日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第29号:238頁〜 |
第27回中央教化研究会議 |
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対 談
赤 堀 先生、 どうもご講演ありがとうございました。 資料をもとにしましてお話しいただいたのですけれども、 この会場の中で 『チベットの死者の書』 を読まれた方、 どのくらいいらっしゃいますでしょうか。 やはり数えるほどしか手が挙がっておりませんね。 初めに 『チベットの死者の書』 を読んでいらっしゃる方が多ければ、 それを前提として、 深いところをお話しいただきたいという話もしたのですが、 おそらく目を通されている方は少ないだろうということで、 全般にわたって解説する形で進めさせていただきました。
先ほど先生は、 三歳のときに空襲の体験から生を閉ざされてしまった。 その閉ざされた生を開くものとして 『チベットの死者の書』 があったというお話をいただきました。 先生は、 アメリカに渡られて、 アメリカインディアンの宗教などを体験なされたということですが、 そのお話をちょっとおうかがいしたいと思います。
おおえ 六十年代当時、 アメリカといいますと世界の中心と感じられていましたから、 そこで勉強してみようとアメリカに行ったわけです。 そこでは逆にアメリカの人たちが東洋思想や仏教、 あるいはさまざまなシャーマニックな文化というものに興味をもち始めていました。 それまで確固とされてきたアメリカ的価値観が崩れ去って、 もう一度自分たち自身を見つめなおさなければいけない、 そういう大きな時代のターニング・ポイントに立っていた時代でした。
私自身は映像の勉強に行ったのですが、 のちにニューエイジとよばれるようになる人たちとの接触の中で、 シャーマニックな瞑想法とかインドなどからやってきた東洋の宗教やさまざまな宗教的なサイコセラピー (心理療法) に触れていったわけです。 そうした自分の内面を見つめていく瞑想をしてきたときのことです。 私は三歳のときの戦争体験以来、 これが自分だと思っているものがなくなるということに非常に恐怖を抱いていたわけですが、 自分の殻が溶け去っていくに従って、 自分がえもいわれない至福状態に陥っていってしまいました。 そしてそこにあふれるばかりの命の光が輝いていて、 その光と自分が一体となり、 自分がその輝く光そのものだと確信する以外にはないというような体験をしたのです。
このとき、 それまで閉ざされてきた自分というものが初めて生まれたと感じられました。 それまでの三十数年は幻となり、 新たな光あふれる生命が私の前に広がっていました。 しかしそれが自分の心の内の単なる幻影なのか、 あるいはそういうことが本当にあるのかという大きな疑問にぶつかってしまいました。 そのとき 『チベットの死者の書』 に出会ったわけです。 それは、 自分が体験していることの意味といいますか、 私とは何であり、 私の内にうごめく心の本性とは何かということを説き明かしてくれたのです。 そのことによって自分が本当の自分といいますか、 より大きな、 自分の殻だけの自分ではない、 自分を包み超えた世界を自分の中に発見することができたわけです。 そうした意味で、 『チベットの死者の書』 は、 私にとっては非常に大きな存在の秘密を解き明かす鍵だったのです。
現在さまざまな臨死体験をした人たちの間で、 あるいはまた死に向かい合った人たちの間で 『チベットの死者の書』 によって、 自分の魂を救済しようという動きが、 アメリカでは盛んになってきています。 死はいつも目の前にあるわけですが、 臨死的あるいは宗教的、 瞑想的な死の体験がないと 『チベットの死者の書』 はなかなか理解されない部分があると思います。
赤 堀 やはりアメリカあるいはヨーロッパの宗教に対して求めるもの、 あるいは宗教の意味というのは、 さまざまな体験を通して自分より偉大なものの存在、 あるいは霊的なものの存在と出会うと、 そういうところに向いていると見てよろしいわけですか。
