため妻帯せず、その末裔がいないことが理解できるのです。大野金谷に住む藤平嘉左衛門所持の系図によると、藤平重友は上総国大野に住し郷士であったと言う。重友の第三子亀松こと重継は苗姓を貫名より藤平に改め、北条相模守平時行の家臣となり小田原に住居したと伝える。大野館を貫名の遠祖の名と同じく「井伊ヶ城」と呼び、次の重輝は祖父重友の館を、のちに池上本門寺三世日輪上人(一二七二−一三五九)の弟子日契上人(−一三五六)と計り、元亨三年(一三二三)三月二十八日、大野竹之沢に瑞龍庵を建立。今の栄久山光福寺である。宗祖入滅より四十年頃に当る。第二世は中老僧、淡路阿闇梨日賢上人(一二四三−一三三八)は、法兄日源上人(岩本実相寺 中老僧)を開基として雑司ケ谷鬼子母神の法明寺を開山となり創建する。また法兄日位上人(池田本覚寺)は、駿州の天台宗古刹。峨岳寺を改宗させ村松の海上寺(徳川期に海長寺と改称)を開く。日位上人は法統を法弟の日賢に譲り池田に退き、日賢が第二世となる。日賢上人は駿州安東村の出身である。このように初期日蓮教団は、宗祖のご兄弟の存在を知り、大切に守ってきたのである。
 宗祖入滅一四六年後、この大野村横宿向台に池上本門寺八世常在院日調上人(一四二八−一五〇一)が誕生する。父は池上・比企谷両山の大檀越狩野叡昌の子で法号を朗舜といい、母は足利の人で法号を祐幸善尼といった。朗舜は両山第七世・稚児貫首といわれた塵劫院寿景日寿上人(一四三一−一四五二)の叔父であり、日寿上人の母・理哲尼の兄である。日調上人の祖父狩野叡昌と、叔母の理哲尼は、久遠成院日親上人(一四〇七−一四八八)が、後花園天皇より京都四条高倉に地を賜ったとき、本阿弥清信はその地に本法寺を建立した(一四三六)。この時狩野家は多額の浄財を寄進した。よって山号は狩野叡昌に因んで、叡昌山となったのである。
 『別頭統紀』に(7)は、日調上人の兄が狩野伯耆守友清入道行蓮とし、大明の如雪に画を学び、子の狩野元信に画を伝えたと述べている。元信は日調上人の甥となる。兄の友清入道行蓮は比企谷妙本寺火災の時は迦藍を復興し、大野光福寺を新築し、光福寺五世となった日調上人は教線を上総伊豆に張り、文明十二年(一四八〇)竹之沢より現在の台地へ光福寺を移した。「毎ニ 給ス二雲集五百七百之僧ヲ一」といわれる盛況であった。この年、領主里見安房守累代の祈願所となり、これよりさきの応仁元年(一四六七)里見義成(二代成義)より境内不入の黒印状が寄せられている。日調上人は上総伊豆に一九ヶ寺開基している。
 日調上人は二十五歳で両山貫首となり(一四五三)、十四年後には応仁の大乱(一四六七−一四七七)が十年間あり、戦乱に民衆が苦しみ、各地に一揆が蜂起し、戦国大名が盛んに兵を動かした乱世であった。京都には法華・禅・真宗が教線を張り、戦乱の世に武士や庶民が信仰を求めた。本願寺八代法主の蓮如(一四一五−一四九九)は北陸だけでなく、全国の真宗門徒を本願寺のもとに組織し、臨済の一休和尚(一三九四−一四八一)は「風狂」を通じて禅を大衆化した。法華宗は庶民教化の一方、公家武家に対し本宗独特の「諌暁」という布教に力を注いだ。そのため為政者の怒りにふれ、屡々強烈な弾圧を受けた。
 鍋冠日親上人(一四〇七−一四八八)、身延の行学院日朝上人(一四二二−一五〇〇)、京都本覚寺の真如院日住上人(一四〇六−一四八八)、上総七里法華の心了院日泰上人(一四二三−一五〇六)、平賀の妙高院日意上人(一四二一−一四七三)、八品門流の祖・慶林院日隆上人(一三八五−一四六四)等の死身弘法者が輩出し、教線は発展し(8)た。
 この日調上人の生誕地大野村こそが、日蓮聖人のご舎弟藤平重友公末裔の居住地であり、狩野一族とは当然のことながら法華信仰の交流勧奨があったと思われる。
 狩野一族は、二階堂景信が伊豆加茂郡字狩野邑に住むようになって狩野を名乗ったと『国史辞典』(古川弘文館)に記している。狩野家はいつの時代に法華信仰と接したものか、いつの時代に伊豆狩野川流域より上総夷隅郡大野村に移ったのか明らかでない。狩野川流域には、法華信者の江川太郎左衛門英久(義久)、北条家一門の名越光時と江川氏と親しい家臣の四条金吾関係者、下流には岡宮光長寺日法上人関係者がおられる。また狩野を名乗る前の二階堂姓は、六老僧日興上人の母方実家である由比家の縁戚である。
 玉沢妙法華寺三十三世境持院日通上人記の『玉沢手鑑草稿』によると、
印東、狩野、伊東、工藤、二階堂等皆同姓(9)也
と述べて、同族であると言う。ちなみに宗祖の佐渡赦免状の判形四人とは、政所と問註所の執事職である次の四人である。
二階堂行兼、菅原清長、藤原行平、二階堂光(10)網
 文永十一年二月十四日の赦免状は、狩野・二階堂の一門である工藤祐経の娘で印東祐昭に嫁した日昭上人の母・妙一尼が訴訟人となって申請されたもので、許可した政所と問註所の執事四人のうち二人が二階堂の人物であった。実は、鎌倉幕府の中には反日蓮派のみでなく、親日蓮派も存在していたのである。 資料一 藤平家系図
嘉永三年(一八五〇)藤平重賢新平所蔵系図と藤平達夫氏調査による。平成七年十月 石川修道作成
     重政(藤太)
     次男(早世)
貫名重忠重仲
     善日麿(日蓮)
     重友(藤平)
 夷隅大野村ニ館ヲ構エル 
 
