日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第30号:74頁〜 教化学研究 ←前次→

  誓願について
   誓願行としての立教開宗七百五十年慶讃奉行
石川教張
(現代宗教研究所顧問)

はじめに
 特別布教は、立教開宗七百五十年慶讃の意義と内容を宣布するために推進・展開される。
 「特別布教教案」は、特別布教の基本方針と主要な内容を示したものであり、特別布教に活用するために作成されたものである。
 立教開宗とは何か、立教開宗七百五十年慶讃の意義はどこにあるのかについては、「お題目から、はじまる。 日蓮聖人の立教開宗と私たち 」(平成六年七月三十日)に、そのエッセンスがまとめられ、すでに配布されている。
 この「お題目から、はじまる。」は、特別布教の実施に当っての参考資料ないしは副読本として活用する。さらに、参照すべきものには「お題目総弘通運動T(1)」「慶讃事業奉行計画書」がある。
 特別布教は、「特別布教教案」にもとづいて推進される。特別布教の実施に際しては、つねに「教案」に記された方針と内容を熟読し、立教開宗七百五十年慶讃奉行の基本テーマ「誓願」を中心に、全国各地において、広く宗門の内外にわたり、特別布教を展開し、立教開宗ならびに立教開宗七百五十年慶讃の意義と内容を伝え、ひろめてゆく。
 「教案の内容」は、基本テーマ「誓願」をかなめとする。その骨子は、次の通りである。
  @誓願の意味について語る。
  A立教開宗七百五十年慶讃奉行は、誓願行であることを強調する。
  B立教開宗は、日蓮聖人の誓願行である旨を明らかにする。誓願に生き誓願実現をめざして行動した日蓮聖人の生き方を語る。
  C釈尊の誓願とは何かを説きあかす。
  D上行菩薩等の地涌の菩薩の誓願について示す。
  E四弘誓願について述べる。
  F私たちの誓願と誓願行について語る。
 以下の「誓願」の中身は、特別布教における主要テキストとしてまとめたものである。法話、講話、あるいは種々のメディアなどを通じて、「誓願」をいかに信仰的に、体験的に、具体的に、自らに即して示してゆくかは、特別布教の中心的課題である。

一、誓願の意味について
 ふつう、誓願の二文字のうち、「誓」は誓うこと、約束すること、「願」は願うこと、望むことをいう。
 「誓願」という言葉は、次のような意味を持っている。
  @佛・菩薩(諸天善神を含む)に誓いを立てて祈願すること。願かけ。
  A佛・菩薩が、あらゆるものを救い導こうと願い定める誓い。
 第一に、誓願は単なる個人的で一時的な願望や祈願ではない。佛・菩薩に捧げるものである。佛・菩薩に約束した誓いをやり遂げてゆこうとの決意を不断に持ち続けることである。
 しかも、その誓願は自分の力で成就されるのではなく、あくまでも佛・菩薩によって叶えられる。佛・菩薩の誓願力によって叶えてもらうのである。私たちが、自分の才覚や知識や判断で誓願を叶える事が出来ると考えるのは見当違いである。
 誓願の成就は、佛・菩薩の誓願を受持する以外には実現出来ない。誓願の受持とは、佛・菩薩より与えられた誓願を踏まえ、その誓願の実現のために生き、行動するという「誓願行」のことである。佛・菩薩に誓いを立てて祈願することは、誓願行として実践することによって実現出来るのである。
 第二に、誓願の主体は、佛・菩薩である。佛・菩薩が、あらゆるものを救い導くと誓願していることによって、私たちの誓願も成就させてもらえるからである。
 生老病死などの苦より離れたい、生死の意味を見い出したい、佛性を開発したい、安らぎと生きがいを持ちたい、平和な社会でありたい等々の願望は、私たち自身のおこす願望ではあるが、その願望をおこさせる根源は、佛・菩薩の誓願である。佛・菩薩の誓願があることによって、私たちは誓願をおこせるのであり、佛・菩薩に誓願を捧げるのである。
