日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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教化学研究  ポストモダンの時代における宗教
   今、世界の宗教は
ヤン・スィンゲドー(南山大学教授)

はじめに
 ただいまご紹介にあずかりました南山大学のヤン・スィンゲドーと申します。よろしくお願いいたします。実は今のご紹介の言葉の中に、大変失礼ですが、小さな間違いがありました。去年私はベルギーに「帰っていた」ということについてですが、私はヨーロッパに行くときに、「帰る」という言葉はもう使いません。日本に来てもう三十三年になっておりますので、「帰る」ということではなく、ときどき「行ってくる」という、別に日本人になったわけでもないし、これもまた失礼な言い方かもしれませんが、日本人になりたいという気持ちもあまりありませんが、やはり人生の半分以上この日本に過ごして、日本のいい影響も悪い影響もいろいろ受けたような感じがいたします。やはり日本にいるときに、あくまでも外人 変な外人かもしれませんけれども で、向こうへ行ったら、向こうの人達からも、おまえはおかしくなったと、向こうの人達にとっても外人になっているのです。結局、私は永遠の外人、旅人そのものというのでしょうか、こういう者でございます。よろしくお願いいたします。
 去年の十二月のことですが、二カ月ぐらいの講義を終えて、実はヨーロッパではなく、三カ月ぐらいアフリカに行きました。西海岸にカメルーンという国がありますが、向こうでカトリック系の大神学校で「異文化間コミュニケーション」について講義をして、それが終わったときに、首都のヤウンデという町からずっと北の方に行って、チャドとナイジェリアの国境近くの少し山奥に入りました。そして日曜日に向こうの小さなカトリックの教会に行って、私は学問をちょっとやっておりますけれども、カトリックの司祭でもありますから、向こうの教会で日曜日の礼拝を司式してくださいと頼まれて、カトリックではミサといいますが、ミサをあげて、やはり説教もしました。私は向こうの言葉を知りませんのでフランス語で説教をして、一応カメルーンは昔のフランスの植民地だったものですから、フランス語も公用語になっているのですが、山に住んでいる人たちはフランス語はほとんどできません。そして私はフランス語で話して、伝道師がその部族の言葉に通訳してくれたのです。その説教に次のようなことを言ったのです。
 「私は日本から来たのですよ」と。みんなは、「ああ、日本。聞いたことある」とか、「ああ、トヨタ」、トヨタの自動車があるものですから、山に行ってもやはりトヨタですね、別にここで宣伝しているわけではないのですけれども。「遠い国ですよ。ここは今午前十一時で、日本はずっと離れた国で、向こうはもう夜の七時になっているのだよ」、こういうふうに私は説明したのです。みんな丁寧に、「ワァー、そういうことですか」と。でもミサの後に通訳してくれた伝道師が私のところに来て、「神父さん、ご立派な説教だったのだけれども、ただ一つ、十一時と七時とおっしゃったのですけれども、ここの人たちはそういう言い方はわかりませんよ。時計をもたないのです。こっちの生活は時計と関係ないのです。ここに日が昇るときに、もう日本ではすでに沈んでいると言ったら通じるのだ。十一時とか午後の七時とか、そういう言い方はどうも通じません」。私は「どうも失礼いたしました」と。非常に日本的に言ったのですけれども。
 結局、そこから私はすごい教訓を受けたと思います。つまり我々みんなは、どれほど色めがねを通して世を見ているかということです。つまり自分の文化、自分の宗教、自分の生活している環境は、どれほど我々の考え方、我々のものの見方、そして我々の行動も、それにどれほど影響を及ぼしているか、そこで本当にわかりました。異文化間コミュニケーションの講義をやっていたのですけれども、向こうでそういう根本的な間違いをして失格だと私自身は思ったわけです。
 つまり我々は、世界の宗教とか、ポストモダンの時代における宗教とか、そういう言い方をするときに、どうしても我々自身の立場からこういう問題を取り上げている。しかし実際の宗教、実際の世の中は、我々の考え方よりもずっと広い。これを考慮しないと、宗教についても世の中についても、何を言っても、どうも間違いを起こしやすくなるのではないでしょうか。


 そこで今日は、「ポストモダンの時代における宗教 今、世界の宗教は 」というテーマでお話しさせていただきます。私自身もそうですが、やはり皆さんも、もうすでにそれについて自分自身の考え方をもっているわけです。「ポストモダン」というと、今はやっている言葉です。やはり我々が今生きている世界はポストモダンの時代であると。そして宗教というと、やはり宗教がある、我々自身の、例えば日蓮宗はこういう宗教であると、我々はみなそれを知っていると思うのです。しかし、おそらくほかの人から見ると、必ずしも我々の考え方が正しいと言えないかもしれません。でも、出発点は、どうしても我々自身が考えていることだと思うのです。通説といいましょうか、ポストモダンの時代における宗教について通説があります。そしてどうしても、やはりその通説 我々が正しいと思っている考え方から出発しなければならない。でも念頭におくべきことは、やはり自分の考えていることを「問う」、「問わなければならない」、「問うべきだ」ということではないでしょうか。