 安房三郎
 藤平ヲ苗字トス
重継
 北条時行ニ属ス
 小田原ニ住ス 
 
 
 喜平太・喜右衛門
重輝 
 
 安房守
 蔵之丞
重道
 上野国ノ軍功ニヨリ
 伊豆ニ二百貫領ス
 
 重良 於上野国討死
 重照  〃
重行・左京亮
 重俊
 重隆 
 喜右衛門
重安 
  上総千本城主
重範
重恒 越州長森原ニ討死
重利  〃 
千本城主 東平安芸守か
重国
  重房 久留里藤平ノ祖
  重盛 小田原落城ノ時
      埼玉玉川村ニ入ル
 
  喜右衛門
重祐 夷隅郡大野村
  藤平真丈・孝子氏
  大野村川崎ニ住ス
  
  千本城主
重忠・左京
  天正十七年上総万木城
  土岐頼春ニ一族加勢ス
  右近
重胤 埼玉玉川村
  藤平高三氏
  天正十八、七、十一
  小田原落城ノ時、重盛ト共ニ討死ト伝フルガ
  埼玉玉川村小倉城ニ入ル
 
  蔵之丞
重郷 埼玉都幾川村
  藤平達夫氏
  大多喜城主本多忠勝ニ仕ヘル
  大野村金谷ニ住ス……子孫勝浦藤平ノ祖トナル
 
  平右衛門
  祖父重国、父重忠ト
  大野村横宿ニ住ス
重共新次郎 夷隅郡大野村
藤平栄治・やすこ氏 
      向島ノ祖
    平右衛門
      南中興ノ祖
    勘五郎 鴨川妙昌寺
藤平賢栄・存秀師  
      古込ノ祖
 
  源五郎
  本多忠勝・忠朝ニ仕ヘル
重武 その他 久留里
  藤平実・量郎氏
  元和元、五、七、大坂夏の陣・
  天王寺ニテ忠朝公ト共ニ討死
 藤平家の系図(資料1)によると、宗祖のご舎弟・貫名重友藤平は、小湊より上総国夷隅大野村に移り館を構えたと言われる。それが本宅であるのか、別宅であるのかは不詳である(重友公の法名、宗助院日法。正和元年二月二十四日歿)。『御書略註』によると、宗祖の長兄「藤太重政ハ出家シテ浄円房ト云フ也。日在ト号ス。房州ト下総ノ妙蓮寺ノ二祖也。次男ハ早世也。三男ハ藤三重仲ト云フ、後ニ出家シテ浄顕房と云フ也。日仲ト号ス。両妙蓮寺ノ三祖也。四男ハ薬王丸宗祖也。五男ハ藤平重友ト云フ。宗祖滅後ニ出家シテ宗助院日法ト号ス、房州妙蓮寺ヲ開基シテ自分ハ四世ト成ル。」
 『略註』によると、小湊妙蓮寺は、妙日妙蓮日在(浄円房・藤太重政)日仲(浄顕房)宗助院日法(藤平重友)と続く。
 宗祖の母の生誕地・下総道野辺妙蓮寺は、妙蓮日礼(曽谷教進)日在日仲と続くと記されている。
 誕生寺の歴世、日蓮寂日房日家日保 日静 日東と続き、『日蓮宗寺院大鑑』によると、妙蓮寺四世の日東が誕生寺五世に晋んでいる。その前が日静である。『御書略註』にいう重友の宗助院日法は日静と同一人物か、又は日静は重友公の次子か、今後の研究が待たれるところである。
 
  初代重継
 貫名を改姓して藤平とする。重継に三子あり、嫡子早世、女子早世、第三子亀松は喜平太こと二代重輝となる。重継は安房三郎とも号し、建武二年(一三三五)七月、北条高時の遺子時行が信濃に挙兵し相模に侵入、相模川で足利直義を破り北条家再興のため鎌倉を占領した〔中先代の乱〕の北条時行に属し、小田原に住したという。貞和五年十一月十八日歿(一三四九)、法名・蓮継居士。
 重継の時代は、宗祖滅後約三十六年。後醍醐天皇が即位し、執権職の北条高時は田楽、斗犬にふけり、施政は内管領長崎高資の専横にまかされていた。元弘元年(一三三一)五月、討幕の陰謀がもれ(正中の変 一三二四 元弘の変 一三三一)、日野資朝・俊基は捕えられ、八月後醍醐天皇は京都より笠置にのがれたが捕えられ隠岐島へ流され、楠木正成が千早城へこもった南北朝時代である。足利尊氏は護良親王を鎌倉に幽閉し、北条時行の〔中先代の乱〕の時、足利直義は鎌倉からのがれるさい、相模原の武士・淵辺義博に命じて護良親王を殺害させた。この〔中先代の乱〕は、その後半世紀にわたる南北朝内乱のきっかけとなった。南朝新田・北条軍が組して、北朝足利軍と対することにより、北条家は後醍醐天皇より与えられた朝敵の汚名を、天皇自信によって拭われた。
 