 その佛・菩薩における誓願の内容は、大慈大悲をそそぐ慈悲行であり、一切のものを佛道に救い導こうとする救済精神である。
 佛・菩薩より、慈悲・救済のメッセージとして発信された誓願の内容を一心こめて受信し、佛・菩薩の誓願から呼びおこされ、うながされ、支えられて誓願の実現をめざして生き行動する誓願行は、菩薩行であり、佛子の自覚に立った生き方であり、「日蓮一門」としての行動である。
 日蓮宗の信仰に生きる者にとって、佛・菩薩とは何か。釈迦牟尼佛(釈尊)が本佛である。佛の御使である上行菩薩など四菩薩を唱導の師とする地涌の菩薩とその誓願を末法日本の現実に実践した宗祖日蓮聖人が、菩薩である。
 釈尊の誓願、地涌の菩薩の誓願は、法華経に説かれ、結晶されている。法華経の題目・南無妙法蓮華経は、釈尊の誓願・地涌の菩薩の誓願そのものである。
 日蓮聖人は、法華経を説くことによって、佛・菩薩の誓願を末法の日本に実現し続けようとし、誓願自体であるお題目を唱導・弘通する誓願行に励んだ。その原点が、立教開宗した建長五年(一二五三)四月二十八日であった。
 私たちは、佛・菩薩の誓願を受けつぎ、それに支えられて、日蓮聖人に立教開宗七百五十年慶讃を捧げ、誓願を叶えてもらえるよう、慶讃奉行を誓願行として取り組むことが必要である。

二、立教開宗七百五十年慶讃奉行は、誓願行である
 立教開宗七百五十年慶讃奉行の趣旨については、その概要が「慶讃事業奉行計画書」の冒頭「誓願 お題目から、はじまる。」に記されている。
 宗祖日蓮聖人による立教開宗は、釈尊の誓願、上行菩薩等地涌の菩薩の誓願にうながされ、その誓願をうけついで実行された。それは、末法日本に釈尊と菩薩の誓願を具現する第一歩であり原点であった。
 立教開宗にあたって、法華経を説き、お題目を唱えはじめたのは、お題目そのものが誓願を表わし、お題目を唱えひろめることが誓願行の実践であったからである。
 この立教開宗の根本精神を継承し、現代と近未来社会に、お題目弘通の誓願行を皆共に展開することが、立教開宗七百五十年慶讃奉行の重要な目標である。
 この点から、立教開宗七百五十年慶讃奉行の主体は、日蓮聖人である。日蓮聖人の誓願によって、慶讃奉行をさせていただくのが、私たちの立場である。それゆえに、日蓮聖人の「誓願」を具現してゆく誓願行として推進されることが基本である。特別布教はじめ、あらゆる布教は、誓願とは何か、誓願をいかに継承するのか、誓願を現実に具現するための誓願行とは何か、などを説き示す「誓願の布教」として展開してゆくことが大事である。

三、立教開宗は、日蓮聖人の誓願行である
 なぜ、立教開宗七百五十年慶讃奉行の基本テーマが誓願なのか、誓願でなければならないのか。この点に関しては、日蓮聖人がどうして立教開宗したのか、立教開宗によって何を明らかにしたのかを見つめ、誓願と誓願行が立教開宗の根本精神であることを明らかにしてゆくことが必要である。
 日蓮聖人の立教開宗が、誓願行の実践であった点は、次のことによって明らかである。
  @日蓮聖人は、佛の諌めを聞き、誓願の実行を決断して立教開宗した。
 日蓮聖人は、安易に立教開宗した訳ではない。自己本位の判断で立教開宗したのでもない。佛の諌めを受けとめ、熾烈な内なる葛藤をくり返えし、いかなる困難・迫害があろうとも法華経を語ろう、と決断して立教開宗したのである。
 その日蓮聖人の葛藤は、「いは(言)んとすれば世間をそろし。止とすれば佛の諌曉のがれがたし。」(『報恩抄』一一九八頁)と表白されている。
 佛は、法華経において、「如來の現在すら猶ほ怨嫉多し、況んや滅度の後をや」(法師品)とのべ、「我身命を愛せず、但無上道を惜む」(勧持品)と説いていた。さらに、あらゆる難事よりも法華経をひろめる事のほうが難しい。最第一の法華経をたもつならば、それは佛身をたもつことになる、と六難九易の法門(見宝塔品)を語り、幾多の苦難にも屈しないで法華経をひろめよと示していた。また、涅槃経には、「むしろ身命を喪うとも教を匿さざれ」とあった。