 そこで、まず「ポストモダン」という言葉について一言だけ言わせていただきます。皆さんもこの言葉はよくご存じですね。研究所主催の講演で、大村英昭先生も、ポストモダンという言葉をお使いになったと思うのです。彼はやはりこの言葉が非常に好きで、それについて本もお出しになったのです。はやり言葉といいましょうか、日本人は何でもブームとかはやり言葉ですから、大村先生もそれが好きだと言えば、失礼に当たるかもしれませんが……。でも、一理あると思います。
 「ポストモダン」という言葉は、私もそれについて読んだ限りでは、なかなか複雑な概念で、その意味内容についていろんな考え方があるようです。ポストモダンだからモダンの後にくるものです。ではモダンとは何かということになるのですけれども、これもまたそう簡単にいえないのです。
 とにかくそのポストモダンについて、大きく分けますと二つの考え方があるようです。一つはやはりポストモダンの時代において、そのモダンなことが超えられているといいましょうか、モダンの超克、モダンを根本的に問う、あるいは否定する、そういう見方があります。つまり今ポストモダンだといえば、前の時代と根本的に違うという見方が一つ。特に哲学者の間にそういう考え方がわりに支配的になっているようです。
 もう一つの見方は、ポストモダンはモダンの超克よりも、その延長線にあるという見方、つまり、モダンのときにもすでにあった価値観が、今のポストモダンの中にもっと徹底的になっているという見方があるのです。特に社会学者のうちにそういうポストモダンについての見方があるようです。つまりモダンのときから始まって、今はますます同じ傾向が続いているということです。
 とにかく一つの大きな特徴は、それがある意味では二つの見方の中に見出されるのですが、科学精神と関係があります。ポストモダンを、モダンを乗り超えること、超克とみなした場合は、やはり科学精神はもうだめだと、その否定になるのです。二番目の見方ですと、そうではなくて、その科学的な精神はなくなったわけではありませんけれども、その絶対的な主張は、これも問う必要がある。つまりモダンのときに科学的な精神は、科学万能主義といいましょうか、それがあったのだけれども、今は科学そのものを否定しませんけれども、しかしその絶対的な主張を今、問う必要があるということです。
 しかし、こういう二つの見方から成り立っている通説は、立派に聞こえるのですけれども、地理的にいえばどこのことなんでしょうか。先ほど私はアフリカに行ったと言いましたが、モダンとかポストモダンとか、そういう話し方は向こうとあまり関係ないのです。確かにこの日本にいて、あるいはヨーロッパに行ってきたら、ポストモダンとモダンの話をしたら、大体通じるのですけれども、アフリカに行ったら通じません。結局、我々はこういう非常に難しい理論を立てるときに、どれほど狭い視野に立っているかということです。
 また、世界の宗教というと何でしょうか。日本があるでしょう。欧米社会があるでしょう。でも、中国もあります。東南アジアもあります。中南米もあります。東ヨーロッパもあります。アフリカもあります。どこのことを言っているのでしょうか。そのモダンとポストモダンの区別は、どこの傾向をあらわしているのか。東西の問題もありますし、南北の問題もあります。これは経済的な問題だけではありません。思想、宗教を考えた場合にも、我々の一般論をもう少し修正する必要があるのではないかと思うのです。日本のことだけを考えて、世界を判断するのはもちろん間違っておりますが、後でも言いますけれども、世俗化とか宗教の回帰とか、モダンとか、ポストモダンとか、そういう言葉使いをしますと、同じようにもう少し視野を広めて、全世界を見たらどうかなと私は思っております。簡単ではありませんよ。
 それからもう一つ、ただどこのことかという問題だけではなく、だれのことなのか。皆さんは自分自身をモダンな人間かポストモダンな人間と思っていらっしゃるでしょうか。正直にいえば、私自身のことを考えるとわからないのです。おそらく、大村先生の前では私もポストモダンな人間だと言っておりますが、はたして正しいでしょうか。つまり、モダンとか、ポストモダンとか、という言葉を使うと、それは具体的にどのような人間を指しているのか、そう簡単に言い切れないでしょう。
 私は今、うちの大学で外国語学部日本語学科に属しているのですけれども、日本の学生にもちろん日本語で日本文化概論を教えています。そういう変な外人がおります。ある意味で、学生よりも長く日本にいるのですけれども、あくまでも外から日本の文化を見たらどうかという立場に立っております。あたかも銭湯か温泉で一緒にお風呂に入っているかのように、私は日本の文化の背中流しをやってあげるのです。学生たちは自分の背中が見えないから、あなたたちは自分たちの文化は表しか知らない、背中を知らないから、私は背中流しをやってあげるよと言っておりますので、みんな、ハハァ、変な外人はやはりそういう役割があるのかなと言っております。