最近のことですが、 テレビに宇崎竜童さんが出ていまして、 宇崎竜童さんが音楽の世界で迷って、 それでいろいろ宗教的な体験を求めて世界を歩いた。 ちょうどアメリカインディアンの宗教で、 テントを張って、 ちょうど密教の護摩のようにその中で煙をたいて、 一種神秘的な体験をした。 そこでやはり悟りというか救いというか、 何か自分自身飛躍するきっかけとなるような体験をしたと述べていらっしゃいました。 やはりそういうものがアメリカでは盛んというか、 求められているんでしょうか。
おおえ たぶんそのアメリカインディアンの儀式のところで焚いていたのはセージという薬草です。 それは日本にもありますが、 鎮静効果がある薬草で、 それを焚くわけです。
こうしたシャーマニックな方法を、 現代ではさまざまな心理療法の中に積極的に取り入れています。 例えば私も体験したのですが、 インドのふいごを吹くときのようなヨーガの呼吸法であるバストリカのテクニックを使って、 臨死体験をする方法があります。 それは臨死者が空気を求めてあえぐような呼吸をしますが、 そのように酸素を求めてあえぐように 「ハッ、 ハッ、 ハッ」 と、 速くて深い呼吸を激しくするわけです。 約十分から三十分ぐらいやっていますと、 体がひきつってきて仮死状態になります。 それはわりと簡単な技法ですが効果は十分にあります。 この仮死状態の中で、 さまざまなイメージがわき出てきます。 それは自分の子供の頃の映像であったり、 あるいはお母さんのおなかの中にいるときのイメージであったりする場合が多いのですが、 それをさらに何度も何度もやっていきますと、 もっと深い意識のレベル、 『チベットの死者の書』 で語られているようなバルドゥや光の生命といったレベルまで入っていくことができます。
赤 堀 ちょっときょうの本題からはずれるのですけれども、 アメリカでは今のブレス・ワークなどを行っているワークショップなどが非常に盛んになってきていますが、 その一方で、 今までの教会を中心としたキリスト教は、 盛んになっているのか、 あるいはあまり人が集まらなくなっているのか、 どうでしょうか。
おおえ 新しい形のキリスト教といいますか、 新しい要素をもったリーダーが出てきて、 日本では仏教が日蓮という方が出てきて仏教を新しくしていったみたいに、 次々に新しい人が出てきて、 キリスト教というものを発掘しています。 日本でも新宗教とか新々宗教といわれるところですけれども、 そういうものが非常に力をもってきているように思います。
赤 堀 結局キリスト教の中に今言われたような要素を組み込んできた新しい形、 内容を含んだものが大きな力をもってきているということなんですね。
おおえ そうですね。 神秘主義的なキリスト教といっていいですね。
赤 堀 次に、 『エジプトの死者の書』 あるいは 『往生要集』、 その他諸宗教の聖典の 「死後の世界」 の記述に共通点が多いことが、 先生の著作の中にも述べられています。 これは単なる偶然とか、 あるいは個人的なレベルでの神秘的体験ということでなくて、 一つの事実としてそういうものがあると先生はお考えになっていらっしゃいますでしょうか。
おおえ 地域や民族や宗教の説く 「死後の世界」 の表面的なところだけを見ていきますと、 大きな違いがあると思います。 しかし表層の根源にあるイメージにおいては、 非常に多くの共通的なものがあると思います。 一つの事実として存在しているものは、 仏教でいわれる 「真如」 とか 「原初の光明」 というものであって、 それを見る私たちの深層の意識、 心理学者ユングのいうところの集団的な無意識といったものが、 より共通的なリアリティをあらわし出していっているのだと思います。
赤 堀 今出てまいりました 「クリアライト」、 光の存在を見る体験に共通項があることが指摘されてきております。 臨死体験のそうした実際の事例が、 『チベットの死者の書』 などの経典の事実であることの裏づけになると先生はお考えなのか、 あるいは違うとお考えになりますでしょうか。