 日蓮聖人は、これを「佛の諌曉」と聞いた。法華経を語らないことは、佛と一切衆生の敵となることであり、「佛誓」(『高橋入道殿御返事』一〇八七頁)に背くことでもあった。日蓮聖人は、このように思いめぐらし、遂に「今度命をおしむならば、いつの世にか佛になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始め」(『報恩抄』一二三七頁)、この決断と覚悟を抱きつつ、立教開宗したのである。
  A日蓮聖人は、立教開宗に当って、法華経を説いた。
 なぜ、法華経を説かねばならなかったのか。それは、法華経が一切を佛と等しくする限りない「釈尊の誓願」と、末法悪世に法華経を受持・弘通する上行菩薩等地涌の菩薩による「菩薩の誓願」を説いていたからである。「釈尊の誓願」「菩薩の誓願」を結晶する「誓願経」こそ法華経であった。日蓮聖人は、この誓願に要請され、釈尊の諌めを受けとめて、釈尊と菩薩の誓願を日本の現実に実現してゆこうとし、誓願行として、法華経を語ったのである。
  B日蓮聖人は、清澄山頂で、始めてお題目を唱えた。
 お題目の弘通とは、釈尊の大慈悲の誓願と法華経をひろめようとする地涌の菩薩の誓願のことである。この誓願を末法日本に実現し続ける誓願行として、お題目を唱え、人々に向って唱えるよう勧めたのである。
  C日蓮聖人は、立教開宗において「三大誓願」を表明した。
 「善に付け悪につけ法華経をすつる、地獄の業なるべし。本と願を立つ。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の頸を刎、念佛申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。
 我れ日本の柱とならむ、
 我れ日本の眼目とならむ、
 我れ日本の大船とならむ、
等とちかいし願、やぶるべからず」(『開目抄』六〇一頁)
 三大誓願は、大導師(主徳)・大眼目(師徳)・大船師(親徳)である釈尊の誓願を踏まえた末法日本の誓願行として宣言された。「本と願を立つ」とは、立教開宗の折に抱いた釈尊の本誓願を現実に社会化・歴史化する誓願継承の覚悟を表わしている。同時に日蓮聖人は、立教開宗の時に表明した「三大誓願」を抱懐しつづけ、さらに誓願をあらたにしつつ、佐渡で「ちかいし願、破るべからず」と「三大誓願」実現を再び誓願し、法華経とお題目弘通の誓願に生きる決意を表明したのである。
  D日蓮聖人は、立教開宗にあたり、「日蓮」の名のりをあげた。
 これは、「日月と蓮華」「お題目の光明をそそぎ、清浄なる国土」を実現するためにお題目を弘通する上行等地涌の菩薩の誓願に一体化し、一身に誓願を担い、その誓願をわが命とする誓願行への決意を象徴的に表わしたことをもの語っている。
  E日蓮聖人は、立教開宗の時、法華経誹謗の見方、考え方を批判した。
 四箇格言のうち、立教開宗の時は主として念佛と禅を批判した。念佛は、釈尊の誓願を見捨てて弥陀の本願をたのみ、この世を逃れてあの世の往生を願い、仮想現実の戯論にとらわれ、この世に平安を実現する釈尊の誓願に背いていたからである。
 禅宗は、経の外に佛あり悟りありと言い、法華経をさげすみ、自らを悟りをひらいた佛と思いあがり、ひとりよがりの慢心におち入っていたからである。この法華経誹謗の現実逃避、あの世願望と増上慢、独善や利己主義を批判したのは、法華経に説く釈尊の誓願を否定する見方・考え方を正し、釈尊の誓願をこの世に実現しようとしたからである。
  F日蓮聖人は、立教開宗によって、誓願の功徳を回向した。
 法華経を語り、お題目をひろめる理由は、「虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがため」(『清澄寺大衆中』一一三四頁)であり、本師道善御房の「此恩を報ぜんが為に清澄山に於て佛法を弘め、道善御房を導き奉んと欲す。」(『善無畏三蔵抄』四七三−四頁)と述べられている。これは、誓願を回向することが目的であったことを示している。同時に、それは自らの立願を叶えてくれたものに深い感謝の念を捧げるものであった。