 ただ、日本文化というと、何でしょうか、だれのことかな。一般の人間の文化か、上の方から強制されたというか、教えられた文化なのか。そういう問題もそれほど簡単な問題ではありません。そしてたぶん日本の場合は、いわゆる下からの文化と上からの文化の間に大きな隔たりがないかもしれないけれども、しかしほかの国に行ったら必ずしも日本と同じような状態ではありません。アフリカに行ったらもっともっと判断しにくいです。確かにさっき言ったように、山の方に行ったら、原始人という言葉を使ったら語弊があるかもしれませんが、しかし向こうの人たちは文化をもっているでしょう。でも今度はアフリカの大都会に行ったら、エリートといいましょうか、その人たちの文化は、植民地時代の残りでしょうか。やはりヨーロッパから受けたのでしょう。自分のそういうルーツを否定してやはり別の文化に属している。では例えばカメルーンとかザイールとか今のルワンダとか、その文化は何かというと、そう簡単に説明できません。
 つまりモダンとかポストモダンという言葉を使うと、ではどの人間がこういうモダンな思想をもっているか、どの人間がポストモダンになっているのか。そして文化全体を決めるときに、ではだれのことを基準にして全体を決めるのか。つまりこのことについてもまた通説が出発点としてあっていいけれども、やはりどうしても後で修正するというか、ニュアンスをつける必要があるだろうと思います。
 宗教のことになりますと、また全く同じことを指摘しなければなりません。ここで宗教とは何か、それについて何も言いませんけれども、ご存じのようにこれも幸いに永遠の問題です。もしその問題が解決したら、宗教学者はみな失業するのですから、幸いにやはり問題が残るのです。


 先ほどの言葉にもありましたように、大体一九六〇年代と七〇年代に、「世俗化」という言葉が、この世における宗教の状態をあらわした概念だったのです。しかしこれもまた欧米社会と日本の社会に使われる概念であって、東南アジアに行ったら、あるいはアフリカ、中南米に行ったら、全く別な宗教事情があったのです。でもこれは学者の論争の中にほとんど出てこない。人類学者ならいいのですけれども、一般の宗教学者、社会学者は、例外は別として、それに触れないといいましょうか、触れたくないといいましょうか、あまりにも複雑になるからかもしれません。でも今の国際化時代にはそれが許されるだろうか。
 ご存じのように、「世俗化説」というものは、いろんな方面から研究され、大体宗教の衰退として、宗教社会学者の間に主張されたわけです。それについてあまり長くお話しするつもりではありませんけれども、少なくとも次のようなことを指摘したいと思います。
 「世俗化」という概念を使いますと、三つの次元を区別する必要があります。一つは、全体社会の次元、社会全体です。そしてこういうことが社会全体について指摘されるのです。昔は宗教は何らかの形で それはまたもちろん日本の場合と欧米社会の場合は違うのですけれども 宗教は、社会全体をおおっているような役割を伝統社会において果たした。しかし、社会の機能分化によって(ディファレンシェーション)、全社会をおおっていた宗教は、政治、教育、経済等々のシステムと同じように、それらのシステムと並んで、社会のサブシステム、下位体系になりまして、宗教の影響力の及ぶ範囲がだんだん縮小してきました。つまり宗教は、伝統的社会においてすべての上に立っていたのだけれども、だんだん社会の中の一つの領域だけ、その中に役割を果たす下位体系、サブシステムになってしまった。そういう意味で確かに宗教は、前の状態と比較した場合は、その影響力がずいぶん減りました。やはり世俗化は、そういう意味で宗教の衰退をさしていることは否定できません。
 ただこれは社会全体のレベルであって、今度は一つのサブシステムになった宗教そのものを見ると、やはり組織としての宗教、例えば日蓮宗ですが、どうなったか。なくなったわけではありません。皆さんは、ここにいらっしゃる。でも、もし世俗化説が正しければ、さっき言ったように、社会全体の中の一つの領域をつかさどるものになってしまった。これが正しければ、やはり組織としての宗教の中にもいろんな変動が起こるはずです。宗教はどうしても社会全体の変動に伴って、それとある意味でからみあって変動するものですから、確かにそれがあるはずです。世界の宗教を見ると、特に欧米社会と日本の場合にも、ある意味でそうだと思いますけれども、やはりいろんな動きがあるはずです。ただ既成宗教の中だけではなく、新宗教運動も生まれてきたとか、いろんなそういう宗教変動があったわけです。