おおえ 最近臨死体験が多く報告されるようになって、 『チベットの死者の書』 が注目を集めているわけですが、 非常に共通項がありますし、 多くの裏付けを与えてくれていると思います。 ただし、 臨死体験は死の瞬間の手前までの出来事です。 臨死状態があり、 その中で光体験をしますが、 『チベットの死者の書』 によりますと、 その後 「成就間近の暗黒」 があって、 そののち 「原初の光明」 の段階からバルドゥへとつづいていくといわれています。
赤 堀 先生が説かれている内容が、 一つには意識の反映というふうに見る点と、 それから事実としてあるという点と、 ニュアンスは近いところがあるとは思うのですが、 真ん中にはっきりした線が引かれると思うのです。 先生はどちらをとりますか。 あるいはそれは意識の反映と事実は同じものだというふうにお考えになりますか。
おおえ そのためには、 まずリアリティとは何かということが問われなければならないと思います。 私たちは事実としてあるといった場合、 客観的な事実として存在するということをいっているのだと思いますが、 見る主体から離れた客観的な事実というものは果して存在するのでしょうか。 世界は見る私と見られる世界の関係の内にあるもので、 私の意識に内化されてはじめて世界はリアリティを形成します。 ですから、 主体から離れた二元論的な客観的事実というものは、 そもそも存在しようがありません。 それは仏教の見方だけでなく、 現代物理学や文化分類学や記号論などの近代の認識論の中で明らかにされてきた視点でもあります。
意識の反映と事実は表裏一体となっているというのが 『チベットの死者の書』 の見解であり、 私もそのようにとらえています。 「事実としてある」 ということの意味を問うことが仏教の根幹にある教えなのではないでしょうか。
赤 堀 光の存在を意識する、 真如である光の生命体と一体となったときに救いがあるというふうに 『チベットの死者の書』 に説かれていますね。 臨死体験のときにも光の生命、 大生命、 光であってしかも人格をあたかももっているような光の生命があらわれる。 それと一体となったときに、 救われるというか、 安らかな気持ちになるというふうに説かれています。 それと反するような気持ちをもったときは苦しみを受けると説かれています。 私は光というと初めは太陽の光を想像したのです。 太陽と一体となるとはどういうことなのかなと初めは思ったのです。 それで 『チベットの死者の書』 を読んだり、 ほかの神・仏、 例えばアミターバ (=無)、 ミトラ (=太陽神)、 などを考えていくと、 どうも光というのは物質、 これまでの科学でいうような単なる物質ではなくて、 命をもっている、 あるいは我々の計り知れない大きなハタラキをもっている存在である。 そういうとらえ方でよろしいのでしょうか。
おおえ そうだと思います。 光というふうに表現するしかないといった方がいいと思います。 私たちがものを認識する場合に、 私という主体と世界があって、 それを認識するわけですが、 世界と私が一つになった場合には、 私もいなくて、 世界もまたありません。 例えば仏なり光と一つになった場合、 私も光も仏もありません。 ただあるのは眩しく輝く光とか永遠の生命とか自ら光り輝く心 (自性清浄心)、 あるいは自覚とか般若のハタラキとしかいいようのない、 境界も時間も空間もないものです。
赤 堀 ありがとうございました。
次に、 きょうは四十九日のところが主で、 転生のところまでは話が詳しくは及ばなかったのですけれども、 転生 生まれ変わり というのは、 レジュメの一番最後の方にも出ていますけれども、 男女の交合のときに、 その人のそれぞれの考え方によって生まれていくところが変わっていくというふうに説かれております。 再び生を受けるというのは、 これによりますと、 何か迷っている存在、 そうしたものが転生するのであって、 悟りに入った場合は転生しないというふうにちょっと読み取れるのですけれども、 その点はいかがでしょうか。