 日蓮聖人は、「立願」に生きた。「日本第一の智者となし給へ」(『清澄寺大衆中』一一三三頁)「父母の家を出て出家の身となるは必す父母をすくはんがためなり。」(『開目抄』五四四頁)「本より学文し候ひし事は佛教をきはめて佛になり、恩ある人をもたすけんと思ふ。」(『佐渡御勘気抄』五一〇頁)「一の願を立つ。我れ八宗十宗に随はじ。」(『報恩抄』一一九四頁)「所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に」(『妙法比丘尼御返事』一五五三頁)「悲母の恩を報ぜんために此経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す。」(『千日尼御前御返事』一五四二頁)。
 これは、いずれも佛・菩薩に知恩報恩、佛道習学とお題目弘通の立願を捧げた言葉である。この立願を実現してくれたものに報恩の回向をするために、法華経を語りお題目を唱える誓願行に励んだのである。
 「誓願」と「誓願・報恩」の回向供養、お題目弘通の誓願行は一体のものであった。
  G日蓮聖人は、釈尊の誓願が、この現実世界を浄土とし平和と安穏を実現することにあると語った。
 法華経に示す現世安穏・後生善処(薬草喩品)の文は釈尊の誓願である、と受けとめた。これは、幼少の頃より抱いていた「なぜ国王が身も国も亡ぼし災難をもたらかしたのか」という疑問の解決を示すものであった。このことは、密教によって「いのりしかば、いかにもこらうべしともみへざりしに、いかにとして一年一月も延びずして、わずかに二日一日にはほろび給ひけるやらむ。佛法を流布の國の主とならむ人々は能能御案ありて、後生をも定め、御いのりも有るべきか。」(『神国王御書』八八四−五頁)とのべられている。法華経を誹謗する悪法邪義を用いるならば、国中の安穏は破壊されることを示し、釈尊の誓願はこの世を佛国土に浄めることであり、立正安国こそ釈尊の誓願を具現する誓願行の現実的な実践の道であると語ったのである。

四、誓願主は、釈尊である
 釈尊の誓願とは何か。釈尊は、法華経方便品において、次のように誓願している。
  我本と誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異ることなからしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者巳に満足しぬ
  諸佛の本誓願は 我が所行の佛道を 普く衆生をして 亦同じく此の道を得せしめんと欲す
 釈尊が誓願した根本は、あらゆるものを自分と等しくしたい、佛としたい、広大な慈悲心を身につけさせたい、という点にあった。
 これが、誓願の主体である釈尊の本誓願の内容である。
 この誓願は、諸佛の誓願としての普遍性を持つものである。諸佛もまた、釈尊が本誓願とする佛道の実践に一切の者を導き、釈尊と等しくさせたいと誓願しているのである。この諸佛の誓願を集約したのが、釈尊の誓願でもある。釈尊の誓願から諸佛の誓願も生み出されたのである。
 さらに、法華経如来寿量品には、こう宣言されている。
  毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに佛身を成就することを得せしめんと
 ここには、誓願の文字は記されていないが、釈尊自ら、つねに、身も心も尽くして、あらゆるものを最高の佛の境地に導き入れ、佛身を成就せしめようとする、限りない大慈悲行と不変の大誓願とが明らかにされている。
 釈尊は、この大慈悲と大誓願をもって、あらゆるものの憂悲苦悩を癒やす良薬を調合し、これを服して身心の病をなおすよう誓願しつづけているのである。