 あるいはもう一つ、宗教の中にも、世俗化と呼ぶことができる現象があるに違いありません。世俗化の言葉はいろんな意味をもっていますからなかなか難しいのですが、例えば前よりも宗教の人たちは 今組織としての宗教のことを考えてください 他界のことよりも、やはり現実、現世に焦点を合わせるとか、例えばキリスト教の中に、正義と平和の問題が一つの大きな課題になるとか、正義と平和というと、これは天国のことではなくこの世のことです。この世俗のことです。そういう意味でも世俗化現象があったかもしれない。
 私はある学生から次のような話を聞きました。私は「世俗化という言葉を聞くと何を連想するか」と聞いたところ、学生は「車を運転しているお坊さん」というのです。どういうことですか。やはりお坊さんは聖なる世界、車は俗なる世界、お坊さんが車を運転することは、やはりこれは仏教の世俗化だと。なるほどなと私は思ったのですけれども。まあ、一理あるのです。つまり今第二の次元は、やはり社会全体の世俗化に応じて、宗教団体の中にいろんなこういうアダプテーションの政策をやっている。でもそれは宗教の衰えといえるかどうかもちろん疑問です。少なくともこれは宗教変動になるわけです。
 三番目のレベルは個人のレベルです。社会全体の次元では、世俗化がある。こういう立場から見ると宗教の衰退があります。二番目の例ではいろんな変動がある。では個人のレベルはどうか。それについてもまたいろんな見方があるのですけれども、例えばキリスト教ですと、どの程度まで今の人たちはまだ教会に行っているか、お寺の行事があるとしますと、檀家はどれほどまだ熱心にそれに出席してくれるかとか、こういう問題です。そして特に一九六〇、七〇年代には、世俗化説がとなえられたときに、キリスト教国では信者数はずいぶん減ったわけです。教会に行く人達がだんだん少なくなってきたことは科学的に証明されたわけです。もちろん信者さんの心の中の問題になると、なかなか調べにくいです。何を信じているか、宗教のことをどう考えているか。後でまた言いますけれども、それについてもいろんな調査があるのですが、どうも具体的な行動をみない限りは心の中を見ることは難しいです。でもその点でも衰えがあったことは事実です。欧米社会と、たぶんある意味で日本のことを中心にして考えた場合は、こういえるのですけれども、先ほど言ったように、それは必ずしも東南アジア、アフリカ、中南米などにあてはまらない。
 つまり我々は世俗化というと、大げさだというのです。もう少し視野を広めて考えるべきではないでしょうか。一九六〇、七〇年代にみんなひんぱんに世俗化、世俗化というのです。私もそうだったのです。確かに日本の場合は、世俗化という言葉を使うと、日本人の方から、「いや、これは欧米の説ですけれども、必ずしもそのまま日本の状態にあてはめることはできません」といいますが、私もごもっともだと思っているのだけれども、日本の場合にも、社会全体のレベルで、そして宗教組織のレベルで、それから個人のレベルで、確かにいろんな変動変化があったわけです。これを否定できません。これは世俗化という言葉であらわす必要は別にないと思いますけれども、どうしても言葉は便利ですから。
 でも、今はどうですか。また通説になっているのは、もう七〇年代から、特に今、それから特に二十一世紀に入ったら、宗教の復帰、回帰といいましょうか、があります。見てください。方々で新しい宗教運動が発生しているのではないでしょうか。見てください。今の若い人たちは、宗教に対してまた新しい関心を持ち始めているのではないか。世界全体を見てください。やっと世界全体が出てきました。東ヨーロッパを見てください。共産主義が崩壊して、結果として宗教の復活があるといいます。これも通説になっています。そして特に宗教者は勇気づけられています。皆さんもそうでしょう。やはり二十年前に言われた世俗化はうそだと。やりましょう、頑張りましょうと、結構ですよ。でも、どうでしょうか。これも一つの神話なのか、本当のものなのか。


 ここでちょっと宗教社会学の立場から言いますと、つい最近、今年の一月ですが、フランスで、フランス人の宗教について調査が行われました。先月発表されたのです。私はそれをフランスの雑誌(「Actualite religieuse dane le monde」bP22 1994年5月)で見つけて、その後でイギリスとアメリカの雑誌を見たら、もうすぐに取り上げられております。おそらくこれから日本でも、いろんな国でその調査結果が宗教社会学の立場から取り上げられるのではないかと思っております。今はまだ日本に紹介されておりませんから、今日はちょっとだけここで紹介しようかなと思っておりました。非常におもしろいといったら語弊がありますけれども、少しだけそれについて紹介したいと思います。
 ここにいろんな言葉があげられております。「ヒューマニスト(人道主義者)」、「キリスト者」、「カトリック」、「信仰者」、「無関心」、「合理主義者」、「無神論者」等々などがあります。