  二代重輝
 亀松こと喜平太・喜右衛門と号す。足利尊氏に属す。応永十年五月七日歿(一四〇三)、法名・蓮輝居士。
 重輝の時代は、後醍醐天皇吉野に崩じ、新田義貞、足利尊氏も歿し、宗良親王は信濃に挙兵、菊地武朝・大内義弘らは懐良親王を奉じて肥後に戦って敗れ、南北朝統一(一三九二)への時代である。
 重輝は、池上本門寺三世、大経阿闍梨日輪上人(一二七二−一三五九)の弟子、瑞龍院日契上人(−一三五六)を招き元亨三年(一三二三)三月二十八日、竹之沢に瑞龍庵を建立する。今の光福寺である。宗祖入滅より四十年頃に当たる。第二世は中老僧、淡路阿闍梨日賢上人(一二四三−一三三八、九十六歳)が入る。日賢は駿州安東村の生れ、岩本実相寺日源上人の法弟にして雑司ケ谷鬼子母神・法明寺の開山となり、清水市村松海長寺日位のあとを受け二世となる。瑞龍庵の五世に池上本門寺八世、常在院日調上人(一四二八−一五〇一)が入る。
 日調は藤平一門の住む、大野村横宿向台に生まれる。南北朝時代、足利方についた狩野氏は伊北・伊南の主として大野城に住む。父は狩野叡昌の子息・狩野伯耆守(法名ハ朗舜)、母は足利氏の娘(法名ハ祐幸)である。師は比企谷常住院日隆上人、日調二十五歳にして享徳元年(一四五二)池上・比企谷の両山貫主となり、当地は有縁の地なるに瑞龍庵に住して近郷を教化する。文明十二年(一四八〇)竹之沢より現在の台地に移し、院号を改め栄久山光福寺とした。この年、領主里見義実(初代)より命ぜられ、安房上総二郡の祈願所となる。父の朗舜は池上・比企谷七世、稚児貫主といわれた日寿上人の母・理哲尼の兄である。日寿の父は山内上杉家の家老長尾家の小五郎。理哲尼は久遠成院日親上人(一四〇七−一四八八)が、後花園天皇より京都四条高倉の地を賜ったとき、本阿弥清信と共に多額な浄財を寄進し、本法寺を建立した。理哲尼の父、つまり日調上人の祖父狩野叡昌の名に因んで叡昌山の山号となった。日寿の叔父長尾昌賢は山内上杉家の執事であった。昌賢は関東公方第四代・足利持氏の遺子永寿王を、第五代公方の成氏とすることに成功し、山内家五代の上杉憲忠をその執事とさせた(一四四四)。山内上杉家の重臣長尾家と狩野家と日寿、日調の関係が戦乱の時代に池上・比企谷の両山が安泰を得られた大きな原因であ(11)る。
 
  三代重道
 安房守、大蔵之丞と号す。上野国の軍功により安房守と任じ、伊豆に二百貫の領地を持つ。文安元年(一四四四)七月四日歿。法名・蓮道居士。
 重道の時代は、室町将軍足利義満が南北朝を統一し、足利一族以外の守護の制圧にのりだした。これに反発した大内義弘は、応永六年(一三九九)十月に挙兵した。関東管領足利満兼は、将軍義満に謀叛して上野に出陣した。将軍と関東管領との勢力争いのすきをねらって南朝の残党武士の策道があり、新田相模守等の討伐に軍功を挙げたと思われる。伊豆に二百貫の領地を拝領したと言う。この時、重道の五人男子のうち、嫡子喜八郎重良と次子平右衛門(平太)重照は上野国で討死したと伝えられる。
 
  四代重行
 太右衛門改め左京亮。明応十年(一五〇一)七月五日歿。法名・泰山居士。
 重行の時代は、関東公方足利成氏と、その執事である関東管領職の上杉憲忠の主導権争いで関東に大乱が起こる(一四五四)。関東の武士は足利成氏の古河公方と、将軍義政の弟、足利政知の堀越公方とに別れて争うはめとなった。室町幕府は上杉氏と結び古河公方を奉ずる武士の討伐を行った。古河公方を支持する武士は、北関東や房総の武士が多く、堀越公方の方は上杉憲定の家老・長尾景信を支える国人たちであった。
 これより先の正平年間(一三四六−)、関東管領の足利基氏は執事の山内上杉憲顕を安房の守護に任じて以来、安房国は山内上杉家の配下に属し、結城合戦の時、扇谷上杉持朝が安房の兵を率いたことが『永亨記』に出ている。結城合戦(一四四〇)に関東公方足利持氏に仕え、その子である安王丸、春王丸に味方して篭城した里見家基は、落城のとき子息義実を逃がし、その里見義実が安房に上陸し、安房の豪族である神余、安西、丸、東條の各氏を制圧し(文安二年 一四四五)、まもなく上総の夷隅も支配した。三代義通の時に安房国総社として鶴ヶ谷八幡を造営した明応−永正五年頃(一四九二−一五〇八)に安房一国が統一された。すでに夷隅の藤平家は里見家家臣となり、相模三浦半島では、北条早雲が三浦家の新井城を攻め、弥次郎時綱が海を渡って安房国正木郷(現館山市)に逃れた。時に永正十三年(一五一六)と伝えられている。この時綱が里見家重臣の正木大膳亮時綱で、子息の三男時忠は養珠院お萬の方の祖父である。
 里見義実が安房上陸した嘉吉元年頃(一四四一)には、すでに藤平一門は内房の吉浜(現在保田市)に進出し、富士門流妙本寺の寺門経営に多大の寄進をしていることは、「安房国 妙本寺文書」(資料2)に記されている。
資料2 妙本寺文書
 