おおえ 悟りということ自体が輪廻転生から解脱するということです。 要するにどうやって輪廻転生してゆく存在の苦の世界から解脱することができるのかというのが仏教の一番大きな問題だと思います。 ですから悟りに入るということは転生しないということのはずです。 悟りとは永遠の生命と一つになってしまうことであり、 この一瞬に永遠を見ることだと思います。
ですから悟りとは、 生まれ滅しながら生まれ滅しない、 転生しながら転生しない、 時空の内にありながら時空を超えた心の原初に立つことではないかと思います。
赤 堀 浄土系の経典と法華経系の経典の考え方の違いが少しあると思うのです。 浄土系の経典は、 極楽に往生する、 今いった極楽という理想世界に行くということが救いであるというような考え方をします。 法華経の場合は、 逆にこの娑婆世界に生まれて肉体をもってその中で苦しみつつも、 その中で悟りを求めていく、 あるいは修行していくということが、 実の生の目的であるというふうに説いていると思うのです。 その意味でいうと、 大生命に溶け込むというのではなくて、 またもう一度この娑婆世界に自ら生まれてきて、 そしてそこで魂を磨いていく、 あるいは自己研鑽をしていく、 仏道修行していくということが、 むしろより大きな目的であるというふうにも説かれて、 日蓮聖人はそのように教えてくださっています。 そうした点はいかがでしょうか。
おおえ 大乗仏教では、 小乗仏教が単に悟りに入って彼岸の世界にいってしまうということに対して、 やはりまたここに帰ってきて衆生救済のためにとどまり続ける、 熱烈な法華経信仰者であった宮沢賢治がいったように 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 というところに大きな意味を見続けてきたと思います。 菩薩という在り方を越えて、 さらに積極的に、 この娑婆世界の他に、 浄土や仏といわれる大生命はありはしないのだという見解が、 大乗仏教の中の密教的見解です。 私自身の解脱という理解の仕方も、 永遠とか解脱というのは、 この娑婆世界のこの只今にしかないものだというものです。
例えば昭和の初期に浅原才市という妙好人がおられましたが、 彼は下駄職人であったのですが、 かんなをかけながら、 かんなくずに阿弥陀如来の歌を書き続けていったのです。 そして書いているうちに、 自分が阿弥陀になるのではなくて、 阿弥陀が下駄を削っているのだという世界に入っていってしまったのです。 自分が阿弥陀を今生きてあるのに、 どうして死んでから阿弥陀の浄土に行くのかね。 今こうやって下駄を削っているということの他に、 阿弥陀があり浄土があるのではないと。 才市は世界をひっくり返してしまったわけです。
こうした意識の錬金術的な転換が問われ、 かつそれを生きることが問われているのだと思います。 『チベットの死者の書』 がいっているのも、 阿弥陀という浄土も、 それを今ここに生きない限り一つの迷いの世界であるということをいっているわけで、 本当に今この瞬間、 自分が今ここにいるところに本当の意味で立つことによって、 自分を救うこともできるし、 世界を救うこともできるのではないかと思います。 今という時しかないわけですから、 この今に世界の時空のすべてが、 三千世界のすべてが流れ込んでくるはずだと思います。
赤 堀 日蓮聖人は 「今本時の娑婆世界」 という言葉で、 娑婆世界であっても娑婆を超えた、 本来の意味の仏に生かされている今の自分、 時間というとらえ方をしています。 宮沢賢治は人の生命を 「有機交流電灯のひとつの青い照明です」 という、 生のときであっても死のときであっても、 その中のその瞬間に悟りがあると述べています。
今のことと関係して 『チベットの死者の書99の謎』 の九十番目のところにあります、 それぞれの個人個人が、 大生命の中に溶け込んでしまうと、 その後、 それぞれの個人の意識というものは存続するのかどうかという、 その点はどうでしょうか。