 質問(表−1)は、「あなたは次の言葉を自分自身に当てはめることができるかどうか」です。それに対して、五八%は、自分自身をヒューマニストとみなしている。大体同じパーセントは自分自身をキリスト者とみなしている。五六%です。頭の中に、日本のことをもちろん考えてください。言うのを忘れましたけれども、フランスというと、昔から熱心なカトリックの国という評判があるのです。カトリックでは、「フランスは教会の長女である」という言い方もあるほどです。しかし、ある人たちにはその長女は遊女になったのではないかという皮肉的な言葉もあります。何故かと言いますと、フランスの場合、今は五六%だけが自分自身をクリスチャンと呼ぶからです。そして、大体二四%が自分を無関心だと見なしている。
 日本の場合はどういう数字が出てくるか。もちろん日本の状態は全く違うのです。後でまた言いますけれども、世俗化という言葉を使うと、確かにアメリカと欧米社会について言われたことですが、私はどうも日本を見て、ある意味で日本は世俗化のプロトタイプ、原型ではないかなとときどき思うのです。でも今のフランスの場合は、そういう数字が出るということはすごいショックになっています。そして、次の項目(表−2)は、「自分自身をどうみなしているか」ということで、それに対して確信のある信者は二四%だけ、また、伝統的な信者も二四%です。それから、確実性のない信者は一七%、懐疑論者は一四%、信仰をもたない人は一九%。フランスとしては大変な数字です。
 もう一度繰り返しますけれども、伝統的なフランスですと、キリスト教徒が大体八〇〜九〇%います。そして確かに一九六〇、七〇年代に、いろんな調査があらわしていますように、そのパーセンテージはずいぶん減っていたのですけれども、最近は、やっと宗教の復活があるという通説が生まれてきて、今度の調査はこの宗教の復活を否定しているということです。つまりポストモダンの中にもそういう世俗化現象がやはり続いているのです。
 次は倫理についてです。ご存じのように、キリスト教の場合、倫理と宗教、倫理と信仰が非常に密接に結ばれております。つまり人間は信仰に基づいて行動するはずです。教会への出席だけではなく、生活における倫理行動も、やはり信仰あるいは教会の規定に基づいて行われるはずです。ただ、この調査からやはり別のことが出てくるのです。一番その根底になっているのは、人間は生まれつき悪への傾向があるが、それについてどう考えますか。つまりキリスト教的な倫理では、罪という意識に基づきます。そこで、あなたは罪を信じますかということになるのです。つまり人間はいわゆる「原罪」、悪への傾向がある。これはキリスト教の一つの根本的な教えですから。人間は心の中に悪への傾向がありますから、罪を犯すというキリスト教的な考え方があるのです。でも、ここで半分はまだ人間の中に悪への傾向があると認めているのだけれども、四五%はこれを否定しているのです(表−3)。
 つまり他の言葉でいいますと、キリスト教の中心的な要因になっている罪の意識がなくなりつつあるということです。今の人間は自分の良心に基づいて、自分の考え方に基づいて、ものを考えたり、実際に行動したりするようになります。後でまた質問があればそれにお答えしたいと思いますが、教会の出席率とか、あるいは神への存在についても、びっくりさせられるような結果が出ているのですが、ご存じのように教会に行くということは、昔からキリスト教の一つの義務だったのですが、今フランスでの教会の出席率は、毎日曜日、あるいは少なくとも月に一回か二回行くことが義務ですから、わずか二〇%になっているということです(表−4)。もちろん日本と比べたら、日本の状態は全く違いますから、別にお寺に行く義務というものはないかもしれませんけれども、向こうは昔からこれが義務になっていたから、その義務を果たす人たちの数は非常に少なくなっています。もしそれについて質問があれば、また後でお答えします。
 この限りにおいて一つ指摘したいことは、やはり世代の違いです。確かに年を取れば取るほど、伝統的な宗教に対して、また信じるとか戒律を守るとか、パーセンテージは高いのですけれども、若い人達はますます宗教から離れているという事実がよく出てきます。もちろんこの若い人達が、年を取ればどうなるかという問題もありますけれども、あまり楽観的な見方をしない方がいいと言われております。つまり少なくても、フランスですと、やはり若い世代はますます宗教から離れていく。ただ、それは日本にもあるのですが、いわゆるオカルトの現象ですとやはり関心が高い。ちょっと失礼な表現になるかもしれませんが、仏教には輪廻思想がありますね。キリスト教の立場から見ると、輪廻思想というものはないのです。オカルトと言ったら失礼ですけれども、でもやはりヨーロッパの中に、特にキリスト教のオーソドックスな立場からいうと、どちらかといえば向こうの人たちにとってはちょっとオカルトの方の領域になるわけです。
 ここでもそれについて数字があります。フランスでは一一%は輪廻思想をもっている(表−5)。特に若い人たちの中に、こういう輪廻思想に対する信仰がだんだん強くなっている。ポーランドの場合は、ご存じのようにポーランドは今もなお熱心なカトリックの国です。輪廻を信じる者が三二%です。これは驚くべき数字です。ハンガリーは二一%、ブルガリアは一六%等々。それはおそらく東洋思想の影響だろうといわれておりますけれども、でも仏教の立場からではなく、キリスト教の立場から見ると、こういう数字は、はっきりいうとショックになるのです。おわかりだと思います。