谷山寄進藤平ノ母 永正三年九百七十四年以前也

  き志ん状之事
やつやまのいり四百文めのところの、とうへいとうしんれうく〔燈心料共〕のため★、ゑいたいめうほんしへあけおき申候。地とうまんところしんるいゑんしや、いらんさまたけあるましく。
  康正三年 ひのへとら八月十三日とうへいのはゝ 花押
   めうほんしに
吉濱村井尻★をゐて、田地三百文之所、藤平右馬允寄進令 レ申候。永代地頭代官そのいろい有 レ之間敷候。爲 レ其一札令 二進上 一候。以上。
  天正十年壬午十二月十一日
              宇部壹岐守弘政 花押
   妙本寺日侃上人
        御同宿御中
  永代地のせうけん
さりか★き所用★つゐて、吉はまの村★(於て)をゐて、はんの田さくの田兩所うり★たし申候。永代寺領として、地頭そのいろいろあるましく候。仍而、後代の★め一札如 レ件。
  天正十年壬午十二月 日  宇部壹岐守弘政 花押
   妙法寺日侃上人
            吉濱代官
 藤平右馬允光徳
 
            取持衆きこ嶋代官
 宇部右馬允弘茂
 
 
 安房
國妙本寺文書
  【解説】安房國妙本寺は鋸山麓の保田町に在る。建武年中僧日郷磯村にありて説法し、信者雲集した。吉濱の人笹生左衛門尉深く之に歸依し、堀の内を寄附して一寺を建立したのが即ちこれで、今、日蓮宗興門派の本山である。里見氏の時、五十石餘の地を寄附された。江戸幕府の時も亦然り。古文書頗る多い。(奥山)
 
  五代重安
 喜右衛門と号す。天文七年(一五三八)三月十七日歿。法名・玄唱居士。墓は吉浜妙本寺にある?
 重安の時代は、里見家二代成義(一五三二歿)、三代義通(一五一八歿)、四代実尭(一五三三歿)、五代義豊(一五三四歿)の時代である。上総と下総の境では、真里谷武田氏と小弓の原氏(千葉一族)が所領争いをしている。真里谷武田氏は古河公方足利政氏の子息義明の応援を得て永正十四年(一五一七)十月十三日に三上城を攻めて原氏を滅ぼした。藻原寺の『仏堂伽藍記』の永正十四年の条に
同年三上、真里谷ノ取リアヰニ付テ、真里谷ヨリ早雲衆ヲ
とあり、真里谷武田氏に北条早雲が加勢したことが判る。北条氏綱の上総進出に里見実尭は対立した。こののち、里見家内乱がおこり義豊が叔父の実尭を討ち(稲村の変 一五三三)、翌年残った家臣は北条氏綱の力を借り義豊を討つ(犬掛の合戦 一五三四)。この合戦で藤平一門は里見義尭に助勢した。その軍功により藤平安房守重範は千本城主となった。里見家六代となった実尭の子息義尭は、北条氏の力を借りて統一したが、北条氏の房総侵略の意図を悟って小田原北条氏と運命的な対立に入る。この頃、古河公方の足利晴氏は小弓御所の足利義明の勢力増大を恐れ、北条氏綱に義明討伐を頼み、天文七年(一五三八)十月七日、第一次国府台合戦が行われ、足利義明は敗死し、里見義尭は安房へ退く、藤平家も里見軍として参戦した。
 
  六代重範
 軍蔵、安房守と号す。上総千本城主。元亀二年(一五七一)五月六日歿。法名・蓮常居士。弟の平太重恒(重常)、平三重利は、越州長森原の合戦(一五一〇)にて討死。
 重範の時代は、戦国時代の中で守護職と関東管領職が対立し、仲裁役の幕府が一方につき戦乱の中で室町足利幕府滅亡への道である。永正三年(一五〇六)一向一揆鎮圧の戦いで討死した長尾能景の子息長尾為景は、父の死に関して越後守護の上杉房能を恨み、叛乱を起こし主君房能を自害させた。房能の養子、上杉定実を新しく守護に立てた為景に室町将軍足利義植より御教書が下り、叛乱は成功したかにみえた。ところが弟を殺されて怒った関東管領上杉顕定は、八千の大兵を率いて鉢形城(埼玉県)を出て越後に進出した。越後を制圧した上杉顕定は、守護房能にそむいた者を探し出して片っぱしから殺していった。これに越後の武士・農民は土一揆を起こして顕定に反抗した。越中から佐渡に渡った長尾為景は、戦備をととのえ進軍を開始した。この形勢をみて、同族でありながら上杉顕定方についた上田坂戸城(六日町)の長尾房長も為景に寝返った。顕定軍は各所で潰滅状態になり六万騎山(五日町)のふもとに広がる長森原に追い込まれ決戦が展開され、顕定は高梨政盛に首を取られ、多くの関東軍が討死した。六日町大字新田の長森原桑畑の中に管領塚があり、上杉顕定の墓といわれる。この古戦場跡の水田から今も白骨が出ることがあるという。道路拡張の十数年前には、房総兵の墓といわれる藤塚があったという。この地で藤平重恒、重利は討死したのである。
 