 その良薬とは、南無妙法蓮華経のことである。お題目が、一切経および法華経の肝心、佛の種、宝珠といわれるのは、釈尊における大慈悲の誓願を結晶しているからである。日蓮聖人は、釈尊の誓願にうながされ、支えられることによって、故郷の清澄寺において「本と願を立て」て立教開宗した。さらに、佐渡において、いかなる種々の大難があろうとも、どんな脅迫や甘言があろうとも、決して立教開宗の時に立てた本誓願を破ることはないという大誓願を、佛の御使としての自覚に立って改めて表明した点を忘れてはならない。
 釈尊の誓願とそれを受持継承した日蓮聖人の誓願を離れた誓願はあり得ない。この誓願を受持してゆこうとする志によって、私たちも誓願の人生を歩むことが出来るのであり、幾分なりとも誓願の実現に寄与する誓願行に励むことが可能になるのである。

五、菩薩とは、誓願行に励む者のことである
 菩薩の誓願とは、佛の滅後に釈尊の誓願を継承する誓願行を表明したことを指している。
 法華経勧持品には「時に諸の菩薩、佛意に敬順し、ならびに自ら本願を満足せんと欲して、便ち佛前に於て獅子吼を作して、誓言を発さく。世尊、我等如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し、読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん」と披瀝する「諸菩薩の誓言」が示されている。
 さらに諸菩薩は、安楽行品に「佛に敬順したてまつるが故に大誓願を発す。後の悪世に於て是の法華経を護持し読誦し説かん」との誓願を語っている。
 これらは、いずれも諸菩薩の誓願の内容が「受持・読・誦・解説・書写」の五種行にあることを物語っている。
 同時に、法華経は「願はくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に佛道を成ぜん」(化城喩品)との誓願をしるしている。これは、釈尊の誓願を自らの誓願とし、釈尊の誓願をしるした法華経弘通の功徳を他の一切に及ぼし、佛道の成就という究極の目標をめざして、皆共に歩んでゆこうとする「誓願の回向」を表わしたものである。
 しかも、法華経薬草喩品には、「未だ度せざる者は度せしめ 未だ解せざる者は解せしめ 未だ安せざる者は安せしめ 未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ」という発願文が語られている。これは、釈尊のおこした誓願に呼応して発願した誓願の表明である。これに応えて、釈尊は「諸の佛子 心を佛道に専らにして 常に慈悲を行じ 自ら作佛せんこと 決定して疑なしと知る」と語り、誓願の回向によって誓願が成就されることを明らかにしたのである。
 ここで重要な点は、末法悪世において、釈尊の誓願を継承し、悪世の現実の中で誓願行を実践する担い手はだれか、ということである。それは、上行菩薩など四菩薩を唱導の師とする地涌の菩薩である。
 従地涌出品には、釈尊が地涌の菩薩を招集し、「是の諸人等能く我が滅後に於て 護持し 読誦し 広く此の経を説かん」と語り、地涌の菩薩が、末法における釈尊の誓願の代行者であることが示されている。
 「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」とは、地涌の菩薩における誓願実行の心がまえと行動様式を指している。
 また、如来神力品では、「我等 佛の滅後 此の経を説くべし 所以は何ん 我等も亦 自ら是の真浄の大法を得て 受持・読誦し 解説・書写して 之を供養せんと欲す」と宣言した地涌の菩薩たちの誓願が示されている。
 地涌の菩薩は、受持・読・誦・解説・書写を誓願行の内容とし、この誓願行を釈尊と法華経に供養するために実践すると誓願したのである。