 さっき言ったように、宗教からの離脱といいますと、やはりニュアンスをつける必要があります。教会組織から離れているのです。でも広い意味での宗教、つまりオカルトという言葉がよくないかもしれませんけれども、こういうあいまいな宗教性、例えば死者との交流とか、そういう面において特に若い人たちの中に関心が割に高いようです。


 では、それは宗教者にとってどういう意味をもつのかということになるわけです。おそらく仏教の立場やキリスト教の立場は、その点について互いに違うかもしれません。でも何回も言いましたように、キリスト教のオーソドックスの立場から見るとあまり好ましいことではない。もう少し一般的なことを話しますが、結局世界のいろんな地域を見ると、ポストモダン時代における宗教を一概に言えない。どうしてかといいますと、やはり国、文化によって、具体的な社会構造、そしてその構造が個人に及ぼす影響、そういうものは全部互いに違います。日本のことをそのままヨーロッパにもアメリカにも当てはめることはできません。逆に向こうのことも日本の状態に当てはめることはできません。アフリカ、中南米、東ヨーロッパのことも、なおさら違うわけです。
 ただ、さっき言ったように、ある意味での一般論もしないと話も不可能になります。確かに世界全体において、もし共通の傾向があるとすれば、しかしその具体的な形になるといろいろありますが、一般的な傾向としては、どうしても個人の意味、個人としての意識というものが、ますます強くなりつつあると思います。不思議なことです。アフリカの山の方に入ったら、あるいは森に入ったら、テレビはないかもしれませんけれども、ラジオはあります。何もないところにもラジオはあります。あるいはそれほど貧しいところではないのですけれども、私はよくフィリピンに行くのです。毎年三カ月はフィリピンで教鞭をとっているのですけれども、ご存じのようにフィリピンにも、例えばマニラのスラム街があるのです。本当に貧しいところですが、やはりそこにもテレビがあります。つまり外の世界が入ってくるのです。いくら貧しくても、昔と比べた場合ですが、外からの影響があるのです。そしてその外の影響を受けて、これは直接的な結果ではないかもしれませんが、人間は自分自身についてもっと意識、自覚することになります。ずっと同じ小さな家族、あるいは村の中に生活したら、外との関係がないならば、人間は自分の生活が当然だと思っているのです。外からの刺激がないと、自分自身について考えさせられることはほとんどないのです。でも今アフリカの原始林に行っても、やはり外との接触が何らかの形で今はあるのです。そしてその影響を受けて、人間は少しずつ、やはり自分はだれであるかというアイデンティティの問題を提供するのです。提供させられるのです。
 冒頭に言ったように、カメルーンという国の北の山の方に行ったら、私は日本から来たというと、もちろんそれはどこにあるかわかりませんけれども、日本という言葉はみな知っています。何もないところです。昔は裸族だったのですけれども、今は洋服を着ています。一九六〇年代に独立したときに、政府の命令でみな着物を着るようになったのです。それだけが変わっているのです。でも村の中にどこかにラジオはある。自分のラジオはもたないかもしれない。でも聞きたいならば聞くことができる。そして教会に行ったら、あそこにはテレビもあるのです。すると少しずつ自分自身について考えるのです。つまり周りに対して、その度合いはまだ高くないかもしれませんけれども、どうも自覚ということが出てくるのです。自覚するということは、同時に疑いというものを含みます。自分の伝統的な信仰はどうか、自分の伝統的な社会構造はどうかとか、こういう傾向はやはり普遍的なものではないだろうかと私は思うのです。
 確かに、日本、あるいは欧米社会を中心にして、全世界を判断することはよくないのですけれども、その反面、やはり世界中には根本的な流れとしては、何かが今起こっているのです。変動があります。
 問題は、このいろんな変動を、宗教組織、宗教者の立場からどういうふうに受けとめたらいいか。それから実際に、宗教者はこのいろんな変動を受けとめているかという問題です。今フランスでこういうショッキングな調査結果が出たのです。つまり、通説になっていた世俗化が終わり、宗教の復活があると、それを否定するような数字です。もちろん数字に対していろんな解釈があり得るし、それを無視することももちろん可能です。でも一応この数字があるのです。


 ちなみに特に東ヨーロッパについて、先ほども申しましたように、共産主義が崩壊して、その結果、逆に強い宗教心が生まれてきたと言われております。そして実際には崩壊してから宗教の復活が確かにあるのです。しかし、最近の一番宗教心の深いポーランドを見たら、西ヨーロッパよりも一種の世俗化現象が見られております。共産主義のときに、宗教、特にカトリックは一つの共産主義に反対するシンボルになっていたのです。