おおえ 大生命の中に溶け入るというのは、 単に超えるというよりも、 包み超えるという表現の方がいいように思います。 そこで個が消滅してしまうわけではなく、 個の境界が大生命まで広がっていくというふうに考えた方がいいと思います。 個が個でありながら大生命を生きているということです。
『華厳経』 では、 個と大生命との融合の形が説かれていますが、 そこでは個々の中に世界のすべてが宿り、 かつ個と個もまた互いに他を宿しあうと説かれています。 それは個がなくなるということではないと思います。 個は世界をとおして生まれ、 世界は個をとおして生まれるといった方がよりわかりやすいかもしれません。
赤 堀 個の中に包みこまれた場合、 再び生を受けて、 生まれ変わって再生するということはあり得るのでしょうか。 一度真如の世界、 あるいは大生命の中に入りますね。 それでもう一度また転生してくるということはあり得るわけですか。
おおえ 私はどちらかというとそういうふうに考えております。 個の意識から再び個の意識に転生するというのは非常にまれなことだと思います。 海と泡の関係で考えてみたいと思います。 大生命の海があって、 そこから海の泡が出てきます。 海の波の中から出た泡のひとしずくが、 一人の私なのです。 泡のそれは海とは別のものですが、 それがまた海へ還り、 海と一つになり、 再び同じ泡になって出てくるということはまれにあると思いますが、 一度大生命とひとつになって、 そしてまたそこからまったく別の個としてあらわれ出てくるという方が自然だと思います。 『チベットの死者の書』 においてもまた、 死の瞬間に認識できるかどうかは別にして、 すべての人に大生命の原初の光があらわれるといわれ、 魂は一度大生命にとけいるのだと思います。 しかしすぐさま、 長年積まれてきた個的な意識の痕跡が泡をつくり出してゆくのではないのでしょうか。 そして再び、 母の胎内へ入るときに意識を失ってしまいます。 非常にまれに個から個へ、 泡が海へ落ちてそのまま上がってくるというようなケースがあるということではないかと思います。
赤 堀 それはちょうどベルトリッチ監督のリトルブッダがありましたけれども、 ダライ・ラマが歴代生まれ変わってくるというのも、 実際に再生があったとしてもそれは非常にまれなことであるというふうに理解されるわけですね。
先ほど、 人が亡くなっていく過程で、 いろんな魔物とか化け物が出てくる。 これは一つの自己のあらわれだという話があったのですが、 四十九日の間、 あるいは四十九日が過ぎてから、 一つの裁きの場所があります。 その経過の途中あるいは後に、 実際に十界、 地獄、 餓鬼、 畜生という世界が存在するというように先生はお考えになりますでしょうか。
おおえ 十界というのは、 六道と四つの声聞乗、 縁覚乗、 菩薩界、 仏界のことですが、 『チベットの死者の書』 の中では、 六道がバルドゥで、 それから目覚めるようにと説いています。 『チベットの死者の書』 の立場から見れば、 六道もそしてまた悟りの世界といわれる声聞乗とか縁覚乗とか菩薩界とか仏界というものも、 また一つのバルドゥだととらえています。
しかしこの世界がバルドゥだから、 ではこの十界は存在しないということではなく、 明らかに現象として存在しているのですが、 ただそこには永遠不滅の実体をもっているものではないということです。 永遠不滅の実体をもたずに、 空であって、 関係、 仏教でいいます縁起によって世界は成り立っているのだということです。
赤 堀 その十界の中の仏界のことですけれども、 さまざまな仏さまがあらわれてきます。 その仏さまの三身、 本書 (『チベットの死者の書 99の謎』) の二章の中にも出てきますが、 ダルマカーヤ (法身)、 あるいはアミターバ (阿弥陀如来) などのさまざまな仏さまの中で、 釈迦牟尼仏は 『チベットの死者の書』 ではどういうふうに位置付けられているのでしょうか。
おおえ 三身というのは、 法身、 報身、 応身のことですが、 法身というのは究極の知恵、 形にあらわされない一者です。 ここではそれを光明として語っているわけです。 そしてそのハタラキが姿形をとってあらわれてきたものが報身で、 阿弥陀如来といった神格の仏が報身です。 さらに報身のより物質的なあらわれ方が応身で、 仏陀釈迦牟尼がそうです。