 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」の言葉は、釈尊の誓願が地涌の菩薩の誓願行によって成就され続けることを明らかにしたものである。
 日蓮聖人は、この文字を上行菩薩が末法に出現して南無妙法蓮華経の光明を普く世間にそそぎ、無明煩悩の闇を照らすもの、と受けとめた。
 日蓮聖人は、この釈尊と法華経のメッセージを受持し、「日蓮」の名のりのもとに、「上行菩薩の御使」(『寂日房御書』一六七〇頁)として、日本国の一切の者に、法華経の受持をすすめて、お題目の弘通に取り組み、誓願の実現をめざしたのである。
 釈尊の誓願、地涌の菩薩の誓願を継承し、末法日本に具現しようとした日蓮聖人の誓願にもとづき、それに支えられて、佛道に専心して慈悲行にいそしみ、お題目弘通に取り組む これが、日蓮聖人門下の誓願行のあり方である「所詮誓願と云ふは題目弘通の誓願也。」(『御講聞書』二五九五頁)とは、お題目を弘通すること自体が誓願の本質、実体であることを示している。

六、四弘誓願について
 この誓願行の目標は、四弘誓願としても表わされている。
 四弘誓願の主体は、釈尊(地涌の菩薩を含む)である。これを捧げる者は、誓願行の行動主体としての菩薩である。
  衆生無邊誓願度
  煩悩無數誓願斷
  法門無盡誓願知
  佛道無上誓願成
 この四弘誓願は、菩薩行における誓願である。日蓮聖人は、「菩薩と申は必四弘誓願ををこす。第一衆生無邊誓願度の願成就せずば、第四の無上菩提誓願證の願は成すべからず。」(『小乗大乗分別抄』七七二頁)と述べ、これを「上行菩薩の四弘誓願」と受けとめた。佛道無上誓願成の句は「無上菩提誓願證」と記している。上行菩薩が、末法の世に法華経の題目を弘通して仏になる道を成就しようという誓願が、四弘誓願である。法華経神力品の「我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし 是の人佛道に於て 決定して疑あることなけん」の経文は、四弘誓願が法華経とお題目を弘通する誓願の回向としてなされる点を示したものである。
 したがって、「四誓」と略するのは正確ではない。「四誓」の表現には、「弘」が欠けている。お題目弘通の誓願のない「四誓」は、四弘誓願とはいえない。正しく「四弘誓願」と言うべきである。
 これは、四弘誓願が南無妙法蓮華経をもって衆生を救い、佛身の成就を究極の目的としているからである。四弘誓願の全体は、上行菩薩所伝の南無妙法蓮華経なのである。
 南無妙法蓮華経によって、あらゆる衆生を救い、数えられない煩悩を菩提に転換し、すべての法門を学び知り、佛の大慈悲心を身證する誓願を達成できるのである。同時に、苦の衆生がおり、無数の煩悩があり、多くの法門があり、無上の佛道があることによって、上行菩薩は誓願をおこし、題目弘通による誓願行に励みつづけるのである。
 私たちが四弘誓願を唱えるのは、法要式の次第順序としてのみではなく、誓願の主体である釈尊・上行菩薩より与えられた誓願行としてのお題目弘通に励むことを誓願するためである。

七、私たちの誓願行
@誓願を学びあう
  釈尊の誓願、地涌の菩薩の誓願、宗祖日蓮聖人の誓願を学びあい、受けとめ、うけつぎ、誓願行に励むことを誓願しよう。
Aお題目を皆共に唱えひろめる
  お題目を唱えひろめることが誓願である。このことを身にも心にも刻み、釈尊と地涌の菩薩の誓願を体して行動した日蓮聖人の誓願をうけつぎ、誓願に生きる人と人との信心のネットワークをひろげ、あらたな決意をもって、皆共に、お題目総弘通運動をたゆみなく展開してゆこう。
B立教開宗七百五十年慶讃奉行は誓願行である
  日蓮聖人の誓願に呼びおこされ、支えられ、その誓願を継承・具現するため、立教開宗七百五十年慶讃奉行の成就に精進し、誓願行としての慶讃奉行を推進してゆこう。
C誓願実現に生きる
  日蓮聖人の誓願を受けとめ、私利私欲や身勝手な利己心をいましめ、厭世逃避・慢心過信・妄想野望・偽善背信の四つの悪心を取り除き、一人ひとりが生きがいと安らぎのある誓願実現の生き方をめざしてゆこう。