 でも今は、このシンボルは、反対のシンボルとしての意味を失ってきました。信者達は今は自由になっているのです。ただ共産主義に対してだけでなく、今カトリック教会に対してもすごく反感をもっている人の数がふえているようです。どんどん教会から離れているのです。ご存じのようにポーランドの政府は、もう旧共産党の人達がまた政権を握っているのです。ハンガリーもまた同じです。でも結局一般の人達は今自由な投票で、選挙ですから、やはり宗教、つまり権威主義の特徴としてもっていた教会にもはや従順しないということです。アフリカはどうなるかわかりません。あるいは東南アジア、例えばフィリピンとかインドネシアとか、あそこはまだ宗教、教会の力は割に強いのですけれども。もちろんイスラム教ですとなおさらです。あそこはイスラム教団と政治的、世俗的な力はほとんど一緒になっているのです。政教分離はあまりないのですけれども、でも将来どうなるかです。教会の方から、例えば今のフランス、ポーランドなどを見たら、それにどういうふうにこたえようとしているでしょうか。それについて一言だけ言いたいと思います。
 キリスト教の場合は、ヨーロッパを中心にして考えれば、特にカトリックの方からそれにこたえるためにさまざまな新しい運動を始めております。カトリックの用語で言いますと、「新福音化運動」、新しい教化活動といいましょうか、「福音化(エバンジェライゼーション)」という言葉を使うのです。「ニュー・エバンジェライゼーション」というのです。
 つまり今の人達は、宗教に関心をもっているからという判断に基づいて さっき言ったようにこれが正しいかどうかは別問題ですけれども やはりこれからやろうというのです。その中に、ヨーロッパをまず一つの単位としてとらえるという政策があります。その点でヨハネ・パウロU世と、ソ連の元大統領のゴルバチョフは、全く、互いに似ているような言葉使いをしていたのです。「ヨーロッパの共通の家」という言葉が非常にはやった時期がありました。五年ほど前です。もちろんカトリックの立場から見ると、「ヨーロッパの共通の家」というものを支えているはずのものはキリスト教である。でもご存じのようにキリスト教というとカトリックがあるし、プロテスタントもあるし、ロシア正教もある。そこから「エキュメニカル運動」といいましょうか、「教会一致運動」はバチカン公会議のときから盛んになったのですけれども、今もなおそれに非常に力を入れております。特にカトリックとロシア正教との間にはいろんな難しい問題が起こっておりますけれども、ローマ法王はそれに対して非常に積極的な立場をとっています。
 仏教徒との諸宗教対話もそういう意味をもっているかどうか、そこまで判断しにくいかもしれませんけれども、とにかく無信仰に対して、共通の前線をはるという意識はないことはないでしょう。
 結局、言いたいのは、どのような具体的な運動があるとしても、その背景に社会学的な要因が働いているということです。全部純粋な宗教的なものだけではないということです。とにかく今の、特にカトリックの場合は、昔の状態に戻りたいという気持ちが非常に強いのです。悪くいえば、新しい原理主義、よく言えば宗教信仰の活性化といいましょうか、そういうことだと思います。確かに進歩的な考え方をもっている信者、あるいは司祭などの立場から見ると、やはり原理主義的な傾向が強いなという印象もしないわけではないのですけれども。でも動きとしてそれは確かにあるのです。
 それと同時に、いろんな新しい宗教運動が生まれてくるのです。日本ほどではないのです。ただヨーロッパにもいろんな新しい運動が出てくるのです。先ほど輪廻思想が高いパーセンテージをおさめていると言ったのですけれども、これも関係のある現象だと思うのです。東洋の宗教に対する関心も、こういう枠組みの中に位置づける必要があると思います。新しい宗教運動、既成宗教の中の原理主義的な傾向、またいろいろ指摘できると思いますが、全体を見ると、やはりポストモダンの時代における宗教の、おそらく一番中心的な、一番重要な動きがその中に見きわめることができると思います。
 それはどういうものかというと、多様化、多元化というものです。ダイバーシティー、いろいろあるのです。確かにキリスト教は、全社会をおおっているモノポリー、独占的な地位にあった。そういう役割を失ったのだけれども、いろんなところで新しいものが生まれてくるのです。確かに教会の外に一番多いのです。でも教会の中にもあるのです。その点で日本とあまりかわらないかもしれません。日本にもいろいろあるのです。東大の島薗先生が指摘しているように、今の時代のオカルトブームとか、それからいわゆる新新宗教という現象を見たら、確かにマスメディアの中に新新宗教の話がよく出てくるのですけれども、しかしそういうあいまいな宗教性が一番よくあらわれてくるのは、既成宗教の外だけではなく、新新宗教の外でもある。ヨーロッパもそうです。アメリカもそうだと思うのです。

 既成宗教の中のいろんな宗教変動、その他のもの、そして非常にあいまいな宗教心、いろいろありますけれども、この限りにおいて、最後に特にヨーロッパのカトリックを中心にして、おもしろい点を指摘したいと思います。