釈尊のみならず私たちのすべてが真如からあらわれ出てきたものであって、 私たち自身もやはり真如そのものであり、 真如に他ならない私に気づくことが問題なわけです。 こうした目覚めた人というのがブッダ、 つまり釈尊であると思います。 『チベットの死者の書』 では釈尊自身よりは、 直接の救済主である観世音菩薩といった仏たちの方に関心が向けられていますが、 こうした教えを説き開いたブッダは、 ブッダのブッダ、 原初のブッダとして神格化されて、 曼陀羅の最上部に描かれています。
赤 堀 ありがとうございます。
ちょっと方向が変わるのですけれども、 ESP、 超能力に関してはチベット仏教圏ではどのような状況にあるか、 あるいはそうしたものが存在するかというようなことですが。
おおえ 超能力ないし超感覚的な知覚というのがESPという意味なのですが、 私たち凡人の目から見れば、 解脱ということ自体が超感覚的な知覚というものの最たるものだといえるのではないでしょうか。
私たちの迷いの世界と仏の立場から見たものの認識の仕方というのは百八十度違いますから、 それ自体が非常に超感覚的な世界だと思います。 ここで私たちが一般にESP的なことだというのは、 幽体離脱するとかテレパシーだとか、 そういうふうなレベルでいっていると思いますが、 そうしたものがチベットの仏教世界には脈々と生きづいている部分があります。 チベット仏教は、 インドにあったヨーガとかタントラという、 日本でいわれる密教的なものですが、 そうした金剛乗とかタントラ乗とよばれる後期仏教の影響と、 チベット古来からあったシャーマニックなボン教という、 日本でいわれる神道的なものの影響を受けていますから、 非常にシャーマニックなESP的な要素を取り入れている部分があります。
しかしそれらが最終的な目的かというとそうではなくて、 例えば禅宗なんかでは、 いろいろな雑念とか妄念というものを瞑想の中で排除していくのですが、 逆に私たちの中に出てくるさまざまな妄念やESP的な力というものを使いながら、 本当の生とは何か、 解脱とは何かを見ていこうとします。 一度そういうものをあらわし出して、 それを空の中にすべて溶かし去っていきます。 そうした二段階方法をとっているわけです。 それは 「生起次第」 と 「究竟次第」 です。 まず生起次第といって、 ESP的感覚によって一度そうしたビジョンをあらわし出して、 次に究竟次第といって、 それらをまた空くうの中に溶かし込んできます
赤 堀 ありがとうございます。 私は先日お伺いしたときに、 先生は今こうした 『チベットの死者の書』 を研究されたり、 宗教体験されたりして、 自然と一体の生活をなさっているように感じたのですけれども、 自然を含んだ大きな意味での因果律というか、 そういう宇宙規模での何か法則のようなことが考えられるのではないでしょうか。 ディープエコロジーとか太陽もガイア理論ということも含めて、 先生のお考えをお伺いしたいのですけれども。
おおえ これまでエコロジーということがいわれてきましたが、 それはどちらかというと人間中心主義的な色彩が濃いものであったと思います。 人間のために環境を保護しようということです。 それに対して人間もまた自然の一部であるというところからとらえて、 より深いエコロジーということで、 ディープエコロジーということがいわれ始めているわけです。 それは自然とのより大きな生態学的な循環と一つになろうとか、 全生命の一体性をつかみとろうということにあります。 そうした中で大きく問われてきていることは、 人間中心主義的な考え方の死を受け入れるということです。 人間が中心だという中でつくりあげてきた世界観をほうむり去ることが大きな問題になっていると思います。 しかしそのためには、 私たち自身が一度一つの死を体験しない限り、 私たちが大きな殻を脱ぎ捨てない限り自然とつながることはできようがありませんし、 全生命の一体性は感得できないと思います。