D佛子の自覚で家庭にお題目を
  「お題目から、はじまる。」を合言葉に、釈尊の誓願に支えられた佛の子の自覚に立ち、家族のふれあい、心のかよいあい、結びつきと、未来を担う子供たちの健やかな成長をめざして家庭信行に励んでゆこう。
E社会にお題目を
  高齢化・少子化社会・科学技術・医療・教育・精神文化の現実と生死のあり方を見つめ、苦しみの解決にとりくみ、佛性の開顕と下種結縁をめざして、お題目の誓願行を社会的に実践してゆこう。
Fお題目で平和を
  お題目の光明をあまねくそそぎ、立正安国の誓願行にとりくみ、新しい世紀に、世界の平和と人間の幸福を実現するために努力してゆこう。不戦の誓いをあらたにし、一切の戦争・紛争をなくし、核兵器の廃絶に尽くし、戦いのない明るい平和な世界をきずいてゆこう。
G自然との共生を
  佛の国土であるこの世界を浄め、山川草木の成佛を示す釈尊の誓願を体して、人災を防ぎ、自然破壊を許さず、地球の環境を守り、自然と人間とが共生・調和しあう未来の生活をつくりあげてゆこう。
H生命尊重と平等を
  生命を第一の宝として尊重し、佛性をたがいに敬い、差別のない平等な社会をきずいてゆこう。法華経の女人成佛の教えを体して、お題目を女性に唱えるようすすめた日蓮聖人の誓願を受けとめ、男女不平等をなくし、女性の願いにこたえる誓願行に努めてゆこう。
Iお題目道場としての寺づくりを
  お題目の誓願行に励むお題目道場としての寺院の活動にとりくみ、誓願を回向し、宗徒の一致協力のもと、開かれた寺づくりをめざしてゆこう。

八、誓願の研究は誓願行
 日蓮聖人七百遠忌のテーマは、「報恩」であった。
 立教開宗七百五十年慶讃のテーマは、「誓願」である。
 ここで言うテーマとは、主題ないし命題であり、指標であり、目標として設定される実践的指針という意味である。
 したがって、立教開宗七百五十年慶讃奉行は、誓願を指標とし、誓願を受けとめ、佛祖の誓願に呼びおこされ、誓願の実現にとりくむ誓願行として展開されなければならない。
 法華経は、釈尊の本誓願、上行等の地涌の菩薩の誓願を宣示した経である。日蓮聖人は、この佛・菩薩の誓願を継承し、その誓願に支えられて、末法日本に誓願の実現をめざした。
 日蓮聖人における法華経の弘教、題目の弘通や知恩報恩・立正安国・謗法破折・回向供養等の精神と行動は、誓願の社会的・時代的具現をめざす誓願行の実践であった。
 それゆえに、この誓願と誓願行を離れては、法華経と日蓮聖人への信仰および信仰実践もあり得ない。誓願について学ばず、受けとらず、無関心であれば、それは佛祖の誓願に背反するものといっても過言ではない。
 これまで、昭和四十五年(一九七〇)第三回日蓮宗教化研究会議において、上原專祿氏が記念講演で語った「誓願論」(『死者・生者 日蓮認識への発想と視点』上原專祿著作集16 評論社 一九八八年 所収)における深い認識と省察をはじめ、誓願は日蓮教学上の命題として日蓮聖人の三大誓願を中心に論述されてきた。しかし、誓願の信仰的・思想的内容が不断に考察され、誓願を踏まえた誓願行としての実践が自覚的に展開されているとは言いがたい。
 この小文は、立教開宗七五〇年を目前に控える時に当り、これら先学の考察に触れつつ、改めて法華経と日蓮聖人遺文に学び直して書き綴った基礎的な誓願論である。直接には立教開宗七百五十年慶讃会事務局、同教宣部会・特別布教プロジェクトの要請に応える形で記述したものであリ、ここには同事務局に提示したままの内容を掲載した。この内容が、教学の現代的解明と布教方策の体系化への一里程標になり得るのではないかと考えたからである。
 この小文は、基礎的なものであり、誓願の解明と現代化・社会化への参照となることを望んでいる。
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