 伝統的なキリスト教国ですと、教会の人達が発言したとき、それは一般社会の中に認められていたといいましょうか、権威からの発言として、認められていたわけです。しかし、今の調査結果があらわしているように、教会離れがますます決定的なものになって、上からの発言がどういう意味をもっているかという問題になっております。
 一方、不思議なことがあるのです。日本の新聞にもときどき出てくるのですが、ローマ法王は世界中に行っていろいろな発言をしたと。今度は特に、今年の七月でしょうか、エジプトのカイロで、世界人口の問題について国際会議が行われますが、もちろん産児制限や堕胎の問題が出てきます。そしてこれももちろんご存じでしょうが、カトリックの立場からすると、堕胎には反対です。絶対堕胎を認めない。そのカイロの会議でおそらくそれについてカトリックの教理に反するようなものが出てくるだろうと予想されます。そしてローマ法王は最近ますますこの問題について発言するのです。
 先週でしたか、一九九四年の六月六日、ノルマンディー上陸作戦の五十周年記念日に、クリントン大統領はアメリカからそこに行って、途中でローマに寄ったのです。もちろんバチカン詣でがあるのです。ローマに行ったら、どうしてもバチカンに行かなくてはならない。やはりこの問題が出てきたそうです。互いに、けんかになったということではないのですけれども、報道によりますと、クリントンは後で記者会見して、「ローマ法王と話して、共通点は非常によかった」というのです。今度バチカン側からのコメントは、「まあ、仲よくしたのだけれども、意見の違いが多かった」と、全く別の内容になっていたのです。つまりローマ法王は、一生懸命産児制限のことについて、殊に堕胎を中心にして、カトリックの立場から発言するわけです。でもローマ法王の権威は、今のポストモダンの時代においてどうなっているのだろうか。昔だったら確かに彼が発言したら、みんな「はい」と従順していく。今はみんな、「あ、こういう意見もあるのだね」と。ただ、不思議なことには、ローマ法王の発言は、必ずマスメディアの中にも伝えられるし、一つのモーラルボイスというのですか、道徳的な権威をもっているものとして、ますます認められているようです。
 つまり教会というものは、日本の場合は、例えばお寺とか、確かに社会の中の役割が変わったと思います。昔は権威主義の立場からだったのです。今度はもっと道徳的な権威としての立場から、その発言が認められるようになったわけです。つまりキリスト教を中心として考えれば、昔はやはり教会といわゆる世俗的な力との間に、摩擦はあったのだけれども、でも二つとも上の方から、ときどき腕を組んで発言したのです。今度は教会はその政治的な力から離れて、市民の側に立って これは信仰のことではないのですよ、でも一応権威として、モーラルな権威として 市民の方に立ってやはり国家を批判することができるようになったのです。
 そこで、私は日本の場合はどうかなと思っているのです。確かにキリスト教の世界では、良いことか悪いことかは別として、教会の社会的な権威、その社会に力をもっていることは、非常に薄くなっていった。でもその反面、もっと自由になって、やはり特に国家、世俗的な力、勢力に対して発言する自由を得たというか、そしてただ自由を得たということだけではなく、何か一般に認められているわけです。マスメディアを見てください。日本の場合はどうかな。日本の既成宗教を考えた場合は、確かにキリスト教と違って、上の方から発言するということはあまりなかったかもしれない。その判断は皆さんにおまかせします。ただ、これからの日本のポストモダンの時代においては、やはり日本の仏教などにモーラル・ボイスとしての役割にもっと目覚めて、こういう役割もこれから日本にも認められ得るような状態になれるでしょうか。
 今まで私は、日本にきてこういうモーラル・ボイス、そういう道徳的な発言を日本の諸宗教から聞いたことはあまりない。もちろん道徳と信仰、そういう問題もまたからみあっているのですけれども、これからの日本の仏教にも、こういう役割があっていいのではないかと私はときどき思うのです。これはおそらく宗教社会学の立場からよりも、一人の宗教者の立場からの私なりの発言かもしれませんが。でもやはり宗教社会学の立場からも、既成宗教にもいろんな変動があって、キリスト教の中にもいろいろな変動があるように、仏教にもそれを期待できないかと考えております。
 時間が迫りましたので、おそらく皆さんの方からいろんな質問があるかと思いますので、一応私の一方的な話をここで終わらせていだたきます。どうもご清聴ありがとうございました。
 ※本稿は平成六年六月六日、東京都新宿区常圓寺会館にて開催された第二十三回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。
 ※文中の図表は、「Actualite religieuse dane le mode」誌に掲載されたものを、日蓮教学研究所研究員三輪是法師に翻訳していただきました。

















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