  七代重国
 千本城主・東平安芸守。喜平太、喜右衛門と号す。慶長十七年(一六一二)十月二十五日歿。法名・祐原院日心居士。
 重国の時代は、小田原北条氏康が房総へ渡り、里見義尭の久留里城を攻め、里見家に天文の内乱があり、吉浜の妙本寺日我は諸所に避難し、妙本寺の書籍、道具は悉く焼失した。聖教櫃、皮篭笈等牛十駄余りという(一五五一−一五五六)。
 戦国大名は〔遠交近攻〕の外交策を取り、里見義尭も越後の長尾景虎(上杉謙信)と手を取り「房・越同盟」を結び北条氏に対抗した(一五五三)。永禄三年(一五六〇)上杉謙信が越中の神保長職を攻めると、この好機に北条氏康は大軍を率いて里見の本拠地久留里城を包囲する。上杉が関東に入り岩下・沼田の支城を攻めると、北条は急いで久留里の包囲を解き河越へ出陣する。永禄四年には、上杉軍が小田原北条氏を総攻撃し、里見も義弘を大将として正木大膳亮らを率いて参戦する。
 永禄七年(一五六四)正月四日、第二次国府台合戦が始まった。この合戦は『関八州古戦録』等によると、太田道潅の曽孫太田康資が岩槻の太田資正と謀って江戸城の乗っ取り失敗事件に起因する。太田康資は江戸の北曲輪平河の法恩寺三十番神堂にて北条氏討滅の密議をした。それが江戸城守将の遠山丹波守に密告され、康資は暗夜に兄弟郎徒を連れて江戸城を脱出し、太田三楽斉資正のもとに走り、里見義弘の出陣を頼み康資・康正ともに国府台に出陣した。正月七日の初戦で大勝した里見軍は夜酒をくみかわし休息中、渡川した北条軍に八日未明総攻撃を受け敗れる。落馬した里見義弘は安西伊予守実元が自分の馬に乗せて逃がし、自身は討死する。正木時茂の子息、大太郎及び金山城主正木弾正左衛門弘季も討死する。
 国府台合戦後、永禄七年の終り頃、正木左近大夫時忠は里見より北条と結ぶ方が有利と考え、叛乱をおこして戦死した弟の弘季の子で、のちに正木時茂の養子となった大膳亮正木憲時を上総一宮城より追い出す。永禄九年には下総国に入り海上、香取の諸城を攻略した。この間に時忠は、子息の権五郎時長(のちの頼忠)を人質として小田原北条氏のもとへ送った。国府台合戦の時十五歳だった頼忠は、ちょうど今川氏の人質であった徳川家康のように大切に扱われ、北条氏綱の次男、治部大輔氏隆の娘(実は養女で、父は静岡県大仁町の郷士田中越中守泰行)、後の「智光院」を妻として上総勝浦城で天正五年(一五七七)四月四日生まれたのが、「養珠院お万の方」であ(12)る。
 さて、国府台合戦で敗れた里見は、上総を失い安房一国の領地となっていたが、元亀二年(一五七二)には上総より下総半国までに領土を回復していた。この前後に戦国大名が続いて亡くなっている。元亀二年十月北条氏康の死去(五十七歳)。元亀三年十二月遠州三方ヶ原の合戦で織田・徳川の連合軍を破った武田信玄が天正元年(一五七三)四月十二日病死する(五十三歳)。天正六年(一五七八)三月十三日、越後、越中、加賀、能登を手中に収めた上杉謙信が突如亡くなる(四十九歳)。二ヶ月後、謙信の盟友、里見義弘も五月二十日死去した(五十四歳)。いずれも中風もしくはその再発である。
 里見義弘は、鎌倉太平寺の青岳尼(小弓公方足利義明の娘)を妻とするが早世され、後室に足利晴氏の娘を迎えた。しかし子供に恵まれなかった。そこで自分の弟・義頼を養子とした。のちに里見の本拠地久留里城の下に位置する千本城主・東平安芸守(藤平重国のこと)の妹を側室に迎えて出来た子息が「梅王丸」である。里見義弘(七代当主)は生前、所領のうち安房国と下総領地の半分を養子義頼に、上総国を実子の梅王丸に、末娘(安芸守の妹の実子)に下総領地の半分を化粧田として譲る遺言をしたが、義弘歿後、義頼はこれを不服とし梅王丸を捕えて出家させ、上総国高滝の琵琶ヶ首(旧市原郡里見村田渕字白尾、現市原市田渕)に幽閉した。『関八州古戦録』には、
梅王丸ヘ附属有リシ、上総ノ国士等モ怒ヲ啣シテ久留里、千本ノ両所ヲ根城トシ、東平安芸守、同右馬允父子ヲ始、一揆所々ニ蜂起シケレバ、義頼モ止事ヲ得ズ
 天正七年(一五七九)上総に出兵して、久留里、千本、百首などの諸城を攻め落とした。梅王丸を支持した家臣は
資料3 藤平家と養珠院の関係 平成七年十月 石川修道作成
実尭
 =
正木時綱ノ女 
義尭
 =
勝真勝ノ女
久留里城主 
 