ですから、 ディープエコロジーの中にも、 エコ・ブレスという言い方をして、 先ほど紹介しました仮死状態をつくり出す呼吸法を使って、 自我の死を体験することによって、 全生命の一体性を体感しようとしたりしています。 そしてまたそこにあらわれ出てくる全生命の一体性、 すべてがすべての関係によってなりたっているというとらえ方は、 仏教でいってきた縁起という考え方です。 こうした意味で仏教的な考え方にディープエコロジーの人たちは非常に関心をもっています。 仏教的な世界観を秘めたディープエコロジー的なものの見方というものは、 これから大きな役割を占めていくことになるのではないかと思います。
赤 堀 もう時間がまいりましたので最後になるのですけれども、 先生がお考えになっている将来の宗教のあり方、 あるいは宗教というのではなくても、 先生自身が今後これからこのように人類というものはなっていくだろう、 こうあるべきであるということの提案がございましたら、 最後にお願いしたいと思います。
おおえ 非常に難しい問題です。 多くの方がそれを考え、 そうしたものを見出そうとしてこられ、 宗教というものはそれをこれまでやってきたと思います。 しかし宗教という形ができてしまうと、 形と形の対立を起こし、 宗教戦争というものが始まってしまうわけです。
この世界には神とか仏としか表現できないものがあって、 そういうものに動かされているというのは確かなことだと私は思っています。 そうした大きなものを神というのですが、 その神というものは現象世界のすべてを超えているものだと思います。 つまり、 神ということばも超えていますし、 ある一つの神という現象が、 大日如来とか、 キリストという姿・形も超えていて、 どのような形もないものであって、 バイブルとか経典という教条そのものも超えているものだと思います。 教条とかバイブルというのは、 ここから向こうへ行く一つの舟にしかすぎないのではないかと思いますし、 また時間や場所というものをすべて超えているものです。 地球的な地域性とか時間性というものをすべて超えているものだと思います。 そういうものが初めて神と呼ばれるものであって、 すべてを超えている。 そういうあらわされなくて、 どのような境界もない、 空である真如心といわれる精神の領域を、 一人ひとりがつかみとっていくということによって、 人類宗教的なものがあらわれてくるのではないかと思います。
こうしたより根源的な形のないところまで、 私たち自身一人ひとりが入るという体験をとおしてしか糸口は見られないし、 そういうところに私たち自身が入っていくことができれば、 向こうの方からあらわれ出てくるのではないか、 そんな予感をもっています。
赤 堀 どうもありがとうございました。 長時間にわたりまして、 先生にはご講演いただき、 そしてまた対談していただきました。 先生には 「死と再生のプロセス〜 『チベットの死者の書』 にみる人が死んでからの四十九日間〜」 という講題でお話をいただき、 そしてその後、 質問を含めてお話しいただきました。 それぞれ皆さん心にひびく言葉がたくさんあったのではないかと思います。 『チベットの死者の書』 に説かれる四十九日とそれから日蓮宗で理解している四十九日、 共通点あるいは相違点もあり、 またこの 『チベットの死者の書』 を通して、 改めて死後について、 死後の四十九日について考えなければいけない点も多くあると思います。 この本 (『チベットの死者の書 99の謎』) の帯に、 「死ぬことを学べ、 そして汝は生きることを学ぶであろう」 という言葉が記されております。 今日における死の復権は大きな社会的意味を持っていると考えます。 ちょうど分科会の方でもこうした葬儀の問題などを取り扱っておりますので、 どうかそちらの方でもまたこの講演をいかしていただきまして話を進めていただきたいと思っております。
おおえ先生、 どうもきょうはありがとうございました。 あらためて拍手をお願いしたいと思います。 (拍手)
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