里見義弘
   =  
 
 
義頼
 義重(梅王丸)
頼忠(正木時忠ノ六男)
  =  
直連
為春
 お万
康長
時明
定利

定時
 北条氏隆ノ女
義俊
頼俊
佐与姫

 女
東平安芸守ノ妹
  (側室)
 
 
 
 重範
千本城主  東平安芸守
 重国 千本城主
  慶長十七、十歿
  関ヶ原合戦に出陣
 
二男早世
重房 久留里藤平ノ祖
重守(盛)
   小田原に出陣討死
   実ハ玉川村小倉城ニ入ル
降伏した。しかし藤平一族は面従腹背であった。梅王丸の母は義頼を怨み「里見の悪霊となって、今より三代を過ぎずして潰すべし」と言い残し死んだ。これが現実となり、義頼、義康、忠義と続いた安房十二万石の里見家は、慶長十九年(一六一四)大久保相模守忠隣の御公儀への不忠・謀叛容疑に連座したと改易され、十二万石は没収、当主忠義は伯耆国へ流罪されて里見家は絶えてしまった。
 藤平重国の弟・重房は久留里藤平家の祖となり、永禄三年頃(一五六〇)定住したと言われ、現在の藤平実、量郎氏の系統である。次弟の重盛(守)は天正十八年(一五九〇)、小田原城北条氏滅亡のとき討死と伝えるが、重忠の子息・重胤等一五〇騎を率いて小田原より埼玉の北条氏支城の松山城(東松山市)の応援に駆けつけ、留守居の難波田因幡守、木呂子丹波守、比企藤四郎ら城兵二千人に協力した。そして玉川村小倉山に入り開城したと言われる。豊臣・徳川軍の前田利家、上杉景勝らに松山城は包囲され、戦わずして比企藤四郎一族の住観房が和睦を取りなし、三の丸に城兵の妻子らを人質として預け城を明け渡したと伝えられる。藤平家の子孫は、現在玉川村に住する藤平高三氏である。
 徳川家康の側室であり、紀州徳川頼宣公と水戸徳川頼房公の生母お万の方は(資料3)、正木家の菩提寺正文寺の日政大徳や誕生寺十三世日威上人などより法華経の仏心を植えつけられ、父の頼忠は、里見家重臣として一時的にせよ、七代里見義弘の養子になる。つまり東平安芸守の妹が生んだ「梅王丸」の義弟になるのである。藤平家の法華信仰が正木頼忠を通じてお万の方の仏心に注入されたと考えられる。
 
  八代重忠
 左京と号し千本城主。元和元年四月九日歿(一六一五)。法号・祐光院日善居士。
 父の重国、重忠とその子息達は、梅王丸事件以来里見家に反感を懐いた。梅王丸事件に代表される一連の里見義頼のやり方に反発した大多喜城主、正木大膳亮憲時(実父は正木時茂、時忠の弟である弘季)が天正八年(一五八〇)七月に叛旗を翻した。そこに至る前、国府台合戦で金山城主・正木弘季は討死。大将の義弘を救った正木時茂、討死した子息の大太郎などに里見から何等の恩賞が無いばかりか、むしろ疎んざられた。それに加えて義弘の天敵北条氏との「房・相同盟」(一五七七 天正五年)の成立と思われる。長い間の盟友上杉謙信を裏切り、その折衝に当ってきた憲時には許せなかったのである。この叛乱に里見方についた正木頼忠を勝浦城に正木憲時が襲ったのです。この時、三方四〇メートルの絶壁を白い晒木綿を松の根に結び、頼忠が女子供を背負い海上の小舟に移り、命からがら正木の古里、三原の正木館に避難したのです。この女子が四歳のお万の方である。有名な「お万布晒」の話です。
 正木と同じように里見家重臣であった万木城(夷隅町万木)の土岐頼定は国府台合戦後、里見義弘と反目し北条方と結ぶようになる。里見義弘は頼定のあとを継いだ為頼を天正三年(一五七五)に攻めた。義弘は正木頼忠に命じて攻めさせた。里見家二代成義は土岐頼元(為頼の三代祖)の娘を妻とし、六代義尭の妻は土岐為頼の妹であり、七代義弘は自身では攻めにくかったのであろう。為頼が天正十一年(一五八三)に歿し、頼春が土岐家当主となる。里見家も義弘、義頼のあと義康が当主となり縁も薄くなり、天正十六年(一五八八)九月、正木時尭が大将として土岐頼春の万木城を攻めた。『房総治乱記』によると「城堅く守りて落ちず、正木夜中に兵を引いて八幡の陣を去れり。」とある。天正十七年四月には、上総庁南城(現長南町)の武田信栄が万木城を攻めた。この前に土岐頼春より千本城主の藤平重国・重忠に加勢の願いが再三あり、北条氏政からの下知もあり、重国、重忠は子息の重祐、重郷、重共ら一門を率いて三月七日万木城に到着。重国の弟・重房は留守居として千本城に残る。六月里見軍は出陣したが土岐・藤平軍が発坂峠で迎え撃破した。北条の部将猪保範直は、真田昌幸の名胡桃城を奪った。激怒した豊臣秀吉は、十一月二十四日、北条氏討伐の布告を出し、翌十八年(一五九〇)二月七日、徳川家康が先鋒として駿府より小田原へ出陣した。里見氏はなお万木城に固執し、正月十九日正木時尭が攻めたが、刈谷原(夷隅町刈谷)で敗れ大多喜城へ逃れた。
 土岐頼春並びに藤平一門、そして下総の雄、千葉氏一門は北条氏政・氏直父子の要請により小田原城に馳せ参じ、四月には里見軍も三浦へ渡り北条氏の支城を攻略していった。長期間篭城の北条軍も徹底抗戦から降伏へ流れが変わっていった。七月六日、秀吉は脇坂安治、片桐且元、榊原康政らに小田原城を接収させ、翌七日から九日にかけて城兵は退去していった。十一日には北条氏政(五十三歳)と氏照(五十一歳)は切腹を命ぜられ落城した。小田原より帰郷した藤平重国、重忠、重祐等は千本城には留まらず大野村隨領に蟄居し、重共は祖父重国、父重忠と大野村横宿に住した。万木城の土岐頼春は小田原落城後、城を焼き払って常陸へ落ちたという。一方、秀吉方についた里見義康は、小田原の秀吉本陣へ遅参し上総国は没収されてしまった。八月一日家康は江戸城に入城し、十五日には家臣の諸将を関東各地に配した。上総の佐貫城には内藤家長、久留里城には大須賀康高、大多喜城には本多忠勝、勝浦城には植村泰忠が入った。
 藤平家は、大多喜城の本多忠勝に仕官することが許され、重祐、重郷、重武の三兄弟が家臣となる。その後、重祐は高橋九郎という者の「掛的の意恨」を主君忠勝に讒言され逐電した。重祐の弟・重郷は讒者の高橋九郎を討取って隠れた。末弟の重武は討取りの理由を小倉右近を通じて披瀝すれば、忠勝は「重郷ト一所ニ落ツベキノ処静カニ披露ニ及ブノ段神妙ナリ」と許されたと伝えられる。重武は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦には主君忠勝と参陣する。本多中務大輔忠勝(一五四八−一六一〇)は三河の出身。徳川四天王の一人。十七歳で初陣以来、大小五十七度の合戦に参加、一度も不覚をとらず一ヵ所の疵も受けなかったという。天正十八年、上総大多喜城十万石を領し、関ヶ原の役後、伊勢桑名城十五万石を加増され、槍ひと筋で家康に仕えた武勲者であった。
 慶長八年(一六〇三)征夷大将軍になった徳川家康は、二年後の慶長十年将軍職を秀忠に譲って豊臣秀頼の将軍職就任の芽を潰し、豊臣家が完成した京都方広寺の大仏供養の梵鐘銘「国家安康 君臣豊楽」は、家康の名を二つに裂いて呪詛し、豊臣家の栄えを願う下心と難題をかけた。ここに至って大阪方も挙兵を決意し、慶長十九年十月から十二月にかけて大坂城冬の陣、翌元和元年(一六一五)四月から五月にかけて大坂城夏の陣が始まり、大阪城は五月八日に落城、淀君、秀頼の母子は自刃して豊臣氏は滅亡した。
 大阪方は、真田幸村、後藤又兵衛、木村重成、大野治房、長曽我部盛親、明石全登、毛利勝永の七将が勇戦奮闘した。
 五月七日、大阪天王口において西軍の毛利勝永軍の前面に対陣したのは、東軍の第一戦列の本多出雲守忠朝の率いる第一軍である。この中に藤平治右衛門重武(源五郎)がいた。午の刻、ちょうど正午に銃撃戦で始まり、毛利勝家、山本公雄、樫井昌孝の右先頭隊が東軍の浅野長重、秋田実季らの左備えを突いた。浅井長房、竹田永翁の左先頭隊は東軍の右備之真田信吉兄弟を突き、同時の本隊は二分してこの二隊を援けながら、本多忠朝の中陣へ突撃した。本多軍の窪田伝次郎、三宅軍兵衛らが槍隊で応戦したが、毛利軍はこれをものともせず槍をそろえて突入激戦が展開された。本多忠朝軍の名ある部将が倒れた。
 小野勘解由、加藤忠左衛門、藤平治右衛門、臼杵七兵衛、中根権兵衛、石川半弥、山崎半右衛門、大原長五郎、村越茂兵衛、青山五左衛門、土橋加兵衛、土屋太郎八、稲毛市郎兵衛らである。
 この模様は『寛政重修諸家譜』『譜諜余録』『大坂御陣覚書』等に記述されているという。
 
  藤平治右衛門重武
 元和元年五月七日(一六一五) 大阪天王寺において主君本多忠朝公と共に討死。天王寺の一心寺に重武の墓ありと伝わる。法名・蓮乗院日生。
 本多軍を破った毛利勝永軍の槍隊のすごさは、本多忠朝や小笠原秀政父子のような決死の勇将一万八千名、つまり自軍の四倍の東軍を連破して安倍野に陣した家康の本営に急追した。真田幸村同様、家康一人を討つ決死の突撃である。東軍の第一(本多忠朝)、第二(小笠原秀政)、第三軍(酒井家次、相馬利胤等の五八〇〇余)。さらに第十四軍の井伊直孝、第十五軍の藤堂高虎軍を撃破し、傷ついた残兵をまとめ城中に引き揚げた。その用兵の巧みさ、勇壮に東軍の諸将は舌を巻いて感嘆した。翌八日、本丸は東軍の手に落ち、母の淀君と秀頼は自刃した。勝永は秀頼の介錯をしたあと、勝家・勘解由と共に腹を切った。勝永三十八歳、勝家十六歳だっ(13)た。
 
  九代重祐
 喜右衛門と号す。大多喜城主本多忠勝に仕え、のち大野村川崎を開発する。寛永八年三月二十二日歿(一六三一)。法名・蓮心院日祐。
 川崎系より屋号「祖父母」が出る。藤平真平氏(嘉永六年生)は中川村々長を経て千葉県々会議員となり、大正十年頃「上総水電株式会社を創立。昭和十七年関東配電(のち東京電力)に合併された。現当主、藤平真丈、孝子氏。
 
  九代の弟重胤
 右近と号す。小田原落城の時、重盛と共に討死と伝わるが、埼玉玉川村小倉城に入る。子孫は屋号「おやしき」。江戸時代は代官所与力と伝わる。現当主・藤平高三氏。
  九代の弟重郷
 蔵之丞と号す。正保二年十月一日歿(一六四五)。法名・覚蔵院日印。
 本多忠勝に仕え、のち大野村金谷を開発する。子孫は勝浦藤平の祖となる。南山田の寺を改宗し池上本門寺より住職を迎え大法寺とする。藤平家は中村檀林日本寺に多大の供養米を供し外護する。子孫の藤平東作氏は明治十一年、夷隅郡の法花村、貝掛村、南山田村、荒川村、中島村の五村連合の戸長となる。現当主・藤平達夫氏(埼玉都幾川村)。
 
  九代の弟重共
 平右衛門と号す。元和三年二月十三日歿(一六一七)。法名・了善院日祐。
 天正十八年(一五九〇)七月、万木城落城の後、祖父重国、父重忠を介抱して川崎に入り、文禄四年(一五九四)三月横宿に住す。重共の系統に三系あり。
@南中興の祖は平右衛門系。
A向島の祖は新次郎系。現当主、藤平栄治・やす子氏。
B古込の祖は勘五郎系。もと身延山庶務部長・藤平賢栄上人は鴨川妙昌寺住職。現当主、藤平存秀師・悦子氏。
 
  九代の弟重武
 前記の如し。
 
※久留里藤平家は永禄三年(一五六〇)に定住したと伝わる。子孫の藤平量三郎氏は明治七年生れ。上総横断鉄道の実現を図り期成同盟会長。久留里水力電気株式会社創立。大正四年より久留里町々長。大正十三年君津政友会に推されて千葉県々会議員。一期目の議員で同十五年二月県会議長に就任。上総町(久留里、松丘、亀山)の名誉町民。現当主、藤平実・量郎氏。
※藤平家先祖の歿年は、系図により多少の差異がある。
 
 以上のことから、藤平家に関して次の事が理解されよう。
一 、宗祖の血脈を継ぎ、宗祖より文永八年九月筆の本尊と御形見の小袖を相伝している家系である。
一 、宗祖のご舎弟、重友藤平の時代より武士であり、北条家、里見家、本多家に仕えた。
一 、宗祖のいう「旃陀羅が子なり」とは、むしろ東条厨(ミクリヤ)の漁業(鵜飼、江人、網代)を統率する官職の内膳司に関係した民部大輔や蔵人や滝口に関係していたのが貫名家であろう。
一 、その昔より吉浜妙本寺、中村檀林、勝浦大宝寺、光福寺、池上本門寺などの日蓮教団の外護者であった。
一 、狩野家、正木家と因縁深き関係があった。
一 、明治以降、鉄道建設や水力発電、県会議員など社会貢献が高い。
 以上の調査過程を報告する。この調査には、次の方々の御協力があった。
光福寺大井文彦師、妙昌寺藤平存秀師、立正安国会片岡邦雄師、夷隅町藤平孝子氏、同藤平栄治氏、埼玉県都幾川村藤平達夫氏
紙上をかりて御礼申し上げる。
 
(註)
(1)船守弥三郎許御書 二二九頁
(2)刑部左衛門尉女房御返事 一八〇四頁
(3)本化別頭仏祖統紀 六二頁
(4)日蓮大士真実伝 二頁
(5)日蓮宗々学全書 第二巻 一一〇頁
(6)同 第十八巻 三四九頁
(7)本化別頭仏祖統紀 五二六頁
(8)池上本門寺史管見参照
(9)日蓮宗々学全書 第十九巻 二六四頁
(10)祖書證議論 第二・第三十五
(11)池上本門寺史管見参照
(12)戸田七郎、相沢林蔵著「南総里見氏の城と女」参照
(13)福本日南著「大阪城の七将星」参照
(付)川名登著「房総里見一族」は大変参考になった
































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